2005.1.15 By.ゆみ

変貌する八千代の風景 村上駅周辺の史跡散歩 T

関連資料 ⇒史跡MAP   ⇒「村上村明細差上帳」

プロローグ

 今、村上駅周辺は、区画整理により大きく地形と景観を変えつつあります。

 八千代市の村上は、古代から村神郷として文献や出土資料にその名をはせるムラで、鎌倉時代の釈迦像を祀る正覚院、湯立て神事と神楽を伝える七百余所神社や、前方後円墳上にある根上神社などの史跡も数多くある八千代を代表する旧村でした。 
 
 その南側の水田に面した辺田前地区では1996年に東葉高速鉄道の村上駅が開通し、現在も区画整理による街づくりが進んでいます。

 便利で活気ある街ができるのは、うれしいかぎりですが、一方で緑の台地が惜しげもなく削られて斜面林は無粋なコンクリート擁壁となり、神社は移転し、古墳すら周りが縮小され、古来から営まれてきた村里の風景が急速に失われつつあるのが昨今の現状です。

 

国道16号線沿い、フルルガーデンの向側の起木の弁天

2004年の11月の強風により
新しい祠も飛ばされてしまいました
2004年12月19日 八千代市郷土歴史研究会では、延享3年(1746)の「村上村明細差上帳」の記載された村の様子と見比べながら、急速に変化する旧村の現状を把握する見学会を行いました。

 ちょうどその2日前の12月17日、歴史的景観を守る「景観法」が施行されました。

 見学会のルポを交えながら、八千代の守るべき景観とは何か、開発の中で何を記録し、また何をそのままの姿で次世代に残していくべきか考えたいと思います。

 コースは、村上駅から起木の弁天、辺田前公民館(八坂神社)、現在発掘調査中の浅間内遺跡、墓地(成哉の句の刻まれた墓石、ケンケ様)、神職山本家の庭園、隣接地が土取された根上神社古墳、太古の景観を残す神明社公園、黒沢池から勝田台へと歩きます。



1.起木の弁天(辺田前厳島神社)

 村上駅から国道16号線を渡ると、大ショッピングセンター・フルルガーデンの向かい側に、数本樹木が茂った辺田前厳島神社があります。

 「起木の弁天」ともいわれ、そのいわれは次のように語られています。

 昔は、このあたりは阿曽沼の湿地で、沖のほうにある弁天様っていって、樹木が茂り、池の周りには桜があって春はきれいなところだった。
 ある年、大風が吹いて大樹が倒れ、皆、こりゃ、どうしようかと困ってしまった。
 ところが、夜「よーいしょ、よーいしょ」と声がして、朝、見にいったら、木がみんな元通り立っていて、これは弁天様の力で一夜にして起きたのにちがいないと、「起きの弁天」といってよく拝むようになった。 
 今でも、年寄りの男の人が、あるご利益を願って内緒でおまいりにくるらしい。

 現在は、池もなく、かさ上げされた周りより低くて、島という面影はなく、ただの四角い公園となっています。
 ただ、今も強風の通り道のようで、2004年11月の大風で、社殿の祠が飛んでしまい、土台だけが残っていました。




辺田前公民館(八坂神社)
  
 左:道標        中:子安観音      右:発掘調査現場で見つかった地蔵像
2.辺田前公民館と 移転した八坂神社

 「起木の弁天」から16号線を北へ向かい東葉高速鉄道のガードをくぐってから左折する古い道があり、その先に小さな祠のある辺田前公民館があります。

 変則四差路になっていて、公民館の前の角には八坂神社があり、その前には昭和8年青年団が建てた角型の道標がありました。
 ここは佐倉から先崎・井野方面から村上橋を経て、西は萱田・吉橋へ、また南へは下市場から横戸方面へ抜ける辻でした。

 現在その八坂神社の祠も道標も道路の拡幅のため、公民館の敷地内に遷されていました。

 この公民館には、大師廻りの札所があったり、子安講の各時代の石仏が並んでいて、ここは元寺院跡で、おそらく「村明細帳」のいう蓮葉寺があったと推定されます。

 この北側の台地斜面を発掘調査した際に見つかった十九夜塔3基と地蔵石像も、この一角に移されていました。
 これらの石仏が見つかったところあたりにも、「村明細帳」に名前だけ残っている廃寺があったのかもしれません。
 

 公民館から、道標の示す萱田の方向へ歩いていくと、昔からの旧家が並んでいます。
 しかしその背後は、現在、区画整理の只中にあり、台地の上を動くパワーシャベルがその屋根の上まで迫ってきていました。