2005.1.15 By.ゆみ

変貌する八千代の風景・村上駅周辺の史跡散歩 U
関連資料 ⇒史跡MAP ⇒「村上村明細差上帳」

3.辺田前地画整理事業の只中で
 辺田前の地区では現在、区画整理事業に伴う工事の真只中。
 村上橋からの直進して国道16号線へ接続する広い道を通すためと、分譲住宅地を造成するため急ピッチで工事が進んでいます。
 移転する農家もあり、ここあたりは工事終了後、景観が一変します。

 農家の間の古道を行くと、中郷へ通じる昔からの坂道が切り開かれています。
 かつて鬱蒼としていた両脇の大木も切り株となり荒涼としていましたが、多くの人々に踏まれて固くなった階段状の道は、2004年2月現在、まだかろうじて通ることができました。


「ヤマ」(台地の上の林)仕事のための道具や材木を置いてあったこの木小屋も近日中に取り壊される予定

村上橋からの道路を通す工事の現場風景

中郷へ通じていた古道を歩くのも2004年12月が最後でした

台地の上に登って振り返ると・・


4.浅間内遺跡発掘調査現場を見る

 辺田前の集落北側の浅間内の台地は、新川に臨む台地で、遺構の多い遺跡です。
 八千代市教育委員会により、1994年の第1次から2004年11月まで発掘調査が行われました。
 奈良時代から平安時代初頭の集落跡が多く、そのほか旧石器から縄文・弥生時代の遺構や、未確認だった古墳の墳丘も発見されています。
 2004年12月、その発掘調査も終り、きれいに掘りあげられたままの姿を見学できました。
 


浅間内遺跡平成16年度本調査区域の東端から西側を望む(2004.12.23)

上の画像の右側一番手前は弥生住居。
その後方は平安の小型住居、その後方は大型の弥生住居。
左の溝は近現代の新しい根切り溝と思われます。
その溝に真ん中を切られているのが、奈良時代の住居だそうです。


右の画像は、弥生の大型住居を見学中(2004.12.19)
  
西側から東方向を見る(2004.12.23)

手前の四角い建物跡は、平安時代。
その奥は、古墳・奈良・平安時代の各住居が切りあっている状態ですが、その判定はまだ微妙だそうです。

住居右角の埋められた穴は、縄文時代の狩猟用落とし穴で深さ2m。
この一角では縄文の落とし穴が掘られ、それが時代を経て完全に埋まって、古墳時代に浅い住居が作られ、それも埋まった後に、平安時代の深い住居が作られたということらしいです。

(右の落とし穴の画像は、埋め戻される前の10月16日撮影)


5.遺跡に隣接した墓地

 遺跡のすぐ左手は、墓地になっています。
 村上の旧家・川嶋忠兵衛家が明治30年に建てた墓石には、次のような川嶋成哉の句が刻まれていました。
      「名月や 見通す先は 森と月」

 ここには、下市場との境界にあった「けんけさま」という咳神信仰の宿る僧侶の墓石が遷されています。
 咳止めを祈願する際はお茶を献ずるのでしょうか、茶用の湯飲みが供えてあります。


「名月や 見通す先は 森と月」の句が刻まれている墓石

咳を止めるご利益のある「けんけさま」


6.神主家屋敷と庭園
 
 「村明細帳」にも出てくる村上村の神主山本家のお屋敷と庭園を見せていただきました。
 玄関前の丹精込めて手入れされた松は、36畳分の広さのみごとな枝ぶりです。
 このお屋敷も、区画整理が終わると、隣地が土取りされ、断崖絶壁の上に残るということになるのでしょうか。




6.イヌザクラのもとに移動した浅間神社

 遺跡名となった字名「浅間内」の由来ともなる浅間神社も、区画整理で八千代市指定文化財のイヌザクラの根元へと移動し、参道もつけかわりました。
 富士講の盛んだった頃をしのばせる浅間さまも、鬱蒼たる森を奪われあまりにも明るすぎる場所に新築されて、きっと戸惑いを隠せないことでしょう。
 
 イヌザクラは推定樹齢 200年。
 花は4月下旬から5月にかけて咲き、実は夏の終わりの8月ごろ結び、野鳥などの食物になるとのこと。
 八千代市のHPでは 「浅間神社の森という小さな生態系の基本を受け持つ生物で、動植物を含めた地域の景観を維持する上で重要な役割を果たしています」ということですが、あまりにも急激な「生態系」の変化に、はたして適応できるのか気にかかるところです。