2005.1.19 By.ゆみ

変貌する八千代の風景 村上駅周辺の史跡散歩 W

関連資料 ⇒史跡MAP ⇒「村上村明細差上帳」 ⇒根上神社古墳実測図

9.ホームセンター脇の石仏たち

 ホームセンター・ジョイフル本田の広い駐車場を突っ切って、店舗の南側の坂の脇にたくさんの石塔が並んでいます。

 庚申塔が11基、馬頭観音が3基、そのほか道祖神、如意輪観音、十九夜塔など全部で21基。その中には「右ちハ道 左さくらみち」の道標が刻まれている庚申塔もあります。

 ここは、石仏の種類や変遷などを調べるのに、うってつけの場所ですが、ひっきりなしにホームセンターへ出入りする車で、とても危ないカーブなのです。
 12月現在、一番左の十九夜塔も車にぶつけられたのか、無残に倒されていました。
 市の保存樹指定を表す標杭も折れたまま。
 せめて、文化財としての説明板を立てて、石造物についてここを通る市民にもっと知ってもらうようにすべきなのではと感じました。

21基の石塔が並ぶ 古いのは元禄11年(1698)造立

無残に倒されたままの十九夜塔(2004.12.23)


10.根上(ねのかみ)神社古墳の現状

根上神社参道の東南側は境内境界まで土取される運命!
(実測図@)


 石仏のある坂道をおりると、根上神社への参道があります。
 村上駅ができた1996年頃はまだ、東葉高速の車窓からもよく見える緑の濃い台地の中にひっそりとある神社で、参道も緑のトンネルのような木立に覆われていました。

 2004年、村上駅北口の区画整理は急ピッチで進み、12月には参道の東南側ぎりぎりまでシャベルカーが土取工事をしていました。

 この参道を上がると、根上神社の社殿があります。
時折、ホームセンターのアナウンス、下からは重機の音が聞こえてきますが、社殿は鬱蒼たる樹木に囲まれて静かなたたずまいを見せています。

 「村明細帳」の「根神明神宮 長5尺横3尺」が、かつてのこの神社の社殿だったようですが、実はこの社殿、古墳の上にあるのです。

 市内最大の前方後円墳、神社の名を冠して「根上神社古墳」。
 全長50m、後円部の直径35m 高さ3.5mほどの大きさでその墳丘の中央部を削り、社殿を建てています。(実測図参照)

 「村明細帳」に記載された「社地 南北22間東西13間」が境内地で、周溝を含めた古墳全体の大きさはそれより広い範囲です。
 今回の区画整理では唯一、現況保存として残った遺跡ですが、その遺跡の範囲は境内地内とされました。
 古墳の形状はよく保存されていて、最近前方部の北側周溝が部分的に発掘調査された以外は未調査で、多くの謎が秘められたままです。


現在の根上神社社殿 
前には親子の獅子が戯れているよう
(実測図A)

社殿は墳丘中央部にくい込むように建てられ、
小さな祠が古木の根元に祀られている
(後円部西側から⇒実測図B)

椿の花が咲き乱れる前方部(実測図C)

発掘調査が部分的に行われた周溝の跡
切り株がほぼそのラインらしい。
(実測図D)

 ここに眠る古墳の主は、印波国造の一支族なのでしょうか。
 このあたりには、道路建設で消えましたが、東300mほど先の黒沢池のそばにも古墳2基と塚があったそうで、そこからはメノウの勾玉2点やガラス小玉168点、刀子などが出土しています。
 また、村上団地造成の際にも方墳が1基、そして、古墳時代の住居がたくさん発見されていますので、この古墳の被葬者がこの地の支配した力はかなり大きかったのではないかと思われます。

 神社の東南側に立つと、今は立ち木も切り払われ、村上駅北口開発の工事現場がよく見えます。
 この神社境内の下の削平された法面は一部公園となるそうですが、無粋なコンクリートの擁壁が絶壁のごとくたちはだかる景観より、むしろ自然なままの縁の斜面林として残してほしかったと感じました。


境内南側のフェンスの向こうは絶壁となった(実測図E)

神社からフェンス越しに見える村上駅北口開発の工事現場

巨木2本のうち1本は切り倒されてしまった

コンクリートの擁壁工事は進む

11.高架下の黒沢池

 再び参道を下りて工事現場の中を抜け、東葉高速線に沿って勝田台へと歩いていくと、線路がトンネルに入る手前にフェンスに囲まれた湿地があります。
 かつて黒沢池として、根上古墳下の広い水田を潤した水源で、「村明細帳」の「溜三ヶ所」のうちのひとつのため池であろうと思われます。

 団地造成や鉄道工事でその姿を変える前の黒沢池は、釣人が糸を垂れ、水鳥が羽を休める池でした。
 伝承も多く、デーダラボッチが歩いた足の跡だったとか、また、人を呑むという黒い大蛇がいて、釣上手の男と釣った魚の数で勝負したところ、男が勝ったので大蛇は姿を消し、怖い池でなくなったとか。
 高架下になったとはいえ、まだ自然の残るこの湿地。かつての憩いの場所に復帰させることは無理なのでしょうか。
 


エピローグ
 今、開発によって大きくその景観が変わりつつある旧村上村。里山が崩され、谷津田が埋められ、そこにはもう昔からの生活の営みがなかったように街が変貌していきます。
 宅造地や道路を指差して、ここには遺跡が、森や池があったと説明しても、むなしいばかりです。

 郷土史を掘り起こす中から、旧村の方々と共に市民が次世代に残すべきものを示し、そして開発に伴う都市計画のコンセプトの中にそれを生かし活用させるようにすること、それが今の私たち地域の歴史を学ぶものの課題ではないかと思います。
 知らないうちに失われてしまった歴史的景観は、もう二度と戻っては来ないのですから。

参考文献:『八千代の歴史 資料編 原始・古代・中世』 『八千代の歴史 資料編 近世I 』 『八千代の歴史 資料編 民俗』
       「
新川から伝統の正覚院を訪ねて牧野光男 『史談八千代 17号』
       『ふるさと八千代物語』小寺正美 崙書房

このルポをまとめるに当たって、「村上村明細差上帳」との比定の考察については八千代市郷土歴史研究会会長村田氏、発掘調査の結果については八千代市教育委員会常松氏にご教示いただきましたことを感謝します。