2004.1.11 By.ゆみ
2004.1.17更新

長作(千葉市)の史跡と風景 U


晩秋の雨に濡れる長胤寺山門

「夫婦梅」が咲き始めました。2004.1.17
長胤寺を訪ねて

 成田街道から高津を通って長作十字路で御成街道を渡った「けみ川道」は、松戸から来た57号線と合流してバス停「長作入り口」から、左手の細い急坂を降りて武石への辺田道へと続きます。
 この長作入り口からV字を逆に戻るようにバスの通る道をを行くと、急カーブの途中に本勝山長胤寺の山門が奥ゆかしく建っています。

 「日蓮宗長胤寺」の標柱を見ながら、山門をくぐり境内に入るとりっぱな本堂があり、その屋根には、千葉氏の象徴である九曜と日月の紋が燦然と輝いています。
 この寺院は、正元元年(1259)千葉一族である武石長胤が長作の地を領し、弘長2年(1262)自らの館を寺として創建したと伝えられる日蓮宗の寺院です。
 山門の右手の庫裏の前には、城館だったころの土塁が、萩の花に埋もれていました。

 本堂前には、徳川家綱のころ当地の中台武左衛門が寄進した「夫婦梅」とそれにちなむ句碑があります。
 「浅からぬ夫婦ぶりなり月と梅」。この梅は1 輪の花に2 個結実するとのこと。

 そのほか「谷の戸をまださし出ぬ鶯に みせばやとおもう梅に花がさ」の歌碑もあり、また裏の歴代住職の墓地には「筆子中」と記された「筆子塚」が並び、近世の教育・文化のセンターであったことが偲ばれます。


七里法華と長胤寺の改宗

 ところで、長胤寺は何時から日蓮宗の寺院だったのでしょうか。
 句碑の前に、「當山縁起」を記した石碑があり、そこには長胤寺の由来について次のように記されています。

 「源頼朝に仕え、千葉中興の祖と言われる千葉介常胤公は七人の男子を儲ける。
 各々、千葉介新助胤正、相馬次郎師常、武石三郎胤盛、大須賀四郎胤信、国分五郎胤道、東六郎胤頼、七男は出家し日胤を名乗り、三井寺にて祈祷僧となる。
 三郎胤盛が、現在の武石の地を、承安元年(1171)11月15日伝領す。武石城の始まりである。
 四世孫武石小二郎入道長胤公が、正元元年(1259)12月10日長作の地を領す。弘長2年(1262)自らの館を寺とする。
 上総七里法華弘通の師、日秦上人(永享4年1432〜永正3年1506)の法孫日傳上人により、天文14年(1545)日蓮門下に改宗、のち元禄14年(1701)東金最福寺の流れに、属す。
 爾来法華経の信仰道場として連綿相続している。  三十六世 清寿院日祥」

 碑文中の「上総七里法華」とは、土気城主酒井定隆が顕本法華宗の日泰上人に帰依し、千葉、市原、山武、長生にまたがる領内7里(約27.5q)四方、270余りの寺にわたって法華宗に改宗させた宗教改革のことで、戦国時代の房総の宗教史を特異なものにしています。
 東金の最福寺も、807年最澄創建の縁起をもつ天台宗だった寺院で、文明11年(1479)に改宗、現在日蓮系の単立本山の寺院です。
 
 鎌倉時代に武石長胤が長作の地に創建したころは真言宗であった長胤寺が、戦国時代に濱野村本行寺開祖の日傳によって顕本法華宗に改宗されたということにより、いわゆる「七里法華」の影響と酒井氏の勢力がはるかこの地にまで及んでいたことがわかります。
 
 その後、昭和16年(1939)大陸侵攻の戦時下、宗教統制によって、顕本法華宗(京都妙満寺)と本門宗(北山本門寺)が日蓮宗と合同、長胤寺も「日蓮宗」となり、戦後、顕本法華宗が再独立しても、そのまま現代に至っています。
  

本勝山長胤寺本堂

 「浅からぬ夫婦ぶりなり月と梅」の句碑

建替え前の本堂屋根瓦

徳川時代初の地頭となった服部家墓地の石仏

妙見様のお堂「天津神社」

長作の「天津神社」(=「妙見神社」)


 長作の本郷の火の見櫓前の道を通って、坂を上った森の中に「天津神社」(=妙見神社)という小さなお堂があります。
 ここに俳句の奉納額があると諏訪神社の神主さんにお聞きしてから、なんとか、このお堂の管理人さんにお会いしたいとムラの中の旧家を訪ね、やっと「主守」をされている家を見つけることができました。
 「天津神社」というのは、大正元年に「妙見神社」から変更された名称で、このムラでは元の名前のほうが一般的なようです。

 昨年11月雨の日、八千代郷土史研の仲間とお訪ねすると、お堂の中には秘仏の妙見菩薩像を安置したりっぱな厨子があり、参拝記念の額や写真と並んで、りっぱな奉納句額や妙見菩薩を描いた額がありました。
 
 かつて堂内では囲炉裏で火を焚いていたので、奉納句額は真っ黒に煤けていましたが、近隣の俳人の地名は何とか読め、その中にタカツ、カヤタ、下カウヤ、村カミ、シマダなどの八千代市内の地名もありました。
 撮影したデジカメ画像を処理して解読した結果、選者は狐山堂卓郎、奉納年代は嘉永元年(1848)と判明、110句が横187cmの2枚の額に書かれていました。

 妙見画像は明治12年の奉納、亀に乗って剣を杖にする妙見様の絵でした。
 立派な御厨子の中にも同じような妙見様の像がご神体として納められているそうですが、秘仏ではっきり見た方はいないとのこと。童髪の姿から「亀に乗ったお姫様」と言い伝えられているとのことです。
 「主守」の家の伝承によれば、ある時ご神体が盗まれ、稲毛浜を探して悲嘆にくれていたところ、老漁師に「寒川で騒ぎがある」と告げられ駆けつけると、亀に乗った神様を大漁のお告げだといって騒いでいたので、わけを言ってお返しいただいたとのことです。

 境内には、以前は樹齢三百数十年の松の大木がそびえていて、東京湾から船の目印になったともいわれます。
 お堂から見ると、昔はかなり眺めがよかったのではと思われました。

お堂の外は雨、時間が止まったような静かなたたずまいです

ご神体「妙見菩薩」をまつる厨子



嘉永元年(1848)の俳句の奉納額
煤けて真っ黒でほとんど肉眼では読めない

奉納額に描かれた妙見菩薩像(見えるように画像処理済み)
妙見信仰と千葉一族

 妙見信仰は、北極星あるいは北斗七星を祀る信仰で、中央アジアの遊牧民族の間で信仰が中国を経て伝えられたものといわれます。
 関東の名族・千葉氏は「妙見」を守護神として崇拝して一族の結束を深め、千葉氏一族の分布するところには、必ず妙見信仰がありました。

 千葉市の千葉神社、八千代市の米本神社、臼井の星神社なども、妙見宮として、千葉氏の系譜を引く武士団によって斎祀られてきました。
 長作の天津神社も、武石長胤によって弘長年間(1261〜1263)に千葉六妙見のひとつを当所に安置したと伝えられています。

 例祭は1月21日、オビシャが行われます。
 屋根の上に日月の神紋をつけた小さなお堂ですが、20人ほどの「カキトリ」(=鍵とり)とよばれる世話人により、中世からの千葉氏ゆかりの妙見信仰を今に伝えてきました。
 
 ふと、信州に旅して見つけた武石村の妙見寺を思い起こしながら、妙見信仰と千葉氏の縁の深さ、その不思議さを感じざるを得ませんでした。