2004.1.17 By.ゆみ

長作(千葉市)の史跡と風景 V


旧けみ川道と庚申塔

長胤寺山門より、村のメーンストリート「救済道路」
村の暮らしと風景

 長作の村の中を歩き、時代とともに変わりつつある長作の村の暮らしと四季の風景に、触れてみましょう。


「けみ川みち」と「救済道路」

 けみ川道を拡幅した57号線は、あいかわらず武石インターへ出入りする車で混雑しています。
 旧道は、その57号線の長作入り口バス停の変則四差路で左折、斜め前方へ曲がる昔ながらの細く暗い道で、坂を降りきって辺田道に出たところに、万延元年の庚申塔があります。
 長作との村境、そして畑への道の分岐に、武石村の講中が建てた庚申塔です。

 一方、戻るようにV字に左折する広い道は「救済道路」の「長作線」で、ここから長胤寺の前の坂を下り、本村の中心を通って、御成街道まで続いています。

 昭和7年、折からの「昭和金融大恐慌」の中で困窮した農民の生活を救済するため、国庫補助金を頼んで道路改修工事が行なわれ、ここではこの「長作線」が整備されました。
 現在バスも通れるこの道は、「救済道路」といわれ、その工事の概要を記した石碑が長胤寺山門前に建っています。


旧家のたたずまい

 救済道路は、諏訪神社の裏参道手前の旧家の長屋門のところで左へ曲がり、小谷津坂上へ上がって、御成街道の長作小学校へ出ます。




中台武左衛門家の長屋門
「開有富」開墾記念碑

「故耕楽翁中台武左衛門之墓」
 

諏訪神社宮司家にて

 曲がり角の長屋門のある家は、名主を務めた中台武左衛門家です。

 明治2年の時、耕楽翁と号した武左衛門家当主の要氏は、耕地に不足した長作村ほか6ヶ村のため死を覚悟して嘆願運動の先頭に立ち、「下野牧」の一部を解放してもらって「開有富」と名づけた作新台西部の開墾を実現しました。

 この功績を称え、明治12年作新台の京成線路沿いの春日神社の傍らに「開有富」開墾記念碑が建てられました。 長胤寺の本山妙満寺の日桓師による撰文です。
 また長胤寺墓地にも「長作区民一同」で建てた「故耕楽翁中台武左衛門之墓」の背の高い墓碑が建っています。
 
 中台武左衛門家の長屋門の右隣の旧家は、諏訪神社を斎守ってきた藤代家の屋敷です。
 ご子息の節句祝の鯉幟と幟旗が、五月晴れの空に翻っていました。

 小谷津坂上に、落花生屋さんがあります。
 御成街道北側に長作小学校に移る前の明治18年から昭和15年まで、ここに校舎があったそうです。
 八千代市の高津新田の子供たちも、八千代台小学校ができるまでは、ここの校舎に「越境」して通いました。
 子供の足では、行政区内の大和田小学校への暗い山道より、この長作小学校への道のほうが通いやすかったので、特別に長作と同じ幕張町に委嘱したのだそうです。
 
 さらに「救済道路」を行くと、家康が慶長17年(1614)佐倉藩主土井利勝に命じてつくった東金への「御成街道」に出ます。


薬師山学校の跡

 ところで昭和55年に建てられた「長作小学校の発祥の地」の石碑が、辺田道沿いの長作会館に隣接した祠の境内にあります。
 長作小学校の前身として、明治6年に開校された薬師山学校の場所を示す記念碑です。
 この祠は、昔の薬師寺にあったといわれる赤い鳥居のある神社で、地元の方は「お稲荷さん」、「三峰さま」あるいは「薬師神社」などとよんでいます。

 かつては、この裏の山がずっと長作会館敷地を被って続いていて、その山頂に薬師寺があり、山は薬師山とよばれていました。
 今は、昭和30年代ごろの砂採りのためこの山のほとんどは削平され、お堂は現在のところへ下ろされました。
 ですから、薬師寺のお堂を使って開かれた薬師山学校は、この山の上にあったらしく、その後、一時長胤寺を仮校舎とし、明治18年に小谷津坂上に、さらの現代の御成街道沿いに移っていったのです。

右の赤い屋根の神社の囲い中に
「長作小学校の発祥の地」の石碑がある
左の山がずっと右端まで続き、その上に薬師寺があったらしい

「長作小学校の発祥の地」の石碑。
長作小学校百周年実行委員会により昭和55年に建てられた

薬師寺石坂寄進碑

 昨夏、幻の薬師寺の名残りをとどめる石碑を、八千代市郷土歴史研究会の会員が見つけました。
 中台種雄氏の門の横にある小さな自然石の石碑で、文久2年(1862)薬師寺へ坂道に敷く石を寄進した114人の人名が刻まれています。
 その中には長作村世話人の「武左エ門」のほか、「高津新田」では「八良兵エ」など高津新田の旧家8家の名前がありました。
 江戸時代の長作と高津新田の強いつながりと歴史を物語る貴重な金石文です。

 薬師寺廃寺の手がかりは、お年寄りの言い伝えとこの碑以外ほとんどありません。
 
 薬師寺という名称から、本尊はおそらく真言宗系の薬師如来像だったと思います。
 また住職が長年村の教育に携わってきた長胤寺と、明治の薬師山学校との関係はどうだったのでしょう。
 長胤寺の管理下に薬師寺があったとすると、長胤寺の七里法華改宗以前から、長胤寺と同宗派の真言宗の寺院としてこの山の上に存在したかもしれません
 
 ということは、中世前期のこの付近の宗教的な景観を想像させます。
 けみ川湊から花見川を遡ると、右手に畑、左手に武石、そしてその上流に長作の薬師寺の山と諏訪神社の森が見え、諏訪神社と薬師寺の山との間には、花見川の支流が本郷の弁天さまあたりまで奥深く入り、船泊になっていたでしょう。
 その後背地の日当たりのよい高台には、長胤の城館(後の長胤寺)があり、その北側の山には妙見様が祀られて千葉一族の安泰をまもり、また諏訪神社の背後の花見川支流域には、長胤お手植えの豊かな谷津田が営まれている・・・と。

民家の塀の間に道?が上に続いている。
かつて薬師堂への坂道があったらしい。
その入り口に石坂寄進碑があった

文久2年(1862)の石坂寄進碑


「八良兵エ」など高津新田の
旧家8家の名前がある


坊辺田の水神社
 
 花見川沿いのサイクリング道路をさらに遡ると、坊辺田に出ます。
 天戸町との境、そして亥鼻橋を渡ると畑町です。
 橋の手前の鳥居から急な階段を上がると、うっそうとした森の中に水神社があります。
 この地が、花見川の水に悩まされ、また水に恵まれてきたという、村の暮らしと歴史を思い起こします。

坊辺田の水神社の森

 冬の夕陽が社に射してきて・・

猪鼻橋からの夕暮れの花見川を眺めながら、この小さな歴史散歩はおしまいです。 
参考文献:『花見川の歴史散歩』長作公民館発行
       「高津新田の総合研究U・4 教育と文化圏を探る」真砂弘・佐久間弘文 『史談八千代』第28号(2003)
       「八千代の古道 「けみ川みち」を訪ねて」牧野光男 『史談八千代』第15号(1990)
       『千葉縣千葉郡誌』千葉縣千葉郡教育會発行 大正15年(1926)復刻版
       『長作の歴史散歩 案内メモ』八千代市郷土歴史研究会 2003.12.23

長作城山