2003.8.15 By.ゆみ
U 下総に律宗の痕跡を追って
8.小金宿の虚無僧寺に残された釈迦像
本土寺から、花の古寺探訪のそぞろ歩きの足は、北小金駅へ戻り、駅南口へと抜けて、旧水戸街道へと向かう。
江戸時代の道標がたたずむ先のゆるくカーブした静かな街路、街灯に「小金宿」の看板のある古道は、まもなく東漸寺の門前を過ぎる。
東漸寺は、枝垂れ桜の咲く春の花のころ、そして紅葉のころ、本土寺とともに訪れる人の多い名刹である。
創建は戦国時代の文明13年 (1481)、 浄土宗増上寺の音誉の門下の経誉によって根木内に開かれ、後に小金大谷口城の完成とともに出城としてこの地へ移転したという。
浄土宗の信者であった徳川家康によって保護され、江戸時代の格式は高く、関東十八檀林の一つであっただけあって、「勅願所」の石碑も風格がある。
東漸寺の先に、ひさしを歩道に出っ張らせた旅籠玉屋があった。
水戸街道はまた、成田山への参詣道でもあり、その千本格子に、昔にぎわった小金宿の面影を今に残している。
東漸寺 この長い参道の先に仁王門がある
|
旅籠玉屋が小金宿の面影を今に残している |
さてその並び、塀沿いではなく車道と歩道の境上に、松戸市の建てた標柱が立っている。
「虚無僧寺一月寺の跡」と標されたその柱の横には「普化宗金竜山一月寺は、鎌倉時代金先禅師によって創建されたといわれています。江戸時代には青梅の鈴法寺と一月寺が触頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括しました。明治4年の太政官布告によって普化宗は廃止されます。」と記されてあった。
白い塀の中には、その名も同じ「一月寺」という真新しい二階建ての建物がある。
そういえば、以前松戸市立博物館を訪れたとき、総合展示とは別に「虚無僧寺一月寺」をテーマ展示している一室があったことを思い出した。
その時の解説では、現在の会館風の「一月寺」は全く別の日蓮正宗の寺院ということであったので、そのまま深く追求もせず、私はこの前を通り過ぎた。
街道の先の馬橋には、忍性が建てたという万満寺があり、先を急いでいたからだ。
この「虚無僧寺」にどんな謎が隠されているのか、ということも知らずに・・・
「虚無僧寺一月寺の跡」の標柱 |
一月寺廃寺跡には、同名の別宗派の建物がある |
北小金から南へと続く旧水戸街道は、一茶も泊まったという小金宿の「永妻家」の旧跡を過ぎてところで、国道6号線にぶつかる。
「21世紀の森公園」となっている千駄堀の深い谷津 |
掌状の下総台地上をたどる湾曲した旧道は、この国道を二度横断して馬橋へと続くのだが、万満寺周辺の史跡については次ページに譲り、この先で立ち寄った松戸市立博物館でのささやかな発見をお伝えしたい。
水戸街道から八ヶ崎の道をひたすら歩いてたどり着いた松戸市立博物館は、今は「21世紀の森公園」となっている千駄堀の深い谷津の奥にある。
総合展示のコーナーで「本土寺過去帳」や板碑などを眺めてから、「一月寺」のテーマ展示室へ足を運んだ。
展示室の真ん中に、尺八を吹く虚無僧スタイルの人形が立っていて、奥の陳列ケースには、一月寺旧蔵の普化禅師像や住職が万満寺に当てた願書などの史料が展示されている。
ひととおり見て、さて帰ろうとして左端ケース内の釈迦像が目に入った。
かつてこの展示室を初めて見学したときは気づきもしなかったが、黒光りした古色の気品ある尊像の頭髪、よく見ると明らかに渦巻状、典型的な清涼寺式類似像ではないか。
脳裏に、清涼寺式仏像リストの中の「松戸・一月廃寺」の数文字がちらついた。
これで、頭部だけが縄目渦巻きの清涼寺式類似像が、千葉県北西部では、八千代市保品と佐倉市に4体、そして松戸市に1体あることになる。
さっそく、写真撮影のご許可をいただき、また学芸員の方に製作年や伝世の由来などをお聞きした。
近世の虚無僧寺「一月寺」は、明治4年に非公認になり、昭和35年ごろ、廃寺だった一月寺の寺名だけ残して、日蓮正宗の全く別の寺院に変わった。
そのときこの釈迦像は寺の外に出され、郷土史家の松下邦夫氏の紹介で市役所が引き取ったとのこと。
江戸時代は、出開帳もされたというが、歴史の運命に翻弄された釈迦像であった。
博物館で展示する際、専門業者に修理依頼、そのときの修理専門家の感触では、江戸時代の作ということであったという。
展示は、近世の普化宗の成立から廃絶までの史料が中心で、一月寺の中世については不明であり、また展示されている像が清涼寺式類似像という認識はなかったようだった。
その日はすぐに閉館時間が迫り、私は大きな課題を抱えて博物館を後にした。
この謎ときのため、再度松戸に足を運び、またネットで先輩諸氏に教えを請いて、少しずつ中世の一月寺の姿が見えてきた。
それはかつて、尺八を吹いて物乞いをする薦僧が、壮大なる「フィクション」を作りながら近世末までの普化宗という教団に変身していく姿である。
また、これもフィクションかもしれないが、ときの執権北条経時が大檀那を勤め、また長時が堂塔・霊仏に寄付したと「普化宗旧記」・「尺八筆記」に記された北条得宗政権の影であった。
まずは虚無僧の前身の姿を見てみよう。
近年『身分的周縁』に収録された保坂裕興氏の論文によると、1600年前後に臨済宗の一末派「普化宗」を作る以前の虚無僧とは、薦僧とよばれ、尺八を吹きながら物乞いをする人々であった。
尺八を吹く職能は朝廷の楽所や田楽を奏する集団に伝えられてきたのであったが、そこから脱落したのか、紙衣を肩に面桶と薦を持って物乞いをする薦僧が15世紀の『三十二番職人歌合』に描かれているという。
石井進氏の遺著となった『中世の姿』では、中世の行商人「連雀商人」の秘伝の巻物の『連釈之大事』には、市を営む雑多な職能の姿としてクグツ・イタカ・ハチボウなどの次に「コモ僧は声を出して物乞いすべきではなく尺八を吹いて通れ」と書かれているという。
また『商家古記』では、薦僧・紺掻(こうかき)は商人より下の者だと書かれているらしい。
さらに、時代を遡ると、「ぼろぼろ」といわれた乞食的な修行者が鎌倉末期に出現したことを、『中世の身分制と非人』で細川涼一氏が書いている。
これらの資料から見えてきた虚無僧の前身像とは、仏教的性格もなく、西国では領主や定住社会の人々に受け入れられず排除され、東国では行商や職能集団の最下層で旅する乞食に近い人々であったらしい。
彼らは近世前期、青梅の鈴法寺や小金の一月寺を中心に、普化宗の教義とその身なりを整えて、本寺末寺体制をしき、さらに18世紀には「武家浪人の宗門」へと様変わりして行くのである。
しかし「普化宗」のあまたの縁起もフィクションとはいえ、その前身の本質を吐露している。
中国唐代の普家禅師を教祖と仰いだのは、一休宗純と宇治の朗庵によって紹介された「普化」が、鈴を鳴らしながらも「乞う」行為をその属性としたことであった。
また紀伊国由良の興国寺を開いた法灯派の無本覚心が渡宋して普化宗を伝えたと言っているが、連雀商人の秘伝『秤の本地』でも、その職能の象徴の荷縄やお守りの女性の髪の毛の由来に法灯派の無本覚心が登場してくる。
(法灯国師はまた各地の「おしどり伝説」のひとつにも登場するが、そのことはまたの機会に触れたい)
また、一月寺の大檀那として北条得宗家を登場させている。
13世紀半ばの下総周辺に得宗家が領地を拡大し、千葉氏一族の結束に楔を入れ始めたころ、小金の地に何が始まっていたのだろうか。
『鎌倉大草子』によれば、建長年中、千葉介頼胤が、忍性を招いて小金の馬橋に大日寺を建立したという。
得宗家とそれを支える千葉氏が、その根拠地に右腕として律宗教団を伴っていたことは、桃崎祐輔氏の東国における律宗関連遺跡の研究で明らかになりつつある。
かれらがその教団に期待したのは、宗教的な権威による港湾管理や民生事業、特に非人救済などであった。
律宗寺院の周辺には、社会の最下層の寄る辺のない人々が集まり、律僧を中心にいくつかのコミュニティが形成された。
そのひとつに一月寺の前身の草堂があって、そこには清涼寺式釈迦如来像を写した小像が安置されていたかもしれない。
松戸には中世に遡る寺院や板碑の数は多いが、律宗に関しては、『鎌倉大草子』で触れられた忍性による馬橋大日寺開山の記述があるのみで、金石文も史料も明らかになっていない。
まして下総全体でも律宗の法灯を継いだ寺院は皆無である。
しかし、「乞う」行為をその属性に秘めた人々の集団は、その過去を忘却したまま清涼寺式の面影を伝える像を護持してきたことは偶然ではない。
次回はさらに、忍性による馬橋大日寺開山伝承の謎を追って、その時代の風早の庄を歩いてみたい。