2003.7.15 By.ゆみ

U 下総に律宗の痕跡を追って

7.流転の梵鐘を追って・六崎から風早の本土寺へ

 


「大福寺公園」(佐倉市旧高岡)

 蜜蔵院のある寺崎から、佐倉城址の南側をめぐって高崎川沿いに東を行き、JR佐倉駅近くを国道296号の新道から白銀ニュータウンに入ると、きれいに造成された高級住宅街の町並みの中に、「大福寺公園」がある。

 台地の斜面を利用したこの小さな公園には、なぜかオランダの田園を思わせる風車のモニュメントが建っていて、お寺のような公園名となじまないようにも感じるのだが、その公園名は「大福寺」という小字名にちなんだものとのこと。

 1980年代後半、ここ高岡では宅地化に伴う発掘調査で中世の寺の跡が見つかった。
 遺跡名はこの台地の字名から、「高岡大福寺遺跡」という。

 大福寺といえば、小笠原長和氏が調べた金沢文庫史料に、「六崎大福寺」としてその名を留めている。
 六崎は、高崎川をへだてた高岡のすぐ南西の台地であり、寺崎とも接している。
 「宇賀神祭文」写しの「應永七年(1400)…於下州印東庄六崎大福寺耆年房書寫畢…」という奥書に記された「六崎大福寺」というのは、この高岡にある公園の名の小字と関連があるのだろうか。


 
六崎大福寺は称名寺の僧侶が行き交う律宗寺院であった。
 そしてまた、応永年間の「香取造営料足納帳」にその所領名をとどめる六崎氏とも、強いつながりを持つ大寺院と推定されている。

 その六崎大福寺が盛んだったことを偲ばせる梵鐘が、遠く離れた松戸の本土寺にあると聞き、手がかりを求めて、松戸へ行ってみることにした。

 北小金駅北口から商店街を、そして杉並木の参道を通り抜けると、長谷山本土寺の仁王門が見えてきた。
 本土寺は鎌倉時代、熱心な法華の信者であった平賀氏の屋敷に、日蓮の直弟子の日朗を招いて開かれた日蓮宗の名刹であり、ここに伝わる 『本土寺大過去帳』はこの寺を保護した千葉宗家、そして原氏、高城氏らを含め、下総の中世を物語る貴重な史料となっている。

 仁王門をくぐり、階段を降りると、境内拝観の入口がある。
 紅葉の頃も多くの参詣客でにぎわうが、花の美しい6月もまた境内が華やぐ季節。 境内の左側、あじさいの群落が斜面を埋める丘の上には五重塔そびえ、撮影スポットとして人気がある。
 そしてその塔の左奥に建治4年(1278)の銘をもつ国指定文化財の梵鐘を納めた鐘楼があり、説明板も立っていた。



本土寺五重塔


建治4年の梵鐘を納めた鐘楼

 
 鐘楼内部は拝観できないが、松戸市立博物館のHPで資料検索してみると、その画像には確かに「大福寺」の名が彫り込まれている。

 「大日本下総国印東庄六崎大福寺
 「右 志者 為令法久住/利益人天也 住持小比丘膽阿/一聴鐘声 當願衆生 脱三界苦 得見菩提/建治四年三月十一日/大勧進沙弥妙円/上総国刑部郡大工中臣兼守」

 さらにこの鐘には本土寺が文明14年(1482)に入手したことが追刻してある。

 「下総州勝鹿郡風早庄平賀長谷山/本土寺推鐘 右 高祖/以来相當第十番師/日瑞得求之 奉施入/檀那設楽助太郎大伴継長半合力/願主真行坊日弘 其外/結縁諸人滅罪生善/乃至法界云云」

 刑部郡とは、現在の長柄町で、ここの眼蔵寺には1264年製作の千葉県最古の梵鐘がある。
 眼蔵寺は源頼朝が創建した胎蔵寺で、後に上総権介千葉秀胤が再興。始めは真言律宗であった。
 長柄町付近には、鎌倉大仏建立のため下ってきた鋳物師などの金工職人がそのまま留まったため、金工製作が盛んなところで、大工中臣兼守の後継の浄胤父子は、称名寺の金銅台盤(宝篋印塔の一部?)や国宝の愛染明王像を製作している。


 


本土寺梵鐘
六崎大福寺がこれほど立派な鐘を鋳造しえたのも、称名寺系列にあった故と推定されるが、ではこの梵鐘がなぜ約二百年後、松戸の日蓮宗本土寺に施入しえたのであろうか。

 HP「千葉氏一族」の六崎氏についての史料データから、まずその手がかりを探してみた。

 まず建長元年(1249)の『法橋長専奉書』に、主・千葉介頼胤の命を伝える先として、「六崎殿」すなわち六崎胤氏(常胤から4代目)とみられる人物が確認できる。

 次に、康暦2年(1380)の『日清譲状』に「八幡庄大野郷内釈迦堂阿弥陀堂」について安堵した「六崎将監入道」がいる。
 この譲状を所有しているのは、中山法華経寺の末寺「浄光院」である。

 そして『香取社造営料足内納帳写』には、佐倉の六崎の領主として、明応3年(1392)の「六崎新兵衛殿」と、応永14年(1407)の「六崎新左衛門尉殿」と並んで、1392-1393年風早の大谷口(松戸市)を領した「六崎将監入道」がみられる。

 六崎将監入道について詳細は不明だが、おそらく国府に近い八幡庄(市川市内)と風早庄(松戸市)にも領地を持つ六崎胤氏の子孫がいたのであろうか。

 一方、檀那として名を留めている設楽助太郎(本姓大伴氏)とは、鎌倉府奉公衆の名族設楽氏の流れをひく上総国山口(大網白里町)の領主で、他に銅製透彫りの華籠も寄進しており、また日瑞が開いた海潮寺(東金市)を外護している。

 ちなみに佐倉市青菅にも、その子孫が名主を勤めた設楽(屋号・半左衛門)家がある。
 この設楽家を訪ねると、慶安年中(1650年頃)建て替えた古民家がそのまま今も残っていて、そのたたずまいは早期に帰農した武士の居館を彷彿とさせる構えであった。
 
 設楽家の菩提寺は、臼井宿入り口の新坂にある暁慶山妙傳寺で、この寺はかつて臼井城大手門の東にあったという。
 日蓮宗の古刹で、創建は弘安6年(1283)、開山はなんと日朗門下九老の一人であった日傳上人であり、もちろん本土寺の末寺。妙傳寺の入り口には、妙傳寺中興の日運上人と設楽半左衛門が起工し、宝暦8年(1758)に落成した朱塗りの鐘楼門がそびえていて、臼井の名所になっている。
 
 また本土寺過去帳を繰ると、上総山口の設楽出雲守の各世代の人名のほか、天正15年(1587)に亡くなった「作倉 設楽助十郎老母」と、文禄2年(1593)同祖母の戒名があった。
 
 以上のことから、室町時代後期の千葉氏の有力直臣佐倉設楽氏は、上総設楽氏と同族で、日朗門下の日傳に帰依し、臼井城下に末寺を建立するほどの実力をもち、本土寺とも強いつながりがあったと推察される。



青菅の設楽家


臼井の暁慶山妙傳寺の鐘楼門

 鎌倉から室町時代、下総では千葉氏、そして争乱の中で台頭してきたそして原氏や高城氏の帰依によって日蓮宗が浸透していった。
 15世紀の終わりのころ、阿弥陀一尊や三尊の種子を刻んだ板碑と並んで、本土寺のある平賀や慶国寺のある秋山では、日蓮宗系の題目板碑が盛んに作られ、今に残っている。


 文明14年(1482)、本土寺が興隆期にあったとはいえ、世間では旱魃が続いて多くの餓死者が出る時代でもあった。
 これらの菩提を弔おうと、時の住職の日瑞は過去帳の整備や寺域の整備に尽力していた。

 高岡で発掘された遺構は15世紀代の「村の寺」程度の寺院跡で、あれほどの梵鐘を持っていた「六崎大福寺」とは考えられず、その末寺の可能性も否定できないと、『中世の佐倉』の井上哲朗氏は語る。

 1455年の康正元年、千葉介胤直が、叔父の馬加康胤と原両氏に攻められ、多古で敗死する。
 この康胤との攻防で、寺崎城は胤直側から康胤側の拠点となり、文明16年(1484)に本佐倉城に移るまで、千葉氏の本城となった。
 戦乱に巻きこまれた六崎氏もまたこの地を追われ、庇護者を失った大福寺も運命をともにしたか、かろうじて高崎川の対岸の高岡の地に同名のささやかな草堂を営んだのかもしれない。

 「調査報告書」によっても、この高岡大福寺遺跡は15世紀終わりごろその営みを停止している。
 千葉宗家が本佐倉城を本拠とし、この地にあった寺院や屋敷も城下へ移転、もしくは廃絶したちょうどそのころである。


本土寺本堂


 私は、六崎から高岡へ仮の移転をした際に、由緒あるこの梵鐘をいくばくかの資金にする必要があったのでないか、そしてさらに、佐倉の六崎から風早の庄へ、梵鐘譲渡の仲介の労をとったのは、臼井の妙傳寺と、その檀那の設楽氏、そして六崎将監入道にも縁のあった者ではないかと想像する。


 六崎にも、そして高岡にも存続し得なかった中世前期の名刹大福寺。
 わずかに、金沢文庫史料と本土寺梵鐘に残された「六崎大福寺」の名と、高岡に残された「大福寺」の小字名に、この廃寺の運命を偲ぶのみである。

 本土寺所蔵となった梵鐘には、12の円に陽刻された十二神将の種子を削って、釈迦・日蓮・日朗、そして日瑞・日傳などの尊名が再刻された。

 宗派の相克も、中世武士団の熾烈な戦いと無縁ではありえなかった時代。
 本土寺が文明14年(1482)に入手した2年後の同16年、本佐倉城の拠点化。
 同18年、太田道灌の死。
 そしてその後の二度にわたる国府台合戦という戦国の波が下総にも現われ、大きく変わろうとする予兆の時代である。

2003.7.27更新