2003.6.15UP 2009.9.6一部更新 By.ゆみ
U 下総に律宗の痕跡を追って
6.印旛沼のほとりの仏たちU・保品と寺崎の秘仏
2002年5月26日、初夏の日の光りが燦々と降り注ぐ昼下がりであった。
改修なった東栄寺薬師堂落慶法要 |
東栄寺薬師堂内陣 |
今日は、保品(八千代市内)の星埜山東栄寺薬師堂の改修が終わり、落慶法要が営まれる日である。
もしかしたら…という期待が脳裏を走る。そう、ここの薬師様はいつ行っても見せてもらえない秘仏なのだ。
もしかしたら、再会できるかも…そう思って、落慶のこの日を待っていたのだが…。
保品は八千代市の北端に位置し、印旛沼を臨む地にある。
文和2年(1353)の「室町幕府御教書」にも「星名郷」としてその名が確認できる中世からの村であった。
そして村上の正覚院の縁起では「本尊は保科村にありしを…、入道真円と云う人当寺を建立し、うつして本尊とす…」と書かれ、ここから正覚院の本尊の釈迦像が来たと伝承される地でもある。
かつて萱葺きだった薬師堂は、解体後、桧材で補修、銅板ぶきに改め、いわき市の白水阿弥阿堂をその形に模したという屋根が、午後の逆光の太陽に照らされてまぶしい。
今回の解体の際、屋根材から宝永4年(1707)常州河内郡の大工七人と木挽き四人が建てたとの墨書が見つかり、三百年に亘って地域の方々により、大事にされてきたお堂であることがわかったという。
落慶法要がつつがなく終わり、薬師堂内陣を拝見する。
おそらく宝永4年、薬師堂の完成時に修復塗り直しされた像であろうか。
住職が挨拶で「祈り込んで伝えてきた」と言われた薬師如来立像と左右の日光月光の脇侍・十二神将。小ぶりながらも1体も欠けることなく堂内に並ぶ姿は、華麗で壮観であった。
さて、真ん中の厨子にいらっしゃる穏やかで愛らしい薬師様、遠目にありがたく拝見したが、10年前、八千代市歴史民俗資料館(現郷土博物館)開館記念企画展に出品されていた黒く痛んだ姿の像と異なっている。
とはいっても、この肌が金色に輝くこの立像もまた、頭髪は螺髪を表現せず、一見すると清凉寺式類似像である。
修繕塗り直しがされたときに、渦の表現を塗りつぶしてしまったのだろうか。
住職の奥様にお聞きすると、清凉寺式と報告されているほうの「薬師如来立像」は、本堂に安置されていて、住職ですら晋山式の際以外見ることはできず、家族も見る機会はないとのこと。
平成5年、資料館で開館記念「清涼寺式釈迦如来像と正覚院」企画展で、この秘仏を公開したのは異例のことという。
東栄寺薬師堂の本尊 |
『八千代市の仏像』掲載の「薬師如来立像」写真 |
この像の写真については、昭和62年八千代市教育委員会が発行した『八千代市の仏像』と、平成5年の企画展リーフレットに、不鮮明な写真が掲載されているだけである。
『八千代市の仏像』では頭髪の形態について特にコメントはないが、企画展のリーフレットには「この像は頭部の縄目状のみあらわし、他は通常の如来の像容をしている江戸時代の作である」という文章が付け加えられている。
この不鮮明な写真をよく見ると、その手には薬壺が載っていない。軽く親指と人差し指が閉じられているようにも見え、開いているようにも見える。前者なら阿弥陀如来、後者なら釈迦像なのかもしれない。
企画展で目にしたはずのこの秘仏については、残念ながら、渦を巻いた頭髪のおぼろげな記憶しか残っていない。
たまたま調査でこの仏像を目にした方の報告が、『史談八千代』第14号(1989)にあった。
「扉を開き、お顔を拝すると、穏やかで深みのある表情である。この薬師如来の左手には薬壺がないように見えた。像の全体に損傷があり、欠落していた左手をくっつけてみたが、薬壺を持った感じがしなかった。」と記されている。
いずれにしても、この保品の東栄寺には、貴重な清涼寺式類似像が現在残っていることがわかったが、企画展リーフレットに載っている像は薬師ではなく、阿弥陀か釈迦かどちらかの如来像の可能性があると思った。
秘仏とはつゆ知らず、たまたま10年前、企画展で目にしたこの如来像。この像を、今度また見られる日はいつであろうか。
寺崎城址よりの展望(2002.4.29撮影) |
寺崎蜜蔵院薬師堂のご開帳(2002.11.8) |
それにしても、仏像は調べたくても、「秘仏」という壁にぶつかることが多い。
蜜蔵院薬師堂での護摩修法 |
寺崎の念仏講は今でも続いている |
特に密教系寺院の霊験あらたかな薬師像などは、そう簡単に拝観できない。
「生身の仏」として崇められ、また中世という時代特有の霊験譚に彩られてきた清涼寺式の模刻像や類似像もまた、厨子や帳の奥に閉ざされて、写真すらないこともある。
それでも、佐倉市にもう1体あるという類似像を訪ね、寺崎の蜜蔵院にお伺いしたら、「秋のご開帳をお待ちください」との吉報を得ることができた。
寺崎は印旛沼のほとりから鹿島川をさかのぼり、高崎川との合流点に位置している中世の城館跡。高崎川を隔て鹿島城址(国立歴博のある近世の佐倉城)に対している。
「寺崎城跡」の看板に従って、がけ崩れを応急修理した急な階段を登ると、印旛の浦を一望する物見台跡とおぼしき山頂に、寺崎城の由来を記した新しい石碑がある。
康正元年(1455)、千葉氏の内紛により、馬加康胤に攻められた千葉氏16代胤直と弟胤宣は千葉城を捨てて多古へと逃れたが、自刃。
胤直の嫡子胤将は寺崎に逃げ、ここに城を築いた。
さらに康胤はこの寺崎城をも攻撃、本佐倉城を築いて千葉氏を名乗ったという。
その歴史的な城跡に、阿弥陀如来を本尊とする真言宗日光山蜜蔵院光明寺は建っていることになる。
本堂脇にある蜜蔵院の縁起を記した石碑によれば、開創は享保年代以前、寺崎村大近台に建立され、二度の火災で現在の地に再建された。
また口碑によれば、薬師堂の本尊薬師如来は行基の作で、明正天皇の代(17世紀)に鹿島川薬師ヶ淵に漂着したのを小堂に安置し、宝永年間(1704−1711)に現存する薬師堂を再建したという。
また、昭和59年の修理の際、寛永13年の修理札に「南無薬師瑠璃光如来先年刻立5百前後之砌大破の間・・・修理」とあり、12〜13世紀の作とすると、「藤原後期の顔立ち」とされた修理者の推定と一致するという。
中世にさかのぼれる史料は失われていたが、三間四面に向拝を施したしっかりした造りの薬師堂は、東栄寺薬師堂を同じ宝永年間の華麗な特徴を今に残し、佐倉市の指定文化財にもなっている。
さて2002年11月8日、御開帳の日が来た。
檀家役員さんや念仏講の方々が集まっていらっしゃる。
お聞きすると大護摩修法の中で、御厨子の扉が開けられるとのこと。それまでは覗くこともできない。
許しを得て、護摩修法の場に参加させていただくことにし、勧められるままに、内陣近くの椅子にかけさせていただき、御開帳の時を待った。
導師が入場、やがて御厨子の扉が開けられ、金色の霊験あらたかな薬師様が姿をお見せになったその前で、護摩が焚かれる。
密教の修法を身近で拝見するのは、初めてのことであったので、緊張しつつも華麗でリズミカルな炎の儀式にうっとりとしてしまった。
薬師様の撮影もこの日に限ってとのお許しいただき、間近で拝見もしたが、どうも頭髪の感じが清涼寺式の波状髪とは似ていない。
ひも状の線に切れ目を入れた感じが縄目のようでもあり、また螺髪(らほつ)のようでもある。
しかし、八千代市の企画展リーフレットや『中世の霞ヶ浦と律宗』などの文献に、清涼寺式類似型と紹介されている像は、別にあるのだろうか。
あるいは、渦巻き様の波状髪ではないが、これも縄目の表現として伝承されてきたのであろうか。
蜜蔵院薬師堂の内陣 |
蜜蔵院の秘仏・薬師如来立像 |
近世に造立され、秘仏とされた仏像は、美術史の、また文化財調査の対象にもされにくい。
東栄寺の像も、また密蔵院の像も実際調べてみて、これまでの文献の報告とは、もしかしたら少々違うのではないか、という疑問を持たざるを得なかった。
報告文献のおぼつかなさと、秘仏の謎に包まれた清涼寺式類似像を追う旅は、結局、迷路の旅となったが、逆にひとつひとつ実際にこの目と足で確認しなければいけないということもよくわかった。
そんなことに気付かせてくださった薬師様方に感謝しようと思う。
東栄寺のある保品は、印旛沼から東京湾への水路、平戸川の入り口に当たる。
寺崎もまた、鹿島川を遡り、小さな分水嶺を越すと千葉市街へ抜ける地にあった。
このような地にはおそらく鎌倉時代にも、交通の要衝の地として地域のセンター的役割を果たす寺院があったのであろう。
寺崎の東隣の地は、六崎であり、金沢文庫「宇賀神祭文」写しの「應永七年…於下州印東庄六崎大福寺耆年房書寫畢…」の奥書から、称名寺末寺の律院があったらしい。
また、松戸市本土寺に移された建治4年(1278)銘の梵鐘には、「大日本國下総國、印東庄六崎大福寺」と刻まれていたという。
次回は、その松戸への小さな旅を試みてみたい。
2003.7.27更新