2003.3.4 By.ゆみ
U 下総に律宗の痕跡を追って
5.印旛沼のほとりの仏たちT・手繰川の岸辺で
印旛沼のほとり、保品や佐倉には、頭部が縄目状の薬師さまや阿弥陀さまがあるという。
清涼寺式の仏の像容を意識しているのかはさだかではないが、忍性たちが行き来した遠い過去の記憶を、この水辺に住まう仏たちはその姿にとどめているのであろうか。
佐倉市内実蔵院の阿弥陀如来、同じく佐倉市内の正光寺・そして蜜蔵院の薬師如来、また正覚院釈迦像の頭部だけが流れ着いたという伝承の地・八千代市保品の東栄寺の薬師如来。
いずれも地元の仏たちであったが、調べてみると無住の小さなお堂にあったり、秘仏扱いだったり。まずは、これらの仏像のあるというお寺やお堂を探すことから、私の身近な古寺探訪が始まった。
2002年5月3日、臼井台の実蔵院を訪ねた。
国道296号線から手繰橋を渡り、旧成田街道の坂を上ると、丁字の突き当たりに「右成田ミち」と標された文化3年(1806)の道しるべがある。
実蔵院はこの道しるべのすぐ左手にある。
臼井台の実蔵院 |
実蔵院参道の如意輪観音石仏 |
うっそうと茂る木々でかつてはうす暗かった境内も、今は墓地拡張に伴ってきれいに整備され、門前の石仏群が陽光の中に迎えてくれる。
ご案内いただくはずであったご住職は、急な法事でご不在であったが、新緑の美しい境内から本堂に入り、左脇陣で寺宝の阿弥陀如来坐像を拝観させていただいた。
檀家のたくさんの位牌に囲まれて、やさしく微笑む気品ある彫像。
髪の生え際の線や肩の上がり具合などから鎌倉末期と推定される高さ55.5cm、桧材の寄木造り像で、香や灯火で黒ずんだ顔に水晶の白毫が光っていた。
肉髻珠は失われて無く、縄状の刻みもはっきりしていないが、頭髪は予期したようにきれいに同心円状に渦巻くいている。
実蔵院の阿弥陀如来坐像 |
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真言宗豊山派である実蔵院建徳寺の創建については、江戸時代の初期の火災で旧記を失ったため不明であるが、旧末寺は21ヶ寺あったといい、その中には松虫寺(印旛村)や結縁寺(印西町)のような古代からの寺院もある。
ここ、臼井郷の名は1331年の長井氏の文書に登場し、中世末期までは臼井・千葉・原氏が拠った臼井城があり、そして、近世は臼井宿でにぎわった。
この古刹の参道は、まさにその古道に面し、またその境内沿いに下る道は、印旛沼の支流手繰川の水神橋、かつての渡し場につながっている。
近世に成田街道が手繰橋を通る以前、武蔵への中世の道は臼井からこの渡しを経て、小竹へと続いていたらしく、実蔵院の立地は、やはり水運と陸路の接点という交通の要衝に位置しているように思える。
近代になってからは、明治36年(1903)から昭和17年(1942)まで境内に私立の明倫中学が開かれ、八千代など近隣から多くの学生が通っていたという。
しかし、中世の実蔵院についての記憶は、やさしい阿弥陀如来の坐像があるのみ、七百年の歳月はやはり遠いと思った。
実蔵院から手繰川を3kmほど遡った畔田に、正光寺という無住の寺があり、その薬師堂にも頭部が縄目状の薬師如来像があるという。
拝観のお願いに村を訪ねたが、GWの連休はどの農家も田植えの最中で、さてどのお宅が薬師堂の管理をされているのか、再三足を運びなおし、やっと鍵を預かる家を探し当て、アポをとることができた。
生谷から四街道へ抜ける道沿い、手繰川上流の谷津田を望む台地上に春日神社がある。
その隣が正光寺。無住といっても本堂は立派で、大師廻りの札所も整備し、新しい六地蔵も寄進されて、村の方々に大事にされているお寺であった。
正光寺は大聖院の末寺で、宗旨は真言宗。元は丘陵下の字坊谷津にあったが、天保4年に台地上のここに移転したという。
そしてその昔、製鉄をやっていたという伝承を裏づけるかのように、鉄滓(カナクソ)が神社の裏山から出るとのことであった。
薬師堂への小道 |
正光寺薬師堂 |
薬師如来が安置された薬師堂は、境内の右裏手の小道を行って奥の階段を上った先にある。
簡素でこじんまりとしたお堂の扉を開けると、正面の棚に縦格子の鉄柵があり、その中に薬師如来、両脇に脇侍の日光月光菩薩が安置されてあった。
案内してくださった方は、「以前盗難の事件があり文化財を守るためとはいえ、申し訳ない」とおっしゃりながら、鍵を開けて格子をひらいて下さった。
薬師如来は高さ105cm桧材寄木造の立像で、補修で厚く漆を塗り重ねられているよう。
「日影薬師」といわれ、かつては雨乞いの際に水をかけたらしく、昭和62年の補修前はかなりいたみがひどかったようだ。
肉髻珠と白毫、両手先、薬壺、光背、台座も修理の際に補ったものであったが、頭髪は期待にたがわず渦紋状。ふっくらとした頬、胸の厚みは鎌倉時代の様式を思わせるものの、衣文や全体の形から室町時代の作とされている。
正光寺の薬師如来立像 |
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お堂の壁に、「薬師三尊の配置」の解説に続けて、「薬師如来は薬師なり、光如来ともいう。除病延寿、衣食満足など現世的な一、二の誓願をもって衆生を救済する仏で、形は右手のひらいた施無畏。左手には薬壺をもち、光背分身の七体が七仏薬師とよばれる化仏として表される。昭和六拾壱年九月吉日 建設委員会謹書」と手書きした紙が貼ってあった。
人々の現世の願望を一身に受けてかなえてくださる薬師さまである。
そしてこの薬師さまも、来世の後生を約束してくれる実蔵院の阿弥陀さまも、いずれも庶民信仰を体現してきた仏であった。
もしかしたら、実蔵院の阿弥陀像も正光寺の薬師像も、律宗という戒律仏教がこういった庶民信仰に受容され、また印旛沼周辺の密教の伝統と融合してきた過程を今に伝えているのかもしれない。
畔田から吉見へと台地を横断し、鹿島川を渡ると寺崎。そこにも実蔵院と同じ大聖院の末寺の蜜蔵院があり、頭髪が縄目の薬師如来があるという。
また、印旛沼の西端の保品には、頭髪が渦巻状の薬師如来を有する東栄寺がある。いずれの薬師も秘仏である。
はたしてその像を拝観できるであろうか。
次もさらに印旛沼のほとりの清涼寺式類似型像を追ってみたい。