2002.12.3 By.ゆみ
U 下総に律宗の痕跡を追って
4.中世船橋と千葉の湊・巨大五輪塔の記憶
『中世の霞ヶ浦と律宗』の図録に興味を覚えて、三村山へ五輪塔を探しに行ったのは、今年(2002)の1月のことだった。
筑波おろしの寒風の中、荒涼たる山裾に立ちつくす石塔。
そして3月奈良の旅先で接した忍性ゆかりの地に立つ石塔。
大きく美しい五輪塔に深い感銘を受けて、しばらく図録の「西大寺と律宗諸寺院の巨大五輪塔」という挿図(→左図をクリック)に見入る日々が続いた。
挿図には叡尊塔を頂点として、相似形の五輪塔が大きさの順に並んでいた。
中世前期の五輪塔、しかも2mを越す大きさの無文の塔がそう多くあるわけでない。
それを大きさの順に並べると、律宗寺院の開祖の五輪塔が西大寺を再興した叡尊を頂点として、師と弟子の階層関係に則った姿で秩序よく並ぶ。
上から空・風・火・水・地の5つの形が積み重なる五輪塔の形は、宇宙=胎蔵界大日如来をあらわしたもので、その秘法を伝授する師匠の僧は仏への信仰同様に崇められ、その死後は叡尊に倣ってその格付けに応じた五輪塔が立てられたという。
この西大寺流律宗の真髄を物語るみごとな図をながめているうち、この五輪塔群の並びに挿入したい二つの身近な五輪塔をはたと思い出した。
それは、船橋と千葉の街中にある二つの塔であった。
船橋・西福寺の巨大五輪塔と宝篋印塔 | 千葉市・大日寺の五輪塔群 |
京成船橋駅を降り、にぎやかな仲通商店街の御殿通りの小路を入って行くと、勤労市民センターの先、住宅街を左に入った突当りに見落としてしまいそうな小さなお宮がある。
家康の御鷹狩用御殿地跡に残された小さな東照宮だ。
御殿通りは海老川まで続いている。
センターからこの川べりまで、ずうっと船橋御殿だったらしい。
海老川の向こうには船橋大神宮(意富比神社)の森がこんもりと望まれ、その左側の裾を旧成田街道が、右手裾を旧東金街道が巻いていた。
古道を訪ね、何回か来た道である。
交通の要衝だったこの神社とその周りの寺々の散策は、古代から幕末までさまざまな史跡があって楽しい。
船橋の御殿通りの小路 | 船橋御殿地跡の日本一小さな東照宮 | 海老川・左手マンション奥が御殿地 |
その寺のひとつ、旧成田街道に面した西福寺の墓地入り口には、巨大な五輪塔とりっぱな宝篋印塔があった。
その松林に立ちつくすどっしりとした五輪塔の姿は、さすが印象深く心に残っていた。
説明板によれば、「両塔ともに県指定文化財、安山岩製で作風から鎌倉後期の俗に関東式と呼ばれるもの」また「伝承等によると、御殿地にあったものが明治年間に西福寺に移されたという」という。
さらに「おそらく千葉一族の有力な武士の墓であろう」と記載してあった。
この「千葉一族の武士の墓」という推定は、かつて千葉氏ゆかりの史跡見学会で見た千葉市轟町の大日寺の五輪塔の記憶につながるものがあり、疑うことなく納得していた覚えがある。
大日寺の五輪塔も迫力のある塔である。
大日寺は戦災で轟町に移る前、千葉神社の南側の通町公園にあった。
「千葉家の墓」と刻まれた標石が手前にあり、2m余の五輪塔の奥に1mほどの五輪塔が十数基並んでいる。
古い写真を出してきて見た。
なぜ「千葉家の墓」の中で1基だけこんなにも大きいのだろう。
『中世の霞ヶ浦と律宗』の挿図の五輪塔と見比べても見劣りのしない塔である。
律宗高僧の墓塔と武士の墓とどこに相違があるのか、逡巡しても私ひとりでは答えはでなかった。
2002年3月、船橋市郷土資料館で「中世の船橋」という企画展が開かれ、忍性足跡を訪ねる奈良の旅から帰ってまもなく、『中世の霞ヶ浦と律宗』の図録を持ってこの企画展を見にいった。
そこには、この図録の五輪塔階層図になんと船橋と千葉の五輪塔を加えたパネルが、展示されていたのだ。
船橋と千葉の五輪塔もやはり、律宗の高僧の塔であったのか!
「目から鱗」のごとくなぞは解け、そしてこの「五輪塔階層図」を書いた桃崎祐輔なる人にいつか会いたいと思ったその4月、この資料館で若い研究者向けの桃崎氏の講演があり、運良くその講演を拝聴することがかなった。
船橋と千葉の五輪塔を律宗高僧の塔とすることにより、江戸湾に面する中世前期の下総の重要なふたつの湊町の様相がはっきりしてくる。
中世の船橋は、海老川河口の夏見の入り江に「津」として繁栄した湊であった。
潟湖を望む砂丘上の聖なる山には海上守護神・意富比神社(おおいじんじゃ)、そして河口の西向こうの船橋御殿地には、おそらく意富比神社の神宮寺でもあった安養寺という幻の律宗寺院があり、港湾の商業活動をもとりしきっていたであろう。
その長老の供養塔として五輪塔が建てられたのは鎌倉時代の末、そのころは、宗教的にも経済的にも律宗の僧が大きな力を発揮していたはずであった。
この寺はやがて天台系地方寺院へ、さらに16世紀にはそれも廃寺になって石塔のみ残され、家康の御鷹狩用の御殿に整備される段階では、その石塔も西福寺に移されたと、桃崎氏は推論する。
一方、千葉の湊については、簗瀬裕一氏の研究「中世の千葉‐千葉堀内の景観について」(2000年『千葉いまむかし第13号』所収)によって、千葉の中世の景観があきらかになってきている。
かつてのメーンストリートも、千葉氏の守り神妙見を祀る金剛授寺(今の千葉神社)から本町通りを南下し大和橋を渡って、寒川大橋に達していた。
そして、大和橋手前を都川に沿って右折し、西へ向かうと、今の裁判所、すなわちかつて土塁と堀に囲まれた千葉氏の館と、その隣の宗胤寺の先で、結城浦のほとりに出る。
その河口には砂洲が嘴状に伸びてラグーンを形成し、今の千葉中央駅を中心としたこの広いラグーンには、六浦からの称名寺船が行き来する湊があった。
かつての中世千葉を髣髴させる簗瀬氏の論文は、また大日寺の忍性開祖伝承とその末寺光明寺の秘密に迫っていくのだが、この考証については、別の機会に紹介したい。
千葉神社の南側の通町公園・大日寺は戦前までここにあった | 千葉市轟町の大日寺 | 大日寺の巨大五輪塔 |
船橋も、千葉の町も、所用で出かけることの多い市街地である。
街を貫くコンクリートで固められた河川の脇にはビルが建ち並び、その陰に寺院と人家が密集し、背後には航行目印となったであろう聖なる山が迫っている。
この行きなれたふたつの街を意識して歩いてみると、そこは意外にも中世への再発見の連続であった。
忘却のかなたに残された巨大五輪塔、その石の塔から解き明かされた湊のたたずまい。
七百年前の姿を想像しながら、鎌倉や六浦の港湾ではたしていた律宗教団の役割を再度問い直してみたい、そしてこの二つの湊からそう遠くない村上への道を実際にたどってみたいと思う。