2002.8.17 By.ゆみ

U 下総に律宗の痕跡を追って

3.吉岡大慈恩寺再訪・梵鐘に記された真源の思い


 もう一度、鬱蒼たる樹林に囲まれた大慈恩寺を、できれば新緑のころに訪ねたいと思った。

 このシリーズ「2.香取の海のほとりにて」でのべたように、六年前の大雪の日、古びた本堂の凍てつくような暗闇の中、灯火に照らされておぼろげに見た釈迦像が脳裏から離れなかった。
 そして清凉寺式の面影を宿す釈迦像への思いもさりながら、何よりもその時、雪に埋もれて拝見できなかった境内の石塔や鐘も、心残りであった

 今年5月、再度この寺を訪ねた。
 勅使門とその横の祠、樹木の茂る門前の趣きは変わっていないが、山門をくぐると、境内は明るく一変している。
 広々とした参道が続き、真新しい本堂、そして庫裏も鐘楼も改築されていた。

 

大慈恩寺山門、右の門は香取神宮への例弊使だけが使う勅使門

新装なった本堂

明応4年(1495)胎内銘の釈迦如来立像

 人影はなかったが、庫裏の呼び鈴を押して案内を請い、奥様に本堂内を拝観させていただいた。
 護摩壇の奥にはりっぱな不動明王像、そしてさらにその奥の高い壇上には、あの明応4年(1495)胎内銘の釈迦像が安置されている。
 不動明王像との距離がほとんどなく、ただ下から見上げるばかりで、頭髪の様子などはよく分からなかったが、とにかく撮影をお許しいただけたのは幸いであった。
 頭髪はらほつに近いようで、襟首の衣紋も異なっているが、等身大の素木像は、六年前に直感したとおり、あきらかに清凉寺式類型の釈迦像であった。
 1421年の堂宇炎上後、1495年に再彫されたとすると、そのころはもう清凉寺式の正統な記憶があいまいになっていたのだろうか。


 内陣の右には宝物の収蔵室が完備し、千葉県指定文化財になっている73点もの文物が、収められていて、中央の陳列ケースには、利生塔の模型があった。
 足利尊氏・直義が敵味方の戦没者の霊を弔うため全国66か国に1寺1塔を建立、寺を安国、塔を利生と通称し、下総では、大慈恩寺に利生塔が建てられた。 
 この塔は明治35年まで存在したというが、今は礎石が草叢に、模型と建立時の直義御教書が収蔵室に残されているばかりであった。

 その模型の右に釈迦如来の座像がある。
 利生塔本尊として享禄2年(1529)に作られたことが平成の修理時に判明した座像で、本堂の釈迦立像よりも頭髪が清凉寺式に近く、これもまた新発見であった。

 真源が西大寺から将来したという、多くの絵画類のほか、日蓮がこの寺で修行した際に描いた「法華宝塔曼荼羅」所蔵されているという。
 下総の中心的な律宗寺院であった大慈恩寺は、同時に律宗が天台・真言密教を兼ね備え、さらに戒律を重視するグローバルな性格を持っていたことから、学を究めるさまざまな宗派の僧が行き来する拠点であり、「法華宝塔曼荼羅」もその性格を如実に物語るものであろう。

利生塔の模型 草むらの利生塔の礎石群 利生塔本尊の釈迦如来座像


 朝露にぬれた境内の史跡を拝見することにした。境内は雲富山、今は吉岡という小高い森林にすっぽりとかこまれ、そのたたずまいは称名寺境内図を思わせる。
 本堂の左手の崖面に胎内くぐりの洞穴があり、その上が大小の五輪塔などが草むらに雑然と並ぶ歴代住職の墓地。すこし離れてやや大きめの塔が、真源の墓と伝えられる五輪塔であろう。
 称名寺開山審海上人の塔と比べると、つつましやかに見えるのは、基壇部分が土に埋もれているからだろうか。
 また、住職が境内のあちこちから集めたたくさんの板碑も壮観であった。

真源の墓と伝えられる五輪塔 板碑群 珍しい双式板碑
(左キリークを裏返しにし左右対象に彫ってある)


 本堂の右手の鐘楼には、延慶3年(1310)真源開山の銘を刻む梵鐘が健在であった。
 そしてこの鐘には、真源直筆で梵鐘功徳を説く長い銘文が記されている。

 眞源直筆の銘文の記された梵鐘この銘文の意味を調べているうち、「鐘銘の文言の出典は『付法蔵伝巻五』の説話」と篠崎四郎氏が解き明かされた論文を、昭和11年『考古学』第7巻第10号の復刻版に探すことができた。

 その説話は「印度月氏国王、武勇絶倫にして性甚だ戦いを好む。」で始まる。
 王は中天竺を討ち、馬鳴(めみょう)菩薩と慈心鶏を獲て還り、さらに完息国と戦って九億の人を殺し、さすがにその罪深さをおそれた。
 群臣に殺された王は、馬鳴菩薩の憐みで、地獄に落ちるかわりに、大海の千頭魚となり、剣輪が身を回り頭を切られるという苦しみを受ける。
 この苦痛を逃れるすべは、「羅漢之打がん椎」(がん=牛偏に建)すなわち梵鐘をつき鳴らす音が長く続くことであった。
 かくして王は剣輪の苦から脱し、千頭魚から転生できたという。

 難解な文章であったが、以上のような大意はつかめた。
 そして、正覚院のおしどり伝説の「この入道常々殺生をすき好む」に始まる縁起によく似た印象をもった。
 この鐘銘も、また殺生を悔いる武勇の王の説話を引合いに、梵鐘の功徳を説いているのだ。

 おしどり伝説は、八千代市村上のほか、下総では富里町中沢と香取郡山田町で採録できた。
 そしてその三つの地点を結んだ中に大慈恩寺があることに気づく。

 全国のおしどり伝承地は、現在十数か所ほどで、そのうち千葉県が3、栃木県が2、福島県が5と、関東北部から東北南部に偏在している。
 忍性と同じ叡尊の直弟子の円定坊真源は信濃出身で、大慈恩寺から薬王寺(いわき市)に止住し、一方、妙性坊審海は下野の薬師寺から忍性の推薦で称名寺に招かれた。
 北総から福島県へ偏在するおしどり伝承地と、これらの僧たちの活動エリアとの関連はないのだろうか。

香取神宮への勅使だけが使う勅使門
 山門の前の静かな道は、かつて香取神宮に通ずる古くからの道「神宮街道」であった。
 この道にたたずみ、送迎の人々と挨拶を交わす僧たちの中に、三村山を往復する忍性や、はるばる陸奥へ旅立つ真源の姿が去来する。

 いつか私もこの僧たちの足取りを追って、あるいはおしどり伝説の伝承地を訪ねて、北へと旅したい気がしてきた。