2002.8.8 By.ゆみ

U 下総に律宗の痕跡を追って

2.動乱の千田荘東禅寺・学僧の消息

土橋山東禅寺入り口の六地蔵

 建武2年(1335)、下総千田荘の東禅寺で、湛睿は黙々と講義を続けていた。兵どもの怒号と悲鳴が山あいの寺院の静寂を切り裂く。

 4年前幕府とともに、称名寺の庇護者の金沢氏が滅亡。 その余燼の収まらぬ中、守護使が乱入して、縁ある者が捕らえられ、「道俗なお多く危うし」という状況が、東禅寺長老となった湛睿の周囲に及んでいた。

 その渦中であえて数ヶ月にわたる聖教の講義を必死に続ける学僧湛睿。
 とはいうももの、「世法仏法ことごとく廃滅する」「猥雑極まりない」世上と、前途多難の行く末に「悲しい哉」と、さすが深い嘆息をもらさざるをえなかった。
 そのじつに生々しい声が、講義した典籍の奥書にそのままに記され、そしていまも金沢文庫に残されている。
 戦禍の中でもさらに講義をし続けた学僧の姿を追い、千田荘土橋山東禅寺を探しに行った。

 1271年に生まれ、叡尊の孫弟子で東大寺戒壇院学頭にまでなった湛睿は、忍性最晩年のころ東国に下り、忍性ゆかりの極楽寺・称名寺で教え、さらに下総東禅寺から称名寺三世となり1346年まで生きた学僧であった。
 そして忍性が入滅し、北条氏も滅亡した後の困難な時代、金沢と往復しつつ下総に教学を広めた。

 千田荘は、千葉氏本流の基盤の地であり、千田の尼とよばれた千葉成胤の娘が北条時頼の後室だったり、また北条氏の女が千葉頼胤・胤宗などの妻であったりと、北条氏とは婚姻や所領支配を通じて関係が深く、またそれは称名寺の影響も大きかった所でもあった。

  翌建武3年も、「土橋城合戦」とよばれる新田方の千葉介貞胤と足利方の千田胤貞という従兄弟同士の争いの「両陣の中間」に、東禅寺はあったという。
  この「土橋城合戦・建武3年」説に対し、遠山成一氏は暦応2年(1339)千葉侍所竹元氏と千田荘中村氏の確執による動乱説を提起している。
 いずれにしても、北条氏なき南北朝時代、栗山川水運の要点でもある千田は、千葉介の家督と家臣団の利権をめぐる渦中にあった。

宝暦六年銘、「土橋山東禅寺」の標柱

 

正徳2年、村惣中により建てられた六面石幢

青梅の実が落果した天神社参道
 道は大和田から佐倉、成田を経由する「下総道」、現代の296号線に沿いつつ多古へと走る。
 迷路のような城下町・多古の市街を抜けると、車窓に田植えの終わった水田が広がっていく。
 その栗山川沿いの田園地帯を五月の風とともに通り抜け、やがて寺作の集落の中の道をいくと、坂の上り口に石標がたっていた。

 宝暦六年の銘、右に「ありあけにくまなきつきのてらさくや みたのじゃうどへわたすつちはし」のご詠歌が刻まれた「土橋山東禅寺」の標柱で、江戸時代はまだお参りする人もいたのだろう。

 坂を上ると、首を失った六地蔵が迎えてくれた。
 南に開けた台地に集会場風のささやかな無住のお堂があり、壁に「東禅寺」の額がかかっている。

 金沢文庫文書が語るような中世下総の文化最先端の寺院であった面影は、度重なる戦禍に見る影もなかったが、掃き清められた境内には、村人が江戸時代に建てた六面の石幢が優しく歴史を見守っていてくれていた。天神社の祠

 香取郡誌(明治33年刊)は「土橋山阿弥陀院と称し、往時七百五十坪あり。・・・寺伝にいう、天平三年唐鑑真の開基するところなりと。・・・」伝えている。

 鑑真開基伝承は叡尊の、行基開基は忍性の系譜をひく律宗系寺院が多いと、桃崎祐輔先生に教えていただいたことを思い出す。
 そういえば、大慈恩寺も鑑真の開基を伝えていたようだ。

 本堂のすぐ左手には、鳥居がある。梅の咲く季節は、さぞきれいなことであろう。
 今は、小さな青梅の実が道いっぱいに落果し、歩くと靴の裏でプッシュと鳴る参道の階段を上がると、天神社の祠があった。
 背後は畑のようで、この畑の中には宝篋印塔の残片も見られたそうである。


 暦応3年(1338)7月、称名寺三世に転任してまもなくの湛睿は、「東禅寺がまたも戦乱に巻き込まれた」という巡礼からの消息を「驚き入り仰天極まりない」思いで受け取る。
 大慈恩寺にあてた1ヵ月後の湛睿の書状では「平穏」にもどったとのことであったが、その後、千葉介胤貞猶子の中山法華経寺の日祐が日蓮宗を流布していくしたがい、下総での律宗は力を失っていったらしい。

「伝千葉氏一族の墓」という大きな五輪塔

宝篋印塔?残欠


 本堂の左手をさらに行った西側のちょっとした高台は、墓地になっており、現代墓の背後の崖沿いに「千葉氏一族の墓」と伝えられる大きな五輪塔が7基、宝篋印塔も適当に組み合わされてならんでいた。

 暦応3年の動乱から百二十年後、享徳4年(1455)古河公方足利成氏と上杉氏との勢力争いに、千葉氏も二流に分かれて戦う争乱の時代をむかえていた。
 馬加康胤が千葉城の千葉介胤直を襲い、胤直は敗走し、一族は宗家の本拠である多古城と島城にこもって敗北した。
 「鎌倉大草子」によれば、胤直など千葉本宗家一族はここ東禅寺で悲壮な最期をとげたとされ、東禅寺の墓地の五輪塔群が彼らの墓石であると語られている。

 東禅寺墓地より、土橋城址と栗山川沿いの水田を望む硬い安山岩ではないが、この五輪塔のかたちは、時代をもっとさかのぼりそうな気が私にはする。

 また川戸彰氏は『中世房総』10号で、『本土寺過去帳』の記載から、胤直は東禅寺ではなく、島城に隣接した日蓮宗の本覚山妙光寺で自害したと述べている。

 栗山川に向かって開けたこの寂しい台地は、千葉介本家一族の滅亡を語るにふさわしい風情ある地であるが、まだ律宗の盛んなころの僧たちやその帰依者の墓塔と考えることはできないのであろうか。

 またまた中世の不思議な謎に心奪われたまま、千田荘東禅寺を後にした。
 廃寺同様の姿であっても、学僧湛睿の依拠した寺院の面影を、この地に少しでも偲ぶことができたのはうれしかった。