2002.7.8 By.ゆみ

U 下総に律宗の痕跡を追って

1.古代寺院竜角寺の中世

竜角寺の春(1998年)
 常陸路から大和、そして鎌倉・六浦へ、忍性の足取りを、伝記(和島芳男著『叡尊・忍性』)でトレースしながら、下総へと戻ってきた。

 「忍性さん」と親しみを込めて語る竹林寺の中尾良藏さん、金沢文庫の斉藤彦司先生、極楽寺の方々。旅をしながら、多くの師に恵まれ、たくさんのことを教えていただいた。
 その「忍性さん」は、この下総にも足跡を残しているのだろうか。
 常陸路への通い路として足をとどめないことは考えられないが、今は真言律宗の寺院もなく、また伝記の年表に、下総の地名も寺院も見つけられない。

 千葉市の大日寺について『鎌倉大草子』のなかで、「鎌倉極楽寺の良観上人(=忍性)を請うて小金の馬橋と云う所に大日寺を建立して、頼朝公より代々の将軍、并に千葉一門の菩提を祈る、貞胤の時、此寺を千葉へ移す」というのが、かすかな手がかりだが、この記述もあくまで縁起伝説の霧の中にある。

 まずは、金沢文庫に眠る称名寺文書から見た下総を探してみようと、小笠原長和著『中世房総の政治と文化』を紐解き、称名寺学僧が交流を深めていた多くの寺院のうち、下総で律宗のセンター的な役割を果たしていた古刹を訪ねてみることにした。
 忍性と親しい律宗僧の名が、書簡や仏典の書写の記録に残る3つの寺院、埴生荘(はぶのしょう)の竜角寺、千田荘土橋東禅寺、そして前に書いた吉岡の大慈恩寺である。

民話の舞台・坂田が池 円光寺境内の多層塔 「子は清水」伝説の屋敷から坂田が池を望む


 白鳳仏を今に伝える古代寺院竜角寺と、印旛沼を望むその周辺は、古墳群など古代遺跡や民話の宝庫。その探訪に何度も通った楽しいエリアだが、この地にはたして中世前期の史跡を探し出せるのだろうか。

 埴生荘は建長3年(1251)金沢文庫創立の北条実時の所領で、後に弘安8年の霜月騒動に連座した二代顕時が7年余の間、配流された地であり、称名寺旧蔵の典籍には、竜角寺で書写した朗海・心慶などの学僧の名が残っている。

 4年前、桜の花の頃、八千代市郷土歴史研究会で下総松崎の駅から、民話の舞台・坂田が池のほとりの埴生山円光寺を訪ねた。
 一遍上人の像の立つこの時宗寺院の境内裏手には、鎌倉時代とおもわれる七層の石塔があった。 その背後の台地は上福田城の跡であるといわれている。
 延慶2年(1309)の紀年銘善光寺式阿弥陀三尊像があるとのことだが、律宗との関連はわからない。

 坂田が池に沿って坂道を上がり、伊藤家の屋敷におじゃまする。 斜面下には「親は古酒、子は清水」伝説の清水が今も湧いていた。

 このお宅の屋敷神を見せていただく。 なんとご神体はガラスケースに入った板碑、それも保存状態が良い「元弘三年」銘の武蔵式三尊板碑であった。

板碑を奉る屋敷神の祠 「元弘三年」銘の武蔵式三尊板碑

岩屋古墳の夏(2002年)
 岩屋古墳から「風土記の丘」を抜け、「白鳳の道」を行くとめざす竜角寺が見えてくる。寺院というより、村の鎮守の社のような懐かしいたたずまいである。

 中門の礎石に挟まれた参道を行き、ささやかな造りの本堂から、収蔵庫の銅造薬師如来像を拝観する。
 白鳳期の仏頭から下は元禄時代の補鋳で、耳に残る溶け傷に、災害に耐えた千三百年の歳月を思う。
  
 本堂の裏へ廻ってみる。金堂、講堂、塔などの礎石が残り、柱穴に溜まった水が決して増減しないと言い伝えられる塔の心礎は、1.5m×2m位の巨大な礎石で国の史跡だ。
 三重あるいは五重の塔がそびえるかつての伽籃配置は、奈良の法起寺と同じ本格的なものだったらしい。

 ここで目を上に向けると、巨大な石塔がずらっと並び、その壮観なことに気づく。そのほとんどは江戸時代の石塔で、中世の面影の石造物を見つけることはできなかった。

 ただただあまりにも長い寺の歴史を感ずるのみ、静かに桜の花びらの降りしきる境内であった。

 

竜角寺の中門の礎石と本堂 不増不滅」の水の溜まった塔心礎 江戸時代の石塔群




 今の夏、この原稿を書きながら撮影方々、もう一度竜角寺に中世の史跡を探しに行った。

 4年前「子は清水」の屋敷の伊藤氏からいただいた小冊子に「木曳坂」の伝承地があった。
 承久2年(1220)平常秀(9代千葉介胤政の6男)が、竜角寺の荒廃を嘆き、日光山より材木を切り出して印旛沼の津に上げ、修造に取りかかった際、その材木を引き上げた坂という。

 風土記の丘資料館の学芸員にその場所をお聞きし、道祖神と道標のある角を曲がって古道を行くと、印旛沼に下りる切通しのような急坂があった。
 JR成田線の線路のあたりに津があったのだろう。 この津から印旛沼を通じ保品・村上へ、また香取の海を通じて日光へも行路が続いていたのだろうか。
 

道祖神と「りうかくじ道」道標 印旛沼の津へ下りる「木曳坂」

木曳坂付近よりの印旛沼


 木曳坂伝承は、鎌倉時代の竜角寺復興の逸話を伝えてくれていたが、律宗はもとより金沢顕時の仮寓先も探せなかった。

 金沢文庫古文書に何度も出てくる古刹であるが、資料館の学芸員も「中世の史跡といわれても・・・」とおっしゃるばかりで、その実態は印旛沼にかかる霞のように漠としている。

 はたして下総の地に律宗の痕跡は見つけられるのだろうか。