2003.5.24 By.ゆみ

T 忍性がたどった中世の風景

13.仏岩に結縁した人々と信濃武石氏の足跡を追って


 「武石」という地名に、なじみ深い響きを感じるのは、たぶん遠距離からのわが家への往復の際、車で京葉道路の「武石インター」を利用するからかもしれない。

 東京湾埋立地に高層ビルの林立する幕張メッセ、そこから花見川という川が武石町を経て柏井へと達している。
 柏井から小さな分水嶺を越すと八千代市大和田町そして、村上へ。
 そこからは新川を経て、印旛沼、香取の海へと内海の世界が広がっていく。

 花見川の下流に位置する千葉市花見川区武石町は、昭和47年漁業権を放棄するまで漁村だったという。
 頼朝挙兵の後ろ盾になった千葉常胤の三男胤盛は、ここに居を構え、郷名をもって武石氏を称した。



千葉市武石インター脇の高い木立の中に武石神社がある 京葉道路7番出口の行先表示は「武石・八千代」

武石神社(千葉市)、月星紋が見える


三会寺真蔵院(千葉市)の「武石の板碑」

 インターチェンジのすぐ脇の高台の畑の中に木立があり、そこに「おたけさま」とよばれる小さな祠がある。
 祭神は武石胤盛、神紋は月星、武石氏が信仰していた武石神社であった。
 ここへ至る細い道はわかりづらく、ほとんど忘れ去られたような神社である。

 その台地の南側一帯は武石氏の居城であったと伝えられ、切り通しのような狭い道を下り、花見川沿いの辺道を行くと真言宗三会寺真蔵院がある。

 真蔵院の本尊は、胤盛の母親の菩提を弔うため祀ったという柳地蔵菩薩で、境内には秩父緑泥岩の「武石の板碑」がある。
 永仁2年(1294)、近くの愛宕山に建立された七枚の武蔵式板碑の一つで、宝暦3年(1753)開墾に伴ってここに移された。
 高さは3.31m、大きな阿弥陀の種子と、光明真言種子24字が格調高く彫ってある。
 時代的には、胤盛の曾孫にあたる武石宗胤が胤盛の母親のために建立したと推測されている。

 また胤盛の守り本尊の小さな不動尊を祭ったという浪切不動堂の裏には、胤盛と天女との羽衣伝説の碑もあり、「たけしさま」は数多くの伝承の中に息づいていた。

 さて元箱根宝篋印塔の永仁四年(1296年)造立に結縁した「武石四郎左衛門尉宗胤」「及月光源氏女」「源宗経」と、応長元年(1311)の仏岩宝篋印塔の銘「肥前太守」「息女并日光峯宮」「近江禪閤」が誰を指すのかというのが、このページのテーマであった。(→拓本)

 武石郷を伝領した胤盛は、元暦元年(1184)には父常胤とともに木曽義仲追討で功をあげ、『吾妻鏡』では、建久2年(1191) 正月1日千葉介常胤のおう飯(=饗応)にその名が記されて、その後建保3年(1215)6月70歳で亡くなったとされる。

 丸井敬司著『上総下総千葉一族』によれば、その嫡子胤重は嘉禄3年(1227)松島寺の鐘銘にその名を記し、胤義(広胤)と胤氏の2人の息子があったという。
 胤義の跡は朝胤を経て長胤が継ぎ、下総武石氏の祖となった。
 文応元年(1260)吾妻鏡に長胤は、「武石四郎左衛門尉長胤」として奉公している。

 武石胤氏(四郎左衛門尉)は、千葉介胤綱の娘を妻とし、建長4年(1252)将軍宣下の拝賀で「武石四郎胤氏」との記載がある。
 宗胤はその胤氏の子で、曽祖父・胤盛が賜った奥州三郡に下り、亘理氏の祖となった人である。
 『伊達世臣家譜』では「胤氏子従五位下肥前守初称弥太郎・又左衛門尉宗胤・・・」とあり、また徳治2年(1307)の「円覚寺大斎結番注文」にみられる「日理(亘理)四郎左衛門尉」も宗胤と、推定されるという。

 以上の資料から、元箱根の宝篋印塔の「武石四郎左衛門尉宗胤」の宗胤は、仏岩宝篋印塔の銘の「肥前太守」であったといってもよいだろう。宗胤、1314年に63歳で亡くなる3年前のことである。

 ところで、千葉氏一門は、宇多源氏の血を引く近江の佐々木氏と婚姻関係を重ねてきた。
 「千葉氏の一族」のHPによれば、宗胤の妻もまた、佐々木(源)氏綱の娘で、佐々木道誉の大叔母にあたる女性であったという。
 そしてその兄弟に、箱根の塔の銘の「源宗経」とみられる佐々木(源)宗綱がいる。
 「近江禪閤」とは、近江に基盤を持つ宗胤の妻方の実力者にほかならず、仏岩の宝篋印塔に結縁した人々はまた、元箱根の塔を建立した武石宗胤の近親であり、1303年に入滅した忍性上人に深く帰依していた人々であったにちがいない。

 ではなぜ、宗胤が下総からも、亘理からも離れた信州にこの塔を建てたのであろう。
 実は、「千葉氏の一族」と「習志野市」のHPに、長野県小県郡武石村についての短い紹介記事を見つけた。
 長野の武石村には、「妙見寺」という名の寺や、「武石平胤盛」銘の石柱があるというのだ。
 この武石村というところには、美ヶ原へハイキングに行った際、通った覚えがあったが、それが武石氏に関係するとは想像もしていなかった。

 「妙見」とは千葉氏の守り神である。
 平良文の母が子を授けてくれるよう日・月・星の三辰に祈ったところ、妙見と名乗る童子が現われ、月星を紋にするよう示現し、そのとき懐胎して生まれたのが、良文であったという。
 またこの妙見は、将門と良文が、同属の国香と合戦した祭、群馬県の花園村染谷川に現れ、窮地に陥った良文を救ったと「千葉妙見縁起」は説く。
 千葉氏と妙見信仰の結びつきは強く、千葉県内では妙見社などの分布を手がかりに千葉氏の足跡をたどることも可能だ。

 武石氏は信州にも足跡を残していたのだろうか、信州への旅では武石村にも行ってみよう。そう思って私は「千葉氏の一族」のHPのプリントをリックの中に入れた。


ともしび博物館(長野県)より武石村を望む

武石山妙見寺本堂

地蔵石像

妙見堂

屋根の棟の月星紋

 上田から千曲川を渡って五月晴れの塩田平から美ケ原高原方面へと走り、武石村を訪ねた。
 山からの澄んだ水が田を潤す明るく静かな村であった。

 下武石の妙見寺を探し訪ねる。入り口で中世風な丸みを帯びた石の地蔵像が迎えてくれる。
 この寺院ははガイドブックでも観光案内でも知られていないが、「なで薬師」の中部薬師第五番霊場としても人気が高く、バスでお遍路する巡礼の般若心経の声が新緑の境内に響いていた。
 また「鳴龍山妙見寺」の山名のごとく、本堂の天井の鳴龍は有名で、十畳分くらいの大きな龍の絵の下で手をたたくと龍の鳴き声を聞くことができる。

 妙見様の像などがお祀りされていないかお聞きすると、外に祠があるという。
 たしかに「妙見大菩薩」の看板に比べ小さなお堂が駐車場の片隅にあり、また、振り向くと本堂と庫裏の屋根には、燦然と月星の紋所が輝いていた。

 寺でいただいた由緒書きでは「嶽石三郎平胤盛が文治元年(1185)この村の鳥屋に一宇を建て、大日如来と妙見菩薩を安置した」のがこの寺の始めだという。
 そして正応と応仁のころ、2回の移転をして現在に至っているとのこと。

 また『武石村誌』によれば、村内の大宮諏訪神社の棟札の表にも、願文に続けて「郷主 嶽石三郎平胤盛一族安穏」、裏には「元暦元庚申年(1184) 朽ちたるにより改」と記されているという。
 1184年とは、木曽義仲が近江で敗死した年、そしてその翌年は平家が滅亡する。

 義仲は、武石村のすぐ下流の依田城(→岩谷堂のあるところ)に拠って平家追討の軍を上げたというから、義仲平定後、鎌倉幕府は塩田平から武石の一帯を軍事・政治・交通上の最重要地域としていたに違いない。

 1186年、頼朝は最も信用する惟宗忠久(後の島津氏)を塩田庄の地頭として入れ、信濃の各地にも有力御家人を配した。
 武石氏もやはりそのころこの武石郷に入部したのか、それとも義仲と平家滅亡の年をメルクマールに伝承が記憶されてきただけなのかはわからないが、ここの里人は「嶽石三郎平胤盛」をかすかに覚えていたのだ。


 妙見寺で小沢根の子壇嶺神社への道をお聞きし、境内にある武石胤盛の名が刻まれたという石塔を探しに行く。

 本殿より一段低い平場に、笹焼明神の祠がある。
 その祠の裏に、注連縄が張られ月星紋が陽刻された円筒型の石塔があった。
 銘は「武石平胤盛」、「武」の字は「文」の下に「止」の異体字で、その石の古さや字からかなり古いものであろう。
 よく見ると笹焼明神社の蟇股に彫りだされた3つの神紋のうちひとつは、月星紋であった。


武石村の子壇嶺(こまゆみね)神社

笹焼明神社と石塔
 

 この笹焼明神とはいったいなんだろうか。

 前日の5月2日に県立歴史館の近代のコーナーを訪れた時、昔の小学校の黒板に旧暦のその日の出来事にちなんだ事柄がチョークで書かれてあった。

「武石平胤盛」銘石塔

笹焼明神社蟇股の月星紋

 「旧暦卯月二日 笹焼大明神祭 この村を開いたという神の祭りです。笹におおわれた大地を焼きはらったことや笹ハ木の字を使っていたことなどが笹焼に関わりがあると考えられます」
 「この村を開いたという神の祭り」とは、まだ郷の名前もなかったころ入植してこの村を作った祖先を顕彰する祭りであろう。
 とするとその祖先とは、やはり武石平胤盛その人ではないか。
 なぜなら、所領を得てその地名を氏とするのが一般的な武士の中で、逆に氏の名をもって地名とする場合は、そこがまだ名のない郷村であることが前提となる。
 その草分けの地にその名を残していったのが、武石胤盛であると確信した。

 頼朝が重要視した塩田の地は、その後北条氏もまた深く関わり、常楽寺・安楽寺・長楽寺・前山寺などの寺院が建てられて「信州の学海」と呼ばれ、文化の中心でもあった。
 金沢称名寺の律宗僧も行き交い、正応5年(1292)常楽寺において「十不二門心解」という経を写していることが明らかになっている。

 仏岩造塔の22年後の1333年、元弘の変で千葉氏は北条得宗家に味方して足利尊氏を攻めたが北条政権は滅亡し、その後の南北朝のころも南朝に味方して、またも足利氏と対立した。
 そして千葉氏本家と行動をともにした武石氏の当主高広は、暦応元年(1338)阿倍野で足利方の高師泰と戦い、北畠顕家らと討死した。
 足利政権下で、もはや信濃武石郷の領国支配は困難だったのであろう。そのころこの地に、武田流大井氏が入部したと、『武石村誌』は分析している。

 忘れ去られた過去の歴史はいくらでもあると、この『武石村誌』の著者は述べている。
 そういえば、丸子町の水田に残された大きな「竹の花五輪塔」、あるいは霊泉寺温泉の五輪塔や阿弥陀像などの謎。

 政情がめまぐるしく変わる戦いの世、そして長い年月に、数々の里の歴史が失われてきた。
 仏岩の塔に結縁した人々と共に法要を営んだ僧達の名もまた、風化して消えてしまっている。
 それらが、地道な郷土史の掘り起こしとネットワークを生かした研究によって、失われた歴史の中から再び見えてくることを期待したい。