2003.5.16 By.ゆみ

T 忍性がたどった中世の風景

12.信濃大門街道・仏岩石塔の謎


ヒトリシズカ

イカリソウ

 2003年5月信州に旅した。
 旧中仙道の長久保(長窪)宿を過ぎて、道は大門川沿いの山間を走る。
 大屋からの千曲川を渡った大門街道(国道152号線)、道標の行き先は「白樺湖・茅野」。

 大門峠にさしかかると、やがて左手にそそり立つ岩峰群の稜線が見えてきた。
 「仏岩」バス停に車を置き、登山道を登る。
 気持ちのよい林間の道、足元には白いヒトリシズカ、ピンクのイカリソウなどの高山植物が咲いている。

 森の中の山道を過ぎ、東屋で汗をぬぐうと、アカマツの巨木、そしてそこからは岩場の道となる。
 鎖場を慎重に登りきると、眼前に垂直に切り立った岩峰がそびえている。鉄梯子があるものの、さすがに足がすくむ。
 めざす宝篋印塔は、さらに塔のごとき岩の上にあった。

 

仏岩に登る


仏岩宝篋印塔

長野県最古の紀年銘のある県宝、地元長門町でも謎の石塔とされている「応長元年(1311)」銘の宝篋印塔である。

 85cmほどのこの石塔は、厳重な鉄の格子の中に納まっていた。
 一坪ほどの広さのこの岩頭にあがってみると、目のくらむような高度感で、塔を観察するにも、写真を撮るにもこの無骨な柵につかまりながらやっとであった。

 本当に、誰がこんなところに、と思うのも無理はない。
 見渡すと、蓼科山、八子ヶ峰、車山などの山々、そして眼下を大門街道が南北に走っている。

 この宝篋印塔は、江戸時代、岩茸取りに行った人によって偶然発見されたという。
 文政10年(1827)の『羽毛田日記』によれば、「高きこと数丈の巌石があって、鳥でなくては行けないようなところ」であるが、「言い伝えなど全くなく」「はしごでようやく登り調べた、苔深くはっきりしないので、矢立の墨で紙に摺り写したがわからない」などの発見時の記録があり、村をあげての大ニュースであったという。

 以来この塔は天保5年(1834)の『信濃奇勝録巻三』にも「いかなる工をもてかかる所に立てけん」と紹介されるほど有名になり、大正14年(1925)には調査報告書も書かれ、その銘文は『信濃史料第4巻』にも紹介されている。

 仏岩登山道入り口には、県教育委員会の説明板に銘文と解説などが提示され、「全体の造りは関西系統に近いが、基礎や塔身に輪郭をつけているのは関東風で、笠の四辺が上で開いているのは珍しい形式という。
 記されている『肥前太守』『息女并日光峯宮』『近江禪閤』が誰を指すのかは不明」という。
 大正年間の写真ではあったはずの相輪は失われて、現在、笠までの高さは85cm、塔身四面に四仏種子が刻まれている。

 目を引くのは「宝篋印陀羅尼」の梵字が、笠の軒・基礎の四面に深くくっきりと刻まれていることであった。
 欠いている隅飾(馬耳)は、後に炭焼きの人が仏岩の下で一個だけ発見し、それを補うと「宝篋印陀羅尼」の全文が復元できたとのことである。

 江戸時代以来、多くの人が「なぜ、誰が」という謎にいどんだ宝篋印塔。はたして謎は解けるのだろうか。
 時期は鎌倉末期、場所は峠道、塔に施された宝篋印陀羅尼の彫刻、そしてその全体のプロポーション、どこかで見たような塔そして風景ではないか、そう思いをめぐらしつつ、慎重に梯子を降り、下山した。


 実は私がこの塔のことを知ったのは、仏岩温泉の別荘地でペンションを経営されておられる山岳愛好家の方のHP『仏岩逍遥』で、仏岩稜線の踏破ルートと、参考に元箱根の宝篋印塔を紹介されていた。

 1300年に忍性が供養導師をつとめたとの追銘のある元箱根の宝篋印塔は、「9.箱根路の地蔵霊場・峠の石仏石塔群」で簡単に触れたが、実はよく観察すると、随求陀羅尼の梵文が刻まれている。
 塔身には1面に釈迦坐像を浮彫りにし、3面に種子、高さは254cm(相輪後補)と仏岩の塔の倍以上に大きいが、そこに込められた内容とその立地には共通するものが多いように思える。

 元箱根は東海道の最も厳しい峠道で、衆生の迷いを救済するためにこそ、そこに塔が造立されたと「9.箱根路の…」で述べたが、大門街道のこの峠道も同様な道であった。
 古代官道の「七道」のうち「東山道」は、近江の国府を起点とし、美濃、信濃、上野、下野を経て、陸奥、出羽に至る。その原初の道は「東(あづま)の山の道」とも呼ばれ、現在の長門町に接するように通っていたというのだ。
 中仙道の脇往還として主役の座を譲っていくのは近世からであって、中世はこの道を鎌倉武士が、また遊行聖や勧進僧が、あるいは善光寺への巡礼たちが通り、戦国時代には武田信玄の軍が信濃へ進出して行った。


大門街道から見た仏岩

仏岩頂上から大門峠を望む


 そそり立つ仏岩の岩稜は、天然の造詣とはいえ巨大なモンスターにも、また仏像群にも見え、温泉の湧く火山帯の荒涼たる風景は、元箱根の地獄谷と同様に旅人に恐怖をいだかせたに相違ない。

元箱根の宝篋印塔


仏岩宝篋印塔

 峠を越える人々を慰め励まし、旅に倒れた者の魂を救うため、極めて困難な場所であっても峠道から仰ぎ見られるこの場所にこそ、この塔は立てられたのだと思う。

 現在設置されている鉄梯子を使っても、この高さの絶壁に重い石材を上げるのはかなり困難なことで、中世ではもっと大変なことだったに違いない。
 多少小ぶりでも、「宝篋印陀羅尼」の全文を彫るという丁寧な細工は、元箱根のそれに比して、勝るとも劣らない深い信仰心を表していると実感した。

 さて、「ではだれが」という謎が残った。
 梵字に比べ、ささやかに彫られた造立の意図と壇越の銘は風化が著しく、平成元年発行の『新編長門町誌』でも推定しあぐねている。
 その鍵は、実は元箱根宝篋印塔の結縁衆の中に見出すことができるのではないかと思う。
 その名は、「武石四郎左衛門尉宗胤」そして「及月光源氏女」「源宗経」。(銘文)

 武石氏は、頼朝の旗揚げを支え、鎌倉幕府の基礎を作った千葉常胤の三男・胤盛が、下総国千葉郡武石郷を領して武石を名乗ったのが始まりの名族である。
 実は、その武石氏にちなむ地名が信濃にあったのだ。
 大門川を下ると、長久保宿を過ぎて依田川と合流し、さらに下流で武石川と合流する。武石村は、その川沿いに広がる村である。
 中世には大井氏が治めていた村といわれてきたが、最近の研究で、その村の名にゆかりの武石氏の残したいくつかの痕跡を見つけられることが報告されている。


 元箱根の石造物を手がかりに、信州にもその足跡を残したかもしれない忍性―武石氏―近江佐々木氏の関連を追うことが可能であろうか。
 武石氏というキーワードは、信州と下総という一見無縁に思えた私のフィールドワークを今まさにつなごうとしている。
 次回は、信州と下総に残した武石氏のその足跡を追ってみたい。