2003.2.5 By.ゆみ

T 忍性がたどった中世の風景

11.藤枝宿の鬼岩寺と富士を望む古墳群

 
 東海道の藤枝宿には、さまざまな伝承に彩られた「鬼岩寺」という不思議な名の古刹があるという。
 その伝承のひとつ、忍性が開基し二重の塔を建てたというかすかな消息と、金沢文庫でいただいた西岡芳文先生のレジュメをたよりに、冬晴れの駿河路を西へと走った。
 箱根の宿を出て、乙女峠から突然見えた雄大な富士の姿が、今日は疾走する東名高速道を、後ろからどこまでも追いかけてくる。
 焼津インターから宿場の趣が残る藤枝のにぎやかな街並みを通って、ふっと横道に入った突き当たり、こんもりとした山の裾にその鬼岩寺があった。

 梵字の真言の刻まれた石碑が両脇にある門から、入ってみよう。
 行基による開創、そして忍性伝承を持つ不思議な名の寺にそれなりの雰囲気を求めて来たのだが、永禄13年(1569)武田軍の兵火、そして大正4年(1915)の火災により伽藍・寺宝を消失し、重厚な趣は薄く、意外と広々と明るい境内であった。

 ここの名物は藤枝の民話に登場する「鬼かき石」。
 昔この地区に住んで住民に悪さをしていた鬼を、弘法大師が通りかかって穴に閉じ込めて成敗した。
 その鬼が爪を砥いだという石だが、一説では玉を研いだ石であるとも言う。



鬼かき石

不動堂

 境内はきれいに整備されていて、正面には、天台宗三井寺開山の円珍が刻んだという「池旱(いけほす)不動」を奉る不動堂がある。
 この不動明王は左目で天を、右目で地を見つめる天台系の不動明王像とのことであった。
 「池旱不動」という名の由来も、平安末期、大蛇退散により低湿地を田畑に変えていった故事にちなむ。
 このお不動さんは永禄13年の兵火で行方知れずになったが、六十年後住職の夢のお告げにより帰山したという因縁話もあっておもしろい。
 不動堂の右にある行基作と伝えられ、天和2年(1616)時の田中城主による再興という秘仏の聖観音像を奉る観音堂(本堂)は、まだ新しかった。

 しかしこの寺院のなんといっても、中世の俤を残すのは、門を入って左側のおびただしい石塔群であった。
 墓地整備の際に出土した260基あまりの五輪塔、そして15基の宝篋印塔群である。
 そしてこれ以上にまだ地中に埋まったままのものがあるという。


集められた五輪塔群

宝篋印塔群

 ここへ来ようと思ったきっかけは、昨年11月にこのHPの掲示板へ寄せられた桃崎先生からの情報であった。
 鬼岩寺を調べていた桃崎先生は、「鎌倉学フォーラム」で金沢文庫の西岡先生から「金沢文庫に忍性が永仁年間に鬼岩寺長老のために書いた供養表白がある」と聞いて、「これまで伝承だと思われていた鬼岩寺と忍性の関係が史実であったことを知ることができた」とのこと。
 さっそく金沢文庫に赴いていただいた西岡先生のレジュメには、忍性が書いたという「為駿州鬼岩開山照音聖人七回摺写律部表白」が載っていた。
 「元応二年(1320)七回忌」ということは「照音聖人」の亡くなったのは1314年、文中「永仁ノ春」(1293〜1299)にこの寺は開山され、延慶秋(1308〜1311)に帰山したらしい。
 難解な文章で私の理解を超えていたが、確かに忍性の愛弟子の照音上人によって中世鬼岩寺は開山されたのだ。


応安6年と「地蔵講結衆本願塔」の銘の五輪塔

永徳元年、矢部隼人銘の宝篋印塔

 お寺の由緒書きなどがないかと思い、庫裏にご住職を訪ねた。
 金沢文庫でいただいた西岡先生のレジュメにたいへん興味を持たれてコピーをされ、また率先して地蔵堂脇の五輪塔と宝篋印塔に案内してくださった。
 なんとこの五輪塔には、応安6年(1373)の銘と「地蔵講結衆本願塔」の銘が刻まれていて、先日いらした先生(もしかしたら桃崎先生?)に、台座に納骨用の穴が穿たれた西大寺様式の納骨五輪塔ではないかと指摘されたと、お話になられた。
 お堂の左側の宝篋印塔も関西形式で、永徳元年(1381)の銘、そして「矢部隼人」の名が刻まれてあった。
 矢部氏は今川氏の重臣であり、14世紀の鬼岩寺は今川氏の庇護の下にあったことが推測されるという。
 お話をもう少しお聞きしたかったが、檀家の方が次々年末のご挨拶に訪ねていらしたので、早々に失礼し、墓地から裏山に登ってみることにした。



 竹林と茶畑が垣間見える山道を行くと、急に視野が開けた。
 静岡県指定史跡の若王子(にゃくおうじ)古墳群で、きれいに復元して公園化され、眼下に広がる大井川と志太平野、そして東のかなたの高草山の向こうにすばらしい富士の姿が見えた。

 若王子古墳群は5世紀代中心の木棺直葬墳、6世紀中頃以降の横穴式石室墳など28墓からなる古墳群。
 12号墳出土の車輪石(石製の腕輪)は、卵形をしたものの出土地としては最も東に位置するとの説明板があった。
 しかもこの12号墳と19号墳について、藤枝市郷土博物館の磯部武男氏が「船形木棺」と解釈され、『埴輪と絵画の古代学』(白水社)等でそれを紹介した辰巳和弘氏も「舟葬」を意味する墳墓であると述べておられるのに興味を持った。
 出土した資料は藤枝市郷土博物館に展示・保管されていると、書かれていたが、残念ながら年末休館で磯部武男氏にもお会いできなかった。

 そしてこの公園にはもうひとつ、「富士見平のいわれ」という解説板が掲げられていた。
 永享4年(1432)室町幕府六代将軍足利義政は鎌倉公方方の様子を探るため、富士見見物をいう名目で駿河にやってきて鬼岩寺に一泊し、ここから富士山を眺めたというのである。
 その後の文明5年(1473)、歌人釈正広もここを訪れて「富士はなお上にぞ見ゆる藤枝や 高草山の峰の白雲」と詠んだという。
 まさに富士鑑賞の歌枕の地として、中世定着した景勝地であったのだ。


 旅から帰ってから桃崎先生のお勧めにより、磯部武男氏の書かれた「志太地域における初期仏教の様相」という論文を博物館から取り寄せた。

 そこには、古代、東海道が直角に曲がる角に位置する鬼岩寺が、旅人の布施屋(宿泊施設)と、街道の魔魅降伏の機能を併せ持ち、その後一時衰退するが、平安末期には密教寺院として再興され、そして中世、北条氏の影響下で真言律宗に転じ、南北朝時代は今川氏の保護のもと、三昧所(葬地)としての性格を併せ持つようになったと、解き明かされてあった。
 そして鬼岩寺の末寺の葉梨の長慶寺には、鬼岩寺より古い大型の五輪塔があるという。


 忍性は旅の人であった。
 そして東海道を上下する度、ここで弟子たちと語らいながら時には丘に登って富士を仰ぎ、南都と関東とのはるかな道のりを思ったに違いない。
 そう思いつつ、いつか藤枝市郷土博物館と葉梨の長慶寺を訪ねてみたいと思った。