2003.1.14 By.ゆみ
T 忍性がたどった中世の風景
10.沼津・霊山寺の五輪塔と香貫山を訪ねて
箱根への旅のついでに、東海道に忍性の足取りを追いつつ、陽光あふれる里山からの富士山を見たくて、その先の駿河まで足を延ばしてみた。
旧東海道を沼津警察署の角で曲がり、狩野川を黒瀬橋で渡ると、平和慰霊塔(五重の塔)のあるこんもりとした山が間近に迫ってくる。
その山裾に曹洞宗の古刹霊山寺があった。
背後の山は高さ193mの香貫山、ここから富士山と駿河湾を展望するハイキングコース「沼津アルプス」の尾根が延びている。
「薫酒山門入不許」の碑の立つ霊山寺の門を入ると、常緑樹の青々と茂る境内に本堂と鐘楼が建っている。
貞治3年(1364)銘のこの梵鐘は磐田市の蓮光寺に奉納され、後に追加された銘文によれば岡崎の法蔵寺、1505年に浜松の普済寺を経て、いつのころかこの寺に来た。
昔は真言宗の寺院であったが、延享5年(1748)の火災で寺記をことごとく焼失したため、創建の年代などは不詳。
伝説によれば、昔この辺が伊豆国であった時、天平の詔によって創立されたものという。
曹洞宗に改宗したのは弘治3年(1557)、伊豆国北条村の真珠院の住職機外永宜和尚による。
年の暮れ近い暖かな日和に、墓参りでにぎわう墓地へ向う。
墓地には、内膳堀を造った植田内膳の墓もあり、たくさんの墓石の間に、今回の旅の目的の巨大五輪塔がそびえていた。
3基並んだ中の中央の大きな五輪塔は、昭和31年の調査の結果、塔下より青銅製の蔵骨器が出土し、そこには「成真大徳 元享三年(1323)」の銘があった。
長く平重盛の墓と伝えられてきたが、まさしく叡尊の弟子の律僧、宗賢房成真の開山塔である。
凝灰岩の岩肌は年を重ねて風化し、その高さは244m。空風輪を元の大きさに復元するとちょうど9尺(272m)で、三村山の9尺1寸の頼玄塔に次ぐ高さである。(「西大寺と律宗諸寺院の巨大五輪塔」図参照)
「成真大徳 元享三年(1323)」銘の五輪塔 |
正和三年銘の変形宝筺印塔 |
変形宝筺印塔2基 |
このほか墓地には変形宝筺印塔が4基あり、そのうちの2基には嘉元2年(1304)、正和3年(1314)の年号が刻まれている。
宝筺印塔なのに、相輪が五輪塔の空風輪、塔身が丸い水輪となっていて、説明板によれば、五輪塔との混合形式の変形宝筺印塔とのこと。
また正和紀年銘の石塔の水輪の四面には、宝筺印塔にみられる四方仏が刻まれている。
箱根にある五輪塔や宝篋印塔を思い浮かべ、どちらもまだ典型的な形式が定まらないころの東国石塔の特徴であろうかと興味をもった。
香貫山頂への山道 |
巖窟があった |
眼下に狩野川が見えてくる |
墓地左側のせりだした尾根の先の岩場に、庚申塔や「たまよけ地蔵」などの石造物がある。
そこから山道が巻いているので登っていくと、注連縄のかかった窟があり、さらに山道が上へと続いている。どうやら香貫山頂へ直登する道らしい。
汗をぬぐいながら登ってきた後ろをふり返ると、沼津の街と蛇行する狩野川、そして駿河湾が次々と眼下に広がっていき、やがて芝住展望台に着いた。
ここで愛鷹山の上に冬晴れの富士を観望するつもりであったが、春のような陽気で雲が多く富士山を拝めなかった。(ウーム、残念!)
展望台から植田内膳顕頌碑や牧水の歌碑、平和塔などのある香陵台に下って、霊山寺に戻り、その参道にあるという伝承の「糟地蔵」を探しにいった。
「香貫の村の、地蔵に信仰厚い孝行娘が、急な病で亡くなった両親の追善供養代を工面するため借金して酒を造ったが、叔母の見舞いの帰途、雨で狩野川が舟止めとなり幾日も帰れなくなった。
酒造りが失敗したと嘆いていたが、雨が止んで帰ってみると誰かがお酒をしぼって売り、お金まで集められていて、不思議に思うと信仰する地蔵様が酒かすでいっぱいだった」という中世からの身代わり地蔵伝承は、この湊町のなりわいと交通事情を反映していておもしろい。
参道沿いの墓地のあたりと教えてもらったが、そこは、ただの広い空き地で手かがりがなく、市民文化センター脇を流れる内膳堀と交わる角で他の石仏の首で補った石の地蔵の写真を撮ってきた。そのふくよかな彫がなんとなく中世的な感じがしたからだ。
帰ってから調べると、この石の地蔵は糟地蔵ではなく、霊山寺塔頭の光明院にあった糟地蔵は一年前この寺とともに移転していたことがわかった。
小さな墓地の残されたあの広い空き地が光明院の跡地だったらしい。
駿河湾を望む |
香陵台の沼津市平和塔 |
路傍の地蔵残欠 |
鎌倉時代、『吾妻鏡』に天城からの材木を「海」に流したとして、沼津の名が始めて登場する。
箱根路と足柄路の分岐点となる交通の要衝の沼津は、中世から狩野川河口の港町として存在したようだ。
そして『東関紀行』の作者や『十六夜日記』の阿仏尼など、旧東海道を多くの人が旅しここを通り過ぎて行った。
叡尊が弘長2年(1262)2月2日、大和を出発し初めて鎌倉に下った時の記録として『関東往還記』がある。
ここには、2月20日前後に駿河に入り、22日雨の宇津峠を越え、夜には安倍川のほとりの手越宿で太子講をおこい、23日清見関で儲茶、神原泊。24日富士川を越え、浮嶋原を過ぎ、原中宿泊。25日に伊豆国府で昼食、三島権現に続き、相模の箱根神社に参詣し、そして27日夜、出発してから24日目に鎌倉に到着したことが書かれている。
残念ながら沼津の地名は出てこないが、叡尊は、道中、宿場々々で多くの人びとを結縁、教化し、茶の普及に努め、また駿河の暴れ川の実態を把握し、旅して行ったのであろう。
その駿河での足跡に、西大寺流律宗の寺院が成立したとしてもおかしくない。
そして茶の栽培や河川改修、港湾の整備が、後に極楽寺の忍性たちの手で行われる先鞭をつけて、叡尊は通り過ぎていったとも思える。
霊山寺の巨大な五輪塔は、沼津の津を経営し、東海道沿いの教化に活躍したであろう「成真」という叡尊の弟子僧の存在を、今に教えてくれた。
いずれその名を文献資料に見てみたいと思っていたところ、『西大寺叡尊上人遷化之記』にその名があったことがわかった。
正応3年(1290)叡尊入滅翌日の記事にこうある。
「亡くなった翌26日、飛脚をもってこのことを関東極楽寺良観(=忍性)上人のところに告げしらせた。悲嘆限りなく、事をつくす間もなく、同法の(宗賢房)成真を差しのぼらせ、また仏事に必要なものを送った。」
さらにこの悲報を受けとった東国の弟子達の名が続く。「常州清涼寺長老頼玄、総州願成寺長老栄真、相州浄福寺慈照、駿州霊山寺成真などが面々懇志を示した。…」
駿州霊山寺の成真は、南都に最も近いところにいたことから、悲報を受けた忍性ら東国の兄弟弟子たちより仏事の志などを託されて、東海道をひたすら急ぎ上って師の葬儀に馳せつけた僧であった。
その成真の墓塔は、今、桃崎祐輔氏が作図した「西大寺と律宗諸寺院の巨大五輪塔」図 の中に、師叡尊を頂点として、忍性-忍公-覚賢-頼玄と並ぶ位置にその存在を示している。