2003.1.3 By.ゆみ

T 忍性がたどった中世の風景

9.箱根路の地蔵霊場・峠の石仏石塔群

 冬枯れの箱根路を走り、山間の池のほとりに車を止めた。
 冷気がピリッと頬に痛い。
 凍てついた池には氷紋がつづれ織りのようにひろがり、国道を疾走する車を無視すると、そこには弱い冬の夕日の中に、静まりかえった不思議な宗教的な空間がある。
 それは、かつてたどったさいはての地、下北半島の恐山に似た光景であった。

 場所は、芦之湯の上の「元箱根石仏・石塔群」、駒ケ岳と二上山の間を通る国道1号線沿いの精進池のほとりである。
 ここは、中世にさかのぼる街道、「湯坂道」の最も険しい峠にあたり、厳しい気候と火山性の荒涼とした景観から地獄の地として知られ、そのほとりの賽の河原はまた地蔵信仰の霊場でもあったという。
 
 バス停の「六道地蔵」に車を置き、遊歩道を歩く。
 平成10年4月に学術調査と保存整備が完了し、今は国道をくぐる地下道も完備されて、鎌倉期の石造物を安全に鑑賞できる。
 その地下道をくぐって西側、すぐに「二十五菩薩」と俗称される磨崖仏が迎えてくれた。
 阿弥陀像が一体と供養菩薩像一体が混じっているが、その他はすべて地蔵像。
 岩肌を埋め尽くすあまたの優美なお地蔵様が、逆光気味の弱々しい冬の夕日に照らされて、道行く者を見守るようにたたずんでいる。
 永仁元年(1293)から造られ始めた磨崖仏は、東側に3体、西側に23体と国道が無残に分断しているものの、平成5年度の発掘調査で崖状の地形が出現して鎌倉時代は仏像を仰ぎ見るものであったことがわかり、今はその景観がよみがえっていた。


 少し行くと、見上げるほど大きくりっぱな宝篋印塔が立っている。
 多田満仲の墓と言われてきたが、銘文によれば大蔵安氏という大工が製作して結縁衆十数名が永仁4年(1296)に造立、正安2年(1300)忍性が供養の導師を勤めている。

 金沢文庫の斉藤彦司先生によれば、関東形式の宝篋印塔はこれがルーツであるという。
 金沢文庫特別展「称名寺の石塔」では、忍性が導師を勤め、審海が願主、そして「大工大蔵康氏」の名が記された「堂建立書」が展示されてあった。
 正応4年(1291)の称名寺三重塔建立にかかわる文書である。

 去年3月に訪ねた大和の額安寺明星池の宝篋印塔には文応元年(1260)、石工の「大蔵安清」の銘があるという。
 般若寺の十三重塔を建てた宋の石工伊行末の流れをくむ「大蔵派」は、西大寺律宗教団とともに、固い安山岩を加工した石造物を各地に残し、また堂宇の建立にもかかわっていたのだ。

 13世紀後半、般若寺十三重塔→額安寺宝篋印塔→称名寺三重塔→箱根宝篋印塔とたどることのできる大工大蔵派と忍性の足取りは、中世前期に芽生えた仏教信仰にかかわる石造物派生の系譜をしっかりと語りかけてくるように思えた。


応長元年(1311) の銘の「火焚地蔵」 俗称「八百比丘尼の墓」・観応元年(1350)の宝篋印塔の残欠

 精進池の縁には 大小3体の地蔵仏が刻まれた「火焚地蔵」とよばれてきた磨崖仏あった。
 火焚地蔵とはこの前で送り火を焚いて霊を山へ送る「浜下り」を行っていたことに由来するという。
 大きな地蔵仏の横には応長元年(1311) の銘と60人の結縁衆による建立、小さな像の上にも藤原氏女の願文が刻まれている。
 その前には「八百比丘尼の墓」と俗称される観応元年(1350)の宝篋印塔の残欠が寒風にさらされてあった。


 このあたりから国道側を見上げると、道の向こうにお堂があり、地下道をくぐって階段を上ると、お堂の中の俗称六道地蔵といわれる巨大な磨崖仏を拝むことができる。
 肉彫りの3.20mのこの像はこの石仏群の中心をなす地蔵仏で、銘文の正安2年(1300)8月は、忍性が導師を勤めたと記された大きな宝篋印塔と同時期。
 まさにこの像と宝篋印塔は、ともに一連の供養が忍性によって行われたと思われるのである。
 地蔵信仰の説話集『三国因縁地蔵菩薩霊験記』は忍性の増補によって完成したともいわれ、地蔵は六道の衆生を救済する慈悲の菩薩であり、衆生救済の実践を旨とする律宗の崇拝仏としてふさわしいものであったと、桃崎祐輔氏の講演レジメは語る。


 日が翳らないうちにバス停までの道を折り返し、曾我兄弟と虎御前墓といわれる五輪塔を見る。
 寄り添うように2基、右にちょっとはなれて1基大きな石塔が並ぶ姿に、江戸時代の人は仇討ちで人気のあった曾我兄弟と虎御前の墓になぞらえたが、銘文に寄れば永仁3年(1295)に建立された最古の「地蔵講」銘の供養塔である。
 そしてそれぞれに梵字が、また2基の塔の水輪に仏像が刻まれたきわめてまれな五輪塔であるという。

 石仏石塔をじっくり見ていて、寒さも時間も忘れているのに気づいた。
 池の端に建つ「石仏・石塔群保存整備記念館」は午後4時で閉館されて、ここの地獄信仰の霊場を再現するジオラマを見そこなってしまった。
 観光化が進んだ現代の箱根の山中に、中世からの信仰遺跡を調査保存し、さらに観光客にかつての霊場の光景を体験してもらおうとする箱根町のこの努力は評価できる。

 正月、箱根駅伝のTV中継を見ていて思った。
 アナウンサーが「選手は最も苦しい最高地点にさしかかりました!」とだけ言うそのポイントこそ、昔も最も難所だった地獄霊場、そして地蔵の聖地なのだ。
 はるばる大和から旅してこの峠を越えた忍性たちは、苦しい旅する者、病の身を引きずって湯治に登ってくる者たちへ、ひたすら地蔵による救済を説き、この地獄を地蔵信仰の聖地と化すべく、数々のすぐれた石造物を残した。
 日本の津々浦々、村里の路傍に石の地蔵がたたずむ風景の源は、たぶんこの元箱根の峠にあったのだ。
 近代、国道が「二十五菩薩」の群像を分断し、地獄谷の地名が天皇行幸に際し小涌谷・大涌谷と改称され、もはや忘れ去られた霊場。
 今そこに保存の手が入り、地蔵像のやさしい微笑みとともに、私たちは凍てつく池のほとりにその姿をまた見ることができる。