2002.6.30 By.ゆみ

T 忍性がたどった中世の風景

8.称名寺と金沢文庫逍遥・今に伝わる中世史の世界「是より志よふミやうしか満くらへ春具道」銘の道標


 京急金沢文庫または金沢八景駅からゆるい坂道を歩いてきて、何度この称名寺の惣門(通称「赤門」)でたたずんだことだろう。
  その度に、まずは左手に立つ道標の難解な崩し字を、パズルのように読み解く。
 そうか「是より称名寺鎌倉へ直ぐ道」かと、鎌倉と金沢八景を優雅に遊覧する江戸時代の旅人の気分になって赤門をくぐり、参道を行く。

 茅葺の光明院の四脚門が、かつてこの参道の両脇にあったという塔頭寺院の面影を、今もかすかに伝える。
 そして正面に立ちふさがる仁王門、文政元年(1818)に再建された禅宗様の堂々たる楼門である。
 その左横から境内に入ると視野が開け、壮麗な浄土庭園が姿を現す。
 いつ行ってもその苑池の広がりは感動的である。

 朱塗りの反橋から中の島、そして平橋をへて金堂へ、あたかも浄土にいざなわれるように進み、本尊の美しい弥勒菩薩像の前に導かれる。
 金沢三山の低い山並みに抱かれ、この小宇宙は七百年前の姿を今によみがえらせていた。

冬の称名寺反橋と仁王門 初夏の称名寺釈迦堂

称名寺絵図
 
 この橋の上に立ち、今は亡き石井進先生の詳細なお話をお聞きしたのは、何年前のことであろうか。
 先生自らカラーコピーして配られた「称名寺絵図」、この絵図が語るのは、聖なる空間を厳密に区分する結界儀礼、すなわち律宗儀礼の世界であった。
 
 称名寺の起源は、金沢実時が六浦荘金沢の居館に営んだ持仏堂に発すると推定され、文応元年(1260)実時の亡母の法要を行ったときは、独立した念仏の寺であった。
 弘長2年(1262)、かねて前執権の北条時頼に懇願されていた西大寺の叡尊が鎌倉に下向、その記録『関東往還記』には、「称名寺と号する不断念仏の寺」と記されている。
 この叡尊の訪問は熱狂的な歓迎を受け、関東に律宗教化の大旋風を巻き起こした。
 (馬渕和雄氏は『鎌倉大仏の中世史』で、この「弘長2年」という年を、鎌倉大仏完成の可能性とあわせ、律宗高揚のうねりを「得宗支配の起爆剤」とした年と位置づけているが、まさに板碑など金石文史料を読み解く際の重要なメルクマールとなる時であった。)

 実時もまた叡尊に深く帰依し、忍性の推薦で文永4年(1267)下野薬師寺から審海を開山に迎えて律宗寺院に改める。
 正応4年(1291)忍性は三重塔の落慶供養の導師を努めるなど後輩である審海を支え、また忍性没後も伽藍や苑池の造営が進められて、絵図の描かれた元享3年(1323)には壮大な寺容が整っていった。
 
称名寺釈迦如来像
 金堂の右には、方三間の釈迦堂がある。
 今は金沢文庫蔵となっている称名寺の清涼寺式釈迦如来像は、ここに奉られていたのだろう。
 墨書銘にある徳治3年(1308)は実時の三十三回忌で、その供養に関わる造立と考えられている。
 この釈迦如来像との出会いを求め、何回この地に足を運んだことだろう。
 幸い去年と今年、続けて文庫の特別展示に出品され、この像をたっぷりと見ることができた。
 極楽寺像に比べて、表情はややいかめしい厳かな顔立ちで、衣紋も洗練されたシャープな彫りである。


 この寺院には多くの僧が集まり、律を学び、関東各地には金沢氏一門からの寄進で寺領も広がっていった。
 伽藍造営のための貿易に「唐船」が派遣され、また下総・上総・常陸・武蔵の寺領からの年貢米輸送の船で六浦の湊はにぎわい、その便船に学僧が乗ることもあったという。
 まさに称名寺は東国における教学と物流の拠点であり、その基盤に立ってこそ、律宗が瞬く間のうちに関東の隅々まで伝えられたのだ。
 きっとわが八千代市正覚院の釈迦像も、また称名寺船に乗って古東京湾を渡ったのであろうか。鎌倉文庫へつながる中世のトンネル
 

 「絵図」に「當寺檀那」と記された金沢顕時(実時の次代)と、その子貞顕の墓所左手にトンネルの入り口らしき絵が描かれている。
 実時が開いた「金沢文庫」への通路であろうか。
 今はその左に大きく開けられた新しいトンネルを抜けると、旧地に平成2年(1990)中世の歴史博物館として新装なった現代の「神奈川県立金沢文庫」が建っている。
 ここでは、司書の方や時には第一線の中世史研究者が資料のレファレンスに応じ、またボランティアの方が展示解説をしてくださる。
 私は清涼寺式釈迦如来像との出会いを求めて、また資料調べのために、いつしかこの館のリピーターになっていた。



 多少遠くても疑問があると、なぜか金沢を訪れる。
 先日も律宗僧侶と武家の五輪塔の違いが知りたくて、境内の墓塔群を見にいった。
 ここには顕時・貞顕の廟所と、実時一門の廟所、そして律宗を開いた審海とその後継の僧たちの廟所が区別されて営まれている。
 桃崎祐輔先生の助言のとおり、称名寺歴代の僧侶の五輪塔は、梵字を刻まない無紋の塔で、箱壇の上に逆蓮花弁状の反花座をそなえた台座を持ち、一方金沢氏の墓塔は四面に梵字を彫り、台座は反花座のみからなる。


審海と称名寺歴代の僧侶の五輪塔

金沢氏一門の墓塔



金沢山から六浦の湊を望む
 奈良の通称「鎌倉墓」を思いやりながら、ああ、なるほどと、ヒメジオンの白い花に埋もれた審海の墓塔に納得し、海を渡った下総のふたつの巨大五輪塔に思いをはせた。
 そして、もしかしたら船橋と千葉の2mを越す五輪塔も、通説の武家の墓塔ではなく、律宗高僧の墓塔ではないかというという思いが、より強くなった。


 今日も私は京成-都営地下鉄−京急を乗り継ぎ、一日がかりの小さな旅にでる。
 梅雨にぬれた称名寺の境内に、またなにかあらたな発見がありそうな予感がして。