2002.6.1 By.ゆみ
T 忍性がたどった中世の風景
7.六浦湊の「聖地」の風景・なぞの上行寺東遺跡と金沢への道
数年前の冬、六浦道を歩いた。
またの名を金沢街道、鎌倉から朝比奈切通しを抜けて、その外港の六浦に通じる道である。
和田義盛の子、朝比奈三郎義秀が一晩で切り開いたという伝説の道。
そして1240年北条泰時が自ら縄を曳き、乗馬をもって土石を運び改修したという切通しは、今も石鑿の痕をとどめるかのような絶壁の回廊が深山を貫いていた。
坂東三十三観音一番札所の杉本寺、塩嘗地蔵の光触寺をはじめ、十二所神社など寺社の多い味わい深い古道であった。
この道を、六浦側では大道ともいう。
切通しからこの広い大道を下り、金沢八景駅背後の台地の下で直角に曲がると、その角に上行寺という日蓮宗の古刹がある。
境内に「舟繋ぎの松」の跡があるところから察すると、このあたりは往時の六浦津と言われた船着き場であった。
マンションの傍らの上行寺東遺跡復元整備地 | 磨崖仏の阿弥陀像が残る | やぐら内には浮き彫りの五輪塔があった |
上行寺の右脇の石段を上りきると、丘の上のマンションの前に不思議な風景が広がっていた。
強化プラスチック製のレプリカで一部だけ復元移設された「上行寺東遺跡復元整備地」である。
昭和59年、発掘調査により、この遺跡は、鎌倉時代から室町時代初期にかけての「やぐら群」と「建物跡群」を主体とした遺跡であることが明らかになり、六浦津を見渡せる丘陵の先端に位置することから、洲崎町の龍華寺の前身・浄願寺跡であると推定された。
「源頼朝が六浦の山中に浄願寺を建立。 そこは高い山ではないが、奇岩霊窟があり、壇場を構え、梵字五輪の塔が彫刻してあった」などとある龍華寺縁起に、まさしくぴったりの光景である。
そして縁起によれば、浄願寺はまさしく正嘉年中(1257〜59)忍性が住し、律を広めた寺院であった。
鎌倉にまだ拠点を得る前、このころの忍性はまだ常陸三村山を本拠地としながらも、香取の海から古東京湾(「武総の海」)を渡り、この鎌倉の外港、六浦の津で鎌倉入りの準備をしていたのだった。
ここには、東国の海の玄関口として、航行する船に目印となる灯明台もあったであろう。
そしてまた、ここも鎌倉の東の境界として、極楽寺坂と同様に、市場・刑場・葬地であり、さまざまな宗派が集い、競い合う地であった。
市民の遺跡保存を呼びかける声は届かず、 横浜市は遺跡の一部を遺跡近くの現在地に移し、型取りした複製を創り「保存」した。
そのプラスチックの「遺跡」上を歩いて中世の信仰世界を想像してみる。
右手に五輪塔の浮き彫りのあるやぐら、礼堂を思わせる建物の柱跡と小さな池。
そして頭部を失った阿弥陀像のレリーフが、極楽浄土の真西をバックに端座している。
台地の岩に直接刻まれたこの阿弥陀像に、忍性はなにを祈ったのであろう。
遺跡復元地から、いったん階段を下り、左手の坂を上ると、上行寺墓地の上の尾根に出る。
まだ手つかずの遺跡がねむっている笹薮をかきわけると、市街地に埋没しそうな平潟の海を望むことができた。
この山中の聖地のどこかに兼好法師の草庵もあったであろう。
日蓮宗の上行寺山門 | 上行寺境内(後ろの丘の上が上行寺東遺跡) | 1352年建立の 牛馬六畜供養の宝篋印塔 |
谷間にある上行寺は南北朝時代応安3年(1370)ごろ在地の豪商・六浦次郎景光(日荷上人)が下総中山法華経寺の3世日祐に帰依して建立した寺院である。
「江戸名所図絵」で、「もと真言宗で金全寺と号した」とあり、これは中世文書にいう「六浦坊」で、六浦氏の持仏堂から「坊」に発展しさらに寺院となったと推定されている。
境内の背後には、今なお墓地として使われているやぐらがいくつも並び、その手前には、3mの高さの宝篋印塔が据えられていた。
この宝篋印塔には、牛馬六畜の供養のため、1352年に建立と比定しうる銘文が刻まれているところから、細川涼一氏によれば、「上行寺が真言宗または真言律の寺であったころの遺物と考えられる」という。
また桃崎氏は、この寺にも、律宗ゆかりの清涼寺式類型像が眠っているという。
その後14世紀後半、律宗に替わって六浦の津をおさえたのは日蓮宗の僧と宗徒の商人たちであった。
日荷上人の墓塔の傍らにそびえたつ樹齢七百年のカヤの木を見て上行寺を辞し、渋滞の16号線を瀬戸神社に向かった。
今も人と車の賑わいの中にある瀬戸神社は、鎌倉時代、東国で最も賑わう水・陸の交通の要衝だった。
「瀬戸内海」という内海が六浦と金沢の間に入り込み、その最も狭い瀬戸神社の前には対岸の金沢へ通じる橋が架けられていた。
中世、架橋は寺院の勧進による事業だった。
1319年の付け替え工事では忍性の後継者、極楽寺第三世の順忍が、橋材の調達に奔走する書状が残されている。
橋の左右の海は今はほとんど埋め立てられ、瀬戸神社前の琵琶島弁天から、池のようになった平河湾に往時の景観をしのぶのみである。
瀬戸橋を渡り16号線の喧騒から逃れるように、「旧16号線」をいく。
洲崎から寺前へと向かうこの旧道は、野島との間の海岸に長く伸びた洲に形作られた中世の市街路で、「町屋」という地名は今も健在であった。
神社、仏閣、史跡の間に老舗の鰻屋や蕎麦屋、商店が並ぶこの道は最近「金沢歴史の道」とネーミングされ、いつ歩いてもここちがよい。
大津波に村を失った長浜の住民の一部が、鎮守の第六天社を奉じて応長元年(1311)にここに移住したと伝えられ、かつて第六天社であった洲崎神社に並んで龍華寺がある。
知足山龍華寺は、古義真言宗御室派で、昔は末寺の数六十を数えたという。
六浦の港に祀られた瀬戸神社の別当寺であった浄願寺がその前身である。
兵火で焼けた六浦山中の浄願寺が、明応8年(1499年)龍灯の松のあるこの地に移り、二町四方を結界して建立したと、龍華寺の起源は伝える。
茅葺の瀟洒な鐘楼は2002年5月、再度訪ねたとき、屋根の葺替え中であった。 シートをくぐって鐘楼に吊るされた梵鐘を見る。
天文十年(西暦1541年)の銘があるが、その造りから鎌倉時代にさかのぼるという。
この寺には貴重な宝物や記録類が多く伝えられ、平成10年には天平時代の脱活乾漆造りの菩薩座像が発見された。
台座の墨書から、龍華寺門前にあった塔頭の福寿院の本尊とわかり、早速保存措置が講ぜられ、ちょうど訪れたこの5月は近くの金沢文庫で、修理されたこの優美な像を拝観することができた。
洲崎から寺前へと向かう中世の旧道 | 龍華寺 (かつて瀬戸神社の背後にあった浄願寺) |
龍華寺の梵鐘 |
「金沢歴史の道」はやがてゆるい上り坂になり、薬王寺の先に真言律宗・称名寺がある。
称名寺は鎌倉から南北朝時代、房総から常陸にかけて宗教はもとより、流通経済の点でもその存在を抜きに語れない律宗寺院であり、もちろん下総もそのエリアの中にある。
その隣の金沢文庫には、六浦と下総を結ぶ史料や清涼寺式釈迦像が納められている。
この道をいつしか、私は折りに触れては通うことになった。
そのなつかしい称名寺の赤門が、今日も坂のむこうに見えてきた。