2002.5.18 By.ゆみ
T 忍性がたどった中世の風景
6.鎌倉の坂と浦・極楽寺絵図の世界
極楽寺山門 | 葉桜となった参道 |
江ノ電を降り、谷底の駅舎から坂を上がると、萱葺きのなつかしい門が見えてきた。
5年前初めて訪ねたとき、あまりにも瀟洒な境内にかえって印象深かった極楽寺の山門である。
もちろんその時は、転法輪殿(宝物館)の清涼寺式釈迦像の御厨子の扉は固く閉まっていて、買い求めた小冊子でその像の姿を偲ぶしかなかった。
ほとんど葉桜になってしまった参道を行く。 今年(2002年)の桜は十日も早く咲き急ぎ、この日も初夏を思わせる日差しだが、まだ4月8日。 花祭りの日であった。
この日、年に1日だけ、本尊の釈迦像と忍性の墓塔が拝観できる。 境内には誕生仏に甘茶をそそぐ花御堂の準備もできていて、華やいだ雰囲気だ。
御厨子の扉が開かれた転法輪殿で、秘仏の釈迦像と対面する。なんとりりしく清々しいお顔だろう。
忍性とともに下向した仏師達は、清涼寺や西大寺の釈迦像を忠実になぞらえながらも、清楚で美しくおだやかな表現を生み出していった。
フロンティアの東国に華開いていった新たな信仰とイデアが、この像からうかんでくる。
「極楽律寺」と記された半纏を着た係の方が、簡単に案内してくださる。
なまなましいまで写実的な十大弟子の彫像は、今にも動き出して釈迦と議論しそうだ。
東国布教のため関東に下向した忍性は、建長4年(1252年)常陸三村山、ついで正元元年(1259)鎌倉に入り、文永4年(1267年)、極楽寺の開山に迎えられた。
密教宝具の五鈷鈴には「建長七年・・・極楽律寺」の銘、はじめは浄土宗であったというが、この寺は1255年にはもはや律宗系寺院であったにちがいない。
「極楽寺絵図」はパネルでの展示であった。
「絵図」には、裏の稲村ガ崎小学校を含む広い谷全体とその周りの谷に、七堂伽藍・四十九院の堂塔が建ち並び、また女人救済を示す尼寺の記載もあった。
今ある本堂も、その四王門の敷地の一部にすぎないと聞き、中世のころの壮大な規模に驚かざるをえない。
そして伽藍の周囲には「病宿」「癩宿」「施薬悲田院」「坂下馬病舎」などの施設の記載も描かれている。
極楽寺坂とよばれるこの地も、奈良坂と同じく都市の境界の外にあって、癩者や困窮した人々が拠る地であり、忍性が積極的に救済事業を営んだ実践の場であった。
転法輪殿を出ると、かつて薬としての茶を調合したという大きな石うす「千服茶臼」と薬鉢があった。
遺著となった『中世のかたち』で石井進先生は、性全というこの寺で活躍した医学者を紹介している。
当時最新の宋の医学書に基づきながら、鎌倉の境界地域で病める下層民の治療に献身した律宗門の医師の姿である。
性全の処方で製薬に使われたのだろうか、と思いつつ、石うすと薬鉢をカメラに収める。
これこそ病者の施療と救済に活躍したこの寺の性格を如実に物語る遺品のような気がした。
本堂で叡尊と忍性の彫像を拝観し、住宅街と小学校などに変わってしまった町並みから「絵図」の描く壮大な境内を想像してみながら、裏手の忍性塔のある奥ノ院へと向かった。
柵の中に入ると、総高4m、塔自体で3mの見上げるように大きく美しい五輪塔であった。
1303年7月ちょうど700年前忍性が没し、荼毘に付したこの場所に4ヵ月後、堅い安山岩で建てられた塔である。
西大寺で師の叡尊が1290年に死去したときは、二重の基壇の上に一丈一尺の五輪塔がその荼毘所に建てられた。 一丈一寸の忍性塔は、それに次ぐ大きさという。
奥ノ院東にも九尺五寸の五輪塔がある。
久しく北条重時墓とされていたこの塔は、昭和36年崖崩れの際、舎利器が発見され銘により第三世順忍(忍公)の墓塔と判明したという。
三村山で、また奈良でいくつかの巨大な五輪塔に接した。
これらを比較すると律宗教団の中での序列による一定の規則性を見出せる。(『中世の霞ヶ浦と律宗』桃崎祐輔・図表)
とすると、船橋西福寺と千葉大日寺の2m余の五輪塔も律宗の高僧の墓塔ではなかろうか、ふとそのような想像が頭をよぎった。
帰路は「極楽坂を越え行けば 長谷観音の堂近く 露座の大仏おわします」の唱歌のごとく、極楽寺坂を下った。
葬送の地でもあった地獄谷から由比ヶ浜へと越すこの坂は、都市鎌倉の西の要害で、今より高いところを通るずっと狭い切り通しであったらしい。
途中寄った成就院という山頂の寺院から見下ろすと、「山高く路嶮きに、木戸をかまえ・・・数万の兵、陣を双べて並み居たり」という太平記の一説が実感できる。
ここから望む美しい由比ヶ浜は、忍性が浦人をして殺生禁断の浜とし、また港湾管理を幕府から任せられたかつての前浜であった。
極楽寺坂切通し | 成就院から望む由比ヶ浜 |
8年ほど前、名越から小坪の絶壁の上に登り、東側から材木座海岸という名を今に残すこの前浜を眼下に望んだ。 干潮時に姿を現す人工の島・和賀江島が間近に見えたのが印象的だった。
和賀江島は往阿弥陀仏という僧が1232年、遠浅の由比ヶ浜に石を積んで築造した港湾施設である。
その後の維持管理は極楽寺の仕事であり、中国からの陶磁器や経典を積んだ大船小船が行き交う港の関料は、同時に、忍性時代からの極楽寺の特権でもあり、その収入は極楽寺のさまざまな社会活動の経費となった。
秩序も軽んじかねない念仏衆に対し、叡尊・忍性の革新的でありながら律を重んじる教えは、幕府から経済的支援も含め、圧倒的な支持を得て、関東の津々浦々に浸透していく。
しかし、一方で教団の経済的な特権と政権からの接近が、足元から宗教の純粋性を崩し、行政が果たすべき役割のなかに包摂されつつつあった。
稲村ヶ崎から反逆の一団が極楽寺坂の向こうに現れ、得宗政権を死に追いやったとき、この教団はどのように戦乱の時代を越ええたのであろうか。
忍性が浜の漁師におこなった仏の教えによる殺生禁断の実行も、「王権の名の下のみ殺生が許されるとき、殺生禁断は人と土地双方に対するまったき領有の論理である」という石井進先生の論を手がかりに、どのように理解したらよいのであろうか。
観光客でにぎわう長谷観音から大仏へと巡った。
牡丹や石楠花が咲き誇る長谷寺の境内、真新しい石造の釈迦坐像の前に花御堂がしつらえてあった。 美しい石像である。
ふと頭髪と胸の衣の線に目がいった。まさしく現代の清凉寺式釈迦像であった。
文殊の絶対平等の知恵と釈迦在世の教えを重んじた忍性、そしてその弟子たちが愛した意匠の釈迦像は、しっかりとこの丘から鎌倉の町と谷と浜を見つめていた。
遠くインドと西アジアの息吹を伝え、今なお七百年前の歴史を思い出させる極楽寺の釈迦像、そして現代のこの釈迦像に来春もまた会いたいと思う。