2002.5.1 By.ゆみ

T 忍性がたどった中世の風景

5.行基への思慕
・生駒の竹林寺から信貴山へ




奈良から阪奈道路を西へ走る。電波塔をいただく生駒山が、しだいにフロントガラスにせまってきた。

生駒山脈と矢田丘陵の間を流れる生駒川に沿って南下し、壱分の駅をすぎて「文殊橋」という名の橋を渡り、細い坂を上がった山里に「生馬山竹林寺」の石碑があった。

行基と忍性の墓所というには、意外ほど静かな参道を登ると、眼前に真新しい清楚なお堂が見えてきた。竹林寺本堂、流れるようなフォルムの宝形の屋根、彩色を排し木の香漂うような堂宇であった。

竹林寺参道入り口 真新しい竹林寺本堂

ここは奈良時代に、文殊菩薩の化身と仰がれた行基が生駒仙房をかまえた故地、寺名は、文殊の霊場中国の五台山大聖竹林寺にちなむという。古いガイドブックから察すると、廃寺同然の荒れ寺だったらしいが、1998年に本堂を落慶、律宗総本山唐招提寺と関係者の努力で由緒ある古寺は今みごとに復興していた。行基の墓

 

案内の矢印に従って左に行くと、「史跡行基墓」と記した石碑の奥に段状の低い塚があった。ここから鎌倉時代に舎利瓶が出土、その舎利瓶には行基の伝記と、遺命により生馬山東陵に火葬、舎利を器に納めて多宝塔を建てたと刻んであったという。

写真をとって本堂に戻ると、一人の男の方が境内を掃き清めていらして、忍性の墓の案内を請うと、すぐに先頭に立って右手の方に連れて行ってくださった。この有里に育ち、由緒ある寺が明治の廃仏令により荒れ果てた姿になっていることに心を痛め、寺の歴史を本にして再興をよびかけた中尾良藏氏である。

左手に廻ると、忍性の墓というみごとな新しい五輪塔があった。
「本当の忍性の墓石はこちらですよ」という氏の指し示すその先に、反花の彫りのある基壇部分、その上には原型をとどめない残欠が積み重なっていた。無邪気だった氏は子供のころ、大事な塔とは知らずこの基壇の上に積まれた巨大な石くれに乗っかって遊んでいたという。

復元された忍性の墓塔 忍性の元の墓塔基壇部分と残欠


1977年鎌倉極楽寺、1982年額安寺の忍性塔、続いて1986年竹林寺のこの壊れた塔も調査され、いずれも、厳かに埋納された忍性の骨蔵器が発掘された。竹林寺と額安寺の骨蔵器は、全く同じ形、同じ銘文であったという。

それらは、すぐに重要文化財に指定され、「舎利瓶発見」は古寺復興の追い風となり、1988年新しい忍性塔が復元された。極楽寺の忍性塔をモデルに、大きさは基壇の大きさや他の律宗僧との比較で、鎌倉より小ぶりの塔、向きは本来東向きが今の立地から南向きとなったが、往時をしのぶ美しい形がよみがえった。行基の墓の傍らの地蔵像

 

かつて行基の舎利瓶が発見されたのは、忍性19歳のころ、おそらく発掘に立ち会うことも可能であっただろう。それ以来、忍性は毎月の参詣を6年間続けたという。
 文殊信仰と、当時文殊の化身と信じられた行基への思慕は、忍性の一生を貫く信念と行動力の源となった。

ところで関東でもいたるところに、行基による開山や本尊彫刻の伝承の寺院がある。私の近くでも千葉市の花島観音や千葉寺、印旛の永福寺や松虫寺や結縁寺も、また清凉寺式類型像のある寺崎蜜蔵院も行基の開山伝承、そのほかの伝承も数えればきりがない。

筑波大学の桃崎祐輔氏からいただいたメールでは、行基伝承をひろめた原因として、律宗の東国布教もそのひとつとのことである。行基の事跡を語ることが即、律宗のひろめんとする教えであり、実践の規範だった。そういう視点で身近な古寺を見直すと、逆に律宗の教線の足取りを追えるような気がしてくる。信貴山

 

晩年、忍性の脳裏に去来するのは、ふるさとの寺だった。
 少年期にわかに出家し、また後に救済活動の実践の場となった額安寺、そして青年期に行基の遺骨とその教えに巡り合えた竹林寺、そして終焉の地の鎌倉極楽寺の三つの寺に、忍性は分骨を望んだ。
 その3基の墓塔は、竹林寺の復元により、七百年前のある時代とひとりの宗教者を記念すべき塔として、かつての姿を今日に示している。

 

竹林寺の帰途、平群の谷を走り、信貴山に登った。
 忍性が
11歳のとき、家族に伴われて登り、ここで文殊信仰を教えられたという霊山である。16歳で母を失ったとき、忍性はこの霊山と母が残した信仰の思い出を深く心にとどめたに違いない。

春の雨が梢をぬらし、淡い墨絵のような山並みと、信貴山縁起絵巻の世界が眼下に広がっていた。そして七百年前と同じように、山霧が静かに流れていった。