2002.4.21 By.ゆみ

T 忍性がたどった中世の風景

4.大和川支流の畔から
 忍性のふるさと・額安寺と屏風の里


 

復元「額安寺伽藍並条里図」・国立歴博へリンク

雲行きがあやしくなってきた。2002年の3月彼岸の日、風がでて、天気は下り坂のようだった。
大和郡山から南下して、西名阪自動車道をくぐり、佐保川との間の狭い町に入った。奈良駅からのレンタカーを小型車にしておいてよかったと思いながら、込み入った細い道を行ったり来たりして、ある寺院を探していた。古代からの名刹「額安寺」である。きっと甍が家並みの上に見えるだろうという思い込みがあった。
迷路からあきらめてバス通りに出ると、「額安寺墓苑売出し中」の看板があった。由緒ある寺の名を安易に使っていいのかしらと、いぶかしく思いながらその矢印に従って、工事中のような覆い屋の前にたどりついた。「真言律宗額安寺」の表札の門と、「墓苑入り口」の看板がならんでいた。
歴博に麻布に描かれた「額田寺伽藍並条里図」という「額安寺」の前身「額田寺」の奈良時代の絵図がある。とても、肉眼では「見える」というわけにはいかないが、最新の技術でその復元がなされ、広い寺領と古代の伽藍配置の絵図が蘇った。
聖徳太子の熊凝精舎の跡と伝承される壮大なこの寺院の絵図に、私は錯覚をしていたようだ。現実の額安寺は、整地中の墓地の前に、今にも朽ち果てそうな本堂を囲った粗末な覆い屋と、小ぶりの二棟の収蔵庫が並ぶ寂しい姿だったのだ。
幸い、墓地販売事務所でアルバイト中のお嬢さんに、収蔵庫の鍵を開けてもらえた。そこには、思いがけないほど貴重な仏像が2躯並んでいた。奈良時代、道慈が安置したという本尊の虚空蔵菩薩半跏像、そして平安後期の文殊騎獅像である。

額安寺(左は収蔵庫、門の向こうは本堂の覆い屋) 文殊騎獅像・虚空蔵菩薩半跏像
忍性の骨臓器
 
忍性は建保5年(1217)、この寺の前を流れる佐保川とその支流の寺川の向こうの里で生まれた。三宅の屏風の里である。文殊菩薩を信仰する母に連れられ、幼いときから額安寺や信貴山に参詣していたのだろう。
母思いのこの少年は16歳のとき、母親が臨終に際し忍性の沙門(出家)姿が見たいというので、ここ額安寺で、俄かに剃髪し法衣を着たという。そして後に叡尊より西大寺で正式に受戒したのは、母の十三回忌に文殊菩薩の絵を額安寺西辺の非人宿などに安置し供養を済ませたいという願いがかなってからであった。
外は雨が降りだしたようだ。少年期の忍性に大きな影響を与えたにちがいこの文殊像を飽くまでながめていると、さきほどの女性が鍵をかけにきたので、忍性の墓塔の場所と、またほかに忍性ゆかりの史料がないかを尋ねた。
「ではこちらも見ますか」と言って案内してくれたもうひとつの収蔵庫に入って驚いた。そこには厨子の中に、ここから300mぐらい離れた「鎌倉墓」の五輪塔から昭和57年に発掘された忍性の骨蔵器があった。青銅の美しい姿の舎利瓶である。その表面には、忍性の事跡がはっきり刻まれてあった。嘉元元年(1303)鎌倉にて忍性入滅、遺言によりその遺骨は分骨され、このような舎利瓶に収められて、鎌倉極楽寺、額安寺、そして竹林寺の3寺に埋納されたのであった。
 
宝篋印塔が池の島に草むらに埋もれていたいつしか雨が止んでいた。
門前に小さな明星池があり、その中の小島に宝篋印塔があった。説明板も風化し、小島には雑草が茂るにまかせてあったが、近年池から引き上げられた際、「文応元年」(1260)と石工の「大蔵安清」の銘、そして美しさでも話題となった塔である。
これが、関東形式の宝篋印塔の祖形といわれるのは、宋の石工、伊行末の流れをくむ「大蔵派」が西大寺律宗の全国展開に伴って、特に関東に優れた石造物を残したからであった。伊行末は般若寺の十三重塔を建てた宋から招かれた石工である。
寺で聞いた道をたどり、「鎌倉墓」といわれる石塔の並ぶ広場で、忍性の墓塔を見た。常陸三村山で見たのと形も高さもよく似た巨大な五輪塔、そしてその横に小ぶりの7基の相似形の五輪塔が並んでいた。花が手向けられている大きな塔が忍性の墓塔である。
律宗高僧にまじって、銘文から永仁5年(1298)六波羅探題南方の北条盛房とわかる墓塔もあり、それゆえにこの一帯の石塔群は、近世に「鎌倉墓」と俗称され、頼朝・政子の墓とも勘違いされたようだ。
品格に優れた鎌倉時代の石造物が並ぶ姿は壮観で、またその正確な相似形は、律宗とともに普及していった五輪塔の系譜を物語るものであった。

五輪塔の並ぶ「鎌倉墓」 忍性の墓塔 額安寺の瓦を焼いた額田部窯跡
忍性・叡尊が額安寺復興に際し、たくさんの瓦を焼いたかまど跡を見て、大和川のほとりへもどった。
「太子橋」で佐保川下流の大和川を渡ると、また支流の川が流れている。
 この近辺で幾筋かの河川が合流し、古代から河川に沿った奈良街道が大和と河内を結んでいた。さまざまな職能と階層の人が生活を営んできたであろうここも、奈良坂と同じく、都の境界の宿であり、寺社と墳墓の散在する地域である。
巨大な島の山古墳を探して、太子道の案内板や祠のある迷路のような街に入った。
 三宅町屏風の里、忍性の生まれ育った町である。ここが聖徳太子が法隆寺を建てるために往復した道、太子が使った井戸、馬を留めた石などの伝承地に囲まれて、幼い忍性もおとぎばなしを聞くように、太子への信仰を深めていったに違いない。
『沙石集』は、片岡山で太子が飢え人をいたわった故事を載せ、「かの飢え人は達磨大師なり」、そして「日本の口伝には文殊と言い伝えけり」と記している。その伝承地は、大和川を数km下った王寺町の達磨寺、そこから信貴山下を通り生駒に行く道が通じていた。
横井清の名文『中世を生きた人々』はこう始まる。「そこは非人宿であった。大和の額安寺の近くである。・・・ 仁和元年(1240)のある日、24歳になる青年が一人あらわれた。・・・ 幼少のころ、親たちに連れられて信貴山に詣で、文殊信仰にふれたことから、生駒の竹林寺にかよって本尊文殊菩薩に誓願するようになった。・・・ 」
明日は、生駒の竹林寺、信貴山へと旅し、鎌倉時代の約半世紀の東国に旋風を起こし過ぎ去った忍性というひとりの僧の原点を探したいと思う。

 

島の山古墳 島の山古墳より忍性の故郷の町をのぞむ 忍性の里・屏風の太子道