2002.4.13 By.ゆみ

T 忍性がたどった中世の風景

3.奈良坂にて・
「若き日の忍性」伝説



 春に奈良に旅してふと、忍性のふるさとについてもふれてみたくなった。京街道道標
 “東路に忍性の足跡を追い「おしどり寺」の来た道を解く旅”と自ら定めたテーマであるが、しばし、寄り道をお許し願いたいと思う。
 
 古代都市・奈良、この町を、中世史の舞台として見つめたとき、そこにはガイドブックでもふれられることの少ないまた別の世界が潜んでいる。
 西大寺流律宗の足跡は、叡尊・忍性のルーツの地だけあって優れた中世の彫刻や石造物が多数残されているものの、国宝や世界遺産のひしめく大観光都市のなかで、これを探しだすのは必ずしも容易ではない。
 1996年夏、宇治から西大寺・法華寺へ、2001年5月に奈良坂へ、そして今年(2002年)3月に額安寺・竹林寺と、叡尊・忍性ゆかりの地を旅した。その中からあまり知られていない史跡も含めてご紹介したい。
 
 奈良坂には、「北山十八間戸」そして般若寺がある。この界隈は、叡尊・忍性のこころと行動の原点であった。
近鉄奈良駅からの369号線は、奈良公園で左折、東大寺転害門を過ぎ、佐保橋を渡った東之坂町で「奈良坂」かつての京街道と分岐する。旧京街道は、平安遷都から、中世の終わりまで最も交通量の多かった道であった。
今は、車の喧騒から離れて、軒を接する家並みの中、夕日地蔵、北山十八間戸、般若寺、奈良豆比古神社、そして京街道の道標に、往時の都の境界の姿をしのぶことができる。

般若寺
般若寺の石仏
般若寺十三重塔
十三重石塔

 2001年4月の終わり、般若寺は花の盛りであった。
 かつて源平の闘いによって灰塵と帰したという境内には、総高14.1mのがそびえたつ。戦火に逃げ惑ったであろう名もなき人々、その供養も意図して建てられたというこの塔は、宇治浮島の十三重塔に次ぐ高さと、優美さをそなえ、叡尊の周辺で活躍した宋人石工達の技術のすばらしさを示していた。
 ここにも清凉寺式の像があるという。今は国立博に預けてあって拝むこともままならないが、聞けば薬師像だという。薬師は病を癒す仏である。
 般若寺は、叡尊・忍性の非人救済活動の拠点だった。良恵は、塔や仏殿、楼門などを建てて復興に努め、その仏殿に叡尊は文殊菩薩像を本尊にすえた。
北山十八間戸 そして、「文殊を供養する人の前に、文殊は貧しく身寄りのない衆生に化して出現する」という文殊信仰を実践すべく、最も貧しく差別された人々につかえる若き日の忍性の姿がこの坂にあった。
 そこには「癩」を病む人々のための施設「北山十八間戸」が設けられていたのだ。
 『元享釈書』はこう伝える。
 『奈良坂に手足がよじれ物乞いをするにも困難な癩者がいた。忍性は、朝は癩者を背負って市中に連れて行き、夕べにまた家まで背負って帰った。それは数年間毎日も続き、癩者は死に臨んで、「私は、必ずまたこの世に再生し、師の召使となってその徳に報いたい。その印として、顔に瘡を留めておく。」と言った。忍性の弟子の中に、よく仕えてくれる瘡のあるものがいた。人は癩者の生まれ変わりと信じた。』
 1260年代、般若寺に付随して建てられた「北山十八間戸」は、間口1間ずつ18の部屋が並び、東の端の大間には仏壇がある。
 1567年戦火に焼かれ、江戸時代初期、今の場所に当時の姿で再建されたという。
 ちょうどここを訪ねたとき、「北山十八間戸」はみごとに修復されたばかり、そして、ニュースでは「らい予防法」による患者隔離政策の違憲判決と、人権回復の施策がやっと実現の途に着いたことを告げていた。
 旅から帰ってから手にした「解放新聞」7月9日号によれば、江戸期にこの建物を再建したのは患者の世話をしていた被差別部落民であり、現在の修復工事を実現したのも、被差別地区の人々の尽力と要望によってであった。
「ハンセン病と部落差別という厳しい差別のなか、人としてともに生き抜いてきた姿がここにあった。」と修復に力をつくした解放同盟支部長の言。国史跡として稀有なこの遺構に学ぶものは多い。
 奈良豆比古神社
 混沌とした中世の民衆の意識と宗教者の葛藤、そして今なお課題として残る差別と賎視、それらを歴史家の視点で横井清氏の著書『中世民衆の生活と文化』は、深く現代の私たちに問いかけている。
 横井清氏の引用する文永6年(1269)の「叡尊願文」は、般若寺の立地をこう説く。
 般若寺の南には「魂を救うなかだち」としての墳墓が、北には「宿罪を悔いる便」としての「疥癩の屋舎」があるゆえ、ここを勝地として選び、文殊菩薩を安置したと。
 この願文をみても、仏罰として創出された「業病」の概念が宗教者によって民衆にひろめられ、その結果として生み出された差別意識が病を負う者をさらに苦しめた事実を否定できない。
 病苦にさらに業罰と不浄観を付して因果応報を説き、一方で滅罪と救済を唱え、慈悲を施すのは偽善ではないか。
 そのジレンマを叡尊でさえ免れ得なかった中世の信仰世界の深い闇を、私は垣間見る。
 しかしまた当時の説教節はそのクライマックスに、一条の光のように心優しく寄り添う人々の姿を描き出している。
 かつての「小栗判官」の病み衰えた姿と知らず「餓鬼阿弥」の土車を引く照手姫、また継母の呪いに癩者となった「しんとく丸」に付き添う乙姫の姿である。
 この世との境界でもあった奈良坂は、奈良豆比古神社に残る大楠のごとき鬱蒼たる樹々の茂る暗い坂であった。
 その坂を、癩者を背負っていく忍性の姿は、『元享釈書』の話がたとえ伝説であったとしても、『沙石集』の「光あるものは光あるものを伴とす」ということばのごとく、「光ある伴」として私の心には見えてくるのだ。