2002.3.16 By.ゆみ

T 忍性がたどった中世の風景

2.香取の海のほとりにて
・水辺に住まう清凉寺式釈迦如来

 

 村上正覚院の釈迦像は、どこからやってきたのだろう。
正覚院の伝承は、村上から約5キロ北の保科(保品)に釈迦像の頭部だけが流れ着き、霊夢によりこの地に下った比叡山の智證大師円珍が、その像を完成させるという話から始まる。
このあたりがまだ阿蘇沼とよばれていたころの印旛沼は今よりずっと広く、村上正覚院も保品もその水面の先は、常総に広がる「香取の海」に続いていた。「香取の海」とは、現在の利根川下流、霞ヶ浦、北浦、水郷、印旛沼、手賀沼など中世のころまでひとまとまりだった広大な内海のことである。
この内海のほとりで、1996年の冬、見覚えのある釈迦像に接した。 香取郡大栄町の大慈恩寺の本尊、清凉寺式かと思われる釈迦像である。
その日は車にチェーンをつけるほどの大雪で、ご住職が山門に続く長い坂道を雪かきをして迎えてくださった。香取神宮への例弊使が宿泊の際にのみ使用したという勅使門、そして自然林に囲まれた境内にはたくさんの板碑が覆い屋根の下に並べて保存されていた。
大慈恩寺は、天平宝字5年鑑真和上の創建と伝えられ、千葉六党の一つ大須賀氏の保護を受け、同氏胤氏の招きにより叡尊の直弟子、真源が中興した古刹であった。
金沢文庫の文書によれば、真源は、叡尊の13回忌を慈恩寺で行い、また今に残る延慶3年(1310)作の梵鐘(県有形文化財)に、「開山住持比丘真源」の直筆の銘文が残している。明徳2年(1391)後小松天皇から『大』の一字を賜り以来、慈恩寺から『大慈恩寺』となったというその寺格は高く、足利尊氏は下総の安国寺としてこの寺に利生塔を建てている。大慈恩寺釈迦像
 
本尊の釈迦像は、訪れた年の3年前に修復され、その際胎内には1495年の墨書があったとのことで前年の1995年、五百年祭の大法要を行ったばかりとご住職にお聞きした。
この像は、八千代市歴民資料館の資料「関東・東北地方の清凉寺式釈迦像の所在地」というリストにも載っていない。鎌倉時代後期推定の正覚院の釈迦像とは百年以上時代は下り、また胸から上はやや変形し、清凉寺式の典型とは姿を異にしているからだろうか。
記録によれば、1421年に堂宇が炎上しているので、その後に再彫されたのかもしれないが、衣の流れるようなひだや3段の裾などに清凉寺式の様式が守られている。やはりここにも清凉寺式釈迦像があったのだ。このことは本当に思いがけない発見であった。
 
清凉寺式釈迦如来像は、釈迦が在世中に優填王が別れを惜しみ、その姿を写して刻んだと伝えられる像で、985年、東大寺の僧・「然が中国で模刻し、2年後嵯峨の清凉寺に請来した。「三国伝来の霊像」というように、衣はインド風、頭髪は中央アジア風の様式をつたえるエキゾチックな釈迦像である。
次の鎌倉時代、西大寺の叡尊が仏師らを率いて清凉寺へ出向いてこの像を模刻し、その教えとともに釈迦生き身の姿の瑞像として各地に広めた。この時代、旧仏教の刷新を図るためにも、釈迦本来の教えに立ち返ることが強く求められたからである。
関東では、茂原の永興寺と大洋村の福泉寺の像が系統を同じくする秀作で、正覚院の像もその作風に準じて製作されたという。(「東国の清凉寺釈迦如来像」猪川和子『三浦古文化』14)鹿島神宮
なんとか永興寺と福泉寺の像を見たい、そう思っていたところ、永興寺の釈迦像が千葉市美術館の特別展「房総の神と仏」に出品された。会期中2回も通ってしまうほど魅力的で、まれにみる美しい彫像であった。
残るは大洋村の福泉寺。車で遠路出かけ、やっと福泉寺を探し当てたたもののご住職が葬式で不在。その後茨城県立歴史館でそのレプリカに巡り会えたが、やはり実物を見てみたい、その夢はやっと2001年10月にかなえられた。
 
その日の朝、まずは鹿島神宮へ向かった。福泉寺の釈迦像について、元は神宮境内の涼泉寺釈迦堂の本尊であったという説がある。
神宮の社務所で涼泉寺の場所をお聞きすると、御手洗池にあった御手洗寺のことで、今はその跡に名残のお地蔵様があると教えてくださる。清々しい社叢林の参道を抜け、御手洗池に下り、池のほとりに小さな石のお地蔵様を見つけた。風車がくるくる回っている。涼泉寺があったと思われる御手洗公園
かつて御手洗池付近が鹿島社境内の入り口だった。参詣に訪れる人々は、鹿島大船津から溺谷を舟で御手洗池まで進んで涼泉寺釈迦堂の本尊を拝み、池で水垢離をとって長い参道を現在とは逆コースで歩いて神殿に詣でたのであろう。
忍性もまた三村山に入る前、ここ鹿島社に滞在している。鹿島は香取の海、そして東北経営の最大ターミナルであり、またそれ以上に忍性にとって大事なことは、鹿島の神が神仏習合では釈迦の本地ということであった。
幕末の天狗党の騒乱や明治維新時の廃仏毀釈によって、境内や付近の寺院の文化財が失われてしまったが、近くの根本寺をはじめ、忍性の住んだ安居寺など寺院が社家と甍を接する中世の景観は、今と異なる姿を呈していたに相違ない。
 
鹿島灘沿いに進み、大洋村大蔵の福泉寺へ向かう。村役場の前の通りから「穴寺」といわれるだけあって、長いくだり坂を下りて行く。この参道入り口がわかりづらく、以前来たときもなかなか見つからなかった。
福泉寺は、常陸大掾平忠幹の建立で1325年北条高時が中興。三方を台地に囲まれ、かつては西側がすぐ北浦に面していたというそのたたずまいは、正覚院によく似ている。
穏やかな小春日和、建替えられたばかりの本堂がまぶしい。その横の収蔵庫で釈迦像と念願の対面をはたした。

福泉寺本堂と収蔵庫 収蔵庫の扉が開けられる!


檜材の福泉寺釈迦像特色を生かした金箔や漆を塗らない寄木造りの素地仕上げ、像高は165.5cm、国の重要文化財に指定されている美しい釈迦如来立像だった。
体の線に沿って流れるような柔い衣のひだは、水からあがったばかりのよう。そしてくっきりしたお顔立ち。八千代の釈迦像も江戸期の補修が加わるまでは、このように簡素な美に徹していたのであろうか。
 
「香取の海」といわれた霞ヶ浦・北浦・常陸川(現利根川)の内海は手賀沼・印旛沼にも広がっていた。
 遠く村上から、この福泉寺へも、大慈恩寺へも、鹿島へも、さらに宍塚の般若寺へも水路でつながり、桜川を遡れば三村山に至る。
忍性らの真言律宗の教線も、その足跡に清凉寺式の仏像を残しつつ、「香取の海」を舞台に広がっていたに違いない。
八千代市内のアンバ信仰やオビシャなどの民俗行事には、常総に共通する地域性があり、また中世文書をひもとくと、香取社造営に際して社殿などの奉納を引き受けさせられたリストには、「香取の海」をめぐる各郷と並んで、八千代市の萱田郷や吉橋郷の千葉氏の名を見つけることができる。

 佐倉市の蜜蔵院・正光寺の薬師如来や実蔵院の阿弥陀如来は、頭部が縄目状の鎌倉時代の仏像である。
 また、冒頭に正覚院釈迦像の頭部だけが流れ着いたという八千代市保品の東栄寺の薬師如来
は、時代が江戸期で清凉寺式の仏像を意識しているのか不明だが、こちらも同じく縄目状の髪をしているという

 
印旛沼のほとりのこれら類似像の数は、全国的にも、また常総地域においても、特に多いように思える。
  どの寺院もいまは中世律宗の名残すらないが、忍性とその弟子や信徒が行き来した遠い過去の記憶を、この水辺に住まう仏たちはその姿にとどめおいているのであろうか。
 
八千代市の位置を「香取の海」の中に求めつつ、さらにもうひとつの内海=「武総の海」(古東京湾)をはさみ、鎌倉までの中世の文化交通圏も探ってみよう。
 忍性が東国で活躍したもうひとつの舞台への道である。
村上正覚院の重要な位置関係、もしかしたら村上がその二つの「内海」の接点として「8の字」の要の地点に位置するのでは、との予感をいだきつつ、次は忍性とともに六浦から鎌倉へと旅してみたい。