2002.2.6 By.ゆみ

T 忍性がたどった中世の風景

1.筑波路の風景
 まぼろしの大寺・「三村山極楽寺」跡を探して

 

小田山(三村山)麓のこの一帯に清冷院極楽寺の堂宇が建ち並んでいた


細い道を抜けると、急に視野が開けた。
冬枯れの小田山山麓、道を尋ねた際「行ったってなんにもないよ」と答えた土地の翁の言葉どおり、荒涼たる風景だった。
中世、ここに律宗寺院の聖地としてまぼろしの大寺があったという。ある律宗僧の足跡を追い求めてやっとここに到った私にも、その姿を想像することは困難なものがあった。
この僧の名を忍性、大寺の名は三村山清冷院極楽寺。場所は常陸筑波山南麓の小田城址より北東1kmの地である。
意識して忍性の足取りを追い始めて数年になるだろうか。
地元の村上正覚院の縁起「おしどり伝説」とこの寺の本尊「清凉寺式釈迦像」を調べるうち、その接点に13〜14世紀の西大寺系律宗の姿が見えてきた。
叡尊とその弟子忍性の教線、即ち西大寺−鎌倉−金沢称名寺−古霞ヶ浦−常陸三村山のルート上に八千代市村上の正覚院があるにちがいない、そしてこの寺院の歴史的背景を解き明かすには、忍性の宗教世界と、東京湾と常総に広がる「香取の海」をめぐる水上交通の把握が必須に思えてきた。
この常総路をめぐる中世世界を景観とともに実体験してみよう。山が、水が、碑が、私に何か手がかりを教えてくれそうな気がする。
まずは忍性が止住した最も北の地・三村山からレポートしたいと思う。小田城址から筑波山を望む
 
2002年1月14日、筑波山を見ようと常陸路に車を走らせた。三連休の最終日、好天に誘われて急に思い立ったドライブだったので、詳細な地図もなく行き先も定かではなかったが、土浦市立博物館が5年前催した特別展「中世の霞ヶ浦と律宗」の図録がひざの上にあった。
土浦から筑波山へ走るうち、「小田城址」の道標に誘われて、小田の町に入る。クランク状の路地、路傍の石造物、なにか不思議な街だった。町並みを抜けると土塁とその上に大きな五輪塔が見えてきた。小田城跡であった。
小田城は中世常陸の豪族八田知家がこの地小田を支配、その後小田氏を称して拠った環郭式平城であり、南北朝時代は北畠親房が「神皇正統記」を著した地としても知られている。
塁の上に乗って、北の方を見ると、筑波山が美しく展望された。目で山並みをたどる。手前に立つ前山は、小田山または宝篋山、かつて三村山とよばれたであろう眉のごとき山で、その山頂には鎌倉期の宝篋印塔があるという。

小田城址に残る土塁

土塁上の五輪塔より筑波山小田山を望む

 

街を歩くと、持っていた図録に載っている「三村山不殺生界碑」(建長5年銘)の石碑が民家の空き地にあった。町並みのメーンスリートの曲がり角にある八坂神社の境内にも「不殺生界碑」があった。
「不殺生界碑」とは、叡尊・忍性がもっとも重んじた戒律のひとつ、不殺生戒をこの地に宣言した石碑である。城址の巨大な五輪塔もこれらの石碑も三村山麓の聖地からもってきたのであろうか。
わたしは『史談八千代』第23号に、「各地のおしどり伝説は微妙に違いがあるものの、そのメッセージは慈悲と殺生禁断の教えであり、この教えこそ叡尊がもっとも強く訴え、実践した教えでした。叡尊は宇治川の、忍性は鎌倉の前浜の漁師に対し、その生業を他の仕事にかえて生活できるよう奔走したほど、殺生への戒めは徹底し、まして人が人を殺すことなど絶対あってはならないと、人殺しを業とする武士に説き、多くの武士層を感化しました。」と書いた。
そして4年前のこの文章を思い起こしながら、現実に石造物の銘文としてその戒律を目にできたことに、感慨深いものがあった。
 

八坂神社の境内 社殿右に「不殺生界碑」がある

八坂神社の「不殺生界碑」



小田城址をあとにして、筑波山に向かった。
筑波神社で昼食を摂り、坂東25番札所の大御堂に詣でてから、東の山並みがながめているうち、表筑波スカイラインが小田山(宝篋山)方面を通っているかもしれないという淡い望みをもって、この有料道路をドライブすることとした。残念ながら、宝篋印塔が立つという小田山の尾根を通らなかったが、筑波山の広い裾野と、桜川流域の小田氏や忍性の活動した世界を一望することができた。
さていよいよ三村山廃寺探しである。
小田山の南麓という図録の文章だけを手がかりに、山沿いの集落を端からたどりつつ、土地の方に尋ねて、やっと「小田十字路を曲がったところ」という答えをいただき、廃寺跡入り口の標識を見つけることができた。
農道のような道を行くと、田と低い台地のおりなす開けたところに出た。
傍らの柵の中に、大きな石の祠「石龕」があり、中に人の背丈ほどのお地蔵さまがある。
説明板があり、これこそ三村山極楽寺のあとに残され貴重な石仏で、村人から安産と乳がよく出るとの信仰のため大切に今日まで守られてきた「湯地蔵」であった。
銘文によれば正應2年(1289) 「檀那左衛門尉」(小田氏4代か5代当主か)の願により「勧進佛子阿淨」の造立、この阿淨の名は西大寺過去帳に出てくる名であり、また『沙石集』に筑波山麓の老入道が手ずから地蔵を刻んだ説話のモデルとも推定されるという。
ここからは小田山が陰となって秀麗な筑波山も望むことはできない。遺跡の跡と思われる広く寂しい野原の小道を登っていくと、五輪塔の所在を示す標識があり、ほどなく高さ3mもの塔が見えてきた。鎌倉極楽寺などの忍性塔とほぼ同型の五輪塔で、忍性とともに西大寺から下向した長老頼玄の墓塔と推定されている。

枯野に三村山五輪塔の所在を示す標識があった

三村山五輪塔(頼玄の墓塔と推定される)

北条氏・小田氏の信頼を受けた忍性が建長4年(1252)から10年間止住し、東国布教の拠点としたという三村山極楽寺。発掘により、遺跡の在りし日の姿が徐々にあきらかになるのかもしれないが、その甍がたちならぶ姿を偲ぶには、あまりにも寂しすぎる所である。
今はハンターたちの狩場になっているのだろうか、付近の丘陵からの猟銃の音が絶えず、時折猟犬の群れが茂みの向こうを吠えながら通り過ぎていくのが怖かった。
ここはかつて殺生禁断の聖域だったはずである。
『沙石集』を著した無住一円の『雑談集』にこんな話が載っている。「常州三村山ハ坂東ノ律院ノ根本トシテ本寺也。故良観(=忍性)上人結界シ、コトニ殺生禁断、昔ヨリモキビシク侍シ事、東條ト云所ノ狐ネ共具シテ、聞及テ来ルヨシ、人ニ託シテカケリ」すなわち忍性の不殺生戒により小田山東麓の東条寺周辺の狐が三村山に逃げて来たと言うのだ。
忍性の建てた結界石が残る東条寺は、無住の修行した寺。そしてまた無住は『沙石集』に村上正覚院の縁起「おしどり伝説」とほとんど一致する話を採話したその人であり、鎌倉から常陸・奈良・尾張にその足跡を残している。
筑波の山裾で、おしどり伝説―殺生禁断の教え―無住―三村山―忍性と正覚院縁起をめぐって連環の輪が繋がっていった。
宍塚の般若寺
帰路、桜川下流の宍塚の般若寺に寄った。多くの文化財を伝えている今は真言宗豊山派のこの寺院もかつて忍性の足跡を残す寺である。といっても、『茨城県の歴史散歩』にも律宗との関わりを記載してはいない。
鎌倉期に叡尊が再興した律宗の法灯は、東国ではほとんど受け継がれなかった。
忍性が東国布教の拠点とした三村山でさえ、わずかに二つの石造物を残すのみの山野に還り、ひとびとの脳裏から忘れ去られた。八千代市の正覚院もまたその由来に直接的な痕跡を残してはいない。
信仰のあるべき原点を示した宗派が、時代に捨てられてしまったのはいったいなぜなのか。殺生禁断の教えにしても、かえって人々を苦悩させたのではなかろうか。
正覚院縁起の世界を追うはずが、なにか大きな問いかけを課せられたような気がする。この答えをも探しつつ、忍性を追う旅の連載を続けていきたい。