2002.2.6 By.ゆみ
「史談八千代」23号(1998年)掲載の同名報告よりの要約
『おしどり伝説と「嵯峨野の釈迦」を追って』(抄)
「おしどり寺」縁起の語る時代
1.おしどり伝説を探る
八千代市村上の正覚院縁起によると、昔の阿蘇沼で平入道真円という男が、1羽のおしどりを射殺した。その夜女人が現れ、「あなたは私の夫を殺しました」といい、「日くるれば誘いしものをあそぬまの まこもかくれのひとり寝ぞうき」という歌を詠んで帰った。一人寝のつらさを訴えにきたおしどりの雌と知り、夜が明けてから見るとくちばしを会わせ合って雌雄のおしどりが死んでいた。
この情愛の姿に心打たれた男は自ら出家し、池のほとりに草庵を結んで「池証山鴨鴛寺」と号したという。
正覚院は、「嵯峨野の釈迦」と呼ぶめずらしい様式の清凉寺式釈迦如来像と、中世武士団の館のたたずまいを今に残し、またおしどり伝説をはじめ「智証大師の霊夢」「片葉の弁天」「池に沈んだ釣り鐘」など数々の伝説にいろどられた真言宗の古刹である。
縁起のおしどり伝説は他にないのか、各県別の民話集や中世の説話集でその由来と分布を調べると、正覚院の縁起に類似した話を21話見つけることができた。
これらのおしどり伝説の話の時代は、中世以降、主人公は猟師または武士で殺生を悔いて出家し、多くはその地の寺の由来か僧の伝記、または塚のいわれとして伝わっている。また半数近くに独り寝を愁うる歌が挿入されているのが特徴である。
分布の北辺は福島県、南は奄美大島に及ぶが、京に近い西日本に少なく、周辺に厚く分布し、このことは柳田國男の「伝説半径」即ち「ある伝説発祥地を中心に文化地におけるその半径は長く、田舎に行くほど短い」という説のごとくドーナッツ状を呈す。
正覚院の縁起も全国に数ある類話の一つであるが、他の類話との比較しながらこの説話の広められた時代の宗教的背景、この説話の意図したメッセージを探ってみたい。
2.清凉寺式釈迦如来像と叡尊の足跡
正覚院には、釈迦堂に鎌倉時代の清凉寺式釈迦如来像が安置され、墓地に応永18年(1411)銘の宝筐印塔が残る。
川嶋家に伝わる「村上正覚院釈迦如来縁起」は江戸時代の延宝2年(1674)釈迦像修理の際に記された縁起で、前半は智証大師が霊夢により印旛の浦にくだった「嵯峨野の釈迦」の御首をたずねあて、童子(毘首羯磨天)の助けを得て釈迦像を完成させる説話、後半は保元のころ保品から本尊を移した平真円とおしどりの伝説からなる。
このおしどり伝説の伝えようとしたものを、清凉寺式釈迦如来像の歴史的背景との関連を考えてみた。
清凉寺式釈迦如来像の珍しい作風は、10世紀東大寺の僧「然が宋より将来した嵯峨清凉寺の釈迦像を模した様式で、鎌倉時代に流行したといわれ、今はその変形像を含め百体位しか残っていない。
鎌倉時代は仏教改革の時代であり、法然・親鸞・日蓮・栄西など新仏教の祖師たちがそれまでの鎮護国家の仏教から、民衆の中で個人の救済と現世での実践を最もラディカルに展開していった時代だった。そして南都の旧仏教の中からも、叡尊とその弟子忍性らが非人救済などの慈善活動や架橋など公共事業、死者の弔いなどにめざましい活動を展開していた。鎌倉の極楽寺には、忍性がハンセン氏病の人々の治療を行った療養施設が立ち並んでいたといわれ、今も薬の製造に使われた大きな石鉢と石臼が境内に残されている。
それまで穢れへのおそれから非人救済や弔いをタブー視してきた官僧たちとは一線を画して、これらの活動に邁進し得た叡尊の思想の原点は、釈迦が生涯をかけて説いた慈悲の精神と戒律の厳守に立ち帰ることであり、その心の支えとして、生前の釈迦生き写しの像として中国より伝来した清凉寺の釈迦如来像を特に崇拝したという。
こうして三国伝来の清凉寺式釈迦如来像は叡尊とその弟子によりたくさんの摸刻が造られ、叡尊の教団の活動した寺々にその教えとともにもたらされた。
その分布を地図上にプロットすると、叡尊の活動した奈良・京都と忍性が拠点とした鎌倉の二つの核を持つ星雲状の楕円を描く。
1998年冬、東国特に房総の「嵯峨野の釈迦」の分布を調べるため、六浦の金沢文庫の図書室を訪ねた。金沢称名寺の本尊も「嵯峨野の釈迦」であり、また35年前この館の館長により古文書を手がかりに、上総三ヶ谷永興寺の清凉寺式釈迦如来像が発見されたことなど、清凉寺式釈迦如来像の資料を探すのに適した施設で、ここでは、永興寺の釈迦像が西大寺の釈迦像と同派の仏師によって造られ、また村上の正覚院の像と茨城県福泉寺もまた同系であることがつかめた。
さらに香取郡吉岡の大慈恩寺の本尊も後に上半身補修のため姿を変えているものの、かつては清凉寺式の像であり、近年の解体修理の際、胎内の五輪塔に明応4年(1495)の銘があった。
金沢文庫の中世文書は、鎌倉の外港・六浦を拠点に東京湾を航路として、北条金沢氏と千葉一族が婚姻や領地支配をもとにした強い関係や、称名寺の僧による教線の伸展を物語っていた。村上の正覚院の住職名や領主名をその中に探せなかったが、鎌倉・六浦・下総・常陸を結ぶ叡尊教団の教線と千葉一族の領地支配の線上に草深い村上の地があったことを確認することができた。
3.おしどり伝説と「嵯峨野の釈迦」が伝える心
各地のおしどり伝説は微妙に違いがあるものの、そのメッセージは慈悲と殺生禁断の教えであり、この教えこそ叡尊がもっとも強く訴え、実践した教えであった。叡尊は宇治川の、忍性は鎌倉の前浜の漁師に対し、その生業を他の仕事にかえて生活できるよう奔走したほど、殺生への戒めは徹底し、まして人が人を殺すことなど絶対あってはならないと、人殺しを業とする武士に説き、多くの武士層を感化した。
おしどり伝説は猟師または狩を好む武士の回心がテーマで、血生臭い中世に不殺生戒と慈悲の教えを説く叡尊教団の宣教の有力な武器として語られたに相違ない。
このおしどり伝説と清凉寺式釈迦如来像の分布を追っている過程で、正覚院のほかにこれらが一対で残る寺院はないかと思ったが、そのような偶然に巡り会うことはなかった。しかし片方は奈良京都の特定の仏師により造られた仏像、他方は民間伝承という形態の違いにより、前者は核を持つ星雲状、後者はとドーナツ状と分布の形は異なっているが、叡尊の信仰を伝える釈迦像とおしどり伝説の分布範囲は、不思議と重なっていた。
五百年以上の間に、全国各地のおしどり伝説は数々のヴァリエーションを生み、清凉寺式釈迦如来像もまた補修などによりその姿を一見して同型と思えないほど変えてしまっているものもあり、またそれ以上に失われたものも数多くある。
正覚院では近世初頭、容貌と衣の模様が変わったものの、釈迦像に丁寧な修理が施され、また「おしどり伝説」も同時期に寺の縁起に記されて、13世紀の説話集「沙石集」の話と比べてみてもあまり時代の変化をうけない形で残された。
村上のおしどり伝説と「嵯峨野の釈迦」は共に、中世の地方武士が現世社会の自己矛盾の中で、後生の救いを真剣に求めたひとつの信仰のあり方を今に伝える貴重な文化遺産であると思う。