2002.2.6 By.ゆみ
−「おしどり寺」村上正覚院の来た道−
T 忍性がたどった中世の風景
U 下総に律宗の痕跡を追って
村上正覚院 絵・By Sekiwa
プロローグ
今から8年前の1996年、日本最古の碑「宇治橋断碑」を見に、宇治橋の傍らに立つ放生院橋寺を訪ねた。
その寺のたたずまいと、断碑を復元した江戸期の人々への感動した私はそのことを「史談八千代」第21号に記したが、もうひとつ、中世のころ、橋の再架橋に挑んだ老僧とその教えと行動に関心を持った。
僧の名は叡尊、西大寺を復興した律宗僧である。
この寺院には、叡尊が再彫したというみごとな地蔵像のかたわらに、衣紋や頭髪に見覚えのある様式の阿弥陀坐像があった。
地元八千代市村上の正覚院の釈迦像と同じ様式の清凉寺式の仏像ではないかと思った時、鎌倉時代の西大寺流律宗への興味は、私にとって身近な問題となった。
橋寺放生院山門(奈良県宇治市) |
橋寺の清凉寺式阿弥陀坐像 |
叡尊には忍性という弟子がいた。「中世を生きた人びと」の名著で横井清が「非人・癩者に直面し続けた律宗僧」とタイトル名をつけたその人である。その足跡は、意外にも湘南から常総に展開していた。
私は1998年、村上正覚院の縁起について『「おしどり寺」縁起の語る時代−おしどり伝説と「嵯峨野の釈迦」を追って』という調査研究を「史談八千代」第23号に掲載した。
今回のシリーズのテーマ「忍性のたどった中世の風景」と「下総に律宗の痕跡を追って」はその続編として、中世の東路に忍性の足跡を追い「おしどり寺」の来た道を解く旅である。
鎌倉時代の宗教史・東国の交通史の中で、村上正覚院の歴史的な位置を見定めていきたい、そんな試行錯誤の旅におつきあいいただければ、幸いである。