2002.9.8 By.ゆみ

8月21日(水)

西安郊外・市内の名所旧跡めぐり


華清池〜秦始皇帝陵〜兵馬俑坑博物館〜半坡遺跡〜大興善寺〜大雁塔

 雨が上がり、驪山にかかる霧が晴れてきた。
 西安から30kmほど東の景勝地。 温泉が湧くこの地に、始皇帝が離宮を設け、漢の武帝も行幸し、唐の玄宗が壮麗な宮殿・華清宮を営んだ。
 この華清池は、玄宗皇帝と楊貴妃の愛を詠った「長恨歌」の舞台、そして1936年西安事件という現代史の舞台ともなった。

 発掘された唐代の浴場跡も「御湯遺跡博物館」として残されている。
 高校生のころ諳んじた白居易の「長恨歌」、それが毛沢東の手で書かれ立派な石碑になっていた。

  「漢皇色を重んじて傾国を思 ふ…」
 で始まり、
  「…温泉水滑らかにして凝脂 を洗ふ  侍児扶け起こすに矯として 力無し
  始めて是れ新たに恩沢を承く るの時  雲鬢花顔 金歩揺
  芙蓉の帳暖かにし て春宵を度る…」
 と、この離宮の出会いが詠われ、楊貴妃との別離と妃の悲劇な死が語られた後、
  「…天に在りては願はくは比 翼の鳥と作り  地に在りては願はくは連理の枝と為らんと
  天長地久時有 りて尽くるも  此の恨みは綿綿として絶ゆの期無からん」
 で終わる壮大なドラマを詠った長詩である。

 ここ華清池と近くの秦始皇帝陵と兵馬俑坑は、どのツアーも必ず立ち寄る観光地で、門外はさまざまな土産物売りが多い。

「御湯遺跡博物館」

驪山のふもと「華清池」


 「長恨歌」詩碑(毛沢東の流麗な直筆)

秦始皇帝陵は、なにもかもスケールが大きすぎる。
500m四方の方墳を外城と内城が取り囲み、その陵園の広さは1km×2kmだったという。
しかも地上部より巨大な地下宮殿の規模ははかりしれないらしい。
項羽の軍30万人が30日かかっても運びきれなかったという地下の副葬品は、まだ手付かずに残っているのだろうか。

秦始皇帝陵 頂上が霞んでいる。

 陵の階段から見た風景。まわりはざくろの果樹園。


頂上で会った親子

1974年、陵園の東1.2kmの畑で井戸を掘っていた楊さんが、偶然発見したという兵馬俑坑
今も発掘作業を行いながら、たくさんの観光客に公開している。


これが有名な兵馬俑坑、巨大な体育館のようだ


土産品を売る外の露店
朱色の虎のぬいぐるみは陜西省の民芸品


 半坡遺跡に立ち寄る。 ここは1953年に発見された6千年前の新石器時代遺跡。環濠集落だったらしく、竪穴住居址などその生活の遺構の一部が博物館内に保存展示されていた。
 観光客は少ないようで、館の中は、土ぼこりがたまって表示板も見難かったが、日本の縄文時代の遺跡と相通ずる土器や住居址、子供の埋葬遺構などに親しみが持て、秦時代の遺跡の圧倒されていた私は、ほっと心やすらぐ感じがした。


博物館の入り口上の人面魚のモチーフ
半坡遺跡出土の、赤褐色の地に黒の紋様の
土器に施されている図柄だ。


縄文紋様の尖底瓶

水を汲むのに便利な形とのこと
中庭の池にはこの土器を持った
少女のモニュメントがある




 西安市内に戻り、門外南部にある古刹を訪ねる。
 大興善寺は西晋時代の3世紀に建立された中国最大の寺院で、隋文帝の582年インドからの3人の僧が入り、唐代には密教経典の漢訳を行うなど、中国での密教発祥の地となった。
 唐の武宗の廃仏毀釈によって845年に破壊されたが、明代に再建、1956年にも修復され、現在も塔や伽藍の新築工事が行われている。
 家族が和やかにお参りする姿や修行僧の姿も見受けられるが、かつての巨刹のイメージは感じられない。
 日本からの密教を学びにきた留学僧も、この僧のように境内を散策していたのだろうか。
 



 西安のシンボル・大雁塔は、648年、唐の第三代高宗が亡母を追慕して建立した大慈恩寺境内にある。
 インドから多くの経典と仏像を持ち帰った玄奘法師の願いによって、五層の塔を建立、その経典や仏像などがその中に安置され、玄奘はこの寺院で、経典の翻訳を続けた。
 700年ごろは10層の高さを誇っていたが、現在は改修を重ね、7層。内部は階段で登りことができ、東西南北の窓から街を見下ろすことができる。
 1300年の歴史の間、震度7以上の地震に二度、その他戦乱にも見舞われながら、この塔は昔日の重厚な雄姿を見せている。


千三百年の風雪と動乱に耐え、聳え立つ大雁塔



大雁塔から望む西安南部の郊外


大慈恩寺にて