2002.10.25 By.ゆみ
8月22日(木)午後
古代の都城址探索アドベンチャーツアーU
前漢長安城・未央宮〜閣老門〜唐大明宮含元殿〜大明宮麟徳殿
遅い昼食をとった後、再び漢の都城祉を訪ねる。
漢の高祖(劉邦)があまりに過ぎたるものと怒ったところ、時の宰相・蕭何は「天下を治めるに壮麗な宮室をもって威を示すべし」と答えたと「史記」が記したかの未央宮。
バスは広々とした草原にとまった。
正面に小高い丘がある。これが未央宮の前殿跡。
前殿とは宮殿区の中で中心なる建物のことで、りっぱな版築の基祉が今も残っていた。
おとといの重い雲はすっかり晴れて、青い空がきもちよい。
草むらには漢代の瓦がころがっている。
頂上からは、西安郊外に広がる田園地帯が望まれるが、どこまでが漢長安城の範囲かはかり知れない。所々の小さな緑の小山が、城址の一部とか。
紀元前2世紀、日本は弥生時代だったころの遺構だ。
未央宮の前殿に上る。 |
この上に巨大な宮殿が築かれていた。 眼下に広々とした耕地が続く西安郊外 |
「漢城文管所」という施設を訪ねた。漢長安城は1950-80年代に発掘調査が行われ、今も保存と調査が続けられているが、その仕事をしているところだ。
所長先生が、団長のY先生と・徐先生の来訪を喜んでくださり、丁寧に説明してくださった。
狭い部屋に漢城復元パノラマ、そして足元に要注意!漢代の「せん」(床用のレンガ)や石でできた水道管、丸瓦などが立てかけてある。
漢城文管所
漢城復元パノラマ
漢代の「せん」(床用のレンガ)
「閣老門」とあるが、地元の人はかえりみもしない。
こんな版築の遺構は、ところどころにある。
次は、唐の長安都城祉をめぐる。唐代の長安は東西9km×南北8kmの都。その長方形の北東に隣接する外郭に634年、高祖の避暑ための宮殿として、大明宮を造営し、歴代の皇帝も、ここで政務をとることも多かったという。太極宮、興慶宮とともに唐長安城の三大宮城のひとつでかつ最大とのこと。
その中にまたまた、大きな宮殿がいくつかあった。含元殿はその中でも規模が一番大きかったとか。
ところがこの遺跡を探すのがたいへんだった。最初「含元殿遊楽園」なる門前でバスを降りた。前に来たときはここから歩いて行けたという。しかしこの有料のアミューズメントパークはつぶれたらしく、今はバザールのように露店や仮設の物売りでごったかえしていて、とても行けそうなく、引き返した。
次に「含元殿村」という入り口から入ろうとしたが、とてもバスが入れそうになく、運転手さんが停車して道を聞いているうち、警官にとがめられる羽目に。
なんとか遠回りし、露店が道の半ばを占拠する街から、スラム化した地域のでこぼこの細い道を抜けやっと、含元殿遺址にたどりついた。
「含元殿村」という入り口→ |
この通りも通行不可のよう? |
悪路を迷いながらたどり着いた含元殿遺址は、復元工事の真っ只中。
日本の支援で、東西の長さ180m高さ13mの崩れかけた基壇を石貼にする大工事だ。
きれいに復元したら、西安の新しい観光スポットになるかもしれないが、やや人工的過ぎて遺跡という風情はどうなるのかなと感じた。
5時近く、やっと含元殿入り口にたどり着いた |
復元工事の真っ只中の含元殿遺址 (クリックすると大きくなります) |
含元殿基壇の上から西安の街中ビルが見える |
主体部の東西両翼には二つの閣があった |
含元殿基壇の旧状 8年前団長のY先生が踏査した際に K添乗員が撮った貴重な写真です |
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(クリックすると大きくなります) | (クリックすると大きくなります) |
含元殿遺址は工事中でも、管理事務所の好意で見学でき、そして、さらにそこにいらしたおじいさんの案内で迷路のような道を無事通り抜けて次の麟徳殿までバスで行くことができた。
麟徳殿遺址には、東西78m×南北130mの基壇上に3つの宮殿があったという。
礎石や版築などの遺構をわかりやすく残してほどよく整備した遺跡で、大明宮陳列館もあって、落ち着いた施設であった。
訪れる観光客は少ないようだが、西安ではお勧めのスポットだ。
麟徳殿の版築などの遺構 |
礎石がわかりやすく復元されている |
郊外の秦・漢の都城祉と市街に隣接した唐の都城祉を見て回った長い一日であった。
古代の宮殿跡は、巨大な黄土の丘として残っていたが、人々の生活はそれも侵食していた。
保存の現状もさまざまだった。規模の大きい有名な宮殿跡はそれなりの保存がされているが、外郭や門祉のわずかな遺構などはほとんど放置されていて、石碑など何であるかの表示があればよいほう、といった感じである。
物好きの都城祉探検ツアーは、また洛陽でもつづくそうだ。 またまた観光地めぐりよりおもしろい旅になりそう。