2005.4.30 By.ゆみ
19 半年前の記憶・遺跡が破壊された10月16日のこと
西側の盛土遺構未調査区の破壊の記録
2004.10.2
2004.10.16
2004.10.23
2005.1.30
2005年4月30日、馬場小室山遺跡の発掘調査が、未調査部分を残して「強制終了」された2004年9月30日から半年目を迎えます。
振り返って見ると、馬場小室山と出会ったこの半年間は、縄文考古学もさいたま市の遺跡についても、ましてそれとかかわる方々ともそれまで未知であった私にとって、波乱万丈な半年でした。
私の馬場小室山遺跡との出会いとこの地の歴史的な背景については、近々発刊される「利根川」27号(発刊:利根川同人)に載せる機会をいただいたので、そちらをお読みいただきたいと思いますが、国史跡級の遺跡が破壊されるという半年前の最も衝撃的なあの日のことを再度振り返りつつ、レポートしておきたいと思います。
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馬場小室山遺跡が調査不十分なまま発掘が終了されるという鈴木正博氏の転載メールをインターネットを介して知り、現地へ急行したのは2004年10月2日の朝でした。
発掘調査の「終了」した静かな現場には、大型住居を含む住居址が累々と重複し、ゆるいマウンドを横断するトレンチの断面には幾層もの堆積が見られ、さらに直径数mほどの円い大きな穴の跡がまだ残っていました。
そのささやかな現地ルポをHPに掲載したところ、これをご覧になった鈴木正博氏から、またこのHPや東京新聞さいたま版の記事で知って現地を見学された方々からもメールをいただき、その反響にびっくりしました。
そして発掘現場は10月11日までは、その姿を保っていたようでした。
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やっと仕事から解放された10月16日土曜日の朝早く、遺跡との再会に心躍らせて私は現地に向いました。
9時半に遺跡に着いた時、重機と樹木が伐採されるすさまじい騒音が轟いているのです。
北側の入り口でガードマンに制止され、現場に入れなかった私は、西側の住宅地境界の路地を迂回して南側の小室神社のほうへと向かいました。
時折、ドスンという樹木の倒れる地響きに、住民の方が家の外へ出てきて心配そうに森の方を見上げています。
結局、小室神社から藪をかき分けて市有地で、作業を見守ることにしました。
ここは周りを盛土遺構に囲まれた中央窪地に当たります。
工事は発掘調査済みの遺構を一気に埋め戻し、あろうことか、未調査の盛土の南西部分の樹木を倒す作業にとりかかっていました。
私は、樹木の伐採は根元をチェーンソーで切った後に、切り株を除くのかと思っていましたが、そうではなく、樹木の周り径3〜4m位を重機で掘り、大木の先端を2台のユンボが引っ掛け、テコのように操って一気に引き倒すのです。
樹齢数百年の大樹は深く根を張っていますから、倒された跡には、直径数mの巨大な穴が開き、その穴は次の作業の足場の確保のためすぐに埋められます。
その技能の手際よさに、ここが遺跡の森でなければ、ただ感心して見とれていたことでしょう。
でも、相手は生きている樹木です。
しかしここは、夏の間、竹べらでミリの単位で丁寧に削るように掘っていた調査区の延長線上、しかも盛土の頂点部分なのです。
遺構の堆積層、最も貴重な遺物包含層を破壊するという事態を目前に、たった一人の私はただ立ちつくだけで、なすすべもありません。
そして、遺跡の最重要部分の破壊というこの現場に、なぜ行政の文化財担当者が立ち会っていないのか、怒りより悲しみが突き上げてきました。
この衝撃を誰かに伝えられないのかと思ったとき、携帯電話を持っていたのに気づき、家にいた夫にその現状をしどろもどろに伝え、HPの掲示板に伝言メモを頼みました。
呆然としてもしょうがないので、望遠でカメラのシャッターを切り続け、ほぼ樹木の伐採が終わり、作業の一段落する昼の休憩を待ちました。
警備の方に断って工事現場に近寄ると、無残にも大型の土器片が多数散乱しています。
この土器片も、倒してからチェーンソーで切った樹木の木屑とともに午後には埋められてしまうことでしょう。
午後1時ごろ、埋め戻し作業と樹木の搬出作業が始まるのを待って、現場を後にしましたが、掲示板の伝言に驚かれた鈴木正博さんほか遺跡に心寄せる方々が、午後現場に駆けつけられたとのことでした。
2004年10月16日の遺跡破壊の記録 | |
2005.10.16 AM10:04 未調査の盛土遺構が破壊される |
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昨年のこの頃、まだ鈴木正博さんや加津子さん、飯塚さんとお会いしたことも、考古学や遺跡の保存に興味をもつ方々とお付き合いもなく、偶然とはいえ一人、遺跡の最期に立ち会ったこの2004年10月16日は、私にとってはあまり思いだしたくない日でした。
当時は、悲観的になるのがいやで、詳しくはHPのルポにも書かず、画像データ集を見直すのもおっくうでしたが、半年たって「貴重なドキュメントですので、10/16に撮影された破壊の衝撃を改めてルポして頂けないでしょうか」という要請をいただき、あらためてHPに再編集した次第です。
このようなドキュメントを二度と記録することがないことを祈りつつ、今後は皆様との連帯の中で、自然と文化財を守っていきたいと思っています。