2005.5.06 By.ゆみ
20 五月、新緑の「史跡・馬場小室山」のなかで
5月4日 新緑の史跡・馬場小室山の自然と盛土遺構の観察会
さいたま市の史跡に指定されて初めての現地見学と研究会は、2005年5月4日、立夏を迎える最も新緑の美しい日の催しとなりました。
この日も雲ひとつない青空の下、市民の歴史サークルへのチラシ配布や、飯塚さんの地域のニュース「ばんばおむろ山」6500部の新聞折込みで知った歴史や文化財に興味のある方々、近くからの家族連れが、おおぜい集合場所の小室神社前の路地に集まりました。
今回初めてという方も多く、まずは「縄文の森の自然を残して」と署名運動や、市へのさまざまな働きかけを行ってきた飯塚さんからこれまでの経過を説明、「馬場小室山のかたりべ」を自称する鈴木正博さんが遺跡について考古学的な解説をされたあと、植物や鳥などの自然観察に詳しい先生を二人ご紹介しました。
この研究会は、プロはもちろん、役に立つことは何でもだれでも教えあう教室なのです。
そしていよいよ、武笠家のお屋敷を通って、遺跡へと向かいました。
ご近所からも遠くからもこんなにたくさんの参加者!
飯塚さんが「ばんばおむろ山」ニュースを資料に
縄文の森の保全運動の経過を説明
さっそく「史跡小室山」の市有地に入る
鈴木正博先生が森の中で「環状盛土遺構」を説明
史跡の解説プレート
ここから出土した土偶や耳飾の写真付き
市有地となりの住宅建築現場からは
工事に伴って、いまだに土器が散乱
加曽利E式かな?
このかけらはなあに?
この縄の模様のあるかけらは、
こんなかたちの土器のこの部分だよ。
小室山の植生
森を歩きながら、また最後に植物に詳しいN先生に、この森の植生についてお聞きしました。
お聞きした時のメモに寄れば、史跡として残されたこの森は、イヌシデ(カバノキ科)、シラカシ(ブナ科)、ムクノキ(ニレ科)、 そのほかもケヤキ(ニレ科)、コブシ(モクレン科)などの落葉樹が見られるいわゆる雑木林です。
林の下のほうには、日影を好むアオキ(ミズキ科)が多く生えていますが、何時ごろかに植えられたモウソウチク(イネ科)がはびこっているのも特徴です。
草花は、ムラサキハナナ(別名:ハナダイコン アブラナ科)やチゴユリ(ユリ科)のほか、斉藤先生のお話では擬縄文を土器に施す時にも使ったというヤエムグラ(アカネ科)などが生えています。
また、灌木では、ちょうどタラノキ(ウコギ科)が食べごろの若芽(タラノメ)をつけていました。
最後に、森をバックに記念写真を撮りました。
何人ぐらいかわからなかったほどたくさんの参加者、数えてみるとその場にいなかった方を入れて、この日はなんと48名もいらしたのですね。
イヌシデ・シラカシの林
新緑の中で、午前の部の記念写真
午後の部は公民館で
三室の里道を歩いて、三室公民館に到着。
この会場は、事前申し込みで参加者が30名を超しそうといううれしい悲鳴から、急遽、1月に小室山セミナーを開いたこの公民館をとっていただきました。
飯塚さんのオリジナル曲「ボサノバ・小室山」などのピアノ演奏を聴きながら、昼食。スクリーンには、遺跡が破壊される前の小室山の森を撮ったビデオや、発掘現場のスライドなどが映し出されました。
さて、休憩後は、いよいよ土器整理の実習が始まります。
遺跡の跡地に住宅が建ち並んできた。遠くからもその屋根がかすかに見える。
ピアノの演奏をBGMに、小室山遺跡の経過が映し出されると、皆夢中!
見沼田んぼの「馬場小室山第2遺跡」で採集した土器を洗う
休憩後、自治体で埋蔵文化財のお仕事にたずさわってきた方が先生役をつとめ、土器などの文化財資料の整理の流れを解説、そのあと、屋外に出て、土のついたままの土器を洗いました。
この日扱った土器は、皆で3月27日に、遺跡からの土が見沼田んぼの埋立てに使われた「馬場小室山第2遺跡」で採集した土器片です。
ダンボール一箱分もありますから、十数個のバケツを使って、おおぜいで人海戦術です。初めて参加された方も、複雑な紋様の大きな土器片にびっくり。
水に入れて、歯ブラシで丁寧に洗い、新聞紙の上に乾かします。
これはどんな土器のかけらなのか、時代は?土器の型式は?、質問攻めに鈴木先生も斎藤先生も解説に大忙し。
そのうちプロ同士でも熱い討論が交わされ、これは珍しいと感嘆の声も聞かれます。
さわやかな風と陽光の中で、土器片を洗う 「おう、これは珍しい」
左のは、安行2式の深鉢口縁の突起部分
△の刻みに、晩期の東北の影響がみられる?
「ここに太く紋様帯が・・」
(手前は黒く磨かれた安行の精製土器)
馬場小室山遺跡研究会第5回ワークショップ
土器の吟味を楽しく続けていては果てがないので、一応午後3時ごろ終わり、公民館の教室で、前回に続く縄文集落と住居構造について研究最前線の勉強会を始めました。
前回3月27日の第4回ワークショップでふれられた柄鏡型住居の構造解明に不可欠な敷石住居の事例について、講師は大学院で考古学を学ぶ若手研究者です。
まず総論として、2002年早稲田大学公開討論での山本暉久氏のレジュメ「縄文時代の敷石住居に関する諸問題」にそって、敷石住居に関する研究史と敷石住居の分布と変遷を紹介。
研究史では、配石遺構との一体視による非住居説(祭祀用特殊施設)と、山本暉久氏の一般住居説があり、分布では平成13年現在1031遺跡を分析、関東・中部地方を中心に分布しているが、千葉・茨城県では敷石をもたない柄鏡型住居が多い。
敷石住居の時期は、完成された柄鏡型敷石住居の出現は、中期終末期の加曽利E式末期で、終焉は後期中葉の加曽利B式期。 張出部の形状は出入り口として晩期まで残存するとのことでした。
柄鏡型住居の事例では、1924〜26年に調査され古くから知られている町田市高ヶ坂遺跡群、氷見市朝日貝塚、市川市姥山貝塚の例をはじめ、その他、王子の台遺跡など神奈川県の事例など最新の調査報告書から丹念に集めた実測図や写真を多数載せた図版レジュメをつくって丁寧に紹介してくださり、まだ謎とされる柄鏡型敷石住居について理解を深めました。
続いて、前日のニュースで縄文時代の編み籠が出土して話題となった「東名(ひがしみょう)遺跡」など注目される西日本の低地遺跡についてもうひとかたからお話いただき、最後に鈴木先生から『大森貝塚』について、原文の“Contents”を資料に近藤義郎・佐原真の名訳に隠れた自然科学的文章本来の意味についての宿題が出され、午後5時、会場の都合もあって閉会となりました。
昨年12月の第1回ワークショップは、午後6時に終わった頃、外は真っ暗でしたが、五月の今回はまだ日が高く、初めて参加した皆さんや講師を務めていただいた方々と一緒に東浦和駅に出て、懇親会となりました。
見学会には幅広い住民・市民に、研究会は最前線の考古学を探求したいと思う研究者と市民に支えられ、すっかり三室の地に根をおろしたようです。
植物名からは、HP「植物園へようこそ!」の各ページへリンクしています。リンクフリーで提供してくださっている管理人 Shigenobu AOKI さんに感謝します。