2010.4.8
By さわらびY(ゆみ

49 -2010.4.4 明治大学博物館友の会行事に協力-
春爛漫
見沼通船掘馬場小室山遺跡を訪ねる見学会

 「明治大学博物館友の会」主催による「第5回会員案内による地元見学会」として「見沼をのぞんだ縄文の村・馬場小室山遺跡と国史跡・見沼通船堀を訪れる」というイベントが、同友の会会員でもある「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」のメンバーにより昨年から企画検討されて、見沼が最も美しい桜満開の季節に行うことが決まり、2010年4月4日のこの日を迎えました。

 明治大学博物館は考古部門のほか、刑事部門・商品部門も有名で、友の会会員には、近世・近代史に造詣の深い方も多く、参加された皆様には、お花見をしながら、見沼の近世開拓と水利・交通の国史跡「見沼通船堀」と、見沼を望む縄文集落「馬場小室山遺跡」という2つの史跡を見ていただこうという欲張った企画になりました。。

 この春は天候が不順で、雨風や急な寒の戻りの日も多かったのですが、この日は待ってくれていたように桜が満開。曇りがちでしたが、風や雨の心配のない絶好のお花見日和に恵まれ、41名が参加しました。


T見沼新田開発と見沼通船堀の歴史を学ぶ  
 
東浦和駅前の赤山街道から坂を下ると、見沼代用水の西縁に出ました。 ここから芝川を渡り、川口市側の東縁まで約1kmの通船掘を歩きます。


   
  通船堀西縁閘門(一の関)の横を通ります。          満開の桜の下の堀の斜面は、ショカツサイ(ハナダイコン)が紫の絨毯のよう。
 午前中は、青木義脩さん(元浦和市教委文化財保護課課長、明大考古学OB)のご案内で、見沼新田開発と見沼代用水、そして見沼通船堀の歴史を学びました。

 芝川と東西の見沼代用水を結ぶ見沼通船堀は、江戸時代中期、水運の目的で作られた我が国最古と言われる閘門式運河です。

 縄文早期から前期前半に、奥東京湾の海であった見沼は、縄文前期後半から海岸線が後退して、その縁の台地上に縄文中期〜晩期の遺跡をはぐくんだ奥深長い入り江となり、さらに弥生時代には多数の沼が繋がる広大な沼沢地となりました。

 中世までその支谷に谷津田が展開していたものの、広大な見沼は手つかずの湿地で、新田開発が試みられたのは江戸時代になってからでした。

 1629年、関東郡代の伊奈忠治が「八丁堤」のダムを建設して設けた貯水池「見沼溜井」により下流の新田開発は成功。しかし一方、見沼周辺では多くの田畑が水没するなど困窮を極めたとのことです。

 見沼通船堀に先立つこの八丁堤は、現在も赤山街道として活用されています。
 国史跡・見沼通船堀に追加指定された堤沿いの水神社や木曽呂の富士塚などとともに、この八丁堤も歴史的景観の保存という観点から史跡としての追加指定が待たれるところです。

 百年後の享保12年(1727)、享保の改革の新田開発として、将軍吉宗に登用された紀州藩士・井沢弥惣兵衛により再開発が行われ、その半年後の享保13年に上流域の見沼新田ができました。

 井沢は溜井に代わる水源として、見沼代用水を利根川から約60kmにわたり開削して東西の縁に引きこみ、八丁堤の真ん中を開いて排水を芝川に流しました。

 この開発で見沼は肥沃な穀倉地帯となり、さらに、3年後の享保16年(1731)見沼通船堀により、江戸とを結ぶ見沼通船が開通、見沼代用水流域の川船輸送が可能となりました。
 
 通船堀ができたのが、見沼代用水による新田誕生の3年後だったのはなぜか。青木さんの解説では「年貢米を江戸に運ぶため。新田ができて3年間は年貢が免除されたから、その間は必要でなかった」とのこと。
 通船堀は、まさに年貢米輸送が目的で、その操業も灌漑用水の必要がなく年貢米を運ぶ秋から冬の季節限定でしたが、公設民営で多目的に利用され、近世の商品流通の発展に寄与しました。


                                東縁の閘門(二の関)⇒

見沼代用水西縁から西縁側の通船堀〜八丁堤〜芝川に架かる八丁橋〜東縁側の通船堀〜東縁を閘門設備などを見学、約1kmを往復しました。
  
八丁堤沿いの鈴木家住宅(江戸後期の建立)見沼通船の差配に任じられ通船の経営を行っていた屋敷     復元された東縁の閘門(一の関)

 LINK⇒見沼の春1(さいたま市緑区 通船堀にて)

U 見沼をのぞんだ縄文むら-馬場小室山に学ぶ-

 三室公民館で昼食、午後は馬場小室山遺跡市民フォーラム市民も案内役に協力。
 浅野光彦さん制作のビデオ「見沼をのぞんだ縄文むら-馬場小室山に学ぶ-」を、また明大博友の会会員で馬場小室山遺跡と縄文考古学を愛し2008年秋に亡くなられた橋本敏朗氏を偲ぶビデオを上映しました。

 そして市民フォーラムから、事務局の飯塚さん御夫妻、画家の井山さん、友の会会員でもある鈴木正博さんから馬場小室山遺跡についての考古学上の意義と市民活動の経過などを説明、14時に公民館を出て、遺跡に向かいました。 

Link ⇒
この日のレジュメ  
  
三室公民館でのビデオ上映と遺跡の概要説明は、馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラムがホスト役です。    さあ、遺跡に向けて出発!

  
小室山を江戸時代前から里山として所有管理していた旧家の前を通り、三室中学側から馬場小室山遺跡に到着しました。

  
三室中学の桜と遺跡北斜面のショカツサイの群落が美しい。     縄文人の残した高まりと中央くぼ地の高低差のある景観に感動の声が・・・


V 見沼の景観と遺跡を探勝し、浦和博物館へ

 馬場小室山遺跡の「窪地」と「土塚」のある景観を観察して、見沼田圃が眼下に一望できる馬場北遺跡に移動。
 この見晴らしのよい高台の一角では、弥生時代の環濠集落跡が発見されています。

 巾着のように入り組んだ支谷から見沼田んぼの低地へ下り、見沼代用水西縁の桜並木を歩き、北宿遺跡の地にある浦和博物館へ向かいました。
                             
  
 広い見沼田圃を一望する馬場北遺跡で、青木さんから見沼の地理と歴史をお聞きしました。         西縁沿いの道は桜が満開です。 

 さいたま市立浦和博物館は、青木さんのお話では、浦和レッズのエンブレムのデザインの一部になっている明治11年に建てられた旧埼玉師範学校校舎「鳳翔閣」の中央部を復元した由緒ある建物なのだそうです。

 見学のお目当ては、もちろん馬場小室山遺跡第51号土坑から出土した縄文晩期の人面付き土器と、遺跡くぼ地の南側から出土した縄文晩期
(安行3a)土偶装飾付き土器
 人面付き土器は昨秋大英博物館で展示され、明大博物館友の会行事でも1月21日、東京博物館に出品されているその姿を見てきたばかりですが、馬場小室山遺跡やその周辺の遺跡で出土した土器や遺物と一堂に並ぶ姿は、また格別な感じがします。

 そのほか、見沼通船堀の閘門の縮小模型や、見沼新田開発の歴史を語る享保16年「大崎村検地帳」など、改めて熟覧しました。

 午後16時20分、浦和博物館の前で友の会会長ほか案内役の役員のあいさつで、この日の行事を締めくくり、解散しました。
  
さいたま市立浦和博物館の正面外観は「鳳翔閣」の中央部    馬場小室山遺跡などの出土品の展示、お目当ては人面付き土器?

 明治大学と馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラムは、第32次遺跡調査の発掘ボランティアを始め、市民による考古学活動のに同大学が管理運営する「大久保基金」から援助をいただくなど、数年来、相互に協力を密にしてきました。

 また明治大学博物館友の会会員であった故橋本敏朗さんをはじめ、数名に及ぶ友の会会員による馬場小室山遺跡への関わり、さらに本年1月30日、友の会主催の2010年会員発表会で「馬場小室山遺跡と市民交流」と題した発表を行うなど積極的な活動をしてきました。

 今回は、縄文遺跡は初めてという方々にも多く参加していただき、見沼という環境で営まれた原始から近世の人々の歴史を知るとともに、市民による地域貢献の姿にも触れていただいたことは、明治大学博物館友の会と、馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム双方の今後の活動に役立つ一歩となることでしょう。

 次回の馬場小室山遺跡での活動は、5月4日(みどりの日)、恒例の遺跡クリーンアップ大作戦です。お楽しみに!
 
LINK⇒見沼の春2(さいたま市緑区 見沼代用水西縁&馬場小室山遺跡にて)


馬場小室山遺跡について詳しく知りたい方は
⇒馬場小室山遺跡の「環状盛土遺構」と考古学研究上の意義(2005 鈴木)