2015.9.1
By さわらびY(ゆみ

76 2015夏 第3回「山田湾まるごとスクール」の旅

 2015年8月21日から23日の3日間、、NPO野外調査研究所、馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラムと新潟大学災害・復興科学研究所の主催で、3回目の「山田湾まるごとスクール」が開催され、各団体の呼びかけに、葛飾考古学クラブのメンバーも参加して、総勢22名で行われました。

 2011年3月の東日本大震災の被災地を、一度は自分の目で見てみたいとの希望で、今回初めて参加された方も多く、フレッシュな視点での研修旅行になりました。

T 第1日目(8月21日) 震災の爪あとから防災・減災を学ぶ

 21日(金)、正午に新花巻駅集合で「山田湾まるごとスクール」のツアー一行は、一路バスで山田町へ。

 途中、釜石-大槌町の被災地を車窓から見学。街は高台移転や地盤の嵩上げ工事真っただ中ですが、吉里吉里海岸の45号線陸橋の欄干は津波の引き潮で曲がって倒れたままの風景でした。

 三陸ジオパークの浪板海岸でいったん下車、ここは海からの波が寄せては返さない「片寄せ波」で知られる砂浜でしたが、地震で地盤が沈下し、砂浜がほぼなくなっていました。

 砂の代わりに礫がたくさん集まっているところで、地質学の高原勇夫先生から岩石や地形などについて説明いただきました。
 先史時代の石器に手頃ないろいろな種類の丸石や細長い大小の石がありました。




 山田町に到着して、さっそく、山田北小学校の裏手にある房の沢遺跡を見学に行きました。

 房の沢遺跡は、関口川奥の丘の斜面に広がる平安時代の首長クラスの蝦夷の古墳群で、中腹部は三陸縦貫山田道路建設で消滅し、現在はインターチェンジ建設工事のため、山田道路より上の房の沢W遺跡が調査中でした。
 
 2002年夏の第1回山田湾まるごとスクールでは、小学校から山田道路まで藪こぎをして登り、斜面林に埋もれた古墳群を見にいきましたが、昨年、奈良県在住の方からの寄付金で作られた立派な避難階段が完成していて、登ってみるとテラス状の広場から、古代人が眺めた山田湾を望む風景を眺めることができました。

       

房の沢遺跡のある山の斜面には、津波避難用の階段と、その上には広場が整備されていました。
 津波の被害を免れた山田町の庁舎や図書館などのある高台にバスを停め、隣接した山田八幡宮に参拝したあと、鳥居の脇の昭和8年大震災津波記念碑について説明、記念写真を撮りました。

 この津波記念碑は、昭和8年(1933)の三陸地震による大津波の後に、朝日新聞社よりの配当された義捐金で建てられた石碑で、わかりやすい言葉で、地震直後の高所への避難などの五か条の教訓が刻まれています。
 同様の趣旨の記念碑は三陸の被災各地に2百基ほど建てられ、山田町全体でも6基あります。
     
山田八幡宮参道脇の昭和8年大地震津波記念碑にて

 午後5時ごろから、山田町図書館の一室で、今日一日を振り返りながら、山田湾の近代史を学ぶ勉強会を持ちました。
 講師は、新潟大学の中村元先生。 また山田町の郷土史家で山田史談会会長の川端弘行先生もお越しくださり、お話が盛り上がりました。

 中村先生の講義では、@先史古代から大地震による津波災害があっても繰り返し住む歴史、A昭和の戦争遺跡が意外に残っていること、Bイルカやクジラ漁を中心とした社会経済的側面の3点がポイントで、今後の研究には、大浦郷土史研究会会誌『大網』に掲載された史料を活用することが大事であると述べられました。

 川端先生のお話では、湾内の海が深く、波穏やかな山田には、江戸時代から明治の始め、オランダ船やイギリス東洋艦隊など外国船が来ることが多く、また早かった。
 明治初期にはハリスト教会も建てられた先進的な町で、今は新幹線の駅から山越えしてくるので遠く感じるが、海上交通では江戸や外国と直結する地域であった。
 また大浦は漁の際の伝令には電話が必須で、陳情の成果で当時の電話普及率は最高、また平成元年当時も大浦は景気もよくて下水道処理場ができ、各家の敷地内の配管の費用は漁協が負担したので、下水道普及率もよかったとのことでした。
      
左:講義をされる新潟大学の中村元先生                                右:山田史談会会長の川端弘行先生
勉強会の後、夜は、参加者全員で山田町で夕食を共にし、釜石市街地の新しいビジネスホテルに泊まりました。

U第2日目(8月22日) 山田を見て・触れて・繋がって!山田を堪能する 
 
 22日(土)の朝は、小雨が降ったりやんだりでしたが、午前中、まずは山田湾と船越湾の間の、田の浜地区の海蔵寺を訪ねました。
 由緒ある古刹でしたが、東日本大震災の津波で本堂や鐘楼もすべて流され、鐘楼の基壇と標柱だけが残されていました。
 
 またこの海蔵寺には、過去の津波で流されても後に見つかったという正和四年(1315)銘の大日如来種字の板碑がありましたが、今回2011年の大津波では流失して、まだ見つかっていないとのこと。
 現在は、山田史談会会長の川端弘行氏が撮られた写真と、千葉和弘氏が採った拓本だけが残されて、山田町の中世を語っていました。
      
左:海蔵寺に残った寺名標柱前にて、道路の左手の公園園地は嵩上げ工事用の土砂置き場になっている
右は、流されてまだ見つかっていない海蔵寺所蔵の中世板碑の拓本と、それをもとにした図


 海蔵寺の次に、船越の鯨と海の博物館を見学しました。

 2012年と2013年の夏、訪ねたときは、周囲のガレキ置場に埋もれるように建っていて、玄関のガラスも破られたままの姿でしたが、今年は内外装共にリニューアルが進んでいました。

 再オープンは、船越半島にかかる道の嵩上げと、公園などの整備がされるころとのこと。
 奇跡的に助かった世界最大のマッコウクジラ骨格標本も、その時は皆さんにご披露されることでしょう。

 館長さんに、震災時とその後の大変だった復興への道のりを詳しく説明いただき、感慨深い見学でした。
鯨と海の博物館、雨上りのアプローチで記念写真を撮りました

玄関の左上には、「つなみ 2011.3.11」のサインが描かれている

後ろの橋は高く土盛りされた道路になるので、
ここからの山田湾の眺めも今年が最後かも?


 続いて、船越半島の大浦の仮設住宅にお住いの川端先生をバスにお乗せし、半島の緩い峠道を通って、小谷鳥港へ。

 ここは、今年1月の山田史談会との交流会の際、川端さんに、津波で一時的に小谷鳥浜に姿を現した製塩遺構について説明していただいた場所です。
 この日は、折からの台風の余波の大きな波が勢いよくうちつけて、仮堤防の土嚢も流され、砂鉄を含む黒い砂浜があらわになっている状態でしたので、浜には下りず、ここまで津波が来たという高台の道路から、川端先生のお話をお聴きしました。

 小谷鳥は、山田湾に面した大浦と異なり、湾が外海に開いてしているので、今日のように海が荒れることもあり、また2011年の地震による津波被害も大きく、この道路を下りた山裾のやや高い所にあった公民館に避難していた方が多く亡くなられたという悲劇がありました。


この高さまで津波が来たという場所から小谷鳥港を望む

製塩遺構が見つかったというあたりの
仮堤防の土嚢も波にさらわれている

 22日の午後からは、今回の山田湾まるごとスクールのメーン行動である川端弘行先生が蒐集された縄文土器の整理作業を、全員で体験。今回は、山田町の仮設の整理室をお借りして土器の洗浄を行うこととしました。

 その準備のため、昼前に小谷鳥からまた大浦へ。漁港のすぐ近くで、津波で流された川端先生の屋敷跡に建てられた仮倉庫から、川端先生の考古・民俗・歴史資料コレクションから、土器類を運びだし、バスに積み込みました。
   
川端先生の屋敷跡の仮倉庫から、土器を運び出しバスへ積み込みます。                メカジキの角標本も出てきました。

 今回の川端コレクションの整理は、川端先生が永年にわたって生徒さんと集められた土器や石器の洗浄作業です。
 拾われた時の土のほか、津波の泥も被っていますので、念入りに洗いました。

    
土器の洗浄は左手前の盥で土を落とし、2回すすいで、右下のように拭きます。   右:メモのついているものもありました。
      
縄文前期から中期の土器                      土偶の手     中空土偶の脚
 
作業にお借りした山田町の整理室前で、川端先生、山田町の文化財担当の川向さんと。  
こんなに洗いましたが、青いケースに詰め替えた土器がまだこの倍ぐらい残っています。
その整理は、また次回のまるごとスクールでのお楽しみです。


 土器洗いの作業の後、夕暮れ迫る中、津波被害の大きかった織笠地区の高台移転用造成地へ行きました。

 この造成地は、、復興工事の調査のため応援に来られていた大阪府派遣の横田明さんと滋賀県派遣の北原治さんが、一所懸命に試掘調査された山林でした。
 2012年8月の第1回山田湾まるごとスクールのとき、この台地の下のコンビニ駐車場で、お二人にその状況などをお話いただいたことが思い出されました。

 急ピッチで進む造成地には、もう新築の家が二、三軒立ち始めていて、山田町職員の川向さんのお話をお聴きしながら、ようやく復興の兆しがここまで来たことと、感慨深く実感しました。
 
2012.8.23 お話されている横田さん北原さんの後ろの台地が、お二人が調査に携わった織笠地区の高台移転予定地です。
  
左:川向さんに高台移転の経過をお聴きしています。      右:地山を切り崩した崖の地層を観察しながら、何かしてますね。

夜は、山田史談会会員の皆様とまるごとスクール参加者の交流会を、復興工事最中の街中の仮設の居酒屋で、開きました。


V 第3日目(8月23日) 蝦夷の辿った軌跡を巡る

 最終日の23日(日)、釜石のホテルを出発、この日は釜石市立鉄の博物館と釜石市郷土資料館を見学、遠野経由で新花巻駅まで行きます。

 高台にあったため、津波に被災せず、一時救援拠点として使われた釜石市の鉄の博物館、2011年3.11後の三陸では見学可能な数少ない博物館でしたので、2012年8月の山田湾まるごとスクールでも見学したところです。

 今回は、三陸の古代製鉄や地質について学んでいましたので、近代製鉄の始まりとなった「橋野高炉」のしくみや歴史のほか、鉄鉱石や東北の鉄文化、鉄と人との関係など、興味深くじっくりと見学できました。

       右の写真は、屋外展示の釜石-大橋間を走っていたC20型機関車と鉄鉱石
                                    (館内の写真は公開不可)
 続いて、釜石駅前の釜石市郷土資料館へ。2011年の津波は釜石駅前まで押し寄せ、釜石市戦災資料館は全壊状態になりました。
 郷土資料館はかろうじて浸水を免れましたが、しばらく休館し、収蔵庫の浸水た資料の洗浄や整理などが行われたそうです。
 製鉄遺跡や古今の津波に関する展示、おしらさまなどの民俗資料もいろいろあって釜石の歴史民俗を知ることができます。

 また、八雲町遺跡や石応禅寺裏遺跡などの考古資料も多く、特に縄文土器と石器について、今回は、齋藤弘道さんに丁寧に説明していただき、前日、土器洗いした際の土器片がどんな形の土器なのか、またその時代による特徴について、あらためて復習することができました。
 
         
釜石市郷土資料館(緩い坂の上で津波の浸水を免れた)         縄文土器について齋藤さんのレクチャー     
(展示品の写真は公開不可)
 この後は、釜石市郷土資料館前のシープラザのテント開かれていた釜石市食育フェスタで、ホタテガイ釣りなどのイベントを楽しんだり、釜石駅前のサンフィッシュ釜石で三陸のお土産を買ったりして、11時半に釜石駅前を出発し、一路遠野へ向かいました。



 バスで一時間ほどで、遠野に到着。
 遠野は2013年の第2回山田湾まるごとスクールの往路で立ち寄り、「とおの物語の館」をで、昔話を聴いたり、柳田國男の資料などを見学しましたので、今回は、埋蔵文化財資料を展示している「遠野まちなか ドキ・土器館」を皆で見た後、遠野市立博物館ほか、遠野の街の資料館や史跡を自由に楽しむ時間を持ちました。

 「遠野まちなか ドキ・土器館」は、木のぬくもりのある古民家風の建物で、見て触れられるとても感じの良い展示ギャラリーと、交流サロンもあるアットホームな懐かしさのある資料館で、さすが遠野らしい素朴なセンスが光っていました。

 ここでは、明治時代の「遠野物語」にも記述のある「デンダラ野」の土器片資料や、柳田國男と親交のあった伊能嘉矩所蔵の壺形土器など、遠野ならではの展示品のほか、縄文後期晩期の「栃洞遺跡」の土器や奈良平安期の「PT遺跡」など最新の調査による資料を見ることができました。
      
   左:商家風の「ドキ・土器館」にて          中: 触れるコーナーにて(つい、分類しています)   右:伊能嘉矩所蔵の壺形土器
          
   左:栃洞遺跡の縄文後晩期の鉢   中:張山遺跡の縄文中期の器台   右:綾織新田遺跡の石棒・石剣と椛川目遺跡の湾曲した石刀
 「ドキ・土器館」の後は、遠野市立博物館、その背後の鍋倉城跡、とおの物語の館などを自由に見学しました。

 遠野市立博物館は、「遠野物語」の文章の垂れ幕の後ろに、逸品の実物をほのかに照明を当てて展示してあり、幻想的な雰囲気で、エントランスの地形ジオラマスクリーンもよくできていました。

 この遠野市立博物館は
、中近世の鍋倉城の裾の大手門横に立地しています。
 鍋倉城跡へは、博物館脇の鳥居から南部神社まで長い階段を登り、そして神社からさらに登ると、土塁の残る本丸広場にたどり着くことができます。 途中、三の丸の展望地からは、鍋倉城下の遠野盆地が眼下に望めました。

 午後3時半にバスに集合して、遠野を最後に新花巻駅へ向かいました。
     

遠野市立博物館と南部神社参道                鍋倉城跡から遠野盆地を望む
(博物館内の写真は公開不可)
 新花巻駅には、午後4時半に到着。ここで解散の挨拶をして、2泊3日の第3回の2015山田湾まるごとスクールは、無事終了しました。

 今回は、復興只中の山田町と釜石市内の街の様子を直に見ながら、被災して失われそうになった貴重な歴史資料について学びながら、土器の洗浄などを体験し、また川端先生および山田史談会の皆様と交流を深めることができました。

 特に、江戸や海外に直結していた山田湾の歴史、津波被災後の博物館資料館の復旧に努力された方々や埋蔵文化財調査のため応援に駆け付けて奮闘された自治体職員のお仕事を知り、感銘を受けたことも大きな成果でした。

 最後に、仮設住宅で頑張りながら、いつものように暖かく迎えて教えてくださった川端先生と山田史談会の皆様、山田町文化財担当職員の皆様にあつくお礼申し上げます。  また来年夏、山田に来ます!


これまでの「山田湾まるごとスクール」の旅の記録

58 大震災後の三陸被災地に学ぶ  2012.8.23〜25 「ワンダートラベラー 山田湾まるごとスクール」

61 「古代の山田湾文化を知る!」第2回山田史談会・山田湾まるごとスクール交流研究集会

62 海と山と人々が語る自然と文化、そして震災復興への新たな一歩=第2回「山田湾まるごとスクール」旅の記録

72 川端コレクション縄文土器と製塩遺構に学ぶ山田湾-第3回山田史談会・山田湾まるごとスクール交流会-