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1200. Re: 入鹿の母 さわらびT  2004/01/22 (木) 22:43
まさみさん

勘違いで、渋谷をうろうろしたわけではないですよね。

> 入鹿の母は波多氏の枝族で入鹿は林臣・林太郎などとも呼ばれていたそうです。

波多氏なら確かに武内宿禰後裔(羽田八代宿禰系)ですね。

> 葛城氏ですが、天智天皇は葛城皇子、また欽明天皇の皇子も葛城皇子なんですよ。なぜ、「葛城」の名を冠したのでしょう?

通常、養育氏族の名がつけられるといわれてますので、間違いなく葛城氏が養育にあたったということでしょう。しかし問題は、葛城氏は五世紀(雄略期)に滅亡もしくは没落しますから七世紀に有力な王族の子弟を養育した「葛城氏」となに?という疑問が出ますね。

「天智天皇」の生涯そのものが謎に満ち溢れてますから、(たとえばなぜ乙巳の変直後も、孝徳没後もすぐに大王にならなかったのはなぜ?)、このあたり想像力が膨らむところですね。




1199. 入鹿の母 まさみ  2004/01/22 (木) 09:59
わらびさま、こんにちは。
シルクロードの会はきのうだったのですね。ははは。(勘違い!)

>ところで入鹿の母って誰ですか?物部氏でしょうか。
入鹿の母は波多氏の枝族で入鹿は林臣・林太郎などとも呼ばれていたそうです。
日本書紀が藤原氏意図によって編纂されたなら、武内スクネの後裔はことごとく「悪」の文字を着せられているので、藤原氏にとっては、やっかいな氏族だったのかな、と思っています。

葛城氏ですが、天智天皇は葛城皇子、また欽明天皇の皇子も葛城皇子なんですよ。なぜ、「葛城」の名を冠したのでしょう?




1198. Re: 蘇我氏の出自は? さわらびT  2004/01/22 (木) 00:22
『日本書紀』推古32年10月癸卯条の蘇我馬子の言「葛城県者、元臣之本居也。故因其県為姓名。」の記事ですが、これを馬子の母が葛城氏または葛城の地の女性で、彼が母の実家で生まれ育ったことを示しているとする説について、加藤先生が論じています。(以下、『大和の豪族と渡来人』より)

その説は、山尾幸久氏「蘇我氏の発展」(『古代を考える・蘇我氏と古代国家』)あるいは熊谷公男氏の「畿内の豪族」(『新版古代の日本近畿1』)などがあるようです。

「これらの説では、葛城は蘇我氏の本拠地ではなく、また蘇我氏は葛城氏の後裔(父系出自の意において)でもなかったことになる。しかし推古末年(七世紀前半)には葛城氏はすでに滅亡しており、存在しないはずである。。山尾氏は『書紀』などに六世紀末〜七世紀初頭の人物として見える葛城臣烏那羅(烏奈良・小楢)を葛城氏の一族の者とみて、まだ葛城氏が健在であったとされるが、・・・烏那羅は蘇我氏から分かれて葛城氏(蘇我葛城〈木〉氏)を名乗った人物で、五世紀代の葛城氏の直接の子孫ではない。
さらに『姓氏録』左京皇別下には葛城朝臣の本系を掲げ、「葛城襲津彦の後なり」とするが、この氏も、佐伯有清氏が指摘されるように、渡来系の朝野宿禰(旧姓は忍海原連で、忍海村主や忍海邑の漢人と同系)が仮冒により葛城朝臣と称したものにすぎず、本来の葛城氏とは別系の人である。(『新撰姓氏録の研究』考証編第二)」

今まであえてふれませんでしたが、加藤先生は蘇我氏=葛城後裔説をとっておられます。詳しくは、同上書をご覧ください。




1197. Re: 蘇我氏の出自 さわらびT  2004/01/21 (水) 23:36
まさみさん

こんばんは、今年もよろしく。「シルクロードの会」は今日(21日)でした。

鈴木靖民先生の『日本古代文化に及ぼした新羅文化の影響−7世紀ユーラシア東辺の文字文化をめぐって』

日本における文字文化の受容のプロセスをわが国ならびに朝鮮半島からの最新の出土木簡を提示されながらの聞きごたえのあるお話でした。

石神遺跡「刀」字木簡(「一人十二刀 四人」など)の解釈で、「刀」は「升」であるとされたこと、「近年統一新羅期の慶州雁鴨池出土の梅瓶形土器底部に「四斗五刀」とヘラ書きされた例が確認されている(統一新羅展図録)」、この木簡は「一定の人々に対して何かを支給したか賦課したかの分を書き出したもので、四人について一まとめにしたものの一部であろう」(「」はレジュメからの引用です。)

新羅の文字表記がわが国へ及ぼした影響のようです。

> ノートによると、稲目の父方は武内スクネから出ているようですから、葛城も同じですので、祖は武内スクネとなるのでは・・・?ついでながら、入鹿の母も武内スクネの後裔であったらしいです。

武内宿禰後裔氏族は27氏あるそうですね。平群氏も蘇我氏も同様ですが、この祖先伝承がいつからできたか、ということになります。葛城を受け継いだのが蘇我氏ですので、蘇我氏(稲目からを実在と考えた場合ですが・・・)そのものがどこからやってきたかは謎ではないでしょうか。

ところで入鹿の母って誰ですか?物部氏でしょうか。

「蘇我氏の出自」問題、あらためて書きます。




1196. 蘇我氏の出自 まさみ  2004/01/20 (火) 23:20
さわらびTさま、ゆみさまこんばんは。
きょうはシルクロードの会ですね。
どんなお話がありましたか?

蘇我氏の件で、前に書いたノートをひっくり返してみました。
>これは、蘇我は馬子の父方の氏名であり、葛城は母方の氏名だったことを意味する。馬子の父親の稲目は素性が不明ながら、母親は名門、葛城氏だったという。

ノートによると、稲目の父方は武内スクネから出ているようですから、葛城も同じですので、祖は武内スクネとなるのでは・・・?ついでながら、入鹿の母も武内スクネの後裔であったらしいです。




1195. 韓国からの贈り物 さわらびY(ゆみ)  2004/01/20 (火) 21:44
昨日帰宅すると分厚い国際郵便が届いていました。
差出人を見ると、なんと夏に玉田古墳群現地を訪ねた際、現地でご説明いただいた陜川郷土史学会会長・李榮基先生でした。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/kannkokunotabi.2-2.html

去年帰国してから、(ハングルはまったくわからなかったので)日本語の礼状と「加耶・新羅史跡めぐりの旅日記」のHPのカラープリントを、住所もわからずご著書の出版社気付でお送りしたのですが、はたして届いたのかどうかはわかりませんでした。

封筒を開けてみると、「加耶文化の宝庫 陜川 玉田古墳群」という題名の図録と「朝鮮○○高僧 無学大師」という陜川郷土史学会の報告資料集でした。
昨夏まだだった玉田古墳群の展示館が昨秋OPENしたのでしょう。2003年10月発行のきれいな図録で、出土時の詳細な写真や丁寧な解説がついていますが、言葉がわからず残念です。
遠くKoreaの地に向かい、感謝の合掌をしました。




1194. 蘇我氏の出自は? さわらびT  2004/01/19 (月) 23:18
蘇我氏とは何か、を考え続けてます。

『日本書紀』推古32年10月癸卯条の蘇我馬子の言「葛城県者、元臣之本居也。故因其県為姓名。」は、蘇我氏=葛城出自説の根拠のひとつです。遠山美津男氏(『天皇と日本の起源』講談社新書、2003)によれば、馬子は時と場合によって葛城馬子を名乗った。これは、蘇我は馬子の父方の氏名であり、葛城は母方の氏名だったことを意味する。馬子の父親の稲目は素性が不明ながら、母親は名門、葛城氏だったという。

うーん、という思いもありますが、分かりやすいですね。稲目が大王家にミメを送りこめたのは、この葛城の血統のおかげだということになります。




1193. 山倉1号墳の埴輪 さわらびT  2004/01/18 (日) 23:23
平成15年度千葉県遺跡調査研究発表会(於:千葉市文化ホール)に出向きました。但し昨日も、朝日ホールの『高句麗と東アジア』にも行ってきましたので、少々講演会疲れかな(?)
昨日のことも書きたいのですが、3月に開催する講演会とも関連しますのでの、いずれ書きましょう。

ところで今日の研究発表会ですが、それぞれに意義のある報告だったのですが、山倉古墳群の発表と展示は私には興味津々。

歴博に展示されている一体とは別に、もう一体の「筒袖埴輪」が復元されたとの事、5F会場に展示されていました。以前この掲示板で、鈴木英夫先生の講演を聞いた感想を書いたことがあります。山倉1号墳出土の「筒袖埴輪」が朝鮮半島系衣服であるとの解釈、ならびに車崎正彦氏の形象埴輪=墓前祭祀説を採用して「行田市付近の渡来系人物、あるいはその子孫が山倉1号墳の墓前祭祀に参列?」(鈴木先生のレジュメ)と想定されたのですが(掲示板464、472,526)今回展示会場でのご説明によれば、報告書は、渡来人とする説はとらないようです。

埴輪のことでは、さらに次のような重要な指摘がありました。配布資料から引用します。「円筒埴輪を形状で分類したうえで、ハケメの識別を行い、そのまとまり方を検討した結果、最少11人の工人が制作に携わっていたことが推定できた。またこのうちの一人が水鳥形を除く形象埴輪と、朝顔形・円筒の多数を制作したことが分かった。これまで埼玉県鴻巣市生出塚遺跡から供給されたことが、技法の一致・胎土分析の結果から想定されているが、その終末期に操業していたP地点(46地点)の埴輪のハケメが、山倉のものとほぼすべて一致することが確認でき、1号墳の埴輪がすべて両地点にある31.39.40号窯で焼成され、運搬されたことをほぼ確定することができた。」

千葉県全体では毎年この時期に発表があります。真近に最新の出土遺物をみることができる楽しい機会です。




1192. 長作の長胤寺の夫婦梅が咲きました さわらびY(ゆみ)  2004/01/17 (土) 23:20
「長作の史跡と風景」3ページ立てを完結しました。
忍性シリーズの下総編(特に船橋や松戸)もそうですが、近場だと納得するまで取材と撮影を繰り返えす癖が出てしまって、なかなかUPに至りません。
そのうち風景写真の季節も、春夏秋冬とばらばら。
長作の長胤寺の夫婦梅は、やっと咲いてなんとかUPに間に合いました。

今回の内容については、八千代市郷土歴史研究会の仲間との調査成果に負うところが多く、改めてお礼申し上げます。

TOPの画像は、明日香の奥山久米寺の十三層塔です。
詳しくは「大和〜河内の旅アルバム」でどうぞ。
そういえば、このシリーズはまだ1ページしかUPしていなかったのですね。
(Tの書く旅の感想に間に合わせようと初めは思っていたのですが・・・)

明日香と河内の古代遺跡については、たくさんガイドブックが出ていますので、その受け売りで何とかなるのですが、(Tにとってはそのほうがいい?)中世石塔の謎ときに挑戦していると、もう道ははるかに遠いです。
皆様、どうかご教示のほどよろしくお願いします。




1191. 『朝鮮半島の考古学』講演会のお知らせ さわらびT  2004/01/15 (木) 23:48
昨年、新羅・加耶の旅に出かけて、朝鮮半島の歴史の面白さを実感しました。実は、いずれ徐先生にも同行してただいて広開土王碑を訪ねる旅に行きたいと思っています。(願望ですが・・・)

そんな気持ちもあって、早乙女先生にお願いしました。広開土王時代の高句麗の都、集安の遺跡を中心に、積石塚やそこからの出土瓦、国内城や山城子山城、そして広開土王碑の問題などを、スライドを使ってお話いただけることになりました。(3月14日、北とぴあ 第2研修室)

詳細は、以下をご覧ください。どなたでもご参加いただけます。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/siminbenkyoukai2.htm




1190. 峯ヶ塚は大王陵? さわらびT  2004/01/15 (木) 23:26
大塚初重先生が、「6世紀の古墳」というテーマで、峯ヶ塚古墳の発掘事例をお話しになりました。そういえば、暮れには峯ヶ塚古墳にも行ったのでした。隣のケーキ屋さん、繁盛してました。

6世紀の古墳に適切な発掘成果が少ないのは、陵墓が多い事も理由のひとつのようです。峯ヶ塚は、「天皇陵」の可能性のある古墳といえるようです。(水野正好氏は仁賢説をとっておられる。)

となると、今城塚と同様な意味をもっていますね。大王陵としては、小さいように見えるけれど、二重堀があって墓域となるとボケ山(現「仁賢陵」)より広くなるようです。二重堀があるのが、大王陵を考える上でのひとつの目安になるらしい。

羽曳野市のHPを参照すると、「墳丘長96m、後円部の径56m、前方部の幅75mの前方後円墳。後円部の墳頂石室からは多量の副葬品がみつかりましたが、特に15本以上の大刀には金銅製魚佩(こんどうせいぎょはい)などが付いており、被葬者の位を示すものとして注目されます。その他、馬具や武具・武器、アクセサリーのガラス玉や管玉(くだたま)など3,000点を越える副葬品があります。」

見事なその副葬品ですが、とりあえず『峯ヶ塚古墳概報』(吉川弘文館、1993)で、写真で見ることが出来ました。




1189. 西野以西の歴史&「史談八千代」 さわらびY(ゆみ)  2004/01/14 (水) 23:55
元習志野市民さま
熱心に「史談八千代」をお読みいただき、感激です。
また西野地区の歴史についても的確にご紹介いただきありがとうございました。
この地区の調査は現習志野住民の会員が担当し、文化祭の折は、戦後開拓で苦労され、貴重なお話をいただけた方にもお出でいただきました。

高津川上流の水田の経緯については、16年度の高津の研究の中で調べて見たいと思っています。

「史談八千代」をご紹介いただいたので、さっそく『「史談八千代」在庫・販売案内』のページを更新しました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/sidannyatiyo.htm

また「史談八千代」28号までの全目次も本日、他の会員のサイトに引越しオープンしました。http://yatiyo-web.hp.infoseek.co.jp/kyoudo/sidann_list2.htm


ご関心のある方は、『「史談八千代」在庫・販売案内』を参考に、販売店でお手にとってご覧ください。



1188. Re: 旧高津新田の中で西野以西の歴史 元習志野市民  2004/01/14 (水) 13:07
いろいろと御指導御鞭撻ありがとうございます.

高津新田西野地区は;
・明治の買収により「代々続いた」家はみんな移転し,その後大東亜戦終戦まで軍用地だった.
・しかも戦後の再接収で西野地区の半分はいまでも自衛隊演習場のまま.
・終戦後は元の持ち主には還らず,習志野開拓団が入植した.
・したがって現在は昔からの高津新田に縁のある人もない.
・全域が習志野市(ほんの一部は船橋市か?)にある.

現地調査も自衛隊があって不便,住人はほとんど戦後の人という条件では,
西野地区は面積は結構あるにしても「高津新田研究」という題目の中での対象として
いささか物足りないのではと想像されるなか,「史談八千代」27,28巻で多くのページを割いておられる事
敬服いたします.

27巻付録の絵図と明治の地図をみると,高津新田本村と西野地区の間の駒止谷には谷沿いに
細長く延びた水田がわずかにあり,しかもその水田部分は高津新田ではなく高津村に属している
あたり,何か経緯がありそうで面白そうですね.

また,旧西野地区が習志野市に編入される寸前の数ヶ月間千葉市(幕張町)であったことや
現在の習志野,八千代,千葉及び船橋市の市境決定時の経緯等に新たに興味が沸いてまいりました.
こちらは戦後の習志野開拓史の範疇になりましょうか?

私は元の西野地区から本村に引っ越してきたことになります.
これも何かの縁と思って私なりに疑問をといていこうかと考えております.

では




1187. 蘇我氏と物部氏の対立の真相 さわらびT  2004/01/13 (火) 23:36
蘇我氏と物部氏の対立が仏教をめぐるものだったわけではない・・・『新撰姓氏録を読む』でも蘇我氏が関連する問題点をお話いただいたことがありました。勉強したことの一部ですが、話題にしておきます。詳しくは『大和の豪族と渡来人』(吉川弘文館、2002年)をご覧ください。

『日本書紀』雄略紀七年是歳条は、吉備氏の反乱伝承とともに、「今来才伎」の起源説話となっていることに着目します。

田狭の子の弟君は、百済が天皇に献上した「今来才伎」を大島に抑留し、任那の田狭と結んで謀叛を起こした。しかし弟君の謀叛を憎んだ妻の樟姫はひそかに夫を殺し、吉備海部直赤尾とともに「手末才伎」(今来才伎)と大島に在留していた。

そして「今来才伎」を「倭国吾礦広津邑」に安置したが、病死するものが多かったので、天皇は大伴大連室屋に詔して、東漢直掬に命じ、「新漢」の陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを、上桃原・下桃原・真神原の三ヵ所に遷し居住させた。

招喚された「今来手伎」の最初の安置の場が「倭国吾礦広津邑」とされている。「倭国吾礦広津邑」は『和名抄』の河内国渋川郡跡部郷、すなわち物部守屋の「阿都の別業」・「渋河の家」のあったところで、物部氏の河内の本拠地にほかならない。

ところが、病死する者が多かったために、「新漢」の陶部高貴以下の「今来手伎」たちを、大伴室屋・東漢直掬が上桃原・下桃原・真神原の三ヵ所に遷したとすることである。

桃原は蘇我馬子の「桃原墓」の所在地、真神原は「飛鳥真神原」で、法興寺(飛鳥寺)の所在地を指す。どちらも大和国高市郡内の地であるが、雄略の詔により、「今来手伎」をこの地に遷したとされる大伴氏や東漢氏は高市郡内に拠点を持つ氏族である。

移住先の上桃原・下桃原・真神原が、いずれも蘇我氏所縁の地であることを念頭に置くと、蘇我氏と東漢氏の連携の下に、六世紀代に「今来才伎」の一部が、河内の物部氏の本拠地から蘇我・東漢両氏の拠点のある大和国高市郡に移住させられた史実を伝えたものと見ることもできる。

蘇我氏とそれから東漢氏の勢力が大和から河内へ進出してくる。そしてその河内地方の渡来人たちを自分の支配下に置いていく。

したがって蘇我氏と物部氏の対立抗争を、宗教を、つまり仏教の受容をめぐる争いではなくて渡来人の掌握をめぐる対立だったいう考えは重要になってきます。




1186. Re: 東金市願成寺五輪塔の石材 さわらびY(ゆみ)  2004/01/13 (火) 22:03
桃崎先生
お久しぶりですが、お元気でご活躍のご様子、何よりです。
また、願成寺の五輪塔石材などについてご教示ありがとうございます。
現地で見ると、右側の塔がかなり壊れていて、その切断面を見ると、砂っぽい感じはなくしっくいのように白く緻密で滑らかでした。

>  栃木県あたりの凝灰岩ではないかと教えていただきましたが、石材産地はまだわかっておりません。ただ立て札にある銚子砂岩製というのは明らかに間違いなので、石材は白色凝灰岩と訂正していただきたく・・

現場に倒れていた東金市教育委員会の看板の「銚子石」を鵜呑みにして、申し訳ありませんでした。
もういちど、桃崎先生の論文を読みなおしてよくわかりました。
さっそく「白色凝灰岩」と訂正いたしました。

また、房総石造物研究会HPの「道標おやじ」さま(実は地学のプロ)からも、次のようなご指摘をいただいていたところでした。

> 江戸期の銚子砂岩といわれている岩石(無層理の細粒砂岩、石英質?粒が多い、犬吠砂岩ではなく、おそらく第三紀の夫婦ケ鼻層)とは、笠の縁などの破断断面(風化跡じゃないですよね)の割れ口の形が、だいぶ違うような気がするけど。

道標おやじ様にも感謝です。

デザイン・石材ともなぞのこの五輪塔のほか、この寺の枝垂桜はまたみごとで一見の価値があるよう。花の咲くころに、カメラの練習?に行って見たいと思っています。
ではまた。




1185. 東金市願成寺五輪塔の石材 桃崎祐輔  2004/01/13 (火) 17:57
ご無沙汰しております。遅まきながらあけましておめでとうございます。
このところ静岡相良・濱岡の出張調査やら自動車教習の合宿で出払っておりまして、複数の原稿締め切りが重なりいよいよまずくなったので、一時帰宅したところで、今書類が一つ片付いて一息いれたところです。
 願成寺の五輪塔を実見された由、あのように素晴らしいけど変な五輪塔は見たことがないので、年代をいつにするか非常に難しいです。律宗化以前のものである可能性も否定できません。
 なおこの五輪塔は、群馬県笠懸村教育委員会で凝灰岩石塔の研究をされている国井洋子さんに同行して見てもらったところ、栃木県あたりの凝灰岩ではないかと教えていただきましたが、石材産地はまだわかっておりません。ただ立て札にある銚子砂岩製というのは明らかに間違いなので、石材は白色凝灰岩と訂正していただきたく、お願い申し上げます。
 この点は当方の論文にも少し書いていますので、ごらんください。ただあの論文は和田氏のことなどいろいろ初歩的な間違いがあります。引用される際は気をつけてください。
 それではまた。



1184. 経僧塚古墳 さわらびT  2004/01/12 (月) 23:06
駄ノ塚も、経僧塚も表示がなく、『房総の古墳』を歩くが頼りの探訪でした。経僧塚の出土埴輪には、個性的なおもむきがあります。飾り馬と「黒衣婦人」が『芝山はにわ解説書』(芝山はにわ博物館、1988)の口絵にあります。

飾り馬はネットでも見られます。

http://www.evam.ne.jp/niouson/haniwa-musee.html

その経僧塚ですが、立派な円墳でしたが、現場にたどり着くためには、目印もない林道をただ歩くしかないのは一人歩きの方には少々危険、探訪するなら慎重に!



1183. 東金の願成就寺の五輪塔と、成東の古墳探索 さわらびY(ゆみ)  2004/01/12 (月) 22:38
今日は、季節風が和らいだので、東金と成東へ探索に行ってきました。
私は、東金市松之郷の願成就寺の五輪塔、Tは古墳が目的の「同舟異夢」のドライブですが、どちらもほとんど人が行かないマイナーな所ばかり。それだけにけっこう面白かったです。

東金の願成就寺については、桃崎祐輔先生が「総州願成寺の探索―房総における西大寺流真言律寺院の沿革小考−」と題して『六浦文化研究』第8号(1998.12)にお書きの通りで、ここの五輪塔は、「中世前期に遡り得る石造物の優品として注目すべき存在」と書かれているように、例を見ないとても特異な石塔でした。(文章ではイメージがわかなかったのですが、・・)

画像を次ぎのページの最後にUPしましたので、ご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/sekitou-data/sekitou.htm

この寺院は、七里法華の展開によって、1521年日蓮宗に改宗されましたが、その前は、真言律宗であり、西大寺の叡尊が入滅した際に報せを受けた中に「総州願成寺長老円眞房栄眞」として名が記されている「総州願成寺」であったことが、桃崎先生の論文で明らかにされています。

願成就寺の五輪塔は、法華改宗の際には律宗時代の墓塔として破却され、明治になって発掘された経過があります。

昨日、「長作の史跡と風景U」をUPしましたが、長作の長胤寺も七里法華の改宗寺院です。
千葉県の顕本法華宗の寺院の歴史的考察には、中世前期当時の宗派や檀那衆を視野に入れて考えなければならないと実感しました。

午後は成東の真行寺へ。
胡摩手台16号墳(民家で行き止まり、さらにその先だった)、真行寺廃寺跡(何にもない畑と林、でも瓦片が落ちている)、経僧塚古墳(獣道のようなやぶこぎ)、さらに板附の駄ノ塚古墳(犬を連れたおばあさんが道案内)へ行きましたが、どこも案内板も表示も(道すらも)ないところばかり。
芝山町教育委員会発行の『房総の古墳を歩く』が、とても役に立ちました。



1182. Re: 馬子は大王? 開田 誠 [URL]  2004/01/12 (月) 11:28
> 『聖徳太子はいた!いない!』日本経済新聞文化欄(1月10日)
大山誠一先生編の『聖徳太子の真実』(平凡社)
>
> 大山先生は「『日本書紀』の構想」

まだ読んでいませんので、気にしていましたよ。




1181. 馬子は大王? さわらびT  2004/01/11 (日) 22:54
『聖徳太子はいた!いない!』日本経済新聞文化欄(1月10日)では、こんなタイトルで、大山誠一先生編の『聖徳太子の真実』(平凡社)をとりあげていました。私もコラムを書いた手前(『聖徳太子はいなかった』とタイトルをつけてます)、コメントする必要を感じました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/shoutokutaishi.htm

大山先生は「『日本書紀』の構想」という論文で、こう記しておられます。(掲示板をごらんの皆さん、是非読んでいただきたい論文です。)

「六世紀末から七世紀初めが、蘇我馬子の時代である。そして記紀が編纂されたのは八世紀初頭であった。その間に、約一世紀の時が流れている。日本の歴史には珍しい政変相次ぐ激動の時代であった。」
「用明も、崇峻も、推古も、大王ではなかった。その時代、少なくとも実質的権力者は、蘇我馬子であった。私は、ある段階からは、彼は大王であったと考えている。」

充実した論文で、明快です。しかし馬子が大王であった、という結論ですが、正直なところややためらいを覚えます。権力論としても、釈然としません。大王から天皇への移行過程で、蘇我の専権体制は余儀なくされたのでしょうか、それもまた書紀の虚構の可能性もあるのではないでしょうか。

「聖徳太子」は藤原氏が作り出した虚像でもありますが、「馬子の存在感」を描いたのも、やはり同じ書紀の世界なのではないか、との疑問も新たに生まれます。

見瀬丸山古墳(五条野丸山)を、稲目の墓とする説を大山教授は支持しておられます。しかし蘇我氏の存在基盤を自ら破壊するような行動をとるのでしょうか。

『書紀』の編纂の作為性をどう考えるか、についての答えは大山説だけでは説明しきれない気がしています。大山先生からは、とにかく読んでくれ、との問いかけをいただいたのですが、女帝(推古)が即位した国だといまは思っています。




1180. 旧高津新田の中で西野以西の歴史 さわらびY(ゆみ)  2004/01/11 (日) 00:32
> 本日,八千代台小の隣の公民館に行きましたら写真展示されてましたね.藤春書房で本も買わせていただきました.

昨秋の郷土史展の展示ですね。
また「史談八千代」28号をお買い上げいただき、ありがとう。

>旧高津新田地区の中で西野以西は現在習志野市になっています.
> ここに市境があるのが不思議です.
そうですね。
高津新田(現八千代台東西南北丁目のほとんど)は、高津村からではなく、江戸時代の17世紀、主に長作村からの開拓で成立した村で、このことは、八千代市郷土歴史研究会の調査ではじめて知った驚きでした。
といっても、高津川両川の谷津田は高津村によって古くから開かれていましたから、高津川の最奥の駒止谷や足太川の谷津のほかは、ほとんど畑作でした。
しかも高津新田内の西野などの4つの小字の地域(現東習志野7〜8丁目)は、明治36年に演習場として買収され、旧西野の3軒は、現八千代台南地区に移転させられたのです。
旧高津新田地区の中で西野以西が現在習志野市になっていることには、この明治から昭和25年の連合軍の管理が終了するまでの軍用地の歴史が大きく関係しています。
そして、昭和20年に引揚者によって旧西野は「安生津」として開拓がはじまり、昭和25年にようやく個人に払い下げられて、昭和29年習志野市誕生の際、戦後の開拓農民の意思で安生津も他の開拓地とおなじく習志野市に合併したということです。

> 中学の郷土史研究会にでも聞いてみようかと考えていますが...
中学で郷土史に興味のある会があるなんて、いいですね。





1179. Re^3: 雪かき さわらびT  2004/01/10 (土) 23:43
歴博のシンポジウムは、来年3月に開催される予定の企画展示「アジアの海−人・もの・文化の交流」の宣伝のため(?)の
シンポジウムのようですね。私は申し込みの葉書は出していますが、開田さん、申し込まれてますよね。(申し込みは1月16日まで)念のため。

http://www.rekihaku.ac.jp/koohoo/forum/minato.html

お会いできるのを楽しみにしております。




1178. Re: 高津川・新川&鉄道連隊遺構のこと 元習志野市民  2004/01/10 (土) 15:49
本日,八千代台小の隣の公民館に行きましたら写真展示されてましたね.藤春書房で本も買わせていただきました.

また質問なのですが,旧高津新田地区の中で西野以西は現在習志野市(私の実家もここです)になっています.
ここに市境があるのが不思議です.
家族に聞いてみましたが昭和49年に引っ越してきた人間ですから
何も知りません.
中学の郷土史研究会にでも聞いてみようかと考えていますが...




1177. Re^2: 雪かき 開田 誠 [URL]  2004/01/10 (土) 10:15
 この相模原はわかっていました。このHPのリンク先にあったいくつかのHPをたずねて調べさせていただきました。”考古学通信”が充実していました。そこで、教えていただきました。
 では、2日間お会いできますね。
 1月31日奈良国立博物館で、
田中俊明「東アジアの国際関係と七支刀」、
井口喜晴「石上神宮の禁足地出土品」
 2月1日大阪府立近つ飛鳥博物館
  「古墳群を歩く」
があることを知り、それにも参加します。
 旅に出る前にあれこれと考えるのは楽しいですね。
 卒業式に出るのに、14日間が必要かとつれは怒っています。




1176. 蘇我氏の出自は? さわらびT  2004/01/09 (金) 23:41
30年も前のことなりますが、市民運動としての古代史という向き合い方をしたころ、蘇我氏が身近に感じられるようになったのは、門脇先生の渡来人説があったからだと思います。

それと、『日本の中の朝鮮文化』という金達寿氏の本をよく読んだものでした。金達寿氏は、素晴らしく存在感のある方でした。
そんな思い出もよみがえります。

蘇我氏=渡来人説は、興味深い説ではありますが、冷静に考えますと根拠としては心細いことがわかります。しかし問題提起的な意味はあったのかとも思われますね。

門脇先生といえば、大化改新否定論ですが、蘇我氏=渡来人説とは関係あったのでしょうか?




1175. Re: 雪かき さわらびT  2004/01/09 (金) 23:12
開田様

東京も昨日は寒かったですが、北海道の環境とは比べ物にはならないでしょう。それでも外に出ては震えてました。

歴博のシンポジウムのほかに、私が参加する予定で考えているのが、以下の催しです。

相模原市立博物館『発掘された日本列島2003』
記念講演「王権の断絶と継体天皇・今城塚古墳」
日 時:2月8日(日)14:00〜16:00
講 師:吉村武彦・明治大学文学部教授   
場 所:博物館地階大会議室
定 員:200人(当日受付、先着順)
問い合わせ:相模原市立博物館
     (相模原市高根3-1-15 電話:042-750-8030)

http://www.remus.dti.ne.jp/~sagami/rettou.htm

2月3日は『新撰姓氏録を読む会』がありますが、これには無理ですよね。今月から、『高橋氏文』をテキストにしています。

桃崎先生の講演が、2月1日(日)にあるそうです。
テーマ:「倭国への騎馬文化の道−慕容鮮卑三燕・朝鮮三国・倭国の馬具の比較研究」
場 所:文京シビックセンター4階シルバーセンターホール(文京区春日1-16-21)

http://www.ne.jp/asahi/kodai/kaze/shinchaku.htm




1174. 雪かき 開田 誠 [URL]  2004/01/09 (金) 13:15

  昨日につづいて、いましがたも雪かきをしました。厚岸の自宅です。霧多布の宿はすっかり雪に埋もれているでしょう。40cmは降りました。ふきだまりのところは1Mになってしまいます。
 ガレージの前に町の雪除去車がふきあげていった雪があります。ほっておくと凍ってしまいますから、暖かいうちにどけてしまおうと、、、疲れた。
 前の家(義兄)は旅行中で、その分までしなくてはならず、ふうふうでした。しかし、スコップが扱えるまでに体力が快復してきたのです。退院当時は車のドアーを手(腕)では開け閉めできませんでした(足を使っていました)。

 2月3日、京都の息子の卒業式で、出かけます。ついでに、寄れば何かの行事がありますか?あれば、寄りましょう。
 ひとつありました。2月7日の暦博フォーラム第45回がありました。他にはありませんか?





1173. 「石川の宅」とは? さわらびT  2004/01/08 (木) 22:54
掲示板にお書きいただければ、とも思いますが、同じ方から(Kさん)さらにメールをいただきました。昨日お伝えした「石川の宅」については、異説があることがよくわかりました。岩波の『日本書紀』の注(文庫(四)45頁)には、本明寺説しか書かれておりません。逆に、加藤謙吉先生の『蘇我氏と大和王権』には、河内石川説しか書かれておりませんので、不思議に思っていました。

「日本歴史地名大系第30巻  奈良県の地名より
石川精舎
日本書紀」敏達天皇13年の条に「馬子宿禰、亦、石川の宅にして、仏殿を修治る。仏法の初、茲より作れり」とある。この所在については、「大和志」に「石川廃精舎、石川村古址、今有本明寺及石浮屠高丈余許」とあり、現石川町の浄上宗本明寺の地をその跡と伝える。しかし、同寺付近には古瓦の出土もないことから、他にこれを求めるべきであるともいわれている。同町小字ウラン坊とする説や、河内国石川(現大阪府羽曳野市・柏原市付近)の地に求める説もある。本明寺には南北朝様式の五輪塔があるが、「越智家譜伝」に、大永三年(1523)二月一九日の久米寺石川の合戦に討死した32人の追善供養のために越智家栄が立てたとある塔か。もとは久米町芋洗地蔵境内にあったという。」

入鹿の首塚
飛鳥寺安居院の西方、小字五輪に、五輪塚・首塚と称する土盛があり、その上に五輸塔が立っている。 「飛鳥古跡考」には「蘇我入鹿大臣石塔」として、「村ヨリ一町未申ノ方田中に五輪少し残れり、里人もさこそ申侍る」とある。口碑に、蘇代入座の首をここに埋めたと伝え、また飛鳥寺に閑居した恵慈・恵聡の墓ともいう。石塔は花崗岩製。水輪は上下逆であるが、様式上、南北朝時代の造立になるものとみられる。」

むしろ、「馬子の墓」にしても、「入鹿の首塚」にしても五輪等ですから、蘇我氏の伝承となぜ結びついたのか、そちらの興味もわいてきます。
Kさん、お調べいただきありがとうございます。




1172. Re: 「難波の堀江」はどこ? さわらびT  2004/01/07 (水) 23:56
石川精舎について、掲示板に少し書きましたが、飛鳥寺でお会いした地元の方から曽我・石川 橿原市史より」という形で、丁寧なメールを頂戴しました。長文ですが、大変分かりやすいので、その一部を、勝手ながら引用させていただきます。「石川の宅」については河内石川という考えもあるのですが、当面下記の説を重視します。

「稲目は、欽明三十一年に薨じて、敏達朝においては、男、馬子が大臣となったが、「敏達十三年(五八四)紀」には、馬子がその家宅の東方に仏殿を作り、弥勒の石像を安置したことが見え、同年の末の記事には、馬子が石川の宅において仏殿を修治したことをのせ、その終りに、「仏法ノ初メ茲ヨリ作(おこ)レリ」と結んでいる。すなわち馬子はすでに市内石川に邸宅を持っており、これを仏殿としたのであるが、その遺址は、「大和志」以来、同大字にある本明寺であるということになっている。馬子はその翌年さらに大野の丘の北に塔を建てたといっているがこれについては、「大和志」が、「和田村ニアリ、礎石猶存ス」と記している。大野というのは、畝傍山の東、田中や城殿のある水田地域を指しているとせなければならないので、ここにいう「大野ノ丘」というのはその南にある、石川の鎮守大歳神社から東和田に至るまで続いている丘陵と考えねばならない。
石川 さて、市内石川というのはこのように「日本書紀」に出ている古い地名であるので、やはり、蘇我の石川と関係ある土地であろうということは当然考えられることである。蘇我氏が河内の石川を領したことは事実としても、石川が河内の石川の別業で生まれたという所伝にはやや説話めいた点がないでもないので、あるいは蘇我の石川が早期にこの地に居住していたことから起った名であるとも考えられるのである。」




1171. 高津川・新川&鉄道連隊遺構のこと さわらびY(ゆみ)  2004/01/07 (水) 22:09
> >高津川の水源は、東習志野のイトーヨーカドー付近で
> 地図でお示しいただいた地点よりさらに西側にも川があり,
> ラオックスの裏のあたりで暗渠となってまだまだ先がありそうな
> 気がするのですが...

高津川上流の駒止跡は、八千代市郷土歴史研究会で習志野在住の会員が調べたところ、ヨーカドーと鈴木金属社宅の間のレストラン裏庭のハーブ園までたどれたようです。(「史談八千代」28号)

> そもそもこの高津川って人工のものでしょうか? それとも・・

明治29年の地図を見ると、三山のマルエツあたりから谷になっていて、ヨーカドーから高津へ北上し、大和田へと今の水路のとおり流れていたようです。

新川は、平戸川を広げた川です。江戸時代から断続的に行なわれてきたのはこの平戸川と花見川をつなげて印旛沼の水を東京湾へ排水する工事。あの鷹の台ゴルフ場の高さの山を開削するわけですから、弁天橋あたりは難工事だったそう。
成功したのは昭和42年、落差をつけてポンプで流す必要があったのですから、江戸時代掘ればよいと考えたのは無理だったわけです。
これ以後、高津川と勝田川は東京湾へと流路を変えたわけ。

幕張から花見川沿いに自転車で印旛沼を一周できるといいのですが、弁天橋から大和田排水機場までだけが、サイクリング道路が整備されていなくて、とても不便ですね。
千葉市と八千代市がよく協議してくだされば解決するのに。プンプン! (=`´=)

>鉄道連隊といえば昔(30年位)千葉競輪場の辺りに線路があったような気がします。

昭和59年まで千葉駅(旧)構内から旧陸軍兵器補給廠までの間が、国鉄の千葉レールセンターの専用線としてまで使用されたそうです。
次の画像は、千葉公園内の演習用の隧道跡です。(2002.4.7撮影)
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/040107tonneru.jpg

探したら詳しくは、次ぎのHPに書いてありました
http://johokan.net/history/RailHistory/Haisen/railcenter.html

ではまた。




1170. 早速のレスありがとうございます 元習志野市民  2004/01/07 (水) 10:44
さわらび様,青木様 早速のレスありがとうございます

>高津川の水源は、東習志野のイトーヨーカドー付近で

地図でお示しいただいた地点よりさらに西側にも川があり,
ラオックスの裏のあたりで暗渠となってまだまだ先がありそうな
気がするのですが...
中学の同級生数人に聞きましたが誰もわかりませんでした...
そもそもこの高津川って人工のものでしょうか? それとも
天然の川?
新川自体が人工だからそのあと作られたのでしょうか?

>鉄道連隊といえば昔(30年位)千葉競輪場の辺りに線路があったような気がします。国道16号と千葉東高校の間に踏み切りがありませんでしたっけ?。

私,25年ほど前この高校に通っていました.当時は1日に1本
くらい,ディーゼル機関車が往復していました.
踏み切りの警報機も作動していたと思います.

>実験と敷設演習のための線路だったらしく、新京成のやたらと多いカーブはそのせいと

鉄道雑誌などではそう書かれたものが多いですね.その当時
あの路線周辺の土地の買収が困難だったとは思えませんもの.

では




1169. Re: 今年もよろしくお願いします さわらびY(ゆみ)  2004/01/06 (火) 23:23
青木様
貴重なお話をありがとうございます。

> 花見川の北部は昔、いまの弁天橋付近から新川方向へ流れていた・・

そう、昭和48年以降の現状とは大違いだったのですね。
印旛沼の干拓のための落し堀掘削工事は、享保9年(1724)に平戸村の源右衛門が手がけてからの、失敗の繰り返しによる見果てぬ夢だったという歴史が偲ばれます。
大雨が降った後、通勤電車の車窓から大和田排水機場から満々と排水されている花見川の水を見ると、感慨深いですね。

> 鉄道連隊といえば昔(30年位)千葉競輪場の辺りに線路があったような気がします。

鉄道連隊の遺跡?は、新京成線のほか、いろいろな道に残っていますね。
私はいつも勝田台から武石インターへ抜けるのに、柏井浄水場から広尾十字路を通って御成街道に出ますが、この道路も軌道跡とか。
一昨年春に、鉄道連隊の車庫だったという名残りのレンガのアーチを千葉公園の中で、見ました。
地図などは次のホームページに載っています。
http://johokan.net/history/RailHistory/Haisen/army-ct.html

実用というより、実験と敷設演習のための線路だったらしく、新京成のやたらと多いカーブはそのせいと、まことしやかな話を耳にしましたが、本当かしら?

また地元発の情報をお聞かせください。




1168. 今年もよろしくお願いします 青木  2004/01/06 (火) 17:57
さわらび様
遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。
今年もホームページ楽しみながら拝見させていただきます。
花見川の北部は昔、いまの弁天橋付近から新川方向へ流れていたと聞いています。私の父親の小さい頃はあの辺りで泳げたそうです(弁天様って水関連の神様だったかな?)。ここから花島橋にかけては、どう見ても近年掘削した感じですよね。
鉄道連隊といえば昔(30年位)千葉競輪場の辺りに線路があったような気がします。国道16号と千葉東高校の間に踏み切りがありませんでしたっけ?。もっとも電車(汽車?)が走っているのは見たことありませんでしたが。




1167. Re: 高津川に興味があります さわらびY(ゆみ)  2004/01/05 (月) 23:27
「元習志野市民」さま
いらっしゃいませ。

習志野市と八千代市との境界の高津川の水源は、東習志野のイトーヨーカドー付近で、昔はめだかの住むきれいな水が流れ、実花緑地公園辺りは、「駒止の谷」といわれたそうです。
(地図→)
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.41.54.726&el=140.4.45.165&la=1&sc=3&CE.x=275&CE.y=281

この下流は、今は大和田駅の南側を通って花見川から東京湾に流れていますが、勝田川と同じく昭和42年大和田排水機場ができるまでは、印旛沼へ流れていたはずです。
北総台地は、低い分水嶺で仕切られた川沿いに生活圏が営まれてきた歴史があるのでしょう。
そういう意味で、印旛沼側の勝田と高津は八千代市、花見川沿いの横戸・柏井・長作は東京湾側で千葉市ですが、京成線の勝田台−実籾間は八千代市・千葉市・習志野市の市境が複雑に入り込んでいて、車で移動すると現代人は面食らいますよね。

> また,現在のマラソン道路には鉄道があったとのことで,
> これの歴史にも興味があります.
マラソン道路は、津田沼にあった陸軍鉄道第二連隊の演習線の軌道跡を利用しているとのこと、大久保の駅前に演習線跡の看板もありますね。

なんでも興味をもって歩くと、ウォーキングがとても楽しくなります。




1166. Re: 長作のページ拝見しました さわらびY(ゆみ)  2004/01/05 (月) 22:36
> 長作のページ、拝見しました。
さっそくどうも。
あるけ〜さんの長作からの富士山、そして諏訪神社の初日の出も、お正月らしくてすばらしくGood!です。

> 諏訪神社創建は謎でしたが、拝見して創建の事情が少し見えてきたような気がします。
> 御頭祭でしたっけ、あれが諏訪神社とセットで来たのか、気にかかります。長作築地貝塚の縄文人たちから連綿と続いていてほしいのですが。

鎌倉時代は、仏教が規範と哲学を持って庶民にまで及んだ時代で、鎌倉仏教の新しい息吹が、得宗政権と不可分の千葉一族とともに、長胤寺や花島観音、村上の正覚院として展開していったと思います。
そして、船橋や千葉の大日寺に残る律宗僧の墓塔をみると、この花見川沿いにも律宗の影響がなかったとはいえないようですが、はたしてその厳しい戒律が十分受け容れられたのだろうかは疑問です。
たしかに「縄文人たちから連綿と続く」東国の生活習慣は、そう変わるものではないでしょう。
特に「殺生戒」を巡るせめぎあいは、一方で「おしどり伝説」を生み、一方でその抜け道として「御頭祭」とセットの諏訪神社の勧請となったのでないかと「想像」しています。

> 諏訪神社の彫刻。よく映ってますね〜。
この構図は何だろうとしげしげ眺め、脇障子が萱田の飯綱神社玉垣と同じ二十四孝を題材にしているのに気づいてネットで調べました。
さらに他の三面も八千代市郷土歴史研究会の先輩に解明のヒントを教えていただき、やっと理解できたところです。
石仏も寺社装飾もデザインの意味がわかると面白いですね。




1165. 高津川に興味があります 元習志野市民  2004/01/05 (月) 15:33
はじめまして
中学生の頃習志野市に引っ越してきまして,八千代市との境界に
流れていた川(高津川という名前も最近知りました)が
どこから来て どこへ行ってるのかずっと疑問に
思っておりました.ネットで調べていたら貴HPに
たどり着きました.

また,現在のマラソン道路には鉄道があったとのことで,
これの歴史にも興味があります.

今回の高津の調査は大変興味深く読ませていただきました.

では




1164. 長作のページ拝見しました あるけ〜 [URL]  2004/01/05 (月) 00:56
長作のページ、拝見しました。
諏訪神社創建は謎でしたが、拝見して創建の事情が少し見えてきたような気がします。
御頭祭でしたっけ、あれが諏訪神社とセットで来たのか、気にかかります。長作築地貝塚の縄文人たちから連綿と続いていてほしいのですが。
やっぱりありえないかなぁ。

諏訪神社の彫刻。よく映ってますね〜。おかげさまでじっくり見られます。
続編、楽しみにしてます。




1163. 「難波の堀江」はどこ? さわらびT  2004/01/03 (土) 16:11
旅の話の続きです。お正月なのでのんびり考えてます。

Yが図書館から借りてきた『聖徳太子の寺を歩く』(発行JTB、デーは2001年8月現在と注記があります)を観光ガイドとして、向原寺、西琳寺などを訪れてきました。

その本の向原寺の項に、「難波の堀江」を寺の横の「なんば池」と伝える、とありました。石川精舎跡といわれる地(巨大五輪塔が見事でしたが)を訪ねたあとで、向原寺に行ったのですが、もう暗くなりつつあったせいもあって、その「なんば池」がどこだったのかは気づきませんでした。向原寺は、豊浦寺の遺構を保存しているところがすごいです。

『書紀』によれば、欽明13年(552年)百済の聖明王が金銅の釈迦仏を献上し、その仏像は蘇我稲目がたまわり、向原の家を浄めて寺とした。その後疫病が流行し、その災は仏教崇拝によるという理由で、物部氏により仏像は「難波の堀江」に捨てられ、寺は焼却されたという。この「難波の堀江」を、向原寺の横の「なんば池」というのは、どうもこじつけのようです。(岩波文庫版『日本書紀』(三)p303の注には「堀江を大和の地とする説もあるが、大和の向原の仏像を摂津に投ずる不合理を救うための付会にすぎない。」とあります。さらに補注があって元興寺縁起には稲目の死が機縁となった、とされているそうです。)

「難波の堀江」にすてられたのは、石川の宅で仏像を安置していた馬子も同様(敏達14年)です。完全な重出記事なのでしょうか。いずれにせよわが国の仏教の受容にあたって、仏像を象徴的な存在としていたことがよくわかります。また鞍作のかかわりも考えますね。(そういえば、誉田八幡宮では丸山古墳出土の国宝の鞍金具も見せてもらいました。)

話は変わりますが、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社)に吉田一彦『「元興寺伽藍縁起并流記資材帳」の信憑性』という論文があります。本来、豊浦寺(建興寺)の縁起として作られたものが平安時代に改作されたものだという、刺激的な論文です。




1162. 八日市場と萱田の神社彫刻 さわらびY(ゆみ)  2004/01/03 (土) 12:15
昨日は、律宗の痕跡を調べに芝山町殿部田へ廃寺を探しに行ったあと、Tの関心のある多古町の柏熊古墳群探しに行ったのですが、道に迷い八日市場方面に出てしまったので、以前行ったことがあって土地勘のある飯高檀林跡を訪ねてみました。(わが家のポンコツ車にカーナビはないので、私がナビ役)

ここには、中世城郭(戦国最後は平山氏)で、山麓に妙見堂だった妙福寺、山上に法華の檀林「飯高寺」と「飯高神社」があります。
飯高神社の玉垣の二十四孝彫刻は、八千代市の萱田の飯綱神社の玉垣と同一工房で制作された可能性があるということで、2002年の秋に行ってみたのですが、盗難事件があって取り外され、見ることができませんでした。
飯高寺講堂もそのときは大修理の最中でしたので、彫刻はともあれ、完成した講堂(今回はりっぱに修復、中にも入れていただきました)を見ようと、まずは神社に寄ってみると、なんとりっぱに玉垣が修復されていました。
夕方で撮影には適していなかったのですが、とりあえず撮って、飯綱神社玉垣の画像データとちょっとだけ比較の画像を載せてみました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/24kou/24kou.htm

よく似ているでしょう。
飯高のほうが、横の幅の大きくゆったりしていますが、飯綱はスパンが小さいので、一面に2〜3テーマ入れている区画もあって、同一の下絵を工夫して構図を作成しているようにも思います。
比較のため取り出した飯綱神社玉垣の画像データは、なんと2000年1月2日同じ日のものでした。
この日もおだやかに晴れていたのですね。

帰りは夜道でしたが、ずっと296号線を走って迷わずに八千代へ帰りつきました。
芝山の山王社の彫刻も同一工房の手になるもの、成田山にも同系統の二十四孝彫刻があり、このラインは古来から、もの・人・文化の結びつきが深いと思いました。




1161. お年賀ありがとう さわらびY(ゆみ)  2004/01/02 (金) 10:29
高橋様
「目も耳も口も達者に2004」の名句の年賀メールをありがとう。
今年も貴兄の祭りのパワフルなアルバムを楽しみにしています。

道標おやじ様
本業の「滝」の文字絵、名作です。
(テキストでうまくできても、掲示板では、ずれてしまって、私は断念しました。)
滝のご研究も、石造物の調査も頑張ってください。コミケちゃんにもよろしく。

まさみ樣
HP制作のプロだったのですね。
素材のデザイン集の才能、すばらしい!
わらびの紋様は古来からいろいろありますが、まさみさんに今度HP用の新作デザインをお願いしようかな?
本年もよろしくお願いします。

お年賀のメールを下さった皆様
習志野茜浜の初日の出、江ノ島片瀬東浜の初日の出、加曾利公園の初日の出を、居ながらに楽しませていただきました。
アニメーションカードも楽しかった。どうもありがとうございました。

私たちは、昨年七年祭の取材でお世話になった高津ひめ神社・高津山観音寺で氏子の皆様とともに年越しをしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2004.1.1takatu/2004.1.1takatu.htm

今年も、よろしくお願いします。




1160. あけましておめでとうございます まさみ [URL]  2004/01/01 (木) 14:07
昨年中は大変お世話になりました。
今年はもっとお世話に・・・(笑)ちょくちょく遊びに来たいと思っております。
HPのほうが少し出来ましたのでお知らせします。
おすすめHPのところにリンクいたしましたので、見てくださいね。(分類上お友達になっていますがお許しください)
http://heart-tree.main.jp/
では、本年もよろしくお願いいたします。





1159. 2004年おめでとうございます 道標おやじ [URL]  2004/01/01 (木) 12:23
謹賀新年

   \__/
    ‖‖
    ‖‖
     \\
      ‖‖ 
      ‖‖  
      ‖‖  
      ‖‖       \○/
      ‖‖        ■ 腹が黒いが、特に意味はない。
       \\       /\
         −−−−−−
 去年中は色々お世話になりました。
 本年もよろしくお願いいたします。
  滝おやじ兼道標おやじ こと、吉村光敏 komike@df.mbn.or.jp




1158. あけましておめでとうございます 橋 敬三 [URL]  2004/01/01 (木) 07:12
あけましておめでとうございます。
昨年中は大変有難うございました。
本年もよろしくお願いいたします。
皆様のご健勝をお祈りいたします。

奈良黎明・・・素晴らしい写真を有難うございました。





1157. 新年のご挨拶 さわらびY(ゆみ)  2004/01/01 (木) 01:16
 明けまして おめでとうございます。
 「さわらび通信」も皆様のおかげをもちまして、3回目の新年を迎えます。

 新年のご挨拶を兼ねて、「奈良 黎明」のページをUPしました。
 http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/tokonoasa.htm
 
今後とも、どうかよろしくお願いします。




1156. Re: 来年も さわらびY(ゆみ)  2003/12/31 (水) 21:59
2003年ももう残りわずかですね。

> 津堂城山古墳の夕暮れは綺麗ですね〜
今秋、取材でお世話になった高津へ除夜の鐘を突きに行って帰ってから、TOPページを年賀バージョンに替えようと準備中。
短い間でしたが、見ていただいてよかった!

> 来年もどうぞ宜しくお願いします(^−^)
こちらこそどうかよろしく。




1155. 来年も はにわ処  2003/12/31 (水) 15:43
津堂城山古墳の夕暮れは綺麗ですね〜
長旅お疲れ様でした
来年もどうぞ宜しくお願いします(^−^)




1154. 蘇我氏に関心 さわらびT  2003/12/30 (火) 22:55
いくつもの史跡を訪ね、感想も多くありますが、少しづつ記しましょう。書いてしまってから間違いに気づくことが多いのですが、訂正しておいたほうかいいですね。束明神のことを書いたとき「岡宮天皇陵」(草壁皇子墓)を「岡本」と書いてました。気づくのが遅い!

今日も間違いがあるかも知れませんが、興味は尽きないので懲りずにまた一言。
旅行では、いつもはYのナビに素直に従って運転手を勤めていたのですが、今回はカーナビにもお世話になりながら目的地へ向かいました。

初日、石川精舎に行きつくのは少々苦労でしたが、最後は近所の方にうかがうのが一番、たどり着ことが出来ました。Yは五輪塔が立てられたことに興味を覚えるようですが、私は蘇我氏に強い関心を抱かされました。敏達十三年、馬子が始めて仏像を安置したといわれる場所が実際にここであったのかは定かではありませんが、その地は飛鳥寺と比べれば観光地としてもかなりさびしいと実感。馬子の時代の蘇我氏は、この地を本拠としていたことが史料から読み取れるようですが、蘇我=石川出自説の「石川」はここではなく河内石川のようです。

近くにあるのがYがナビの目標にした、「孝元天皇陵」のある剣池(石川池)。『日本書紀』、舒明7年と皇極3年、重複記事との説もあるようですが、一茎に二つの花がある蓮が剣池にあらわれたとあります。皇極紀には豊浦大臣(蘇我蝦夷)がこれこそ蘇我氏繁栄の瑞とし、金の墨で法興寺の仏に奉ったと書かれています。しかしこの後、乙巳の変で入鹿が倒されることを記すのですから、書紀の編者はあえて皮肉な表現を使ったということなのでしょうか。




1153. Re: お久しぶりです! さわらびY(ゆみ)  2003/12/30 (火) 22:48
まさみさま
> 「冬のソナタ」ゆみさま、ご覧になりましたか?
> わたしの中の韓国が近くなりました。

残念ながら、見逃してしまいました。
レンタルビデオ店にないかと探してもらったけど、まだのようですね。
吉永小百合の「千年の恋・ひかる源氏物語」 は奈良のホテルで見ましたが・・・

旅をしていると思わぬ出会いがあります。
飛鳥寺で、五輪塔を見ていると、自転車で史跡を回っておられる樫原市在住の方に、景観の見所や遺跡の解説をしていただきました。
かつて旅のさまざまな場所でお会いした方々と、年賀状や年賀メールで消息を交し合う日がまたやってきます。
皆様によい歳が来ますように!




1152. Re: お久しぶりです! さわらびT  2003/12/30 (火) 09:56
まさみ様

おひさしぶりです。加藤先生の講演会にご参加いただいたときもゆっくりお話できず残念でした。時おり、この掲示板でお話できたら、と思います。

膳氏は加藤先生ご自身のライフワークといえるテーマのようで、楽しみなお話しになるかと思っています。

昨日までの旅行は図らずも初期寺院を考える、というテーマになりました。今回はもらしてしまいましたが、坂田寺と檜前寺にも行ってみたいです。

蘇我稲目の石川精舎もしくは司馬達等(のちの鞍作氏)の坂田寺あたりが仏像安置の起源らしいですが、石川精舎はいまはさびしいところで、五輪塔(伝馬子の墓)にその痕跡をとどめているくらいでした。そのうちYが写真もあわせてUPする予定です。お楽しみに。では。




1151. 明日香・南河内・高取の旅のメモ さわらびY(ゆみ)  2003/12/30 (火) 01:18
奈良市内に2泊して、明日香・南河内・高取の史跡を回ってきましたが、看板すらないほとんど無名の寺や古墳もあって、記憶があいまいにならないうちに行ったところをメモして見ました。
二人旅でも、お互い関心がちがうのか、「えっ、そんなとこ行ったかな?」なんて・・

津堂城山古墳で日が暮れ、藤井寺からの帰路、生駒山の竹林寺の下を有料道路のトンネルで抜け、壱分でうっかり出口に出てしまいました。
去年、平群谷の竹林寺・長屋王陵付近を走った記憶があったので、何とかなるだろうとナビまかせに行くと、道がどんどん細くなります。
生駒山と生駒市街の夜景がきれいなんて言っているうち、真っ暗な山道で矢田丘陵のキャンプ場らしきところで行き止まり。また戻って、ナビをはずさないよう走るうちやっと、尼ケ辻へたどり着き、市内へ帰還できました。
あとで地図を見ると、通った道はかの有名な「暗越え奈良街道」の308号線。
西鶴の本では追剥ぎの出る道とか。「日本の道百選」になっているような半ばハイキングクースの山道でした。
ナビって初めてでしたが、けっこうすごい道を通らせてくれちゃいます。
その翌日も、上ツ道の旧奈良街道を指示してくれて、貴重な体験をしました。

27日 飛鳥路へ: 箸墓古墳−奥山久米寺跡(十三重塔)−大官大寺跡−飛鳥寺(「入鹿首塚」五輪塔)−伝飛鳥板蓋宮跡−酒船石−亀型石−石川精舎跡(「馬子塚」五輪塔)−向原寺(豊浦宮遺構)−甘樫坐神社

28日 南河内へ: 西琳寺(叡尊五輪塔群・五重塔心礎)−野中寺(塔・金堂礎石)−誉田八幡宮(金銅製透彫鞍金具・石造放生橋)−峯ヶ塚古墳−道明寺−道明寺天満宮−(復元修羅・元宮土師神社)−辛国神社(茅輪くぐり)−葛井寺−津堂城山古墳

29日 壺阪路へ: 奈良公園−壺阪寺−高取城跡−束明神古墳−岡宮天皇陵−山田寺跡




1150. 帰ってきました さわらびT  2003/12/29 (月) 23:11
2泊3日の旅をしてきました。奈良からレンタカーの旅でしたので、割と行動範囲を広くとったのですが、実はカーナビを使うのが初めてで、結構言いなりになってしまって・・・・

年末だからこそ、静かに旅が出来るのですが、寺社仏閣ではだいたいお正月準備の大掃除をしているところに割り込んで見物しているのが物好きな我々、というわけです。

3日目の今日、午前中に壷坂寺〜高取城を見学したあとでしたけれど思いついて、束明神古墳をたずねてみました。話を聞くだけで知ったかぶるのことを書いてますが、あまり現地は訪ねてないのが真相なんです。八角墳ということで河上邦彦氏の新著に書かれていたので興味を持ったのです。今日はカーナビの案内にまかせたところ、行き止まりの道に入り込んしまったのですが、それでもどうにかたどり着いた次第。親切な古老の助言もいただいて岡本天皇陵もあわせて、訪ねてみました。岡本天皇陵の方も、何かマウンドがあるようなんですが、草壁皇子の真のお墓は、束明神古墳ということなんでしょうね。

はにわ処さん、ご丁寧にかきこみありがとうございます。来年もお会いできれば、と思っております。

やさい様、初めての書き込みありがとうございます。講演会へのご参加お待ちしております。中国への旅はいかがでしたか。洛陽の「三角縁神獣鏡」ですが、いわゆる斜縁なのかもしれませんが、中国で出土していることに着眼したものです。鍍金のことは気づきませんでした。いわゆる「三角縁神獣鏡」の形式的な要件が満たされているものであれば、と考えるものです。

後日、あらためて旅の報告をいたします。




1149. 後援会のお知らせをいただきました やさい  2003/12/27 (土) 19:26
はじめまして。後援会のお知らせをはがきでいただいたものです。

11月末に中国に行って来ました。
北京→鄭州→鞏義→偃師→洛陽→三門峡 11日間(観光は9日間)です。

その下調べでHPの洛陽博物館の三角縁神獣鏡を読ませていただき、大変参考になりました。
実際見ると、鍍金されているようなのですが、そういう例が日本にあるのでしょうか。
それと、縁の三角が甘いようにも思ったのですが・・・。

洛陽古墳博物館にも行きました。そこで洛陽博物館が1988年に出した「洛陽出土銅鏡」という本を手に入れました。
この本に洛陽博物館の「王公王母画像鏡」の銘文が載っていました。

《蔡氏作竟佳且好、明而好、世少有、刻冶今守(当為禽獣)、悉皆左、今人富貴且孫子、寿而金石寿不知老兮、東無極》
(為・孫・無・極は日本の漢字に置き替えました)

画像中に《王公》《王母》の名前。
HPの鏡の拡大写真で2人の王と右脇士の間に縦書きで入っているのですが・・・わかりにくいですね。
本の写真を直接見たのではもっと分かりません。

鏡も難しくてよく分かりませんが。
初めての中国旅行は大変刺激的でした。次は是非西安に行きたい。でも江南も外せない。そんな気分です。

はがきでの後援会のお知らせ、手間を掛けていただいて恐縮しています。
何度も参加させていただいているのに毎回当日参加で申し訳ありませんでした。
これからは事前に申し込みさせていただきます。
いつもネット上でチェックしていますので、これからもよろしくお願いします。




1148. 猿埴輪 はにわ処  2003/12/27 (土) 10:47
T様
どうもご無沙汰しています
猿の埴輪の画像で年賀状面白いですね
たいした画像ではありませんが宜しければお使いください
うちはチビの写真です(まあ一般的ですが、、、)
奈良にご旅行ですか
気をつけて行って来てくださいね




1147. お久しぶりです! まさみ  2003/12/27 (土) 00:38
ご無沙汰しております。
さわらびさま、お元気でしょうか?
きょうは、「冬のソナタ」が最終回でした。よかったです〜。
ゆみさま、ご覧になりましたか?
わたしの中の韓国が近くなりました。

お二人でご旅行ですか。良いですねぇ。
明日から寒くなるそうです。お気をつけて。
PS,膳氏とても興味があります。土産話楽しみにしております。




1146. 膳氏の話題に関連して さわらびT  2003/12/26 (金) 23:00
オオヤシマ様

いつもご教示いただきありがとうございます。掲示板でお話しするのは初めてになりますかね。膳氏について、学問上の交通整理をしていただけるような文献が少ないのだとしたら、是非、加藤先生に書き下ろしで、お願いしたいものですね。(私のテープ起こしはあまり、あてになりませんので)

稲荷山鉄剣銘文について山尾幸久先生は、王の親衛隊兼調理人であった「久米の子」らの中から北武蔵などの関東の豪族を「膳大伴」として率いて王に仕える後の膳氏の職掌が成立した記念である、と述べておられますね。武蔵国造の乱を考える上でも興味深いテーマです。

加藤先生の前回の勉強会では、神饌(みけ)の供進を職掌としていた膳臣と述べられたあと、『日本書記』雄略紀に出てくる、高句麗を撃破した将軍としての「膳臣斑鳩」、それから欽明紀では、百済に派遣されて、きわめて勇敢な武将として描かれている膳臣巴提便(はすひ)のことなども話題にされていました。食膳奉仕を本来の職掌としながら、軍事外交に卓越した氏族ということになるのでしょうか。

いわゆる「聖徳太子」妃、膳菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)のことなど、考えてみますと話題が尽きません。

ところで明日は、飛鳥の旅になりそうです。まず向原寺を目指します。推古の豊浦宮があったところといわれています。これが飛鳥では最初の王宮ということでしょうか。ネットで検索すると、丁寧に解説しているHPにも出会いました。

http://www.bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/temple/kogen_ji.htm

木下正史先生の『飛鳥・藤原の都を掘る』(吉川弘文館、1993年)などを手にしながら、蘇我氏とのゆかりの深いこの地を観光してきます。




1145. 膳氏 オホヤシマ  2003/12/26 (金) 13:07
膳氏をおねだりしたものです。
加藤先生とも話したのですが、膳氏は、重要な氏族であるにもかかわらず、まとまった論文・著書がほとんどみられません。加藤先生は数回にわたって話していただけると思いますが、これは、ある意味では、さわらびさんのテープ起こしが、膳氏に関する最新の基本文献的な位置付けになるのではないか、などと勝手に思っています。
ここからスタートする意義もあると思いますよ。




1144. 『新撰姓氏録を読む』来年のテーマは? さわらびT  2003/12/25 (木) 22:48
たまには何か書いておかないと忘れられてしまいますね。

『新撰姓氏録を読む』ですが、来年から5ヶ月目に入ります。参加者のご希望もあって、膳氏をテーマにいたします。ご希望の方の参加歓迎します。1回だけのご参加でもかまいませんので、ご遠慮なくお問い合わせください。

12月は、田辺史でした。藤原不比等の養育氏族だという興味もあり面白く拝聴しました。この氏族は後に皇別の上毛野氏を称するようになるのですが、明らかに渡来系氏族である田辺史が、なぜ上毛野氏を名乗るようになったか・・・軍事との関連で新たな視点もご提示いただきました。

膳氏ですが、ご承知のとおり、磐鹿六雁命(いわむつかり)が景行天皇に堅魚と白蛤を料理して大いに喜ばれた伝承ですが、「高橋氏文」にも詳しいようです。しばらくは『高橋氏文を読む』になりそうです。

【参考】『日本歴史』2003年7月号〔研究余録〕磐鹿六鴈命の伝承(加藤謙吉)

ところで、蘇我氏のことも、加藤先生のご専門ですので、ふれておきましょう。

@大和国高市郡ソガ(曽我・宗我、現奈良県橿原市曾我町)の地名をウジの名とする大和の在地土豪
A六世紀半ば(『書紀』には宣化朝)に稲目が大臣に初任されて以来、稲目・馬子・蝦夷の三代に渉って大臣の外戚として権勢を振るった。
B645年のクーデター(乙巳の変)で蝦夷とその子入鹿が中大兄皇子・中臣鎌足や同族の蘇我倉山田石川麻呂によって滅ぼされたが、倉山田石川麻呂が大化の右大臣に就任し、石川麻呂の死後はその弟の連子や赤兄がその跡を継ぎ(石川麻呂の父雄当に始まるこの蘇我氏の家系を蘇我倉家という)、壬申の乱の後は氏名を蘇我から石川(蘇我の勢力圏の一つで、蘇我倉家の本拠地であった河内国石川地方の地名に因む)に改め、八世紀代までは藤原氏に次ぐ有力貴族の一角を占めた。
C『古事記』(孝元記)によれば、蘇我氏は建(武)内宿禰の後裔二十七氏中の一氏
(以上、加藤先生の講演レジュメから)

ところで、蘇我氏は渡来人なのでしょうか?




1143. 「夫婦の旅」? さわらびY(ゆみ)  2003/12/25 (木) 18:10
暮れも押し詰まりましたね。
明日で御用納め、例年年末休暇の2-3日を旅行するのがわが家の恒例。
(大掃除は一番夫婦険悪になる行事なので、少々お化け屋敷でも人間、ごみで死ぬことはないと達観するようになりました。)

ところで、「歴史ネットワーク」さんのHPでは「さわらび通信」は、なんと「歴史と旅」の「夫婦の旅」というジャンルにリンクアップされているのですね。
http://member.nifty.ne.jp/jhforum/
その期待に無理してこたえているわけではありませんが、年に一度の二人旅です。(最近はいつもお仲間とが多いので)
12月初めに、どこへ行こうか漠然としているとき予約を入れる先は、たいてい「奈良」。テーマはたいてい直前。今年もこれで決まりです。

私は、明日香村の有名観光スポット「入鹿の首塚」と橿原市の「馬子の墓」(石川精舎址にあるという)という五輪塔がなんであるのか、どうしてこんな伝承が付会されたのか興味しんしんです。ついでに西琳寺の叡尊塔も見たい!

といっても、きっと同舟異夢の旅。
同じ寺院へ行ってもきっとTは、蘇我氏の興亡や古代氏族の史跡という観点で見てくるでしょう。
まあ、それぞれのちがった思いを吐き出すのが、わが家のHPの不思議さかも知れません。

さて、私の関心事、馬子と入鹿の五輪塔(どう見ても中世律宗の塔?)について、ご存知のことがありましたら、ぜひご教授ください。





1142. 長作歴史散歩の画像での報告をUP さわらびY(ゆみ)  2003/12/25 (木) 10:10
12月23日の長作歴史散歩の画像での報告を、「郷土史研通信Web速報版」にUPしました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/kyoudosikenntuusinn.htm




1140. Re: 「長作歴史散歩」ありがとうございました さわらびY(ゆみ)  2003/12/23 (火) 23:47
あるけ〜さま、 房石研の会長先生、八千代市郷土歴史研究会の皆様

今日は、長作の歴史散歩のご参加お疲れ様でした。
穏やかなあたたかい日和で、楽しくフィールドワークが堪能できましたね。

長作は、武石インターへの抜け道に使う車も多いところですが、諏訪神社や長胤寺、妙見堂など、中世から近世の景観をよく留めた旧村のたたずまいが残る集落です。

幹事が何度も通って下調べを深めてあったフィールドでしたが、それぞれの関心の向きが多彩で、それだけに幅広い歴史的景観の把握や文化財への興味が喚起されたのではと思います。

諏訪神社の彫刻を見学している画像があるけ〜さんがUPしてくださいました。
http://www3.ezbbs.net/27/chibaiseki/
ありがとうございます。

帰りに坊辺田の水神社にも寄りました。土取りで台地が侵食されつつあるところですが、ここには極相林の景観が残り、彫刻の施された小さなお堂が今も氏子の信仰を伝えていました。
そのうち、「郷土史研通信Web速報版」に画像での報告をしたいと思っていますので、しばしお待ちください。




1139. 「長作歴史散歩」ありがとうございました あるけ〜 [URL]  2003/12/23 (火) 21:52
本日はありがとうございました。

妙見社の文化財はその重要性を他の市民や当局に認識してもらわねばと思います。
句碑の文字はむづかしー お手上げですが。
諏訪神社裏〜神主さん宅付近の土塁は、中世の城館遺構の
可能性がありそうですね。

八千代市郷土歴史研究会のみなさんの調査研究におおいに学ばせてもらいました。同時に、しばらくぶりに大勢で歩くのを堪能しました。
これからもよろしくです。(^^)




1138. Re:千葉市の道標クイズのヒント  あるけ〜 [URL]  2003/12/22 (月) 22:53
こんばんわ
この季節の花見川の夕景色もなかなかいいもんですね。
同じ頃、坊辺田の畑に居ましたが、夕景色に気がまわりませんでした。

>>長作の諏訪神社 裏に土塁の跡らしきもの・・・
あの付近は土塁をもったお宅が目に付きますね。
諏訪神社裏ははじめて見たのですが、
以前よりあの付近に土塁をもったお宅が
あるのは気になっていました。
その神主さんのお宅かもしれません。

>答えが出ずにあまり悩むと、ストレスになりますから、私からもヒントを。
これはどうもありがとうございます。
ひらがなではわかりやすいですね。
正解を示すのに使わせてもらおうかなぁ?
しかし都会人には意味がすぐにはわからないかー。
まぁ、道標入門者の誰もが最初に通る関門ということで、
少し悩んでもらいましょう(なっちゃってエラそうに(^^;)。

では長作調査よろしくです。




1137. 千葉市の道標クイズのヒント さわらびY(ゆみ)  2003/12/22 (月) 19:48
あるけ〜さま
1135と1136のこの掲示板の書き込みも、奇しくも同時、同じ話題でしたね。(1135を見ないで1136をUPしました)

>長作の諏訪神社 裏に土塁の跡らしきもの・・・
貴兄もそう思われましたか。
本殿から神主さんのおうちへ行くほうにたしかにその様な高まりがありますね。以前から気になっていました。

ところで「千葉市の道標クイズ−読めるかな?(初心者むき)−」をUP始めましたね。
http://chiba.fc2web.com/sekizou/sekizouquiz01.html

答えが出ずにあまり悩むと、ストレスになりますから、私からもヒントを。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/J0200.01.15Y.W.jpg
八千代市吉橋尾崎薬師堂前路傍の大師講の道しるべです。
ああら、見ちゃダメ?




1136. 花見川の夕景色 さわらびY(ゆみ)  2003/12/22 (月) 00:09
検見川浜の親戚の家からの帰り道、畑町と長作の境の玄鼻橋から、花見川の夕景色を撮ってみました。

もう菜の花が咲いています。
「千葉市遺跡地図」で見ると、その向こう側の長作の水神社と坊辺田遺跡の森には、縄文前期・古墳時代の遺跡や貝塚、中世の城館の址が眠っているとのこと。
冬至の太陽がすぐに沈んでいきました。

フォトアルバムの史跡歳時記にUPしましたのでご覧ください。

奇しくも、あるけ〜さんの掲示板にも御成街道に近い長作の城山城の画像がUPしています。
http://www3.ezbbs.net/27/chibaiseki/
ここもすぐそばですが、女一人の藪こぎはためらいがあって踏み込んだことはありません。

23日は八千代市郷土歴史研究会で長作を歩きます。
今日のようなお天気だといいのですが・・




1135. 長作城山城 あるけ〜 [URL]  2003/12/22 (月) 00:03
クイズのご紹介、ありがとうございます。
ところで本日、長作の城山城跡(長作公民館近くの台地)を見てきました。以前から見てみたいと思っていながら、なかなか果たせなかったところです。台地の先端付近にはまだ土塁跡がそれなりに残っています。

ついでに立ち寄った長作の諏訪神社でちょっと発見。
裏に土塁の跡らしきものがありますね。
屋敷の土塁かもしれませんが。諏訪神社は物見として絶好のところではないかと思うので、ひょっとしたらという感じも。
関連する伝承かなにか残っていないか・・・長作付近を歩く楽しみが増えました。




1134. 道しるべのクイズ? さわらびY(ゆみ)  2003/12/18 (木) 22:27
道しるべの大好きのみなさま

おひまでしたら、あるけ〜さんの次ぎのサイトで面白いクイズが楽しめます。
http://www3.ezbbs.net/27/chibaiseki/
でも、答えが解けなくて眠れなくなるかも・・
星久喜中学前の道標文字、いったいなんて読むのでしょうね。




1132. Re: 東アジア異文化間交流史研究会 さわらびT  2003/12/15 (月) 23:17
> 増尾先生の報告については、あらためて、疑偽経典の受容とその中から道教的要素を見出せるというお話だったようですが、紹介するのに自信がありません。聴講されておられた加藤先生は3回聞くとわかります、とおっしゃってられましたが・・・
>
> その増尾先生に来年ご講演いただきます。そちらもよろしくお願いします。

これだと、誰も聞きに来てくださらないのじゃないか?との声があがりました。

2月のご講演は、『藤原家伝』の話ですから、一度聞いていただければわかります。時間もたっぷりありますから、『懐風藻』のことも丁寧にご説明いただくようお願いしました。




1131. 東アジア異文化間交流史研究会 さわらびT  2003/12/15 (月) 23:03
12月13、14日「東アジア異文化間交流史研究会 第2回国際研究会議」に行って来ました。初日の韓国の前方後円墳をめぐるシンポジウムが東京で開催されるのは初めてらしいです。

私が興味を持ったことをいくつか。

朴天秀氏は『東アジアの古代文化117号』にも書いておられますが(「栄山江流域における前方後円墳出現の歴史的背景」)、固城松鶴洞1号墳を「前方後円墳」と考えているとのこと。三つの円墳であることが判明した現在これはかなり理解しづらいお考えですね。「前方後円墳を意識して墳丘を造営した」と、おっしゃるのですが、どうなんでしょう。現地を見ていない私にはなんとも判断できませんが・・・

鈴木英夫先生は「栄山江流域・西海沿岸地域の前方後円墳」(栄山江流域だけではないので、こうした表現をされてます)の被葬者に言及されました。高句麗の南下に伴う軍事緊張の中で、政治的所産として生み出されたものと理解されておられます。ご講演のあと、ご本人にお伺いしましたが、この説は鈴木先生独自のようです。果たして、支持されますでしょうか。(掲示板では、伝えきれないので、被葬者像については割愛します。)

2日目で面白かったのは、岡田精司氏が島根青木遺跡出土の、神像は捨てられたもので呪物だとされたこと、信仰の対象ではなかったということのようです。お話の主題は寺院内に祭られる守護神についての考察で、仏法守護の護法神に道教及び陰陽道神が祭られていると、かなり興味深いお話でした。この「大先生」には、なはだ失礼ながらかなり面白い方でした。(ご参加の方にはわかりますよね。)

増尾先生の報告については、あらためて、疑偽経典の受容とその中から道教的要素を見出せるというお話だったようですが、紹介するのに自信がありません。聴講されておられた加藤先生は3回聞くとわかります、とおっしゃってられましたが・・・

その増尾先生に来年ご講演いただきます。そちらもよろしくお願いします。




1130. 市民の大祭記録と公式調査報告書 さわらびY(ゆみ)  2003/12/15 (月) 21:43
先日「県や市の公式記録も大事でしょうが、市民の目で見た記録は、それ以上の価値があるように思えます。」と書いたのは、誤解を与える書き方でちょっと反省しています。
調査の正確性や民俗学的な考察は、やはり組織性と熟達したプロにはかないません。
市の伝承館や教育委員会の先生方が丁寧に調査されていらっしゃるのを現場で拝見し、また前々回のりっぱな大祭記録集がどんなに役立っていることか、身にしみています。

ただやはり昨今のメディアの点から見ると、前回の七年祭では田久保さんのHPだけでしたが、今回は市民の目で見た記録画像がインターネット上に次々UPしています。
そのうち何割かは、短い期間で削除されてしまうと思われる日記やファミリーのアルバム。
記載されたコメントはアットホームですが、すごい画像が入っています。
昇殿の中の写真や、徹夜の磯出祭(どれも霧でレンズが曇ってたいへんだったよう)など、貴重な画像ははやばやダウンロードさせていただきました。

公式記録が刊行されるのは、役所の予算や手続きで、来年度以降になることでしょう。
気長に待ちつつ、その成果には謙虚に学ばせていただきたいと思います。

七年祭のHP(2003.12.14検索)
マイホーム・ファミリータイプのHPから
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/8525/03taisai.html
http://www1.odn.ne.jp/~cjn75870/sanshiroh_ashiato13.htm
http://www1.seaple.ne.jp/sirayuri1/diary/diary5.htm
http://www.geocities.jp/kobacbb/welcome.html
http://rose.zero.ad.jp/~zaj83832/7matu/7maturi.htm
地域活動ネット版
http://www.yomiuri-c.com/mylife-mytown/03.11.17/my01.htm
http://www.narasino.net/event/7nen/index.html
写真中心フォトアルバム
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kona/index.htm
http://takawasi.hp.infoseek.co.jp/ninomiya.html
地域の史跡中心HP
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nakanisi/maturi.htm
http://chiba.fc2web.com/7nensai/7nensai00.html




1127. Re: 花流し拝見しました さわらびY(ゆみ)  2003/12/15 (月) 00:53
青木さま
ご覧いただきありがとうございました。

>  こういった画像を見ると毎年あってもいいかな等と思います(うそです 笑)。

オリンピックよりちょっと長い6年に一度だから待ち遠しく、その年になると精一杯頑張るという感じでしょうか。
いつも祭りの終わりに「ナカドシ(3年目の小祭)やろう」と言っても、費用や勤めなど考えると実現しない高津の現実ってわかるような気がします。

>  記録として残そうとすると言葉としては伝わっても
> 字にしようとすると分からない言葉がたくさんありますよね。

そこが民俗調査の面白みなのでしょうか。
屋号も一度聞いても、すぐにはわからない。
デンニムさん→デンエモンさん→伝右衛門さん→○澤○○家
ちゃんとした報告書では、やはり漢字まで必要なのでしょうが、HPでは(匿名性も考慮して)地元の方の言い習わしで記載しました。どれも同じなのですが・・むずかしい!
「ダイメン」はいったいどういう漢字なのでしょうね。
また今は萱田町だけが神輿を出しますが、大和田が出した過去の歴史があるのかどうか?などなど、不思議いっぱいの世界です。
これからも萱田町の七年祭について教えてください。




1126. 花流し拝見しました 青木  2003/12/14 (日) 17:22
 さわらび様

高津の花流し拝見いたしました。
祭りの粋な感じが伝わって来ていいですね。
多分地元の人たちも「大変だ」といいながらも、
そのあわただしさを楽しんでいたのではないでしょうか
(今となっては)。
 こういった画像を見ると毎年あってもいいかな
等と思います(うそです 笑)。

 記録として残そうとすると言葉としては伝わっても
字にしようとすると分からない言葉がたくさんありますよね。
苦労がしのばれます。
 
 ありがとうございました。




1125. 佐々木先生の講演 さわらびT  2003/12/13 (土) 22:24
昨12日、佐々木憲一先生の講演がありました。(「シルクロードの会」)新鮮な問題提起と受け止められた方が多かったようでした。

都出比呂志氏の「前方後円体制論・古墳時代初期国家論」に対して別の考え方を提示されました。すなわち、古墳時代前期の社会は、王権の力はさほど強大ではないこと、首長墓のあり方から見えるのとは別に、自立的な交流が存在した時代であったことをお話されました。

河内についてのご指摘も興味深く拝聴しました。現在の八尾市にあたる場所ですが、以下レジュメの引用ですが、「庄内甕の故地、奈良盆地から流れる大和川の当時の河口付近に位置、吉備、山陰、尾張の土器が搬入、初源期の前方後円墳が存在しない地域、大和の貿易港としての役割担うか?」

理論的枠組みとして掲げられたヘンリーライトの定義、これはメソポタミアの国家形成期を説明するモデルであるそうですが、ハーバード大学の大学院で考古学を学ばれたというご経歴からまさにユニークで刺激的なご講演でした。

ご興味のある方は、『弥生の「ムラ」から古墳の「クニ」へ』(大学合同考古学シンポジウム実行委員会編、学生社)、『古墳時代の日本列島』(大塚初重・吉村武彦編、青木書店)に、論考が掲載されているので、ご一読ください。




1124. 謎のつきない七年祭 さわらびY(ゆみ)  2003/12/09 (火) 23:08
「高津ひめ花流しの記録」をご覧いただき、また励ましのお言葉をありがとうございました。

高橋様のHPのプロ級の写真の腕と軽妙なコメントには、祭礼の写真の極意をたくさん教えられました。

また、mwara様には、「花流しの記録V」のトップ写真のトリミングなど実践的に手ほどきいただき、ありがとうございました。
祭礼のルポでは、去年お招きいただいの先崎の鷲神社大祭の取材で、ムラの祭りの原点がなんとなく把握できたように思います。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/massakimaturi/massakimaturi.htm
先崎の鷲神社が七年祭に参加していたという言い伝えはぜひ調べてみたいですね。

あるけ〜様
「ダイメン」の語源、これも宿題ですね。
民俗はわからないことだらけです。
これからも、ご一緒に下総の歴史と民俗にチャレンジしていきましょう。

いも様にご紹介していただいた「習志野ねっと」http://www.narasino.net/でも、花むらさき様と七年祭の謎ときを議論しています。
また丁寧に見てミスなどお教えいただき、修正、更新中です。
(プリントされる方は、最新の更新ページでお願いします)

皆様のおかげで、よりよいページつくりができ、本当に感謝!です。謎のつきない七年祭、その解明の中で、下総の歴史がきっと見えてくると思います。




1123. 花流し、拝見しました あるけ〜@千葉市の遺跡を歩く会 [URL]  2003/12/08 (月) 23:00
さわらびさん、こんばんわ
花流し、拝見しました。
祭の衣装が深い緑に映えて、印象的です。前日の神揃場とまたちがい、しっとりした感じで何となく落ち着いたがいいですね。「かつて、『ダイメン』という旧家が27軒」あったそうですが、ダイメンって何という意味でしょうか。謎も一つ増えました(^^)




1122. 花流し拝見しました。 mwara [URL]  2003/12/08 (月) 21:40
ゆみさん、こんばんは!!
花流し拝見しました。三山七年祭の取材そして記録お疲れ様でした。大変分かりやすく、今回見る事が出来ませんでしたが、今度見るときは7年後ということに成りますね。先崎の鷲神社の神輿も聞くところによると三山の七年祭に参加していた事があると聞きました。いつ頃か分かりませんが・・・!?記録がないということは、残念ですが、何かその辺の事でご存知であれば教えてください。




1121. 花流しの記録拝見しました 高橋敬三 [URL]  2003/12/08 (月) 06:37
ゆみさんへ
花流しの記録拝見しました。
またまた大変な労作ですね。お祭りの人々のエネルギーもさることながら貴方のエネルギーにも感心しました。
大変な貴重なお祭りが今も連綿と受け継がれていることに吃驚しています。どうも有り難うございました。




1120. 「高津ひめ神社花流しの記録」をUPしました さわらびY(ゆみ)  2003/12/07 (日) 22:16
「御幸する高津ひめと供奉の人々」の「大祭記録」の続編として「高津ひめ神社花流しの記録」をUPしました。

なぜ「花流し」というのか、その語源は?ということに関して、八千代市郷土歴史研究会の先輩、時平神社の氏子の方、民俗研究家の友人から貴重なヒントや情報をメールでいただきました。本当にありがとうございます。
貴重なご意見をいただきながら、今回のHPでは、十分に考察できていないことをお許しください。

高津の若衆の方々にもご覧いただいているかと思いますが、お気づきの点、間違いなどありましたら、どうかお知らせください。




1119. 白井克也氏の論文のご紹介 さわらびT  2003/12/06 (土) 23:17
白井克也氏の論文「新羅土器の型式・分布変化と年代観−日韓古墳編年の並行関係と暦年代−」が収載されている『朝鮮古代研究第4号』(朝鮮古代研究刊行会、2003)を入手しました。かなり、興味をそそられるタイトルではないでしょうか。

のっけから尾野善裕氏への、大批判です。「考古学のおやつ」でもくり返し主張されておられますが、学問の方法・姿勢の問題を問うているわけですから、着目しないわけにはいかないでしょう。

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0084.html

暦年代を論ずるにあたり、「ここで留意すべきは、“一国暦年代論”に成立の余地はない」と断じておられます。

「史料対比年代」(文字史料と考古資料の整合性により比定された暦年代)には、有効性の異なる三つの方法がある、とのこと。@紀年史料・・・たとえば武寧王陵・買地・領域論・・・高句麗427年・集安から平壌遷都、百済475年ソウルから公州、538年公州から扶余へ遷都。考古資料の画期。B情勢論・・・「ある時期に馬具が増加したり石槨墓が登場することを高句麗勢力の南下に起因すると捉えたり」する。

新羅土器編年、馬具編年、須恵器編年の並行関係を明示したこの議論です。細かい議論には専門家でない私にはついてていけませんが、たとえばTK10に注目してみます。暦年代としては、表3「日韓古墳編年の並行関係と暦年代」では530〜550年になってます。

鴨稲荷山の須恵器は良好な資料とのこと。(「考古学のおやつ」では、鴨稲荷山の垂飾付耳飾に言及されています。余談ですが、これまた「京都」に一言あるのかな・・・って感じるコラムです。)

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0087.html

また、TK10期は馬具では鐘形・棘葉形杏葉が伝えられる時期(「桃崎祐輔棘葉形杏葉・鏡板の変遷とその意義」筑波大学 先史学・考古学研究第12号 参照)ということです。

読み応えのある論文です。




1118. Re: 七年祭のうた(?)発見しました さわらびY(ゆみ)  2003/12/03 (水) 19:46
いも様(おもしろいHNですね)

「習志野ねっと」の七年祭のUPのおしらせ、ありがとう。
花むらさきさんが、祭りのすぐ後からきれいな写真をいくつかUPしていらしたので、記録編が出るのではと楽しみにしていました。
お知らせいただいたので、UPしたてのすばらしい作品を見ることができました。
ところで作者は、「花むらさき」さんとのことです。
田久保さんも「習志野ねっと」でご一緒にご活躍?の様子ですね。
ここからLINKできる彼の不朽の名作はそのまま、ずっと置いてくださるそう。

七年祭は、地元の氏子ではすごい力の入れ方で、また前々回前回は4市と県の教育委員会が記録につとめたようですが、一般市民にとっては、今回の大祭で(インターネットのおかげで?)やっとメジャーな存在になったのでは?
「七年祭のうた」も出来たし、インターネットで次々に記録アルバムがUPされて・・・

高橋さん・花むらさきさんの作品は、貴重な民俗記録です。
公費で出される県や市の公式記録も大事でしょうが、市民の目で見た記録は、それ以上の価値があるように思えます。

図書館でしか見られない分厚いモノカラーの公式記録集や、資料館や博物館でしか見られない記録ビデオ(その予算額は?)に比べて、本当にインターネットってすごい媒介だと思います。




1117. 七年祭のうた(?)発見しました いも  2003/12/02 (火) 02:59
さわらびゆみ様

いつも楽しく拝見しています。七年祭リポートも「花流し編」を残すのみ、いよいよ佳境ですね。
ところで、「ちばのうた」ほど面白くないのですが、ネット上で変な唄(失礼かな)を発見したので、息抜きに聞いてみて下さい。

http://www.gush-music.com/ohEnka.html

相葉真司さんという幕張出身の演歌歌手の作品です。バンドメンバーも幕張の半纏を着ています。

また、下記のHPですが参考資料の数や完成度からして、あの「古典的名作」を作られた方の新作ではないでしょうか。ぜひチェックしてみて下さい。

http://www.narasino.net/event/7nen/index.html






1114. 今城塚の埴輪(森田先生の殯儀礼説) さわらびT  2003/12/01 (月) 22:45
ネットで情報を知り、土曜日(29日)祭祀考古学会の研究会、森田克行先生(高槻市立埋蔵文化財調査センター所長)の話を聞きに國學院大學に出向きました。話題の今城塚の埴輪がテーマですから聞き逃すわけにはいかないと思ったのです。

私同様に、興味をもたれたのか多くの知人にお目にかかれました。お話の内容については、「東アジアの古代文化」117号の論文をご覧ください。この埴輪祭祀区の形象埴輪は、殯(もがり)儀礼を表現しているとのこと。

森田先生のお話の中で興味を持ったことのひとつに柵形埴輪の系譜です。歴博の企画展でも取り上げられていなかったので興味を持ちました。レジュメには、櫛山、巣山、宝塚1号、野毛大塚、狼塚、今城塚、百足塚etc.とありました。

柵形(垣)は、いわゆる囲形埴輪の形式化が進んだものとのこと、今城塚の発掘で注目を集めたと思うのですが、さらに今城塚ではこの埴輪にはさまれるように門形も出土、これははじめての例ということです。

会場でお会いしたTさんからいただいた最新の巣山古墳・島状遺構の現説資料をみますと、巣山古墳でも柵形埴輪が10点出ているとのことです。相互リンクさせていただいている「大倭穴友会」さんのHPの「現地便り」には巣山古墳の現説の写真が柵形埴輪も含め載っていることに気が付きました。丁寧に作っておられます。ご覧ください。

http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/suyama.htm

それと面白いのは、5本指の表現をもつ獣脚埴輪の問題です。画像を見つけようとしたのですが、ネット上では見つけられませんでした。「東アジアの古代文化」掲載論文には写真が載っていますのでそちらをご覧ください。「サル」なのか、人の手なのか。森田先生は、匍匐(ほふく)儀礼と関連付けられています。大変面白い説です。

高市皇子の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌(巻2-199)より
「・・・・・我が大王 皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲の 麻衣着 埴安の 御門の原に 茜さす 日のことごと 鹿じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を ふり放けみつつ 鶉なす い匍ひもとほり 侍へど 侍ひ得ねば・・・・・・」

臣下は、奉仕の表明を鹿や鶉(うずら)のごとき這い回ることで行うという、その表現か・・・・繰り返しになりますが、この面白い埴輪の具体的なイメージをお伝えできないのは残念。




1113. Re: 労作拝見しました さわらびY(ゆみ)  2003/12/01 (月) 20:12
高橋様 
メールいただきました皆様

七年祭大祭記録編をご覧いただき、また励ましのお言葉ありがとうございました。
民俗行事の学術的記録をめざしはしたものの、HPとして広く皆様に楽しんでいただけるようなな編集としましたので、記録としては不十分な点があることも実感しています。
高津の花流し編はこれから編集に入りますが、「花流し」の意味の由来や、神輿巡行の歴史的民俗的なポイントの紹介などで難航しているのが現状です。
これまでの内容の間違いや、不十分な点、また花流しに関しての情報などがありましたら、どうかご助言ください。

ところで、メールでは「刀vはしっかり文字化けしていたようで、すみませんでした。
題名で化けると台無しなので、今回HPではロゴにしましたが、本文でもHPでは大丈夫なようですね。(カラーは、半纏の色です)
いずれにしても使い分けの必要な要注意の文字ですね。






1112. 労作拝見しました 高橋敬三 [URL]  2003/11/30 (日) 07:42
ゆみ様
労作拝見しました。
祭りの準備段階から密着取材で大変なご苦労だったと思います。
また内容も濃い素晴らしいドキュメントに完成されましたね。
おめでとうございます。学術的な価値があると思います。
見ていて当日の興奮を思い出しました。有難うございました。
(追伸)ご連絡いただいたメールでは唐ヘ文字化けしていました。




1111. 七年祭大祭記録編をやっとUPしました さわらびY(ゆみ)  2003/11/29 (土) 00:04
お待たせしました。
七年祭大祭記録編をやっとUPしました。

「高津比盗_社・2003年三山七年祭を追って・プロローグ」
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/miyamasitinensai/sitinensai.htm
「御幸する高津比唐ニ供奉の人々」
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/miyamasitinensai/11.02/11.02Fhoto.html
ご覧いただければ幸いです。

ところで高津比唐フ「刀vの字が、ご覧いただいている方々にお出ししたメールで文字化けしているようです。
HPではいかがでしょうか。

去年1月のころは、「オビシャを追って」で「高津ヒメ神社(八千代市)のハツカビシャ」としました。
検索エンジンもしっかり化けていますね。
文字化けが無くせないようでしたら、また「ヒメ」に戻さなくちゃ・・?

一人での三山七年祭の取材は、9神社がそろう神揃場と二宮昇殿で、9社横一列に全て紹介するか、1神社だけ追うか、いずれかしかできません。
三代王神社、時平神社などは、今回ご期待に添えなくてごめんなさい。

今回の大祭での9神社勢揃いの雄姿は、次のサイトでご覧ください。

おなじみ高橋氏の名作HP
http://takawasi.hp.infoseek.co.jp/ninomiya.html

どなたが作者か存じませんが・・・
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kona/nana/index.htm
(リンクフリーとのことですが、そちら様からご連絡先をメールいただければ幸いです)

高津花流し編はもう少しお時間をください。




1109. ふむ、ふむ 開田 誠 [URL]  2003/11/28 (金) 00:03
 や、やあ、ありがとう。

 古書店にはなりきっていないので、その山尾さんの本は出していません。そのように、いろいろ出せなくて困っています。
 
 そのような古書事情はどうでもよいのですが、もんだいはわれわれの歴史意識の形成のありようです。
 この”大化の改新”が長く、明治以降に定着してきたことをはっきり言うべきことです。

 私は諸説の観客でしかなかったので、それを兄にお願いします。
 




1108. Re^2: 山尾先生のご講演を拝聴しました さわらびT  2003/11/27 (木) 23:33
開田様

お久しぶりです。書泉ネバーランド、拝見してます。

「『日本書紀』における「大化改新」とは、645年の蘇我氏本家打倒のクーデター(「乙巳の変」)で豪族が国権を左右してきた時代が終り、王政は回復し、天武が強力に進めた律令体制はその時第一歩を踏み出したというものである。」(山尾幸久『古代王権の原像』学生社、2003年、237頁より)

山尾先生のお書きになったものを引用するのはコワイです。上記は、「山尾先生のお考え」ではなく、「『日本書紀』が描いた大化改新像」なのです。

この、『日本書紀』が描いた大化改新像とは全く異なる、歴史事実を復元しようと1983年から20年間続けてこられたとおっしゃるのです。1983年は『日本古代王権形成史論』(岩波書店)が出版された年ですね。ちなみにこの本、古本屋では13,000円〜18,000円しますね。再販したら定価はその半額程度におさまるでしょうに・・・

「乙巳の変」と「大化改新」は何の関係もない。

「乙巳の変」は百済の政変をめぐるトラブルで、643年、山背王殺害→古人・蘇我入鹿体制始動、645年は逆転クーデター、これにより「質」の扶余豊は生き延びることになる。

こんな構図が描けるらしいです。唐の対外強硬路線(きび支配)に対応する東アジア激動がこの政変の背景にある。
「乙巳の変」は律令体制とは直接結びつかない!

孝徳朝のこととして『書紀」が記す詔11のうち、10までの検討をおわり、それらが670〜675年の6年間に出されたもの、あるいはその作文であると証明もできると書いておられます。山尾先生のファンの一人としてぞくぞくしてます。




1107. Re: 山尾先生のご講演を拝聴しました 開田 誠 [URL]  2003/11/27 (木) 13:33
 もっと、ききたい。

 ”大化改新”が私たちの歴史像を誤らせて久しい。

 久しぶりに訪ねて、楽しみました。






1106. 山尾先生のご講演を拝聴しました さわらびT  2003/11/24 (月) 22:18
昨日、11月23日(日)山尾幸久先生の講演を拝聴することができました。(東京芸術劇場)

テーマは「七世紀の国家史と『日本書紀』」でした。最大のご関心事といえる「大化改新」をテーマにした講演を聴いたのは初めてです。「乙巳の変」が「大化改新」と結ぶつくものではないと、述べられます。

お話をうかがうのは、およそ3年ぶりでした。前回東京で講演されたときは、息子の入試発表日と重なっていて気がかりではありながら山尾先生の講演会に参加したものでした。そのことをお話しましたら覚えていてくださいました。

多少体調がお悪いご様子とお見受けしたのでうかがったところ、先生には珍しく今週に三日という講演疲れなどがおありとのこと・・・少し安心。

山尾節を聞かせていただいたと思ったのは、前期難波宮に話題がふれたときですね。「これが650年の宮殿のあとだとは常識では考えられない。自分の考えが違っていればこれまでの研究を捨て、ホームレスになる」とまで言われてました。(^-^)

懇親会でもこのことについては自信があると話されておられましたし、私も関心のあるところなので、記しておくことにしました。以前、掲示板784.『白石先生の暦年代観』でも一度書いたテーマです。近年急速に前期難波宮=長柄豊碕宮説が通説になりつつあることに、私なりに素朴ながら疑問があったものです。

『古代王権の原像』(学生社、2003年)にも書いておられますので、詳論は避けますが、この前期難波宮を「天武の難波宮(味経[あじふ]宮)」とされます。したがって長柄豊碕宮は未発見ということになります。前期難波宮より北方の可能性を指摘されておられます。

「通説」を見ておきます。古市晃「難波宮発掘」(日本の時代史3『倭国から日本へ』吉川弘文館、2002に所収)、では明らかに前期難波宮=長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)ですし、戊申年木簡をその補強資料と見られています。編著者の森公章先生も同じお考えのようです。

掲示板で以前書いたのですが、白石太一郎先生は、戊申年木簡の出土地が前期難波宮遺構や整地層の関係は不明とされておられ、かつ整地層出土土器=飛鳥Uを650-670年とする編年観を示されます。(『古墳と古墳群の研究』塙書房、2000年を参照)

そうなりますと、山尾先生も述べられるように長柄豊碕宮とするならば整地層及び下層時が640年でなければならない、という点が実は解決していないことになります。




1105. 稲毛浅間神社一の鳥居の祠のある岩について さわらびY(ゆみ)  2003/11/24 (月) 19:42
昨日、郷土史展の最後に見えられた方と、常々不思議に思っている稲毛浅間神社一の鳥居の祠のある岩についてお話しました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/inage/inagematuri2.htm
の岩です。
この方は、千葉中央博友の会の地学部会で活躍の方で、私がこの遠浅の浜にある岩についての地学的な見解をお聞きしました。

昨日は、閉会間近でしたので、十分な時間がなかったのですが、今日この岩を見に行ってくださって、詳しくお教えいただきました。

この祠のある岩は、安山岩らしい大きめの中礫を積み上げ、さらに小さな玄武岩の小石を乗せ込んであるそうです。
本来、磯ではないのでこのような岩が自然にあるはずはないのですが、浅間神社の段丘にの下には、5〜10万年前、榛名・赤城から押し出されてきたこのような安山岩がごろごろしていて、昔、浅間神社境内の山を切って富士山のように整形した時に出てきたのかも知れないとのこと。
海からのお参りの際の舟を結びとめるなどのために、この石を使って築かれたと考えられ、磯出(浜降り)のお祓いのかっこうのポイントとして、信仰上のシンボルになってきたとも考えられます。

さらに、小さな溶岩でできた玄武岩は、3千年前の噴火で出来た富士山頂近くの火山岩とのこと。きっと富士登山に行った行者の方々が大切に持ち帰ってこの祠に奉納したのでしょう。

稲毛の浜は14号線になってしまいましたが、残ったこの岩がかつての海の信仰と、富士信仰、さらに地球の歴史を今に教えてくれています。
浅間蕎麦を食べに行ったら、またこの岩をよく見てこようと思います。




1104. Re: 『郷土史展』拝見しました 赤飯 [URL]  2003/11/24 (月) 08:58
実は米本城址も寄ろうと思ったのですが
車を止める場所が解りませんでした。
郷土資料館のイベントは、縄文コンサートという物で
縄文土器の笛のコンサートという物でした。結構楽しめました。
終了二十分前に入ったのですけど。八千代のホムペには
紹介がなかったと思うので、やはり地元の人の情報は
貴重ですね。またイベント情報お願いします。




1103. Re: 『郷土史展』拝見しました さわらびY(ゆみ)  2003/11/23 (日) 23:34
あるけ〜様、青木様、はるばる県外からの赤飯さま
m(._.)m 謝謝!です。

> 見学にきた市民のみなさんの熱気もすごい。
> 会場が狭く感じられるほどでした。

そうですね。いつも熱心に見ていただいていますが、今年は地元の方や、市内外で祭りに参加された方々に、展示に関連して調査不足の点や新しい知見など、たいへんよく教えていただきました。
皆様に教えられたことを展示でご披露し、見ていただいてさらに対話の中で内容を深めていくという双方向型の郷土史展でありたいと思います。

>祭礼の記録を残す云々にからめてみると、
>集落の現在過去未来というものも考えさせられてしまいました。

伝統を守って変わらない儀礼の意味と、時代とともに変化し続ける側面とを正確に記録して、次の世代にひとつの「いきている歴史」として伝えていきたいですね。

>車で行くのは厳しかったです。
市郷土博物館と違って、駅前の会場の宿命かも・・
駐車場不足はいつも悩みで、駐車違反のたかーい罰金を払わされた運の悪い方も過去にはおられました。まあヨー〇マートさんは駐車場屋さんじゃないのでお許しを。
秋の佐倉城址、臼井城址、よかったでしょう。2日間会場内にいましたので、私も明日は外の風にあたりたいなあ〜。
八千代市佐倉市で、中世城郭に関するイベントがあるときは、またお知らせしますので、そのときはまたドライブがてら来てください。




1102. 余談ですが 赤飯 [URL]  2003/11/23 (日) 22:06
今日は、車で移動しながら、佐倉城址、臼井城址、勝田台
と随分歩きました。ぐっすり眠れそうです(笑)




1101. 郷土展拝見しました 赤飯 [URL]  2003/11/23 (日) 22:05
車で行くのは厳しかったです。
どういうわけか、すずかけ通りを30分放浪(笑)
ヨー○マートの駐車場の無料時間が、どんどん無くなりました(泣)
(いろいろな意味で感じの悪い店でした)
もうひとつ、博物館も勧められた関係で、ゆっくり話は出来ません
でしたが、さわらびYさんに会えてよかったです。
そりにしても写真綺麗でした。土地勘がないので、難解なことも
多かったのですが、楽しめました。有り難うございました。