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No.701-No.800 2003/4/82003/6/12
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・オーバーフローで消えてしまった発言を収納しました。
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800. Re: 6日〜9日信州を駆け足で廻ってきました さわらびT  2003/06/12 (木) 23:17
開田様

お元気でお帰りですね。山尾先生の本は、本当に読みづらいです。『日本国家の形成』(岩波新書)は、増刷前に古本屋で入手して、ずいぶん刺激を受けました。特に「序 任那支配の再検討」はすごいと思いました。

先日の加藤先生の講演でも、取り上げられた木満致に関連する日本書紀の紀年は通常の二運ではなく干支は三運繰り下げなければならない、との指摘に、うーんなるほど、と感動しました。

鈴木英夫先生の「加耶・百済と倭−「任那日本府」」(『古代の倭国と朝鮮諸国』所収)では、山尾説を「四〜五世紀に倭王権が朝鮮半島南部を支配したことはなく、「任那日本府」とは倭王権が加耶地方に派遣した官人であるとした。官人派遣の史的起源は木満致が五世紀前半に加耶を支配した事実があり、彼の倭国移住によって倭王が加耶支配権を継承したことに起因すると論じた。」と紹介してます。

ここらあたり、実は問題なんですよね。

「私は『日本古代王権形成史論』4章3節で、「6世紀前半に倭王権が任那問題の措置を決定する記載を肯定した」上、4節で、「5世紀後半に、倭王権はいかにして、任那支配についえ正当性の歴史的根拠を獲得したか」と問題を立て、2つの解答を出した。
第一は「任那に王として君臨した木満致が倭王の臣になることによって、倭王権がその一括支配権を継承することになった」ことである。第二は「480年代と90年代とに」おける「百済王の宗主のごとき立場にあった倭王への、伽耶諸国の働きかけ」と「倭の諸国が伽耶地域に侵寇した」事実である。
このうち前者はここで撤回する。私の根本的なまちがいは2つあって、5世紀末以前に「伽耶諸国が外部勢力によって一律に一元的支配体系に組織された」のを認めたこと、および6世紀初め以後の倭王は「個々の小国の帰属につき裁定を下したり、全体の復権を政策とし」ているとしたこと、であった。これをつきつめれば『百済本紀』の過信である。これに対する批判は、鈴木英夫「『任那の調』の起源と性格」(『国史学』119)が委細を尽している。本章は鈴木氏の批判をうけいれ、上記第二の問題について平野邦雄『大化前代政治過程の研究』の方法に学んで、全面的に再検討した結果を記した。」(『古代の日朝関係』より)

山尾先生は、本当に大先生だと思います。

ご紹介の古事記学会、残念ながら他の行事と重なってます。贅沢な悩みになりますね。それにしても直木先生もお元気ですね。




799. 6日〜9日信州を駆け足で廻ってきました 開田 誠 [URL]  2003/06/12 (木) 18:55
 旅のあいだ、リックの中に何の本を入れていくかは、食べ物の計画とともに大切に思ってきました。今回は、山尾幸久『日本国家の形成』をはじめ、4冊も入れていきましたが、読めたのはこれだけに終わりました。山尾氏の単著は全て読んできましたが、この本は品切れが続いていたので、昨年入手しました。氏の本の筋はわかりにくい(?)ので、新書ならばわかりやすいかなと思ったのですが、やはりわかりにくいですね。
 テーマは、蕨さんが追っているところです。
 解析的に理解して、追いつきましょう。

 今日の新聞で知ったのですが、古事記学会の講演会が次のようにあります。東京にいられる方がうらやましいですね。
6月21日午後1時から
  黄?江「『高天原』の神話的イメージと現実再現」
  直木孝次郎「欠史八代と氏族系譜」
6月22日午前9時半から研究発表会
     午後1時半からシンポ「東アジアの中で古事記の成                  立を考える」
会場  渋谷の国学院大学百周年記念館
入場料 無料
問い合わせ先 国学院大学文学部青木周平研究室(03−5466−0216)




797. Re: Re2: 一月寺 さわらびY(ゆみ)  2003/06/11 (水) 19:48
さっそくに丁寧なレスをいただき、ありがとう。
中世の宗教史について造詣の深い方にあえて、今までの謎が「目からうろこ」ように解けていきます。(ただ情報のスピードがはやく、ついていくのに息切れしそう)

> これまで宗教史のほとんどは教団・宗派史として書かれてきま
> したから、教団・宗派が成立した前後からしか記述されません。

たしかに、わたしのフィールドの郷土史の中で、鎌倉〜室町期の石塔や仏像にめぐりあっても、その現在その寺院の属する宗派の教義での解釈ではわからないことが多く、村上(八千代市)の正覚院の清涼寺式釈迦如来像についても、未だに手がかりを求めてさまよっています。

特に江戸時代のように宗派というものが不動なものでなく、教団の動きも流動的な平安〜中世では、HONさんがそちらの掲示板で「徳一の創建した数多くの法相宗寺院の大部分は、天台あるいは真言宗へと転宗していった*」と書かれているように、受け継がれなかった宗派の歴史をたどることによって歴史が明らかになっていくように感じています。
(*577 「三一権実」論争4月27日) http://hon.web.infoseek.co.jp/krog/krog22.htm#578

北条得宗政権の崩壊と他宗の活躍で、地域密着型の他宗派にとってかわられたらしい常総地域での西大寺流律宗も、またしかりです。

虚無僧寺一月寺に清涼寺式釈迦の類似像が伝わってきた理由、ずばりお教えいただき、ありがとう。
>金竜山一月寺を創開したときの大且那こそ、西大寺の叡尊を鎌倉に招いた前執権北条時頼の兄経時だからでしょう。

検索で、尺八の歴史に詳しいサイトを見つけ、貴兄のお答えの背景もわかりました。
http://www.yo.rim.or.jp/~kosyuuan/kosyuan/iida/iida17.htm

千葉県北西部には、頭部だけが縄目渦巻きの清涼寺式類似像が、八千代市保品に1体、佐倉市に3体、そして松戸市に1体あることが今回わかりましたが、その理由がひとつでも解明できたのは、大きな収穫です。
近日中に、保品と佐倉市寺崎の清涼寺式類似像を追ったルポをUPしないとこの話題に追いつかないでしょう。(材料は揃っているのですが、暇がなくて…)がんばります。




796. Re2: 一月寺 HON [URL]  2003/06/11 (水) 14:18
さわらびY(ゆみ)さん こんにちは。

わたしが追っかけている問題、徳一と中臣=藤原氏の東国制覇
に関わって、さわらびさんの忍性追跡と色々重なってきますので、気になっております。

これまで宗教史のほとんどは教団・宗派史として書かれてきま
したから、教団・宗派が成立した前後からしか記述されません。しかし、宗派とは経典のどれを重視するか、採るかで決まります。ところがその経典は教団や宗派が成立する以前から存在し、他宗派でも経典や修行の一部として利用されていたものが少なくありません。

例えば、禅宗は鎌倉時代に始まりますが、座禅そのものは奈良
仏教の時代から採用された修行の一つでした。同様に虚無僧の普化宗も江戸時代の始め成立しますが、虚無僧の看板のごとき尺八を吹くことは鎌倉時代初期にあり、尺八そのものは東大寺献物帳に載るくらい早くから伝わっています。

おそらく伝説かでっちあげかもしれませんが、尺八を吹くことを「吹禅」と称して禅宗の座禅に対置させたのは、虚無僧寺が臨済宗禅寺の末寺になる以前からの伝統があったからではないでしょうか。でなければ、普化宗を名乗ったからといって虚無僧が直ぐ尺八を吹けるわけでもありませんから。

>その虚無僧寺に、なぜ関東では珍しい様式の清涼寺式釈迦の類似像が伝わってきたのか、本題はそこだと思います。

この件は簡単です。金竜山一月寺を創開したときの大且那こそ、西大寺の叡尊を鎌倉に招いた前執権北条時頼の兄経時だからでしょう。




795. Re: 一月寺 さわらびY(ゆみ)  2003/06/10 (火) 23:05
HONさま
お久しぶりです。ご助言ありがとうございます。
さっそく虚無僧寺について、博物館でコピーした「松戸市史」と、青梅の鈴法寺で検索して見つけた詳細なHPを探して読み始めました。
虚無僧については初めて知ることばかりですので、よろしくお願いします。

『法王山万満寺史』を読んでみました。
万満寺の縁起では、鐘の銘から1256年忍性開基の密乗院大日寺をその前身としています。
『鎌倉大草紙』では「貞胤(1312相続〜1351没)の時、この寺を千葉へ移す」となっていて、一方称名寺文書に「弘安七年(1284)於下州千葉之庄大日堂…写書之了…釼阿廿四才」とあることから、別に千葉にも大日寺が存在したのではという謎が、『鎌倉大草紙』の解釈を複雑にしているようです。

万満寺は南北朝時代に建長寺から、室町時代には大徳寺から、それぞれ迎えた僧により中興、その時代時代に適応してきていますね。
そういう意味では、中世の大日寺=万満寺と、近世の臨済宗大徳寺派の万満寺は、宗旨も性格的にも別と考えたほうがよいかもしれません。
江戸時代の本末制度の強化の中で、不安定だった虚無僧寺一月寺の本寺代わりを臨済宗寺院がした、とそれだけのことなのでしょう。

中世の虚無僧寺については、近世に「脚色」された縁起物語のヴェールに包まれて、よく見えません。
有髪の乞食僧で虚無僧の前身を「ぼろぼろ」(暮露暮露とも書く)といって中世の文書や絵巻に出てくるそうですね。(村井章介氏や細川涼一氏の本に書いてあったような気がしますが、このあたりのことは貴兄のほうがお詳しいかも)

その虚無僧寺に、なぜ関東では珍しい様式の清涼寺式釈迦の類似像が伝わってきたのか、本題はそこだと思います。
先の見えない謎ときがまたひとつふえました。
今後ともよろしくご助言ください。

(788で書いた「清涼寺式釈迦如来像類型像」は「類似像
」の入力ミスです)




794. 「宮崎市檍(あおき)1号墳の調査と木槨の概要」 さわらびT  2003/06/10 (火) 22:51
タイミングを少々失ってしまったのですが、報告です。
先日の、考古学協会第69回総会(5月25日)では、弥生の開始年代がクローズアップされてしまったため、柳沢一男氏の「宮崎市檍(あおき)1号墳の調査と木槨の概要」のことを書こうと思っていながら、そのままになってました。

この発表が9時からでしたので、当日は早起きして出かけました。

後円部埋葬施設について・・・「地山整地面上に構築された木槨と、盛土上に営まれた長葬の木棺である。木棺は規模も小さく副葬品もないため二次的なものであろう。墳丘主軸に直交する木槨は墳頂平坦部の北側に偏るが、南側に他の埋葬施設がないことから中心主体とみて間違いない。」

「それにしても木槨の規模はあまりに大きい。今回の調査では確認されていないが、ホケノ山のように長側材や小口材を内側から支える支柱の配置が予想されるし、あるいは楽浪の木槨墓のように内部の間仕切りもあったかもしれない。」

築造年代はどうでしょう。報告では、寺沢薫氏の『王権誕生』の図(下記ご参照ください)

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/terazawazu.jpg

に追加した図を使って説明されました。「纏向型前方後円墳」の拡散としての位置づけのようです。

島根大学の渡辺貞行氏から「棺痕跡が確認されたか」と質問があり、「今のところ棺にはあたっていないのではないか」、とのお答えでした。「置き土が床面にある根拠」についての質問には、「通条は巨大な墓壙があるのだが、ここは全く墓壙がない。砂地なため第一段に建てたもの以外はたおれてしまった。最下段が残った理由は最初に土が流入してしまったか、もともとこのような土があったか、であり後者と考えた。」とのことでした。

発表要旨は以下のように締めくくられています。

「南九州地方の古墳出現期は、前期前半を大きく遡らないとする通説は大幅に修正される必要がありそうだ。」
「檍1号墳の所在する大淀川下流域の宮崎市生目(いきめ)古墳群では、箸墓類型から柄鏡型類型に継続する120〜140mの3基の前方後円墳の連続した築造が認められ、前期に限れば九州最大規模からなる首長墳系列である。」
「南九州における古墳の出現は、前期初頭にさかのぼる可能性がたかい。いちはやく前方後円墳を築造し、前期から中期中葉まで九州最大規模の前方後円墳を輩出しつづけた南九州地方とはいかなる地域か、本腰をいれた調査と検討が必要とされる。」




793. 一月寺 HON  2003/06/10 (火) 01:06
さわらびY(ゆみ)さん こんばんは

>萬満寺(旧大日寺)が律宗であったことと、近世、虚無僧寺になった一月寺とどういう関係があるのか、知りたいところです。

あまり詳しいわけでもなく、青梅の無僧寺鈴法寺に関わって少し
調べただけですが。

元阿毘盧山密乗院大日寺の万満寺と臨済宗大徳寺派法王山萬満寺を
混同なさってませんか。両寺とも千葉頼胤の創建といわれますね。

後者なら臨済禅の流れを引く普化宗虚無僧寺のことですから、
一月寺住職が受戒を萬満寺で行なってもおかしくないと思いますけど。間違いだったらゴメンm(_ _)m




791. もう少しでふみそうだった みきこ  2003/06/09 (月) 20:23
アクセスカウント20000おめでとうございます!ご無沙汰しておりました。
 講演会では宣伝等大変お世話になりありがとうございました。
さわらび通信で知りましたという方が多くて、これからも情報の最先端でのご活躍を願っています。

 私の方は色々遊び歩いているので、ちょっとお疲れモードです。もうそろそろアジサイの花が雨にぬれてきれいな季節となりますね。
あれも読みたいこれも読みたいと思いつつなかなか・・そんな今日この頃です。




790. アクセスカウント20000に感謝! さわらびY(ゆみ)  2003/06/09 (月) 19:43
どなたが、アクセスカウント20000の切番をゲットするのだろう。お知らせいただいたらうれしいな、と思いつつ油断していたら、ドジなことに今、自分で踏んでしまいました。

「さわらび通信」が初めてデビューしたのは2001年6月23日、そしてアクセスカウンターと掲示板をつけましたのがその年の10月6日。

皆様に見ていただいて、2002年12月21日にはカウント10000を記録できました。(この切番を踏まれたのは、桃崎先生でしたね)

もうすぐ3周年、(管理人のYとしては)親しみやすく歴史を語り合うというのが、モットーですので、今後とも気楽にお立ち寄りいただき、できればご感想を掲示板にいただけたら幸いです。




789. 松戸の旧一月寺の釈迦像の謎 さわらびY(ゆみ)  2003/06/08 (日) 09:00
松戸市立博物館の旧一月寺の釈迦像について、補足します。
近世、小金宿にあった普化宗の虚無僧寺「一月寺」が明治4年に非公認になり、昭和35年ごろ、廃寺だった一月寺の寺名だけ残して、日蓮正宗の全く別の寺院に変わりました。
そのときこの釈迦像は寺の外に出され、博物館が引き取ったそうです。
江戸時代は、出開帳もされたとのこと、歴史の運命に翻弄された釈迦像でした。

1749年 一月寺住職受戒を萬満寺で行なうよう格式の整備がなされたことが、古文書で明らかになっていますが、中世の一月寺については、建長6年法灯国師と共に帰朝した宝伏の弟子金先禅師の開山と伝えられるだけで、その歴史は謎のままです。

萬満寺(旧大日寺)が律宗であったことと、近世、虚無僧寺になった一月寺とどういう関係があるのか、知りたいところです。
情報があれば、お教えください。




788. 松戸の古寺と市立博の一月寺仏像のこと さわらびY(ゆみ)  2003/06/08 (日) 00:39
入梅前の貴重なお天気に誘われて、松戸の本土寺を訪ねました。
ここの名物のあじさいはまだ三分咲き程度ですが、花しょうぶは今が見ごろ、幸い鎌倉の明月院のような混雑もなく、ゆっくり写真が撮れました。
本日更新のトップページ画像この中の1枚です。なお史跡としての内容は、先日相互リンクしました「千葉氏の一族」の次のページをご覧ください。
http://www56.tok2.com/home/bamen/hondoji.htm

馬橋の万満寺にも寄ってみました。
かつて訪れた時その歴史を感たたたずまいが、近代的な姿に一変していました。

『鎌倉大草子』によれば、建長年中、千葉介頼胤が、忍性を招いて建立した大日寺がこの寺の前身で、第二次世界大戦で徴発された鐘には「故鐘曰建長八年文永七有鋳鐘之記」とも記されていたとのことです。
その後、大日寺は千葉市内に移転し、そこには、鎌倉時代を代表する謎の大五輪塔が遺されました。このことは、次のページで触れています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/14hunabasi/14tibahunabasi.htm

その足で、松戸市立博物館に行きました。(我ながら、よく歩いたものだ。)
ここには、近世小金宿にあった普化宗寺院についての「虚無僧寺一月寺」の主題展示コーナーがあります。
そこで、目に留まったのが、清涼寺式釈迦如来像類型像。さっそく学芸員の方にいろいろお聞きしました。近世普化宗については専門にお調べのようでしたが、この仏像の形式については特に気を留めておられなかったようです。
撮影の許可をいただき、さっそく「清涼寺式仏像画像データ」に入れました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/butuzou-data/butuzou-data.htm

本土寺の梵鐘は、銘によると元は六崎大福寺(佐倉市)という称名寺と縁のあった寺にあった由。
千葉市・佐倉市・松戸市を結んで、またまたこれまで見えなかった糸が、中世律宗のキーワードでつながっていくような気がしています。




787. 開田さん、ありがとうございます さわらびT  2003/06/04 (水) 23:26
開田さんからはいつも励ましていただき、感謝と同時に緊張もしております。そんなにまじめに勉強してないし・・・

毎週のように週末イベントに参加して知的刺激は多いのですが、じっくり本を読むことは少ないです。でも、講演会から少しでも学んできて、問題意識を呼び起こされることが大事だと思っております。

先日、加藤先生の講演では、6〜7世紀における大和の王権を支えた合議制のあり方にふれておられ関心を高めることができました。大夫=マエツキミ、大臣=オオマエツキミの歴史的変遷を述べられたのでした。この「議政官的体質を持つマエツキミの制度は、律令制下の太政官における合議体制へと継承される」とのことです。(加藤謙吉「大夫制と大夫選任氏族」『大和政権と古代氏族』所収論文を参照)

王権を支えた豪族の具体的なイメージがわいてきます。

加藤先生は、ワカタケル(雄略)の即位した5世紀後半には王権が著しく伸張(軍事専制王権)、同時に大和の有力在地土豪であった葛城氏に代わり大伴・物部両氏が台頭した時期。さらに6世紀になって、大和の在地土豪が蘇我氏を筆頭に復活し、大和政権の権力構造が変わる、というご理解だと思います。

こうした理解とは別に継体期に画期を認める考え方もあるかと思います。

お呼びしたのは1回だけなので、いずれご見解をうかがおうと思っていたのが、成城大学の篠川賢先生の見解が気になります。国造制の成立と、磐井の乱の関連を論じられたのですが、そのお話を聞く機会を作りたいものです。篠川先生と以前打ち合わせたとき、国造制では人が集まりませんよ、と謙遜されておられましたが、関心は高いはずです。

市民の勉強会を開催することで、自らの知的要求を図々しく諸先生にぶつけられる強みがあります。ただし、研究史を踏まえた議論をしないと一方的な思い込みだけが先行することになり、有意義とはいえないと思っております。多くの書物の中から珠玉の本を見出すのはかなり難しいのですが、すばらしい先生方に恵まれたものと感謝しております。

機会があれば、開田さんにも参加していただける企画を作りたいです。私信でいただいたのですが、鈴木英夫先生からも、直接お目にかかる機会があれば、とのこと。よろしくお伝えくださいと伝言がありました。




786. よし 開田 誠 [URL]  2003/06/04 (水) 08:40
 ここに来ますと、よし、勉強しょうという気持ちになります。ダンボール箱をあけて、長年の積読本を整理し始めました。多岐に分節する研究史の森をさまよって、なげた本や資料です。やるか、の気持ちを持続させるには、しばしばやって来ないといけませんね。6月7日〜9日に長野を訪ねます。その地の遺跡のなにかを見てきます。  北海道の熊より




785. 桃崎先生の講演に関連して(馬冑の出た古墳) さわらびY(ゆみ)  2003/06/01 (日) 22:54
本日の「市民の古代研究会・関東」主催の桃崎祐輔先生の考古学講座は、会場は満員、そして、いつもに増して詳細な図の多いレジュメを駆使した中身の濃い講演でしたね。
先生、主催された会の皆様、ありがとうございました。
埼玉将軍山古墳出土の馬冑について、中国や朝鮮半島の出土例による系譜も丁寧な説明でよくわかりました。

そういえば、レジュメに載っていて先生のお話にも出てきた韓国釜山の福泉洞古墳や大谷古墳(和歌山市)、頭のどこかにインプットされていたように思ったのは、次のHPを拝見していたからでした。(信州考古学探検隊・遺跡レポート:姫河童さん、楽しいHPをありがとう)
http://homepage3.nifty.com/himegappa/iseki/pokutyon/pokutyon.html

次回は、シルクロードの会6月18日の例会で、また桃崎先生の「古墳時代の殉葬馬と殺馬殺牛儀礼」というお話がお聞きできます。こちらも楽しみですね。




784. 白石先生の暦年代観 さわらびT  2003/06/01 (日) 22:48
七世紀研究会シンポジウム 『武器生産と流通の諸画期』(5月31日明治大学)に出かけました。外は大雨でした。詳細は考古学情報広場で公開されるでしょうから、私はもっぱら個人的に興味を持った事を一言。
白石先生のお話ですが、古墳時代終末期の暦年代がテーマでした。
飛鳥T(奈文研編年)の下限650年、飛鳥Uの下限670年、とされておられます。前期難波宮ですが、難波長柄豊碕宮説が主流になっているかと思うのですが、白石先生は、疑問とされます。@飛鳥Uは650〜670年A戊申年(648)木簡については整地層との関係不明、とされ慎重論です。

文献史学での天武朝説は、仁藤敦史『古代王権と都城』などがありますね。分からないなりに読み直しています。




783. Re^2: 鈴木英夫先生のご講演 さわらびT  2003/05/28 (水) 23:45
開田様

情報ありがとうございます。私もこの本は古本屋で入手しました。

今はネットで調べられるので便利ですね。私は毎日神田に通ってますので、利用することは少ないのですが・・・

鈴木先生が、説かれたのは先に記した通りです。まだ印刷物にはなっていないそうです。「在安羅諸倭臣」たちは「国家」への帰属があいまいな形で活躍したわけでそれを、文化人類学の概念を使って、「ミドルマン」と論じられた、ということです。彼らが活躍できた時代とはなにか、が問題になります。




782. Re: 鈴木英夫先生のご講演 開田 誠 [URL]  2003/05/28 (水) 10:06
古書店を活用されれば、ありますよ。京都・出町柳の店に2冊ありましたよ。WEBの”日本の古書店”を開いてみてください。
 私は、声を失って、宿をやっていく気力が減退したのでが、WEBの通販の古書店をやってみようと準備を始めています。
 鈴木先生の本は、あとがきがよかったです。ここに友あり、と思ったものでした。
 朝鮮語を学習し始めていたのですが、声を失い、暗澹としています。




781. 鈴木英夫先生のご講演 さわらびT  2003/05/27 (火) 22:28
昨日(26日)の「シルクロードの会」は鈴木英夫先生から、「任那日本府」研究の精髄をお話しいただきました。わが国では、もはや解決ずみとされ、研究も止まっているのが現状で、むしろ命がけで(大げさではない!)、韓国の研究者が探求していることを述べられました。

「任那日本府」が後世の表現であることは自明になったかに思えますが、タイトルにもある「在安羅諸倭臣」(欽明紀15年12月条)が、「日本府」とされたものの当時の呼称に近いと指摘されたのが鈴木先生です。『釈日本紀』は「日本府」を「倭宰」(ヤマトのミコトモチ)と注釈しています。すなわち、倭王権から派遣された使者を意味するとのことです。(『古代の倭国と朝鮮諸国』を参照しました。)

文化人類学の「ミドルマン」という概念を用いて「諸倭臣」を説明されました。(異なる社会システムの媒介者、衝突する集団間の交渉に積極的な役割を果たす媒介者)
こうした人々が活躍した一時期があったことを、どう理解するか
がテーマになります。

鈴木先生が、蓄積された研究を引き継ぐ研究者はもう現れないのでしょうか。

ご著書の『古代の倭国と朝鮮諸国』(青木書店、1996)は、品切れで先生も入手しがたいようです。何とかならないかな、この出版事情・・・




780. Re: おもしろく読みました さわらびT  2003/05/25 (日) 23:58
今日の考古学協会の発表のお目当ては、やはり弥生の開始年代。超満員の会場で、たまたま前の席にいらっしゃった藤尾先生に声をかけましたがかなり緊張のご様子でした。発表は既報のとおりですが、質問が殺到。

西南学院大学の高倉洋彰氏が、捏造以来年代を古くすること危惧を述べた上、@鉄器があるかー東アジアの鉄器は日本起源か?A1形式が倍になったのは、人間の寿命が倍にならないと話は合わない・・・

かなり厳しい質問が出て、激しい応酬になるかと思われましたが、15分ほどは延長したところで時間制限のゴングがなりました。

これから論議はさらに展開することと思われます。取り急ぎ報告。




779. 「13.仏岩に結縁した人々と信濃武石氏の足跡を追って」をUPしました さわらびY(ゆみ)  2003/05/25 (日) 01:05
仏岩と武石氏の関係を追って、忍性シリーズの新ページ1-13をUPしました。
先日1-12をUPしたときは、仏岩銘文の寄進者の答えをすぐメール下さった方がおられました。ご推察の通り、丸井敬司著『上総下総千葉一族』に載っていた『伊達世臣家譜』に「肥前守」のヒントがあったのが、このページを作るきっかけになりました。
皆さん「千葉氏」についてはよく勉強されておられるみたいですね。

また、M先生からもご助言をいただきました。
>信濃の西大寺流の展開は、善光寺における律宗と時宗の主導権争いと律宗の後退など、いくつかの問題がある
とのこと。
ありがとうございました。今後の課題とさせていただきます。

今回はご当地、武石氏に関連する史跡を取り上げてみたのですが、ほとんど信濃の史跡中心のルポで終ってしまいました。
千葉市から八千代市へかけての花見川流域の中世については、第二部の下総編で改めてとりあげたいと思っていますので、皆様ご教授のほどよろしくお願いします。




778. おもしろく読みました 開田 誠 [URL]  2003/05/24 (土) 22:29
  ワイワイグッチさんの文をおもしろく読みました。私には論評できる力はありませんが、おもしろいと思います。

  ここに今夜来たのは、「古代の王位継承と群臣」は『日本古代の社会と国家』(岩波書店)に入っています。その本は、ダンボール箱のどこかにあるはずだ、探そうと今日思ったのです。頭には入っていません。『展望日本歴史』のパンフを取り寄せたところ、組方見本がそれであるので、そのことを知ったのです。そして次に、ならばこの論文もこのシリーズにあるだろう。なあ〜んだ、4巻の『大和政権』に入っていました。
  手もとにありながら、まだ読んでいずにいて、あれあれと思った。

  もとにもどって、明日の講演会のご報告があるのを待っていますよ。よろしく。




777. Re: 弥生の開始年代 2 ワイワイグッチ [URL]  2003/05/24 (土) 21:38
今週の新聞ニュースはAMS測定法が高精度であるから弥生時代開始年代が700年も遡ることが判明したように感じさせました。決してそうではありません。多分、年輪年代法のデータを参考にしたC14較正年代法の確度が認められたことと、前処理法が確立したこと、測定試料の適格性を充分に吟味したためと想像しています。学会で質問したいところですが、行けないのが残念です。弥生時代開始年代が3000BPであるとの説は計数管法の時にも言われていました。夏島貝塚出土土器の年代を出した測定方法です(夏島貝塚の土器の場合、なかなか9000年前ということが受けいられませんでしたが)。
しかし、歴博の”NEWS”に記載されているC14測定試料適格性について、納得できないことが書かれています。「動物の骨」、「コゲやスス」はおかしい。骨髄のコラーゲンはよりましだとしても、骨のCaCO3の「C」の由来が何であるか問題です。コゲやススの由来を穀物や木材と決め付けているようですが、必ずしもそうではありません。厳密に考えないといけません。
考古学の巨匠が世を去り、言論が少し自由化したため今回のような報道がなされたものなのか、前歴博館長・佐原真氏の「懐疑の念を抱き反論しつつ正しいものは認める」という教えを後世に伝えるため、1周忌を向かえるにあたって報道したのか、いずれにしても、科学的考古学が進みました。




776. Re: 弥生の開始年代 1 ワイワイグッチ [URL]  2003/05/24 (土) 21:37
1981年東京大学出版会発行「考古学のための化学10章」の第1章に佐原真氏が次のように書いています。
『・・・前略、弥生時代とかかわりを持つ約2000年前、あるいはもう少しさかのぼって3000年前くらいになると、C14年代の数値は殊にばらつきが多い。・・・弥生時代の年代をC14で想定している人は、これらあまたの数値から、より取りみどり、自分の年代観に合うものを適当に使っているにすぎない。・・・私はかって、朝鮮で細形銅剣を祖形として生まれた有柄式磨製石剣の年代が板付式土器の時期を決める、という立場から、前200年頃と考えたことがある。・・・しかし、今でも多くの考古学的状況から推定して、弥生時代開始年代は前2,3世紀におさえることができると思っている。・・・現状ではC14年代よりこの勘の方が信頼できると思っている。』
また、これに続いて、次のように書いています。
『山内清男は、C14年代は、前提が崩れたからもう駄目だ、と言われた。しかし私はそうは思わない。現状で、C14年代が最も有力な自然科学的年代測定法であることは明らかである。・・・自然科学者は方法の改善に努力し、・・・(考古学者は)その測定結果を無責任にふりまわさない。これこそがあるべき姿だと思う。』




775. 弥生の開始年代 さわらびT  2003/05/23 (金) 23:54
皆さんご承知でしょうが、歴博の研究グループが発表した弥生の開始年代の新説は衝撃でした。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/news/index.htm

5月25日の考古学協会でも発表があると思います。
第1会場:日本大学文理学部4号館1階412教室
15時45分〜16時10分
春成秀爾・藤尾慎一郎・今村峯雄・坂本 稔「弥生時代の開始年代−14C年代の測定結果について−」

http://www.avenue.co.jp/~kouko/

こんなビッグ・ニュースがあったなら、先月、藤尾先生の講演会の後の懇親会の時にでもこっそり教えてくださればよかったのに・・・もちろん「企業秘密」だったのでしょうが。(^0^)




774. Re: コピーして運びます さわらびT  2003/05/22 (木) 06:43
開田様

ご丁寧にありがとうございます。HPも拝見しました。

本当によくお読みになっておられますね。刺激になります。伝書鳩になぞられての理解も、なるほどと思いました。

篠川先生の『飛鳥の朝廷と王統譜』を手にしたのは一昨年の暮れごろだったと思います。このテーマの講演会に参加しました。3時間で本1冊分の講演をされました。実は、すっかり忘れてしまったものですから、あらためて手に取りました。
天皇制の淵源を探ることになるテーマですから興味はあるのですが、どちらかといえば苦手ですね。皇太子制の成立の時期をめぐる議論もありますし、大山先生の聖徳太子をめぐる議論が活発だったときには、かなり論点になったような記憶があります。

先行する研究に、河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986)がありますね。王統の原理の分析して6世紀は@王位を子孫に伝えるA一代限りの2種類の「大王」(「天皇」号成立以前なので「大王」と表現)があったといいます。@は直系継承でありこれこそが天皇制の根幹、Aは中継ぎという解釈のようのです。篠川先生のご出身と同じ北海道大学の先生です。

新たな王統であった用明−厩戸、しかし即位できなかったのはなぜか、という問いも書かれていました。厩戸の立太子は事実である・・・・となると、大山説には反対のお立場なのかな。

篠川先生に、お話をうかがったとき、この王統論には結果論だという批判もありますが、ともおっしゃられたことなど思い出しました。

高群逸江の「系のみの大王」という問題提起を受け、篠川先生は「一豪族としての大王」を考えそれは時代の前後と考える、と書いておられますが、高群説に魅力を感じます。一豪族が、大王になったのでしょうか。このテーマははまります。

問題意識は、異なるも知れませんが、吉村武彦「古代の王位継承と群臣」(『日本歴史』第496号、1989)も研究史を整理するには有益だと思っています。




773. コピーして運びます 開田 誠 [URL]  2003/05/20 (火) 07:11
準備中 投稿者:ふっく船長   投稿日: 5月19日(月)22時50分36秒

  ネバーランドに図書部を作ろうとして、あれこれしていますが、案の定本の整理は読みながらやっていて、なかなかはかどりません。
  この数日ある本をよみました。歴史書は積読が多く、それも10年20年の積読で、なかなか新しい本に集中できないのですが、たまたまWEB上で歴史関係のHPを開いている方と会話を重ねてきて、刺激を受けさいきんの学者の本を購読しはじめていました。そういう中のひとつ。篠川賢『飛鳥の朝廷と王統譜』吉川弘文館です。
  その感想を記してみようとするのですが、思いついたことは、不謹慎かもしれません。身分が形成される仕組みとしての王統譜の理解なのであり、天皇家の成り立ちを伝書鳩を飼っていた頃の経験で納得されたものですから、、、
  血統書の中で純シオン系だとか、純ファブリー系だとか、純岩田系だとか、、、が書かれていて、それが何であるかに思い出があるものですから、天皇家の相続、すなわち王統譜はいかなる法則でできあがったかが似ているなと思い当たってしまったのです。
  先王の娘を嫁(こういう理解ではないかな)にして跡継ぎを固めていく。6,7世紀の謎を読み解く方法が血統書の作り方に基づいていた。まわりは身分違いを納得していく。

  もちろん本書は仮説である。私はかなり納得した。納得したあと、検証するためにまた本の迷路の中に入っています。

======と、私のHPに書いたのですが、会話をかさねてきた方とはこのHPです。もっと、厳密に説明をおこない、他の学説におよんでの感想を記すべきでしょう、わかっていて、それは次ですと思い、そうしているうちに、次の事柄にうつってしまいます。




772. Re: 御世話になりました。 さわらびT  2003/05/19 (月) 20:32
加藤先生のお隣に、見慣れぬ「大男」が・・・って出会いでしたね。(^0^)

お忙しいところ、ご参加いただきありがとうございます。
ゆっくりお話しする時間がなく残念でした。
古代の話ですので、ご期待にお答えできる内容だったかわかりかねますが、ご興味をもっていただければ幸いです。

加藤先生のお話はいつも内容が濃いので、聞き応えはありますが復習しないと、忘れてしまいそうで・・・

平群氏の台頭の時期をめぐり、通説とは一味違うお話でした。考古学の知見も踏まえた辰巳和弘先生の説を、最初に支持したのは加藤先生だったそうです。先日、辰巳先生に、この講演会のことをお知らせしたら、「加藤さんとは一緒に勉強しました」とうれしそうにおっしゃっておられました。




771. 花がいっぱい さわらびY(ゆみ)  2003/05/19 (月) 18:25
mwaraさま
貴兄のHPも花がいっぱい、ワイワイグッチさんの「千葉の貝塚」も、加曾利貝塚に咲く野の花で百花繚乱ですね。
仏岩登山道にもヒトリシズカとイカリソウが咲いていたので、史跡や風景に並べて画像を入れてみました。
そうしたら偶然、「千葉の貝塚」にもこの二つの花が載っていました。
mwaraさんや「千葉の遺跡を歩く会」の掲示板は画像が添付できる掲示板ですから華やかですね。

>名前わかりました。ニガナと言うそうです。

千葉県風土記の丘で今、黄色い花が一面に咲いているのですね。

> 信州旅行のUP記事拝見いたしました。メイン画像はりんごの木でしょうか?

そうです。5月2日は桜も杏も桃も花が終っていて、りんご畑と山の方の八重桜がきれいでした。GWは暑い日が続き、連休と共にりんごの花も散ってしまったそうです。

貴兄の「今月の1点」のバラは、気品があって香りも漂ってくるような気がしました。




770. 御世話になりました。 黒シャツの大男  2003/05/19 (月) 00:28
一昨日は御世話になりました。尻切れトンボになりすみませんでした。
皆様のレベルの高さに驚かされました。また参加させて下さい。




769. 判明しました。 mwara [URL]  2003/05/19 (月) 00:08
ゆみさん有難う。名前わかりました。ニガナと言うそうです。【ニガナ】葉や茎を切ると少し粘りけのある液がでて、なめると苦いのでこの名前があります。草原や林のふちなど日当たりのよい場所に生える。(キク科ニガナ属)
信州旅行のUP記事拝見いたしました。メイン画像はりんごの木でしょうか?信州の旅の画像を拝見していますと、何かさわやかな感じがしました。私は夏に何回か行ったことがあります。
ところで、今、京成バラ園では薔薇の花が5分咲きです。甘い香りと気品に満ちた花でいっぱいになっています。今月の1点にも載せましたのでご覧下さい




768. 「12.信濃大門街道・仏岩石塔の謎」をUPしました さわらびY(ゆみ)  2003/05/16 (金) 22:58
シリーズ「忍性がたどった中世の風景」に「12.信濃大門街道・仏岩石塔の謎」を追加しました。
この仏岩宝篋印塔を知ったのは、“りんどうの郷”ペンション『なちゅらる』のHPでした。http://member.nifty.ne.jp/natural/hic/
仏岩に登る日の前夜、ここに一泊しました。
オーナーは自然を愛する優しいナチュラリスト。
このページの制作にもお力添えいただいたことを感謝します。

この謎ときの続きは、「新緑の信濃・史跡探訪」
をご覧の方には、察しいただいたかと思いますが、武石氏の足跡を追ってみたいと思っています。
「仏岩=忍性」ではないのですが、かといって避けては通れない気がします。
謎ときのヒントになる情報がありましたら、どうかお知らせください。




767. 加藤先生の講演会『平群氏について』 さわらびT  2003/05/11 (日) 23:08
5月17日(土)は加藤謙吉先生の講演会『平群氏について』です。蘇我氏に比べると地味なテーマのようですが、「通説」を検討してみると実はいくつかの疑問があるというのですから面白いです。

前回のご講演の時にすでにいただいたレジュメから抜粋します。

【平群氏に対する通説】

@大和政権屈指の有力在地土豪で、五世紀後半以降、真鳥が「大臣」の職位に就き、「大連」の大伴氏や物部氏を凌ぐ絶大な力を持ったこと。
A六世紀初頭に真鳥・鮪父子が滅ぼされたが、六世紀後半から末頃には勢力を回復し、神手がマエツキミの職位を得たこと。

【伝承面から見た通説への疑問】

辰巳和弘氏の説は「応神紀から武烈即位前紀までの平群氏関係記事が、それ以降の実録的な記事とは全く趣を異にし、要するにそれらは武内宿祢伝承を母体とし、応神朝の盛衰に一致する形で記されたもので、平群氏が臣姓氏族として自己の立場を意識した時、初めて始祖伝承が形成されたとし、その契機を天武十年の平群子首の国史編纂事業への参加の時期に求める」(「平群氏に関する基礎的考察」「平群谷古墳群と平群氏」同氏著『地域王権の古代学』[白水社、1994年]所収)

【平群氏の政治的台頭とその時期】

平群谷古墳群の変遷に基づくと、この氏が中央の有力豪族に相応しい墳墓を築造するようになる時期は六世紀後半の烏土塚古墳以降・・・・

あまりネタばらししてもいけませんので、この辺でやめましょう。

わざわざ辰巳説の紹介部分を書いたのは、昨日歴博で講演会があったので、多少こじつけました。(^0^)私は残念ながら、行けなかったのですが、Yにこの『地域王権の古代学』にサインいただけるよう頼みました。「たヾなづく平群の心」と書きそえてくださいました。

加藤先生のお話は、『大和政権と古代氏族』(吉川弘文館、1993)収録論文などが参考文献でしょうか。残念ながら、この本も品切れじゃなかったかな。




766. 埴輪の世界から金砂大田楽へ さわらびY(ゆみ)  2003/05/10 (土) 22:17
今日、歴博で辰巳和弘先生の講演会を聴きました。
考古学の成果からどう古代人の精神文化を探ることができるか、目からうろこのとても面白いお話でした。

先生のいくつかのテーマの中で、はにわや古墳壁画の片手を腰に片手を伸ばした人物像は、単に力士というだけでなく、大地を鎮めるヘンバイ(反閇)の所作でシコを踏んでいる姿というお話がありました。
ヘンバイは、神楽の演目では、猿田彦が槍を持って踏みしめ、邪気をはらう舞いのことをいいますから、金砂の大田楽の四方固めの舞いのことでもあるわけです。(もしかしたら「四股と踏む」とは「四固=ヘンバイを踏む」のこと?)
古代からの神事が、現代の相撲の四股を踏む儀式や、田楽・神楽のヘンバイの舞いに残っているということが、埴輪の世界からつながって見えてくることに感銘を受けました。

そのほか、高殿埴輪の神床と王権の祭儀、船と他界の話など十八番の面白いお話にすっかり酔ってしまいました。




765. Re: 信州はいい! さわらびY(ゆみ)  2003/05/09 (金) 23:18
3日間にわたってUPしたフォトアルバムの「信濃史跡探訪」、さっきやっと手直しが終わり完結しました。

最初の森将軍塚と前山寺、最後の国分寺以外は、ほとんど人に会わないどころか、地元の人も知らないマイナーな所ばかり。ナビの役割も忘れておしゃべりしていて、同じところを車で行ったり来たり。(まあ、運転手のTがよく辛抱してくれたこと)
おかげで、小県郡の地理と地形がよくわかりました。

> 感動した場所がたくさんありすぎて!

そう、信州はいいですね。
あれもこれも載せたい写真はあるのですが、契約容量にも限界があるので、ボツにした画像もいっぱい。
(ドジ子さまにはCDで進呈いたしましょう)

季節が違うと雰囲気も違いますね。これは今回の信濃国分寺の五輪塔http://homepage1.nifty.com/sawarabi/sinnsyuu/kokubunjigorintou.jpg
次のは信州考古学探検隊の加茂鹿道さんのページ。
http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sub02.html

夏暑くて、冬寒い信州、暮らすのはたいへんそう。
本当にいい時期に行きました。


妙見寺、武石銘石碑、仏岩、いろいろ謎ときが待っていますので、次は推理と文章でチャレンジしてみます。
(あ、そういえば、金砂の謎ときも途中でした。冨屋ヒデさま、赤飯さま、高橋さま、ごめんなさい)

>  一人で電車に乗って新緑の山を見ていたらジーンとしてきた・・

3日夕方貴女を送っていった別所温泉駅。ローカルな電車に、ひとり夕暮れに乗るとジーンときちゃう。うん、わかる。そういう旅もまた味がありますよね。

では、明日は辰巳和弘先生の講演会、今晩は早く寝ようっと。





764. 信州はいい! みきこ  2003/05/09 (金) 21:46
T.Yさま
信州では大変お世話になりました。ありがとうございました。
いつものドジ子で、せっかく撮った写真、闇の世界へ消えてしまって・・これは何かのタタリでしょうか。
 さすがにY様の画像はすばらしいですね!
感動した場所がたくさんありすぎて!

方田塔もよかったですね。リンゴの白い花の間にひっそりと立っていて、本当に不思議な石塔でした。

鳴龍山・妙見寺も良かったですね。思いっきり手を叩くと、天井の龍が・・ボヨヨヨ・・
あの不思議な石碑に興味ひかれました。Yさまに教えてもらった妙見信仰?これも面白そう!
 そこで買った「中部四十九薬師巡礼」を読みながら、うーん巡礼もいいかも!なんて思っている・・
 縄文時代、いや旧石器時代の人たちと同じ風景を見ている・・
 一人で電車に乗って新緑の山を見ていたらジーンとしてきた・・








763. 『中山道和田宿 維新の激動』 さわらびT  2003/05/05 (月) 23:38
鳥羽山洞穴や黒曜石・・・ばかりでなくちょっと興味をそそられたのが和田宿で買い求めた『中山道和田宿 維新の激動』(斎藤善助著・刊行委員会発行、1993年)

官軍東下にはじめは抵抗すべく準備した上田藩だったが、圧倒的な大軍の報におびえ恭順することになった。桜井常五郎や水野丹波が活躍する一時期です。年貢半減を告げる官軍先鋒嚮導隊あり、他方で年貢取立てを急ぐ幕府の攻防があり、しかし相楽のグループは「偽官軍」として処断されようとしていたのです。

赤報隊関連の出来事にずいぶんページを割いておられます。

相楽処刑ののち、慶応4年4月7日未明のこと、上州無宿実五郎等殺害事件があったとのことです。その真相について、著者はは桜井常五郎につながる反官軍色の強い実五郎を抹殺したことを示唆しておられます。




762. 初夏の信州を満喫してきました さわらびY(ゆみ)  2003/05/05 (月) 00:37
2日から2泊3日で快晴の初夏の信州を満喫して、さっき無事帰宅しました。

2日は、森将軍塚や大室古墳群のほか、ボロンテの信州考古学最前線で川崎さんが書かれた篠ノ井方田塔(http://www7.ocn.ne.jp/~volonte/column-03-apr.html#vol.31参照)を探しに行きました。塔の後ろのりんご畑が真っ白な花が満開で、うっとり。
3日は、わたしの個人的興味で千葉氏一族かもしれない信州武石氏の名残の史跡を探して武石村を探索し、その後鳥羽山洞穴を探しに行きました。
鳥羽山洞穴は、川の手前から、岸壁に開いた不気味な洞穴を撮影。川を渡れなかったのは残念でしたが、依田川の清流と八重桜がきれいでした。
4日は大冒険の旅、何たって、大門街道にそそり立つ仏岩の上にある宝篋印塔はスリル満点で、高所恐怖症のTも私も這いつくばってカメラのシャッターを切るのが精一杯。(あそこで拓本をとった人はえらい!)そのうち武石氏遺跡と、箱根と仏岩の宝篋印塔との関連を、忍性シリーズにUPしますので、お楽しみに。
丸子町の宝蔵時岩谷堂洞窟もけっこう足元の悪い高いところにありました。(仏岩と違って踏み外しても命に別状はないでしょうが)
鳥羽山洞穴と岩谷堂洞窟、いずれも普通に行けない所。ここを古代人が葬所にしたという洞穴を見て、辰巳和弘先生が『黄泉の国の考古学』で、「他界を観念したのであろう」と書かれていることを実感してきました。

博物館では、「長野県遺跡発掘2002」(県立歴史館5/5まで)がホットな話題の出土品が見られてラッキーだったほか、丸子町郷土博物館の深町遺跡、鳥羽山洞穴出土品などが、印象に残りました。(深町遺跡は、なんと竹花五輪塔を探して見つけた周辺の田圃でした)
そのほかいろいろ見て感動したところはいっぱいあるのですが、今晩は、信州考古学探検隊の皆様へのお礼のご報告としての書き込みで留めておきます。




761. Re: 金砂大祭礼と経済効果 赤飯 [URL]  2003/05/01 (木) 23:48
古代史で「ひたみち」=直線という語源を持つ常陸国。
古代から、道路は走りやすい?のでドライブには最適なんで
すが、文字通り通り過ぎるだけで、お金を落としていく人が少
ない茨城なんで、観光客が、この機会に増えればいいですね。




760. Re: 金砂大祭礼と経済効果 さわらびY(ゆみ)  2003/05/01 (木) 23:12
> 本日の茨城新聞で、地元観光関係者は打撃を被ったもよう、
> 宿泊施設は期待していただけにショック大とか。

そうでしたか。私は団体で1泊+個人で日帰りでした。
東西各1億2千万円を負担した実行委員会への寄付のつもりで、記念ポスターを買ったり、お賽銭もはずんだし、団体では、帰りに水戸の造り酒屋・別春館や道の駅も寄ってお土産をたんと買ったのですがねえ。
メル友情報では、宿泊は最初からあきらめて駐車場で夜明かしした方も多かった?
でも、行列に参加するのに何十万円も負担した氏子や協賛会の方々や、祭りにソーランなどで参加した久慈中学生などが心から満足し、その次の世代に伝えていけたら大成功だと思いますよね。

帰ってから常陸風土記の地名や史跡に興味がいっぱいわいてきます。大祭礼を機会にリピーターになりそう。そう思う人が私以外のも増えたら、じっくり経済効果が効いてくるでしょう。






759. 吉村武彦先生『日本書紀の世界\』 さわらびT  2003/05/01 (木) 22:54
昨日から、吉村武彦先生の『日本書紀の世界\』(明治大学リバティ・アカデミー)が始まりました。6月までの3ヶ月は古代史トークとのこと、第一回は「ヤマト王権の成立」でした。
ヤマト王権と、邪馬台国は九州説か近畿説かを問わず関係がない、というお考えです。(ご自身は、宗旨変えされて邪馬台国=近畿説です。)
王権論は王墓からではなく、王宮の所在から論ずるべきだとの説は有名ですね。これは、吉村説です。(このごろ、まねする方がおられようですので、念のため。)【参考文献】吉村武彦『古代天皇の誕生』(角川書店、1998)

考古学から見た邪馬台国論では、これまで見落とされていた洛陽博物館所蔵の「三角縁」の「神獣鏡」を重視すべきだと提唱されています。この鏡ですが、「三角縁神獣鏡」の定義からははみ出ていると思われますが、吉村先生はかなり重視されておられます。講義の中でも、紹介していただきましたが、このHPでその画像を掲載しています。果たして、この鏡をめぐる論議が積極的になされることになりますでしょうか。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seian.rakuyou/24rakuyou/24kagami_1.jpg

私のコメントも載せています。吉村先生とは違って「特注説」にこだわってますが・・・・

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seian.rakuyou/mokuji/kojousizuisou.htm

岡本健一氏の『邪馬台国論争』(講談社、1995)に洛陽博物館の「三角縁神獣鏡」のことが出てます(p215)が、私たちが見た「神人車馬画像鏡」と同一のものか不明です。わかる方おられたら教えてください。




758. 金砂大祭礼と経済効果 赤飯 [URL]  2003/05/01 (木) 21:14
本日の茨城新聞で、地元観光関係者は打撃を被ったもよう、
という記事が。
90万を超える来場者にも関わらず、日帰りが多く、土産も売れず、
宿泊施設は期待していただけにショック大とか。
そして、例年より、観光収入が減ったとのことですが、それは湾岸戦争の関係でしょう。
私は利益度外視が、祭りが本来の姿だと思います。地元では残念に
感じている人が多かったようですが、私は、喜ばしいことだと思
います。神事を商売にするのは、いかがな物かと思います。




756. Re: 似ている風景 さわらびY(ゆみ)  2003/04/29 (火) 23:35
みきこさま
目が覚めるようなすばらしい書き込みをありがとう。
私は、「金砂」の漢字にとらわれず、音だけの「カナサ」とはどんな意味だろう、なんて考えていたのだけど・・・
さすが古代文献からの貴女の推理はするどい!

「常陸国風土記」の「久慈の郡」の章を読んでみました。
久慈川支流の上流「古古(ここ=猿の声)の邑」から「小田(=山田)里」の描写、そして「蜜筑(みつき=水木?)」での夏の集い(祓いの祭り?)。たしかに、似ている。
そして、「久慈の郡」の章は、一貫してなぜか地質にこだわっている!
黄の岸壁、青色の顔料になる土、丹(あか)い石、白色顔料の土、どうしていちいちこんなに観察をしているのだろう。四神の色にこじつけた美辞麗句として、読み済ませてよいのだろうか。

> ・・語られすぎている!のが非常に気になるのです。
そう、鉱脈を探すような手がかりのキーワードもまた、なぜわざわざ語られるのでしょう。
私も推理小説の世界にはまってしまいそう。
「私の謎ときノート」はいったいどうなるのでしょうね。

ところで、(うちのLINKから行ける)「考古学情報広場」の「MT15」見ました?
意味不明の方もいるらしいけど。うふふふ。私たちだけの秘密よね、シーッ。




755. 似ている風景 みきこ  2003/04/29 (火) 01:28
Yさま
 あの日はテレビの前に釘付けのはずだったのに・・いつの間にか夢の世界へ・・えーん残念!どんな話だったんだろう。

「常陸国風土記」の世界では水府村(金砂神社の近く(?)のある辺りでは近隣の人々が水遊びを楽しみ、筑波の雅曲を唄い、酒を飲む・・と。水木浜の辺りでも人々が近くの川で男女が集いて酒を楽しむ・・と書いてあります。面白いですね!
同じような遊びをしていたとは!
この共通性はなかなか面白いと思うけどな・・・
実際の風土記では漢文で書かれていたらしいけど、この二箇所は漢文でも美文で語られているとか?(ごめんなさい。よく覚えていない)
・・語られすぎている!のが非常に気になるのです。実際に川遊びがされていたのか。何かを隠すために美文でごまかしたとか・・
久慈川の源流は八溝山へ。八溝山は古代の陸奥国白河郡、下野の那須郡、常陸の久慈郡にまたがっているけど、「続日本後紀」では836年八溝黄金神はよく砂金を採り遣唐使の資として助けてくれたとして封戸二烟をおかれている・・。
大宝元年(701)には「凡海宿彌アラカマを遣わし金を冶せしむる・・」
天平21年(749)には陸奥国より初めて黄金を貢す・・」
とかなり古い時代から八溝山の辺りでは金獲得の使いが行き来していたみたい。

不思議なのは「風土記」選進の命が「畿内と七道・・その郡のうちに生まれる銀、銅、彩色、・・を録し」と最初から金、鉄について報告しなくてもいいことになっているし・・
ああだんだん推理小説の世界になってきちゃった。
だから・・水遊びって砂金採りしていたのかななんて思っているずーと!
久慈川はアウトドア関係の雑誌には砂金の採れる川で有名らしい! 私も実は行ったことあるのです。
だからそういう歴史のある地で行われる田楽って本当に五穀豊穣
だけなのかななんて・・似たような関係のある地域を結ぶお祭って・・

長く書きすぎました。 5月10日は行きましょう!




754. その方は辰巳和弘先生だった!(穴があったら入りたい) さわらびY(ゆみ)  2003/04/27 (日) 23:47
2日間、Tにつきあって、歴博の国際フォーラムをうつらうつらしながら聴いてきました。
昨日の昼休憩のとき、ギャラリートークがあって、杉山先生の中国・韓国の展示解説を聞いてから、時間があったので、宝塚1号墳の大きな船の埴輪の解説を聞きました。
歴博のプレートをつけているけれど存じ上げない先生で、細かな船の構造や櫂やかじの取り付け方など丁寧に教えてくださいます。これがとても面白い! 
ほとんど人がいなくて、マンツーマンでいろいろ質問も。
「埴輪の船は、死者の魂を他界に運ぶためですよね。(=これって辰巳説の受け売り?)内陸でも出土するのでしょう。」また「この船のお話、来月の辰巳先生の講演のため、ちょうどいいですよね」なんて言ったりして。(穴があったら入りたい!)
そのうち、先生から「円筒埴輪の穴の由来知っていますか」と実物を前に個人授業。直弧紋の穴(丸に尻尾がついている形)、目の線刻や銀杏のみたいな線刻のある穴などを示して、「穴にも意味があるでしょう」とおっしゃったので、「勾玉や近世の絵にある人魂の形とも関連がありそう」と思いつきで言ったら、「そうですね」と共感されていました。
時間になったので、お礼ついでに先生のお名前をおたずねしたら、「辰巳和弘です」。
わぁー、どうしよう。『黄泉の国の考古学』(講談社現代新書)のご本人とは。
「先生の大ファンです」と言ったら「新書を読まれましたか」と聞かれ、それからはすっかりドギマギしちゃって。
今日は、コメンテーターとして会場におられたので、最後にその本にサインをいただきました。Tも、また友人もほかのご著書にサインを頼んだので、辰巳先生のまわりだけにぎやかで、そばを中山清隆先生が「人気ありますねー」って言って通って行きました。
5月10日、ぜひ歴博の辰巳先生の講演会に行きましょうね、みきこさん。




753. 歴博フォーラム『王の墓と奉仕する人々』 さわらびT  2003/04/27 (日) 23:38
昨日と今日、歴博フォーラム『王の墓と奉仕する人々』に参加しました。いろいろ刺激を受けることの多い2日間でした。

まず、林永珍(イム・ヨンヂン)全南大学校教授の『韓国南西部の前方後円墳と埴輪状土製品』発表レジュメから引用します。

韓国南西部地域の古墳からは様々な墳周土器が出土している。
1)形態上、円筒形、壷筒形、壷形の三つに大きく分けられ、さらにそれぞれA形とB形に細分。
2)系統上、円筒A形と壷筒A形、円筒B形と壷筒B形、壷形の細分。
3)円筒A形と壷筒A形は5世紀中頃から6世紀初めまで甕棺古墳に共存し、日本の埴輪を模倣しながら現地の要素が加わることによって独自な類型として発展。
4)円筒B形と壷筒B形は5世紀末から6世紀初半まで日本式前方後円形古墳に共存し、共に出土する墳周土器とともに日本の埴輪を忠実に模倣。
5)壷形は4世紀末から6世紀初まで甕棺古墳から出土するが、壷A形は日本埴輪を模倣して成立した後、壷B形として発展し、6世紀中葉頃から日本に波及したと推定。

前方後円形古墳、筒B形墳周土器、墳周木器など、日本の例を忠実に倣う考古学資料の主人公らは、大和政権の統合が加速化される状況で圧迫を避けて馬韓に亡命した北九州の勢力者だと思われる。(訳 具京姫)

認識不足だったのですが、林永珍先生の発表は私には新鮮な驚きでした。百済の勢力下になっていたと思われていた地については、列島(北九州の勢力)と「馬韓」の関係としてこのように断定的に述べられたことです。季刊考古学79号「月桂洞古墳群の墳周土器」より踏み込んだ内容になっていました。

大竹弘之「韓国全羅南道の円筒形土器−いわゆる埴輪形土製品をめぐって−」(『前方後円墳と古代日朝関係』同成社、2002)も読まなければ・・・・




752. Re: NHKテレビ見ましたよ さわらびY(ゆみ)  2003/04/27 (日) 22:22
高橋さま、赤飯さま

> また貴方の謎解きも拝見しました。絵巻物は上手く撮れていますね。
「謎ときノート」のページの下の「LINK」から参考文献とリンクページをひらいていただくと、「Ota Park」 で掲載の「金砂大祭礼Data Library」というページがあります。
ここに載っている絵巻を、管理人さんのご了承をいただき、使わせていただきました。
有志の方がこういう貴重な史料を、HPで提供しておられるのはすばらしいことですね。

>沢山の渡来人がきたというのはもっともらしく感じます。

渡来人説は、今はいささか私の手に負いかねるかも。

> それから「金砂」と言う文字ですが、

「砂金」との関係は、興味ありますね。
信州考古学探検隊の掲示板
http://hpmboard3.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=FZR00361&page=50&msg_per_page=10&def=50
の3/29 No.323.「五穀豊穣につながるもの」、3/30 No.325「久慈川沿いの栃原金山」でも話題にしていました。またここから「栃原金山」のページにリンクできます。
(ここの掲示板も盛況なので、ちょっと前の書き込みも探すのがたいへんです。)

いずれにしても、最近は考古学や文献、民俗学でも確実にそうだと思える説でないと、安易に書けなくて。
素人なのだからもっと自由な発想を、とも思うのですが、インスピレーションの世界で勝負するのはさすがつらいですね。(本当はトンデモ説好きなのですが)




751. 金砂の由来? 赤飯 [URL]  2003/04/27 (日) 21:44
金砂郷町のホムペだと昭和30年に
>素人が思い付きを言って申し訳ありません。
いえいえ、私も素人ですから(笑)
でも、栃原は現在でも砂金取り体験ができます。観光の
砂金取りは佐渡だけじゃないという事実は全国的には
知られていないのかも。やったことはありませんが、体験費用
は高かったと思います。

久米村、郡戸村、金郷村、金砂村が合併し金砂郷村誕生
とありますが・・・なんでしょう。
当然ながら、金砂神社はより古いわけだし。
この時点では、大きな村の名前を取っただけですから、
金砂郷町と金砂神社の名前の由来が異なることが推測できます。
そもそも、どうして東西に分割してあるのか。NHKでは触れま
せんでしたね。私も知りたいです(汗)




750. Re: 高橋さんへ 高橋敬三 [URL]  2003/04/27 (日) 18:21
> 高橋さん、突然、横やりでですいません。
> 大子町の栃原金山は、地元では割とメジャーです。
> 佐竹氏が戦国時代飛躍したキーワードの一つが「金」です。
> この近辺に、金の採掘場が他にあっても不自然ではありません。
赤飯様
どうもありがとうございます。素人が思い付きを言って申し訳ありません。いま金達寿さんの「日本の中の朝鮮文化」を読んでいるもんですから、つい関連付けてしまって・・・・。
「金砂」の命名の由来などがわかればお教えください。
よろしくお願いします。








749. 休息 mwara [URL]  2003/04/27 (日) 12:19
久しぶりで落ち着いた雰囲気の中休息しています。昨日は用事で成田へ行ったついでに佐原まで行ってきました。何となく一瞬時間が止まったような感覚になり一息つけた感じになりました。水郷の佐原も菖蒲の咲くころは情緒があってまた行ってみたいですね。ところで「金砂大祭礼についての図・写真」は当時の大祭の行列の絵巻物で壮観でした。ゆみさんのこのような調査、掲載は大変参考になります。
昨日”画像でNet”を新規開設致しましたので画像添付入りでの書き込みよろしくお願いします。また少しではありますがNew!マーク更新してあります。




748. 高橋さんへ 赤飯 [URL]  2003/04/27 (日) 08:50
高橋さん、突然、横やりでですいません。
大子町の栃原金山は、地元では割とメジャーです。
佐竹氏が戦国時代飛躍したキーワードの一つが「金」です。
この近辺に、金の採掘場が他にあっても不自然ではありません。




747. Re: 高橋さんのホームページ、花の信州紹介 高橋敬三 [URL]  2003/04/27 (日) 07:22
高橋です。
どうもご丁寧な紹介を頂き恐縮しています。
歴史の勉強では「さわらび通信」が大変参考になります。
今後のご活躍をお祈りします。
それではさようなら




746. NHKテレビ見ましたよ 高橋敬三 [URL]  2003/04/27 (日) 07:17
ゆみ様
昨夜のテレビ見ました。見てまた感動を新たにしました。
知らない事が一杯あって楽しいですね。
ボクも準備不足であったなと思いますが、それがまた奥深く、魅力かも知れませんね。
また貴方の謎解きも拝見しました。何時もながら薀蓄の深さに感服しています。絵巻物は上手く撮れていますね。どんなカメラなのですか?
お教えください。
また昨夜も祭りの起源について諸説がありましたが、ボクは素人ながらどうも渡来人の説がもっともらしいと感じました。新羅の時代でしょうし、沢山の渡来人がきたというのはもっともらしく感じます。
それから「金砂」と言う文字ですが、あの「金」は「キム」ではないのでしょうか?「金砂」と言うのも日本語としてはちょっと変わっていますよね。砂金が出たと言う事も聞かないし・・・。
一度推理していただけませんか?




745. re.>NHK 赤飯 [URL]  2003/04/27 (日) 01:35
私も見ました。
ひたちなかの虎塚古墳も年一回の一般公開です。
あの近くに面白い物があるんですよね。名前は忘れたけど
壁に穴が沢山開いている古墳。
個人的には田楽を楽しんだのですが、TVでは行列にスポット
を当てていましたね。そういえば、茨城新聞社で大祭礼の
写真集が¥1000で売り出されていましたよ。




744. 高橋さんのホームページ、花の信州紹介 さわらびY(ゆみ)  2003/04/27 (日) 00:37
金太郎さま ようこそ、はじめまして。

 さきほどNHK教育テレビで金砂大祭礼を見て、またまた感動を新たにしていたところです。
 祭りに取材したHPづくりは、高橋さんのHPhttp://village.infoweb.ne.jp/~takakei3/
が大先輩で、私もその視点を学びつつ、私なりの別の視点でHPを作っていますので、これからもよろしくお願いします。

 金砂大祭礼については、昨日「金砂祭礼 私の謎ときノートU」をUPしました。
 大祭礼について、縁起や通説と違う本質的なものに迫ってみたいと思っています。なるべくやさしく書きますのでどうか読んでください。

 ところで高橋大先生が、ご夫婦で信州に花を訪ねて旅したアルバムがUPしました。  http://takawasi.hp.infoseek.co.jp/sakura-tourmap.html

 妙義、上田の満開の桜、そして善光寺のご開帳。
 これは信州考古学探検隊の隊長さんほか、隊長さんのHPにたむろなさっておられるご当地の方にもぜひ見ていただきたいページですね。
 カメラの視点では、高田公園の池に浮かぶ花びらが傑作です。

 私も連休に隊長さんに会いに信州に行きますが、きっともう新緑でしょうね。
 ではまた。




743. 高橋さんのホームページから入りました 水品 金太郎  2003/04/26 (土) 14:35
お祭りは三社祭しか知らなかった、私ですが、改めて、日本のお祭りに接した感じです。おおらかで、スケールの大きいお祭りが、皆さんの紹介がなかったら、ひっそりと、行われ、知る人だけの祭りになっていたのですね。テレビのおかげでずいぶん多くのお祭りを知ることが出来るようになり、遠く海外のカーニバルまでが、毎年新しく紹介されています。高橋さんと知り合えたおかげで、又違う、お祭りを拝見いたしました。今後もご活躍を。




742. Re: 注文しました さわらびT  2003/04/24 (木) 23:12
開田様

『日本古代国家成立期の政権構造』ですが、私には関心のある論文が多いものですからお勧めしました。高い本なのに申し訳ないです。(私は決して吉川弘文館の宣伝マンではないです)

髻華の会で先日ご講演いただいた加藤謙吉先生も話しておられました。加藤先生が、検討されたマへツキミ制の成立の研究を、発展的に論じられたのが倉本先生の「オホマエツキミーマヘツキミ」制説は、加藤先生も賛成されておられます。収載論文「氏族合議制の成立」は、大化前代の合議制を考える基本文献だと思います。

3月の講演では、やはり収載論文の「天智朝末年の国際関係と壬申の乱」の内容もお話いただきました。
次回のご講演では、「律令貴族論をめぐって」にふれていただこうかな、とこのご著書を活用させていただいています。

加藤先生のご著書のことは、以前も書き込みでふれましたが、もう一度。
『大和の豪族と渡来人 葛城・蘇我氏と大伴・物部氏』(吉川弘文館)はハンディなのでどなたにもお勧めできますが、『大和政権とフミヒト制』(吉川弘文館)はやはりお値段が・・・・




741. Re: 金砂大祭礼の放送 さわらびY(ゆみ)  2003/04/24 (木) 22:54
> 4/26 教育テレビ、22時から2時間番組で海から来た神という 題目で放送されます。
> 行けなかった人も行った人も御覧になったらどうでしょうか。

赤飯さん、4/6に早々とお知らせいただき、ありがとう。

そろそろ近くなったので、番組検索で確認しました。
http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0426.html#10
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2003/0426.html

楽しみですね。




739. 注文しました 開田 誠 [URL]  2003/04/24 (木) 21:03
  『日本古代国家成立期の政権構造』を早速、注文しました。
ベンチマークのまわりにたくさん集まってきて、噛み砕くのが大変ですが、楽しいものです。
  いろいろな企画があるようですが、そのうちに、ぜひ訪ねていきましょう。




738. 金砂大祭礼・石名坂の大榎 さわらびY(ゆみ)  2003/04/24 (木) 00:42
>日立市の冨屋ヒデさまより、石名坂の大榎の伐採、切断時のすばらしい写真をメールでいただきました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kanasasairei/ooenoki.jpg
 撮影されたのは小田切亘さんという方とのことです。
 すごい迫力ですね。写真の威力を見せつけられました。

 「郷土ひたち文化研究会」第53号(H15.3月)で二度目の大祭礼を経験なさった瀬谷義彦さんが「金砂大祭礼と石名坂の大榎−謎と解明と提言−」という論文を書いていらっしゃいます。

 瀬谷氏によれば、文化8年(1811)に書かれた菅江真澄の「軒の山吹」からの一説に次のようにあるそうです。
 「・・・大祭礼は七十五年(註七十二年の誤りならん)に一度也。大なる榎木を切りてその切株に神輿と居へ奉り、又こと(の?)榎木をその年に植て、七十五年を経れば大木になるよしを語りき」
 天明7年(1787)大祭礼から24年たったころの話で、まだ大木にならないうちから名物だったようです。

 一里塚にも植えられた榎は、早く成長して枝張りがよく、遠くから目印にもなる美点がある一方、用材には役立たないから盗伐の心配がないという説も面白いですね。
 柳田國男は「エノキはヨノキ、嘉樹」というこの木を、「神樹篇」で路神の祭場=境界にある木と民俗学から説いているとのこと。またヤドリギが寄生することも神の依代とされたらしい。

 この大榎のあるところは、真弓街道と旧陸前浜街道の合するところとのこと。
 瀬谷氏は、この榎を切って神輿の安置台にした村民の知恵と、新しい生命の送還として新苗木を植えることのすばらしさを強調しています。
 機会があったら、この新苗木の植えられた石名坂榎元を見てみたいと思いますね





736. Re: 学説史が欲しいですね さわらびT  2003/04/22 (火) 23:30
開田誠様

私などよりずっとお詳しいので、あえて申し上げることもありませんが、吉村先生の『聖徳太子』(岩波新書)について、のお問い合わせには、やはりお答えしなければなりませんね。吉村先生とも親しくお付き合いさせていただいておりますので、書くのはつらいのですがやはり大山説について論じるべきだったと思います。「いずれ消える説なので、新書の性格上、不要と考えた」旨の発言をされておられたのですが、むしろ大山説には意識過剰かなと受け取る向きが多いです。

大山先生の問題提起に、直接答えておられる直木孝次郎先生はお年を感じさせない健筆ぶりだったと感じております。直木先生の批判には、真摯に応じておられました。

石田尚豊氏の説も、最近出版された川勝守『聖徳太子と東アジア世界』(吉川弘文館)にしても、推古朝の理解が大山説とはかなり開きがあるようです。『日本書紀』が造られた時代から推古朝を展望しているのですから、同時代史料ではないこと、そして文章には虚飾があることを前提にして歴史を復元するしかないわけです。

遠山美都男氏の説ですが、大化改新における孝徳の重視は斬新な視点で話題になりました。

1月にご講演いただいた佐藤信先生のレジュメにも記載があります。(「孝徳天皇(軽皇子「軽萬徳王」)の評価の見直し 遠山美都男」)

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/uzunokai/m.sato1.htm

ただ『白村江』(講談社現代新書)における、倭の戦力の過大評価ははなはだ疑問であります。『天皇と日本の起源』(講談社現代新書)はまだ読んでおりません。

むしろ3月に講演していただいた倉本一宏先生をお勧めします。いまは、研究テーマを平安期に移されたのですが、大化前代の「オホマエツキミ−マエツキミ」制について重要な提言をされています。『日本古代国家成立期の政権構造』(吉川弘文館)、は500頁近い大著で読み応えがあります。(全部読み通したわけではありません。開田様には申し訳ないのですが、地の利を生かして、これからもご講演をしていただき、理解を深める所存です。)

網野先生とは面識はありませんが、あまりにも有名な先生ですので、一時よく読んでいました。(さわらびYは石井進先生とセットで追っかけファンだったようですが・・・)「聖徳太子は日本人ではない、なぜならその頃「日本」という国号はなかったから」とわかりやすく歴史への興味をかきたてて下さいました。




735. Re: 金砂神社祭礼について「なぜ頭に鳥を冠するのか」  さわらびY(ゆみ)  2003/04/22 (火) 22:35
> それは、西金砂の田楽の場合頭にキジ、東金砂の場合鳥をいただくということ
> なぜ、頭に鳥を冠するのか 私には不思議に思えました

北畠さま
お久しぶりです。そういえば、去年の11月、香取の海の交流史についてご質問され、そのときはなんと桃崎先生にお答えいただきましたね。

私がキジとセキレイの烏帽子、そして四神旗にこだわってこの掲示板や信州考古学探検隊で情報を求めていたのは、まさに同じ疑問からでした。

田楽の「四方固め」は、元日早朝に天皇が天地四方(陰陽道の四神に相当する)を拝する四方拝と同じ趣旨で、天下太平を祈願する祭儀と思います。
文献では、大宝元年の正月の文武天皇朝賀に「その儀、正面において鳥形の幢を樹つ。左は日像青龍朱雀の幡、右は月像白虎玄武の幡。」とあるそうです。

東アジアに共通する民俗信仰では、鳥が太陽を意味し、また巫者が鳥装をして舞う鳥巫の名残りが、兵庫県高砂市の天満宮や那智大社の祭礼に鳥の帽子の装束として残っていると、萩原秀三郎氏の著書に見出すことができます。

これ以上は長くなりますし、まだ研究不足ですので、今再読している本をあげてお答えとさせてください。まとまりましたら、「金砂祭礼 私の謎ときノート」の載せたいと思っています。また、情報をぜひおよせくださるようお願いします。

本とは、「498.萩原先生とオビシャ」2003/01/26 にも書きましたこの3冊です
『稲と鳥と太陽の道』 萩原秀三郎 大修館書店 (1996)
『熊野の太陽信仰と三本足の烏』萩原法子 戎光祥出版(1999)
『神樹 東アジアの柱立て』 萩原秀三郎 小学館(2001)




732. 学説史が欲しいですね 開田 誠 [URL]  2003/04/22 (火) 12:34
 経済学では学説史が一分野として認知されています。されすぎてしまって、”経済学”を勉強する者はいるが”経済”を勉強する者はいないといわれるぐらいです。
 山川のぶあついあれ(私は今リハビリ中で自分の家__宿をしています__広い?ので本はそちらです)、普及版として分冊も出ているのが、学説を意識して記述して参考になります。また、今、刊行中の吉川の”日本の時代史”も意識していてうれしいです。東大出版から出ていた歴研編集の入門書(数年ごとに出たが80年以降ない?)は文字通りの学説紹介であり、その数年ごとを読むと歴史意識の移り変わりをながめられ有意でした。

 大山さんの大化改新論は期待はずれなものでした。井上光貞のくびきから出られなかったのでしょう。
 同門の吉村武彦さんの『聖徳太子』は、その文献リストに大山さんを外しているのは意図のあることなのでしょうか?

 遠山美都男さんの本はまだ3冊めです。『天皇と日本の起源』(講談社現代新書)がおもしろかったので(斉明の飛鳥建設の評価を軸とした聖域論が)、印象に残らなかった『大化改新』(中公新書)を再読しようとしています。また、『古代王権と大化改新』を注文したところです。

 先行世代の人々の諸説をかみくだいていましたら、同世代、近頃では後世代の人々の論説がにぎやかになりました。

 網野善彦さんを読み続けてきて、残念に思うのは論争相手であった人々が亡くなってきたことです。

 HP上の論説は関心のあることばかりです。しかも、それぞれに取り組んできた経過が似かよっていることは、やはり、同世代なのでしょうか、と思っています。




731. 大山先生になりきった説があります さわらびT  2003/04/21 (月) 23:35
開田誠様

髻華(うず)の会以外で、大山先生の学説に理解を示される方に出会えるとは思いませんでした。ちょっとうれしい気分です。

「「聖徳太子」はいなかった」には書いておいたのですが、Web上で大山説をパクってるサイトがあるんです。本文にはあえて記載しなかったのですが、今でも残っています。大山先生にも、お伝えしたら、
「想像を絶するおもしろさですね。いたずらでないとすれば、その人は、私になりきったのでしょうか。」
とのお答えがかえってきました。商売されているわけでもないからあえて抗議する必要もないと思っていますが、参考までに覗いてみたらいかがでしょうか。

http://johokan.net/history/Rekishi/earlyjapan/shotoku.html

ついでながら、大山先生へのインタビュー記事が公開されています。こちらは写真つきの本物です。

http://www.mainichi.co.jp/eye/interview/200105/11-1.html

次のように話をしておられます。

「業績がすべて後世に作られたものなら、その人物の実在を信じる理由は全くない。日本書紀を編纂する段階で、当時の権力者だった藤原不比等(ふひと)と長屋王がそれぞれの思惑を込めて、唐から帰国した僧・道慈(どうじ)に命じ、「聖天子」としての聖徳太子像をねつ造して、一族が滅亡して事績が残っていなかった推古朝時代の王族「廐戸王」に重ねたと考えるに至ったわけです。」

「ただ、不比等は儒教精神を重視し、長屋王の方は道教思想にハマッていましたので、それぞれの好みで道慈に注文し、これに道慈の仏教知識を加えた形で「生まれながらに豊かな教養と優れた政治理念を持ち、推古天皇に代わって国政を指導して、未開の日本に仏教・儒教・道教などの高度な文明をもたらし、以後の日本の行く末を定めた聖人君子」という聖徳太子伝説が作られたのだと思うのです。」

パクリページも、よくできているので困ってしまいます。本をよく読んでるようで、丁寧に書いてるのですから、きちんと大山先生の説として紹介していただきたいものです。




730. 金砂神社祭礼について 北畠克美  2003/04/21 (月) 23:22
私は茨城の出身です
今回の金砂神社の磯出祭礼も興味を持って、見物にいきました
いろいろ考えることはあったのですが、一つの疑問にお答えいただけたら幸いです
それは、西金砂の田楽の場合頭にキジ、東金砂の場合鳥をいただくということ
なぜ、頭に鳥を冠するのか 私には不思議に思えました
どなたかご存じの方がいればご教示いただきたい




729. 論争を楽しみます 開田 誠 [URL]  2003/04/20 (日) 23:05
 大山さんの大化改新論は読みました。否定論の登場以来,各説を楽しみつつずっと追ってきて長いです。まだ、継続中です。
 大山さんの聖徳太子説を理解するため、氏の著作を読むことはもちろんですが、そこに引用された本へとのびていったのですが、この1年病院生活で頓挫していました。福永光司さんが亡くなられたのは惜しいことでした。古い本も図書館では全国から貸し出しの労をとってくださり助かります。また、古本屋さんも検索ができ、僻地にいても楽しめます。
 大山さんには吉川弘文館の本が出た時、激励のハガキを出しました。丁寧なお返事をいただきました。
 次の本が出るまでこちらも休まず勉強していきたいと思っています。




728. 藤尾先生の講演の感想にかえて さわらびT  2003/04/20 (日) 23:02
4月18日(金)の藤尾先生の講演は、研究史中心でご専門とは言いがたいお話だったようですが、今につながる部分も多くあとになって参考になるように思います。

国立歴史民族博物館・監修「人類にとって戦いとは」5、イデオロギーの文化装置(東洋書林、2002年)第1部「戦争と学問の姿勢」に「弥生文化と日鮮同祖論」という同名タイトルの論文があることは、先生がご紹介されました。

藤尾先生のHPがあります。論文を公開しておられます。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/index.html

講演で藤尾先生は、渡来人だけの村などなかった、とおっしゃっておられましたね。
「コロニー(植民地)が存在したことを示す証拠は考古学的には確認されていない。」(『縄文論争』(講談社選書メチエ)p177)

弥生文化成立論としては、公開されているる論文、「福岡平野における弥生文化の成立過程」などでも知ることができます。機会があれば、このお話もしていただけたらと思います。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/fukuokaheiya/fukuoka.html#6

「縄文人主体説,渡来人主体説のどちらかを用いて説明される傾向が強かった弥生文化の成立過程を,狩猟採集民の農耕民化という枠組のなかで,農耕民との相互交流モデルを用いて検討」されています。

話は飛ぶのですが、「人類にとって戦いとは」5 には佐原先生「「言葉を武器に」の千年紀に」という文章も掲載されています。
「「文明」は、大量虐殺の技術をますます高度に「進歩」させて3千年紀に入りました。言葉を武器にかえ、争いを武器・兵器によってでなく、言葉で解決することを、この千年紀の人智は決意しなければならない、と思います。」
と、結ばれています。

残念ながら、武器で解決を求めた事態が新たに発生してしまいました。




727. Re: 楽しいHPに出会いました さわらびT  2003/04/20 (日) 00:45
開田誠様

ご訪問ありがとうございます。

私は、生まれは千葉県ですが、父は札幌生まれです。また父が北海道に勤務した折、帰省先になったこともありますので縁がないわけではないです。ただ暮らしは私どもとはずいぶん違うのでしょうね。

ところで最近、大山先生とはご無沙汰状態ですが、『論座』の正月号(うろ覚えです。今、お貸ししているので手元にありません)にも、聖徳太子虚構説を書いておられました。

相変わらず飲んだくれてるかな、と思うのですが、実はかなりお忙しいご様子。そのうち新しい本を出されるとも聞いています。楽しみに待ってるところです。

「聖徳太子」が作られた人物像であることは、元来異論がないところですが、大山先生のように日本書紀が捏造したと断定するのは、勇気ある行動なのかもしれません。タブーに触れた、といったところです。東大出身のまともな学者の議論ではない、といった非難も聞きましたが、有力な反論はないのが現状ですね。

大山先生、面白いことに「大化改新否定論」に対しては肯定論で対抗した方なのです。(『古代国家と大化改新』吉川弘文館、1988)




726. Re: お久しぶりです さわらびT  2003/04/20 (日) 00:17
はにわ処様

先日はゆっくりお話できず残念でした。そのうち、と思いながらなかなかうかがえず申し訳ありません。

今日は、歴博友の会の考古学講座(会員のみ)がありましたので、出向きました。昨日は「シルクロードの会」で藤尾先生の難しいお話を聞いたばかりで少し頭を休めたいところですが、今日は昨年、同会でお世話になった西谷先生でしたので、行って来ました。テーマは「動物の関係から見た東アジアの世界」、また豚便所の話題もありました。(企画展にも展示されてますね。)

西谷先生は、企画展では「東アジアの死の世界」のコーナーを担当されたようです。古代中国の死の世界は、生前世界の延長という考えであり、日本との対比で設けられたコーナーらしいです。はにわは地上にあるのに対し、兵馬俑などは地下にある。違うのかなァ・・・

今日は、ギャラリートークがある日で、杉山先生のご登場でした。丁寧にご説明いただき、興味深いあるお話満載でした。

たとえば、はにわの起源ですが、吉備の特殊器台から変化(大和の勢力が採用)といわれますが、特殊器台と円筒埴輪どこが違うの?と思ってました。
要するに、古墳に祭られているものを円筒埴輪ってよんでるってことだったんですね。

それと、はにわと中国の俑の関係ですが、先日、水野正好先生に「関係ありますか?」と、質問したときには即座に「関係ない」とお答えがありました。ところがです。俑の展示コーナーには次のよう書いてあります。

「日本に人物埴輪が登場した頃、中国では人の形をした俑(よう)はすでに小さくなっていたので影響はなかったといわれてきました。しかし最近埴輪と同じくらい大きな俑も作られていたことがわかってきました。日本の埴輪が中国の俑の影響を受けなかったと断言できるでしょうか。」

杉山先生がお書きになったのでしょう。ギャラリートークでも同様の話をされました。展示されている「門吏俑」は高さ143センチ、6世紀です。

問題意識を持って観るとなかなか面白い企画展です。




725. 楽しいHPに出会いました 開田 誠 [URL]  2003/04/19 (土) 20:13
難波宮と中尾芳治をキーワードにして検索を試みていた時、”「聖徳太子」はいなかった”というページがあることを知り、やってきました。考察と写真を楽しんでいます。今、じっくり読んでいるところです。
 大山誠一さんの仮説をベンチマークにして古代史の論考をあぶってみる(?)のは有意だと思っています。大山さんも言っていられますが、無視していられる方が多いのは残念です。
 ”大化改新否定論”も古代史の認識を深めるのに貢献してきました。
 スケジュールを見て驚きました。情報の都市にいられるのだ。小生は、北海道の僻地といわれるところにいます。動植物にかこまれています。




724. Re: お久しぶりです さわらびY(ゆみ)  2003/04/19 (土) 10:36
> ネットも見ていられませんでした

そうだったのでしょうね。ネットをお留守の間に、「しゃこちゃんのお部屋」のBBSにそちらさんへお客様がおいでのようですよ。

> 先日は佐倉の民博にも行ってきてはにわ展も覗いてきました

Tはきょうも午前中から、はにわ展関連の講演会とギャラリートークを聞きに歴博に行っています。(私は、たまってしまった家事やら自治会の雑用でパスしましたが)

はにわ展オープン早々に行ったときはすいていて、顔見知りのボランティアさんに古代衣装の着付けをしてもらい写真撮影をしてきました。(昨日の藤尾先生もおしゃってましたが)歴博も「客商売」ですものね。

展示ではにわ製作に関する取り組みが面白かったですね。
円筒はにわを、プロと、技術指導なしの見よう見まねで作ったのとを実験比較して、朝鮮半島出土のはにわと比べたりして。

> 熊のはにわが飾ってあるのには驚きました

新商品ができるかも。

> GW過ぎまでまたしばらく顔が出せないかもしれませんが、、、

GWは信州へ行く予定で、埼玉古墳群には行けそうもなくなってしまいました。渋滞のないころには行きたいです。

この掲示板の703.に「埼玉将軍山古墳出土の馬冑・馬具・銅鋺」の講演会の予定が載っています。
話題が豊富な古墳群で、たのしみですね。





723. お久しぶりです はにわ処 [URL]  2003/04/18 (金) 14:16
ご無沙汰しています
何かと今月は私用が多くゆっくりネットも見ていられませんでした
さわらび様の前方後円墳の話私も知りたかった事がわかり興味深く拝見しました
先日は佐倉の民博にも行ってきてはにわ展も覗いてきました
平日で雨が振っていたので人はまばらでした
その為ゆっくり見たれましたが
興味深かったのが須恵器や土師器を製作する人もはにわを製作していたことです
それから埴輪達は大概は何処かで見たものでしたが熊のはにわが飾ってあるのには驚きました 今までどこにしまってあったんだろう 知らなかったあ
GW過ぎまでまたしばらく顔が出せないかもしれませんが、、、それではまた




722. Re^3: 四神旗 さわらびY(ゆみ)  2003/04/18 (金) 00:22
> 四神旗の紹介ありがとうございました。
こちらこそ貴重な画像をありがとうございました。

> 金砂大田楽の田楽舞台四隅の青竹に四神旗を結ぶことを知り、ありがたいです。

祭場によって、必ずしも青竹に旗をつけないところもあるようですね。
http://sharaku.mallkun.to/ で中染の東金砂の大田楽のビデオスナップが見られますが、青竹に旗は翻っていませんね。
観衆から田楽が見えにくくなるから?それともなにか約束事があるのでしょうか。(711.で「うっかり立て忘れて隅に低くぶら下げたのか」と書いたら、始めからよく見ていた方から、「そんなことはないでしょう。」とメールをいただきました)

そういえば、大相撲の土俵の四隅に昔は四色の布を巻いた柱がありましたよね。これも四神旗と同じ意味があったと思うのですが、観戦のじゃまになるので、柱がなくなり、吊天井にして四色の房になってしまったそうです。
この柱(今は房)の四色も四季と天の四神獣を表わし、五穀豊穰を祈念しているとのこと。
◯ 東方の守護神 青龍神 春 ◯ 南方の守護神 朱雀神 夏
◯ 西方の守護神 白虎神 秋 ◯ 北方の守護神 玄武神 冬

> ところで、日立市石名坂の神輿のお休み場であった大榎の株について
> 4/19(土)10時から榎の苗を植えられます。
> これは、榎の再生を祈ったものでしょうか。

神座になったという大榎の切り株を見てみたいと思ったのですが、案外早く撤去して次の世代の若木に替えてしまうのですね。
つぎの72年後までに大木に育つためには、1日でも早く植えないといけないですし、再生を祈るにしても早いほうがいいにでしょう。
http://www.i-hitachi.com/trend/news/index.php?toretate_id=1539&a=disp
で、祭礼前の伐採の儀式をルポしています。
大祭礼にはいろいろな儀礼がその土地ごとにあって面白いと思いました。

ではまた。貴兄の大祭礼報告の載った文芸誌の発行が楽しみですね。




721. Re^2: 四神旗 冨屋ヒデ  2003/04/17 (木) 21:12
さわらびY様

四神旗の紹介ありがとうございました。
金砂大田楽の田楽舞台四隅の青竹に四神旗を結ぶことを知り、ありがたいです。

ところで、日立市石名坂の神輿のお休み場であった大榎の株についてその後をお知らせします。
4/19(土)10時から榎の苗を植えられます。
この植樹には、金砂神社からも参加されるようです。
大榎の株の上部はスライスされ、体裁を整えた後、日立市郷土博物館に展示される予定です。
株の根のところは、苗を植える土を掘り起こし、そこに埋めたとのことです。
これは、榎の再生を祈ったものでしょうか。




720. 加藤先生の講演に関連して  さわらびT  2003/04/16 (水) 23:22
加藤先生の講演では、門脇禎二先生の蘇我氏=渡来人説が成り立たないことを論じられました。ところが韓国では門脇説が通説らしいです。日本でも同様でしょうか。

門脇説は、百済の権臣、木ら満致が渡来して蘇我満智になったとするのですが、加藤先生は以下の理由で反対されてます。(詳しく知りたい方は下記の参考文献を読みください。)

@満智と満致が同音・同名であること以外同一人とする証拠はない。
A木ら満致は日本へ招致されたとしても一時的であり亡命とはいえない。(「ら」の字は文字化けしそうなので書きません。木簡の画像でお確かめください。)
B木ら氏は5世紀末に台頭し、やがて百済の雄族に成長している。

参考資料として、月刊しにか2000年9月号 特集「木簡・竹簡は歴史を変えるか」(大修館書店)に、「木ら進徳」について書かれた文章のコピーをお持ちくださいました。

その木簡は、奈良文化財研究所のHPで見ることができます。この「木ら進徳」は一庶民に過ぎないのであります。

・「一千文天平宝字六年十月」
・ 「貫民領木ら進徳」

http://mokuren.nabunken.jp/MokkanPhoto/6AAIBS14/L/000115.jpg

加藤先生も、蘇我氏が朝鮮諸国とかかわりがある可能能性を否定されているわけではないのですが、お話を聞いて、半ば常識化していた門脇説が根拠に乏しいことがよくわかりました。

参考文献
『蘇我氏と大和王権』(吉川弘文館、1983)
『大和の豪族と渡来人 葛城・蘇我氏と大伴・物部氏』(吉川弘文館、2002)
残念ながら、『蘇我氏と大和王権』は品切れです。吉川弘文館さん、蘇我氏の基本文献ですので早く増刷してくださいネ。

ところで、平群氏についてのお問い合わせには、お答えする知識はないのですが、古代安房国について、参考になりそうな文献をあげておきます。畿内王権と服属儀礼の関係を考えてみるのが有益かもしれません。

佐藤信「古代安房国と木簡」(『日本古代の宮都と木簡』、吉川弘文館、1997)
川尻秋生「古代安房国の特質−安房大神と膳神−」(『古代東国史の基礎的研究』、塙書房、2003)




719. 桃崎先生の中世史の新論文紹介 さわらびY(ゆみ)  2003/04/16 (水) 22:38
 鎌倉時代の話題に触れたついでに、古代騎馬文化でおなじみの桃崎祐輔先生の中世史の新論文をご紹介したいと思います。
 数日前に届いた『戒律文化』第2号に掲載の「律宗系文物からみた東国の律宗弘布の痕跡」という題名の力作です。

 この論文では、鎌倉〜室町期、武家政権の基盤の地であった東国に数多くの石塔・仏像・瓦・墓地が残されていて、中でも西大寺律宗はその教理・儀軌に基づく文物を多く残しているという視点から、忍性ら僧侶の足跡、石工の系譜、『沙石集』著者の無住と瀬戸陶器との関係、対外交易と律僧、地蔵信仰、瓦のデザインなど幅広い事例を紹介し、最後に巨大五輪塔とそこに供養された律宗僧侶の階層との対応関係に迫っていきます。

 桃崎先生に出会う前、私は郷土史の片隅で、地元寺院にある清涼寺式という珍しい形式の釈迦如来像とその伝承の謎に挑んでいました。
 西大寺や鎌倉極楽寺の釈迦像と同形式という観点から、中世律宗へアプローチしていったのですが、狭い範囲の断片的な情報しかえられず、また千葉氏武将の墓塔と伝承されている五輪塔がなぜそこにそのような姿であるのか不思議に思っても、解決の手がかりが得られないでいました。

 一昨年、『中世の霞ヶ浦と律宗』の図録から桃崎先生の著述に触れ、そして「目からうろこ」というべき視点の広がりを感じることができましたが、今回のこの論文の最後には「東国律宗の展開は、・・・予想だにしなかった多くに地域で跡付けられはじめており、従来知られていなかった、豊かでいきいきとした中世史像を結びつつある」と述べられてあり、地域の歴史を学ぶものに大きな勇気を与えてくれているように思えました。

 なお、この研究誌を入手するには、西大寺の佐伯俊源師(s-shungen@nifty.com)にご連絡するのがよいと思います。




718. 極楽寺付近と境界 さわらびY(ゆみ)  2003/04/15 (火) 22:58
>  梶原施餓鬼でも有名な建長寺は元処刑場でこの為『地獄谷』と呼ばれていたと聞いております。
>  また鎌倉市内は埋葬が禁止であった為、由比ヶ浜が埋葬の地と聞いており、これが時衆と下層民、さらにはそれを極楽寺が管理していたと記憶しております。
>  極楽寺付近は前浜同様境界の為埋葬が可能だったという事でしょうか。

やぐらに葬られたのは、中世の鎌倉びとの一部で、庶民に関しては由比ヶ浜や「鎌倉七口」の境界外に埋葬、あるいはそれ以前の風葬に近い無残なものだったのでは?
その「地獄」のような境界の地で、死穢をいとわず葬送に関与し、化導救済に働いたのが律宗系の三昧聖だったといえます。

>  ついでですが山之内の由井家は建長寺の処刑場、藤沢の由井家は竜口の処刑場と関係が有ったのでしょうか。

勉強不足で申し訳ありませんが、由井(由比)家については、詳しく存じません。
むしろ、貴兄が、このHPをお知りになられた「鎌倉歴史散策加藤塾のホームページ」http://homepage2.nifty.com/katohjuk/
のほうにおたずねになったらいかがでしょう。
私も、このHPの塾長さんからご紹介を受けたものとして、今後時々拝見させていただきます。(塾長様によろしく。)




717. 御返事有り難う御ざいます。 胤幹=書右衛門  2003/04/15 (火) 13:59
御返事有り難う御ざいました。
 梶原施餓鬼でも有名な建長寺は元処刑場でこの為『地獄谷』と呼ばれていたと聞いております。
 また鎌倉市内は埋葬が禁止であった為、由比ヶ浜が埋葬の地と聞いており、これが時衆と下層民、さらにはそれを極楽寺が管理していたと記憶しております。
 極楽寺付近は前浜同様境界の為埋葬が可能だったという事でしょうか。確かに名越の切り通し付近もやぐらが沢山有りますが、小生はいわゆるやぐらで埋葬はされなかったと思っておりました。
 また先般書き込みをしました様に地獄谷の呼称はこの地に関しては初耳でした。
 ついでですが山之内の由井家は建長寺の処刑場、藤沢の由井家は竜口の処刑場と関係が有ったのでしょうか。




716. Re: 平群氏について さわらびY(ゆみ)  2003/04/15 (火) 00:05
平群・安房・朝夷・長狭の4郡が、718年上総国から独立して安房国となったということですが、安房の平群と古代豪族の平群の関係、平群壬生朝臣につきましては知識不足で、お答えできなくて申し訳ありません。
http://www.h2.dion.ne.jp/~ezawa/kazusa20.html
にも多少ふれられていますが、ここはもう貴兄が検索からご覧になっておられるでしょう。)

古代豪族の平群氏にもしご興味がおありでしたら、Tが関係している「5月・髻華の会」
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/uzunokai.htm
の加藤先生のご講演をお聞きになったらいかがでしょう。
(ただメールでお尋ねの中世以降の安西氏のルーツには結びつかないと思いますが…)




715. Re: 貴鎌倉極楽寺坂記述に関して さわらびY(ゆみ)  2003/04/14 (月) 23:16
「忍性がたどった中世の風景」を丁寧にご覧いただきありがとうございます。
また、メールでお尋ねの趣旨、またこのページをご覧になった経緯はわかりました。
光栄にも「鎌倉歴史散策@加藤塾別館」の掲示板に紹介されていたのですね。
http://katohjuk-web.hp.infoseek.co.jp/

お尋ねの件はhttp://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/1pro.htm
の「参考文献」をクリックして、「おしどり伝説と東国の律宗 =参考文献とホームページ=」をご覧ください。

忍性は、奈良坂の般若寺がそうであったように、都市の境界の地にあった極楽寺を律宗の拠点にしました。
大仏谷から極楽寺あたりは、鎌倉北側の出入り口の建長寺付近、また由比ガ浜と同様、葬送の地そして貧民窮民の群がる「地獄谷」であり、それゆえに「地獄谷の極楽寺」としての意義がありました。詳しくは、列挙しました文献をお読みください。




714. 平群氏について 胤幹  2003/04/14 (月) 00:16
連続ですみません。安房の平群と古代豪族の平群と何か関係有るのでしょうか。また平群壬生朝臣とは何者でしょうか。




713. 貴鎌倉極楽寺坂記述に関して 胤幹  2003/04/14 (月) 00:03
はじめまして。質問させて下さい。極楽寺坂の記述で、『地獄谷』と『葬送の地』との記述が有りましたが、小生には初耳です。出典等を含め教えて下さい。小生の認識ですと前者は建長寺、後者は由比ヶ浜ですが、やぐらにこだわれば覚園寺や名越などかなと思ってます。




712. Re^2:「日本考古学2002」に出席しました さわらびT  2003/04/13 (日) 08:37
あるけ〜様

時折、HPも拝見させていただいております。
考古学のことは、聞きかじりで書いているだけです。お教えください。これからもどうぞよろしくお願いします。

岡安氏の発表は理化学的分析を安易に信じた考古学者への戒めだったように感じました。捏造石器を作った藤村某氏を支えた学問的根拠なるものも捏造だったということになります。

脂肪酸分析というのは、役に立たないようです。
わかりやすく説明されました。

       イノシシの場合 シカの場合 キジの場合
A成分の割合    20%     80%    50%
B成分の割合    80%     20%    50%

分析結果がA成分50%、B成分50%と出たとして、キジの肉なのか、あるいはイノシシ、シカ、キジの肉が同割合で混在した結果なのか判別できないというわけです

数十万年前の脂肪酸が残留している可能性があるかどうかの実験を1〜2年程度の土中埋蔵実験しかされていないというのも驚きです。配布された資料にはこのN氏と共に佐原先生がお名前を連ねている論文もありました。うーん、です。

昨日の講演はそれぞれ興味深く拝聴しました。阿部先生の講演もかなり積極的で、「盛土遺構」=祭祀遺跡説が根拠にかけることを強く主張されていました。興味本位で報道するメディアの責任もあると思いました。現場の研究者の意見と、チラッと遺跡を訪問しただけで祭祀遺跡と論じた先生の意見のどちらが正しいか・・・・これまたうーん、でした。
(阿部芳郎『縄文のくらしを掘る』、岩波新書、2002 参照)




711. Re: 四神旗 さわらびY(ゆみ)  2003/04/12 (土) 23:41
冨屋ヒデさま。
和田祭場の四神旗についてありがとう。
民俗研究家の萩原法子先生に、「三本足の烏」の講演をお願いしてお話を伺った際、金砂大田楽では、四神旗が舞台四隅に翻っているとお聞きし、注目していたのですが、私の見た中染と久慈浜(ここの田楽は予定外)の田楽舞台には、見えなかったのでどうしたのかしらと思っていたところでした。
その後、中染に別行動で見に行っていた友人から先日写真が届き、なんと舞台の高さ以下の角に朱雀の旗がぶら下がっていました。
じゃまになるから遠慮したか、それとも最初の田楽会場で、うっかり立て忘れて隅に低くぶら下げたのかはスタッフでないとわからないでしょうね。
次の和田祭場ではしっかり、上がっていたのですね。
ヒデさまからメールでご提供いただいた写真をご紹介します。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kanasasairei/wada.dengaku.jpg

またこの方からは、日立市の大手企業グループの文芸誌に昨年5回(1年間)にわたってお書きになった記事の抜粋を製本したりっぱな資料をいただきました。
重ねてお礼申し上げます。
ここには、東西金砂神社の紹介や、歴史研究家の志田諄一先生や実行委員長へのインタビューなど、1年にわたって調査した情報が満載で、疑問に思ったことの大半は答えが得られました。

そのほか、日立市大橋協賛会の会長さんから28日、神輿の去った直後、お宅で貴重なお話を伺えたことも幸せでした。

いろいろ情報交換や感動に共有など、祭りが終っても、興味がつきませんね。
ではまた。




710. Re:「日本考古学2002」に出席しました あるけ〜@千葉市の遺跡を歩く会 [URL]  2003/04/12 (土) 23:34
さわらびTさん、こんばんわ
Yさんを通じ、また直接HPでご活躍は拝見しておりました。

なるほど岡安氏の講演は、
完全には理解できませんが、注目すべき重要な内容のようですね。
Tさんのご報告のおかげで、朝日の方も見逃さずにすみました。
どういう縄文クッキーづくりなら許容されるのか・・・
まだよくわからないところがありますが、
ともあれ、ありがとうございます。




709. 「日本考古学2002」に出席しました さわらびT  2003/04/12 (土) 23:09
明治大学考古学博物館友の会講演会「日本考古学2002」に出席しました。
予定の演題と多少違っておりましたので、書いておきます。

1.旧石器発掘」捏造事件と考古学(明治大学教授 矢島国雄氏)
2.縄文時代のムラと「盛土遺構」2002(明治大学 助教授 阿部芳郎氏)
3.大阪府高槻市今城塚古墳の調査成果(明治大学助教授 佐々木憲一氏)
4.最古の具注暦と地方行政木簡−古代の時空と地域支配−(明治大学教授 吉村武彦氏)
5.考古学的脂肪酸分析の問題点(アークビジョン代表  岡安光彦氏)

最後の岡安氏の講演は刺激的で考えさせられました。(下記参照)

http://www.momoso.net/articles/shibousan.html

また3月7日朝日新聞に掲載された主張もHPで読むことができます。

http://www.arcvision.jp/articles/fattyacid.html

帯広畜産大学のN教授のデタラメ分析を指摘すると同時に考古学者の責務を訴える岡安氏の講演に納得した参加者が多かった様子でした。理化学的分析も鵜呑みにしてはいけないのであって考古学自身がしっかりしていなければならないという戒めの言葉も重いです。権威に拠らず、自分の目で確かめる学問でなければならないのでしょうが、・・・・ムズカシイ




707. 四神旗 冨屋ヒデ  2003/04/12 (土) 22:10
初めて投稿します。
金砂大祭礼では、四神旗が田楽舞の舞台四方に青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)が青竹に結びつけられました。
四神旗は行列の一部になっており、祭場に到着後、田楽の前に設置されました。
私が見た和田祭場では、この旗が田楽舞いを遮った感じでした。




706. 蘇我氏をテーマに講演会(加藤謙吉先生) さわらびT  2003/04/12 (土) 08:52
明日4月13日(日)、髻華の会講演会は久々に加藤先生にご登場願いました。

いよいよ古代氏族シリーズのハイライトともいうべき「蘇我氏」がメインテーマです。
前回は、「蘇我氏の登場」までお話いただきました。レジュメを掲載しましたので、ご参照ください。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/uzunokai/katouootomo.pdf

史料の一部が未掲載になっておりますので、ちょっと補足です。

史料1(履中紀二年十月条)
「是の時に当たりて、平群木菟宿祢・蘇我満智宿祢・物部伊莒弗大連・円大使主、共に国事を取れり」

史料2(『古語拾遺』長谷朝倉朝条)
「長谷朝倉の朝に至りて、秦氏分け散(あら)けて、他族に寄り隷(つ)きき。(中略)此より後、諸国の貢調、年々に盈(み)ち溢(あふ)れき。更に大蔵を立てて、蘇我満智宿祢をして三蔵[斎蔵・内蔵・大蔵]を検校せしめ、秦氏をして其の物を出納せしめ、東西の文氏をして其の簿を勘録せしむ。・・・・」

レジュメをごらんいただきたいのですが、加藤先生は、こうした蘇我満智の実在を示すとされてきた史料を再検討して、稲目より前の蘇我氏は実在性が希薄であることを論証しておられます。

明日のご講演では蘇我氏渡来人説批判からのお話になると思います。お楽しみに。前回配布レジュメをお持ちの方は、ご持参ください。




705. Re: 養老渓谷の春風景壁紙更新しました。 さわらびY(ゆみ)  2003/04/10 (木) 00:47
mwaraさんのHPは、風景写真ではインターネット初心者の時からの憧れのサイト。養老渓谷も微妙な光の表現がすてきですね。

高橋師匠の写真は、報道写真のジャンルに入るのでしょうか。切り口が鋭いですよね。

昨日、地元の村上正覚院の花祭りに行って、ご開帳を清涼寺式釈迦如来像を拝見してきました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/3syukakuin.htm

まだまだ、写真は、両先輩の足元にも及びませんが、「さわらび通信」を楽しんでいただけるよう、撮影のチャンスを増やしていきます。どうかご指導ください。

ところで、両先輩とも以前から画像が大きく、さすがブロードバンド時代を先取りしていましたね。

あ、そうそう。金砂大祭礼で目立たなかったけれど、「古墳はなぜ作られたか」をUpしてました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kohun.htm

「猿にもわかる」古墳の始まりを書いてって、Tにお願いしたものです。
お暇なら、皆様どうぞ。




704. Re: 感動の雨・嵐 さわらびY(ゆみ)  2003/04/09 (水) 22:46
みきこさん、桃崎先生
日曜日は、辛亥年銘鉄剣の稲荷山古墳の熱いお話を聴かせていただきありがとう。
古墳の築造時期の確定にせまる馬具の編年や須恵器の研究についての桃崎先生のお話は、髻華の会でお聞きしていたものの、今回はゆったりした時間で(最近頭の働きが鈍くなって、Tの「怒涛の書き込み」についていけなかった)私にもよく理解できました。

> こんな感動したのは久しぶり!というのが正直な皆さんの感想でした。東アジアの緊張した世界に生きていた稲荷山の被葬者達・・の姿を馬具を通して教えていただきました。

皆さん熱心でしたね。稲荷山の被葬者達は国際的に流動した時代に生きていたという実感は、みきこさん同様、私も同感でした。

次回の6月1日(日)のおしらせ ありがとう。お好みのページを創りますので、お言い付けください。

それにしても去年の今頃まで、私とTとみきこさんが全く違うテーマと関心で、お会いしたこともない桃崎先生に注目していたとは。(私が桃崎先生に注目していた話題は
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/14hunabasi/14tibahunabasi.htm に書きました。)
Tは「日本列島における騎馬文化の受容と拡散・・・」を読んで。みきこさんは稲荷山古墳の鈴杏葉に関してでしたっけ? 
去年6月、桃崎先生の講演会で、目を輝かせて聞きほれていたみきこさんと初めて出会って以来、今回は主催者側のご活躍。次回講演会の成功を祈っています。




703. 感動の雨・嵐 みきこ  2003/04/08 (火) 20:30
Tさま
 昨日は私が所属している市民の古代研究会・関東で桃崎先生にご講演をしていただきました。内容は以前うずの会でのと同じ「埼玉稲荷山の馬具から見た古墳時代の騎馬文化」でした。なんせ会場が狭かったので、皆様にご案内もできずすみませんでした。次回はさわらび通信にご案内を載せてくださいませ。よろしくお願いいたします。
 ご講演の内容は同じような・・そうでないような・・
3時間のご講演もあっという間に(そう感じてしまった)丁寧にお話していただいたので、みんな感激しました!
こんな感動したのは久しぶり!というのが正直な皆さんの感想でした。東アジアの緊張した世界に生きていた稲荷山の被葬者達・・の姿を馬具を通して教えていただきました。なかなか理解できない私ですが、感覚的には素直に納得できる!!!
次回が楽しみです。

次回は6月1日(日)場所 文京区男女平等センター
          時間 1時30分〜

仮題「埼玉将軍山古墳出土の馬冑・馬具・銅鋺」
  ー東国の古墳からみた6世紀の東アジアー
講師 
         桃崎 祐輔 氏
                        です。







702. Re: 大師匠の「金砂神社大祭礼」がUP 高橋 [URL]  2003/04/08 (火) 07:05
早速見ていただいて有難うございます。
過分なお言葉で恐縮しています。
貴方のページのように中まで入り込んでいないので、僕のは表面的です。でも28日にはごく近くにいたのですね。
面白いですね。
それでは貴方のページをまたゆっくりと見せていただきます。




701. 養老渓谷の春風景壁紙更新しました。 mwara [URL]  2003/04/08 (火) 00:51
こんばんは;
この時間インターネットはBフレッツでもスピードが落ちます。
アクセスしている人が多いと言えます。先週の日曜日花見をしました。
笠森観音と養老渓谷を散策して来ましたが春の始まりを肌で感じ、リフレッシュが出来てよかったです。壁紙3点更新しましたのでご観覧ください。