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No.601-No.700 2003/3/82003/4/8
Since 2001.10.08
・オーバーフローで消えてしまった発言を収納しました。
・書き込み、修正、削除はできません。修正・削除は、管理人にお申し付けください。
・他への引用は、著作権などの配慮から、発言者へ連絡をお願いします。
No.1-No.100 No.101〜200 No.201-300 No.301〜400 No.401-500 No.501-600 No.601-700
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700. 白石先生のお考え さわらびT  2003/04/08 (火) 00:03
昨日、白石太一郎先生のお話を聞く機会があり、せっかくですので、稲荷山古墳の年代観について、坂本和俊先生の説に対するお考えをうかがいました。

「FA降下時期はMT15の早い段階で同一形式に収まる。私の説にはなんら矛盾はない」とのお答えでした。坂本先生の提起されたFA降下前後の年代の違いは、重要ではないというお考えのようです。

それ以外の質疑応答については、懇親会でのことですので、記憶を確かめつつ必要があれば、書くことにします。見瀬丸山古墳=稲目の墓説には同意されないことは確かです。

箸墓の実年代に関する寺沢説にも否定的だったようです。(白石先生は、皆さんご承知のように箸墓=卑弥呼説に限りなく近いです。)

昨日は桃崎先生のご講演もあったのですが、坂本説への白石先生のお考えが聞きたくて、桃崎先生には大変失礼しましたが白石先生の講演会に足を運びました。前回の「シルクロードの会」でも半分しか拝聴できなかったし、生の桃崎先生の講演が聞けず残念です。また、ご講演を企画します。

Y(ゆみ)が私の代わりに桃崎先生の講演会には参加したのですが、お元気だったとのこと。安心しました。




699. 大師匠の「金砂神社大祭礼」がUP さわらびY(ゆみ)  2003/04/07 (月) 19:35
祭りの写真では個人的に崇拝!申し上げている大師匠のHPがアップしました。
高橋 敬三さんの「川柳と旅と写真のホームページ」
http://takawasi.hp.infoseek.co.jp/kanasa-frame.html
です。

ペーソスのきいた楽しい視点と川柳は、さすが年の功です。
特に常陸太田の街角ウォッチングがすてき!
「あっ!!パパだ」が最高、そのほか「固形排ガスがポロリ」「完全武装の狙撃兵」
夜の磯出の神輿もすごい!

水木浜の朝の行列の撮影場所は、たぶん私は、高橋さんの足元の斜面にへばりついていたみたい。

感性の違いを味わいつつ、ああ、もう見納めと思った大祭礼を、今日もう一度見られたように感じ、またまた興奮しています。




698.  赤飯 [URL]  2003/04/06 (日) 23:37
私は、和田会場で7万人の群衆の中、西金砂神社の田楽を
見ていたのですが、田楽の奉納の前に、神官が四隅の柱に
何か取り付けていましたね。東はよく見えていたので無かったと
思います(久米)。たぶん、西金砂のあれがそうだったのでしょ
うけど、私には視認できませんでした。
>烏帽子を「孔雀」
あながち間違いではないでしょう。孔雀は雉目(モク)雉科です。




697. Re: 金砂大祭礼の放送 さわらびY(ゆみ)  2003/04/06 (日) 23:04
金砂大祭礼の放送のお知らせありがとう。
4/26 教育テレビ、22時から2時間番組ですね。

昨日、ぶ厚い封筒が郵便で届き、開けてみたら、「私が見た金砂大祭礼」と関連ページををプリントし丁寧に製本されたものでした。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seihon.jpg
八千代市郷土歴史研究会で大祭礼見学をご一緒した方からのプレゼントで、大感激です。

これなら、時代が変わってPCやサーバがなくなっていても、72年後まで記録として残せることでしょう。ありがとうございました。

ところで今日、「常総の歴史」第26号を買いました。
民俗研究家の河野弘氏の「金砂田楽を読み解く」という題で、簡潔に金砂祭礼の歴史と田楽の概要がまとまって報告されています。
そこでは、西金砂の四方固の烏帽子を「孔雀」と書いてありました。(祭場で聞いたときは雉っていってけど)
また田楽の舞台には四角に四神旗をつけた青竹を立てると書いてありますが、私が撮った中染祭場の画像には残念ながら写っていないのです。
どなたか、舞台の四隅に四神旗が写っている写真がありましたら、お知らせください。

「金砂祭礼 私の謎ときノート」をスタートさせました。
現地で入手した冊子や、志田諄一先生や河野弘先生の報告をまず読みこなして、気づいたことを書いていきたいと思いますが、地元ではないので、いろいろ不備が多いと思います。
皆様、どうかお教えください。




696. 金砂大祭礼の放送 赤飯 [URL]  2003/04/06 (日) 16:24
沿道で地元の人の話に聞き耳を立てていて話は把握していた
のですが、確証がなかったので紹介しませんでしたが、先ほど
TV雑誌で確認しました。
4/26 教育テレビ、22時から2時間番組で海から来た神という
題目で放送されます。行けなかった人も行った人も御覧に
なったらどうでしょうか。




695. 落合直亮は不運な役回りだった? さわらびT  2003/04/05 (土) 14:12
HON様

ご訪問ありがとうございます。立派なHPですね。拝見させていただきました。おかげさまで久しぶりに赤報隊のことを考えています。

落合直亮については、不運な一面を感じておりました。薩邸浪士でありながら相楽総三と最後まで行動をともにできなかった幹部ですね。落合と権田直助は東征大総督府御旗奉行五条為栄の附属士として中国地方に随行、さらに岩倉から関東地方探索を命ぜられたわけです。連帯できなかった心のしこりが屈折した感情となったのでしょうか。岩倉を殺害しようとして、逆に説得されてしまうあたりも、私には憎めない性格に思えます。それでも、残されたものとして相楽たちの復権に力を注いだのでしょう。

幕末から明治の変革期をテーマにした勉強会に参加し、相楽総三とその同志たちに感情移入していた時期がありました。残念ながらその勉強会が休止状態です。

「赤報隊」というと、その名を騙った卑劣な犯罪事件が最近時効となったという記事をみました。不快感が残っています。

高木俊輔先生(現立正大学教授)が、「維新期において達成されなかったものへの視点」(『維新史の再発掘』NHKブックス、1970)と書いておられますが、当時は一種のブームになりましたね。今はあまり取り上げることはないかなと思っていましたが、数年前、相楽祭に出かけた時ですが、「るろうに剣心」の影響で、若い女性の参加者が多かったことを思い出しました。

(高木俊輔『明治維新草莽運動史』勁草書房、1974を参照しました。)




694. 金砂大祭礼に関するのご質問について さわらびY(ゆみ)  2003/04/05 (土) 13:25
金砂祭礼のUP以来、メールでもいろいろなご質問が来ています。
「この祭礼はいつ頃はじまったのか?」「本当に17回目?」とか、「大田楽の舞台に四神旗はなかったですか」など。
みきこさんからの「東と西の違い」も重要ですよね。
やはり、「Q&A:金砂祭礼の本質」とかいうページを作りましょうか。
私のシンクタンクは、http://www.jsdi.or.jp/~otagiri/kanasa/の電子文献、
http://www6.plala.or.jp/dengaku/の意見ページ、
赤飯さんが参考になさったという茨城新聞HP(索引でバックナンバー記事も見える)、
冊子では東金砂神社で買った「東金砂神社の田楽舞」、研究誌では「郷土ひたち」第53号です。

お急ぎの方には、これらを見ていただけると謎が解けるでしょうが、読みこなすのはけっこうしんどいと思いますので、「Q&A」は上記の資料から私なりにこなした金砂研究を書こうかなと思います。ご質問あれば、どうぞお寄せください。




693. やっと来た春なのに・・・ さわらびY(ゆみ)  2003/04/05 (土) 13:17
mwaraさま 姫河童さま 

昨日仕事で都庁へ行って、地上202mの高さから新宿御苑と代々木公園の満開の桜の雲を眺めてきましたが、残酷にも今日は全国的にひどい雨!
mwaraさんの花撮影にも、姫河童さまの善光寺ご開帳にも残念なお天気ですね。

写真については、いつもmwaraさんのHPがお手本です。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~W730688M/index.htm
HONさんのHPも最近は花がいっぱいですね。バックナンバーでは富士山が印象的。
祭りの写真の視点は「写真と川柳のホームページ」http://village.infoweb.ne.jp/~takakei3/
に学んでいます。そのうちこちらのご師匠の金砂祭礼のページがUPされることでしょう。

デジカメ第1号の画像は1998年の「ある道標の独り言T」の画像が初めてで、それ以前の在庫は全部アナログ写真。
「古墳はなぜ作られたか」のUPの際、「箸墓の写真なあい?」とのTの注文でプリントアルバムの山を発掘?し、やっと、スキャンしましたが、ねぼけていますよね。
ご師匠の皆様のバックナンバー画像はきっとフィルムスキャナーで取り込んでいらっしゃるのでしょうか。鮮明できれいですよね。(撮影の腕がちがう?)
6年前の三山七年祭のフィルムは、写真屋さんでCDに焼いてもらおうかなと思っています。

HP改造中の姫河童さん、HPはやはり画像、ご開帳の写真を楽しみにしています。




690. 72年後の 金砂大祭礼 さわらびY(ゆみ)  2003/04/05 (土) 00:18
HONさま、ようこそ。

信州考古学探検隊では、とっくにBBS仲間でしたね。
「私の見た金砂大祭礼」をご覧いただきありがとうございます。

> 取材がたいへんだったでしょうね。それに編集も。
取材は楽しかったけど、画像の整理と編集は夜なべで朝がきつかったです。

> ところで、この頁、ずっと置いていただけるんでしょうね。七十年位とか。

ここ2〜3年のパソコンの進化って早いですよね。
HONさまのHPとうちは、まだほぼ同時期の2年前ですが、そのころBB以前のITって、画像が大きいと遅くて、じれったかったですよね。それにデジカメ画像も、写真をスキャナーしたのも、鮮明さはイマイチ。
今回のような1ページ10枚以上の画像アルバムは、とても見られたもんじゃなかった。今回もISDNの方のため、画像は平均25KBに抑えていますが、1年もすれば、何でもっと鮮明な大きい画像にしなかったかと思うでしょう。そういう意味で作品としてたえられるかどうか。

ところで72年後の祭礼まで、今回の公式記録はどうなるのでしょう。
1万円以上の協賛金をカンパした方には公式記録ビデオテープが配られるとのことですが、そのころはDVDでさえ時代遅れでしょうし、いったいVHSはあるのでしょうか。
「物置からじいちゃんの遺品でこんなものでてきたけど、なんだろう」なんて。

今回の大祭礼が72年前と一番違うのが、まず車社会の交通事情、次に連絡方法で前回はラッパで合図したらしいけど、今回携帯電話が活躍していました。HPでの情報交換もだいぶ前から準備のためのサイトが公式非公式ともに盛んでしたね。
72年後は人型ロボットが活躍していたりして・・・
見られないのが残念ですね。







689. やっと来た春 mwara [URL]  2003/04/04 (金) 23:42
こんばんは;掲示板書込み有難うございました。日本橋さくら通りの桜は早くも散り始めていますが、当地桜佐倉はやっと春が来た感じです。時間が無くて撮影も殆どしていませんでしたが、今日の朝出勤前に自宅の花を撮影したショットを掲載しました。ご覧下さい。
ところで「私の見た金砂大祭礼」72年に一度とかで見ごたえがありました。今度見に行こうと思ってもそれは無理かも!?有難うございました。明日は暫らく振りで取材に出かけようと思っています。当方の花壇も今、花いっぱいです。随時掲載していきますね。




688. 「私の見た金砂大祭礼」拝見 HON [URL]  2003/04/04 (金) 15:38
はじめまして

「私の見た金砂大祭礼」、貴重なものを有難うございました。
取材がたいへんだったでしょうね。それに編集も。
ところで、この頁、ずっと置いていただけるんでしょうね。七十年位とか。

それから「相楽祭と赤報隊あれこれ」ざっと読ませてもらいました。たいへん参考になります。
落合直亮は旧甲州街道子仏関所関守の出身ですから、当方のHPでも少々触れております。

多摩川流域/子仏関所跡
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tama/asa/s015/s015t.htm




687. 歴史的仮名遣い/地名の由来 ワイワイグッチ [URL]  2003/04/04 (金) 02:35
  >(幕張メッセの幕張の地名は、馬加=まくわりが由来)
戦前は「まくゎり」と書き、上古は「まくゎ」だったのでしょう。万葉集の研究(契沖)で、上古日本語には甲種発音と乙種発音があったことが判りました。本居宣長一派の研究で、カ行の音には3種の子音(k,c,q)と2種の母音(い、ゐ)があったことが判ったとのことです。日本語の表記が単純化されることによって、地名の本当の意味が判らなくなるのは悲しいものだと思います。
小輩は「幕張」は源頼朝が関東を制圧する際にこの地に兵を休めたのかと思っていたのですが、千葉の歴史に関心を抱くようになってから、馬加氏が治めていた土地であると知りました。そこから、日本語の歴史を少なくとも戦前レベルで理解するようになりました。
「検見川」は検非違使に由来するものと思っていました。これは、花見川(はなみがわ)→華見川(はなみがわ)→華見川(けみがわ)→検見川(けみがわ)と変化したものだと、昨年夏、花見川左岸の遺跡を勉強した時に知りました(地域の歴史を深く知ろうとすると表には現れない歴史に遭遇することもありますが)。
それ以来、地名の由来を漢字から考えることは危険だと思っています。




686. 謝辞と、金砂大祭礼のルーツ さわらびY(ゆみ)  2003/04/04 (金) 00:35
みきこさま 道標おやじさま あるけ〜さま 藤本さま 雅楽頭さま

掲示板でまたメールで多くの方から、「私の見た金砂大祭礼」についてご覧になった感想をいただきありがとうございました。
リアルタイムでお伝えしたかったので、深夜の編集作業を急いだ甲斐がありました。

と同時に、画像だけでは説明できなかったこの祭礼の歴史的背景を、そろそろ書きたいと思います。

私は、金砂祭礼のルーツとは、古代からの山岳信仰が日光山開山とともに天台宗系密教と習合し、一方、水分(みくまり)神として民衆に信仰された金砂権現が、中世、佐竹氏の権勢によって社領寺領が安堵され、その信仰圏を確認する目的もあって興隆したものと思います。
近世、佐竹氏が秋田に左遷されその庇護を失うとともに、水戸光圀によって神仏分離が行われ、同時に、兵農・宗教が未分離だった古来の土着した民衆の祭りを、藩の権力で飢饉を克服する五穀豊穣祈願祭にかえ、再編成していったのでしょう。
さらにアワビの復活再生神話など山の信仰に海の信仰が取り込まれ、また七十二の神聖化などの諸説がこの藩特有の吉田神道の薀蓄によって理由付けされ、「72年ごとの磯出祭大行列」は、体系化されていったことと思います。

これは、また千葉氏一族の馬加康胤の安産祈願に由来する磯出祭を伴う船橋市三山の七年祭にも、共通する神事ともいえます。(幕張メッセの幕張の地名は、馬加=まくわりが由来)

未年午年の三山の七年祭も、本年が大祭。船橋・千葉・習志野・八千代市の9社が勢ぞろいする勇壮な祭りです。
四百年前に復活したというこの巡幸は、中世に栄えた千葉氏の土着した末裔たちの誇りを表現する地域ぐるみの祭りのようにも思えます。

この二つの祭礼を比べながら、近世の祭りの実態に迫り、そして中世の神仏と兵農が渾然としていた時代からの変遷を解き明かしていきたいと思っています。
ではまた。




685. すばらしいですね 雅楽頭 [URL]  2003/04/03 (木) 22:56
はじめまして。
お邪魔させていただきます。
大祭礼を見に行った「茨城の史跡散歩」の雅楽頭です。

写真拝見しました。
すばらしいですね。
どの写真もしっかりとした構図でとらえてあり
私のような写真とは比べ物にならないくらい芸術的です。
(私の写真の出来は余りよくないです・・)
22日の西金砂のフィルム写真のCD化も済み、
水木浜のデジカメ写真もハードディスクにあるのですが
お仕事いそがしくてなかなかパソコンをいじれません。
次のお休みの時までお待ち下さいませ。

これからしばらくは
アフター大祭礼で盛りあがりそうです。

常陸国新治郡住人 雅楽頭@茨城城郭会




684. 金砂の大祭礼の写真最高でした。 藤本母  2003/04/03 (木) 21:27
素晴らしいお祭りに参加でき、感激しました。その上、私たちの見学出来なかった素晴らしいところを蕨さんのおかげで最後まで拝見でき、とてもうれしかったです。お疲れ様でした。
最後の写真、とても感動的でした。本当にありがとうございました。




683. 「私の見た金砂大祭礼」拝見 道標おやじ [URL]  2003/04/03 (木) 16:23
道標おやじ
拝見いたしました。勝手ながら、房石研掲示板にお知らせとして、紹介させていただきました。




682. 「私の見た金砂大祭礼」見ましたよー あるけ〜 [URL]  2003/04/03 (木) 00:19
「私の見た金砂大祭礼」拝見しました。
あのあたりは、かなり前に通過したことがあり、
「金砂」という語が忘れられなかったのですが(苦笑)、
こういうお祭りをするところとはぜんぜん知りませんでした。

おかげさまで、いっしょに山から下りて見物したような。
みなさんの雰囲気も伝わってくるような気がします。
金砂の神さまは海から来たんですか。
何だかわからないあやしげな魅力のある神様ですね〜。
最後の一枚にも参りました。
すばらしく貴重なレポート、ありがとうございます。




681. ちょっと興味のあること 赤飯 [URL]  2003/04/02 (水) 23:58
常陸国を北部を長い間支配していた、佐竹一族。常陸を謀略
で統一して栄華を極めたけど10年で徳川家康に秋田に左遷。
この時に、常陸の美女を沢山連れいったのが秋田美人のルーツ
という伝説がありますが、金砂はどうだったのか。新聞では秋田
に7段の(金砂は4段)の田楽があるとか。こちらも機会が有れば
調べたいですね。




680. 具注暦木簡(その2)の訂正 さわらびT  2003/04/02 (水) 23:56
あまり気にされる方はおられないと思いますが、気がついたので訂正します。

@表面の、
2.2行目「辛酉皮 上玄」(二月節月の酉日は「破」となる。)
と書きましたが、私の引用違いです。2行目は「辛酉破」、3行目が「壬戌皮」となっています。

http://www.keyton-co.jp/gensetu/03isigami1/doc3.htm

十二直の「破」は2月節日は酉と対応、3月節月は戌と対応します。
わかりにくいので、参考までにこちらをご覧ください。このHPはたまたま見つけたものです。

http://www.kcn.ne.jp/~nanto/koyokai/choku.htm

石神遺跡のこの木簡ですが、表面2行目が「破」で3行目は「皮」と書かれています。平川先生は、同じ字が続いているので省略したのではないか、とおっしゃっておられました。省略は他にもあります。裏面の「戊戌丸」の「丸」は「執」の省略らしいです。また急いで作成したらしく表面、「癸亥色」の「色」は正しくは「危」です。




679. 感動をありがとう! みきこ  2003/04/02 (水) 20:15
Yさま
花冷えの今日、桜さんずーと咲いていてね!
この10日間楽しくわくわくしながら楽しませてもらいました!ありがとうございます。
ほんのちょっと雰囲気を味わっただけでしたけど、伝統のある祭事って心奪われますね。
田楽のルーツや日本各地での違いなど知りたくなりました。
本当に裏ワザを駆使してのすばらしい画像にうっとりでした。
Yさんのシャッターチャンスのセンスは最高です!
対象に対する愛おしさというか・・・お人柄というか・・
 行列でお面を運んでいましたが・・これにはびっくり!
西と東の違いなどまたいつか教えてくださいませ。




678. Re: 感想など さわらびY(ゆみ)  2003/04/02 (水) 19:49
赤飯さま

率直なご感想をありがとうございます。
金砂大祭礼の「千年?」の仕様はその時代毎に、時の社会構造が反映されてその変遷を見るのも面白いですね。(そのうち丁寧に書きましょう)

> まあ、これも時代の流れなのでしょうが、さわらびさんのホムペの 命令文、ほとんどネスケで機能しません(笑)

業界用語?でおわかりにならない方に翻訳すると、ようするに時代遅れ?のネットスケープでは、ホームページの「代替テキスト」が見られないっていうことですね。
マイクロソフト社のインターネットエクスプローラ(IE)に負けず、けなげに「ネスケ」でご覧になってくださるかたへの配慮が欠けていました。反省します。

> ひさびさにIEを起動して拝見しました。やっぱりコメントがあると 雰囲気が違うと思います。あとで、東と西の写真がこんがらがらないためにも・・・

ありがとうございました。そうですね。そのうち本文でコメントをつける作業をしましょうか。

東と西は、ページタイトルで分けました。前半が西、後半が東の祭礼ですが、たしかに田楽などまぎらわしいですよね。




677. 感想など 赤飯 [URL]  2003/04/02 (水) 01:47
感想というか、金砂郷大祭の仕様が前回よりかなり変わったと
いうのは時代の流れ。
まあ、これも時代の流れなのでしょうが、さわらびさんのホムペの
命令文、ほとんどネスケで機能しません(笑)
ひさびさにIEを起動して拝見しました。やっぱりコメントがあると
雰囲気が違うと思います。あとで、東と西の写真がこんがらがらないためにも・・・




676. 「私の見た金砂大祭礼」を完結しました。 さわらびY(ゆみ)  2003/04/02 (水) 00:22
「私の見た金砂大祭礼」のフォトアルバムをやっと完結しました。
前に書いたように、写真だけで勝負のつもりでしたが、1枚1枚にそれぞれ思いがめぐり、代替テキストで解説をつけてしまいました。(画面の中にマウスを置いてください)
終章をUPし、私の祭りも終ってしまったようにしみじみ感じています。

ぜひ、ご覧になっての感想をお寄せください。




675. 具注暦木簡(その2) さわらびT  2003/03/31 (月) 23:42
チャット状態(?)の掲示板の間を邪魔します。
続きですのでお許しください。これからが肝心なところです。

【年代判定(内田正男『日本暦日原典』参照)】

@表面
1.3行目「壬戌皮 三月節」」(「皮」は「破」。十二直は節月ごとに決まっているので戌日が「破」となるのは三月節月。以下同様)
この日が三月入節日なので、その干支が「壬戌」に当たる年を探す。 
2.2行目「辛酉皮 上玄」(二月節月の酉日は「破」となる。)上弦の月は暦日(朔望月)の6〜9日にあたる。従って当該月の朔日干支は癸丑・甲寅・乙卯・丙辰のいずれか。ややこしいが、三月入節が暦月では何月になるかを見たうえで、その月の朔日干支がこれに該当する年を探す。

この条件を満たす年は古代では継体23(529)と持統3(689)

A裏面
1.4行目「己亥皮 往亡」(「皮」は「破」。)
「往亡」は暦注の一種。節月ごとに入節日の日数が決まっている。四月の場合「往亡」は入節日から8日目。従って四月入節日の干支は壬辰。これに該当する年を探す。

2.3行目「戊戌丸 望」(「丸」は「執」戌日が「執」となるのは四月節月。)
「戊戌」は壬辰(四月入節日)から7日目。望とは満月のこと。暦日から数えて14〜16日なので、この月の朔日干支は癸未・甲申・乙酉のいずれかになる。四月入節の月の朔日干支がこれに該当する年を探す。

この条件を満たす年は古代では持統3(689)、延暦11(792)

@Aの条件を満たすのは持統3(689)年になった。

ぴたりと対応したようです。ご苦労だったと思います。このややこしいパズルを読む人いるかな。間違っていたらご指摘ください。(もしかしたら続く)




674. re.>こんにちは 赤飯 [URL]  2003/03/31 (月) 22:40
ども。
他の新聞は解りませんが、私の取っている新聞は茨城新聞。
県内の記事には強いわけで参考として書きました。抜けがある
のは新聞のバックナンバー?を一部、勤務先に置いてあって
連休中に書けなかったものです。敢えて書いた理由として、昨年
のW杯があります。あちらは鹿嶋では最大4万人強。国際イベン
トより人の集まった国内の大祭礼を強調するためです。




673. 西金砂の大田楽のページの画像の裏話 さわらびY(ゆみ)  2003/03/31 (月) 22:29
赤飯さまへ
> 某所でお世話になったので遊びに来ました。

この掲示板をご覧の方には謎でしょうが、某所での赤飯さんと私の会話は、東金砂大田楽の四方固めの烏帽子の鳥はセキレイで、西金砂の烏帽子は雉をいうお話でしたね。
ちょうど、信州考古学探検隊の掲示板でも鳥の話で盛り上がっています。
http://hpmboard3.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=FZR00361

貴兄のHP拝見しました。東金砂の巫女舞は私も見たかったな。http://www.aa.aeonnet.ne.jp/~redrice/shrine/zyunrei/kanasagou/kanasagou00.htm
大祭礼の人出の数を載せていらしたのが、興味深く、28日の日立市の人出は168000人だったとは驚き。確かにすごかったですね。
主催者の努力は、久慈浜で感心させられました。
万という単位の観客に少しでも公平に見てももらおうと、舞台と距離をおいて、しかも敷物のビニールを配って全員座らせ、行列も見やすいよう交通整理が上手でした。
といっても、ルール無視のカメラマン(腕章つけた憎い奴!&三脚持ったマニア)がずっと待っていた目の前に傍若無人に飛び出して来るのはひどいですよね。
私も隣のおばさんおねえさんと、「あんたたちひどいよ! これで立ったりしたら後ろから石投げるよ!」とずっと怒鳴っていました。久慈浜の画像も、今晩か明日にUPしますが、ひどいカメラマンの姿も見せちゃいましょうか。

> 金砂郷の写真、綺麗ですね。
ありがとう。中染は7時からずっと立ちっぱなし、背の低い方は前の人の頭しか見えなかったし、液晶画面の回転するビデオやデジカメがさらに頭の上にかざされて、どの写真もこれで隠れちゃう。
そこで私も秘密兵器を使いました。それは折り畳み傘。傘の先のネジキャップをはずし、デジカメを装着し、頭のうえにかざしてシャッターを切りました。
そうして撮った何十枚のうち、なんとか写っているモノをUPしたしだいです。

デジカメはいいですよ、私はもうこれで5台目。すぐに性能がよいのが出てくるので、3-5万円ぐらいのを買い換えています。
でも今回はもっとズームが効くのがほしかったな。

うちほうは秋に、大規模な三山の七年祭(磯出祭)があります。前回は2日間早朝から夜まで追っかけました。そのファイトが今回もはたしてあるか、どうか。
祭りを支える人や、普段の生活に密着した静かな取材もいいです。イベント的なものより、地域の民俗資料として残していきたいと思っています。




672. こんにちは 赤飯 [URL]  2003/03/31 (月) 19:34
某所でお世話になったので遊びに来ました。
金砂郷の写真、綺麗ですね。カメラの知識がゼロなもんで、写る
んですを金砂郷で使いましたが使えませんでした。
唯一の収穫は、その現像ネガを写真屋で500円でCDに焼い
てくれたこと。ちょっと前までメディアだけで千円していましたか。
とにかく今回の祭りでズームのあるデジカメが欲しくなりました。

何かの折りにまた遊びに来ます。
それでは。
P.S.次のターゲットは4月に大子で行われる蒟蒻神社の
祭礼です。場所も解らないんですが。




671. 朝日に輝く水木浜、そして夕日とともに見送った神輿 さわらびY(ゆみ)  2003/03/28 (金) 23:59
朝日に輝く水木浜の大海原、もちろん東金砂神社磯出祭り会場は近づくのも困難なすごい人出で、藪漕ぎをして登った段丘の上から海辺を行く華麗な大行列を見送りました。
大混雑してる?大甕駅前のパレードはパスして、水木から日立電鉄のローカル電車で久慈浜祭り会場に先回り、しっかり場所取りをして、間近で行列もそして大田楽もじっくり堪能できました。

本当の感動はそれから。
4時過ぎ、小行列で陸前浜街道の宿場大和田町を行くころは、さすが見物する人も、地元の旧家の方々と実行委員会の報道担当者ぐらいに減り、橋の上の村境で区長さんどうしの引継ぎをみて、さらの追っかけて、夕日の中に過ぎ去っていく神輿を見送りました。

帰路、人通りもない6号腺の陸橋下で、交通整理を奉仕をしていた方に帰り道をお聞きすると、うちへ寄ってお茶でも飲んでいってくださいとのこと。
そのお言葉に甘え、大和田町の大祭礼協賛会会長さん宅でと甘酒やけんちん汁のご接待を受けながら、祭りを裏から支えるムラの方々の心温まるお話をお聞きしました。
この会長さんは、去年胃がんを早期発見で克服しその感謝から今回「青士」に志願して東西両方の行列にも参加したそうです。
あのすごい人並みはどこへやら、真っ暗な寂しい無人駅から電車を乗り継ぎ、さっき帰宅しました。

取材に関してわがままな私に同行してくれた友人、接待をしてくださった日立大和田町の皆様、久慈浜でプログラムになかった大田楽を見せてくださった実行委員会の方々に感謝の、充実した春のながい一日でした。





670. 具注暦木簡(その1) さわらびT  2003/03/28 (金) 23:29
いまさら、書き込みするのはタイミングはずれてると思いますが、飛鳥ネタ。

石神遺跡出土の「具注暦木簡」のことです。明治大学博物館友の会講演会では、吉村先生がテーマにされているようですね。

以前この掲示板でも暦が話題だったことがありました。ご関心お持ち方も多いと思います。

まず『現説公開サイト』をご覧ください。

http://www.keyton-co.jp/gensetu/03isigami1/doc3.htm

なぜこの木簡が持統3年(689)の暦とわかるのでしょうか。

[基礎知識編]

太陰太陽暦の仕組み
@朔(新月)を含む日から次の朔の前日までの1朔望月を暦月とし、朔日を暦日の第1日とする。
A太陽が黄道を一周して天球上の同一点に戻るまでの1回帰年を12に区分し、各区分を節月とする。1節月をさらに2分してそれぞれ節気・中気と呼ぶ。節気・中気にはそれぞれ固有の名称が付けられる。例えば正月節立春、二月中春分、三月節清明、などで、現代でも二十四気として用いられる。節月の第1日目を入節日という。
B暦月のうち中気を含まない月が生じると、前の暦月と同じ月を繰り返し、閏月とする。従って閏月のある年は1年=13暦月となる。この規則に従うと、閏月は19年間の間に7回生じることになり、19年=235暦日となる。これは19回帰年とほぼ一致する。

太陽と月のクロスした関係、ややこしいですがこの仕組みがわかればパズルは解けるらしいです。以上、ある文書からのパクリですので引用の際はご一報ください。(続きは後日)






669. Re: 武井古墳 さわらびT  2003/03/27 (木) 23:03
加茂鹿道様

お久しぶりです。
お教えいただきありがとうございます。

『飛鳥を掘る』(講談社メチエ)にも書かれているのですが、「明日香風86」では『群馬県史』を引用されています。
「基壇周辺には瓦の出土はない。他に建物あとがない。塔心礎とするものもその構造からは火葬の蔵骨器を入れる外容器と考えられる」

それで塔跡とではなく、火葬墓の終末期古墳ということのようですね。

河上氏の本を話題にすると、また話題が膨らんでしまうかもしれません。石舞台は誰の墓だろう?とか・・・

みきこさんのおっしゃる神保一本杉古墳のことは、ご存知でないのかも。

八角墳のことは、「大王墓の八角墳化」という白石先生の定義みたいなものがあるので、考え出したらまた難しいことになりますね。




668. 八角墳? みきこ  2003/03/27 (木) 20:59
群馬・多野郡吉井町・・多胡碑のある地の・・神保にある一本杉古墳(7世紀後半)も2段築造の八角墳(上段は円墳)と
記憶していたけど、今は八角墳とは考えられていないのかな?

 >ところで、東金砂神社の神輿は八角形です。
  タカミクラや八角墳と共通の何かがあるのでしょうか。

 面白いですね!夢殿も八角形?きっと意味があるのでしょうね。

気をつけていってらっしゃい!またご報告楽しみにしています。




667. Re: 王の墓と奉仕する人々 さわらびT  2003/03/27 (木) 20:37
ワイワイグッチ様

こんばんわ。
歴博フォーラムに厳しいご指摘ですね。わが国の古墳時代にきちんとした墓守人っていたのでしょうか。

広開土王碑文には、陵を守るために全土から人々が集められたようです。 それは征服された人々から徴発され代々、その職務に尽くすよう罰則つきで定められたと書かれています。

日本では被葬者がわかる古墳が皆無に等しいというのは、祖霊が見守ってくれればというおおらかな気持ちだったのじゃないか、と想像しています。ずいぶん盗掘を受けているので、守りはゆるかったのではないでしょうか。

また、「死」が「けがれ」と思うのは、もう少しのちの時代の思想かな、と思ったりしてます。

被差別民部落の問題ですが、よく話題になるのが、神武天皇陵の治定に伴う、「洞村強制移転」問題ですね。われわれ関東の人間には、多少理解しづらい問題ですが、大事なことですね。




666. Re: なぜラッキー池田さんなんですか? さわらびY(ゆみ)  2003/03/27 (木) 19:32
隊長さん、おひさしぶり
> 「私の見た金砂大祭礼」拝見しました。それにしても、きらびやかなお祭りなんですね。続編が期待されます。

ありがとうございます。

> それにしてもラジオ?の実況をラッキー池田さんがなんでやったのでしょうね。(地元出身?)
> どんな実況でしたか?

永六輔さんの番組でしょう。土曜日の午前中よく車で聴いています。





665. 「私の見た金砂大祭礼」を見てくださってありがとう さわらびY(ゆみ)  2003/03/27 (木) 19:25
みきこさま
> 「山を下る神」こんな感じだったんですね!感激です。

「私の見た金砂大祭礼」をさっそく見てくださったのですね。
とにかくがんばっていち早くUPしたかいがありました。

72年に一度をいう祭礼の大行列と田楽については、公式・非公式のたくさんのHPがありますし、信州考古探検隊の掲示板でも興味深い考察があって、さらに『郷土ひたち』53号など郷土史の研究者のより本質的な論文もあり、文章として書き出すとUPするのがいつになるか検討もつかなくなりそうでしたので、とりあえずフォトアルバムにすることにしました。

でも祭りの記録としては、報道や公式カメラマンのように「特権的」な撮影場所をゲットできるわけではありませんから、「私が見た」だけのいわば心象風景としての記録です。

今回、キャプションや解説を入れずに写真だけでどこまで表現できるかチャレンジしていますが、本格的に写真を趣味にしたこともない腕ではやはり限界を感じて、結局画像に代替テキストを入れてしまいました。
(画像解説を見たい方は、画像の上にマウスを置いてください)

> 私の友人が24日、25日?雨の中行ったらしいです。前日より泊まって朝4時30分に起きて行ったらしいけど、もう満員だったらしい。

水木浜の磯出式を見に、明日、始発のスーパーひたち3号で行きますが、日立市内は都会ですから、祭り会場に近づくのさえ絶望的でしょう。
(まあ、野次馬の悲しい心象風景でも撮ってきますか。)
どんなエンディングのなるかHPの構成はまだ未定、このさきご支援に答えて続きもがんばります。

ところで、東金砂神社の神輿は八角形です。
タカミクラや八角墳と共通の何かがあるのでしょうか。





662. 明治大学考古学博物館友の会の講演会 さわらびT  2003/03/26 (水) 23:56
お知らせです。

明治大学考古学博物館友の会の講演会「日本考古学2002」が開催されます。
日 時:2003年4月12日(土)午後1時〜5時
会 場:明治大学大学会館8F会議室

詳しくはこちらをご覧ください。会員外の方も参加できます。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/meijidaigaku.htm




661. Re: 酔ってしまう! さわらびT  2003/03/26 (水) 23:51
みきこ様

群馬の八角墳について、河上氏は、「群馬県の古墳では中央の動向を素早く受け入れるという特色がある。武井古墳(廃寺)はまさにこの典型であろう。これが確実な地方での唯一の八角形墳である」と書いておられます。

私は不案内ですが、ご存知ですか?

ところで「金砂大祭礼」の写真アルバム、もう見ていただけたようですね。Yが今、夢中でUP作業しています。




660. 酔ってしまう! みきこ  2003/03/26 (水) 23:20
Yさま
「山を下る神」こんな感じだったんですね!感激です。
以前この近くまで行ったことがありますが、この山まで登れなかったので!
いいですね!
私の友人が24日、25日?雨の中行ったらしいです。前日より泊まって朝4時30分に起きて行ったらしいけど、もう満員だったらしい。
すごいですよね。人を酔わせるお祭りって!

Tさま
 群馬にも確か八角墳があったような・・一本杉古墳だったかな・・(ごめんなさい。よく覚えていない)




659. 王の墓と奉仕する人々 ワイワイグッチ [URL]  2003/03/26 (水) 23:11
国際フォーラム「王の墓と奉仕する人々」が歴博で2003年4月26日(土)・27日(日)に開催されるとのことです。
講演題目に「メソ・アメリカの墓と奉仕する人々」、「古代エジプトの王墓に奉仕する人々」、「古代中国の王墓と奉仕 する人々」がありますが、日本の古墳に奉仕した人々について記述がありません。
3/15、山辺の道を歩き、茅原の上ツ道の格子戸の町並みを見、箸墓から桧原神社に行こうとしたところ、国津神社の所に部落問題に関する看板がありました。なぜこのような看板があるかわからなかったのですが、桧原神社そばの茶店になぜかを書いた小冊子がありました。 古墳が建造された後に賎民の集落が作られたとのこと。古墳が作られてから1700年たつものもありますが、その当時の社会制度の一部が現在も残っているとのこと。このようなことがあるのに、日本の「奉仕した人々」について知っていながら避けて通り、話題にすらしないことは変な気がしました 。
歴博に聞いたところ、「奉仕する人々」に関する真意は「墓に並べられた造形物」だそうです。日本の場合、「はにわ」が「奉仕する人々」に相当するとのことです。日本では墓を管理する人の集落が置かれたことは記録にありますが。
人間が過大な富を蓄える時代になると、アワレな歴史が出来るものです。歴史をチョッと深く見てみるとへんな事実が浮かび上がってきます。その点、縄文時代は余分なことを考える必要がなくていいですね。最近言われるほど食生活が恵まれてはいなかったようですが。




658. 八角形の古墳 さわらびT  2003/03/25 (火) 23:43
「明日香風」86号に河上邦彦氏が「八角形の古墳」書いておられます。たまには飛鳥のことも話題にしましょう。

終末期に前方後円墳が消滅して、古墳の形が変わります。方墳、円墳そして八角墳があったようです。八角墳として有名な中尾山古墳ですが、真の文武天皇陵とも言われてますが、無防備な状態でさらされています。お墓としてどこまで大事にされたのか、気になるところです。

河上氏の結論ですが、@確実な八角墳・・天武陵、束明神古墳、中尾山古墳A上八角下方墳・・・舒明陵・岩屋山古墳・天智陵だそうです。

この八角墳に仏教の影響を見るか、河上氏のように道教と見るか、面白いテーマです。

いつも思うのですが、それぞれ当時の皇族の墓であるでしょうが、おおむね被葬者不明というのが不思議ですね。盗掘は当たり前だったとも言われますし、くどいですがお墓として大事にされてたのかな?




657. Re: そこは歩く人、人でした さわらびT  2003/03/24 (月) 23:47
みきこ様

お久しぶりです。な、わけないか!

どうも、お互いに相性が悪いらしいですね。23日最終日の「器が語る装いの美」の招待券持ってました。誰か行く人いないかと思ってたのに・・・22日はあわてて帰ったんでしたね。

秋葉山のときも、もたもたして昼食で座った席の後ろに、妙な人が・・・もっともその後ろは苅谷俊介さんでしたが(このネタ、信州考古学探検隊の掲示板の続き?)

ほかの方にはわかりにくい話でした。

秋葉山はネタにして古墳のこと書く予定。(いつになるかわかりませんが)




656. そこは歩く人、人でした みきこ  2003/03/24 (月) 21:10
楽観的な東京・埼玉組は7時30分和光市出発。(のんびりしすぎ)
にもかかわらず、茨城県立歴史館へ・・「器が語る装いの美」を見て、おまけに常設展まで見て、五輪搭や、釈迦如来立像の複製を見て(欲張りすぎ)・・でもいつ来てもこの歴史館はいい!

食事もできず、水府村へ・・途中からやっぱりずーと渋滞。電車の方がよかったかな。西金砂神社の祭場ってどこ?車を止める場所もなく5キロ歩いてようやく祭場の前に、でも時遅すぎて、入れなかった・・Yさんはきっと中にいるんだろうなと思っていたら、そこへ渡御行列が・・よかったー!すぐ目の前で見れた。
ぞくぞくして本当に楽しかったです!

肝心の「金砂田楽」は見れなかったけど・・帰りも春と古のお祭りの風を感じながら歩きました。
大好きな筑波山も見れたし、しあわせな1日でした。




654. 西金砂神社大祭礼の見学をしてきました さわらびY(ゆみ)  2003/03/24 (月) 00:16
八千代市郷土歴史研究会の創立30周年記念行事で、72年に一度の西金砂神社大祭礼の見学に泊りがけで行ってきました。
昨日22日は、ハイキングコースのような山道を登って、山頂の神社から下ってくる神輿行列を迎え、今日23日は、早朝から村里(中染)の会場でじっと立って待ってから式典と田楽を見て、壮麗な供奉の行列を見送りました。
すごい人並み(アマとプロのカメラマン&近在の村人・観光客)で山道も式典会場も立錐の余地なし!
デジカメを持って撮影場所を探して飛び跳ねたり、待ち時間は、供奉の方や氏子の人といろいろ祭りのことをお聞きしたり、(なんだか、私もエバラギベンみたいになまっちゃった?)よい天気に恵まれ充実した祭り見物でした。
まだまだ祭りは始まったばかり。これから行かれる方は、混雑覚悟のベストの体調でお出かけを。
また、いらした方ぜひ情報をお寄せください。




653. 「壬申の乱」の講演終了しました さわらびT  2003/03/23 (日) 23:44
3月22日、倉本先生の講演、盛況でした。「壬申の乱」というテーマがよかったのでしょうか。先生の話術も巧みで、楽しい講演でした。
でも、「戦争をやってるときに古代の戦乱の話をするのは気が重い」ともらされた一言が印象に残っています。

まとめのところで、天武後継者問題(大津か、草壁か)が現代につながる制度の地盤となったとする指摘をされました。私には、重く残っています。いずれ、続編をお願いしたいです。

当時の国際政治を説明されました。隋は、高句麗遠征の名目として次のように述べたそうです。
「高句麗には悪い指導者がいる。悪い指導者に支配されている高句麗の人民は不幸である。したがってわれわれが行って倒してあげよう。」

どこかで聞いたようなせりふですね。今も昔も同じこと。他国の政治に干渉するのは余計なお世話かもしれません。




652. Re: 春の花へのお誘い さわらびT  2003/03/23 (日) 07:39
mwara様

寒い季節が続いていて、どうなることかと思っていましたが、春は確実にやってきていますね。
「ライオンの顔のように見えるパンジー」
思わず笑ってしまいました。ずいぶんユーモラスな表情を見せてくれのですね。

Yは昨日から、東・西金砂神社大祭に出かけてます。帰ってきたらたっぷり報告があるでしょう。 




651. 春の花へのお誘い mwara [URL]  2003/03/21 (金) 23:43
本日、我が家の花壇情報更新しましたのでお暇なときにご覧ください。
今年の桜の開花は東京で28日ごろと聞いておりますが、城内公園の桜やなどは1週間遅れといったところでしょうか。その頃また更新をしたいと思います。




650. 戦いより平和を  さわらびT  2003/03/20 (木) 23:49
ついにイラク攻撃が始まってしまった。国会中継を見ていてなんとも情けなく思う。

1940年2月民政党の斉藤隆夫の有名な粛軍演説はこう言いきります。

「世界の歴史は全く戦争の歴史である。現在世界の歴史から、戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。そうしてーたび戦争が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。」

http://homepage2.nifty.com/Bokujin/shiryou1/syukugunn.htm

いつの時代でも口実はあるようだ。だが戦争に正義はない。同じことを繰り返すアメリカとそれに追随するわが政府に憤りと悲しみを感じます。




649. Re: 拝見しました。 さわらびY(ゆみ)  2003/03/20 (木) 23:09
Takさま
「長崎ロザリオ組のマリア」のページをさっそくご覧いただきありがとうございます。
東博の「キリシタン-信仰とその証-」の特集陳列は、Takさんのお勧めもあって、会期中3回も見に行き、また西洋美術館でカルロドルチの「悲しみの聖母」も拝見してきました。
Takさんの http://www.icnet.ne.jp/~take/m.htm
で、紹介されているように、こちらもすばらしい絵ですね。
同一工房で製作されたヴァリエーションの1枚が、シドッチ神父によって禁教下の日本に将来され、現在同じ上野の二つの館で見ることができるなんて、奇跡のようです。

今日とうとう、米軍のイラク攻撃が始まりましたね。
21世紀こそ、戦争のない歴史の1ページとなることを念願していたのに、無念な気持ちでいっぱいです。




648. 東・西金砂神社大祭 さわらびY(ゆみ)  2003/03/19 (水) 23:24
> 72年に一度の茨城・「金砂大田楽」見に行きたいです・・

東・西金砂神社大祭には、八千代市郷土歴史研究会の行事として1年前から準備しましたが、交通規制が大規模で行われるため、幹事とツーリストでコースを大幅に検討しなおしています。

個人でなら、JRで、期間中臨時列車が増発されるそうですのでこのほうが便利でしょう。
ほかの方からも、メールでお問い合わせがありましたので、下記のURLをご紹介しておきます。

http://www.jrmito.com/hotnews/030124/index.html#benri

会の見学はオープンの22-23日だけですので、27-28日の水木浜の磯出式は、わたしもお友達と行けるなら、仕事休んでJRでもう一度行きたいですね。

> 最近かなりバテ気味なので行けるかな・・・
元気が一番!ぜひ行きましょう。








647. 拝見しました。 Tak [URL]  2003/03/19 (水) 21:31
こんばんは、ご無沙汰してます。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/rozarionomaria/22rozarionoseibo.htm
↑読ませて頂きました。
大変興味深い講演ですね。
沢山参考になることがありました。

大変貴重なお話を紹介してくださいまして有難うございます。
今後とも宜しくお願い致します。




646. 楽しみです みきこ  2003/03/19 (水) 21:27
72年に一度の茨城・「金砂大田楽」見に行きたいです・・
私はなぜか久慈郡が好き!
混むでしょうね。天気がいいといいですね。
最近かなりバテ気味なので行けるかな・・・




645. 『日本史をみつめた「聖母」たち』を更新しました さわらびY(ゆみ)  2003/03/18 (火) 23:16
久々に『日本史をみつめた「聖母」たち』を更新し、『「長崎ロザリオ組のマリア」=引戸裏に隠された画像のなぞ』を追加しました。
五野井先生の論文をまだこなしきれていない点もありますが、3月1日東博の特集展示と関連講演で受けた驚きがまださめやらぬうちにお伝えしたく、急ぎUPをしてしまいました。

私が高校のとき、五野井先生はまだ大学院の院生で、受け持っておられた日本史の授業よりも、ご研究の方法とその姿勢に強くひかれるものがありました。

先生から大学卒業の時、りっぱな『原色日本の美術25・南蛮美術と洋風画』という図録集をいただきました。
福井で発見のマリアの大きな画像は、この本からスキャンしたもの、引戸のマリアは講演後、控え室で見せていただいた写真をカメラで写させていただいたものです。




644. Re: 「聖徳太子」は諡号 さわらびT  2003/03/18 (火) 22:22
秋山彩香様

ご訪問ありがとうございます。コメントできるほどの知識を持ち合わせておりません。
ご興味のある方にはHPを見ていただくことにしましょう。

今週22日(土)に倉本一宏先生の「壬申の乱をめぐる諸問題」があります。お出向き可能ならメールでお問い合わせください。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/uzunokai.htm

平安期にも詳しい先生です




643. 「聖徳太子」は諡号 3 秋山 彩香(あやか) [URL]  2003/03/18 (火) 00:48
 ちなみに、邪馬台(やまと・やまたい)国(連合)とは【イ妥国(だいこく)+奴国(なら)=イ妥奴(ダイナ)国+狗奴国(旧 奴国・くなら⇒くだら)】であり、【台与(→豊)の都は、現福岡県田川郡香春町(香春岳が天の岩戸の鏡山)。祖廟は香春神社から東遷した宇佐神宮。
臺(台)=イ妥・『隋書』=大(大国主命)】
 この「台与(→豊)」が【天照大神】です。
即ち、、邪馬壹(やまいち)国(連合)・壹与(→伊予)没は西暦247年3月24日の、日の入り時の日食、また邪馬台(やまと)国(連合)・台与(→豊)立は、248年9月5日の、日の出時の日食を利用し、「天の岩戸伝説」として描かれています。

 『魏志倭人伝(通称)』に記載されているのは、【邪馬壹(やまいち)国(連合)・壹与(→伊予)の都は、《鹿児島県姶良郡隼人町姫木・加治木義博説》を支持=のちに倭国九州筑紫王朝{祖廟は高良大社(福岡県久留米市御井町)}】の方です。
ですから、敵方である邪馬台(やまと)国(連合)の方は一度しか出て来ません。
 なお卑弥呼は最初「日皇子(イザナギ)」であったと想われます。
それが、魏へ朝貢する頃には「卑弥呼=壹与(→伊予)」になっていました。
 その卑弥呼{壹与(→伊予)}を天照大神{台与(→豊)}と重ね合わせ、同一人物としています。「万世一系の為」に。後世の「皇極、重祚して、斉明」も同じ構図です。

 さて、「白村江(はくすきのえ)の戦い」の【寓喩】は、
【白=斯廬(しろ・新羅の古名・天智系)、村=田村(耽羅=藤原系)、江=高麗(物部系)】と想われます。
負けた倭国(九州筑紫・物部王朝&高麗)は、「壬申の乱」に於いて高麗王・泉蓋蘇文(大海人皇子)の下に結集し、勝利しました。

「白村江の戦い」も「壬申の乱」も、極東アジアの一大決戦だったと言えるでしょう。





642. 「聖徳太子」は諡号 2 秋山 彩香(あやか) [URL]  2003/03/18 (火) 00:42
 天智と天武は「兄弟では無い」と疑われています。「弟の天武が3〜4歳年上ではないか……」と。
 【私見】では【天智と天武は非兄弟のみならず、全くの「赤の他人」】です。

「天智天皇(中大兄皇子=葛城皇子)」=【新羅王・武烈(金・春秋)】
「天武天皇(大海人皇子)」=【高麗王、泉蓋蘇文(せんがいそぶん・いりかすみ)】

春【弘文(大伴)朝】過ぎて
夏【天武(物部)朝】来たるらし
白妙の衣【死装束】干したり【乾坤(乾=天地の天)・可汗(王)】
天香来山【高麗(香来)王・泉蓋蘇文=天武】 (巻1・28)

【寓喩訳】
天智系弘文朝がすっかり終わり、天武(物部)系になったらしい。弘文天皇の死装束があたかも天香具山に干してあるように見える、あの高麗王・天武に依って。

「表意」=【擬人(擬物)法や寓喩に依る、裏意(真意)】
 「春」=【天智(新羅・隼人)系】
 「夏」=【天武(物部)系・倭国九州筑紫王朝・上伽耶(うがや)】
 「秋」=【蘇我大王家・イ妥国(だいこく)九州豊国(百済)王朝・下伽耶(あらがや)】
 「冬」=【藤原(朝鮮半島の百済・巨勢)系】

大津皇子の父は【弘文天皇(大友皇子)・天智の長男(入り婿)】、
母は【弘文天皇妃・大田皇女(額田王=蘇我大王家の君臨者・中皇命)】です。

冬【舒明天皇(藤原鎌足・嘉摩の足らし彦・藤原系)】こもり
春【天智系】さり来れば 〜
秋山【蘇我大王家】われ【大田皇女(額田王)】は (巻1・16)

「皇極(太上)天皇」=【倭国(物部系)最後の君臨者】
「斉明太上天皇(鏡王女)」=【イ妥国最初の君臨者】
 ここでも、皇極{壹与(→伊予)}から斉明{台与(→豊)}へと、「天の岩戸(伝説)」が繰り返されています。
 『日本書紀』は「皇極、重祚して、斉明」の同一人物としている。
もちろん、『日本書紀』の欺瞞(嘘)。

『古事記』=【イザナギ・邪馬壹(やまいち)国(連合)・九州筑紫王朝・物部系の史書】
『万葉集』=【イザナミ・邪馬台(やまと・やまたい)国(連合)・九州豊国王朝・蘇我系の史書】




641. 「聖徳太子」は諡号 秋山 彩香(あやか) [URL]  2003/03/18 (火) 00:39
 お邪魔します。m(_ _)m

「聖徳太子」は諡号なのか?
存命中は「厩戸皇子」であるからして、そのように言えると思います。
 問題は「厩戸皇子がキリスト生誕話を採り入れて」、後世【平安時代の大和朝廷(梨壺)】に於いて創られた皇子名であると想われる事です。またそれは「うまこ(厩戸=馬子)」と読めるように成っています。
以下も、【 】内はいずれも【私見】

 梨壷の五歌仙(女性群)に、和泉式部、☆紫式部【(藤)紫式部・『源氏物語』の書継者=円融帝の皇后・遵子(じゅんこ)・「紫式部日記」の創作者】、★馬内侍【清少納言=藤原(旧姓・高階)貴子(たかこ)=(源)紫式部・『源氏物語』の創作者】、赤染衛門、伊勢大輔、が居ました。
 「日本紀の局と一条天皇に言わせしめた紫式部」=馬内侍【清少納言=藤原(旧姓・高階)貴子(たかこ)=(源)紫式部・『源氏物語』の創作者】の方です。
 梨壺の五人(男性群)には、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)・源順(みなもとのしたごう)・清原元輔・紀時文(きのときふみ)・坂上望城(さかのうえのもちき)が居ました。

 通説は、西暦712年成立の『古事記』も、720年成立の『日本書紀』も、『万葉集』も、この【梨壺に於いて最終編纂が為されている】ようです。
 また【『日本書紀』&『続日本紀』、以上、中国(唐)向け 対 『古事記』&『万葉集』、以上、真の史書】に成っていて、お互いが補完関係に有ります。

 さて、もしも「聖徳太子」の諡号が【大津皇子(の諡号)】だとしたら、どうなるでしょう?
私には「聖徳太子の崇峻天皇弑逆」が歴史的事実に思えます。
即ち、【大津皇子(聖徳太子)の、天武天皇(崇峻)弑逆】です。
そして大津皇子は即位(上宮法王【鳳凰】)しています。
【治世時は、西暦681年〜686年(朱鳥元号になる迄)】

二人行けど行き過ぎかたき秋山【蘇我大王家の皇統】をいかにか君【太政大臣・大津皇子】がひとり越ゆらむ (巻2・106)
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世【大津皇子の治世】とわれ見む (巻2・165)




640. 髻華の会講演会『壬申の乱をめぐる諸問題』 さわらびT  2003/03/17 (月) 23:09
3月22日に髻華の会講演会『壬申の乱をめぐる諸問題』(倉本一宏先生)があります。

壬申の乱前夜、倭国をめぐる国際情勢をどうだったのでしょう。
まさに戦争前夜の緊迫感のあるこのごろです。ストレートに結びつけるのもどうかとは思いますが、当時の為政者たちもかなり緊迫した国際情勢に立ち向かっていたと想像されます。663年の白村江での敗戦を経て天智・鎌足の政権は難局をいかに乗りきるべきか、が問われていました。さらに年を経て、・・・・

倉本先生の「天智朝末年の国際関係と壬申の乱」(『日本古代国家成立期の政権構造』吉川弘文館、1997)から要点を少し。

「唐の高句麗征討、唐と新羅の対立、唐の倭国征討計画、高句麗遺臣の反乱と新羅の結託、新羅の旧百済領侵攻、唐と新羅の開戦と、めまぐるしく動く東アジア情勢に対処すべく、天智たちはどのような外交方針を定めたのであろうか。
・・結果的に唐や新羅が倭国に侵攻してこなかったからといって、当時の倭国の人間も、唐や新羅には倭国に攻め込む余裕がなかったと認識していたと考えることはできない。663年8月28日以降の日々は、彼らにとっては「戦後」だったのではなく、いつ果てるとも知れない「戦中」だったのである。」

671年11月、唐の使郭務そう等、一行2000人が対馬にやってきます。その内訳は「唐国使人使郭務そう600人、送使沙宅孫登等1400人」とあります。この大軍の意味には諸説がありますが、倉本先生は、@沙宅孫登のもとにある1400人の大部分は白村江の敗戦による捕虜、郭務そうの率いる600人は監視・護送のための唐人であり、捕虜返還を交換条件に唐の救援のための軍隊派遣を要請したという説(松田好弘、直木孝次郎)A郭務そうは捕虜1400人に武器供給を要求し対新羅戦の兵力にしようとした(長洋一)とみる二説に近いと述べておられます。

しかし唐の出兵を拒否したとする直木、長説には反対だとのこと。その理由は・・・(ご講演でじっくり)

発売中の「週刊再現日本史 平安A」(講談社)に倉本先生のインタビュー記事が載っています。「公卿政治と「格式」編纂に見る古代国家完成への“転換点”」
9世紀、すなわち平安初期は、従来いわれてきた律令制の崩壊期ではなく、より実質的な国家作りの段階に入った、という説。こちらにもご注目。




639. Re: 下海上国の古墳を巡ってきました さわらびT  2003/03/17 (月) 22:58
香取神宮や滑川観音以外は、さほど知名度があるとは思えない見学地でしたが、多くの探訪地、急な階段の上り下りも苦にせず参加者の皆さんは熱心でした。もの好きは私共だけではないなと思わされた一日でした。

ただ、説明を受けなければ古墳とは思えないほど、残存状態がよくない地がほとんどでした。最初の見学地、神崎町の菊水山2号墳も前方後円墳だったという説明をいただかなければただの小丘にしか思えません。

下総町立歴史民俗資料館では猫作・栗山古墳群16号墳出土副葬品の石枕・立花をじっくり拝見できました。また休日にもかかわらず西の城貝塚保存館を開錠していただいたことにも感謝。貝層断面とともに住居址を見学させていただきました。

午後の探訪地、佐原市の禅昌寺山古墳も前方後円墳とされる当初の姿を想像するしかない現状でしたが、祠と鳥居が、霊の鎮魂に一役買ってるのでしょうか。大法寺古墳もその原型は失われたと聞きましたが、現在墓地に隣接していますので、古くから墓域であったのであろうか、と想像しました。

開発で失われた史跡は多いのでしょうが、それでもこのように痕跡をとどめた地は何とか守っていきたいものです。

昨日の雨は、すべての見学を終えてからでした。




638. 下海上国の古墳を巡ってきました さわらびY(ゆみ)  2003/03/17 (月) 21:55
16日は、千葉県中央博友の会の友人に誘われ、マイクロバスで下海上国の古墳を巡ってきました。
下総町〜神埼町〜佐原市香取と、古墳8基のほか寺院・古社・貝塚をめぐる考古ファンにはかっこうの見学会。
またそこはだいたい中世城郭跡でもあり、帰ってから、余語さんのHPを見ながら、復習と画像整理をしました。
神崎城(中の城貝塚がある)と岩ヶ崎城は、余湖さんのHPで納得です。
http://member.nifty.ne.jp/YOGOKUN/kouzaki.htm
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1577/iwagasaki.htm

龍正院から香取津宮あたりは、何度行っても何か新発見があるところですね。
最後に、オビシャの髭なで祭で有名な山倉の側高神社を見学し、バスに乗ったところで、我慢していたように雨が降ってきました。
Tにとっては、ひさびさの雨に降られない古墳歩きでした。(晴れ女同行のせい?)




636. 「川柳と旅と写真のホームページ」をリンクしました さわらびY(ゆみ)  2003/03/16 (日) 23:12
14日は、民俗研究家・萩原法子先生の「なぜ三本足のカラスを射るのか?」というご講演は、たいへん面白く、また100枚もの貴重なスライドも興味深いものばかりでした。

このサイトを見て講演を聴きにこられ、萩原先生のお話に共鳴されていらした方のHPをLINKページにご紹介しリンクいたしましたので、ぜひご覧ください。
題名も「川柳と旅と写真のホームページ」、房総の祭りに取材した記録写真は貴重、もちろんオビシャも載っています。
各ページに、そえられている川柳も作者のユーモアのある視点が鋭く光っています。

来週はいよいよ、八千代市郷土歴史研究会行事で、72年に一度の西・東金砂神社の大祭礼を見学に行きます。
民俗研究のファンの方、いらっしゃいましたら、ぜひ情報をお寄せください。




635. 荒久古墳は8世紀? さわらびY(ゆみ)  2003/03/15 (土) 10:40
Spangeさま、あるけ〜さま

>(終末)方墳と(初期)寺院については、岩屋=竜角寺、荒久=千葉寺の他にも、上宿=木下、墨小盛田=長熊などなど、千葉には多いですよね?

なるほど千葉県の終末期古墳と初期寺院をペアーでとらえてみると、面白いですね。
中央からの制度・文化は早く到来するのに、前時代的な遺制・慣習は根強く残ってしまう「県民性」は、弥生の土器にも、現在の県議会選挙の様子からも伺える?のではないかと思ってしまうんです。

市の看板などでは荒久古墳は8世紀、一方『房総の古墳を歩く』では7世紀方墳になっています。
千葉市の遺跡ではその道の事情通?の「あるけ〜」さんのHPのBBSをたずねてお聞きしてみました。http://www.wide.gr.jp/FreeBBS/020/chibaise.html

>荒久古墳は、最終末とはいえ、8世紀なのでしょうか。もう古墳時代じゃない?
という私の質問(No.347)に丁寧にお答え(No.353)いただきました。
昔の千葉市史の見解がそのままになっている複雑なワケがあるようで、私みたいな土素人があれっー?と感じるのも不思議でないかも。




632. 土気往還と荒久古墳の画像をUP さわらびY(ゆみ)  2003/03/13 (木) 23:27
今日は、八千代市郷土史研機関誌「史談八千代27号」を千葉県中央博ミュージアムショップに売りに行き、中央博の地学の科長で、房石研http://members.tripod.co.jp/sekiou/ の管理人「道標おやじ」様に、県内の石造物の石材について教えていただきました。
また簗瀬裕一氏の「中世の千葉‐千葉堀内の景観について」(『千葉いまむかし第13号』)の論文を片手に青葉の森公園から千葉市街地を歩き、公園内の土気往還と荒久古墳の画像を「史跡歳時記」にUPしました。
(ながーいレジュメで疲れた方へは目の保養?にどうぞ)
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/tibaaobanomori.htm
荒久古墳は現地説明板に「最終末期(8世紀代)」と書いてありましたが、谷を隔てた隣の丘に千葉寺があり、この寺の創建は瓦から8世紀前半。竜角寺と同様に、古代寺院と終末期古墳のセットなのでしょうか。




630. Re: 古墳の年代について(坂本先生のレジュメからD) 西 [URL]  2003/03/13 (木) 21:31
T様

こんばんは。

> こんなに疲れた書き込みしたのは初めてです。

お疲れ様でした。そして有り難うございます。折角の労作ですから、画面だけで読むのではなく、全部ダウンロードして、一つずつ検証しながら読ませていただきます。

それでわからないところや疑問点があれば、書かせていただきます。

それからお疲れのところに追い打ちをかけるようで、誠に申し訳ございませんが、「前方後円墳の成立」のアップも楽しみに致しております。

といいますのは、私が参加した発掘調査や分布調査のほとんどが弥生墳丘墓か出現期の古墳なのです。その関係で、今でもずっと興味があり、勉強しているところです。

よろしくお願いします。




629. Re: 自分の思考回路で さわらびT  2003/03/13 (木) 12:14
Nori様

久々の掲示板登場ありがとうございます。

>Tさん・Yさまご無沙汰でース。
>Y様の昨夏・中国報告に刺激されて今週末に渡海します。
>徐先生にお会いして、伝言は必ずお伝えします。

掲示板をお読みの方は「伝言」はわからないですよね。「メールくださいね」という程度のことなんですけど。

西安だけかと思ったら、北京も行かれるのですね。ずいぶん長い旅になるのでは?

「高句麗広開土王碑は改竄されたか」にも書いておきましたが、徐建新先生の研究の醍醐味は広開土王碑文の原石拓本の発掘にあります。

『好太王碑論争と原石拓本』(『古代史研究最前線』新人物往来社,1998年に所収)はお読みですか。
風化が進む原碑調査では得られない情報が、原石拓本にあるというのが大事な視点です。

もしお会いになられたら、よろしくお伝えください。
ではお気をつけて。有意義な旅になることを念願しています。




628. 古墳の年代について(坂本先生のレジュメからD) さわらびT  2003/03/13 (木) 00:24
せっかくですから結論部まで。

「TK47型式期の開始を503年以後とすることによって、大阪府柏原市高井田山古墳と百済の武寧王陵の年代を近づけることができる。523年に没したことが知られる武寧王陵からは、青銅製火熨斗が出土している。これと類似した青銅製火熨斗を出土する高井田山古墳からは、TK23型式の須恵器が出土しているので、TK23型式の暦年代を523年に近づけることによって整合性が生じるだろう。しかし、531年に没した継体大王の墓とされる今城塚古墳の円筒埴輪がMT15型式期とされるので、TK47型式期の開始を極端に下げるわけには行かないだろう。
以上の点から大庭寺やTK73型式を含めた揺籃期を430〜450年、TK216型式を450〜465年、TK208型式465〜485年、TK23型式を485〜505年、TK 47型式を505〜525年、MT15型式を525〜545年、TK10型式を545〜560年、MT85型式を560〜575年、TK43型式を575〜595年、TK209型式を595〜615年位の暦年代を想定したいと思います。」

こんなに疲れた書き込みしたのは初めてです。




627. 古墳の年代について(坂本先生のレジュメからC) さわらびT  2003/03/13 (木) 00:21
一気に続けます

「これらの点から鉄剣が製作されてから埋葬されるまでには、一定の期間が経過したと考える必要がある。つまり須恵器に暦年代を与えるポイントは、京塚古墳の年輪年代測定の+αや辛亥銘鉄剣が製作されてから埋葬されるまで何年見込むかにある。
その年数を考える上で重要な要素として、癸未(443か503)年の紀年銘を持つ隅田八幡宮人物画像鏡を取り上げたい。この鏡のモデルとなったのは、大阪長持山古墳・岡山朱千駄塚古墳・京都十塚古墳・福井西塚古墳・東京亀塚古墳・福岡番塚・大阪郡川西塚古墳などから出土した神人歌舞画像鏡の同型鏡と考えられている。これらの鏡を出土した古墳で最も古いのが、TK208型式期の築造と考えられる長持山古墳・岡山朱千駄塚古墳であり、最も新しいのがTK47型式期〜MT15型式期の番塚古墳・郡川西塚古墳である。人物画像鏡がそれらの古墳のいずれかの鏡を手元に置いて製作されたとすれば、癸未年は鏡が副葬されるよりも以前と言うことになる。つまり、最も早く副葬された鏡をモデルにした場合TK208型式期が癸未年より新しいことになり、最も遅く副葬された鏡をモデルにした場合MT15型式期が癸未年より新しいことになる。また、別の鏡をモデルにした場合も考えられるが、その製作が同型鏡の配布を行っていた倭王権の中枢で配布活動期に行われたと推定して間違いないだろう。同型鏡の配布時期は、最後の鏡が副葬されるまでに多少の期間があったことを考えれば、TK208型式期からTK47型式期までとみることができる。
癸未年を443年にすると、TK208型式期が443年以後、TK23型式期が443年以後、TK47型式期が443年以後の場合が考えられる。この場合には、癸未年銘鏡が須恵器の年代決定にさほど意味を持たないことになる。
一方、癸未年を503年にすると、TK208型式期が503年以後、TK23型式期が503年以後、TK47型式期が503年以後の場合が考えられる。これに合わせて鉄剣が埋葬されるまでの期間を考えると、TK208型式期の時には32年+須恵器2型式、TK23型式期の時には32年+須恵器1型式、TK47型式期の時には32年の期間が想定される。この場合、鉄剣が埋葬されるまでに最も短い期間(32年以上)を想定して、TK47型式の須恵器の開始を503年以後とみるのが妥当であろう。」(さらに続く)




626. 古墳の年代について(坂本先生のレジュメからB) さわらびT  2003/03/13 (木) 00:17
ブーイングが来る前に、坂本先生のレジュメの続きの続きです。

「稲荷山古墳の鉄剣を531年とする説は成立するであろうか。稲荷山古墳の鉄剣を531年とした場合、須恵器のTK47型式(礫槨をMT15型式期とすればMT15型式)の開始は531年以降となる。筆者のように鉄剣が製作されてから埋葬されるまでに一定の期間(20年以上)を考える立場からすれば、その開始時期は早くみても550年より遡らないと考えられる。その場合、TK47型式からTK209型式までの6型式の時間幅が6〜70年で、1型式の存続期間が10〜12年位になる。このように1型式の存続期間が短い場合には、同一住居址出土の土器が2型式あるいは3型式にわたることが珍しくないと思われるが、こうした事例がきわめて少ないのは1型式の存続期間がそれよりも長かったからと推定される。531年説が成立するためには、A辛亥銘鉄剣が墓誌のように製作されて直ぐに埋葬されたこと、B礫槨への埋葬がMT15型式期であったことなどの条件が求められよう。ちなみに、Aの場合1型式13〜15年位、Bの場合1型式12〜14年位、A+B の場合1型式14〜18年位となり、A+Bの条件が揃った場合には成立すると思われる。しかし、既に述べたように二つの条件を認めることは出来ないと考えている。
 辛亥年を471年と捉えて、須恵器に暦年代を与えるのにはどのような手続きが必要であろうか。まず、辛亥銘鉄剣が墓誌的な性格を帯びていたとしたらTK47型式あるいは、MT15型式の始まりが471年になる。しかし、TK47型式の始まりを471年とすることは、大阪府京塚古墳の年代から支障が生じる。この古墳は、円筒埴輪が川西編年Xで、出土した須恵器がTK208型式からTK23型式に移行する時期とされ、使用された木棺の年輪年代測定の結果が461+α年とされる。これらの点からTK23型式の開始時期は、461年よりは遡らないと見ることができる。α年は、木棺に使用された部分から樹木の表皮までの除去された年輪数であり、10年以上見込んで間違いあるまい。10年見込んだ場合、TK23型式の開始とTK47型式の開始、あるいはTK23型式の開始とMT15型式の開始が同時になってしまう。したがって、この鉄剣が墓誌的な性格を帯びていたことは認められないだろう。」(続く)




625. 坂本先生のレジュメ続けましょうか? さわらびT  2003/03/13 (木) 00:13
専門家でもない私がキャリアのある西さんのご発言に刺激を受け、図に乗って坂本先生のレジュメUPしました。各位にご迷惑おかけしてます。

埼玉稲荷山古墳に興味を持ったのは、桃崎先生の第46回埋蔵文化財研究集会「渡来文化の受容と展開 」(1999.8.21羽曳野市市民会館)における発表、「日本列島における騎馬文化の受容と拡散 -殺馬儀礼と初期馬具の拡散にみる慕容鮮卑・朝鮮三国伽耶の影響-」のレジュメを入手したことにさかのぼります。この発表の中で、騎馬文化の受容と拡散というメインテーマはもちろん興味大有りでしたが、馬具についての小野山編年、白石暦年代論、宮代説と韓国の研究者の批判などが書かれていました。昨年、お付き合いができた桃崎先生に私信で、問い合わせたところ丁寧なお返事をいただくことができました。せっかくですので多くの古代史ファンにも聞いていただきたいと思いましたので桃崎先生にお願いし、昨年12月の髻華の会の講演に結びついたのです。(掲示板394もご参照下さい)

先日運良く、埼玉稲荷山古墳群探訪バス旅行の企画があることを知り、しかも現地講師に坂本和俊先生のお名前があったことは、直接お話をうかがうチャンスに思えました。配布されたレジュメも、興味深かったものですから、積極的に紹介させていただくことにしました。坂本先生は「主体部」という言葉を軽々しく使うべきではなく、埋葬施設というべきであると(レジュメにも「埋葬施設」)おっしゃられました。「本当の主体部はありますか」という知ったかぶりの質問した私もちょっと反省。丸墓山古墳は本来前方後円墳として企画築造されたという考えも披露してくださいました。充実したバス旅行でした。

ところでその、坂本先生の説ですが、『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』(学生社、2001)に、報告と討論の中で展開されています。桃崎先生はご講演で「坂本和俊 1996 「埼玉古墳群と无耶志国造」『群馬考古学手帳』6 群馬土器観会」を参考文献として掲げられていましたが、手に取る機会がありませんのでこの市販本が入手しやすいと思っています。年代観についての議論も展開され、白石先生との討議も収録されていますし、長方形周溝のことや礫槨の舟形に関連した知見など勉強になることが多いです。

暦年代の根拠の部分UPしたいのですが・・・




624. 「考古学情報広場」リンクしました さわらびY(ゆみ)  2003/03/13 (木) 00:05
そういえば、ご紹介し忘れていましたが、9日にLINKページに「考古学情報広場」を追加し、リンクさせていただきました。
またTの要望でTOPにも七世紀研究会シンポジウム『武器生産と流通の諸画期』も主催者のお許しを得て、載せてあります。
「考古学情報広場」は「業界」のWEBサイトですので、このBBSも私どもは「読み取り専用」。
(Tはよく読んでいますが、もっとも私には難解すぎて、「MT15」型式期鉄製の轡などの馬具のCGと、なによりも桃崎先生の消息がうれしい?)

管理人の岡安先生には(リンクのご挨拶か、)3/11『「騎馬民族説」、こう受け止めてもらえれば』という書き込みで当HPの記事を取り上げていただきました。
「私(Y=猿)にもわかるように騎馬民族説を書いて」という要望でTが書いたエッセイです。
11月に江上波夫先生の訃報がネットで流れた時、Yahoo! JAPANニュースにこのサイトが『騎馬民族征服王朝説検討 - 学説を巡る論点。「さわらび通信」。』として載り、この日はなんだかわからないうちに、カウントが100ぐらい上がってびっくりしました。

次は(猿にもわかる)「前方後円墳の成立」について頼んでいるのですが、須恵器の暦年代についての「怒涛のUP」に熱中しているので、いつのことやら。

では、みなさま「怒涛のUP」をごゆっくりお読みください。




623. 自分の思考回路で Nori  2003/03/12 (水) 23:45
加茂鹿道様

Noriと言いまーす。
初めてですので、今日のところは軽くご挨拶程度でお許しいただきまーす。
> 今はすっかり忘れてしまいました。
> …考えなしでただ、土器実測マシンと化してやっていると身につかない
> いい例かと思います。

確かに、納得デース。自らの思考回路(フィルター)を使ってやる以外には身につかないのではと…、小生はいまだに反省しきりでーす。

気まぐれに、「さわらび通信」を覗かせていただきますのでよろしくお願いいたします。

Tさん・Yさまご無沙汰でース。
Y様の昨夏・中国報告に刺激されて今週末に渡海します。
徐先生にお会いして、伝言は必ずお伝えします。
ところで、Tさん、内助の功には感謝していますか?誰も貴兄に対してあそこまでストレートにはもの申すお方はないのですから。
なーんちゃって。ごめんね。




620. Re: 笛壷 さわらびY(ゆみ)  2003/03/12 (水) 23:08
加茂鹿道さま 
>松本清張さんの…「笛壷」という短編があります。これがハソウのことです。

「ハソウ」に「笛壷」なんて名をつけた清張はさすが文学者ですね。(「笛壷」は功なり名とげた大学教授が悪女にひっかかって学界から顛落する話らしい。Tが書斎=物置を探しにいったけれど、山のような本に埋没していて発掘できなかったみたい)

小説は、最近ほとんど読まなくなってしまいました。事実は小説より奇なりでしもの。
加茂鹿道さんの世界にもとりこになって、今日は『古代探求』と『縄文再発見』(藤田富士夫著)の2冊をバックに入れて出勤し、電車の中で拾い読みしました。
『古代探求』の「縄文土器は何につかわれたのか」はボロンテの記事
http://www7.ocn.ne.jp/~volonte/column-03-feb.html#vol.24
に関連して興味深く読みましたが、その論文と森浩一先生のエピソードが、
http://kaitaku.gaiax.com/~member/hobby/book.cgi?cmd=view&id=kamosikamiti@kaitaku
に載っていて、『もしかしたらこれが遺言になっちゃうかなとも思っていたので、森先生の激励?「こんなの書けるんやな?ワシの頭の中で一ランクアップしたで。」はとてもうれしかったです。』というのは、おもわずジーン!です。

ところで、ボロンテvol.25◆オシャレな縄文人−ケツ状耳飾り研究事始−の挿図「国府遺跡の人骨」
http://www7.ocn.ne.jp/~volonte/images/jomon-25.jpg
の写真で、耳飾と骨はわかりますが、真ん中の鐘状のものはいったいなんなんでしょう。

Tの長文の「怒濤のアップ」に埋もれないうちに書きました。
ではまた。




617. 馬王堆1号墓の烏はなぜ二本足なのか さわらびT  2003/03/11 (火) 22:52
Yが昨日の削除ミスで眠れぬほど滅入っていました。西様、加茂鹿道様の優しいお気遣いで元気になりました。私も責任を感じております。今後十分気をつけますので、皆さんよろしくお願いします。 

今週、萩原法子先生の「なぜ三本足のカラスを射るのか?」のご講演がありますが、関連した話題を。

『熊野の太陽信仰と三本足の烏』(戎光祥出版)で萩原先生は、中国の湖南省長沙の馬王堆1号墓出土の前漢時代の帛に描かれた太陽中の烏が、二本足であることに触れ、「太陽のシンボルとしての烏が三本足になったのは、前漢時代以後に普及した陰陽五行説思想の影響で、奇数を整数とすることからであろう。」と述べておられます。

射日神話ですが、萩原先生の著書から再び引用します。

「昔、太陽は十個あり、地中に住み、地中では太陽は湯沐していた。東の果ての湯谷の上に巨大な扶桑の木があり、十個の太陽は湯谷の扶桑を次々に昇って、一日ずつその梢から天空へ旅たち、西の果ての蒙谷に沈み、地の下(水中)をもぐってほとぼりをさまし、再び湯谷に帰っていた。太陽にはそれぞれ烏が住んでいて、樹上から飛び立っていた。ある時、十個の太陽が一度に空をかけめぐった。大地の草木はみるみる焼けこげ枯れてしまった。帝は弓の名手・羿に九つの太陽を射落とすように命じた。名人の手練に仇矢はなくて、九つの太陽にいる九羽の烏を射落とし、地上の人々は焼死をまぬがれた。(「山海経」「淮南子」ほか)」

さてここからです。湖南省長砂の馬王堆1号墓の烏はなぜ二本足なのか。萩原先生は「陰陽五行説思想」の影響を指摘されました。納得はしたもの、ただ、妙に物足りなさを感じておりました。

ニフティの歴史フォーラムを徘徊しておりましたところ、「どんたく」氏の推理を見つけました。別の疑問もあるというのです。

この帛画には二本足の烏が住む太陽が上端に描かれ、その下の曲がりくねった樹枝に8個の赤い円(太陽)が描かれています。太陽が一つ足りないのです。

「どんたく」氏によれば、現在の中国で有力な説があるそうです。(何介均・張維明『馬王堆漢墓のすべて』)
馬王堆1号漢墓の帛画については、「帛画にある9個の太陽は夜間に休息中の太陽である。そのうちの1個は務めを交替する準備に入っている。既に任務を負っている太陽はまだ帰ってきていない。」

この続きは下記をご覧ください。
http://bbs1.nifty.com/mes/cf_wrent/FREKISHI_B002




616. 『房総の古墳を歩く』の本紹介に感謝 さわらびY(ゆみ)  2003/03/11 (火) 21:42
> > 駄ノ塚古墳って場所はどこですか?
>  所在地や接近路(行き方)などは、『房総の古墳を歩く』
> が使いものになると思います。

はじめまして。管理人のゆみです。
『房総の古墳を歩く』のご紹介とアドバイスをありがとうございます。
芝山町はにわ博物館友の会で実に良いガイドブックを作ってくださったと、感心して見ています。
北総では、無名の古墳や中世古城址が開発でどんどんなくなっていきました。
この本に八千代市内の古墳がないのが残念ですが、市内の村上団地の下にもかつて大きな古墳があったのです。
現地説明会や公園化した古墳も楽しいのですが、いつまでもヤブこぎ覚悟の未調査の古墳をこのような本で紹介し、少しでも残していくのも、歴史好き市民の使命だと思いました。

(今週末、佐原と神埼の古墳を歩きます。この本を持って行くのを忘れないようにしよっと。)

ところでSpangeさん、よろしかったら自己紹介をどうぞお願いします。




614. Re: 西様ごめんなさい 西 博孝 [URL]  2003/03/11 (火) 10:12
さわらびY様

内容のない私のレスに気を遣っていただき、却って恐縮致しております。またわざわざ別にメールまでいただき、有難うございます。どうかお気になさらないようにしていただきたいと思います。あのレスには誤字・脱字が多く、T様へのお礼も書いていなかったので、直そうかなと思っていたところです。

加茂鹿道様
改めて、初めまして、西でございます。100個の土器を実測するというのは大変だったと思います。昔、都出比呂志先生が弥生土器の編年を知りたければ、100個の土器を実測すれば理解できるといつもおっしゃっていたことを思い出しました。
加茂鹿道様もおっしゃっているように100個も実測すれば、極端な場合、破片を見ても、破線部分も見えてくるようになりますよね。

さて、陶邑の編年についてですが、生産遺跡での編年の重要性を最初に説かれたのは森浩一先生で、それを実際の窯跡遺跡で追求したのが田辺昭三先生、中村浩先生です。田辺先生の場合は、主に形態変化の顕著な蓋坏を中心に編年がなされ、その後窯の操業回数をも考慮に入れ、セット関係にも配慮して、中村先生の編年がなされました。

奈良盆地西部の古墳出土の須恵器をつぶさに見ていますと、なかなか編年基準資料に載っていない須恵器が多いことも事実です。このような経験が背景にありまして、これまであまり問題にされていなかった消費地の出土資料から編年を見直すのもよいかなと素人考えで思った次第です。横穴式石室でも単次埋葬や粘土槨に一括で副葬された須恵器資料もありますので、このような作業も少しは意味があるのではないかと思っています。

さわらびT様
ニューマシンで怒濤のアップ、有難うございます。お手数がかかるとは思いますが、いつも楽しみに拝見致しております。




613. Re^3: TK209の須恵器(白石先生の論考から)@ さわらびY(ゆみ)  2003/03/11 (火) 01:16
西博孝様、加茂鹿道様
先ほどはたいへん失礼いたしました。
「Tの長文にレスをありがとう」という自分の返信もてんやわんやで消してしまい、改めて気を取り直して書きます。

私はTの文章より、モノか写真か図を見たほうが早そうなので、歴博で撮った駄ノ塚古墳の出土品をひたすら見ています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/danoduka.jpg

確かにこの中の3つの須恵器(脚部に2段透かしのある有蓋高坏)は同じ規格品のようですね。
加茂鹿道様の「法量だけ正確にはかり、・・・とうとうTK209だけは目をつぶっても書けました」とか、西様の先の書き込みの「弥生末はみな同じ?」ということは、なるほどと思いました。
これに比べると、縄文は同じようでもひとつひとつに個性があるように感じられますが…

左が「台付の大きなハソウ」ですね。
講演会でよく聞く「ハソウ」、漢字では瓦に泉と書きますから、きっと真ん中の穴に管を入れ、急須かやかんのように使ったのでしょうか。(お酒をいれたの?)

馬具の編年や古墳の築造時期の確定に須恵器の研究は不可欠なことはわかりました。
国家形成の重要な時代のことですから、管理人として(わからないなりにも)勉強していきたいと思っています。
Tの文章だけでは私には理解が困難ですが、皆様の討論で少しずつポイントがつかめてきたような気がします。(Tのやっと自分の関心事に応じていただけて、幸せものです)
今後ともよろしくご指導をお願いします。



611. Re: ウィルスにご注意!! さわらびY(ゆみ)  2003/03/11 (火) 00:03
> 突然ですが、3月10日付けで「sawarabi y.」さんからのメールで私あてにウィルス・wormのファイル付きメールが送信されて来ました。即削除済みですし、こちらは幸か不幸かマック機なので、問題ありませんでした。が・・・。
> 差出人と宛先の組み合わせは、こちらの掲示板以外には該当するモノがないので、ひょっとしたらこのルートがナニモノかのターゲットにされている気配かと、思われます。もちろん「さわらびさん」が発信された訳ではないと承知しておりますが、他にも同様のメール受信者が出る可能性もあるかと、あえて、お知らせしておくことにしました。悪しからず。

おしらせありがとう。
実は、10日夕方わが家にも3つの添付つきのへんなメールが来ていました。
その添付ファイルひとつには、higasimurayama.city というつづりがありました。
きっと、私のアドレスを使ってワームウイルスが発信され、そのうちあて先不明なのが、「差出し人」のうちにも戻ってきたのでしょう。

わが家もNIFTY MANAGARなので感染しませんが、アウトルックを使っておられる方は、添付を絶対に開けないようにしてください。



610. ウィルスにご注意!! ありんこ  2003/03/10 (月) 23:42
さわらびY様

どうしようか、と思いましたが、お知らせします。

突然ですが、3月10日付けで「sawarabi y.」さんからのメールで私あてにウィルス・wormのファイル付きメールが送信されて来ました。即削除済みですし、こちらは幸か不幸かマック機なので、問題ありませんでした。が・・・。
差出人と宛先の組み合わせは、こちらの掲示板以外には該当するモノがないので、ひょっとしたらこのルートがナニモノかのターゲットにされている気配かと、思われます。もちろん「さわらびさん」が発信された訳ではないと承知しておりますが、他にも同様のメール受信者が出る可能性もあるかと、あえて、お知らせしておくことにしました。悪しからず。

ところで、お元気ですか。相変わらずのご活躍ぶり、時々ホームページをお訪ねしてます。すごいエネルギッシュですね。

この書き込みは、ない方が良いとご判断なさったら、すぐに削除していただいて結構です。では、また。





606. 新マシンではじめて書き込みます さわらびT  2003/03/09 (日) 23:38
西博孝様、加茂鹿道様

レスがついたおかげで抹消を免れました。(^-^)
須恵器のことなど素人の私には皆目わかりませんが、たまたま先日の史跡探訪にちなんでいた偶然です。

OfficeXP搭載のSOTEC、99,000円という目玉商品を2週間待ちで入手、今日はセッティングの1日でした。Windows95を98にバージョンアップした旧マシンとはこれでさよならです。かなり無理させたかも。お疲れさま、ですね。
実はバックアップを取りそこなったものもあるのですが、諦めがついてましたのでかえって無駄な時間を省けたかも知れません。

昨日は歴博で杉山晋作先生によるはにわ展の関連講演があり出かけました。はにわは、たたる?、性を見分けるのは意外とむづかしいなど、面白いお話満載でした。余談ですが、昨日司会をされた藤尾先生が4月の「シルクロードの会」で講演されます。

掲示板590に坂本先生のレジュメを引用していますが「長沼律朗氏」とあるのは「永沼律朗氏」の誤りのようです。(桃崎先生のレジュメには「永沼律朗氏」となっていました)

いくつかシンポジウムのお知らせなどUPしましたので、もし関東へお出向きのご予定があればとのご参考まで。
むしろ私が橿考研へ行く予定を立てる方がいいのでしょうが・・・




604. Re: TK209の須恵器(白石先生の論考から)@ 西 博孝 [URL]  2003/03/09 (日) 20:10
さわらびT様

白石先生の膨大な論考を入力していただき、有難うございます。白石先生が呈示されている資料を再度見ながら勉強したいと思っています。感謝致しております。

TK209の問題は、前に少し書きましたように複数の埋葬であるにもかかわらず、単一型式の土器しかない、またこの段階の埋葬があまりにも多すぎて、何か変だなあという漠然とした感覚がありました。それと窯跡資料からの編年も逆に消費地からの見直しや消費地ではどのようなセット関係であるのかという作業も必要ではないかと考え始めていたためです。

それと段ノ塚古墳出土の土器の写真のアップしていただき、有難うございました。早速拝見させていただきました。台付の大きなハソウが出ているのですね。それと脚部に2段透かしのある有蓋高坏、これらがTK209型式とされているのでしょうね。勉強不足でよくわかりませんが。

これからもいろいろとご教示いただきたいと思います。今後ともよろしくお願い致します。






603. お情け、ありがとう さわらびT  2003/03/09 (日) 00:13
みきこ様

お情けかけてくださりありがたき幸せ。

>駄ノ塚古墳って場所はどこですか?
> 岩屋古墳は1年ほど前に行ったことがあるんだけど・・蘇我氏との関係もありとかの説もあるらしいけど・・同じ方墳だとどうなんでしょう?わたしは群馬の方墳の関係なのかと単純に思っていた・・面白そうな古墳ですね!

千葉県山武郡成東町の板附古墳群です。といってもわかりませんよね。整備されていないので、バスツアーのおかげで連れて行ってもらいました。画像を掲載しているサイトがありました。

http://www.interq.or.jp/japan/kofun/tofuken/tiba/tiba.htm

当日は成東町歴史民俗資料館を拠点に雨の中、見て回りました。この資料館ですが、伊藤左千夫生家が隣接しています。2階の展示室に「長塚節宛・蕨真一郎宛書簡」など展示されているのも興味深く見せていただきました。
肝腎の駄ノ塚の出土物は調査した歴博にあります。先ほどYがUPしてましたね。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/danoduka.jpg

古墳終末期、大化改新前夜のころの首長たちの様相を知るという興味を背景に書き込んだものの、顰蹙をかってしまいました。




602. 興味ありです! みきこ  2003/03/08 (土) 22:15
Yさま
そんなに怒ったらTさまがかわいそうですよ!
加茂鹿道(隊長)さまと立山連峰で盛りあっがたせいか、この季節では本当に珍しく、曇り空なのに立山連峰がその雄姿を見せて出迎えてくれました。感動!感動!
でも寒かったー。
合間をみて富山城内にある佐藤記念美術館で「海を渡ったやきもの」展を見てきてしまった。
鎌倉から同じような陶片が出ている緑釉鳳凰文綾花皿とか、青磁、白磁とかきれいでした。おまけにはじめて見た南北朝時代の国東塔とかもあって時間を有効に使ってきたのだ・・・
 
駄ノ塚古墳って場所はどこですか?
岩屋古墳は1年ほど前に行ったことがあるんだけど・・蘇我氏との関係もありとかの説もあるらしいけど・・同じ方墳だとどうなんでしょう?わたしは群馬の方墳の関係なのかと単純に思っていた・・面白そうな古墳ですね!