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1000. 残暑 mwara  2003/09/11 (木) 23:33
ゆみ様
ここ1週間は夏日で猛暑、冷夏が信じられないですね。米にも影響は出ているようですが、収穫は落ちると思います。実の入りが悪いといっています。ところで、韓国の旅如何でしたか。陜川 玉田古墳群を見ていましたら千葉県の風土記の丘古墳群を思い出しました。最近、夢はあまり見なくなりましたが、写真は夢を見させてくれます。




999. Web友の「月に火星が大接近」の写真紹介 さわらびY(ゆみ)  2003/09/11 (木) 19:32
あの冷夏はどこへ行ったのやら、遅れてきた猛暑にふうふうですね。
といっても、仕事も本格稼動して、夏休み気分でもないし・・・

月に火星が大接近ですって。中秋の名月も、アツそう。
そう思っていたら、Web友のサイトで、すてきな「大接近」の写真に接しました。写真のプロの腕前をご紹介します。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~W730688M/warasan4.htm

waraさんの「我家の花壇情報」の花の写真も、いつもながらすてきですね。




998. Re: 宝冠弥勒推理第二段 さわらびY(ゆみ)  2003/09/08 (月) 00:48
> 褒めていただいたので調子に乗って推理第二弾・・・

どうぞ、どうぞ・・

> 楠で作られていたのは、背板だけではなくて、腰の下のほうの綬帯もなのですよね。

岩崎先生の20年前の論文では、広隆寺の半跏思惟像が彫刻に適さない赤松材で作られている謎を、「特殊な弥勒の構造が鍵」とほのめかされていますが、その後判明した「背板と綬帯だけ楠材」というのは、さらに難しい謎ですね。

「なあーんにも知らない私」の推理は、韓国に自生しない貴重な楠材を日本や中国南部から持ってきて、あえてそこだけ使ったということ。舟やお棺の材料としては、なければ輸入していたでしょうし。
楠(樟)には、香りと防虫効果のほか、カンフル剤が得られる事など古来から霊木としての信仰もあったのでは?(薬剤師としての推論です)
いずれにしても韓国中央博の金銅半跏思惟像より古様の点から推古30年に新羅から将来されたという岩崎先生の説とは、矛盾しないような気がします。

> ゆみさまのお話(弥勒とキリスト教)もとてもおもしろかったです。
弥勒信仰は上生下生の教義から、彼岸(あの世)の平安と、現世への救世主の来臨、変革の思想性、慈愛などキリスト教の教えと共通する点があるような気がしています。

今、慶州のルポで、弥勒信仰を軸に新羅と花郎と半思惟像の関連を書きたいと思っています。

さてどうなることか、一日36時間あるといいのですが・・・




997. 藤ノ木古墳出土馬具について桃崎先生の講演会を拝聴してきました さわらびY(ゆみ)  2003/09/07 (日) 23:07
本日は、午後「市民の古代研究会・関東」主催の桃崎祐輔先生の充実した講演会を拝聴させていただきました。
「斑鳩藤ノ木古墳出土馬具の再検討−3セットの馬装が語る6世紀末の政争と国際関係ー」
というテーマで、工芸技術の集大成というべき藤ノ木の飾馬具は東アジア最高とのことで、さすがその内容と情報も豊富でした。
今回の講演では、藤ノ木古墳の馬装について類例との比較を原点から位置づけをされ、その時代の国際関係や被葬者に迫るお話は、興味深かったです。
主催者のご苦労で前回と前々回のりっぱな講演集も刊行され、今後のご研究の成果が稔りつつあることも楽しみです。
今回は、加耶新羅の旅行の直後でしたので、朝鮮半島を巡る遺跡名や出土物の固有名詞も、耳になじんで聞けました。やはり百聞は一見にしかずですね。

11月には、土浦の「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」で中世律宗寺院の土浦般若寺についての講演会も予定されているとお聞きしました。
こちらも楽しみにしていますが、今は調査や執筆で寸時のお暇もない忙しさとか。
またゆっくり、ご教授いただける日を気長にお待ちしています。




996. 北漢山の真興王巡狩碑を見ました さわらびT  2003/09/07 (日) 22:12
今日は久しぶりに桃崎先生の講演会があることは承知していたのですが、やむをえない事情で断念しました。このご講演についてはYが書くでしょう。

韓国の旅のレポートの続きです。旅の3日目は朝から慶州への移動でした。最初の訪問は、慶州博物館。見どころ満載で、雁鴨池博物館もありましたし、一通り見回ってから、統一新羅展の会場へ。そこには北漢山の真興王巡狩碑が鎮座してました。感激でした。

昨年3月〜6月、歴博で「古代日本文字のある風景」が開催されました。多くの韓国からの文字資料の出品がある中で、北漢山真興王巡狩碑は拓本があり、その建碑された光景のパネルを見ました。それから1年半後、実物の巡狩碑に会えるとは思いもしませんでした。風化から守るためなのでしょうか、本来あるべき場所には史蹟を示す記念碑に置き換えられているようでした。

この真興王の時代こそ加耶にとっても運命の時代だったのです。新羅にとっては領土拡張華々しい時代です。

いつものような、にわか勉強で知りえたことですが、真興王の即位は数え年7歳、初めは母が摂政したといいます。在位は540〜576年、皇龍寺の着工が553年で、その巨大な伽藍を私たちは見ることになります。仏教国だったことの象徴でもありますし、この真興王の時代は、領土の拡大作戦が挙行されたことでも特筆される時代のようです。しかも中国とのルートになりうる西海岸を目指し、552年、高句麗と百済の戦いに割って入った状態で、漢山城一帯を占領したのです。現在のソウルの地が新羅の領土になったことになります。そのモニュメントが「北漢山真興王巡狩碑」です。

また有名な戦士制である「花郎」の活躍した時でもあリます。大加耶の滅亡は562年、花郎の戦功があったからこそ、新羅が勝利した、と考えると最初の私たちの訪問地であった加耶に思いをはせると複雑な心境になります。

私が対面した北漢山真興王巡狩碑と並んで、有名な真興王の碑には、「磨雲嶺碑」「黄草嶺碑」があります。この二碑は、高句麗との境界を押さえています。

北漢山の建碑は568年ごろだそうです。ソウルの北、北漢山の山頂にの巨岩の上に立っていたのですが、1816年に発見、実物はソウルの中央博物館に収蔵されているのですが、今回は、統一新羅展の目玉として出品されたもののようです。
(中央公論社刊、世界の歴史6『隋唐帝国と古代朝鮮』武田幸男氏執筆分を参照しました。)




995. 宝冠弥勒推理第二段 まさみ  2003/09/07 (日) 00:48
褒めていただいたので調子に乗って推理第二弾・・・
楠で作られていたのは、背板だけではなくて、腰の下のほうの綬帯もなのですよね。背板ははずれる、綬帯のあたりは非常に細かい細工です。どちらも壊れやすい・・・。輸入の途中で壊れてばらばらになるということはよくあることです。ちょっと位の破損であれば修復可能ですが、ばらばらになったら、ある材料で修復するしかないですよね。案外こちらが妥当かもなどと考えてもいます。ああ、楽しいなぁ。(^_^)

>弥勒信仰が流行したのは一時期だそうです。そうですよね、56億7千万年後を待つというのもキビシーですからね。しかし広隆寺の宝冠弥勒は今でも我々をひきつける魅力を持ってますね。

弥勒の世はなんだか楽しそうですね。
ゆみさまのお話(弥勒とキリスト教)もとてもおもしろかったです。またご教示くださいませ。




994. Re: 広隆寺宝冠弥勒 さわらびT  2003/09/06 (土) 23:13
昨日は懇親会も楽しかったですね。広隆寺には大変ご関心のあるまさみさんですから、興味は大ありだったかと思います。

宝冠弥勒をネットで見るなら「飛鳥園」のサイトがいいですね。

http://www.askaen.co.jp/sample/butuzou/butuzou_f.html

新羅の石窟庵などで素晴らしい仏像に接してきましたが、普段はあまり仏像のことを考えることはありません。私には刺激的なお話でした。テーマの宝冠弥勒は小川晴暘、小川光三氏の写真でも有名ですし、その昔、魅力に取り付かれた京大生が近づきすぎて指をおってしまったというエピソードもなるほどと思わせます。

> 先生はわたしたちにも、推理の余地をあたえてくださいましたね。

古代史って結論は出しにくいですよね。確かに推理の余地はあるわけで、ご専門の先生方はそのための材料を提供してくださると言うか・・・

問題の点を、岩崎先生の論文から引用します。(「相貌端厳な仏像と宝冠弥勒の美」東京成徳大学研究紀要、2003)
「厳密に言えば、背中と後頭部および左脚前面に内刳りのために窓を開け、そこに別材(クスノキ)で蓋をしていることがわかった。」(注として、山崎隆之「弥勒菩薩像の技法と工程」『魅惑の仏像 京都広隆寺弥勒菩薩』毎日新聞社、2000をあげておられます。参考まで。)

岩崎先生は、半跏踏み下げで指をほほに当てる姿は不自然だと実演されました。自分でもやってみましたが、組んだ足の裏を天を向けるは確かに難しいです。内部をくりぬいたあとにはめ込む背板の材が、一木造りの像本体と違うというのは、ちょっと不思議な気がしました。まさみさんは、さすがですね。柔軟な推理力に感心!私の堅苦しい頭はよく働きません。

ご講演で、明治37年の修理前の写真をスライドで見せていただきましたが、ぼてっとした感じで、ぜんぜん印象がちがいました。

弥勒信仰が流行したのは一時期だそうです。そうですよね、56億7千万年後を待つというのもキビシーですからね。しかし広隆寺の宝冠弥勒は今でも我々をひきつける魅力を持ってますね。

私は、「聖徳太子」・秦氏の関連で広隆寺の創設縁起には興味がありますが、桓武天皇の時代、都が移ったのは秦氏ゆかりの地との関連だともいわれることも面白いと思います。本尊が薬師如来になったのは乙訓社で作られた神像だったという説もありますし(川尻秋生「内閣文庫所蔵「広隆寺縁起」について」)・・・広隆寺自体が謎の寺なんですよね。




993. 宿題終った!? さわらびY(ゆみ)  2003/09/06 (土) 18:32
あるけ〜さま、まさみさま、みなさま
ご無沙汰?して申し訳ありませんでした。

>Yさんは論文執筆で奮闘中だそうで。

論文なんて、そんなすごいものじゃありません。
八千代市郷土歴史研究会の秋の郷土史展のとき発刊する「史談八千代」の原稿で、〆切をなんとかクリアーしました。

毎年恒例の「夏休み自由課題」の宿題をやっと済ませた気分で、はれて明日の午後は、お誘いいただいた「市民の古代研究会・関東」主催・桃崎祐輔先生の講演会「斑鳩藤ノ木古墳出土馬具の再検討」を聞きに行けそうです。
http://www.k2plan.net/kouko/contennts/tokyo.html

> 岩崎和子先生の「宝冠弥勒は朝鮮渡来か」は面白かったですね。推理の余地をあたえてくださいましたね。

ほんとうにそうですね。そろそろ、旅日記の新羅編を作り始めようと思っていますが、慶州で見た半跏思惟像を考察する参考になりました。

楽しい歴史の謎解きはこの先も「永遠」ですね。




991. 広隆寺宝冠弥勒 まさみ  2003/09/05 (金) 23:04
さわらびご夫妻はまだ電車の中でしょうか?
きょうはありがとうございました。岩崎和子先生の「宝冠弥勒は朝鮮渡来か」は面白かったですね。
先生はわたしたちにも、推理の余地をあたえてくださいましたね。内容についてはきっとTさまが書き込んでくれるので、わたしの感想のみ書き込みます。
今日のお話をお伺いして、この仏像の作者(仏師)について考えてみました。
背板の材質が違うということで、この作者は見積もりをあやまったのでは、と思われます。そして、(手に入らなかったならともかく)材質が違うもので、継ぎ足している。(プロとしては普通はなるべく同じ材を使うでしょうね。そうでもないのでしょうか?)
これらのことから、まだ若い仏師の作なのではないでしょうか?
しかし、あれだけのものを作っているのに、材の点では「無念」だったのではないでしょうか?ホーラ、弥勒さまは泣いておられる・・・。(^_^)




990. Re:Re: 加耶史跡めぐりのページ拝見しました あるけ〜@千葉市の遺跡を歩く会 [URL]  2003/09/04 (木) 23:51
こんばんわ

ダッタン語説とははじめて聞きました。
中央アジア起源ですか。壮大な説ですね。

>あるけ〜さんの「多羅」説の方が身近に感じられます。
こりゃどうも。
根が単純なもので、ただ思いついた疑問をかいてしまいました。
後から考えてみると、「た」+「多羅」で頭にくっついている「た」を
説明しなければ、どうにもなりませんでしたね(笑)

Yさんは論文執筆で奮闘中だそうで。
すごい論文ができますよう
がんばってください!

989. 「古代氏族の実態−『新撰姓氏録』を読む−」スタート さわらびT  2003/09/04 (木) 00:11
加藤謙吉先生の「古代氏族の実態−『新撰姓氏録』を読む−」がスタートしました。
熱心に耳を傾けてくださる皆さんのおかげで、気持ちよくはじめれれました。
はるばるお越しいただいた開田さん、一方的に話しかけただけになりましたが、ご満足いただけましたでしょうか。

今回の募集は11月までですが、12月以降も続ける予定です。ご希望の方はお問い合わせください。

せっかくですから、加藤先生のお話のサワリをちょっと・・・

「『新撰姓氏録』は、私自身が面白いと考えているだけで、若い研究者の人たちは『新撰姓氏録』って何だという反応を示すことが多いです。
 弘仁6年(815)、つまり9世紀初頭嵯峨天皇の時代に編纂された1182の氏族の本系を収録したのが『新撰姓氏録』です。残念ながら新撰姓氏録として現在伝わっているのは完本ではなく、弘仁6年(815)とは時期を隔てない頃に作られたダイジェスト本です。原本は中世までは残っていましたが、鎌倉幕末、室町南北朝動乱期に完全に姿を消しました。
 しかし原本の逸文が残されており、現在の氏族研究の大家である、佐伯有清先生と神宮皇學館大学の田中卓先生が凌ぎをけずる形で研究・発見をされておられます。まだ目にふれられていないような史料が隠されています。」




988. Re: 加耶史跡めぐりのページ拝見しました− さわらびT  2003/09/03 (水) 23:39
あるけ〜様

いつも見ていただきありがとうございます。
Yは『史談八千代』の原稿〆切に間に合わせようと奮闘中!

> 「多羅」という地名も何か、日本のなにかと関係ありそうな。
> 製鉄の「たたら」とは関係ないんでしょうか。

加耶と言えば「弁辰の鉄」が有名ですから、「多羅」と「たたら」は関係ありそうにも思いますね。

まったく不案内で、どなたかに教えていただきたかったのですが、助け舟はありません。最近文庫になった窪田蔵郎氏のダッタン語説がらの引用をひとまずします。

「満蒙およびシベリアの鉄器文化もきわめて古いものがあり、製鉄技術の源流地とされる中央アジアを追われたトルコ系民族の突厥、つまりダッタン人が、放浪のまにまに鉄器をひろめていったものであるといわれている。そのような点から、ダッタンの語源、塔塔児(タタール)が転化してわが国の製鉄炉のタタラ(高殿)になったともいわれているほどで、馬に蹄鉄を装置することも彼らの発明といわれている。」(窪田蔵郎『鉄から読む日本の歴史』講談社学術文庫、2003年より)

よく分かりませんが、あるけ〜さんの「多羅」説の方が身近に感じられます。朝鮮半島に製鉄技術の伝わる過程で残った名称だとしたら面白いですが・・・・

今回の旅行ですが、鉄中心に考えてもよかったです。

村上恭通先生がに玉田M3号墳出土の棒状鉄製品のことにふれ鉄艇以外の鉄素材候補として述べられてます。(『倭人と鉄の考古学』(青木書店、1999年))

その村上先生ですが、今月19日に渋谷で講演されます。これまた楽しみですが、聞いてみましょうか。




987. 加耶史跡めぐりのページ拝見しました− あるけ〜@千葉市の遺跡を歩く会 [URL]  2003/08/31 (日) 23:23
さわらびさん、こんばんわ−
加耶史跡めぐりのページ、拝見しました。
金官加耶(加羅だったか)・・・学校の副教材の歴史地図で
はじめて見たとき、不思議な国名だなぁと思ったのを思い出しました。
「多羅」という地名も何か、日本のなにかと関係ありそうな。
製鉄の「たたら」とは関係ないんでしょうか。
所変わればで古墳の遺物も違うんですね。おもしろいです。
お天気はあまりよくはなかった(祟り?)ようですが、
かえってエキゾチックで美しい画像に気が晴れ晴れします。
続編の新羅編も期待してます!




986. Re: 講演会『遣唐使のみた中国』 まさみ  2003/08/31 (日) 22:58
まさみです。やっと子供の夏休みに宿題も終わってほっとひといきです。
Tさま、昨日はありがとうございました。楽しかったですね。
> 今日は、講演会『遣唐使のみた中国』の講演(講師:お茶ノ水女子大学教授 古瀬奈津子氏 会場「東京芸術劇場中会議室」)を拝聴しました。

そうですね、今まで考えていたイメージとだいぶ違うお話で、目からうろこでした。

帰りましてから、子供たちに「遣唐使」の「レアな情報」について、無理やりに講義しました。(笑)
子供たちはいたく感心、わたしは至極満足。(笑)
謁見については今も昔もやっていることはあまり変わらないんだねぇ、と感心しつつ、「教科書だけの遣唐使」が身近に感じられたようでした。

> 古瀬奈津子先生、素敵な方でしたね・・・まさみさま。

講義も面白かったですが、古瀬先生はほんとにとても素敵な方でした。わたしはファンになりました。(^_^)




985. 山尾先生の新刊 さわらびT  2003/08/31 (日) 22:10
山尾幸久先生の新刊があることを知りました。山尾ファンとしてはまた新たな贈り物をいただいた思いでいます。

『古代王権の原像』(学生社、2003年9月発行)

昨年の3月、韓国釜山の東亜大学での集中講義のノートとのことです。山尾ファンとしてはまた新たな贈り物をいただいた思いでいます。とりあえずご紹介です。

「学問の真髄について、紀元前500年頃、孔子は「憤」(高ぶるこころ)と言った。紀元前250年頃、荀子は「志」(こいねがうこころ)と言った。「憤」も「志」も精神的な気迫である。今日風に言えば「問題意識」といったところであろう。社会のあり方についての理想がなければ、知的生命四、五十年を費やしても悔いが残らないような、過去の研究などできるものではない。また、研究の結果は、目の前のやるかたない現実への、本質的な批判でなければならない。孔子の「憤」や荀子の「志」はそれを言いあてている。」

この本からはこれからも、時折引用することになると思います。

前方後円墳成立の歴史的背景として神仙説を考える説を支持する、と書いておられるのにも興味深々です。(140ページ)

前方後円墳の外形の成立についてはもう発言しないとされますが、寺沢薫先生は山尾先生のその説を(『旧版 魏志倭人伝』)『王権誕生』で取り上げておられます。その寺沢先生に、山尾先生は過去の自説を恥じておられるのではないですかと、お尋ねしたことがあります。この問題については、私も考えているところなので、山尾先生の今回の問題提起(岡本健一説の検討)には大変興味があります。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kohun.htm




984. 「玉田古墳群」をUP さわらびY(ゆみ)  2003/08/31 (日) 08:06
加耶第2日目PMの「玉田古墳群」をUPしました。




982. 講演会『遣唐使のみた中国』 さわらびT  2003/08/31 (日) 00:04
今日は、講演会『遣唐使のみた中国』の講演(講師:お茶ノ水女子大学教授 古瀬奈津子氏 会場「東京芸術劇場中会議室」)を拝聴しました。
昨年、西安を訪問したので、できればこの講演会が出発前にあったらずいぶん参考になったのに、と感じました。

遣唐使は文化使節的な役割、つまり文物や制度法を持ち帰ったというわけではなく、外交関係を結ぶことにあった論じられました。
則天武后以来、使用された大明宮には、養老・天平の遣唐使たちが赴いたであろうけれど、太極宮も見聞した可能性はあるわけといわれます。それらは奈良時代の宮城造営に少なくない影響があるとされます。(「遣唐使の見た中国」吉川弘文館、2003年 参照)

その大明宮含元殿ですが、昨年訪問したときはまだ復元作業中でした。もう完成したのでしょうか。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seian.rakuyou/22seian/22gangenden22.jpg

古瀬先生は復元前の写真をご著書に載せておられます。復元完成後の写真を入手しておられないとのことでした。

その復元ですが、龍尾道が殿の南面中央ではなく、殿堂の両側に設けられていた。殿前広場の平地から両閣内側の坂道に沿って、3層の基壇を迂回して殿上に至る。このことから平城宮の大極殿両側にある斜道の謎が解けたとされています。(『日中古代都城図録』クバプロ、2002年など参照)

また次のサイトも参考になります。(『唐大明宮含元殿跡再発掘と再検討』安家瑶 中国社会科学院考古研究所 研究員)

http://www.nabunken.go.jp/hukyu/koukaikouen/kokusai-kouen/kiroku/an.pdf  

古瀬先生のご著書では172〜173ページ、1973年ふきねん氏の復元(人名ですが文字化けしそうなのでカナにしてます)、それに対する楊こうくん氏プランがあり復元図が載ってます。後者のプランをもとに復元がされたように思われますが、論議があったとも聞いています。ご存知の方はお教えください。

古瀬奈津子先生、素敵な方でしたね・・・まさみさま。




981. Re: 初めまして。 さわらびY(ゆみ)  2003/08/30 (土) 19:11
秦腔好人さま
いらっしゃいませ。リンクありがとうございます。
今は、この夏訪ねた釜山・慶州の紀行HPを作っているところ。
そういえば西安に、古代の都城址探索の旅に行って、もう一年もたっていましたね。
西安演劇の「秦腔」については、初めて知りました。
おととし北京では京劇を観劇しましたが、西安でも古典的な演劇があったのですね。
(現代的にアレンジした唐の歌舞ショーではなく、「秦腔」を見ればよかったのに・・・)
それにしても、中国歌舞の技はすごいです。
貴兄のご研究の発展を期待します。




980. 初めまして。 秦腔好人 [URL]  2003/08/30 (土) 15:50
どうもはじめまして。西安演劇紀行の管理人の秦腔好人(通称)と申します。ALA!中国で貴サイトの存在を知り、大変面白く拝見させていただきました。先ほど貴サイトへのリンクを張らせていただいたのですが、宜しかったでしょうか。

私のHPは西安で廃れつつある伝統演劇・秦腔(しんこう)のPRのために、西安の各劇団や陝西省文化庁などとの協力の下に建設したものです。開設してまだ間もないので、まだまだ完成度が高くないのですが、西安在住の駐在員や留学生、或いは西安にこれから行かれる旅行者の方々のために、西安演劇旅行・演劇留学オススメ情報や、秦腔の最新上演情報、秦腔ホット・ニュース、秦腔劇団や役者の歴史などについてもご紹介させていただいております。また、私自身、仕事の関係で西安在住が長かったのですが、現地在住経験者の目から見た生活便利情報の充実化にも励んでおります。

取りあえずは挨拶までと思い書き込みさせていただきました。とうぞよろしくお願い致します。




979. 加耶第2日目AMをUP さわらびY(ゆみ)  2003/08/30 (土) 00:49
加耶第2日目AMをUPしました。

欲張って、朝焼けの写真や、千葉のマグカップ型須恵器など入れてしまったので、ページが重くなり、午後の玉田古墳群は別ページにしました。

首露王陵では、絶対を誇る晴れ女の威力は発揮できず、雨の風景です。




977. Re: 西宮冷蔵をまもろう!! さわらびT  2003/08/30 (土) 00:07
1ヶ月前に開田さんから、いただいたメッセージを踏まえ西宮冷蔵の水谷さんに励ましのメールをさし上げました。数日前ご返事をいただきました。公的性格が強いと考えそのまま掲載させていただきます。メルマガの登録もすませました。(以下、原文のまま)

西宮冷蔵、水谷でございます。
残暑の続く中、いかがおすごしでしょうか?
電気がない夏を、水谷はリベンジを誓って、懸命に東奔西走しながら再起を期しております。
このほど、melma! より不定期ですがメールマガジンを発行することになりました。
マガジンIDは m00097976 です。
http://www.melma.com
より、ぜひご登録をいただけますように、お願い申し上げます。
***************************************************
連絡先 09034913738  兵庫県西宮市西宮浜3-11-2
E-mail nishinomiyareizou@yahoo.co.jp 
カンパは
郵便振替口座 00990-1-247740 西宮冷蔵を再建する会
***************************************************




976. 加耶第1日目をUP さわらびY(ゆみ)  2003/08/28 (木) 18:45
お待たせしました。
とりあえず、旅日記の加耶第1日目をUPしてみました。

HPの管理人として悩むのは、漢字の扱い。
今回も鈴木先生の講演録で苦戦しました。

「壺う塚」の「う(=木偏に干)」は文字化けしました。
釜山広域市「東ね」(トンネ)の「ね」は、草冠に「来」です。

インターネットでの文字は、印刷物とは分けて、極力JIS第一水準を使うというのが鉄則と、割り切って考えるしかありませんね。
(勤め先でも葛西の「葛」は、HPではJIS第一水準を使っていますが、印刷物などではこの字はタブーなのだそうです。)

また「加耶」か「伽耶」かも決めがたく、結局検索で一般的なほうを選びました。
そういえば、清涼寺式釈迦如来像の「涼」も、印刷にだす時の偏は二水です。

本格的に、難解な漢字を苦心して駆使しているHPがあります。この「魏志東夷伝」のHPはすごい! http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html
安易にロゴにせず、丁寧に「何偏に何」と表示し、文字化けを防ぐ努力はえらい!ですね。

「さわらび通信」もご覧になって、もし文字化けしていたら、お知らせください。




975. 加耶建設に倭人が動員された? さわらびT  2003/08/28 (木) 00:08
旅行関連のことをしばらく書かざるをえません。
YからHP用の原稿を、といわれていますのでやむなく・・・

そういえば昨年3月、歴博の国際シンポジウムがありました。九州のNoriさんは連日参加されましたね。

そのとき印象に残った講演が、釜山大学の申敬チョル先生でした。

3世紀末、洛東江下流域−金海・釜山−への北方文化の影響を述べられ、@殉葬、A厚葬(土器の多量埋葬)の習俗、B陶質土器C鉄製甲冑D騎馬用馬具E歩揺付金銅冠F「オルドス」形ふくといった物質文化、そしてこれら@〜Fの文化を持った「金海型木槨墓」が先行の墳墓を破壊しながら造営されているとされました。(歴博国際シンポジウム「古代東アジアにおける倭と加耶の交流」資料より)

この報告では、「日本列島系土器」の流入についてこれが加耶建設の時期とするならば「日本列島各地から加耶建設に動員された倭人集団」の存在を意味するということです。

どうなんでしょうね、申先生の解釈は面白いですが・・・

殉葬があったようです。殉葬といえば、その代償ともいわれる埴輪がないことも気になりますね。埴輪は日本列島独特独特の風習だったのでしょうか。(今回訪問しなかった全羅南道では円筒埴輪の存在が知られてますが・・・)

人物埴輪はないので、あの問題は今回はテーマになりません。(^-^)
無理やり話題を埴輪にした感じです。

8,9世紀の新羅の古墳の十二支像がその代わりの話題になるのかも知れませんが・・・・




974. 古墳の形 さわらびY(ゆみ)  2003/08/27 (水) 20:10
今回はじめて韓国に行ってみて、びっくりしたというか、認識の違いに目からうろこだったのは、古墳の形とその祀られかた、そして勾玉が朝鮮半島由来だったことです。

日本では、天皇陵が幕末から禁域になって、皇室の祭儀が行なわれていても、古墳の周りが整形されているぐらいで木が生い茂るままになっているし、宮内庁管理以外の古墳では墳丘上に神社があっても「墓」としての祭儀はやっていませんよね。

韓国では、本貫を同じくする○○金氏とか、□□李氏とかの子孫たちがそれぞれ半球状のりっぱな祖先の墓を整備しながら、今もお祀りしていて、それには王陵も含まれています。

> 表紙の玉田古墳群の古墳は日本の古墳の形といささか違うような。
> かなり新しいように見えますが、古墳の子孫の方たちがいて、
> 補修をしているのでしょうか。

マウンドがあった古墳は盗掘にあいやすく、削平された古墳のほうが貴重な出土品が多かったそうですが、都市部の福泉洞・大成洞などは、かなり昔から封土が壊されていたようですね。

玉田古墳群は伝統的な墳墓に「復元」したようで、福泉洞・大成洞古墳群は封土せずに植え込みや石のブロックで墓の形を示しています。

子孫が古墳を占有して祭祀を行なっているのは、日本では皇室だけですが、韓国ではたくさんの氏族が今も、それぞれの王陵を守っています。

2日目に行った首露王陵はとっても立派なお墓で、事前学習会で鈴木先生に「首露王陵は確かに伝承上のことだが、参拝なさってる方もおられ、その子孫の金海金氏は、神話だとは思っておられませんし、大統領を出している最大一族。伝説だと言う話はその場ではなさらない方がいい。」とご忠告を受けたのですが、歴史マニア?の詮索好きのわが一行はそのご忠告を信じないで、そこですごい雷雨にあうという「たたり」に遭遇しました。

(この「たたり」のドキュメント写真は今回の旅のハイライトですので、お楽しみに。)




973. おかえりなさい! あるけ〜@千葉市の遺跡を歩く会 [URL]  2003/08/26 (火) 23:08
さわらびさん、おかえりなさい。

表紙の玉田古墳群の古墳は日本の古墳の形といささか違うような。
かなり新しいように見えますが、古墳の子孫の方たちがいて、
補修をしているのでしょうか。

旅行のページができるのを楽しみにしています。




972. 2日目は朝から雨模様 さわらびT  2003/08/25 (月) 22:46
2日目は朝から雨模様、バスに乗り込んだとたんに降りだしました。首露王陵見学は土砂降りの中。仕方なくしばらく雨宿りしていたのですが、雨足はますますひどくなる一方。水はけが悪くて、出口からは脱出できない状況に追い込まれてしまいました。

何とか脱出したものの、靴はぐちゃぐちゃ、どうなることかと思いつつ金海博物館に向かいました。丁寧なご説明をいただいたのですが、大成洞出土の銅ふくがないのです。何でも晋州博物館にあるのだとのこと。残念。

見学を終えて、その大成洞古墳群に向かいました。雨は、気にならない程度のになっていました。しかし鈴木先生に事前学習会でご説明いただいた亀旨峰見える光景は、マンションにさえぎられてイメージがそこなわれていました。

大成洞古墳群については次のサイトなど参照。

http://japan.koreainfogate.com/museum/sankoku/sankoku-gaya11.asp

ここが金官加耶の中心地だそうですが、残念なことに博物館がまだ建設中で中には入れませんでした。

午後はいよいよ大加耶の玄関口、玉田古墳群に向かいました。ガイドさんのご配慮で地元の郷土史家の方にご案内いただきました。

2時間かけて来た甲斐はありました。その光景に感動でした。

ご案内いただいた郷土史家のR先生のお話から・・・・

「ここでは私の幼いときから刀とか太刀とか出ていました。拾って遊んだりしたものでした。85年、発掘チームが調査した結果、古墳であることがわかったのです。封土はあとになってからつくりました。盗掘されないようにするためです。戦争中は荒れ果てたままでした。封土がないのでどこが古墳かわからなかったのです。

『駕洛国記』には多羅国が見えますがその国がどこに存在したかはわからなかったのですが、この古墳が出たことでわかりました。ここからは山字王冠や高霊の土器も出ました。

4、5世紀は木槨墓だそうです。5、6世紀は横口も出るし、片袖型の古墳が出ました。副葬品も多くありました。耳飾、冠、ガラス製品も出ました。大学で制作した本が大学にありますが、晋州の慶尚大学の発掘チームが持ってます。ここからは2時間ぐらいかかります。

ここへ来る道の左側が多羅里という地名です。玉田では中心勢力がすんでいたのは多羅里です。今は小さい農村です。
王の城は、展示館の後ろ、村全体が城の中です。」

(ガイドさんが通訳されたのを採録しました。)




971. WebのPDF & 金砂大田楽のこと さわらびY(ゆみ)  2003/08/24 (日) 23:35
旅行の留守中、郵送でCDと書籍が届いていました。
CDは、「さわらび通信」全部をPDF化して保存してくださったもの。容量は53MB、885ページ分あるようです。
Acrobat6.0Jでは、簡単にWebをPDF化できるらしいですね。
(1ページずつ保存しなくてもよいのでしょうか?)
HPは、ラジオやTV放送、ビラみたいなもので、「過ぎ去り行くもの」と思っていますが、国会図書館も収集と保存の対象としたそうです。
こんな形で保存できたら、よいですね。
それにしても、あの「THE印旛村」のサイトをすべて閉鎖前に保存しておけばと悔やんでいます。

書籍は、日立市中心の企業内同人誌。
「平成の金砂大田楽A東金砂神社の磯出」をお書きになった方からで、HPの画像がお役に立ったそうです。

ご送付、ありがとうございました。

金砂大祭礼については、HONさんのサイト「坂東千年王国」の「金砂神社考」が完結しましたね。HON氏の本領発揮というべき示唆に富む結論です。
PDFファイルの「さわらび通信」を見ながら、「金砂大祭礼 私の謎ときノート」が中断したままになっていることを思い出しました。
磯出の祭儀については、私は常総一般の磯出神事との関連で考えていました。
11月に北総4市域の広範囲で行なわれる「三山七年祭」の謎でもあるので、そのころまでにもう一度ゆっくり考えてみようかと思っています。




970. 無事帰国できました(皆さんに感謝) さわらびT  2003/08/24 (日) 23:23
旅行のことを少しずつ書きます。

多少の緊張感を伴っていたせいもあったのでしょうか、慶州博物館では、皇龍寺出土の仏頭を見逃すという失敗もありました。幸いなことに、翌日あらためて博物館訪問ができましたが、ところが、そこでまたドジがあった!のでした。(とりあえず内緒)

とにかく企画した立場としては、参加者の皆さんが気持ちよく毎日過ごしてくださったようで、ありがたく思っています。旅行社のKさんに、そして現地ガイドのPさん、ドライバーさんにも大感謝です。キムチが食べられるようになったのも収穫?(^-^)

出発の日(19日)の日本は雨、傘を持ったまま飛行機に乗り込み、雨の釜山に具合がいいと思っていたのですが、思いがけず、天候は良好、予報は外れていました。最初の見学地は福泉洞(ポクチョンドン)古墳群、洛東江を渡り釜山広域市東来(トンネ、来の字は文字化けするのでこの字を仮に使います)区にあります。事前勉強会で鈴木先生から教えていただきましたが、大成洞が発見される以前から発掘されていた古墳群で、我々見学者にはありがたいことに、野外展示館・博物館が完備されています。

博物館の学芸員は説明時間も惜しいような忙しさの渦中のようでした。なぜか他の見学者が見当たらず、貸しきり状態でした。でも写真を撮るわけにもいきませんので、図録を求めたのですが日本語版がなく、やむなくハングルのものを購入。そのかわり日本語の小冊子を頂戴しました。

お目当ては馬冑(10号墓出土)でしたが、レプリカとのことです。本物はどこにあるのでしょう?
蛇行状鉄器もならべられていましたが、図録を見直してみると玉田M3号となってました。轡は福泉洞10号、鞍驕が池山洞45号、剣菱型杏葉、馬鈴が玉田M3号、等々記載があります。

参考までに福泉洞古墳の案内はこちらが分かりやすいです。

http://www.marupu.com/main/script/area_script.html?num=182

この日は釜山市博物館も見学コースになっていましたが、交通事情のせいもあって夕刻到着、あわただしい見学でした。古代を見終わったところで、居合わせたボランティアガイドのおじさんが、近代まで熱心に説明してくれました。東来は秀吉軍最初の上陸地でもあり、交流史の面では考えさせられる地です。旅は始まりました。




969. Re: おかえりなさい!! さわらびY(ゆみ)  2003/08/24 (日) 22:04
お盆を過ぎて、韓国も日本もやっと夏本番の暑さになりましたね。

> UP楽しみにしております。
とのご期待うれしく思いますが、今日は、山のような洗濯物と片付けもの(図録と資料がとにかく多くて!)に時間を費やし、夜になって画像の整理をやっと始めたところです。
とりあえず、玉田古墳群の風景をTOPにUPしました。

旅行2日目の午前中、金官加耶始祖の首露王のお墓で豪雨にあい、午後、水嵩の増した洛東江沿いに2時間バスで遡り、陜川玉田の山で、前線通過後、夏空の広がったこの風景に接した時は感動しました。

事前学習会の鈴木英夫先生お話では「玉田(オクジョン)は多羅国の首長の墓です。多羅国は日本書紀にだけでてくる加耶諸国のひとつです。」とのこと。そして今でも多羅里の地名が残っていたのです。

桃崎先生のご講演で何度もお聞きした馬具が出土した古墳群ということのも興味深かった古墳群、まだ、展示館がオープンしていなかったのですが、村の郷土史家の先生に細い道を案内いただいて念願の史跡に立つことができました。

帰ってから、もう少し予習していけばと、博物館の厚い図録を手に思っているところです。




968. おかえりなさい!! まさみ  2003/08/24 (日) 10:44
> 想い出深い感動や、楽しいハプニングなど盛り沢山の旅でした。
> そのうちゆっくり、お伝えできたらと思っています。

お疲れ様です。UP楽しみにしております。




967. 元気で帰国しました さわらびT&Y  2003/08/23 (土) 22:32
ただいま、伽耶・新羅の史跡めぐりの旅から元気で帰国しました。
ご一緒いただいた皆様、お世話になったツアーコンのK様、ありがとうございました。


高橋様、ほか皆さま
>旅談義を楽しみにしています。
想い出深い感動や、楽しいハプニングなど盛り沢山の旅でした。
そのうちゆっくり、お伝えできたらと思っています。

ありがとうございました。




966. 元気で行ってらっしゃい 高橋敬三 [URL]  2003/08/19 (火) 06:16
ゆみさん
今日からですね、元気で行って来てください。旅談義を楽しみにしています。
さて、小生のページを見ていただいて有難うございます。
また貴ページに紹介までしていただいて有難うございました。

それではお元気で




965. いってまいります さわらびY(ゆみ)  2003/08/19 (火) 00:20
皆さま
19日から土曜日まで、韓国に史跡探訪旅行に行ってまいります。
この掲示板については、オープンしてありますので、皆さま相互に楽しく談話をお続けください。
帰国後、皆さまの書き込みを読むのが楽しみです。
16名の歴史好きの「同志?」と楽しい旅になりそうです。

HONさま
>掲示板に「金砂神社考」をUPしました。数回の予定です。

いつも読み応えのあるHON様の考察、こちらも続編を楽しみにしています。
では、また。




964. Re2: 季節はずれの金砂神社へ HON  2003/08/18 (月) 21:45
さわらびY(ゆみ)さん  

>構図のよい鮮明な画像ですね。何ヶ月もたっていないのに懐かしく感じました。
特に「山頂の本殿」(逆光でシルエットがきれい)と「本殿前の絶景」はいいですね。

雨上がりで足場が悪く、あまり歩き回れないないので仕方なしにシャッタ押したものです。
「本殿前の絶景」の日光連山、後で地図で確認したら大変なことに気づきました。いづれ掲示板にコメントしますが。

>足は、「金砂城跡」に写っている車ですか?(人はスケール代わり?)

バイク並みに何処でも走れる軽四駆ジムニーです。ウジムシ・ジムニーていわれてます。
人はしばらく待ったのですが、いつまでたってもどいてくれないので仕方なくスケール代わり!

というわけで、掲示板に「金砂神社考」をUPしました。数回の予定です。
http://8554.teacup.com/hon/bbs




963. LINKの友だちのHP情報 さわらびY(ゆみ)  2003/08/18 (月) 19:41
ご存知!「川柳と旅と写真のホームページ」の今日の時事川柳
「お仕事とウイルスが待つ盆の明け」
なるほどねー。さすが巨匠!
http://village.infoweb.ne.jp/~takakei3/
皆様の職場はいかがでしたでしょう。
職場の庁内LANは最近整備されたばかりなのでどってことなかったですが、個人の家庭のPCは休み中にけっこう被害にあっていましたね。
駆除しようにもアクセスできないのがたいへんみたいです。

ところで巨匠の「青森ねぶた祭り」と「盛岡さんさ踊り」のドキュメントがUP、レインコートかぶった幻想的なねぶたが見られます。
夜の撮影をなんなくこなしているところは、さすがです。

あるけ〜さんの「千葉市の遺跡を歩く会」のHPhttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1467/index.html
では、画像のでる掲示板をテスト中。
あのワイドなパノラマ画像の種明かしをしてくださっています。
技術とテクニックにご興味のある方は、どうぞ。




962. Re: 季節はずれの金砂神社へ さわらびY(ゆみ)  2003/08/17 (日) 23:56
HONさま
> 連日の雨天の合間、半日薄曇りなのを幸い、先般こちらで
> 話題になった東・西の金砂神社へ行ってきました。
> 阿武隈山脈を越えて山と谷を渡る強行軍でしたけど、
> 山中迷子にもならず何とか当初の目的を果たせました。

お帰りなさい。さっそく拝見しました。
構図のよい鮮明な画像ですね。何ヶ月もたっていないのに懐かしく感じました。
特に「山頂の本殿」(逆光でシルエットがきれい)と「本殿前の絶景」はいいですね。

足は、「金砂城跡」に写っている車ですか?(人はスケール代わり?)

> 人気のない金砂神社もオツなものです。

私も今日は、人気のない松戸の寺社を回っていました。
今日はもう晴れるだろうを思っていましたが、小ぬか雨が時折振り、今年の夏はどこへいってしまったのでしょう。

本日のスケッチです。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/8.17matudo1.html
曇天で暗く、手ぶれ覚悟でフラッシュのオートを解除して撮ってきました。

明後日から、釜山・慶州へ行きます。天気図を見ると、韓国も日本と似たようなお天気のようですね。晴れ女の威力はっきできるといいのですが・・・




961. 季節はずれの金砂神社へ HON  2003/08/17 (日) 22:27
みなさん、ご無沙汰してました。

このお盆休みに茨城県高萩市の親戚へ行ったついでに、
連日の雨天の合間、半日薄曇りなのを幸い、先般こちらで
話題になった東・西の金砂神社へ行ってきました。
阿武隈山脈を越えて山と谷を渡る強行軍でしたけど、
山中迷子にもならず何とか当初の目的を果たせました。

コメントはいずれうちの掲示板にUPしますが、とりあえず
画像のみ用意しましたので、ご覧ください。
人気のない金砂神社もオツなものです。

http://hon.web.infoseek.co.jp/memo/kin.htm
小さい画像は全て大画像にリンクしています。




960. 「小金宿の虚無僧寺に残された釈迦像」とやっとUP さわらびY(ゆみ)  2003/08/16 (土) 12:00
外は雨ですね。
今日、シリーズ『「おしどり寺」村上正覚院の来た道』の松戸編No.2として「8.小金宿の虚無僧寺に残された釈迦像」とやっとUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/2-8/2-8.htm

掲示板「788. 松戸の古寺と市立博の一月寺仏像のこと 2003/06/08 (日) 00:39」で報告してから2ヶ月以上も再撮影と思索とに費やし、重すぎる課題にもうへとへとです。

HON様にはポイントを押さえたアドバイスを本掲示板でいただき、たいへん参考になり、またほかの軽いテーマに気が散りそうなところ、励まされました。
http://hpmboard1.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=QWR07752&page=150&msg_per_page=10&def=50

この間探して読んだ本とHPは「おしどり伝説と東国の律宗 =参考文献とホームページ=」
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/rissyusannkoubunnken.htm
に載せましたが、保坂裕興氏の「一七世紀における虚無僧の生成−ぼろぼろ・薦僧との異同と「乞う」行為のあり方−」と石井進先生の『中世のかたち』を、最新の研究成果として参考にし、この短いエッセイの基調としました。
「ぼろぼろ=薦僧ではない」という保坂氏の論は、細川氏の「ぼろぼろ(暮露)」より、より説得性があるように思えます。

石井進先生の『中世のかたち』の8章9章の連雀商人のくだりは、1995年に歴博友の会の館長特別講演会で未発表の最新研究としてお話になられた内容に関連します。
たまたま私が「友の会ニュース」No.64にその聴講記を書くことになり、石井先生に拙文の校正をお願いするなど、私にとっても懐かしく想い出深い先生のご研究でした。

今回下書きから削除した内容があります。
「乞う」行為に生きた人々を、排除し、あるいは賎民身分に固定化していった「西国」と、戦国末期から近世初頭にかけて彼らを旅のものとして受容し、その人々の中から中世のしがらみを捨てた新たな「身分」への移行を可能とした東海〜関東の違いは何だったのだろうか。
また、細川氏が指摘するように、律宗の慈善救済の教義が、中世非人の差別を固定化していったとしたら、差別が根付きにくかった東国では律宗もその基盤を確立できずその痕跡を残さなかったのではなかったのか。云々・・・

これらはまだ私の思索の範囲を越えず、自問自答に中にいます。
今後ともよろしくご指導ください。





959. 鈴木先生からは勇気をいただきます さわらびT  2003/08/15 (金) 23:16
以前、開田さんからの書き込みに「鈴木先生の本は、あとがきがよかったです。ここに友あり、と思ったものでした。」とあったのが印象に残っています。

書くのをためらっていたのですが、伽耶・新羅史跡めぐりの旅の勉強会に鈴木先生は小学校6年生のご子息をお連れになりました。

開田さんが、よかったと述べられた鈴木先生の著書のあと書きには、奥様に先立たれたとき、3人のお子様が残されその一人は一歳児だったとあるのでした。その一歳児が、お連れになったお子さんです。

悲しみや、ご苦労のほどを直接うかがったことはありません。お忙しい中、勉強会の講師を気持ちよくお引き受けくださったことでも分かりますように、そのお人柄は素晴らしいです。私たちに勇気を与えてくださる人生が見えました。




958. 鈴木先生のお話で興味を持ったこと さわらびT  2003/08/15 (金) 00:28
【鈴木先生のお話から】

「加耶は政治的な統合はされなかったわけですが、史料上に加耶という文字が記されるのは5世紀初頭、広開土王碑にその名称がでてきます。」

広開土王碑についてはこのHPにも書きましたので、関心を持ちました。

「404年のことですが倭人が新羅に満ちた、これは金城ですがどこが金城かというと諸説がありますが(※)、高句麗は倭人を追って任那加羅の従伐城にまで行ったとあります。」

(※3説あるそうです。@現在の市中心地(朝鮮時代の邑城)、A南西部の五陵付近、 B城東里遺跡)

この從伐城はどこなのでしょう。大成洞から見えるそうです。

【広開土王碑文】
「安羅人戍兵抜新羅城鹽城倭寇大潰城内・・・・十九盡拒随倭安羅人戍兵新羅城・・・某・・・・言・・・旦・・・辞・・・殘倭潰逃抜城□安羅人戍兵・・・・」(王建群釈文。鈴木先生の『古代の倭国と朝鮮諸国』より)

このように広開土王碑文には、「安羅人戎兵」という言葉が見えますが、これを安羅ではなく、「羅人」として新羅と解釈する王建群説があるのですが、日本人の研究者でその説をとるのは鈴木先生のみだとおっしゃっておられました。ずいぶん批判を受けておられるとのことですが、鈴木先生ならではのお話でした。

【王建群説】
(1)「従伐城」、新羅城、「□城」を占領したあとにそれらに「羅人」を「安(お)」き、城を「戍兵」させたとの意味になる。
(2)「安羅人戍兵」を固有名詞とする従来の説では、前後の文と矛盾を生じ、意味不通になる。
(3)古代において「傭兵」は存在しないとの点から倭が「安羅人戍兵」に城を守備させるなどはありえない。「安羅人戍兵」も高句麗が倭から奪還した城を新羅に返還した城を新羅に返還したと見るのが無理のない解釈とされる。
(『古代の倭国と朝鮮諸国』より)




957. ウイルス、こわーい!? さわらびY(ゆみ)  2003/08/14 (木) 00:54
メールとは関係なく攻撃するコンピュータウイルス Blaster(ブラスター)というのが、はやっているそうです。
夜遅く、友人からメールでなく、電話で「勝手にダウンした。朝日の夕刊に載っていた例のウイルスにやられたらしい」と連絡がありました。
対策は『Windows Update を実行し、「重要な更新」を行います。Windows のセキュリティホールの修正プログラム(823980)を適用します。』ということ。
私のPCは7月24日に最終自動更新した記録が表示されたので、ちょっとほっとしていますが、怖いですね。
http://121ware.com/qasearch/1007/app/nec.jsp?006509
の情報が参考になります。

ウイルスメールもまだぞくぞくいただいています。
アドレスと件名(特に英文と意味不明)を確認して怪しいのは空けないようにしています。
お互い自衛しましょうね。




956. 鈴木先生ありがとうございます さわらびT  2003/08/14 (木) 00:18
お忙しい中、鈴木英夫先生に、来週の「伽耶・新羅史跡めぐりの旅」関連講演をしていただきました。

お若い頃、慶州、石窟庵で、釈迦像・十一面観音をみたときの感動をお話になられたのが印象に残りました。いまはガラス越しにしか見られないのは残念だ、とのことですが先生の感動を共有してみたいものだと思いました。

ご同行の皆様、楽しい旅にいたしましょう。よろしくお願いします。




955. 広隆寺宝冠弥勒の謎 さわらびT  2003/08/12 (火) 22:48
現代の韓国が儒教とキリスト教を受け容れているのに比して、日本は圧倒的に仏教国です。先日の山折先生のお話にもありました。そのことが国民の生活規範の違いに現れているようです。歴史の問題としても大変興味深いテーマです。

ところで来月「シルクロードの会」で講演される岩崎先生の論文(「広隆寺宝冠弥勒に関する二、三の問題」)のことです。入手しにくいものですのですが、お話をうかがう前に予習するクセがありまして図書館で借りてきました。

読み進みますと、広隆寺の宝冠弥勒の様式的な系譜として、韓国慶州の皇龍寺址出土の菩薩頭部あたりに接点があるのではとの記述がありました。

となると、皇龍寺址は来週に迫った伽耶・新羅史跡めぐりの旅のコースに入っているところです。慶州博物館にその実物が展示されているかも知れません。お目にかかれるといいのですが・・・

広隆寺の宝冠弥勒とよく似ているという韓国国立中央博物館(ソウル)所蔵の半跏思惟像には残念ながら今回はお目にかかれません。




954. Re: 山折哲雄先生の講演を聞いたあと さわらびY(ゆみ)  2003/08/12 (火) 01:03
Tが山折先生のことに触れてしまったので、私も記さざる得なくなりました。
私が講演の中で引き込まれたのは、宮沢賢治の宗教的彷徨とその過程が表れた作品についてでした。
「銀河鉄道の夜」に込められたキリスト教の世界、黒マントに身を包み「きちがい賢治」とののしられながらも、法華経を説くべく街頭説教に立つ賢治の姿。
先生は、故郷の身近にいた一人の求道者としての賢治を語られ、短い時間でしたが、「永訣の朝」の朗読のさわりはじんと心にしみました。

山折先生は、始めは著書で知った宗教学者でしたが、15年前、NHK市民大学のTV講座で毎週、「お話される先生」により強く惹かれていました。
またこのHPの『日本史をみつめた「聖母」たち』のW
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/4kakurenoseibo.htm
は、そのテキストにプラスして収録された講談社学術文庫『仏教民俗学』の「二四 隠れキリシタンと隠れ念仏」に負うところがあります。

ご講演後、手ずれしたNHKのテキスト(先生も懐かしがっていらした)と、この文庫本にサインをいただきながら、質問にお答えいただく機会がありました。
それはずっと前から思っていた子安観音の成立の謎のことです。(このことは「聖母」のWの最後の文章です)
私の拙い仮説に頷かれながら、たいへん重要なアドバイスをいただきました。
その内容については、いずれ調べてまとめなければと強く感じています。




953. 山折哲雄先生の講演を聞いたあと さわらびT  2003/08/11 (月) 23:10
宝冠弥勒のことを書くつもりでしたが、昨日、山折哲雄先生の講演を八千代市郷土博物館で聞かせていただいたことが、新たな刺激になりましたので一言。

含蓄のあるお話で道元、親鸞から美空ひばり(先生は大ファンらしい)まで話題満載、聞き応えのある2時間でした。山折先生も時折行かれるという化野念仏寺に物思いに沈むひばりさんの姿。親・兄弟すべてに先立たれ独りぼっちになったひばりさんの人生を思われた話をされたときはちょっぴり胸が熱くなりました。
(なぜか妙に心に残ってしまった。化野念仏寺の写真はこちらにあります)

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyouto/12.30kyouto.htm

『仏教とは何か』(中公新書、1993)にブッダの人生を書いておられます。「四門出遊」の故事を伝えたあと「半跏思惟像」にふれ、青年シッダルタの悩みと内省の姿をあらわすものとして中国では作られたという。それが朝鮮半島や日本では、未来仏である弥勒と同一視された。日本では悟りを開く前の太子像であると半跏思惟像が最初に伝えられたというのは日本の仏教の出発を考えるにあたって重要だ、とする指摘にムムム・・・状態。
受け容れたのは、あの姿そのものへの感銘があったからなのか・・・
政治的な対立軸として仏教受容の問題を考えがちですが、あらためて考えさせられました。




952. Re^2: さきたま まさみ  2003/08/10 (日) 18:02
> 杉山先生のご講演、となれば、まさみさんもいかれますか?

お、そういえば、杉山先生講演があるといわれてました。
杉山ファンとしてはいかなくては!




951. Re: 庚申塔に見える桃について さわらびY(ゆみ)  2003/08/09 (土) 23:38
石仏のとてもすてきな写真とエッセイ、そして貴重な調査データのいっぱい詰まった「栃木県の石仏・たおやかにのんのさま」
http://sekibutus-001.hp.infoseek.co.jp/index.html
のWebマスター瀧澤龍雄さま

「さわらび通信」をご覧いただき、また今回は桃の実を持った猿のある石仏についてご教授ありがとうございます。

> 庚申塔に見える「桃」と「宝珠」の区別、これは結構悩むことなのです。

桃を持った猿像がめずらしいと思っていたのに、さらに「桃」→「宝珠」のヴァリエーションがあるのですね。奥が深〜い!

実は、私のPCに収納してある画像データで一番枚数が多いのは、道標を含め路傍や社寺の石造物の画像です。
道標の調査のまとめは、おととし八千代市郷土歴史研究会で本を出し一段落しましたが、その時の癖で、どこへ行っても石仏石塔を写す癖がついて、いつも何枚か撮ってきます。
貴兄のように味のある「絵」にならないものばかり、データ本位のつもりでも整理が不十分でじゃ、しょうがないですよね。

この道の先輩には恵まれていますが、さらに「たおやかののさま」で少しずつ勉強したいと思っています。
よろしくお願いします。




950. 太秦広隆寺の謎 さわらびT  2003/08/09 (土) 23:34
一昨年の暮れ、嵯峨野・太秦をレンタサイクルを利用してまわりました。HPでも写真を掲載していますが、嵐山渡月橋で最後に写真を撮りました。HPにも掲載してますが印象に残る場所、それが葛野の秦氏の地です。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyouto/12.29kyouto.htm

加藤先生は、嵯峨野にある前方後円墳の築造時期は6世紀以降と推定され、集落遺跡も6世紀後半から7世紀に集中することから、開発が軌道に乗るのは6世紀中葉または後半以降と書いておられます。(『秦氏とその民』)

そういえばこのサイクリングでは太秦の広隆寺にも立ち寄ったのでした。宝冠弥勒も泣き弥勒も見てきました。霊宝殿の中に入りますと厳かでもあるが、国宝を守るためでしょうか、物々しい雰囲気でもあったと思い出されます。

日本書紀の次の記事が論議をよびます。

推古11年(603)、「十一月己亥朔、皇太子謂諸大夫曰、我有尊仏像。誰得此是像以恭拝。時秦河勝進曰、臣拝之。便受仏像。因以造蜂岡寺」。

推古31年(623)(岩崎本では推古30年)、「秋7月、新羅遣大使奈末智洗爾、任那遣達率奈末智、並来朝、仍貢仏像一具及金塔并舎利。且大潅頂幡一具、小幡十二条。即仏像居於葛野秦寺。以余舎利金塔潅頂幡等、皆納于四天王寺。」

この仏像のどちらか(あるいは同じものか?)、広隆寺の本尊の弥勒菩薩像なのでしょうか。それも気になりますし、ここでいう蜂岡寺と葛野秦寺は広隆寺のことを指しているでしょうか。

『広隆寺縁起』という書には広隆寺創建が推古30年(622)とされているようです。加藤先生は、推古30年の仏像安置は広隆寺創建を意味すると論じています。(『秦氏とその民』)

岩崎和子「広隆寺宝冠弥勒に関する二、三の問題」(田村円澄・黄寿永編『半跏思惟像の研究』吉川弘文館、1985年)は、宝冠弥勒の系譜を論じます。次回はこの論文の興味深い内容を・・・




949. Re: さきたま さわらびT  2003/08/09 (土) 22:33
はにわ処様

情報ありがとうございます。是非参加したいです。

調べたところ、ご講演は、この方々のようです。

(1)「稲荷山古墳の発掘と金錯銘鉄剣の発見」利根川章彦(県立さきたま資料館 主任学芸員)
(2)「金象嵌の分析と新発見事実」早川泰弘(東京文化財研究所 保存科学部主任研究官)
(3)「稲荷山鉄剣が提起する課題」杉山晋作(国立歴史民俗博物館 考古研究部助教授)

http://www.pref.saitama.jp/kyouiku/contents/news_sorce/news_03073103.html

杉山先生のご講演、となれば、まさみさんもいかれますか?




948. 庚申塔に見える桃について 瀧澤龍雄  2003/08/09 (土) 18:24
初めまして!栃木県宇都宮在住の瀧澤龍雄と申します。

以前から、真摯で調査の緻密なHPに感心しながら覗かせていただいております、隠れファンの一人です。
今回は、小生のcgiに書き込みくださましてありがとうございました。
庚申塔に見える「桃」と「宝珠」の区別、これは結構悩むことなのです。その多くは古い物ですから崩れているものが多いからです。「桃」の場合は、割れ目または下部に葉模様があること。「宝珠」は、宝珠としての筋が刻まれていることを確認して判断しています。no.947にあります小生のアドレスのうち、栃木県壬生町惣の宮神社脇の日光型延宝庚申塔で、二猿が拝しているのは、「桃」でなく、「宝珠」です。でも、そこまで確認する人は石仏趣味だけの人では少なく、その区別を厳格に付けている方は中山正義氏のような真摯な研究者だけでしょう。と、思います。
いずれいしましても、これを縁にどうぞ宜しくご指導下さい。




947. 桃の実を持った猿の石仏 さわらびY(ゆみ)  2003/08/09 (土) 16:34
桃の意味を探っていて、萩原法子先生から送っていただいた「桃の実」をもったお猿さんの石仏の写真。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/inage/inagematuri4.htm

これについて房総石造文化財研究会のBBSで、栃木県の石仏研究家の方が、私へのアンサーとして栃木県の「桃+猿」の石仏をご紹介いただきました。
http://sekibutus-001.hp.infoseek.co.jp/public_html/saru_momo/saru_momo.html
http://sekibutus-001.hp.infoseek.co.jp/public_html/2003daiary/2003-jun/2003_jun.html

なるほど「桃+猿」の例があるのだなと「好奇心!」がわき、検索で探してみると、都内新宿区筑土八幡神社の縁結びの神、交通守護の神として信仰されてきた「庚申塔?」が「桃の実を持った猿の石仏」で「有名」だそうです。
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/shinjuku/00001765s.jpg

また北本市の高尾の民家の庭先にある「サンノー様」と呼ばれる山王神社にはお礼の証として猿の石仏を奉納するそうで、その猿は陰部を露出した雌猿。猿は「下の神様」として安産祈願の対称だそうです。
http://www.kitamoto.info/kita/stone.htm

鎌倉の円応寺門前の庚申塔でも「「閻魔王」と大きい刻字の上に桃をもった猿が寝そべり、「子そだて」と文字が刻まれています。
http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/tkoshin/goto0207/kp38/kk3800.htm

子授け・安産の桃と猿(この場合は2匹)のモチーフは、道祖神としての性を祀る信仰とも共鳴しあって、庚申塔の三猿にもとり込まれていったと思うのですが、いかがでしょうか。




946. Re: 御来場有難うございました=白間津の大祭 さわらびY(ゆみ)  2003/08/09 (土) 11:34
> 白間津の大祭に御来場いただき有難うございました。
> なかなか面白い祭りがあるので楽しみです。

あらためて貴兄の「白間津の大祭」をゆっくり拝見しました。
http://village.infoweb.ne.jp/~takakei3/
すごい祭りですね。
この祭りについては萩原法子さんの著書『熊野の太陽信仰と三本足の烏』で『U日と月の「柱立て」』に詳しくその意味が書かれています。
カミのヨリマシである日天と月天、ほかおおぜいの人々が主役の全員参加型の祭り。
浜降り神事や太陽信仰など神事の原型がよく残っていますね。
オリンピック並みに四年に一度ですか。2007年を楽しみにしています。




945. 寅さんの顔と埴輪の顔 さわらびY(ゆみ)  2003/08/08 (金) 20:59
寅さんの命日の8月4日に奇しくも発見された人物埴輪、どうして寅さんに似ているのか、不思議ですね。
寅さんの映画のポスターと見比べてみると、次のページの44回の写真が憂い顔でそっくり。
http://www.aa.e-mansion.com/~kawada3/sibamata/page_59.htm

埴輪の写真を見ながらどこが特徴なのだろうか、類型があるとしたらもっと似ているのがあってもよさそう、そう思って最新の埴輪展の2冊の図録で人物埴輪を一つ一つ見てみました。
『はにわの十字路』松戸市立博物館2002
『はにわ−形と心−』国立歴博2003

はにわ処さんに近い生出塚(おいねづか)埴輪製作遺跡から下総各地に届けられた埴輪は、眉が太くて、顔の幅が広く、あごがしっかり表現されていますね。
でも寅さんも柴又の埴輪もいくら眉毛が濃いといっても、生出塚系のように鼻とT字型になるほどつながっていないのです。(うちの亭主はほぼ一文字につながっていて、生出塚系の山倉1号墳のおじさんに似ています)
それに首が太い。(こんなにしっかり太いのはまさに寅さん!)
つばの狭い丸い帽子は、図録のどこを探してもほかには本当にないのです。

考えてみると、これってとても不思議?!
寅さんの顔を分析しながら、バラエティのある埴輪の顔でも、地域の特徴や類型?があるのだなと思いました。
ちなみに意外と眉に着目すると、関東の埴輪人は縄文系の顔をしているように思うのだけど・・・




944. さきたま はにわ処 [URL]  2003/08/08 (金) 11:08
そういえばTさんが興味を持っていた国宝の鉄剣にあらたな新発見があったそうです なんでも金文字の純度が115文字同じではなく所々違う事が分かったそうです 9月27日に説明会があります 私も足を運ぶつもりですが宜しければご参加してみては 申し込みなどの詳しい事はさきたま資料館のHPで
http://www.ksky.ne.jp/%7Esakitama/indexhp.htm




943. 御来場有難うございました 高橋敬三 [URL]  2003/08/08 (金) 07:21
白間津の大祭に御来場いただき有難うございました。
なかなか面白い祭りがあるので楽しみです。

ところで寅さん埴輪の事をはじめて知りました。
寅さんは大好きで寅シリーズは皆見ましたし、帝釈天にもおまいりしましたが、あのような古墳があるとは知りませんでした。
今度行って見たいと思います。
有難うございました。




942. TOPリニューアル&LINKのお友だちの更新情報 さわらびY(ゆみ)  2003/08/07 (木) 20:29
今日は夏休みをとり、八千代市内の旧家のお盆を迎える準備などを取材し、午後はホームページのメンテナンスを(しようと?)しました。

わが家の部屋の中もPCまわりも(頭の中も)雑然としてますが、実は「さわらび通信」の中のフォルダー整理もメチャクチャなのです。
リンク切れした画像がサーバーに残っていたり、またサーバーの容量オーバーで、削除したくても、複雑にリンクしてて×印がいっぱい出そうで、こわいし・・・

設計図なしで、「屋上屋を重ねる」というのはこういうことをいうにでしょう。
結局TOPページをジャンル別にリニューアルしただけであきらめました。

ところで、LINKのお友だちのHPも更新ラッシュですね。

これから楽しみな期待のぺージは
「信州考古学探検隊」の「探検隊大旅行」の「石塔の旅」(早く次が見たい!)
「現地が一番」の「ランダム日記」(PCとネットの歴史がわかる)
「千葉の歴史を歩く会」の「武石・幕張」シリーズ

大御所の自信作でぜったいお勧めのHPは
「川柳と旅と写真のHP」の「白間津の大祭」

HPをゆっくり見る夏休みというのも、おつなものですね。





941. 寅さん埴輪 はにわ処 [URL]  2003/08/07 (木) 10:42
Y様わざわざメール頂き有難うございます
寅さん埴輪の現地説明会ですが平日だったら行きたかったですね
学芸員の谷口さんにも誘われたいたのですが日曜日はさすがに仕事が休めません、、、(^^;
ですからこちらで色々現地説明会などの情報をチャックするのが楽しみです
それからまさみさん私は土師氏の末裔ではありません〈残念ながら)
たまに自分でも作ったりしますが現在5件ほどの窯元さんに頼んで作ってもらっています
さすがにこれだけの量と種類は私一人では、、、

そうそう古代蓮は今年の天候不順のせいでしょうか
もう花は終わってしまったようです




940. Re^2: 追伸=提瓶です まさみ  2003/08/07 (木) 10:18
> 須恵器の提瓶です。平べったくて、ベルトを通す穴が耳状についています。

へぇ〜!!携帯用の瓶ですね。
平べったくて・・・腰などにつけても邪魔になりませんね。
ベルトを通す穴・・・つけているところを想像するとおしゃれですよね。
このころは携帯用の瓶などなくて、竹筒や瓢箪などを使っていると思っていました。ゆみ様ありがとうございました。




939. Re: 追伸=提瓶です さわらびY(ゆみ)  2003/08/06 (水) 23:41
> 寅さん、さくらさんのツーショットの画像の下に映っている金属の塊のようなものはなんでしょうか?

須恵器の提瓶です。平べったくて、ベルトを通す穴が耳状についています。
騎馬民族が水やお酒を入れてぶら提げる皮袋がこの形のルーツと、以前に桃崎先生から伺ったことがあります。(間違っていたらごめんなさい)

そういえば出土物について、説明がちょっといい加減過ぎたみたいで、まさみさんのご質問はもっともですね。
さっそく、このページをまた更新しました。
スペースがなくて、抜かした高杯も入れました。

ご指摘やご要望があれば、すぐに直しちゃうのがHPの便利な点ですので、今後ともよろしくね。




938. 追伸 まさみ  2003/08/06 (水) 21:53
寅さん、さくらさんのツーショットの画像の下に映っている金属の塊のようなものはなんでしょうか?



937. 寅さん埴輪 まさみ  2003/08/06 (水) 21:43
寅さん埴輪・・・そっくりです。(^_^)
はにわ処さんの埴輪はあまりに完璧で、まえに訪問した時
子供が本物?本物?と何度も聞きました。
寅さん埴輪もあったのですね。(すごい!!)
もしかしてはにわ処さんは土師氏の末裔なのでは?




935. 柴又八幡神社古墳・現説のページUPしました さわらびY(ゆみ)  2003/08/06 (水) 00:43
「話題?」の柴又八幡神社古墳・現説のページUP完了しました。

わが下総の観点から欲張って、(観光案内もプラスして)最後におまけのページが2ページもついて、7ページになりました。

どうも最近、撮影のポイントが、「史跡+子供or花」になる傾向があって、今回は、「発掘現場の樹の根っこと子供」です。

薀蓄と論説がお好きな方は、Tの932の紹介文献で知識を補ってください。




934. Re: お呼びですか? さわらびT  2003/08/04 (月) 22:20
まさみ様

> 人質T様お呼びでしょうか?
> 柴又八幡神社古墳の埴輪も露出度が高いのでしょうか?(^_^)

今回は、そんな意味ではありません。この埴輪は、顔だけです。寅さん、こと渥美清さんの命日に一昨年出土したそうです。こちらでご覧になれます。さくらさんもあります。(柴又八幡神社古墳・現説のページにもリンクしてます。)

http://www.city.katsushika.tokyo.jp/museum/lb-shibamata-j.html

そういわれればなるほどな、と思えます。
先日、はにわ処さんのお店をお訪ねしたときに、ミニチュアを購入しました。はにわ処さんのHPもご覧ください。よくできてますね。さすが。

http://homepage2.nifty.com/haniwadokoro/pege20.htm

まさみさんはどんな感想をお持ちかな?




933. お呼びですか? まさみ  2003/08/04 (月) 16:43
人質T様お呼びでしょうか?
柴又八幡神社古墳の埴輪も露出度が高いのでしょうか?(^_^)
ところで明日潮来までいってきます。うちからですと交通の便が悪くまたいかなくてはならないとも思いますが。
明日も暑そうですね。溶けてしまうかもしれません。では。
PS,寅さん埴輪とは、いったいどのようなものでしょう?
腹巻でもしているのかな?




932. 柴又八幡神社古墳の現地説明会 さわらびT  2003/08/03 (日) 23:27
寅さんはにわのおかげで有名になった柴又八幡神社古墳ですが、現地説明会に出かけてまた関心がわきました。

今回の調査の目的のひとつに「古墳の形状および規模を確認する」とありました。円墳ではなく前方後円墳の可能性もあるのでしょうか。

はにわを話題にするとなると、まさみさんからのご意見も聞かなくてはね。はにわ処さんのお店でもも大事な商品ですよね。

ここは下総型埴輪の出土の西端と言われてるようですね。このはにわはとりわけ丁寧に作られてると感じました。さくらさんはにわと、ならべてとった写真もとりましたのでご覧ください。ただしこの寅さんはレプリカです。(本物もならべてありました。)

石室が鋸山の房州石を用いられていることはよく分かりました。先日見学に行った将軍山古墳の石室にも用いられた石材です。交流といえばよいのか、交易なのでしょうか。

昨日の白井克也先生の「交易と移住」のお話も思い出されます。

『人物埴輪の時代 埴輪から探る房総と武蔵の交流と地域性』(葛飾区郷土と天文の博物館、1997)の日高慎論文、松尾昌彦論文は面白いです。




931. 柴又八幡神社古墳の現地説明会と、矢切の渡し さわらびY(ゆみ)  2003/08/03 (日) 22:07
午前中、寅さん埴輪出土で有名になった柴又八幡神社古墳の現地説明会に行ってきました。

職場が近いのでよく遊びに行ったり、八千代市郷土歴史研究会の七福神めぐりなどで訪ねたことのある神社ですが、石室や発掘現場の見学は初めて。
行って見て感動したのは、郷土と天文の博物館の指導ですべてボランティアの「葛飾考古学クラブ」の手による学術調査だということです。
狭い境内でご神木の根を痛めないように丁寧に掘削し周溝の確認をしておられたり、また視力障害の方には出土品を手にとって触って知ってもらうなど、そのほか丁寧な応対に心打たれました。

古墳の上に社殿のある神社は、村上の根ノ神神社や畑の子守神社など身近にたくさんあります。
どこのムラの産土さまも、逃げもなくなりもしないので、行政が発掘することもなく、古墳があるということぐらいしかわかっていないのが原状ですが、ここのようにゆっくりと少しずつ継続的に発掘して成果を上げておられる葛飾区民の姿に、学ぶ点が多いと思いました。

帰りはどうしても、懸案の小金宿の一月寺の資料を探しに松戸歴史博物館に行こうと思い、Tと別れて、矢切の渡しを舟で渡って、矢切から松戸へ行きました。

やっと来た夏本番の暑さに、渡しは往復する客のみ、野菊の墓を通るのどかなウォーキングロードをテコテコ歩いているのは私だけ、真夏の矢切の渡しは、やはり往復をお勧めします。




930. Re: 電光石火 さわらびT  2003/08/03 (日) 00:05
まさみ様
「人質」になったTです。(^0^)

結局懇親会には参加してきました。鈴木英夫先生もいらっしゃったので、ゆっくり懇談させていただきました。

「「然の入宋活動」という発表ですが、私はさわらびYが調べている清涼寺式釈迦如来像の将来者としか認識がありません。中国史書に事績が豊富に記される人物として紹介されていましたが、懇親会で報告者の李先生からうかがったところ、「然の研究はほとんどされていないとのことでした。

まさみさんもご関心を持たれたようですが、石井正敏先生(中央大学)が、『宋史』に藤原真連の子とあるが、義蔵「然結縁手印状の「俗姓秦氏」と見えると指摘されていたのは興味深くうかがいました。

白井克也先生は、ボリューム満点の内容でしたね。考古学者がどう考えておられるのか、文献史学の先生にも刺激的だったようです。




929. 電光石火 まさみ  2003/08/02 (土) 23:24
>講演中、携帯にメールが入り、息子が久々に帰宅して夕飯を食べ、またすぐに今夜中に館山に合宿に行くとのことで・・・。

そうだったのですか。間に合いましたか?
まさに電光石火の速さで、あまりの速さにさわらびT様とわたしは唖然としてしまい、特にT様はどうしてよいやらと、うろうろとされてました。
T様は人質だったのですね。(^_^)

「東大寺僧「然の入宋活動」の報告については、「然を知らないわたしにとりましては、新しいおはなしでした。
途中、なじみのある円仁さんのお話が出てまいりまして、
円仁を支援した新羅坊的なものがあったのかな、とおもいました。質問者の方の「然が秦氏であると言う説のご指摘も興味深かったです。

> 白井先生の前の「東大寺僧「然の入宋活動」の報告も聞きたかったのですが、別教室で行なっていた「古代中世の神道・神社」研究会の笹生衛氏(千葉県立安房博物館上席研究員)
> の講演にもぐりこんで「古代中世における地域景観の変化と祭祀」と「最近の安房地方における祭祀遺跡の発掘成果」の報告を聞くことができました。

こちらも面白そうですね。せめて時間がずれていたならと残念でした。ゆみ様お会いしたときにぜひ是非ご教示ください!




927. Re: 私も残念でした、また13日に。 さわらびY(ゆみ)  2003/08/02 (土) 21:41
今日は、Tに誘われ、國學院大學の「東アジア異文化間交流史研究会セミナー」の、白井克哉氏(東京国立博物館)の「弥生・古墳期の日韓交易と移住」を聴講しに行ってきました。
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/news/article.php?storyid=38
まさみさん、みきこさんもいらっしゃると聞いて、急遽行くことに決めたのですが、講演中、携帯にメールが入り、息子が久々に帰宅して夕飯を食べ、またすぐに今夜中に館山に合宿に行くとのことで、残念ながら、「ものすごい速さで帰る」ことになり、申し訳ありませんでした。(Tを懇親会へ人質においてきましたのですが・・・)
私も、ゆっくりお話したかったです。

白井先生の前の「東大寺僧「然の入宋活動」の報告も聞きたかったのですが、別教室で行なっていた「古代中世の神道・神社」研究会の笹生衛氏(千葉県立安房博物館上席研究員)
の講演にもぐりこんで「古代中世における地域景観の変化と祭祀」と「最近の安房地方における祭祀遺跡の発掘成果」の報告を聞くことができました。
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/news/article.php?storyid=40

白井先生の報告は日本海を結んで、また笹生先生の報告は房総の一地方とエリアは違いましたが、どちらも最新の考古学の成果を、地図を駆使して二次元で捉えることができ興味深かったです。

13日に、鈴木先生(本日ご発言なさった先生)に講師をお願いして「伽耶・新羅史跡めぐりの旅」学習会を行ないます。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kayasigaginotabi.htm
旅行参加者に限らず、日韓古代史の貴重なお話が伺えるので、どなたでもぜひおいでください。(まさみさん、そのときでよろしければ、ゆっくりお話しましょうね。)




926. 残念でした まさみ  2003/08/02 (土) 18:32
さわらびY(ゆみ)さま。
ちょっとお話できるかなと思ったのですが、ものすごい速さで帰られてしまいとても残念でした。
また、お会いできるのを楽しみにしています。



925. 西宮冷蔵を考える 開田 誠 [URL]  2003/08/02 (土) 03:08
 ”西宮冷蔵を守ろう!”という文を回状として、多くのところへ送った。その回答がきました。また、私もWEB上で検索して、報道記事・掲示板をひらいているところへの意見など、100をこえた文を読みました。
 せちがらい世の中なんていう言葉があったなあという溜め息をもらす自分を見つめていました。
 西宮冷蔵を非難する人が、少なからずいます。まず、取引の秘密を破ったことへの非難です。つぎに、彼の行為によって路頭に迷った人がいる。倒産に追い込まれた会社があったではないか、彼も同罪になるべきだよ、というものです。
 このへんを、どうなっているのかのフォローが足りなく、西宮冷蔵を守ろうにパンチがないのがわかりました。
 私は、彼の告発によって倒産したという会社は”偽装倒産”ではなかったかと思います(その資本家への打撃がどうであったかの分析がありません)。そこから、締め出された社員は、現実を見たのであって、彼に文句をいうべきではないでしょう。
 さらに、取引”といわれていることはなんなのだろう。”関係の絶対”であるような重苦しさの響きで語られるのが”取引”であるようである。それは、ビジネスではありません。
 中学生になって、英語を勉強し始めて、はじめてぶつっかた、理解を超えていたことは、ビジネスライクの響きでした。今、それがふたたび課題であるようです。
 小学生の時(何年生であったか?)、テレビで「私は貝になりたい」を観た時、こども心に社会は大変だと思ったものです。 その戦争中の惨事が繰り返され続けているのではないか。自分のよってたつキバンのない社会、関係だけで決まっていく社会なのだ。
 それはナアナアだけでいく。関係だけを守ろうとしていくゴマカシなのである。ゴマカシがナアナアを生んでいる。
 ゴマカシを告発して苦しんでいるのが、西宮冷蔵、私はそう思いました。




924. Re;重すぎる課題 HON [URL]  2003/08/01 (金) 17:02
さわらびY(ゆみ)さん

>虚無僧寺と中世律宗の関係を探るべく、細川涼一著『中世の身分制と非人』所収の「ぼろぼろ(暮露)」を読みました。(引用中略)近世に作られた普化宗の所伝におおわれて実態不明な虚無僧寺の謎は、まだ解けそうにありません。

わたしも同様に思います。虚無僧寺の歴史だけ抜き出すのではなく、他の例えば時宗などの遊行僧などとの関わりを見ないと、実体は出てこないのではないかと考えています。近世とちがって中世は宗派にとらわれずに見ないと、見えてこないものが多いように思われてなりません。

>石井進先生の遺著となった『中世のかたち』を去年、手ずれができるほど読みました。

中世史の本道(?)を歩かれた石井氏は、わたしの印象では差別の問題にそれほど深く関わってきたとは思いませんが、遺著となった『中世のかたち』のなかで、秀吉の連雀出身説を読んで、やっとその気なられたか、という感慨を抱きました。だいたい農家出身とされる日吉丸が針売りなんぞやってたことじたい可笑しい。


>「差別の由来」は中世史研究にとって、現代に投げかけるもっとも重い内容テーマなのかもしれませんね。
そういう意味で、HONさまのHPの「弾左衛門東行譚」シリーズ、じっくり読みました。

「弾左衛門東行譚」はまだ非常に荒いのですが、一応、全体史なかで差別の問題を位置づけたいと考えて書きました。制度的には既に律令制の時代に始まる奴婢制度にあることは、掲示板に連載中の「悠久の始原」で明らかにしています。これが中世とどう関わるか、今後の課題ですが。そのためにも仏教史をしっかり押さえないと何も分からないと思って、徳一から忍性にいたる過程が、その要にあるとにらんでいます。また
弾左衛門制度の前提には、一向一揆壊滅後の処置と関わってきますから、それはHP「一向一揆戦線/一向一揆が行く」の締め括りの課題になる予定です。論法としていささか戦略的でもありますが、こんなことを漠然と考えながら、気長にやるつもりです。何しろ本当に「重すぎる課題」であり、今日の様々な差別問題にまで関わりあることですから。
HP「一向一揆戦線/一向一揆が行く」 
http://honk.hp.infoseek.co.jp/index.html




923. Re:3;壬生直と宇治部(直) HON  2003/08/01 (金) 16:53
さわらびTさん

>その後の物部のことですが、壬申の乱で大友側についた麻呂が、律令官人として出世を遂げ不比等と並ぶ実力者になったことの意味なんて興味ありますね。(麻呂は壬申の乱で死んだという説もあるようですが。)

石川麻呂が活躍する天武・持統朝では、藤原不比等はまだ実力を発揮できる立場にはいませんから、二人を並べて比較するのは無理ではないかと思います。不比等のやったことの第一歩は、物部氏などの伝統的な豪族的氏族を一掃して、官位制による実力主義を持ち込んだと見ています。

>木本好信氏は物部朴井連雄君が同族の麻呂をかばっての行為があったのかもしれないと述べておられますが、氏族としての隆盛を取り戻すためにはどのような経緯があったのか、考えさせられます。

物部朴井連雄君と石川麻呂には、そのような関係も考えられますね。
物部朴井連雄君は大海人の舎人ですが、『先代旧事紀』天孫本紀の物部系譜をたどると、物部朴井連氏は物部弓削守屋の弓削氏から出ています。ここから類推すると、弓削守屋が倒された後、服属して舎人を出すようになったと考えられます。それがどこかで渡来氏族の朴井氏とつながった。




922. 掲示板のバックナンバーのページを作りました さわらびY(ゆみ)  2003/08/01 (金) 01:31
皆様のおかげで充実し、発展し続ける掲示板ですが、容量を超えて、前の方からオーバーフローし、過去の発言が消えつつあります。
そこで今回、過去ログのページを作り、そこへ貴重なご発言を順次保存していくことにしました。

もちろん書き込み、削除はできません。
削除は、申し訳ありませんが、管理人までお言付けください。

読み返すと、懐かしくまた貴重なご意見ばかりです。
ありがとうございました。




921. 重すぎる課題 さわらびY(ゆみ)  2003/08/01 (金) 00:18
HONさま
虚無僧寺と中世律宗の関係を探るべく、細川涼一著『中世の身分制と非人』所収の「ぼろぼろ(暮露)」を読みました。
中世の「ぼろぼろ=薦僧か?」という論議の学説史的な流れは整理できましたが、具体的な中世の一月寺(松戸の虚無僧寺)についての具体的なことの手がかりは得られていません。
もしかしたら、素人には手におえないまだ未調査の分野なのか、近世に作られた普化宗の所伝におおわれて実態不明な虚無僧寺の謎は、まだ解けそうにありません。

それよりも、『中世の身分制と非人』の他の論文、また6/19のNo.804.でHONさまにご紹介いただいた赤坂憲雄著『東西/南北考』を読み、やはりHONさまと同じく、「差別の由来」についてまたまた、深みにはまっています。

石井進先生の遺著となった『中世のかたち』を去年、手ずれができるほど読みました。
生前、ご講演のほか、直接気軽にお話いただける機会があり、「律宗がかえって差別を深めたのではないのでしょうか」と質問したことがありましたが、「ぼくもその件について考えているところですので、そのうちに」とお答えになったまま、お会いできなくなりました。
『中世のかたち』でも「簡単に解決のつかない問題として、私のなかに座りつづけている難問」と謙虚に締めくくられています。

「差別の由来」は中世史研究にとって、現代に投げかけるもっとも重い内容テーマなのかもしれませんね。
そういう意味で、HONさまのHPの「弾左衛門東行譚」シリーズ、じっくり読みました。
ちょうど5月から、この続編ともいうべき近世の「その後の弾左衛門体制」を、「解放新聞東京版」の浦本譽至史氏の連載で目にする機会があり、そういう意味でも、興味深かったです。

また私がだいぶ前に読んで感動した横井清氏の触穢思想についても、考えさせられました。
ケガレ観念(=差別)が、東西の文化の違いや、頼朝政権の東下とその後の仏教思想浸透で持ち込まれた可能性が解き明かされれば、死などのケガレに関する横井氏の「原始が保ってきた深い祈りの世界」という見解は、触穢思想の淵源は人類「固有」のものではないという実証の上に、乗り越えられるべきなのでしょう。

現代社会と切り結んで歴史を考えるものにとって、この課題は大きいと思います。




920. Re: Re;壬生直と宇治部(直) さわらびT  2003/07/31 (木) 23:13
HON様

いつもご教示ありがとうございます。髻華の会の講演会中止の告知を優先しましたので、書き込みを自粛しておりました。

> そこで宇治部連ですが、伊香我色雄命の後裔氏族だから物部系という解釈を、わたしは取りません。
> たしかに祟神紀には物部連の祖とありますが、物部氏そのものではありません。伊香氏というのがいて、姓氏録左京神別に伊香連があり、こちらは中臣同祖となってますから、この違いをどう解くかです。何々の祖とあっても、単純にその一族とみなす説が多いようですが、軽率だと思います。

なるほど、そうなんでしょうね。古代氏族を実態として解明するには軽率な判断は慎むべきですね。

私なりにこれから少しづつ勉強していきたいと思っております。これからもよろしくお願いします。

ところで、その後の物部のことですが、壬申の乱で大友側についた麻呂が、律令官人として出世を遂げ不比等と並ぶ実力者になったことの意味なんて興味ありますね。(麻呂は壬申の乱で死んだという説もあるようですが。)

木本好信氏は物部朴井連雄君が同族の麻呂をかばっての行為があったのかもしれないと述べておられますが、氏族としての隆盛を取り戻すためにはどのような経緯があったのか、考えさせられます。

(木本好信『律令貴族と政争』(塙書房、2001)を参照しました)




919. 急告!8月2日髻華の会中止! さわらびY(ゆみ)  2003/07/30 (水) 20:51
急告!!
今、主催者からメールで入った情報です。

8月2日(土)髻華の会の講演会は、講師の石川先生の急なご用で中止になったそうです。




918. Re: 西宮冷蔵をまもろう!! さわらびY(ゆみ)  2003/07/30 (水) 20:44
開田さま
そんな事件があったこと、すっかり忘れていましたね。

>  西宮冷蔵が倒産に追い込まれたというのは、私たちの社会の責任だと思います。
>  しずかに私に何もしないでいていいのかいと訴えてきていました

共感です。
ところで7月27日に西宮冷蔵チャリティーイベントがあったそうですね。
http://music.pdlaboratory.com/~nishinomiya/




917. 西宮冷蔵をまもろう!! 開田 誠 [URL]  2003/07/30 (水) 09:39

 雪印食品の偽装牛肉事件は、もう私たちの記憶から過ぎてしまっていますよね。北海道では、青い牛乳パックであったものは、赤いメグミルクになっています。そんな私の手許に驚く情報がもたされました。私が驚くのでしたから、みなさんも知らないことと思いますので、このような文を書きます。
 その偽装牛肉事件を告発した水谷さん(西宮冷蔵)が窮地にたっています。私は、その方とは面識はありません。だが、聞いていて何かできないかと、思ってしまいます。お金のことは、私にはぜんぜんダメですが、多くの人々が集まれば何とかなるのではないかとも思ってしまうのです。そこで、みなさん、聞いてみてください。水谷さんに、どうなっているのか、どう手助けしたらいいか、送金はどこへか、と。
 私にこの情報を持ち込んできたのは、”月刊むすぶ”です。ロシナンテ社の発行。前の名は”地域闘争”といっていました。私は、70年代それを読み、社会を学んでいたんだという恩がありました。ですから、3年前に沖縄の自然保護の集会でその雑誌を売りに来ていた編集者とあって、話しているうちに定期購読者になってしまいました。
 その雑誌は、ミニコミであることを、誇りにしています。心は心に応えればいい、そういう自負に貫かれています。この水谷さんからの窮状を訴えた手紙が雑誌の冒頭にのっていたのは、しずかに私に何もしないでいていいのかいと訴えてきていました。私は金はまったくありません。でも。1000円、1万円の人が1000人集めることはできないのかと思い、この回状をまわしてください。
 西宮冷蔵が倒産に追い込まれたというのは、私たちの社会の責任だと思います。その社の人々へ、支援と激励を送ってください。
〒662−0934  兵庫県西宮市西宮浜3−11−2   携帯電話090−3491−3738    
西宮冷蔵  水谷洋一 
 e-mail:nishinomiyareizou@yahoo.co.jp
 この宛先へ激励を!!カンパを!!!!




916. Re;壬生直と宇治部(直) HON  2003/07/30 (水) 00:12
宇治部直の出典あげていたたきまして、ありがとうございます。姓氏録は開いたのですが続日本紀まで手がまわりませんでした。

>宇治部連は物部系の伊香我色雄命の後裔氏族を称しているわけですから、立評申請時の那珂国造である壬生直との関係の理解が難しい、というのがひとつの問題提起になります。

常陸国の宇治部直と河内国の宇治部連は居住地も違えば姓も違いますから、異族であり、宇治部直を伊香我色雄命の後裔氏族ということにはならないと思います。

そこで宇治部連ですが、伊香我色雄命の後裔氏族だから物部系という解釈を、わたしは取りません。
たしかに祟神紀には物部連の祖とありますが、物部氏そのものではありません。伊香氏というのがいて、姓氏録左京神別に伊香連があり、こちらは中臣同祖となってますから、この違いをどう解くかです。何々の祖とあっても、単純にその一族とみなす説が多いようですが、軽率だと思います。




915. Re: Re;激動に翻弄された地方豪族 まさみ  2003/07/29 (火) 23:50
HONさまこんばんは。いつもありがとうございます。
今夜は妙に蒸し暑いですね。

> この「宇治部直」は、まさみさんの「892. Re: 大生神社」のご発言で出された
> >「仲国司」は「那珂氏」→「壬生氏」→「宇治部氏」となっていますが(以下略)
> と同じ件かと見受けますが、「宇治部直」の出典が判りません。
すみません、ご存知と思い特に書かなかったのですが
「常陸風土記の探求」河野辰男著の中に書かれております。

「壬生氏」→「宇治部氏」の件は根拠があるらしいので、近いうちに調べに行こうと思っております。見つかるといいのですが・・・。




914. 壬生直と宇治部(直) さわらびT  2003/07/29 (火) 22:49
HON様

奈良時代の那珂郡の郡司は、宇治部(直)とされ通常史料として用いられているのは以下のものでしょう。(篠川賢『日本古代国造制の研究』吉川弘文館、1996参照)

「常陸国那賀郡大領外正七位上宇治部直荒山。以私穀三千斛。献陸奧国鎮所。授外從五位下。」(『続日本紀』養老七年二月戊申条)

「常陸国那賀郡大領外正七位下宇治部全成。並授外從五位下。以進軍粮也。」(『続日本紀』天応元年正月乙亥条)

「常陸国那賀郡大井郷戸主宇治部花麿戸宇治部□□調曝布壱端長四丈二尺広二尺四寸 専当国司大丈掾正六位上池原君豊石 郡司擬少領大初位下宇治部大成 天平宝字元年 十月」(『正倉院宝物銘文集成』)

先に引用した建評記事にはさまざまな解釈があるようですね。那珂国造大建壬生直夫子が建評以前からの世襲職かどうかは不明であるが、立評を契機に実質的に支配権を有していた行方の地を茨城国造一族である壬生連の協力を得ての申請ではなかったかと篠川先生は論じています。

宇治部連は物部系の伊香我色雄命の後裔氏族を称しているわけですから、立評申請時の那珂国造である壬生直との関係の理解が難しい、というのがひとつの問題提起になります。




913. 桃とうちわの呪力 さわらびY(ゆみ)  2003/07/29 (火) 22:26
高橋様、HON様
「稲毛の浅間様お参り今昔」のページをご覧いただきありがとうございました。

昨日、このページをお読みくださった民俗研究家の萩原法子さまから、貴重なご意見をいただきましたので、ご紹介します。(萩原先生は市川在住、3月のシルクロードの会で「オビシャ」と三本足のカラスについてお話いただきました)

>桃は「邪気を祓う縁起物」ですが、桃の実が女陰(ホト)に似ているからか、子授けや安産祈願とも関わります。
>我が家の近くの庚申様には、桃を手にした猿が刻まれています。

当掲示板の848(7/3 )〜851(7/6)でも、歴博のはにわ展での女性器表現のはにわを巡って、縄文に遡る「女陰の呪力」の話題がありましたね。

また唐招提寺のうちわ撒きとうちわ、その由来書もお送りいただきました。
「唐招提寺うちわ撒き」は、「蚊に血を与えるのも布施の行」と言ったという覚盛の遺徳をしのんで法華寺の尼僧達が命日にハート型のうちわを霊前に供えた法要に由来し、撒かれたうちわは、安産・雷難火難除け・害虫除けの効があるとして、競って取るそうです。

覚盛も西大寺の叡尊と並んで、鎌倉期に戒律を復興し唐招提寺を中興した律僧でしたね。

萩原様、ありがとうございました。
稲毛浅間様大祭のページは、近いうちに更新したいと思います。

> ボクは先週千倉の白間津の大祭を見てきました。
これも由緒あるすごい祭りですね。UPを楽しみにしています。




912. お久し振りです 高橋敬三 [URL]  2003/07/29 (火) 15:45
お久し振りです。
書き込み有難うございました。
早速稲毛神社大祭のページを拝見しました。
歴史家らし今昔稲毛物語を面白く拝見しました。あのような纏め方もあるんだなあと大変参考になりました。
有難うございました。
ボクは先週千倉の白間津の大祭を見てきました。今整理中です。
貴方のように早く出来ませんが、出来たら連絡します。
それでは




911. Re;激動に翻弄された地方豪族 HON  2003/07/29 (火) 00:43
さわらびTさん

中央と地方豪族の関係は、例えば同じ「物部氏」であっても血縁的な同族とは限りません。職能的に同じものを担うことで支配・被支配の関係が生じたものと思われます。したがって、中央の支配者が変わったからといって、地方の被支配者側まで影響の出ることはないと考えます。

>壬生直は石上朝臣が勢力を回復するとともに「宇治部直」に戻ったとする解釈も興味深いです。

この「宇治部直」は、まさみさんの「892. Re: 大生神社」のご発言で出された
>「仲国司」は「那珂氏」→「壬生氏」→「宇治部氏」となっていますが(以下略)
と同じ件かと見受けますが、「宇治部直」の出典が判りません。

一般論でいいますと、氏族名は簡単に、また勝手に変えらるものでもなく、変わったとするには、推測だけでなく、その根拠が必要になります。




910. 掲示板のご利用について さわらびY(ゆみ)  2003/07/28 (月) 23:59
HONさま、ご発言の丁寧な推敲をご苦労様です。

当掲示板も「学術的?」な記載が多く、それなりに造詣の深い方々にご覧いただいているようですので、メンテナンスにお気を使われることもあるかと思いますが、どうかお気遣いされないでください。
私も、自分の発言を二重に消去したり、管理人キーで大事なご発言を消してしまったりしてから、(消えていないと思って、次のまで消してしまったことが原因だったよう?)Tの助言に従い、些細な入力ミスは神経質にせずそのままにし、固有名詞や年号などの間違いは、気づいた時に訂正を書き込みすることにしました。
消去については、どうも時間差があってすぐに反映されない場合もありますから、皆様もどうかご注意ください。


掲示板の中身の濃い内容や新知見の発言については、管理人のページ同様に他への発表にご利用いただいたことが今までにありました。
掲示板はオープンな情報交換が目的ですから、ご活用いただければ管理人冥利に尽きるのですが、他のメディアへのご利用については、発言者の意図や他からの引用、訂正、また著作権などについて配慮しなければと思いますので、できれば発言者に連絡されるようお願いします。
(HONさまほか、時には研究者の方の貴重なご発言でいっぱいの、宝箱のような掲示板になってきましたから、よろしくお願いします)

この掲示板は、メールアドレスが必要ですが、内容に関してはたぶん検索エンジンには感知されないようになっているようですので、その点自由に発言できるメリットがあります。
どうか、これからもお気軽にご活用のほどお願いします。




908. 激動に翻弄された地方豪族 さわらびT  2003/07/28 (月) 23:25
HON様

今までろくに調べもせず、紹介していた諸先生の論考にも疑問点はあるのだと、あらためて考えております。ありがとうございます。

> したがって、守屋が滅ぼされても物部氏の部民が路頭に迷うことなど有り得ない。何故なら、物部守屋の後から石上氏が出て、天智・天武朝に活躍しています。石上氏もはじめは物部氏を称していました。

「時人相謂曰、蘇我大臣之妻、是物部守屋連之妹也。大臣妄用妻計、而殺大連矣。平乱之後、於摂津国、造四天王寺。分大連奴半与宅、為大寺奴田荘。」(『崇峻即位前紀』)

物部所領の再分配は、この記事が論拠でしょうか。物部の本家の滅亡は、地方豪族の動揺を招き、上宮王家部民=壬生部に転進する道を選んだとしてもやむをえない事態であったというのがひとつの解釈です。HONさんのお考えでは一時的にも迷うことはなかったと理解されておられる、ということでしょうか。

歴史の流れは、上宮王家は蘇我氏に滅ぼされ、その蘇我本宗家もまた倒される。しかるに物部は、連麻呂を始祖とする石上朝臣として氏族としては復権をとげることになるわけです。かくして、伴造氏も大和の土豪も、ましてや地方豪族は推古朝以降の政変劇には翻弄されたということなのだと理解します。

『常陸国風土記』行方郡、茨城国造・壬生連麻呂、那珂国造・大建壬生直夫子らの建郡記事を大和の政治変動とどのようにかかわらせて理解するか、ということになるかと私には思えます。私は、物部本家の敗退が壬生部の伸張を一時的に進めた時期があったのだという説に親近感を持っています。しかし最終的に大海人=天武が勝利することで地方豪族もまた安定を得たのではないかと考えます。

したがって、井上辰雄「那珂国造とヤマト王権」(『常総の歴史』第29号)にあるように、壬生直は石上朝臣が勢力を回復するとともに「宇治部直」に戻ったとする解釈も興味深いです。勉強不足ですので、またお教えください。




907. 縄文蓮など HON  2003/07/27 (日) 23:54
さわらびY(ゆみ)さん

「大生部と壬生」、盛り上がってますね、誰のセイかしらねど!

『子育ての「稲毛の浅間様」お参り今昔』と
「川柳と旅と写真のホームページ」拝見しました。
川柳や俳句、気軽にできる人、うらやましい。
気持ちの余裕ないとダメですね。

わたしのサイトにも縄文蓮の本場ものがありますが、
朝寝坊でロクナ画像になっていません。
http://hon.web.infoseek.co.jp/tama/ogu/o017/o017t.htm

>中世の宿と非人身分、薦僧の考察が避けて通れそうもなく、細川涼一著『中世の身分制と非人』を手に、ただ今充電中です。

あ、やはりここへ来ましたね。ついでに網野善彦著『蒙古襲来 上下』(小学館ライブラリー)も読まれると、中世史全体の中での律宗の位置づけがよく理解できます。
わたしの「弾左衛門東行譚」は今日でとりあえず一段落つけました。問題が重過ぎて、広くて、一期に片付けるわけにはいかない。「水の神の系譜」を書いて、坂東全体を見渡したとき、徳一や忍性に思いいたり、とりあえず「弾左衛門東行譚」で全体の流れをつかんでおこうと思いました。

そういえば、摂津の多田に東光寺を開いた慈覚大師円仁は下野の壬生氏出身です。前に「壬生=丹生」ということをチラと書きましたが、これも「水の神の系譜」の坂東版へ拡大するための予備作業でして、徳一・忍性に連なる問題と考えています。「大生部と壬生」にコダワルのも、そんなところから来ているのかもしれません。




906. NO;896の発言 HON  2003/07/27 (日) 23:53
みなさん、申し訳ありません。
発言の間違った文字を訂正しようとして、一旦削除したら自分の別な発言を削除してしまいました。
本来NO;896の発言で、順序が変わってしまい読みにくいかと思いますが、改めてUPしました。

さわらびTさん、
いろいろなお説をご紹介いただきまして、ありがとうございます。

>ただし、私自身の見解ではありませんし、

よく承知しておりますのでご安心を。
ですから気軽に逆らってます。

>なぜ推古朝にこのように部民が多く設置されたのか、それは物部の没落に関係すると考えるのが妥当だと思います。物部氏は蘇我氏に討ち滅ぼされるわけですが、東国には膨大な物部氏の部民がいたらしいですが、物部氏が滅ぼされると多くのものが「壬生」に変わっていったと考えられます。

この物部氏の部民が「壬生」に変わったという考えの根拠は有りません。滅ぼされた物部守屋の正式名は物部弓削守屋です。父が物部尾輿、母は弓削阿佐姫で両親の姓を並べた複姓です。しかも本貫は母方の河内国の弓削にあったから、蘇我氏などに攻められたとき、物部氏の石上ではなく、弓削へ逃げ込んだのです。そこから二百年後に僧弓削道鏡が出てくるのは皮肉なことですが。

したがって、守屋が滅ぼされても物部氏の部民が路頭に迷うことなど有り得ない。何故なら、物部守屋の後から石上氏が出て、天智・天武朝に活躍しています。石上氏もはじめは物部氏を称していました。

>大生部=推古15年(607)年に設置された壬生部(生部)[壬生部は皇子・皇女の資養に当てるため設けられた部]の一種、「オオミブベ」から「オオフベ」に転嫁。大生部は壬生部の中でも、特に秦氏一族が管理にあずかった上宮王家の壬生部の「上宮(かみつみのみぶ)」さすと思われる。

特定の皇子・皇女に奉仕した御名代部に変えて、一括したのが壬生部ですから、上宮王家に特定される壬生部がいたわけではありません。「壬生部=大生部」にこだわると、こうした勝手な解釈もでてくることがよく分かるお説と拝見しました。




904. 『子育ての「稲毛の浅間様」お参り今昔』をUP さわらびY(ゆみ)  2003/07/27 (日) 18:15
HONさま、みなさま
私の20日の「印波国造のルーツはだれ?」からスタート、十数本のレスの応酬で、「大生部と壬生」をめぐり、議論が白熱しているところ、話題をかえてすみません。
(このBBSとご紹介いただいた「水の神の系譜」発言は、Wordにコピーし、プリントして熟読している最中です。)

かる〜い内容の、民俗・祭りシリーズ『子育ての「稲毛の浅間様」お参り今昔』をUPしましたので、ご覧になってください。

写真の腕も、川柳のコメントも高橋さまの「川柳と旅と写真のホームページ」に到底かないっこないので、昔の写真と民俗の考察でお茶を濁しました。

私の取材は日中でしたので、キャストもかわいい赤ちゃんと幼児中心。(息子が大きくなってから、子供を被写体にするのは久しぶりです)
クライマックスの夜祭は、高橋さまの「デジカメ散歩」をご覧いただき、また違った雰囲気を楽しんでください。(大賀はすの画像もさすがですね。)
http://takawasi.hp.infoseek.co.jp/sengen.html

「稲毛の浅間様お参り今昔」で、昔の、または最近の思い出などそれぞれありましたら、お聞かせください。

次は、虚無僧寺一月寺の釈迦像がテーマでしたね。
中世の宿と非人身分、薦僧の考察が避けて通れそうもなく、細川涼一著『中世の身分制と非人』を手に、ただ今充電中です。
HONさんのお宅のBBSの現在のご発言「弾左衛門東行譚」もたいへん参考になります。
重いテーマですので、だいぶ時間がかかりそう。
HON様、どうかこっちのほうも面倒を見てくださいね。




903. Re^7: 大生部と壬生  HON  2003/07/27 (日) 09:09
 さわらびTさん

引用された『姓氏録』と『和名抄』の記事を抽象化すると、「大壬生」が「美夫郷」にいた。だから「大壬生」は「大生部」である、とおっしゃってるとしか読めません。説明がまるで論理的に通じず、「思い」ばかりしか伝わりません。




902. Re^6: 大生部と壬生 さわらびT  2003/07/26 (土) 23:52
HON様

いつも貴重なご意見ありがとうございます。ここ数日、あわただしく過ごしております。もともとワープロ操作が下手なものですから若干引用ミスもありますので、訂正かたがた書き込みいたします。

> 特定の皇子・皇女に奉仕した御名代部に変えて、一括したのが壬生部ですから、上宮王家に特定される壬生部がいたわけではありません。「壬生部=大生部」にこだわると、こうした勝手な解釈もでてくることがよく分かるお説と拝見しました。

HONさんのお考えとは、多少議論がかみ合ってないかもしれませんが、私が勉強した範囲での流れで「大生部」=オオミブベ説をあらためて紹介します。この説を提唱したのは、このHPではおなじみの加藤謙吉先生です。

「「大生部」は岩崎本を初めとして一般に「オオフベ」と訓まれているが、壬生部を「生部(みぶべ)」とも記すこと、『姓氏録』左京皇別上の御使(みつかい)朝臣の本系に、御室(みむろ)の雑使であった「大壬生(おおみぶ)」らが逃亡し、御使氏の祖である気入彦(けいりひこ)命に参河国で捕らえられたとあること、大壬生の逃亡先(実際にはその本拠地)とみられる地域として、『和名抄』によれば、参河国八名(やな)郡に「美夫郷」の郷名があることなどに依拠すると「大生部」は「大壬生部」のことで、本来は「オオミブベ」と訓まれ、「オオフベ」に転訛した可能性が大きい。」(加藤謙吉『秦氏とその民』白水社、1998、199ページより)

前回、髻華の会レジュメからの引用として掲載した部分ですが、「上宮(かみつみのみぶ)」とあるます部分は、「上宮乳部(かみつみやのみぶ)」が正しいです。訂正します。(同上書、55〜ら56ページに同内容の記述があります。)

加藤先生の説を発展させた仁藤敦史の論考「『斑鳩宮』の経営について」(『古代王権と都城』吉川弘文館、1998の所収)もあります。ご参考まで。

加藤先生は、大生=多氏説を旧説として退け、壬生部の分布とも重なることからこの説を述べられたともうかがいました。9月からの加藤先生との勉強会では、この問題も取り上げて議論したいと思っています。部分引用では加藤説の真意はつたわりにくいかとも思います。よろしければ、『秦氏とその民』をご検討ください。




901. 「流転の梵鐘を追って」設楽氏についての記載を補充しました さわらびY(ゆみ)  2003/07/26 (土) 18:32
「千葉氏の一族」の柴田さまから梵鐘銘の「檀那設楽助太郎大伴継長」上総設楽氏と千葉氏の直臣設楽氏について、関心を寄せていただきましたので、「流転の梵鐘を追って」のページを更新し、佐倉の設楽氏についての記述と画像を追加しました。
歴史随想としては、ちょっと煩雑で読みにくくなりましたが、新説に近い内容ですので、ご興味のある方はもう一度お読みになって、ご意見をください。

実は一昨年、青菅の正福寺で「小島泰堂」碑についてローカルな調査をしていたのですが、その隣が設楽半左衛門家でした。
臼井の妙伝寺も何回か、臼井城跡の史跡散歩やその下見で訪ねたのですが、今回思いがけず、本土寺梵鐘銘を巡って細い糸がつながり、驚いています。

佐倉の歴史研究の中では、設楽家のご当主が語りたがらないので、本土寺梵鐘銘の名家の歴史はあまり明らかになっていないようです。
本日、設楽家の奥様に住居の撮影のお許しをいただき、また菩提寺をお聞きして、妙伝寺を訪ね、ここの奥様に日伝と日朗、本土寺の関係や妙伝寺の大檀那設楽家のことを、やっと確認できました。

柴田様、ご助言をいただきありがとうございました。
実際に足と目で見て史料に当たり、また新しい発見をレポートしていきたいと思います。