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No.1701-No.1800 2004/10/162004/11/21
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1800. Re: 井野長割遺跡が国の指定に さわらびY(ゆみ)  2004/11/21 (日) 08:25
11/20千葉日報に記事が載っています。
http://www.chibanippo.co.jp/t-news/chiiki/chiiki.html



1799. 23日馬場小室山に行ってみませんか さわらびY(ゆみ)  2004/11/20 (土) 21:47
本日は、八千代の郷土史展へお越しくださいまして、ありがとうございました。
会場を閉めるとき、ご来場者カードを見て、「さわらび通信」をご覧くださってご来場いただいた何人かの方が居られたことにきづきました。
せっかくおいでいただいたのに、忙しさにご挨拶もできず、たいへん失礼しました。

明日は9時から16時までの予定ですので、お時間があったら覗いてみてください。

ところで、23日の休日は馬場小室山に行ってみませんか。
武蔵野線東浦和駅に午後1時待ち合わせとします。
よろしかったら、同行希望の方はメールください。



1798. 井野長割遺跡のニュース & 郷土史展へどうぞ さわらびY(ゆみ)  2004/11/19 (金) 23:11
> 今夕のNHK首都圏ネットで井野長割遺跡が国の史跡として指定されたとのニュースが流れました。

お知らせありがとう。
Yahoo!ニュースの記事にも(ただし解説なしで)ありましたね。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041119-00000100-mai-soci

馬場小室山遺跡保存について、地元の運動やインターネット、新聞紙上のニュースが全国に知られ、各県市の教委がわが事として受け止め、史跡指定や景観保存につくしてくれれば、運動の甲斐があるといえるでしょう。

朝日新聞の17日の記事は、鈴木先生やあるけ〜さんのご尽力で、新聞社の許諾を得て「馬場小室山遺跡緊急特設ページ」に転載されました。
http://chiba.fc2web.com/hozon/asahi041117.html
おととい読みそこなった方はぜひご覧ください。

明日は、八千代市郷土歴史研究会恒例の大イベント「郷土史展」が八千代市勝田台で開催されます。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudositen/kyoudositen16.htm

テーマは「旧高津村のすがたと人々」
私は、「ムラ境を祀る:辻切りと咳神様」を担当します。
展示説明は20・21日の2時から。どうぞ皆様おいでください。




1797. 井野長割遺跡が国の指定に kagokaki  2004/11/19 (金) 19:40
今夕のNHK首都圏ネットで井野長割遺跡が国の史跡として指定されたとのニュースが流れました。実は昨日大規模宅地開発業者との会合があったばかりですが、業者は既に織り込み済みでして、遺跡の部分へ埋める予定だった土が、その分余計に搬出せざるを得なくなったので了解願いたいとの説明があって、こちらとしてはいささか複雑な気持ちになりましたが、正式に保存が決まりまことに良かったと思います。
佐倉市の文化行政は、これまで美術館の建設など過大な費用をかけすぎるという批判があるのですが、一方今回のように住民が保存運動を起こす前に指定に動いたのは、それなりに良識あり、情熱ありと評価していいかも知れません。



1796. 朝日新聞の記事 さわらびT  2004/11/18 (木) 21:44
昨日の朝日新聞夕刊「単眼複眼」で、中村俊介氏が適切に書いておられるように、旧浦和市時代にはこの遺跡の重要性が認識されていたにもかかわらず、合併に伴う認識の引継ぎがなされていないのではないか、という点が問題です。

日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会・委員長の近藤英夫(東海大学教授)の「遺跡の公開や現地説明会など、本来行政がやらなくてはならない責任がなされていない」というご指摘、明治大学の阿部芳郎助教授の「全国で市町村合併が実施されているが、もし文化財行政内で遺跡の価値の認識が引き継がれていないとすれば、同じ問題が各地で起こりかねない」とのご発言も重い言葉として響きます。

知らなかったのですが、藤井寺市の国史跡の「はざみ山古墳」が、なぜか近々、競売にかけられるようですね。とんでもない「珍事」といえますが、それらもあわせて行政の誠実な対応をこの記事は訴えています。

ところで、ついでながら「はざみ山古墳」は古市古墳群、先日たまたま近くまで行っていたわけですが、誉田御廟山(現応神陵)の西隣にある墳丘長100mほど、古墳時代中期の前方後円墳のようです。(昨年、誉田御廟山に行った時、通っている筈?下記ページをご覧ください。)

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/12.28kawati.htm



1795. 11/18の鈴木先生発信メールをぜひお読みください さわらびY(ゆみ)  2004/11/18 (木) 19:39
昨日の朝日新聞の記事掲載と期を同じくして、関係者への鈴木先生からのメールご覧になりましたか。
・2004年11月18日 【市教委による文化財保護法遵守対応の件】
・2004年11月18日 馬場小室山遺跡の工事に関わる「行政の責任」の件

さっそく「馬場小室山遺跡・緊急特設」ページに、あるけ〜さんがUPしてくださったので、ぜひお読みください。
http://chiba.fc2web.com/bbo/

やっと市が、「行政の責任」で誠意をもって対応していくことが確認されたこれまでの状況からは画期的な内容のメールと、市教育委員会への書簡です。
「行政の責任」という当たり前のことを、認めていただくまでの鈴木先生、飯塚さん、市議や専門家の皆さんの「情熱」をあらためて称えたいと思います。

といっても、私たちにとってこれまで以上に『「行政の責任」の監視とともに、馬場小室山遺跡の重要性を周知させる活動』が重要なことですね。

本HPの遺跡の持つ歴史的な経緯と景観の考察のシリーズも3回に分けて、とりあえずUPし終えました。
書きながら、市役所や市教委の一般職員の方々に見ていただけたらと思っていました。
晩秋の馬場小室山、時間が許せば行きたいですね。



1794. Re: 「10 小室山に秘められた遺構の謎」をUP、& 朝日新聞夕刊記事紹介 T花  2004/11/17 (水) 23:11
こんばんは。

今日の朝日新聞の夕刊、先ほど仕事から帰ってきてから読みました。
「情熱」という言葉が一つのキーワードになるかもしれませんね。
馬場小室山遺跡の件は、鈴木正博さんの「情熱」が実りつつあるのでしょうか。色々考えるところはありますが、まずは最初に行動を起こされた鈴木さんの今後にご期待申しあげます。
日本人は何かというと理由をつけて今までやったことがないことや前例をひっくり返すことを避けてしまいがちですが、「情熱」がそれを変える原動力となることは間違いないでしょう。



1793. Re;「10 小室山に秘められた遺構の謎」をUP HON  2004/11/17 (水) 23:08
>古代より「御室(おむろ・みむろ)」とよんだのは、ひょっとしてこの遺跡の最大の特徴点である中央窪地ではないかという「仮説」を書きました。ご批判ご意見ありましたら、どうかお聞かせください。

ちょっと思いつきなんですが。
中央窪地は「井戸」という見方はどうでしょうか。
関東には「まいまいず井戸」といわれるものが各地にあります。
垂直に掘れないのでスリ鉢状に掘った井戸です。

大宮台地の周辺は、かつて海でした。
それが河川になったのは縄文後期ごろといわれます。
見沼ができたのは江戸時代になってからです。

周囲が海だったころ、飲料水はどこから確保したのでしょう。
大宮台地に山はありませんから、湧水にたよるしかない。
そこが「御室」といわれるのは、もしかして「水室(みむろ)」
だったかもしれない、という思いつきです。

この近くの「まいまいず井戸」としては狭山市に
掘兼井と七曲井戸があり、いずれも神社や堂の境内です。
この二つの井戸はまだUPしてませんが、羽村と青梅のものがあります。
羽村のまいまいず井戸
http://hon.web.infoseek.co.jp/tama/tam/t016/t016t.htm



1792. 「10 小室山に秘められた遺構の謎」をUP、& 朝日新聞夕刊記事紹介 さわらびY(ゆみ)  2004/11/17 (水) 19:26
 昨夜「10 小室山に秘められた遺構の謎」をUPしました。
リンクを貼る作業などしているうちに、日付が替わって11/17付けになりました。
 古代より「御室(おむろ・みむろ)」とよんだのは、ひょっとしてこの遺跡の最大の特徴点である中央窪地ではないかという「仮説」を書きました。ご批判ご意見ありましたら、どうかお聞かせください。

また、本日の朝日新聞夕刊に、ずっと待っていた中村俊介記者の『馬場小室山遺跡調査の「拙速」』という記事が載りました。

自治体合併の弊害を指摘し、浦和市時代の発掘担当者の「その貴重さを考えて一生懸命、調査した。でも、行政の担当者は何人も代わったし、情熱まで引き継げたかどうか」という困惑気味な言葉を紹介しています。

史跡も景観も「情熱」が続かなければ、いつしか忘れ去られ、維持することは困難な昨今の状況を、感じます。



1791. 馬場小室山遺跡追加調査の可能性がみえた? さわらびY(ゆみ)  2004/11/16 (火) 19:39
本日(11月16日)馬場小室山遺跡未調査部分の記録保存の可能性が、地元代表飯塚さんと鈴木正博先生のご奮闘で、どうやら少し見えてきたようです。
詳しくは、飯塚さんのHP「市会議員訪問」をご覧ください。

http://www2.gol.com/users/iizuka.kuniaki/04.11.16.%8Es%8Bc%96K%96%E2.htlm



1790. 近つ飛鳥博物館の特別展と加藤先生の講演 さわらびT  2004/11/15 (月) 23:24
近つ飛鳥博物館には、加藤先生の応援団(?)として、私を含め「新撰姓氏録を読む会」の参加者4名が出席しました。ドン・パンチョさんにも会場でお目にかかることができました。

講演会には白石館長も見えられ、熱心に聴いておられました。加藤先生のご研究成果を発表されるにはうってつけの場所でした。最後に「井真成」のことも一言、発言されました。(葛井説ですが、井上氏とすれば東漢氏の枝氏です。その可能性にも配慮したご発表でした。)

展示で圧巻は四条畷市の蔀屋北遺跡で出土した馬埋納土坑、馬一体分をそのまま見ることが出来ます。河内の馬生産に関わる遺跡として注目されるところです。

桜井市の赤尾崩谷遺跡出土の鏡・玉類・須恵器、富田林市の新堂廃寺の鴟尾、大阪府河南町シシヨツカ古墳古墳の復原模型(墳丘と石室)など興味深い遺物が展示されています。

また博物館のあるこの地は群集墳である一須賀古墳群が存在します。渡来人の集住地であったことも想像されますが、石室や墳丘にも個性があって興味は尽きないのですが、散策程度に拝見してきました。

図録も充実しています。白石館長はじめとする各論考もそれぞれ読み応えがあります。

「赤尾崩谷古墳群の調査」(橋本輝彦・木場佳子)を読みながら、この古墳にも注目してみました。奈良県桜井市・鳥見山から北の尾根上に形成された古墳群で、1号墳〜5号墳(2号墳が円墳でその他は方墳)です。

1号墳埋葬施設3(古墳築造時の主体部で、追葬されたと見られるあと2つの埋葬施設がある)の出土品が展示されていました。この埋葬施設は、東西主軸の割竹型木棺・全体に赤色顔料が塗布・須恵器・鏡の他に、ガラス・琥珀・銀製などの玉類が3500点以上もでているようです。拝見したのはそのほんの一部だったわけですね。

この古墳群の被葬者について、こうした副葬品の諸要素から渡来系集団の盟主墓と考えられると、この論考で述べておられます。




1789. Re^5: HPリニューアル さわらびT  2004/11/15 (月) 22:11
14日(日)に近つ飛鳥博物館に行きました。特別展『今来才伎(いまきのてひと)−古墳・飛鳥の渡来人−』の出品物に、山倉1号墳の筒袖埴輪と酒巻14号墳の人物埴輪・蛇行状鉄器を着装した馬形埴輪がありました。こんなところで、ご対面できるとは思いませんでした。

特別展は渡来人がテーマなんですが、筒袖埴輪について解釈はいろいろできますね。埴輪が、葬列の模様を再現していて、その参列者ということかな・・・



1788. 瀬戸内の旅から帰りました さわらびY(ゆみ)  2004/11/14 (日) 00:29
13日夜(ああ、もう日付けが14日になってしまった)、広島の旅から帰宅しました。

11日は休みをとっての仕事関係の学会でしたが、12〜13日はTと尾道・生口島(光明坊の忍性建立の十三重塔)・福山(明王院・県博の草戸千軒展示)など中世の史跡を廻ってきました。

私は来週の郷土史展の準備や馬場小室山の動向が気がかりで、日地足先の帰宅でしたが、Tは近つ飛鳥博物館での企画展と加藤先生の講演会など廻って明日(14日)に帰宅の予定です。

今回の旅行では、瀬戸内の律宗遺跡が目的でしたが、急遽広島県府中市の甘南備神社と三室山も目的地に入れました。
馬場小室山との関連を探ってみたかったからです。

どこも天候に恵まれて軽いハイキングと素晴らしい景観を堪能してきました。
そして、尾道でも光明坊でも、やさしい方々の人情にも触れられ時間的に短かったですが、良い旅でした。そのうちアルバムを整理したいと思っています。



1787. Re^4: HPリニューアル はにわ処 [URL]  2004/11/12 (金) 10:43
そうですよね
生出塚はさきたま古墳群の埴輪の供給源にもなっていた大規模なものだったのでぜひ保存整備して欲しかったです



1786. 「9 歴史の中の馬場小室山とその周辺U」をUPしました  さわらびY(ゆみ)  2004/11/10 (水) 22:11
「9 歴史の中の馬場小室山とその周辺U」をUPしました。
小室神社入口の馬頭観音像と、旧家のたたずまい、武笠家のいわれをとりあげてみました。
次は、いよいよ小室神社と環状盛土遺構、遺跡調査史にせまってみたいと思います。

あした、始発に乗って広島に行きますので、今晩は日付のかわらないうちに寝たいと思っています。



1784. Re^3: HPリニューアル さわらびT  2004/11/10 (水) 19:52
はにわ処様

お知らせいただき、ありがとうございます。

『埼玉の遺跡』(さきたま出版会、2000)には、「東日本最大の埴輪生産跡」として紹介されていましたので、もしかしたら痕跡でも見られるかと思ったのですが、残念です。

市原の山倉1号墳も今は何もありません。遺跡を残すことって、難しいことなんでしょうかね。開発されてしまうと、景観もすべて残らなくなってしまいますね。



1783. Re^2: HPリニューアル はにわ処 [URL]  2004/11/10 (水) 09:43
T様
こんにちは
生出塚の窯跡は現在造成してしまい何も残っていません
出土品や遺跡パネルなどは鴻巣市の文化センター(埼玉県免許センター近く)などに飾ってありますよ
もしかしたら同じ鴻巣の馬室遺跡の方は残っているかもしれませんね




1782. Re: エミレの鐘の龍紐 さわらびT  2004/11/09 (火) 23:09
ドン・パンチョ様

慶州博物館に私たちが訪れたのは1年前です。エミレの鐘にまつわる切ない物語を聞かされてしみじみ拝見した記憶があります。博物館にカメラを忘れてしまい、夕食後あわてて取りに戻ったのも思い出しました。(鐘とは関係ない話ですが・・・)

ところで、講演会にはご参加になられるようですね。加藤先生の講演はもちろんのこと、初公開される四條畷市・蔀屋北遺跡出土の馬埋納土坑など見どころも、多いようです。あわただしい週末になりそうなんですが、お会いできるのを楽しみにしております。

参考までに、企画展の案内は「大阪府立近つ飛鳥博物館」のHPで・・・
http://www.mediajoy.com/chikatsu/2004aut_special/index.html



1781. Re: HPリニューアル さわらびT  2004/11/09 (火) 22:25
はにわ処様

ごぶさたです。すっかりデザイン一新ですね。コレクションもふえたんですか?

さきたま古墳群は、何度でも行きたいところです。10月初旬に馬場小室山に行った際に、市原の山倉古墳群の埴輪の供給地であるという興味もあって、せっかくだから生出塚の埴輪製作遺跡を見学したいとも考えたのですが、時間の都合で断念しました。その生出塚遺跡って、窯あととか見られる状態なんでしょうかね。

また機会を作ってまたお店にもお邪魔させていただきます。これからもよろしくお願いします。



1780. 現地に『「環状盛土遺構」の立て札』! さわらびY(ゆみ)  2004/11/09 (火) 20:08
HP「ばんばおむろ山」の管理人の飯塚さんが、現地に『「環状盛土遺構」の立て札』を設置なさいました。
http://www2.gol.com/users/iizuka.kuniaki/04.11.05.%8A%C5%94%C2.htlm

当方の「5馬場小室山遺跡のすがた」に載せた「馬場小室山遺跡概念図」を使っていただき、感激です。
この概念図は、まだ遺跡の状況について断片的な情報しかなく手探りの状態でいた時、まだお会いしてもない鈴木先生から、何回かのメールの往復でお教えいただいて作成したものです。
3日に飯塚さんにお会いしたとき、試作のプリントを持っていらして、「これは、近所の人達が自分の家がどこかもわかるので、見てくれるでしょう」とおっしゃっていましたが、大勢に見ていただけるといいですね。

現在、この空撮写真の「遺跡の範囲」の史跡や村里の風景を、「歴史の中の馬場小室山U」で取り上げてみようと、もっか作成中です。
あさって、仕事の関係の学会で広島へ行く予定、その他来週末の郷土史展準備など大忙しでUPは遅れるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。



1779. HPリニューアル はにわ処 [URL]  2004/11/09 (火) 14:17
今月からHPをリニューアルさせていただきました
あまりネタがない為そんなに変わっておりませんがお時間がありましたら覗いて見てくださいね
それから1部埴輪の商品の画像が抜けていますが近日中にUPしたいと思います
これからもどうぞ宜しくお願いします
http://homepage2.nifty.com/haniwadokoro/



1778. エミレの鐘の龍紐 ドン・パンチョ [URL]  2004/11/09 (火) 08:00
さわらび様

韓国の国立慶州博物館にある聖徳大王神鐘、通称「エミレの鐘」は、東洋最大級の銅鐘で高さが3.77mもあるそうです。
新羅第35代・景徳王が父の聖徳王の冥福を祈るために鋳造を命じたが、在位中には完成せず、次の恵恭王7年に完成したとされています。
小生も一昨年の韓国旅行の際に慶州博物館を訪れましたが、残念ながら台風15号の風雨が荒れ狂う真っ最中で、本館から遠望するだけでした。
したがって、鐘を吊す龍鈕の部分など何も確認できませんでしたが、何時の時代もこの部分は龍鈕以外の呼称が使われた例がないようですから、エミレの鐘も当然龍の形をしていたでしょう。ただ、今回のシンポジウムではその部分を写したスライドはなかったようです。

追伸
小生も、14日の加藤謙吉先生の講演『東・西漢氏と今来才伎』を拝聴するため、近つ飛鳥博物館に行く予定でいます。お会いできるのを楽しみにしています。



1777. Re: 東アジアの梵鐘 さわらび  2004/11/08 (月) 22:56
ドン・パンチョ様

飛鳥資料館の秋期特別展「古代の梵鐘」はなかなか面白そうな企画ですね。関西ではこうした催しが盛んなようで、うらやましい限りです。

ところで私も週末には、近つ飛鳥博物館の企画展示『今来才伎(いまきのてひと)−古墳・飛鳥の渡来人』を拝見に行きたいと思っております。14日(日)には加藤謙吉先生の講演『東・西漢氏と今来才伎』もあるそうなので、親しい方々と誘い合わせております。この企画展も見所がたっぷりあるようで楽しみにしております。

鐘といえば、昨年探訪した韓国旅行ですが、慶州博物館の庭に、「エミレの鐘」とよばれる聖徳大王神鐘がありました。この鐘の鋳造が、かなりの大事業だったことはその大きさからも、理解できます。これも龍鈕になっているのでしょうか。拝見したときはそこまでみておりませんでした。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/kannkokunotabi.3.html



1776. 東アジアの梵鐘 ドン・パンチョ [URL]  2004/11/08 (月) 04:45
わらびT様

11月5日、奈良県の橿原市にある橿原ロイヤルホテルで「東アジアの梵鐘」と題する国際シンポジウムがあり、近くなので聴講してきました。中国、韓国からも梵鐘の専門家を招き、基調講演では日韓中の梵鐘の歴史と変遷をスライドを使って説明していました。各国の梵鐘の違いが面白かったので、話の内容をレジメから整理してみました。「橿原日記」にアップしておきましたので、興味がおありなら覗いてみてください。



1775. 「歴史の中の馬場小室山とその周辺T」をUPしました さわらびY(ゆみ)  2004/11/06 (土) 11:05
「歴史の中の馬場小室山とその周辺T」をUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/omuroyama3.htm
馬場小室山遺跡の考古学的評価は、考古の先生方にお任せするとして、遺跡の持つ歴史的な経緯と景観を考察したいと思っています。

遺跡は、人々の生活の営みの中ではぐくまれてきた歴史的遺産です。
畑や山林の中の縄文遺跡や古墳も、一見長い歴史の中で忘れられてきたように見えますが、石神や小さな祠を祀り、その時代にあった形で大切にされてきました。

「縄文遺跡のある風景 in印旛沼南岸台地の遺跡群」もそのような視点ではじめたシリーズですが、さいたま市の馬場小室山に危機が迫る中、この遺跡ももう一度この原点に立ち帰って見つめなおしてみたいと思います。

プロジェクトZ、それは終わりでなくZeroからの出発!
人々と歴史と生活と共にあり続ける遺跡の姿を見つけていきましょう。
地元の皆様、いろいろお教えください。



1774. 全国義民サミットの催しがあるそうです さわらびY(ゆみ)  2004/11/05 (金) 20:01
リンクしていますHP「美浦村お散歩団」のひづめさんより、次のようなメールをいただきました。

私のお城の師匠が講師をしている阿見町郷土史同好会の会長さんからのお知らせで、江戸時代末に地元水戸街道牛久宿・荒川沖宿を中心に起きた助郷一揆に関する全国義民サミットなる催しが開催されるそうです。詳しくは、私の『藪ログ』
( http://homepage.mac.com/kopyto/iblog/ )に掲載してあります」とのことです。

私も鏑木先生の古文書教室で佐倉惣五郎伝承のオリジナル「地蔵堂通夜物語」を読んだことがありますし、先日は「鯖街道を行くV・若き義民の記憶 松木神社」http://homepage1.nifty.com/sawarabi/040819okubiwa.obama/15kumakwasyuku.htm
をUPしたばかりなので、興味深々ですが、八千代市郷土歴史研究会の郷土史展とちょうど2日間の日程が重なり、身動きができません。
郷土史展をごらんにおいでの皆様、1日目か2日目はこちらもいかがでしょう。




1773. Re: 11/3の馬場小室山 さわらびT  2004/11/03 (水) 23:42
見沼の歴史についてその一端を掲示板に書きました。江戸時代の干拓事業で古代の様相は一変したのですが、その痕跡を馬場御室山遺跡の脇にある小室社なり、氷川女体神社が伝えていると考えられます。実際に見てみよう。

したがって、今日の探訪の目的のひとつは、氷川女体神社を拝観することでした。見沼代用水西縁にうまい具合につくことができ、さっそく石段をあがって、神社の境内をじっくり見学させていただきました。

氷川女体神社にはかって御舟祭りという神事があったと聞いています。諏訪大社の神事にからめて、もともとは大宮の氷川社の男神須佐之男命が、三室の女神奇稲田姫のもとへ通う神事が、原型であったのではないかと推測される、井上香都羅氏の説も興味をそそります。(『みむろ物語』さきたま出版会、1998)

鳥居から約3キロほど沖の真ん中に「四本竹」と呼ばれる御旅所をつくり、神霊が神輿で渡るという神祭りだったのですが、先日記しましたように、江戸時代に、見沼は姿を消します。磐船祭りが代わりにとり行われたのですが、その祭事場が今も残されているので、見てきました。歴史のあとをとどめていることにひそかな感動を味わうことが出来ました。



1772. 11/3の馬場小室山 さわらびY(ゆみ)  2004/11/03 (水) 23:01
今日は、八千代市郷土歴史研究会のフルルガーデン八千代でのイベント参加とかけもちで、さいたま市の三室へ行ってきました。

浦和くらしの博物館民家園で旧武笠家表門を拝見してから、氷川女体神社を拝観し、遅めのお昼にしようとうどん屋さんへ入ったところ、鈴木正博先生と偶然合流、馬場小室山では飯塚氏ともお会いでき、工事の進行状況を見てきました。

中学校側の入り口は壁を作るための基礎工事が進んでいますが、南側の盛土はまだ土取されていません。
住宅はひな壇になるようで、遺物がたくさん眠っている未調査の南の盛土はもしかしたらそのまま住宅の地面になる可能性もあり、その家を買った方は遺跡の上に住む贅沢が味わえるかもしれないと、希望的観測の冗談を飛ばしながら、着実に進む工事に胸を痛めてきました。

飯塚氏が、馬場小室山遺跡概念図をきれいにプリントして「盛土遺構」のPR用看板を現地に立てる準備をしてくださっていました。
とにかく重要な遺跡なのだと知っていただくことが大事ですね。
鈴木正博先生ご夫妻、飯塚様、いろいろとありがとうございました。



1770. Re: 考古学的古墳発掘の先駆者 さわらびT  2004/11/01 (月) 22:08
ドン・パンチョ様

いつも素晴らしいページをおつくりになられてますね。楽しませていただいております。私もいつかゆっくり回ってみたいです。

下池山の内行花文鏡など実に見事な物ですね。王権と墳形との関係を、単一的に理解してはならないと思っています。気になるのは、大和古墳群の中で、前方後方墳が築造される地域と期間は限られていることです。

前方後円墳の成立のことでは、以前関心をもって書いたことがありますが、壷型説を述べますと、「前方後方墳はどう考えますか?」ときり返されます。壷型古墳の成立は神仙思想と関連付けられますが、いつしか形の意味は失われるのではないかと考えています。

そういえば葛城の新山古墳も前方後方墳ですね。前に帯金具の話題でこの古墳のことで話題にしたことがありました。出土例の少ない晋式帯金具ですが、この被葬者と帯金具の関係に想像力をたくましくさせられます。帯金具について「おそらく製作年代が310年ごろと考えられます」(掲示板1553)と、「ふじいやすたか」様からお答えいただいたのを思い出しました。

ところで、今回の話題に少々関連した講演が東京でもあることを知りました。ご参考まで。

「前方後円墳の名付け親―蒲生君平と宇都宮藩の山陵修復― 」
講師 篠原祐一氏 (栃木県埋蔵文化センター)
日時 平成16年11月20日 (土) 午後1時30分〜
会場 國學院大學120周年記念1号館1105教室

http://www2.kokugakuin.ac.jp/ijcc/ja/news.html#23



1769. Re: 文化財保護法改正・歴史的景観の保護 さわらびY(ゆみ)  2004/11/01 (月) 00:26
今晩、津軽の遺跡巡りより帰ってきました。
旅の講師は歴博の千田嘉博先生。
浪岡城跡と弘前城、十三湊のすばらしい歴史的な景観を堪能し、各博物館では、本場ものの縄文土器や土偶をたっぷりと鑑賞し、三内丸山では新設の「自遊館」なるテーマパーク的な観光施設?にびっくりしてきました。

馬場小室山遺跡の件で地域での遺跡のあり方に少々問題意識をもって行きましたので、調査保存への地元や各自治体関係者の熱意、歴史的景観の大切さなど学ぶところが多かったです。

十三湊の調査の経過と知見は、石井進先生の遺書となった『中世のかたち』に簡潔に紹介されていますが、本州最北の津軽に中世の国際的な港湾都市があったというあらたな歴史認識を与えてくれたことで、あこがれの地でした。
十年ぐらい前も、歴博の調査報告にあこがれて十三湊まで足を延ばしたのですが、先達もなく、まだ道標もまして説明版もなく、十三湖とその向こうに見える岩木山の美しい景色にうっとりとして帰ってきただけでした。
今回も快晴の天候に恵まれて、その絶景と共に、現地踏査により中世考古学や金石文などの研究成果を実感してきました。
そして遺跡はやはり景観の保全と共にあるということも、大事なことだと強く感じました。

十三湊の遺跡を守っているのは、市浦村という市町村合併を目前にした小さな村でした。
この村による地道な歴史研究と中世考古学の調査成果は、名物のシジミととも地元の方々によって、全国へ発信されていくことでしょう。

馬場小室山の件では、10月31日に史跡指定へ向けた新たな要望書が提起されました。
http://chiba.fc2web.com/hozon/bbo_041031yobo.html

地域史研究と遺跡の保全は、地域にはかり知れない文化の豊かさをもたらすことを強く訴えたいと思います。



1767. 考古学的古墳発掘の先駆者 ドン・パンチョ [URL]  2004/10/31 (日) 22:17
現在、橿原考古学研究所の附属博物館では「前方後方墳」と銘打って秋期特別展を開催しています。我が国における近代考古学の出発点は、モースによる大森貝塚の発掘だと理解していましたが、実はそれよりも約200年も前に、古墳の考古学的発掘調査を行った人物がいたんですね。浅学のためその事実を今まで知らず、特別展で初めて教わりました。当時の発掘の様子や大和古墳群の中の前方後方墳の様子を10月30日付けの「橿原日記」に記しておきました。興味のお持ちの方はアクセスしてみてください。



1766. 弥生の開始年代? さわらびT  2004/10/31 (日) 22:03
昨日は、法政大学にて行われた鈴木正博先生の発表を聞いてきました。
テーマは「日本先史土器に係わる炭素14測定による推定年代論争」批判(主催は法政大学考古学研究室)

この問題については、あまり検討したことがなくコメントをしたことはないと思いますが、関心をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。歴博の見解以外の考え方も知っていただきたいと思います。鈴木先生の発表は後日、活字になる予定とうかがいました。詳細がわかり次第お知らせいたします。すでに『アルカ研究論集 第二号』に論考を寄せられ、昨年、考古学協会の歴博発表時に、6σによる信頼精度の高い測定数値の必要性を求めた発言に関連して述べておられるようです。(未読です)

なお、当日資料の一部として配布された早傘氏の土曜考古学研究会 2004年9月例会資料は以下で読めます。

http://www.asahi-net.or.jp/~XN9H-HYSK/godhand/c14/doyoukouko0409.htm

現在、板橋区立郷土資料館にて、特別展「杉原荘介と前野町遺跡」〜考古学の基礎を固めた巨人〜開催中(12月5日まで)
(都営三田線西高島平駅下車 徒歩13分)

我が家からは遠そうですが、弥生の開始年代が問題になっていることもあり、チェックしておきたい展示です。図録に小林先生、石川先生の論考があると聞いております。(残念ながら講演会はすでに終わってしまいました。)

もう一つ紹介しておきましょう。船橋市飛ノ台史跡公園博物館の企画展「縄文人の祈り -こころと自然・その世界を探るー 」開催中。(12月5日まで)

赤城遺跡の人面付深鉢土器や注口土器など、意外ですが、その魅力にはまってしまいました。

http://www.city.funabashi.chiba.jp/tobinodai/kikaku-inori.htm

この史跡、飛ノ台貝塚は昭和7年杉原荘介氏の発掘調査から始まったのだそうです。



1765. 文化財保護法改正・歴史的景観の保護 あるけ〜  2004/10/31 (日) 14:58
T花さん、さわらびさん、こんにちわ

>どうやら今年中に文化財保護法の改正があり、その中にようやく
>「歴史的な景観」を保護する条文が組み込まれるようです

これですね。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/04021801.htm

法案HTML版
http://www.shugiin.go.jp/itdb_housei.nsf/html/housei/15920040528061.htm

所有権との関連で、保護といっても弱いようですが、第一歩というところでしょうか。

なお景観一般に関しては景観法が12月17日施行予定のようです。
http://www.ron.gr.jp/law/law/keikanho.htm
基本的な理念と大枠をつくるという性格のものようですので、詳細はこれからでしょう。いずれも目の前で進む開発には即効性はない?・・・
関連法令のパブリックコメントが現在行われています。
http://www.mlit.go.jp/pubcom/04/pubcomt41_.html


>郷土史研究会の方々の役割は非常に重要だと考えます。
同感です。景観にはそれぞれ歴史的意味があるはずなのですが、一般の住民も、また行政(とくに都市計画担当部局)もわかってないことが多いのではないかと思います。それに景観保護の場合、土地利用の制限を関係者が納得することが必要でしょう(景観保護は、従来の史跡保護のように、保護即公有化というやり方は困難。改正は重大なコンセプトの転換を胚胎している可能性があると見ています)。ともあれ、この景観はこういう意味がある、という認識をまず広げみんなで共有し、「ここは大切だ、ここだけは残さねば」というように感じなければ、制度があっても使われないし、うまく機能しないでしょうからね。その意味で郷土の歴史に関心をもつ者の責任は大でしょう。



1764. Re^3: 井野長割遺跡の保存 さわらびT  2004/10/29 (金) 23:05
T花様

貴重なご意見ありがとうございます。Yが旅行中なので代わりに一言。

たまたま目の前に運良く残された歴史遺産をどう引継ぎ私たちの共有財産として後世に伝えられるか、難しい問題です。景観の保存が大事だということは、先日四日市に行って「久留倍遺跡」を見てきましてよくわかりました。遺跡を破壊しないとしても、代わりにその上に道路が通るのでは、景観は台無しです。

現代の生活環境を改善することと遺跡保存が、共存できるかというと結論を出しにくい問題ですが、少なくとも破壊してしまえば元には戻らないわけですから、時間をもっとかけて議論していただきたいと願っております。最近は、市町村合併で地名そのものも消えていく時代になってしまいました。

Yの旅行の目的地のひとつである三内丸山遺跡の保存は、幸運な例ですね。ボランティアの方々の熱意が支えていますね。ただあえて言えば、視覚的なイメージが強すぎて、ほかの遺跡がみすぼらしく思えてしまうのかもしれません。柱列の復元にあたっても、議論があったようですが、想像力を失わせる結果になってしまったのではないかとも感じています。人々の暮らしの痕跡は、いたるところに残っているはずなんですが・・・



1763. Re^2: 井野長割遺跡の保存 T花  2004/10/29 (金) 00:55
こんばんは。

私もユーカリが丘に住んでいますので、井野長割遺跡周辺をよく通るのですが、工事が徐々に進み、環状盛土のある遺跡本体を包囲するように開発されていくようです。

> 今回の馬場小室山では、考古学者の感動的な根性を見せていただきましたが、郷土史研究の私たちもよほど肝を据えてかからないと、ふるさとの景観の歴史的な考察すら二度とできない時代にきていると感じました。

どうやら今年中に文化財保護法の改正があり、その中にようやく「歴史的な景観」を保護する条文が組み込まれるようです(詳細は確認していませんが)。近年では、指定制度に加え、建造物の登録制度ができ、今回、ようやく景観が加わるといったところです。具体的には平成13年度に千葉県指定名勝に指定された鴨川市にある大山千枚田のようなものなど、その地域の歴史と深く関わりを持つ景観だそうです。したがって、一般的な景観(市町村における旧地区の町並みなど)の保全には及ばないようです。

「景観」を考えた場合、古くからあるムラを例にすると、住宅の集まっている場所と、薪を取ったりした資源の場であった雑木林、生産の場である田畑、庚申塔などが建てられる隣ムラとの境界地点までを含めて、そのムラの範囲であるはずです。
これを遺跡にあてはめた場合、井野長割遺跡を例にすると盛り土のある遺跡本体だけではなく、周辺も含めて保存すべきですが、現状ではなかなかできません。建物があったり、構造物があったりした場所ではそれらが「遺構」として視覚的に認識できますが、それ以外では、人々が生活した痕跡が確認できにくいので、保存が難しいのです。

遺跡の問題、古くからある町並みの問題等、それらを保存するという視点で考えると、共通した課題があるように思われます。私も現状では「記録保存」しか出来ていませんが、急速な変化が起きている現在の日本社会では、郷土史研究会の方々の役割は非常に重要だと考えます。そして、調査成果の蓄積された中から、真に重要なもの、つまり、後世に残すべきものが見えてくるのではないでしょうか。

経済活動が優先され、「文化」を残すことにあまり予算がつかないのは残念です。自衛隊の戦闘機購入1機分くらい文化庁に分けてほしいですね。



1762. 「東北 考古の旅」へ行ってきます さわらびY(ゆみ)  2004/10/29 (金) 00:05
少しは埋蔵文化財保護の基本を知ろうと、(あるけ〜さんの座右の書らしい?)椎名慎太郎著岩波新書『遺跡保存を考える』を読みました。
自治体の文化財専門職員の苦悩や法的な不備など、いろいろ社会勉強になりましたが、遺跡保護の基本的な法律用語やしくみも覚えられて、便利な本でした。

ちょうど読み終わったところで、あるけ〜さんのHPの文献リストにあった井上香都羅著『みむろ物語−見沼と氷川女体を軸に−』さきたま出版会1998年を出版社に発注したところ今日届きました。みむろ=おむろやまとは何か、この本を読んでから考えたいと思います。

明日から2泊3日で青森県の中世城館跡(浪岡、十三湊)と縄文遺跡(木造、三内丸山)を訪ねる旅に行きます。
「東北 考古の旅」と題する歴博友の会の行事で、夏の最中、こんなに忙しくなるとは知らずに申し込んでしまいました。
青森の史跡は二度ほど行きましたが、また行きたくなる魅力がありますね。
ホテルにインタ−ネットの設備でもあれば、お便りします。



1761. 幕末の宇都宮藩 さわらびT  2004/10/28 (木) 23:00
もちろん記紀編纂のころの始祖伝承にも関心はあるのですが、私はどちらかといえば、幕末の宇都宮藩が王陵を修復しようとした動機に興味を持ちました。

天皇陵の修復は、文久2年閏8月、宇都宮藩主戸田忠恕の「修陵の建白」に端を発しています。幕府はこれを許可しました。ただしことは少々ややこしいようです。差配したのは、前家老であった戸田忠至という人物ですが、旧藩主の弟の次男という出生で、他家に養子に入り、家老職の家(間瀬家)を継ぐのですがのですが、藩主の家柄である戸田姓にこだわりを持ちつづけたようです。

どうも、その意思を貫くための大仕事だったようです。宇都宮藩としても名をあげる機会でもありますが、逆に幕末の混乱期に、万が一この事業が藩を危機にさらすことになるとマズイと考え、危険分散したようで、責任をとるのは、戸田忠至一人という状態にしたようです。

公武合体路線の一環としての、天皇陵整備事業だったのですが、いつしか尊皇攘夷の実現としての神武天皇陵整備となったのですが、成功を収めた戸田忠至は、戸田姓に復帰し新たに藩をもらったそうです。NHK『新撰組』では、御陵衛士の話しになってるかと思いますが、山陵奉行がこの戸田忠至ですね。(最近このドラマを見てないので登場したかはわかりません。)

(『歴史検証 天皇陵』(新人物往来社、別冊歴史読本78)所収の外池昇「文久の修陵 陵墓管理の歴史的原点」の見解に基づいて書かせていただきました。)



1760. 神武の創設 オホヤシマ  2004/10/28 (木) 12:31
ドンパンチョさま

王統譜に詳しいわけではないですが、知っていることを言いますと、まず、和田萃氏が和風謚号の分析から継体の子の安閑の時代からモガリの時に王統譜が読み上げられたのではないかと言っています。また小林敏男氏は充恭の時代にすでに王統譜があったと言っています。
稲荷山鉄剣にはヲワケの八代の系譜が記されていますので、当然大王も系譜を持っていたと思います。
問題はその系譜の中にイワレヒコがあったかどうかですが、まだなかったような気もします。イワレ地区に宮が置かれるようになるのは、六世紀後半の敏達、用明、崇峻の時代なので、イワレヒコが作られるとしたらその時代かも知れません。
ただ、日本霊異記には雄略がイワレの宮にいたという記述があり、5世紀にイワレに宮があったかも知れません。神武紀・記では大伴氏が活躍しますが、大伴氏が活躍するのは五世紀後半から六世紀前半ですから、大伴氏が使えた君の像として、イワレヒコ像が五世紀末頃に作られたということは考えられるのではないかと思います。
ただ、神武陵が作られたのはずっと後でしょうね。推古朝がくさいと思っています。



1759. Re: 井野長割遺跡の保存 さわらびY(ゆみ)  2004/10/27 (水) 23:26
いよいよわれらが隣村の課題も浮上してきましたね。
井野長割遺跡は、先日9月末のシンポジウムの時や、小学校が夏休みの時に見にいき、小学校もその裏の遺跡も、住宅地造成の工事現場の包囲されている印象を受けました。
バブル崩壊後、一時開発ペースがスローになっていましたが、このところまた盛んのようですね。

ユーカリと小竹では、皆様の働きで小竹残土埋立問題が小康状態になり、やや安心していましたが、今度はいよいよ井野長割遺跡の周りの台地が削られてしまうとは。
八千代の道標と古道の調査の関連で、何回か訪ねた井野城址の大半も、神社境内を除いて宅造されたようですね。

昨今の住宅地造成は、下総台地を完全に削平し、谷津を埋立て、地形をすっかり変えてしまうので、かつての歴史的な景観を想像するのも難しい事態になっています。

わが八千代市も村上駅の北側の根上神社古墳でも、神社境内ギリギリまで土取の真っ最中。
http://www.city.yachiyo.chiba.jp/watching/bunkazai/bunk11.html
16号の西側も浅間内遺跡の調査が終われば、台地は削られてしまうそうで、この辺も最後は浅間神社のわずかな社叢林しか残らない事態になっています。

今は、私達で少しでも古道や石造物、民俗、旧家のたたずまいなど景観の記録と調査をしておくことが必要です。

今回の馬場小室山では、考古学者の感動的な根性を見せていただきましたが、郷土史研究の私たちもよほど肝を据えてかからないと、ふるさとの景観の歴史的な考察すら二度とできない時代にきていると感じました。



1758. Re^2: 神武陵 さわらびT  2004/10/27 (水) 23:11
ドン・パンチョ様

王統譜の成立の問題は難問なので、とりあえずパスします。継体以降しか、血縁上のつながりは見出しにくいわけですから、欽明期以降に、@始祖を誰とするか、Aこれからの継承原理をどうするか、を問いかける必要が濃厚になった段階で明確に意識されたのではないかと漠然と思っています。

さて、神武陵ですが、むしろ近代の創設に興味があります。宇都宮藩の建白に端を発した陵墓の修復事業の中でも、初代天皇たる神武陵はとりわけ重要に考えられたようです。比定地を巡り、議論があったようですが、政治情勢の緊迫の折、文久三年(1863)2月、孝明天皇の勅裁により決定したというわけですから、どこまで真剣に論じられたか疑わしいですね。

幕末の動乱のさきがけをなす時代です。この文久三年というのは、私が関心を持っております『真忠組』の決起のあった年でもあります。

大友軍が多少優位でもあった攻防の時期だったと思われますが、ドン・パンチョさんもご指摘ですが、「高市郡大領高市縣主許梅」が突然しゃべりだし「神日本磐余彦天皇之陵」に馬と兵器を奉るとの託宣があったわけですね。壬申紀を疑えばきりがないですが、神武陵はこのときあったのでしょう。となると、ここに書かれた神武陵とはどこだったのだろうと思いますね。

文久の修復で整備された、今の陵墓と同じ所を指しているのでしょうか。四条塚山古墳(現・綏靖天皇陵)説もあるそうですが、どうでしょうか。私は不案内ですが、パンチョさんのレポートには「神武天皇陵に参拝した後では、とくにみすぼらしく見える。」と書いておられますね。

http://www.bell.jp/pancho/travel/around-unebi/suizei-ryo.htm



1757. Re: 神武陵 ドン・パンチョ [URL]  2004/10/27 (水) 18:16
オオヤシマ様のご指摘のように、壬申の乱では672年7月7日、高市県主許梅(たけちのあがたぬし・こめ)の神懸かりに従って、倭古京防衛軍の大伴連吹負は許梅に神武天皇陵に参拝させ、馬と兵器を奉ったとされています。余談ながら、このとき許梅が神懸かりして述べた言葉が『日本書紀』に記録されていますが、これが神武天皇の名を記した最初の確実な史料とされています。

したがって、この時点では神武天皇陵が存在したことになり、当然初代天皇神武の存在も一般には知られていたことになります。だから、万世一系の皇統譜の成立がいつかが分かれば、何時架空の天皇が作られたかが分かります。

記紀が成立する以前に最低2回は史書が作られたとされています。
先ず『古事記』序文の解釈から、稗田阿礼が誦習した「帝紀」と「旧辞」を太安万侶が編纂したものが『古事記』であるとされています。このうち「帝紀」は「帝皇日継」とも称され、天皇一代ごとにまとめられた記録を、皇位継承の順序に従って配列されたものと推測かれています。津田左右吉氏は、その成立時期を欽明朝の頃とし、6世紀の中頃には一通りまとまっていただろうと考えています。

推古天皇28年(620)には、聖徳太子が蘇我馬子が相議って、天皇記(すめらみことのふみ)および国記(くにつふみ)、臣・連・伴造、国造、百八十部民・公民の本記(もとつふみ)を記録したことが『日本書紀』に記されています。このうち、天皇記は天皇のの世系・事績などを記録したもので、帝紀・帝皇日継に類するものと同類だったろうと推測されています。

神武天皇を初代とする皇統がすでにこれらの史書編纂の時期には作られていたと思われますが、いずれの時期に確定したのかはわかりません。そもそも皇統譜は天皇が崩御した後の殯の宮で殯の儀式の一環として読み上げられたとする説もありますから、万世一系の系図はもっと古くから考えられていたのかも分かりません。どなたか詳しい方がおられましたら、ご教授願います。(



1756. 井野長割遺跡の保存 kagokaki  2004/10/27 (水) 14:49
馬場小室山遺跡での鈴木先生達による保存運動には頭がさがります。
私の住む地域の「井野長割遺跡」ですが、遺跡を大きく取囲んだ宅地開発事業が本格的に動き始め、来月からは余った土砂13万㎥を運び出すダンプの運行計画が示されましたが、我が家の前の狭い市道とユーカリが丘団地内を1日200台も通すという計画に驚いて、自治会では急遽運行計画の反対運動に立ち上がりました。
遺跡は環状盛土遺構のある部分を含めおよそ2haほど残すそうですが、市の文化課に確かめたところ、まだ業者と交渉中ではあるが、応じなければ全体計画を認めない方針とのことで、これまで発掘調査の実績もあるためでしょうか頼もしい返事でした。それにしても2haだけでカバーできるのでしょうか。既に国へ遺跡保存指定を申請していて年度内に決めたいとのことでした。国の審査を通すには、なによりもデータの蓄積が大事なそうです。さいたま市は、それ以前の問題で前途は厳しいですね。



1755. 神武陵 オホヤシマ  2004/10/27 (水) 12:38
ドンパンチョさんも書かれている戦前の畝傍一帯の調査では、縄文時代の遺跡が少し出たくらいで、結局神武に関係しそうなものは出なかったようですね。
それにしても、神武は架空としても、720年に完成された日本書紀にカムヤマトイワレヒコの名前がみえ、かつ壬申の乱の記事における神武の墓が、本当にその当時からあったとすれば、少なくとも7世紀後半には神武の存在が認知されていたわけですので、一体だれが神武を作ったのかは考えなくてはいけない問題ですね。



1754. Re: Re;「見沼通船掘」をご存知ですか さわらびT  2004/10/27 (水) 07:10
最初に「馬場小室山遺跡」を見に行った帰りに、県立博物館にも立ち寄ったのですが、関心がなかったせいでしょう。気がつきませんでした。次の機会に、じっくり拝見します。

将軍山古墳出土の「寄生」(蛇行状鉄器)を見ておこうと思ってました。なぜか同古墳出土の馬冑は将軍山古墳の博物館にあって、離れ離れです。



1753. 馬場小室山 25-26日の動き さわらびY(ゆみ)  2004/10/27 (水) 00:35
HP『ばんばおむろやま「小室山」保全運動の記録』に25.26日の地元の動きが載っています。
http://www2.gol.com/users/iizuka.kuniaki/
http://www2.gol.com/users/iizuka.kuniaki/04.10.25.%92%C2%8F%EE.html

地元代表と鈴木先生で市議や助役を訪問、しかし市側の回答は固いですね。
行政は市民の声には敏感であると思うので、世論の盛り上がりがもっと必要かも。



1751. Re;「見沼通船掘」をご存知ですか HON  2004/10/26 (火) 23:26
少し付け加えさせてもらいますと
大宮の県立博物館に動く模型が常設展示されています。

はじめて観たときビックリしました。
なにしろパナマ運河と同じものを
それより180年前に実用化したのですから



1750. Re;大きな円い土坑=ムロ穴の機能と構造について HON  2004/10/26 (火) 23:06
>国府台遺跡の氷室の構造は、底にさらに一段丸くくり抜いた穴があって、そこに簀をわたして氷から解けた水をこの穴に受けると現説でお聞きしたのですが、氷室というより貯蔵穴でもいいと私は思います。

「底にさらに一段丸くくり抜いた穴」は
一口に「釜場(かまば)」といって、現在でも貯水槽の底や
基礎とか地下室を造るとき掘った穴(根切)底に設けて
溜り水の最期を汲み上げる集水枡の役目をもっています。

専門領域から少しウンチク述べさせてもらいました



1749. Re: 理想の生活 ドン・パンチョ [URL]  2004/10/26 (火) 23:05
オオヤシマ様

現在借りているアパートは近鉄畝傍御陵前駅の近くで、神武天皇陵や橿原神宮は朝の散歩コースにあります。また近くに橿考研の附属博物館があり、そこの資料室は書斎代わりに使わせてもらっています。

近くには大和三山の一つ畝傍山があり、その山麓には東部に神武(じんむ)天皇陵、北西部に綏靖(すいぜい)天皇陵、南西部に安寧(あんねい)天皇陵、南部に懿徳(いとく)天皇陵が配されています。欠史8代の天皇のうち初代から第四代までの天皇が、この地で眠っていることになり、いかにもデッチあがれられた王陵の地といった感じがします。

神武天皇が宮をこの地に宮居を営んだと記紀には記されていますが、考古学的な裏付けは無いようです。最初に橿原にきたとき、橿原神宮の成り立ちが気になって少し調べて見ました。その結果は「畝傍山周辺を散歩する」の中の「橿原神宮」にまとめておきました。興味がおありなら、小生のHPの歴史探訪ブースの国内編にアクセスしてみてください。



1748. Re;馬場小室山遺跡と御むろの神 HON  2004/10/26 (火) 23:04
室(むろ)というのは氷室などのように貯蔵穴と限らず
塗込めの部屋や家屋をいいます。
同時に、洞窟状の住居も室といわれます。

洞窟住居はだいたい住居というより神祀りの場ですから
広辞苑は御室山は神祀りの山という説をあげています。

建築史では神社の奥殿とされ、神籬(ひもろぎ)からの
略転とされます。神籬は清浄な場所に置かれた持ち運び
可能な神祀施設で、今様にいえば御神輿のことです。

これから想像すると、縄文期は壷のなどの土器だったかも。



1747. 「見沼通船掘」をご存知ですか さわらびT  2004/10/26 (火) 22:18
武蔵野線東浦和駅からほど近くの場所に、国指定史跡「見沼通船掘」が続いています。「日本最古の閘門(こうもん)式運河」と言われています。「馬場小室山遺跡」を訪れたとき、鈴木正博先生ご夫妻にご案内いただきました。

整備も進んでいて、当時通船業務にあたった鈴木家住宅や、船の模型なども見ることができます。楽しく散策させていただいたことを思い出しています。

見沼は、縄文時代前期には海だったところで、海退にともない出来た沼地のようですね。古代の信仰とのかかわりについては、論じられてますので省略。

現在は姿を消している「見沼」ですが、江戸時代の開発により「見沼通船掘」が作られるまでの経緯を記します。(塩野博編『埼玉の遺跡 土の中からのメッセージ』さきたま出版会、2000年、を参照しました)

江戸時代になって、入府に伴う農地整備の一環として、見沼の灌漑が行われました。関東郡代伊奈忠治によって、灌漑用水地として造成されたのです。(寛永年間)そして、現在のさいたま市と川口市の境に、八丁堤が築かれ「見沼溜井」となりました。芦ノ湖の2倍の大きさだったそうです。

ところが、徳川吉宗の時代になると今度は、幕府財政再建のために新田開発が行われることになり、見沼も新田化されることになったのです。この工事にあたったのは、幕府勘定吟味役・井沢弥惣兵衛為永という人です。築かれていた八丁堤を切り、見沼の水を排水して芝川を作り、見沼新田を造成しました。

この新田のため、それまでの見沼溜井に代わる用水として、利根川から水を引くことになりました。これが「見沼代用水」です。地図をごらんいただくと、「馬場御室山遺跡」の周囲に芝川と見沼代用水の西縁が見えますね。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/omuroyamaMAP.htm

さらに井沢弥惣兵衛為永はこの見沼代用水路を年貢米運搬に利用しようと考えました。代用水路と芝川を結んだのです。この芝川は荒川に通じています。要するに運河ですが、東縁側が約390メートル、西縁側が約645メートル、各2ヶ所の閘門によって水位を調節し船を通したのです。

高低さがあることから船を通すために、水位の調整が欠かせなかったわけです。現在では使われない施設ですが、この閘門も見学してきましたが、現在史跡として再整備されています。実際に利用しているわけではないのですが、イベントがある際には実演しているそうです。



1746. LINK御礼 さわらびY(ゆみ)  2004/10/26 (火) 22:13
「石器の考古学」の管理人様
http://www.aruka.co.jp/

「考古学のおやつ」の管理人様
http://www.tt.rim.or.jp/%7Eshr/nl/nl.html

「日本の考古学リソースのデジタル化」の管理人様
http://bbs.mimora.com/080604/

「2004.10.23 馬場小室山からのメッセージU」へのリンクありがとうございます。
私は考古学は素人ですが、プロの方々の関心はとても心強く感じました。
いたらぬHPですが、遺跡の保護につながることを祈っています。



1744. 遣唐使墓誌の謎 さわらびT  2004/10/26 (火) 20:13
理想の生活をされているドン・パンチョ様
それを夢見るオホヤシマ様

私も、もっとあちこち訪ねたいです。

遣唐使の墓誌なども共通の話題になりますね。
朝日新聞(20日夕刊)に、明治大学の氣賀澤保規教授が論考「残された空白箇所の謎」を発表されています。

論じられているのは、@墓誌の石面左側4分の1、4行分ほどの空白があること。Aまた墓誌では本人を表現するのに「贈尚衣奉御井公墓誌文并序」とはじめられているが、普通の表現であれば、贈の字を取り「唐(大唐)故尚衣奉御・・」となること。

石面はすべて使い切るのが普通なので、書くべき記事がなかったか、急いで作られたか、官歴が不明なのに「尚衣奉御」という高い位を贈られたのはなぜか、と問いかけておられます。謎は、まだまだありそうですね。



1743. 大きな円い土坑=ムロ穴の機能と構造について さわらびY(ゆみ)  2004/10/26 (火) 19:43
No.1740で「貯蔵穴として使われた土坑がその機能を終わらせるとき、丁重で呪術的な儀礼をともなう」と書いたのですが、巨大な円い土坑の写真を見ながら、埋納儀礼の穴と貯蔵の穴とは同じものではないか、自問自答しています。
木の実などを貯蔵する穴、特に縄文のは年の1回か2回、空っぽになり、そのとき感謝祭と次の収穫祈願祭を行うとしたら、発掘調査されたときの違いは季節の差ということになるのかも。
ゴミ捨て場や墓として使われる段階が「その機能を終わらせるとき」なのでしょう。

国府台遺跡の氷室の構造は、底にさらに一段丸くくり抜いた穴があって、そこに簀をわたして氷から解けた水をこの穴に受けると現説でお聞きしたのですが、氷室というより貯蔵穴でもいいと私は思います。
底の穴はその上に簀を置き、底の穴に空気の層を作って、地下から浸透する水分を吸収し、貯蔵効果を高めるための構造だと思います。

国府台遺跡の場合、奈良時代以降、ゴミ捨て場になったようですが、このようなムロ穴は民俗事例を探せば近年まで使われたように感じます。

馬場小室山の円い大きな土坑の調査結果が早く公表されることを待ち望んでします。



1742. 理想の生活 オホヤシマ  2004/10/26 (火) 12:43
ドン・パンチョさま
私は関東に住んでおりますが、奈良県内にアパートを借り、終末はそちらに行って遺跡巡りという生活を夢見ています。うらやましい限りです。
橿原はどこに行くのも距離的に近いですね。神武がここに宮を置いたのはそういう意味があるのでしょうか。



1741. Re: 橿原日記 ドン・パンチョ [URL]  2004/10/26 (火) 10:37
オホヤシマ様
拙いHPにアクセスいただきありがとうございます。小生、月の半分は橿原市の安アパートに来て近くの史跡見学や発掘の現場説明会に顔を出すように心がけています。ご希望の探訪箇所などありましたらご一報ください。小生のできる範囲でレポートさせていただきます。



1740. 馬場小室山遺跡と御むろの神 さわらびY(ゆみ)  2004/10/25 (月) 23:57
HONさま

>御沼の女體神社に注目なんですがね。何故って、母系制が信条ですから。

そうでしたね。原始古代は母系制で系譜のなぞが解ける!がHONさんと私の信条でしたね。

> そこで、三室山は女體神社の神山で、そこにある小室社は
> 氷川女體神社と祭神も同じですから奥社だったのではないでしょうか。

あるけ〜さんが緊急特設ページに、リンク集「三室周辺の歴史を知る文献・HP等」を作ってくださいました。

「むろ」ってなんだろう。『死者の霊の宿る岩室を「み室」』と宇治の三室の由来がその中のリンクページに載っています。
大宮台地は、下総同様に石のない台地のようですから、大きな穴といってよいでしょう。
まずは、馬場小室山遺跡で注目されている土坑=巨大な穴(次の記事の写真)
http://chiba.fc2web.com/hozon/akahata041020.jpg
に注目。(あるけ〜さんも偶然、同じように思っていらっしゃる?)

このような穴は、国府台遺跡でも出ていて、ここでは、馬の頭が瓦に載せられて出土しています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/itikawagennsetu/kounodai2.htm
貯蔵穴として使われた土坑がその機能を終わらせるとき、丁重で呪術的な儀礼をともなうことが奈良時代まで行われたとすると、人面土器が同様に埋納されていた51土坑のなども解けるし、今回の調査で複数発掘された巨大な穴も、「おむろ=みむろ」のたいへん重要なキーワードだと思います。

もうひとつ、地形から「おむろ=みむろ」を考えると、注目すべきは盛土遺構に囲まれたあの異様な中央窪地の存在です。かつてはもっと極端に高低差があったのでしょうから、まさに「おむろやま」だと思います。
「おむろやま」=盛土遺構に、「みむろ」=巨大な祭祀の穴がある!
小室社が一ノ宮の奥社だとしたら、馬場小室山遺跡は、武蔵の国の最も聖なる遺跡だと、私は確信しています。
(なんだか、神がかりしてきたみたい? どうしよう)




1738. Re;馬場小室山遺跡と御沼の神 HON  2004/10/25 (月) 21:14
さわらびY(ゆみ)さん

>武蔵国の守のHONさまでは、

守は無理ですが子守ぐらいは、やってみたい!

>男女平等に一ノ宮というのも関東らしくていいですね。

たしかに一見、仲が良さそうなのがすが、実は江戸時代には何処にでも
あるような本家(本社?)争いになって、ときの寺社奉行から、三社とも
証拠が無いから「同格」という大岡裁きで決着したそうです。

子守としては御沼の女體神社に注目なんですがね。
何故って、母系制が信条ですから。

>これに、小室社のある小室(おむろ)山もまた「御室」で聖なる山であったという私の想像に、東日本の神様のことならなんでもご存知のHONさまのお墨付きが得られれば、うれしい限りです。

なんでもご存知の訳無いですけど、、、
『江戸名所図会』に氷川女體神社は「宮本簸川大明神の社」の名で載っていて
「宮本郷三室山の南麓にあり」とあります。
この三室山と小室山は同じ処を指していると考えられます。(三室・小室=御室)
そこで、三室山は女體神社の神山で、そこにある小室社は
氷川女體神社と祭神も同じですから奥社だったのではないでしょうか。

>また文化は水系でつながっていますので、

その通りだと思います。わたしは秩父と江戸をつなげました。
さらに江戸湾を介して房総や多摩川・鶴見川・相模川へとつながります。
道路や鉄道より水路が交通網であった時期の方が長いという見方から
「多摩川流域」というコードも生まれました。



1737. Re: シンポジウム『朝鮮通信使と関宿藩』 さわらびT  2004/10/25 (月) 20:43
昨24日(日)、シンポジウム「朝鮮通信使と関宿藩」が開催されました。このような会に参加できて、主催者の方々にまず感謝です。

趣旨は、以前掲示板(1656)にも紹介させていただきましたが、新発見の朝鮮通信使と交換した友好を確認する「書契」(文書)の現物が公開されました。現物の見事さが実感できました。また仲尾宏先生(京都造形芸術大学客員教授)をはじめとして、充実した講演を聞くことが出来ました。予定にはなかったのですが、発見者の亀井馨氏の講演「書契・仕宦録の伝世と亀井家」も聞くことが出来ました。

単なる紙くずと思われたものが、歴史を伝える貴重な史料(「仕宦録」)であったこと、神棚に何気なく置かれていたものが朝鮮通信使と交換した友好を確認する文書(「書契」)であったことなど、生々しいお話でした。諦めず専門家を訪ねたことが功を奏したようです。

藩主・久世家から何らかの事情で受け継がれた文書なんですが、幕末から今日に至るまで、代々のご当主は、維新後だけでなく、親御さんの代にはシベリア抑留といったご苦労も重ねられたようです。そういった日々を送りながらでも、伝えられた文書なんですが、幸い仲尾宏先生にたどりついたようです。亀井さんは偽書であることも懸念されたようですが、紙質からも、本物であることは確証されたようです。ご一族にとってもシンポジウムは感慨ひとしおのようでした。

歴史は今、生きているわれわれに突きつけてくるものがあるわけです。日常生活では歴史など考えることがないけれど、あるきっかけで、このように見えてきたりすることがあるのですね。

縄文時代を考えることも多くなりました。3000年以上も前のことだから、関係ないように思えますが、本質的には同じで過去があって今があるんです。どうしても人は、目先の利害得失だけ考えてしまい勝ちです。でも、こうして歴史を振り返るのは、見えないことが、姿をあらわすからなんだと思っています。



1735. 橿原日記 オホヤシマ  2004/10/25 (月) 12:33
ドン・パンチョさま
はじめまして。
「橿原日記」初めて見させて頂きました。なかなか行くことができない現地説明会や遺跡の情報を知ることができ、大変参考になるホームページだと思います。これからも定期的に見させて頂きます。



1734. 馬場小室山遺跡について、メールからの投稿 さわらびY(ゆみ)  2004/10/24 (日) 23:01
馬場小室山遺跡について、BBSにとメールでお便りをいただきましたので、ご紹介します。(アドレス非公開をご希望の節は、メールからご紹介します)
投稿ありがとうございました。
--------------------------------------------------
馬場小室山遺跡の件、感慨深く拝見しました。
埋蔵文化財の発掘調査、というものの現状が、結局のところ、開発に伴う緊急調査という形態をとることが殆どであって、その性質上、工事の納期、あるいは予算上の理由から調査終了期限が設定されてしまい、調査中に新たな進展や、より精細な調査の必要性が生じてもそれを行うことが困難であるということが、顕著になった例だと思います。

調査には予算という名の「お金」が必要であって、その「お金」が総てみたいな世知辛いこの世の中で、経済効果というものを生むことのない学術調査に、資金提供をしてくれる企業・団体・官公署が少ないのもあるいは仕方ないことなのかもしれませんが・・・

破壊されてしまえば二度と戻ることのない貴重な文化遺産を、とてもないがしろにしているような現在のあり方に対しては、心から残念に思っています。

どうか馬場小室山遺跡に対して十分な調査がなされ、その成果がしっかりと後世に残るようにと願っています。



1733. 馬場小室山遺跡と御沼の神 さわらびY(ゆみ)  2004/10/24 (日) 22:55
HONさま お久しぶりです。先日は真っ白なTOPページでご心配をおかけしました。

坂東千年王国で武蔵国の守のHONさまでは、「ホットク訳にもいかない」一ノ宮ですもの、いつかHON流の氷川神社三社のお話を読みたいと思っていました。

男女平等に一ノ宮というのも関東らしくていいですね。
これに子がいて、三匹獅子舞のようです。
「縄文遺跡のある風景 in印旛沼南岸台地の遺跡群」の佐山では、やや強引に三匹獅子舞の分布とくっつけちゃっいましたが・・・

「2 馬場小室山遺跡のあるところ」でも書きましたが、三室とは「御室」であり、見沼は「御沼」でだったと思います。
これに、小室社のある小室(おむろ)山もまた「御室」で聖なる山であったという私の想像に、東日本の神様のことならなんでもご存知のHONさまのお墨付きが得られれば、うれしい限りです。

また文化は水系でつながっていますので、とくに縄文中期の浮島・阿玉台式の文化圏は中世まで、おそらく変わらないだろうというのが、見沼(御沼)と印旛沼をくっつけたこれの私の「強引な」推理です。

科学的な実証を重ねていく考古のみなさまからの目からみると、根も葉もない話になりそうですが、民俗や信仰から遺跡の位置と存在理由を考察してみるのも楽しいことだとおもいますが・・

1732. Re;馬場小室山遺跡の遺物を観察しました  HON [URL]  2004/10/24 (日) 21:38
遅まきながら馬場小室山遺跡を見てきました。
既に何にも無く、日曜日のことで誰もいません。

今頃出かけたのは遺跡のある場所が気になったからです。
ここから東へ一キロと離れていない用水沿いにある氷川女體神社
です。大宮の氷川神社が男體神社と呼ばれて対で、さらに大宮中
川の中山神社(簸王子社)は御子神で三社一体といわれます。
先に奥多摩の奥氷川神社へ行ったので、中社・本社も、
というわけです。

氷川神社は神主の武蔵国造が出雲系であるように祭神も出雲神で
すが、わたしの関心はもう少し先の出雲神以前の地主神にあります。

氷川女體神社の社前は御沼と言われた処ですが、大宮の氷川神社の
周囲もかつては御沼原と呼ばれた場所でした。両御沼は一体の広大な
もので、氷川三社はこの御沼に面して建てられたのです。

女體神社前の磐船祭祭祀遺跡は江戸時代に御沼が干拓されてからの
ものですが、御沼時代の御船祭りは地主神の時代まで翻るでしょう。

その地主神とは氷川神社の門客神として摂社に下げられてしまった
縄文時代のアラハバキ神です。
ここでやっと馬場小室山遺跡につながるという訳です。

ところが、このアラハバキ神はクセ者で、世間で「偽書」とされる
一本『東日流外三郡誌』では、ツガル王国の神として遮光土器に似
せた挿絵まである始末で、イヤでも「偽書」と付き合わざるを得な
くなるのです。

サア〜どうしょう。何しろ武蔵国一ノ宮ですから、
ホットク訳にもいかないし、、、




1730. 2004.10.23 馬場小室山からのメッセージU さわらびY(ゆみ)  2004/10/24 (日) 01:42
「2004.10.23 馬場小室山からのメッセージU」をUPしました。
「プロジェクトZ」(ABCの最後のZ)、名付けて「インディー・ジョーンズ最後の聖跡作戦」の一端ですが、また土まみれの土器のさまざまな紋様などもお伝えできればと思います。

とりあえずのUPですので、推敲はこれから。
うろ覚えで、間違っている箇所があれば、ご指摘ください。

なお「千葉市の遺跡を歩く会」のHPでも、「発見の届出」の証拠となった添付写真をUPされましたので、関連リンクしました。




1729. 馬場小室山遺跡の遺物を観察しました さわらびY(ゆみ)  2004/10/23 (土) 23:42
今日23日は、馬場小室山へ行きました。
工事も静かでしたので、午後2時ごろから30分ぐらい鈴木先生ご夫妻と数名で土器を探しました。

現場は大雨が続いた上、重機が入って土をかき回したので、足元は泥んこ。土器も見えづらく、土の固まりかと思って手で押すと固い手ごたえがあり、泥の塊の中から富士山のような突起のついた土器の口の部分や、きれいな文様の大きな土器片も出てきます。
私は、耕作で小さなかけらになり、摩滅した畑の土器片しか手にしたことがなかったので、今割れたばかりというような土器片にとても感動しました。

また鈴木先生には、実地でいろいろ教えいただき、考古学者の信念に触れた思いがしました。

今、写真の整理とルポをまとめるのに追われています。
土器の特徴などはじめて習ったことの復習で頭もいっぱいです。

「千葉市の遺跡を歩く会」のHPでも、「発見の届出」の証拠となった添付写真をUPしてくださるでしょう。

夜もふけてきましたが、皆様に発信すべくPCをたたいています。
土器の写真はもうしばらくお待ちください。




1727. Re^3: 鈴木靖民説 さわらびT  2004/10/23 (土) 23:09
ドン・パンチョ様

ありがとうございます。

井上氏だとすると、阿智使主を始祖とする東漢氏の系譜をもっているようですね。東漢(倭漢)氏は同族が多く、のちの坂上氏にも見られる軍事的色彩を感じますが、「井真成」は、文人としての力量を発揮できた人のようですね。




1726. Re^2: 鈴木靖民説 ドン・パンチョ [URL]  2004/10/23 (土) 21:20
さわらびT様
平成16年10月21日付け毎日新聞夕刊に掲載された鈴木靖民教授の「井真成」に対する推論記事を、小生の10月18日付け橿原日記に追加しておきました。




1725. 白猪史(葛井連)広成 さわらびT  2004/10/22 (金) 22:57
白猪史(葛井連)広成のことは、加藤謙吉先生の「『日本書紀』と渡来人」(大山誠一編『聖徳太子の真実』所収、平凡社)にも、かなり細かく書いておられます。今回、葛井氏が墓誌のことで注目されていますので、しつこいですが付け加えます。フミヒト系諸氏が、『日本書紀』の編纂に深く関わっていたことがよくわかります。(以下、同書から)

天平20年(748)8月、聖武天皇は広成の家に行幸している。天皇は群臣らとともに宴飲し、留宿し、翌日、広成とその室である県犬養宿禰八重に正五位上を授けている。

広成がこのように寵愛された理由としては、彼が風雅を好む一流の文士であったことに加えて、妻の八重が光明子の母、県犬養宿禰三千代の近親であったことによると思われる。

「文章」の学を極め、作文能力に長けた広成が、不比等や三千代の口利きで、『日本書紀』の撰修に加わった可能性は高い。

『続日本紀』では白猪史に対する葛井連賜姓と『書紀』の完成を、ともに養老4年5月のこととしているが、偶然の一致といえず、白猪氏が『書紀』編纂に功があったために、賜姓されたと考えられる。

広成と真成・・・生きていた時代は重なっています。




1724. 阿部芳郎先生の馬場小室山についての新聞記事紹介 さわらびY(ゆみ)  2004/10/22 (金) 19:09
『赤旗』2004年10月20日学問文化欄に、明治大学助教授阿部芳郎が、「国史跡級遺跡に最大の危機−熱いまなざし注がれるさいたま市馬場小室山」という記事が写真入で掲載されています。

「直径50mほどのマウンド状の盛り上がりが、確認でき」「発掘がはじまると、そこには予想どおり大量の遺物と遺構にあふれていた。しかも最下層には中期の集落があり、その上に後期、晩期とおよそ二千年間にわたりいくつもの住居や貯蔵穴などの遺構が見事に累積している。国史跡候補であることに間違いはなかった。」と「盛土遺構」発掘の状況を述べられ、「国史跡として最有力候補とされてきた遺跡に、いま最大の危機が訪れている。」と訴えられておられます。

地元の保存運動や日本考古学協会の働きかけの経過を紹介したあと、阿部先生は、かろうじて延長された発掘期間の中、各地から集まった研究者や学生のボランティアを「今回の調査成果を将来に生かし、未調査地区の保存と活用を願う長期的なスタンスの上にたった学術ボランティア」とその意義を紹介されています。

詳しくは、ぜひこの記事をお読みください。




1723. Re: 鈴木靖民説 さわらびT  2004/10/21 (木) 22:54
オホヤシマ様

うっかりして毎日新聞、入手しそこないました。後日、読むことにいたします。加藤先生がおっしゃってましたが、葛井説で気になるのは、717年にはまだ白猪史(葛井連への改姓は720年)らしいですね。

『大和政権とフミヒト制』(吉川弘文館)に、今回の発見とからめて参考になる表がありました。フミヒト系の「遣外使節・掌客・留学生・学問僧」の表なんですが@白猪史宝然(骨)[天武13.12]大唐留学生、新羅送使に送られ帰国。(出典『書紀』)とあるんですが、唐名が「宝然」なんですが、「骨」が「ほうねん」となったということなんですかね。

A白猪史(葛井連)広成[養老3.閏7]遣新羅使となる。大外記・従六位下(出典『続紀』)という人なんですが、「文雅」の士として知られ、『経国集』に対策文二首を収める、といったプロフィールが紹介されてました。

しばらく、この話題で盛り上がりますね。




1722. 鈴木靖民説 オホヤシマ  2004/10/21 (木) 17:39
今日の毎日新聞の夕刊に、遣唐使墓誌に関する鈴木靖民先生の論考が掲載される予定です。ご覧になってください。




1721. ご心配おかけしましたが、復旧しました さわらびY(ゆみ)  2004/10/20 (水) 19:14
 「さわらび通信」のTOPページが、急に真っ白になってさぞおどろかれたことでしょう。
 ご心配くださった皆様、メールなどありがとうございました。
 いろいろな方々にご覧いただいていること、あらためて認識させられました。

 今回は、プロバイダーのメンテナンス作業でのトラブル発生のあおりで被害を受けたのですが、これがお商売のHPだったとしたら、補償はどうするのでしょうね。

 HPの対応に追われているうち、馬場小室山の課題は次の展開を予定しているよう。
http://chiba.fc2web.com/hozon/bbo_041020smail.html

また、あるけ〜さんから、1711. でご紹介いただいた地元サイト「ばんばおむろ山―小室山保全運動の記録」をすてきなロゴ入りでリンクしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/omuroyama1.htm
「涙声になってしまい、電話を切る」というセンテンスで終わる『文化財保護課とのやりとり』のページはこちらも泣けてきそう。
http://www2.gol.com/users/iizuka.kuniaki/04.10.12%95%B6%89%BB%8D%E0%95%DB%8C%EC%89%DB%82%C6.html

少しでも工事を遅らせるため、台風も頑張ってくれているみたい。
今後ともネットでのお付き合いを、よろしくお願いします。




1720. Re: 環状盛土遺跡は縄文研究に貴重 さわらびT  2004/10/19 (火) 23:44
塚原様

ご訪問ありがとうございます。今日、加藤先生の勉強会だったのですが、メンバーの方もHPを見て「馬場小室山遺跡」の話題に注目いただいているようです。

本当は、遺跡はそのままそっとしておくのが一番いいのかも知れません。200メートル四方のムラ全体が史跡なので、出来るだけ景観を壊さずに残すことは出来ないものでしょうか。

縄文時代のことはまだ不勉強です。これからも、お教えください。




1719. Re: 中国名 さわらびT  2004/10/19 (火) 23:35
今日の加藤先生のお話も刺激的でしたね。

ところで、小野妹子ですが、東野治之先生の『遣唐使船』(朝日選書、1999)には、「「因高」は「妹子」の相当し、「蘇」は「小野」の「小」を音読したものに宛てたのではないだろうか。」とあります。「小」では威厳に欠けるということだろう、とも書かれていました。

さて、今回の「井真成」、「葛井」だとしたらなぜ「葛」でなく「井」にしたのでしょうね。加藤先生が、来月「シルクロードの会」でお話になるそうで楽しみです。

> 遣唐使がどのような中国名を持っていたかまとめてあるといいですね。

『遣唐使船』に主な唐名一覧が出てました。




1718. 環状盛土遺跡は縄文研究に貴重 塚原馨  2004/10/19 (火) 22:03
環状盛土遺構は縄文後晩期の集落構造や、社会組織についての情報がパックされています。実態が解明されれば、縄文研究が大きく進むことになるでしょう。
 馬場小室山遺跡は私も見てきました。それだけに、十分な調査がないままに姿を消すとしたら、とても残念なことです。遺跡は今後どうなるのでしょうか。心配しながら、見守っています。




1717. TOPと一部ページ、ただいま休止中 さわらびY(ゆみ)  2004/10/19 (火) 21:05
「さわらび通信」TOPと一部ページは、ただいま休止中です。
アップ作業中に急に容量がオーバーし、容量追加しようにも、プロバイダーさんが「メンテナンス中、しばらくお待ちください」のまま、止まっています。
復旧まで今しばらくお待ちください。




1716. 中国名 オホヤシマ  2004/10/19 (火) 12:26
遣唐使がどのような中国名を持っていたかまとめてあるといいですね。確か、安倍仲麻呂は「朝」という姓だったのでは。なんで「朝」なのかなあ。
日本書紀には、小野妹子は中国では「蘇因高」と呼ばれていたとあります。「イモコ」⇒「因高」はいいとして、「小野」がなぜ「蘇」なのかは定説がまだないように思えます。
それがわかれば「井」から逆算できそうですが。




1715. Re^2: 遣唐使の墓誌 さわらびT  2004/10/18 (月) 23:13
閑話休題

ドン・パンチョさんが、橿原日記に遣唐使をテーマに興味深いコラムを書いておられます。

『遣唐留学生・学問僧の遺児たち』
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2004_10_18.htm

阿部仲麻呂の{従(けんじゅう)であった羽栗吉麻呂は、入唐後、唐の娘をめとり、翼(つばさ)と翔(かける)の二児をもうけます。八世紀の遣唐使はおよそ二十年に一回の割合で派遣されるようになり、留学生と学問僧は次の遣唐使船で学業を切りあげて帰ることになっていたようです。ところが、ご存知の通り、仲麻呂は玄宗皇帝の側近として仕えていたことから帰国申請は却下されてしまいます。

困ったのは、{従の羽栗吉麻呂です。苦渋の選択を迫られたのですが、結局は翼と翔の兄弟を連れて帰国します。(王勇『唐から見た遣唐使』参照)

さて今回の墓誌は唐風の名前になっていた事で、いくつかの推測がなされていますが、正解は出るのでしょうか。

興味深い話があります。鑑真来日に奔走した大伴古麻呂ですが、天平5年(733)の最初の入唐において、「朋古満」と名乗っていたとされています。(滋賀県石山寺蔵『遺道経』奥書による)「朋」は「大伴」のトモに因んだ一字姓であると解されています。(東野治之『遣唐使船』参照)

ところがこの「朋古満」を「羽右満」であるとする説もあるようです。しかも「右」は「吉」の誤写で、これを羽栗吉麻呂だとするのです。(佐藤信説)

大伴古麻呂か、あるいは阿部仲麻呂の{従の吉麻呂の名が記されたのか、興味は尽きないですが、これ以上は不勉強なのでどなたかご存知の方はお教えください。

ちなみに、羽栗(葉栗)氏ですが、加藤先生から勉強会でうかがいましたが、和邇氏系で外交面での活躍が顕著な氏族という特徴を持っています。翼や翔も外交面での功績が記録に残っています。(渡来系と加藤先生は推測されているようです。)




1714. 読売新聞夕刊記事「環状盛り土遺構」 あるけ [URL]  2004/10/18 (月) 23:12
さわらびさん、こんばんわ
>ひらがな書きのすてきなタイトルロゴ
>「ばんばやまには、タヌキがおってさ・・」
どういうところか、どういう方々が住んでいるか
すぐわかるようなHPですね。

ところで本日10月18日読売新聞夕刊の文化欄で環状盛土遺構が
曲輪ノ内貝塚の発掘現場の写真つきで大きく取り上げられています。
見出しは「環状盛り土遺構―住居跡の累積に過ぎず―阿部助教授説で波紋」。
残念ながら、馬場小室山遺跡のことは触れられていませんが。




1712. Re: 地元サイト 「ばんばおむろ山―小室山保全運動の記録」 さわらびY(ゆみ)  2004/10/18 (月) 21:51
あるけ〜さん、ありがとう

> 「ばんばおむろ山―小室山保全運動の記録」
> というHPをみつけました。

やはり、地元のHPが生まれていたのですね。
ひらがな書きのすてきなタイトルロゴ
「ばんばやまには、タヌキがおってさ・・」

私が行きそこなった最新出土品展もでている!

管理人さんの姿に、宿内砦跡を守った臼井の方々の姿を思い出します。




1711. 地元サイト 「ばんばおむろ山―小室山保全運動の記録」 あるけ [URL]  2004/10/18 (月) 20:23
「ばんばおむろ山―小室山保全運動の記録」
というHPをみつけました。
地元の飯塚さんのHPらしいです。

http://www2.gol.com/users/iizuka.kuniaki/




1710. 馬場小室山遺跡のHPについて さわらびY(ゆみ)  2004/10/18 (月) 01:14
ドン・パンチョさま
一夜明けた生々しい写真と、力の入った文章はさすが迫力がありますね。

あるけ〜さま
「はじめてご覧になる市民の方へ」のUP、感動してしまいました。

>工事は進行していたでしょうか

16日現在、警備の方にお聞きしたところ、日曜日は作業はお休みとのことでした。

皆様へ

鈴木先生の書簡の中でご紹介いただいて、知らない先生方などからこちらのサイトをご覧くださる機会も増えることと思い、リンク・掲載の通知漏れなどの粗相がないか、緊張して点検に追われています。
(今までは、知人でののんびりとした歴史談義のサロンでしたから。)

学界・業界のルール、マナーに疎い点が多々あると思います。
初めてお越しいただいた方、お気づきの点がありましたら、どうかご助言ください。
ただし小心者ですので、どうかお叱りはメールのほうが恥を晒さなくて助かります。
(「励ましはBBSで」といったら、むしがよすぎますかしら?)




1709. Re~2: 馬場小室山遺跡の破壊現場 あるけ [URL]  2004/10/17 (日) 23:35
>さわらびさん、
こんばんわ

>ドン・パンチョさん
はじめまして。
勝手にリンクさせてもらってます。
本日、現地に行かれたようですが、
工事は進行していたでしょうか。
南西の未調査の盛土の部分が心配なものですから。




1707. Re: 馬場小室山遺跡の破壊現場 さわらびT  2004/10/17 (日) 19:44
ドン・パンチョ様

驚かれたことでしょう。まだ、希望は捨てないようにしたいです。情報は、当HPならびに、「千葉市の遺跡を歩く会」に随時UPします。最新情報は、下記でご確認ください。鈴木先生からあらためて要望書を提出しています。

http://www.geocities.jp/chibaiseki/




1706. 馬場小室山遺跡の破壊現場 ドン・パンチョ [URL]  2004/10/17 (日) 14:57
ゆみさん、今日は。
昨日ゆみさんが発掘現場にお見えになっているとは知りませんでした。
小生は今朝、現場の様子が気になって出かけてみました。そして唖然としました。
10日前に見た現場がそこにはないのです。今朝11時現在の様子を橿原日記(
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/index.htm )にアップしておきました。

市の教育委員会に出された要望書に対して、市側はどのような回答を返したのでしょうか?ご存じなら教えてください。




1705. 悲観的になることはない・・遺跡の保全 さわらびY(ゆみ)  2004/10/16 (土) 22:52
T花さん、こんばんわ。
あるけ〜さん、メールありがとうございました。
9時半ごろ、馬場小室山の現地に着き、一気に進む工事の進行を見守っていて、そうだ、携帯電話があったのだと気づき、Tに状況を電話しました。衝撃的?なTの書き込みは、その伝言です。

若い頃は山好きのナチュラリストでしたので、樹木が根ごと倒されていくのは、生理的につらかったです。
そういえば、10年前、臼井城址の臼井田宿内砦跡の山で木々が伐採されていくのにも立ち会っていました。
一枚のマンション建設反対のビラに、「砦跡が奇跡的に残されている遺構」と書いてあったのがきっかけで、単身現地に通い、なれない縄張り図を描き、旧家の方への聞き取りなどの調査をしていました。
緊急レポートを「史談八千代」19号に掲載させていただきましたが、反響があったと知ったのは、それからしばらくたってのことで、臼井の有識者で発行している「うすゐ」12号のコラムに共感の書評が載っていました。
結局、市民の反対やバブルの崩壊で、臼井田宿内砦跡は守られました。
今は、携帯電話やインターネットなどリアルタイムの情報化社会です。情報化には影と光があるとのことですが、学術的な裏づけのある情報を発信して行きたいと思っています。
そして宿内砦のことを思えば、決して悲観的になることはないと自分に言い聞かせています。




1704. Re^4: 馬場小室山・破壊されました T花  2004/10/16 (土) 21:45
さわらびさん、こんばんは。

この「馬場小室山・破壊されました」を見て、本日午後4時過ぎ、現場へ駆けつけました。
そこで、偶然鈴木正博さんご夫妻とあるけ〜さん、Bさんにお会いしました。あるけ〜さんとBさんは、お2人とも私と同様にこのHPを見て驚き、駆けつけたそうです。
鈴木正博さんから、現場について懇切丁寧にご説明をいただきました。鈴木さんは、次の展開をお考えのようでした。
予想以上に突然のことであり、何とも言いようがありませんが、まずは、鈴木さんの発言等に注目したいと思っています。




1703. 「環状盛土遺構」 さわらびT  2004/10/16 (土) 19:38
「環状盛土遺構」というとまだなじみのない言葉ではないでしょうか。概念図を通じて、集落のつくられ方が見えてきます。遺跡の一部が破壊されたことで、よりわかりづらくなりましたが、暮らしの痕跡だと認識すべきなのでしょう。51号土坑から出土した人面がついた有名な土器がありますが、完型で出たそうですね。縄文人が大事に守っていたことがわかります。私達が、その心を汲み取ってあげなければ掘り出した意味はないです。

栃木県小山市にある寺野東遺跡が、環状盛土遺構として、関東地方における最初の認識例といえるようです。当初は祭祀遺構として理解されていたようですが、昨年明治大学での阿部芳郎の講演で聞きかじったことがあるので、多少気になっておりました。祭祀スタジアムという説には、批判的だったことも記憶しておりました。

では、この環状盛土遺構をどう理解すればいいのでしょう。先日の、シンポジウム「井野長割遺跡を考える」の配布資料を見ながらの要点をメモしました。といっても、まだまだ未解明な要素が多いようで、ちょっと歯切れが悪いように思えます。

江原英氏(とちぎ生涯学習文化財団埋蔵文化財センター)の資料には、寺野東遺跡の報告書に「粗製土器や石器をはじめとする普遍的な遺物が多量出土することに注目し、盛土部分が当時の居住域である可能性を示した」(江原英ほか1997)と記したとされ「また、後・晩期の集落に関わる研究史の検討と環状盛土遺構の類例集成により、寺野東遺跡の環状盛土遺構が、窪地を囲んで環状の高まりが巡るという形態や時期のみならず、層の特徴や堆積状況・遺物出土状況等で、環状(馬蹄形)貝塚を含めた類例と共通点が多く認められることを指摘した」(江原「遺構研究 環状盛土遺構」1999)とあります。

「またこれら類例との比較作業等によって、環状盛土遺構は決して祭祀的・非日常的な構築物ではなく、関東地方後・晩期において一定程度普遍的な集落の一形態として議論すべきとの意見を提出した。」

人々の暮らしの痕跡としてあるのだとしたら、今まで気がつかなかったところにも環状盛土遺構はあるのでしょう。盛土は、日々の暮らしの中で人為的に形成されたものですが、その形成プロセスやムラの構造、あるいは人々の暮らしかたのさまざまな場面をあらためて教えてくれただろう遺跡が消えかかっています。




1702. 馬場小室山遺跡の状況報告 さわらびY(ゆみ)  2004/10/16 (土) 18:22
今朝、馬場小室山遺跡へ行ってきました。

整地作業の工事は、昨日、今日で一気に進み、午前中いっぱいで、ほぼ発掘調査現場の埋め戻しと巨木の伐採が終了しました。
遺跡の東側の中央くぼ地からずっと見守っていましたが、20m以上の高さの樹木の根元が大きくユンボで掘られ、ドシンと地響きがして、根ごと引き倒されていきました。

作業の休憩時間に、警備のおじさんに話をして整地したところを観察させてもらいました。土器片は、湿った土まみれで見えにくいのですが、夥しいというほどではないのものの、北側にはけっこう散乱しています。

遺跡は、発掘調査の跡が残土で埋められ、樹木のあったところは伐採のため大胆に掘削されましたが、今日現在、盛土の厚い包含層が全て破壊されたわけではありません。
ですから、決してあきらめることはないでしょう。
宅造のために山全体の土取をするのは、次の段階ですので、その前に次善の策がとられることを祈ってやみません。




1701. Re^3: 馬場小室山・破壊されました さわらびT  2004/10/16 (土) 10:58
現在Yが現場に立っています。(中央窪地で見守っています)
遺跡が破壊される瞬間に立ち会っています。

大木を切り倒す作業中ですので、現場に立ち入るのは危険です。土器が散乱しているそうです。