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1400. Re: 『藪ログ』の情報、ありがとう さわらびY(ゆみ)  2004/05/16 (日) 22:22
ひづめさんへ
『藪ログ』へのご紹介記事ありがとうございます。
いつも情報満載の『藪ログ』拝見しています。
いつか筑波の小田山(宝篋山)に登って、忍性が建立した宝篋印塔をみたいと思っているのですが、まだ果たせません。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/3tukuba.htm
『藪ログ』の情報では、露盤と相輪がずれたまんまとか。

6月27日の茨城県考古学協会第26回遺跡調査研究発表会のお知らせもありがとうございます。

演題の「霞ヶ浦町柏崎古窯跡群」は現地を2回も見ましたので、ちょっと関心があります。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kasiwazakiiseki.htm

「雪を踏みしめて登った荒戸城での「冬のソナタ」ごっこ』の記事は、ちょっと謎ですが、土曜の夜中にTVで夜更かしの御仁もけっこういるのですね。




1399. Re^2:三代王神社工事現場調査&けみ川道のルート さわらびY(ゆみ)  2004/05/16 (日) 22:03
あるけ〜さん、いろいろご指示ありがとうございました。
オバサンが、「写真撮りたいから、工事の足場にのせて」と言ったときのガードマンさんのびっくりした顔ったら・・
10年前に臼井城外郭の宿内砦跡を調査した頃はいつも一人でしたが、近年は今回のようにそれぞれ特技のある方々が一緒に調査に同行してくださるので、心強いです。
そして一緒に珍しいものを見たと喜んでくださった現場監督さんにも感謝!

> ところで税務署に上がる道路はいつごろできたのでしょうか。
> 陸軍迅測図にはのっておらず、戦争直後の米軍の航空写真には
> 写っているようですが。救済道路とかとは関係あり?

『千葉市図誌』で見ると、昭和3年測図地図では、もう開通しています。
昭和7年昭和金融大恐慌対策の「救済道路」の頃には、できているわけですね。

「千葉郡誌」(大正15年)の記述を見ると、県道大和田新田−幕張線(「けみ川道」)は、「坂道多く、車馬の交通に利便ならざるも五ヵ年(大正11年より?)計画で改良中」とありますから、そのころに整備されたのではないかしら。

税務署前の坂は勾配がきついですから、石なし県で砂利舗装もできない昔は、長作−武石間の庚申塔のある短い坂を通って武石の辺田道へ行くほうがましだったのでしょう。

今日は、八千代市郷土歴史研究会例会が高津山観音寺であり、元和元年大阪夏の陣で戦死した間宮正秀以下、間宮旗本家累代の位牌の記録調査をしました。
昼休みに、昨日Sさんが採取した三代内貝塚の貝殻を皆さんにお見せしてから並べて撮影し、昨日のドキュメントに挿入、更新しましたので、見てください。

そちらの歩く会例会は、雨で順延とは残念でしたね。
来週週末は、千葉大での日本考古学協会総会。
両日とも関心のある講演は聴きたいと思っています。
お会いできたら、よろしくお願いします。




1398. Re:三代王神社工事現場写真の速報&記事 あるけ〜 [URL]  2004/05/16 (日) 12:09
さわらびさん、こんにちわ

昨日よりドタバタしていて、遅れましたが、
写真、拝見しました。
無理な注文に十二分にこたえていただき感激です。
貝層の写真、見事ですね〜


>現場監督さんに遺跡の意義や貝層の説明をお話し、
>私のデジカメをお預けして頼むと、代わりに足場から、
>真正面の写真を撮ってくださいました。
さすが八千代市郷土歴史研究会ですね
しかも現場監督さんにもご協力いただけるなんて!!
八千代市郷土歴史研究会のみなさんに感謝です。
M事務局長、S会員さんにもよろしくお伝えください。


>現在鳥居のある参道の階段も下半分まで道路になり、参道も曲がるように
あそこも見納めでしたか〜

ところで税務署に上がる道路はいつごろできたのでしょうか。
陸軍迅測図にはのっておらず、戦争直後の米軍の航空写真には
写っているようですが。救済道路とかとは関係あり?

まずは貴重な資料、ありがとうございました。
V字溝のほうは うーん???ですね。
斜面貝塚の断面はこうなっていたのか〜とあらためて感心してます。
しかし誰がいつ捨てたのか?・・・・
貝層の写真を眺めながら、いろいろ考えてみたいと思います。



▼ひずめさん、はじめまして
こちらのページもご紹介いただき、ありがとうございます。
さわらびさんがよくぞ気付いてくれました。
微力ながら効果があったと思うとうれしいです。

一騎当千のつわものぞろいのヤブレンジャ−の中でも
ぬきんでたひずめさんのお名前は
かねてから存じあげておりました。
HP「お散歩団」も拝見させてもらいます。
これからもよろしくです。(^^)




1397. 三代王神社工事現場の遺跡の記事 ひづめ [URL]  2004/05/15 (土) 22:32
さわらびゆみさん、こんばんは。

 三代王神社工事現場の遺跡の件、情報をありがとうございました。ネット上での素早い情報交換が功を奏した好例だと思います。さっそくわたしの作っている『藪ログ』 (http://homepage.mac.com/kopyto/iblog/index.html)というページで紹介させていただきました。

ひづめ@美浦村お散歩団




1395. Re^2:三代王神社工事現場写真の速報 さわらびY(ゆみ)  2004/05/15 (土) 15:02
八千代市郷土歴史研究会のM事務局長(「けみ川道」の調査者で、本職は建築関係)と縄文土器製作や貝塚の貝種について詳しいS会員に同行いただき、現場調査に行きました。

> まにあわせのページなのでリンク、恐縮です。

あるけ〜さんのHPをプリントして資料として参加者に差し上げました。
よくできているので、たいへん参考になりました。

> 斜面貝塚のところで何か遺物がみつかれば
> 形成期の貴重な判断材料になるでしょう。

釣り針や土器でも見つかれば、それこそ「私の宝もの!」と冗談を飛ばしながら、今日はひとまずオーソドックスに貝層の貝種を調査しました。
結果は後でご報告します。

> 斜面貝塚の上の部分の貝層のところ、
> できましたら写真、撮っておいてください。
> (撮りにくいと思いますが)

今日は、生コンの埋設作業のため休憩時間もなしの突貫工事で、すごく作業員や車、機械が多く、ガードマンもピリピリ!

工事用足場にのって間近で撮影したいというと、「とんでもない」と断られました。
現場監督さんに遺跡の意義や貝層の説明をお話し、私のデジカメをお預けして頼むと、代わりに足場から、真正面の写真を撮ってくださいました。

おかげで、貝層はばっちり撮れています。

とりあえず、速報で掲載しました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/sanndainaiiseki/sanndainaiiseki1.htm

これから出かける用があるので、とりあえずの速報、またあとで更新しますです。ではまた。




1394. Re:三代王神社現地集合 あるけ〜 [URL]  2004/05/15 (土) 00:40
こんばんわ
まにあわせのページなのでリンク、恐縮です。

明日、三代王神社にかけつけたいところですが、
所要があり、行けるかどうか、難しいところです。
はやく片付いたら、とんでいきます。

斜面貝塚のところで何か遺物がみつかれば
形成期の貴重な判断材料になるでしょう。

斜面貝塚の上の部分の貝層のところ、
できましたら写真、撮っておいてください。
(撮りにくいと思いますが)

よろしくお願いします。




1393. Re: 磐井の乱、継体の死 さわらびT  2004/05/14 (金) 23:29
意外なんですが、加藤先生は雄略の時代の軍事専制王権が継体の時代にも引き継がれたとお考えですが(佐伯有清編『雄略天皇とその時代』所収の「応神王朝の衰亡」)、私はオホヤシマさんのおっしゃるように、安定政権とは思えない対立があったように思うのです。雄略の時代の筑紫の勢力が糾合され、大和の継体擁立勢力と戦ったとすれば、やはり一種の内戦ですよね。

継体治世の時代は、朝鮮半島では加耶をめぐる攻防が激しさを増した時代と考えられます。また磐井の乱と継体大王の崩御が重なるのは偶然ではないと思います。

難しいのは政権のあり方ですね。加藤先生の研究で詳しい合議制ですが、大伴・物部の中央豪族中心から、いよいよ蘇我氏が頭角をあらわす時期が欽明期なわけです。六世紀は面白いです。




1392. Re: 三代王神社わき工事現場の写真使わせてもらいました〜 さわらびY(ゆみ)  2004/05/14 (金) 22:49
あるけ〜さま

「千葉市の遺跡を歩く会」のサイトにりっぱな解説ページを作っていただき感謝です。
さっそくこちらのTOPページにも緊急リンクしました。

> 知らないで崖の部分が擁壁か何かで覆われてしまったら、永久に「遺跡なし」で終わったかもしれません。
> ここでもひとつの歴史がさわらびさんのおかげで救われました。

あるけ〜さんの蓄積された知識と、行政や各方面へのすばやい対応のおかげです。
これからの謎ときが楽しみですね。

三代王神社の現場については、明日は晴れのようですので、午前中(10時ごろ?)に、双眼鏡を持ってもう一度見に行きたいと思っています。
関心のある方は、現地でお会いしましょう。





1391. 磐井の乱、継体の死 オホヤシマ  2004/05/14 (金) 12:55
山尾先生が、磐井の乱の勃発年を、書紀のいう527年ではなく、530年とされているのは説得力があると思います。朝鮮半島にわたった近江臣の動向をみると、そうしないと辻褄があいません。ということは、磐井が死んだのは531年となります。              一方、安閑・宣化ですが、荘重な和風謚号の存在や、ヒノクマノトネリなどの存在を考えると、即位していたとすべきではないかと。    となるとどういうストーリーが考えられるかということですが、1388のTさんの投稿のように、九州の豪族は雄略王権と深いつながりがあり、その勢力が反乱を起こしたとされるいわゆる「磐井の乱」とは、雄略残党勢力VS継体+継体擁立豪族勢力(大伴・物部)と位置付けられるのではないかと思います。
その九州勢力をまとめた磐井とは、雄略王統の流れをもつ王族といこともありうると思います。




1390. Re^2: ありがとうございました まさみ [URL]  2004/05/13 (木) 23:06
ゆみさま、こんばんは。お返事ありがとうございます。

> 今連載中の韓国のルポ、最後にとっておきの写真用意しています。(あの方のお姿入り?)お楽しみに。
はぁ〜い!!楽しみにお待ちしてます。

> 呪力、特に、先頭に立つ女性の霊力は必須だったから、古代大和の女帝や気長足姫尊伝承があったと思いますがいかがでしょうか。

そうですね、神話の中でも「天孫降臨」の際アメノウズメが先鋒を務めています。天児屋命でもよさそうなものですが、これなども女性の霊力に頼るものと思います。(まあ、ここで女性でないと猿女氏が後で困るか(笑))
白川静先生が「漢字」の中で、『媚』という字について、「女のシャ―マンの首を矛先にかかげた形」と言われてます。
そして「古代中国の媚女は異族との戦いの時常にその先頭に立った。敵に呪詛をかけるためである。勝敗は媚女の呪力の優劣にかかっていた。」とかかれています。

呪力とか霊力などは現代では非科学的とみなされていますが、古代に生きる人々にとっては、最先端科学だったのではないでしょうか?わたしたちが原子力エネルギーなどを利用するように、「霊力というエネルギー」を使えると信じ、それを実行していたのでしょう。人を殺めたり、天候さえも変えることができると信じていたのですから、ものすごいエネルギー物質というわけですね。(でも、地球には優しい・笑)
今も、昔も女性は地球に優しいことが好みなんです。(^_^)
では。




1389. 三代王神社わき工事現場の写真使わせてもらいました〜 あるけ〜 [URL]  2004/05/13 (木) 00:25
さわらびさん、こんばんわ
三代王神社わきの工事現場の写真、使わせてもらいました〜

http://chiba.fc2web.com/hamadagawa/sandaiou01.html

知らないで崖の部分が擁壁か何かで覆われてしまったら、永久に「遺跡なし」で終わったかもしれません。
ここでもひとつの歴史がさわらびさんのおかげで救われました。




1388. Re^2: 日本書紀 さわらびT  2004/05/13 (木) 00:11
継体紀の謎は、磐井の乱との関連もありますので大変興味があるところなのですが、先日の韓国旅行で百済の歴史に思いをはせたこともあって、ちょっと考えてます。長いとYに叱られそうですが、たまには史料など使ってみます。

時代を少しさかのぼります。475年高句麗軍の前に敗北し、蓋鹵王が殺害され、百済は実質的には滅亡。文周王が即位し、倭は百済を支援することになります。このとき王都は熊津に移りますが、そこが私たちが訪問した公州の地です。百済国内はさらに混迷し、477年文周王は兵官佐平の解仇に実権を奪われ殺害されたりして、随分混乱が続きます。

478年(雄略22年にあたる)、有名な上表文が出されますが、このとき倭は高句麗征討・百済救援の要請のために使者を宋に派遣したのではないかと想定されます。(『宋書』順帝紀、倭国伝。)

また雄略紀は次のように書いています。

「廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。是歳、百済調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以撃高麗。」(天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、若さに似ず聡明なのを見て、詔して内裏へ呼んだ。その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵500人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である)

要するに、479年東城王(末多王)が即位したのですが、この即位に倭の支援があったことがうかがわれます。

鈴木英夫先生が書いておられます。

武の時代の倭では、こうした朝鮮半島での流動化、とりわけ高句麗の脅威に対応して「高句麗征討計画」を立てた。百済を倒したのち、高句麗軍が朝鮮半島西海岸部の制海権を握っていたらしい。王を護送するために倭は筑紫の首長たちが朝鮮半島西海岸で高句麗軍と交戦した。(鈴木英夫「倭王武上表文の基礎的考察」)

この筑紫の首長たちと、のちの時代の磐井はつながってくるのでしょうか。




1387. Re: ありがとうございました さわらびY(ゆみ)  2004/05/12 (水) 23:00
まさみさま
久々にお会いできて私もうれしかった。

>ゆみさまには大変よいもの(ふふふ、内緒です)までいただいてしまい気分はハッピーです。

今連載中の韓国のルポ、最後にとっておきの写真用意しています。(あの方のお姿入り?)お楽しみに。

> わたしは、「言霊」と言う思想が世の中にあった時代に『日本書紀』や『万葉集』などをはじめとする『書物』を著すということ意味が大変気になってなりません。

> 発した言葉さえ、呪力を持つと考えられていた

なるほど。う〜んです。
沖縄では戦いに際して「いなぐやいくさぬさちばい(女は戦の魁)」とばかり、巫女が先頭に立って、言葉の呪力で相手を押しふせようとしたといいます。
呪力、特に、先頭に立つ女性の霊力は必須だったから、古代大和の女帝や気長足姫尊伝承があったと思いますがいかがでしょうか。




1386. Re: ありがとうございました さわらびT  2004/05/11 (火) 23:47
まさみ様

お忙しい中お越しいただきありがとうございます。
加藤先生とも、久しぶりでしたでしょう。

白村江以降、亡命百済人がもたらした歴史資料が『日本書紀』の肉付けに役立ったようですし、そのことでこの国にも新しい世界が広がったと思います。

オホヤシマさんも書いておられますが、思い思いに書かれた様相が見えるこの書物です。面白い発見もあるかもしれませんね。いくつかの会合のご案内させていただきましたが、今度、お会いできるのはいつかな?




1385. Re: 日本書紀 さわらびT  2004/05/11 (火) 22:58
オホヤシマ様

継体の崩年の問題は、考えるとパニック状態になります。大体、「のちに勘校(かんが)へむ者、知らむ」などと、書いてますからいわば下駄を預けた表現になってますね。百済本記に信憑性があると考えた上で、なお継体28年(534)崩御説も載せてるわけで、謎を残したわけですが、逆になまじっかきれいに編集されてないのが『日本書紀』のありがたいところでもあるようですね。

実は私が印象に残ってるのは山尾先生の説です。「辛亥の変」があったということで、継体25年(531)に継体はなくなったか廃位され、欽明が即位したのだとおっしゃる。安閑・宣化は入る余地がありませんね。「日本天皇・太子・皇子、倶に崩薨(かんあが)ります」がポイントですが。(『筑紫君磐井の戦争』1999年、新日本出版社)
この本ですが、百済王暦を検討した笠井倭人氏の説を批判したところなども興味深いです。

実際にはどんなプロセスで年次が決められたのでしょう。そして本当の史実は?




1384. 日本書紀 オホヤシマ  2004/05/11 (火) 17:48
さわらびT様

継体の崩年なども、日本書紀の編者は国内資料ではなく、百済本紀の方を採用しているのですが、その結果継体と安閑の間に空白が出来ています。加藤先生に懇親会の時にそのことを聞くと、「渡来人が書いているからでしょうかね」といったことをちらっと話しておられましたが、「日本書紀の編者」なる一言で片付けられないほど、実体がよくわからない集団が思い思いに書いたものを寄せ集めたという感じなのでしょうね。 
そういう意味の資料批判が今後必要になってくると思います。
誰が書いたか分からないのでは、批判の仕様もないというものです。




1383. ありがとうございました まさみ [URL]  2004/05/11 (火) 00:53
さわらびTさま、ゆみさま。こんばんは!
加藤先生の講演会では久しぶりにお会いでき嬉しかったです。Kさんにお会いできましたし、ゆみさまには大変よいもの(ふふふ、内緒です)までいただいてしまい気分はハッピーです。本当にありがとうございました。
講演会のほうは大分遅れてしまいホンのちょっとしかお聞きできませんでしたが、資料をいただいたので読んでみたいと思います。

『日本書紀』は若い研究者が少ないのですね。
面白いのに残念なことです。
わたしは、「言霊」と言う思想が世の中にあった時代に『日本書紀』や『万葉集』などをはじめとする『書物』を著すということ意味が大変気になってなりません。
発した言葉さえ、呪力を持つと考えられていた(例えばあの世の話をするとあの世が発現すると信じられていたようです)のですから、文字に著し残すということは、それが現実になってしまうというくらいの意味があったのかも、などと思っています。
そんなことを考えるとわくわくして来ますね〜。
では、また。




1382. Re: 日本書紀の読み方 さわらびT  2004/05/10 (月) 19:48
オホヤシマ様

いつもご参加いただきありがとうございます。加藤先生は、懇親会でも熱心にお話くださるので、勉強になりますね。

『日本書紀』を研究するというのは、若い研究者も敬遠しがちだそうで、平安時代が好まれ、流行は安倍晴明だとか(笑)
それならいっそのこと、本当の安倍晴明といったお話もしていただきましょうか・・・

それは冗談ですが、『日本書紀』成立の謎、具体的な進捗過程を論じてくださいました。内容がいつも濃いのでおさらいが大変です。

先日、百済の史跡を少しばかり見てきたので関心があったのが百済三書の成立のところでした。亡命百済人が重要な役割を果たしたのは間違いないですし、面白く拝聴しました。

今回は七世紀代のことですが、またこの続きのお話もうかがいたいです。




1381. 日本書紀の読み方 オホヤシマ  2004/05/10 (月) 13:00
加藤先生の話、いつもながら面白かったですね。
後でも話されてましたが、最近は学生も日本書紀はあまりとりあげないとのこと。憂うべき問題です。
それにしても、いろいろ探っていくと、編纂時の事情がすけて見えてきますね。不比等が黒幕だったとしても、個々の記述は、小泉さんじゃないけど、おまかせ方式で、書いた人のやりたい放題や、無責任な部分がそのまま残っているようです。しかし、そのほころびの部分に真実に至る道があるように思えます。




1380. Re: おじゃまします! さわらびY(ゆみ)  2004/05/09 (日) 21:20
昨日は、「さわらび通信」主催の歴史講演会へ行く途中、向島の弘福寺の咳神「翁婆尊」を撮影、お寺さんにいわれなどをお聞きし、咳神様のデータにUPしました。

今日は、あるけ〜さんに教えていただいた幕張の「堂の山」のかぜひき地蔵さまへ行き、帰りに途中の、三代王神社の崖の道路拡幅工事が急ピッチで進んでいる工事現場に入って、切り取られた崖の断面を撮影してきました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/sandaiougake1.jpg
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/sandaiougake.jpg
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/sandaiougake2.jpg

うちのBBSは、画像がUPしないと思うので、画像をまとめて見たい方は、あるけ〜さんのBBSの方に画像入りでUPしましたので、こちらをクリックしてください。
http://www3.ezbbs.net/27/chibaiseki/


ここは、千葉市遺跡地図の三代内遺跡の一部のようで、「斜面貝塚」となっていますが、馬加城外郭として、中世の城砦遺構の一部であってもおかしくないように思えます。
上のほうには、V(U?)字の堀が平行して2本通っているようにも思えますが、いかがでしょう。

この工事と幕張駅の立体交差が完成すると、開かずの踏切の渋滞も少しは解消するかしら?

くるよさん、いらっしゃいませ。

> 千葉市はもちろんのこと、八千代市や習志野方面の歴史にも
> 興味があります。

ローカルエリアの話題では、あるけ〜さんのHPにおじゃましていますが、こちらも郷土史ネタ大歓迎です。

> 実は私、あるけ〜さんのところでちょっと話題になった
> 「堂の山」の近くに住んでるんです…。

去年は自転車でわが家から堂の山まで花見川沿いをサイクリングしました。

TOPページから直接リンクしていないのですが、『「おしどり寺」村上正覚院の来た道』をあけると「13.仏岩に結縁した人々と信濃武石氏の足跡を追って」で武石のことなども取り上げていますので、ゆっくりご覧になっていってください。




1379. おじゃまします! くるよ  2004/05/09 (日) 20:23
ゆみさん、こんにちは!
あるけ〜様のところから来ました!

千葉市はもちろんのこと、八千代市や習志野方面の歴史にも
興味があります。
トップページのメニューで興味深いテーマがたくさんあって
わくわくしてしまいました。
これからゆっくり拝見させて頂きます。

実は私、あるけ〜さんのところでちょっと話題になった
「堂の山」の近くに住んでるんです…。




1378. ありがとうございました さわらびT  2004/05/09 (日) 18:11
昨日はお忙しい中、ご出席していただいた皆様ありがとういございます。(加藤謙吉先生「『日本書紀』とその原資料)

熱心なご参加のおかげで、充実した会になったと感謝しております。『日本書紀』の謎に挑むというのは、ご専門家でも意外と少ないんですね。わが国の最初の史書の成り立ちが未解明、考えて見ればこの「日本」という国号すら謎ですから、古代史に関心を持つものとしては、興味深いテーマです。

ほかの行事が重なっている関係で、ご参加は少ないと覚悟してましたが、初めてご参加いただいた方も多く、27名ご参加いただきました。講演会としては、当面予定しておりませんが、ご要望があれば、また開催させていただきます。来月から『新撰姓氏録を読む−第4期−』となります。今回は、『藤氏家伝』上(『大職冠伝』)をとりあげていただきます。ご希望の方、お問い合わせください。




1377. Re^2: 近隣の咳神様を追って HP更新のお知らせ さわらびY(ゆみ)  2004/05/07 (金) 19:19
一昨日は、午後から空模様を見ながら、八千代市米本の「すわり地蔵」の写真を撮りに行き、さらに佐山へ行きました。

「すわり地蔵」は寛文13年銘の八千代市の文化財で、善福寺の立ち地蔵と喧嘩して切りつけられて負けてしまい今のところに座らせられたという伝説があり、子育地蔵として信仰され、咳がひどいときは、お茶を供えるとすぐ治るといわれています。

りっぱな石像なのに、場所も寺ではなく米本の下宿のはずれの墓地へ通じる道の入り口、切られて座らせられたという受難伝承も不思議でしたが、子育てと咳神信仰と重ねると謎が解けてくるように思えます。

もうひとつ、「八千代市の歴史資料編民俗」のP352に、咳神として信仰された佐山の「乞食の墓」の聞き書きが載っています。
これは、「壊されてしまった」とされていますが、実は平戸のあさひ霊園に移され、その後墓地の改葬で無縁墓石のピラミッドに整理されて、他の墓石と区別できなくなっていました。

咳神のご神体はただの墓石や木、板碑、さらに結界縄だけなど、言われなければわからないものばかりで、特定の場所で拝まれていてこそ咳神なのです。

忘れられて、あるいは、霊園の無縁塚に整理され、消えてしまった咳神様はたくさんあったのでしょう。

高津の2基のうち、先に観音寺に移されてあった咳神様は、観音寺の霊園改葬で同じ運命をたどりました。

もうひとつの高津のツジキリの場所に残されていた咳神様も、3月に観音堂へ移されましたが、そのうち特定不明になり消えていくのは時間の問題だったかもしれません。
幸いなことに、今年1月に調査記録していてよかったと思いましたが、他の事例についても迅速な民俗調査の必要性を感じています。

咳神様データもまた更新しましたので、かわいらしい「すわり地蔵」をネットで拝んで見て下さい。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/takatutujikiri/sekigamisama.htm




1375. Re: 聖徳太子はいなかった、について さわらびT  2004/05/05 (水) 14:08
磯自慢太郎様

はじめまして。お読みいただいきありがとうございます。随分前に書いたことで、現在では大山先生のお考えと相違している部分もありますが、私があの文章で表現したかったことは、文献はまず疑え、ということでした。大山先生の聖徳太子捏造説は、津田左右吉・小倉豊文といった大御所の先行研究を踏まえていることでもあり、私としましては、知的刺激を受けたものですからご紹介しております。

「聖徳太子」という名は後世のものではありますが、私は王位継承者としての厩戸の存在はある程度想定せざるを得ないと思っております。むしろ、馬子が推古と共同する時期を考えてみるのも大事ですね。

平林章仁『蘇我氏の実像と葛城氏』(白水社、1996)に興味深い記述があります。

「推古紀20年春正月辛巳朔丁亥(七日)、置酒して群卿に宴す。是の日に、大臣、寿上りて歌ひて曰さく
 やすみしし 我が大君の 隠ります 天の八十蔭 出で立たす 御空を見れば 万代に 斯くしもがも 千代にも 斯くしもがも 畏みて 仕へまつらむ 拝みて 仕へまつらむ 歌献きまつる

天皇、和(こた)へて曰はく
 真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の使はすらしき」

この馬子と推古のやり取りが取り交わされたのは有名ですが、平林氏は日本における人日儀礼(七日が人の日)の初見史料であると言います。

それは重要な視点で、面白いと思いますので、あらためて考えたいところですが、この場面には「聖徳太子」が登場してこないことも興味深い点です。そのあとに例の尸解仙(片岡遊行において、道のほとりに飢えて倒れている旅人に衣食を与えた)の話が登場するのですが、こうした『日本書紀』の記述に不自然さは付きまといます。

ところで5月8日「『日本書紀』とその原資料」(加藤謙吉先生)があるのですが、もしご参加可能でしたらどうぞ。




1374. 聖徳太子はいなかった、について 磯自慢太郎  2004/05/05 (水) 11:14
以前、産能大学教授 安本美典先生に、
「聖徳太子はいなかった、という説について、どう思いますか?」
と尋ねたところ、
「日本書記を全部、読んでから判断しなさい」
と言われたことを思い出しました。
「日本書記には太子に関する膨大な記述がある。君は、それが全て捏造と思うんですか?」
自分には日本書記を読み解く能力などないので、そうかそうか、と感心したものですが、成る程こうしてみると日本書記の記述に怪しい点があるわけですね。
大変、興味深く拝見させて頂きました。




1373. 「幻の百済と李氏朝鮮の史跡を巡る旅日記」の連載を開始 さわらびY(ゆみ)  2004/05/05 (水) 11:11
まだ「第1日目温陽温泉へ」と「第2日目1.定林寺跡」だけですので、おしらせするほどのことではないのですが、「幻の百済と李氏朝鮮の史跡を巡る旅日記」の連載を開始しました。

2泊3日の大和・河内の旅日記は、UPに4ヶ月もかかったのですが、韓国の旅行記も、郷土史のフィールドワークの合間においおいUPしていきます。

旅行は、準備と行った後の過程が大事で、そういう意味で「二度おいしく」なるものなんですね。

まさみさんに教えられてウェブアートデザイナーというソフトがホームページビルダーのおまけについていることに気づき、ちょっと趣味的にこちらもいじってみました。(まわりのぼけた写真がそれです)
まあ、こんなことで遊べるなんて、HPは奥が深いですね。
いろいろまた教えてください。
  




1372. Re^2: はじめまして 磯自慢太郎  2004/05/05 (水) 11:06
丁寧なレスありがとうございます。
聖母のコラム、参考にさせて頂きます。

藤祭りは思いの他、盛況でした。自分の楽しみは地元の酒蔵と和菓子の出店です。
なかなか満足のいく買いものが出来ました。

レポのおかげで鬼岩寺の見学は大変、有意義なものになりました。
誠にありがとうございます。
予備知識も無く訪れていたら、なにがなにやら、という感じだったでしょう。大変感謝しております。

なお、レポにあった大蛇退散についてですが、自分はこれを文字通り、蛇退治と考えます。勿論、大蛇ということではないんですが。
まず、近年まで焼津・藤枝地区は非常に蛇が多かったので。
事実、昭和二十年ごろまで、藤枝には蛇の買取をする蛇屋というのが2軒あり、鬼岩寺近くにも店があったそうです。
また古代、大井川が氾濫した場合、水は簡単に焼津まで押し寄せたそうで、堤防が作られるようになったのが、平安の頃からだそうです。
この地域に洪水が多かった、というのは郷土史博物館の展示物などでも確認出来ると思います。
次回、訪れる機会がありましたら是非。
こういった点から、開墾の際、多くの蛇を駆除し、それを弔う為に。
というのが実情だったのではないか、と地元民の自分は考えます。
話が少し違う方向行ってしまい申し訳ありませんが。

あと藤枝再訪ですが、富士が見えるのは冬場だけです。
この時期から夏にかけては非常に過ごしやすいのですが、霞みがかかり富士は見えません。
ご参考までに。




1371. 『民衆文化とつくられたヒーローたち』 さわらびT  2004/05/05 (水) 10:03
『民衆文化とつくられたヒーローたち−アウトローの幕末維新史−』(歴博20周年記念展示)が開催中です。

http://www.rekihaku.ac.jp/kikaku/index82/index.html

「この企画展示はこうした稗史の中の博徒や侠客から、歴史を語り直したいと思っています。とくに彼らの活動をとおして、幕末維新に歴史学のふるいをかけてみます。文献史学の手法を駆使して、歌舞伎や講談の中で活躍したアウトローに密着固結した虚実の皮膜を一枚一枚はぎ取りながらアプローチしていこうとするものです。」

博徒や侠客の歴史というと妙な先入観も働きますが、今回私に興味を持足せてくれたのは、黒駒勝三と水野弥三郎のコーナーです。赤報隊に関連してくるからです。いわゆる「偽官軍」の布告なども見ることができます。

黒駒勝蔵というのは、清水次郎長のライバルとして有名な甲州の博徒ですが、実は彼は、檜峰神社神官で国学を研鑽して私塾を開く尊皇攘夷の志士である武藤外記とその子息藤太の薫陶を受け成長しているのです。以下「 」内は、配布されている歴博の解説シートからの転載です。

「慶応二年勘定奉行から直々指名手配されていた勝蔵が二年も経たないうちに官軍先鋒の赤報隊に参加したのは、美濃の大親分で元新撰組鈴木三樹三郎とつながる水野弥三郎(1805〜1868)との関係、そして武蔵藤太と相楽総三との関係によるものと考えられる。」

黒駒勝蔵の誤解されたイメージを改めたいとする願いが、この解説シートにこめられています。

「慶応三年、政局は倒幕に傾き、薩長は江戸を擾乱させ幕府の出兵を誘い、倒幕を実力で実現し、王政復古に至ろうとする策に腐心していた。そこで持ち上がったのが薩摩の参謀西郷隆盛、大久保利通に相楽総三(1839〜1868)が加わって成った江戸藩邸を根拠地に江戸府内擾乱、野洲挙兵、甲府城攻略、相州襲撃の4ヶ所のゲリラ作戦である。」

この甲州城攻略は失敗したのですが、武蔵藤太と相楽総三との緊密な関係が推測されるとのことです。

相楽総三と同志たちは諏訪で惨殺されたもののご承知のように名誉回復されました。しかし黒駒勝蔵や水野弥三郎は歴史から抹殺されたままのようです。

「黒駒勝蔵・水野弥三郎の二人は歴史の大義を賭けて時代の潮流のリアリズムを最後の最後に読み間違えて激流に呑まれたといえる。」と結んでいます。

(参考文献は高橋敏教授の近著『博徒の幕末維新』(ちくま新書))




1368. Re: 近隣の咳神様を追って HP更新のお知らせ さわらびY(ゆみ)  2004/05/04 (火) 17:40
咳神様を追って、八千代市村上の「けんけさま」、佐倉市の土浮の「おわばさま」、同青菅の「しゃびき婆さん」、大蛇町の「粟切り婆さんの墓」、さらにあるけ〜さんから教えていただいた千葉市大井戸の「姥の墓」を、データ集に追加UPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/takatutujikiri/sekigamisama.htm

また、大井戸(千葉市若葉区)の石造物の風景画像を史跡歳時記
にUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/04.05.03ooido.htm

本格的な大井戸の史跡とその考察については、あるけ〜さんのHPの「大井戸館と姥の墓」(千葉市の遺跡を歩く会)がUPされたのでそちらをご覧ください。
http://chiba.fc2web.com/kashima/ooidoyakata01.html

八千代市内米本の座り地蔵(これも咳神様、以前撮った画像があったはずなのに見つからない)と、平戸の「乞食の墓」も行かなければ、と思っていますが、お天気が悪そうですね。





1367. Re: はじめまして さわらびY(ゆみ)  2004/05/04 (火) 00:51
磯自慢太郎さま
レスが遅れてもうしわけありませんでした。

> GW中、藤枝蓮華池公園で行われる藤祭りを見学ついでに、鬼岩寺、古墳、博物館などを見に行くつもり・・

GWのそろそろ後半戦になりますが、藤枝蓮華池はいかがでしたか。さぞ美しい風景でしょう。
藤枝の博物館は、訪ねたのが年末で閉館中でしたので、資料は後で送ってもらっただけで、まだ観たことがありません。
いずれ、機会があったらまた行きたいのですが、東名はいつも渋滞ですしねぇ。

> 女神の条件というのは、どういうものだと思われますか? 

ターラー・妙多羅天女についてはよく知りません。

平安から中世は、千手観音や十一面観音が女の人に人気があったように思いますが、近世からの日本では、石仏を見ても、乳を含ませている子安観音がやはり人気がありますね。
「納戸の「御前様」=カクレの聖母像」
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/4kakurenoseibo.htm
でも書きましたが、16世紀、日本の庶民がキリスト教とともにもたらされた「聖母子像」(ルネッサンス美術もふくめ)に接した時の驚きは大きかったと思います。
中世までは日本では赤子を抱く観音像なかったのに、江戸時代に爆発的に普及した子安観音の母子像のなぞ。
キリスト教が禁教になっても、母子像への敬慕は、マリア信仰から形を変えて日本の民俗信仰に残っていったのではと思っています。

『日本史をみつめた「聖母」たち』は、キリシタン史を殉教史の視点からだけでなく、各時代の人々がどのように聖母像を見、また渡来以降「聖母像」が日本とその歴史をみつめてきたかいう、かなり主観的な紀行エッセイです。

一応5回で完結したつもりでしたが、去年、五野井先生から引戸裏に貼られたマリア画像新発見のお話を聴いて6回目を書き足しました。機会があればまた書き足すこともあるかもしれません。
ご教示いただけることがありましたら、よろしくお願いいたします。




1366. 近隣の咳神様を追って さわらびY(ゆみ)  2004/05/04 (火) 00:01
Tが「旅行レポートはYが、追々まとめるでしょう。」と書いたみたいですが、韓国から帰って、ただいま画像整理に専念しています。もうすぐとりあえず第一日目だけのプロローグをUPしたいとがんばっていますので、少々お待ちください。

連休は、一昨日は八千代市村上の「けんけさま」(咳神)、きのうは高津の調査(おもに墓地)、今日は近隣の咳神様を追って佐倉〜千葉市を車で走り、地域のフィールドワークにどっぷり浸かっています。

咳神様については、あるけ〜さん、ほか八千代市郷土歴史研究会のメンバーからも貴重な情報、道案内をしていただき、新緑の林道や、田植えですがすがしい辺田道を歩き、花に埋もれた石仏や古道のたたずまいなども満喫しています。
(みなさま、情報をありがとうございます。)

ところで、咳神様のご神体はなんでもありのようですね。

共通しているのは、ムラの境。
そして大半は「しゃぶきばあさん」の訛った姥神系。もう一部は非業の死をとげた人にお墓。
咳をして見つかり殺されたという伝承は、古城址に付会したいいつたえとして、「利根川図誌」にも記載されて有名な臼井城址近くの「おたつさま」のバリエーションが多いようです。

いずれにしても、信仰している土地の人に聞かなければわからないようですので、調査例はそれほど多くないようです。それも移転したり、無縁墓地にかたされたり、信じているおばあさんがいなくなったりで、わからなくなってしまうでしょう。
二、三年後には無くなってしまうかもしれませんね。調査の必要性、緊急性を感じる昨今です。




1365. Re: イラクの現実 さわらびT  2004/05/03 (月) 00:19
綿井健陽氏が帰国して、話をされるというので出向いた。イラクで何が起こっているかをしる機会だと思ったわけです。

この国で湧き上がった「自己責任」論に触れ、次のようなことを話されました。

アル・アラビーヤというUAEの衛星テレビ局があるのですが、3月に記者とカメラマンが米軍に殺害されています。(詳しくは綿井氏のHPを参照)

http://www1.odn.ne.jp/watai/040328.htm

このアル・アラビーヤの女性記者がこう言った。「ジャーナリストの仕事は、常に火の輪の中に入っていくようなものだが、勇気がなければ火の輪の中に入っていけないし、真実もつかめない。ジャーナリストの仕事は、つねに危険が伴う。私たちは直接火の中には入れないし、引き返す事もある、遠ざかることもあるが、私たちは一体誰のために働いているかと問えば、それは真実のためです。」

昨年の開戦前夜、多くのジャーナリストたちが撤退する中でバクダッドに残ったソマリア人のBBC記者は、「私たちはこの戦争を取材しなければならない。ならばここにいなければならない。」と述べた。

真実を知るためにリスク覚悟で行く人々に対して、「自己責任」をあえて言う必要などないということでしょう。




1364. 倭と高句麗軍との交戦 さわらびT  2004/05/03 (月) 00:10
百済の歴史を考えてみた。朝鮮半島の出来事は、過ぎ去りし過去とは思えない現実を見せてくれます。高句麗や新羅との戦いによって、滅んだのが百済です。旅行レポートはYが、追々まとめるでしょう。

475年、高句麗軍の前に敗北し、蓋鹵王は殺害された。これで百済は実質的にはいったん滅亡した。文周王が即位、倭は百済を支援する。このとき王都は熊津に移った。そこが私たちが訪問した公州の地です。百済国内はさらに混迷しており、477年文周王は兵官佐平の解仇に実権を奪われ殺害された。

【雄略紀】廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。是歳、百済調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以撃高麗。

倭は百済救援の要請のため使者を宋に派遣している。(宋書の上表文)雄略紀によれば、昆支王の五人の子のうち、二番目の末多王が聡明なので、内裏へ呼び王とし、武器を与え、筑紫国の兵500人を遣わして国に送り届けた。ところが、その往路か帰路に高句麗軍と交戦したらしい。(鈴木英夫「倭王武上表文の基礎的考察」)

鈴木先生は、倭におけるとりわけ武の時代に、朝鮮半島での流動化、とりわけ高句麗の脅威に対応して「高句麗征討計画」を立てたとされています。高句麗軍は朝鮮半島西海岸部の制海権を握っていて、王を護送するために、筑紫の首長たちが朝鮮半島西海岸で高句麗軍と交戦した可能性をこの文章から読みとるわけです。

武寧王陵を訪問したのですが、この時代に至るまで、宋書ならびに日本書紀の記録するところでは、このような経緯があったらしい。




1363. Re^3: 韓国から帰国しました まさみ [URL]  2004/05/01 (土) 22:17
ゆみさま、こんばんは
> あっという間の短い旅でしたが、ほんの一部しか残っていない百済の遺跡と風景に接し、日本とつながる古代史のイメージがつかめました。

素晴らしいですね。いいですね。うらやましい限りです。

> 旅行の前に、ちょっとだけハングルを勉強しようかなと、書店でNHKのTVハングル講座のテキストを探したのですが・・・

実はわたしも始めました、ハングル語講座。
ゆみさんが買い損なわれたものです。(笑)ハングルは語順が日本語と同じで理解しやすいですがパッチムとか言うのがいまいちよくわかりません。いまはまだ「暗号解読」といった感じです。
目指すは韓国の論文の言語読みなんですが、その日は遠いです。

> こんな話をしていると、「さわらび通信」リピーターの方々に笑われそうですが・・・

あはは、そうですね!笑われちゃいますね。
まあ、たまには皆さんに笑っていただくのもよろしいかと。

> 「朝鮮半島の苦悩の歴史に学ばねばならない」といった気構えでのお付き合いではなく、まして安く遊べるからでもなく、トレンディなファッションと心やすらぐ風景を求めてごく普通にあこがれる国、そんな国になりつつある韓国の姿は新鮮です。

そうですね。子供が入っている団体が日韓交流に参加した時の記事に韓国のおばあちゃんに日本のことをどう思っているかと聞いたら「私たちは、あなたたち日本人に申し訳ないと思って欲しいのではなく、真実を知って欲しいだけだ。」という返事をいただいたとありました。
きっかけは人であれ、ドラマであれ、食べ物であれそう難しく考えることはないと思います。
すべてを理解するということは難しいことだと思いますが、「興味や知ろうとする努力」がいつかは理解につながるとわたしは思っています。

> 今晩も11時10分から放送の「冬のソナタ」、楽しみですね。
楽しみですね!わたしは勉強を兼ね(と、いうか元の声がいいのです)副音声で鑑賞します。
とはいってもすでに2回見ているのですがまだまだ聞き取れません。

では、ゆみさまも連休をお楽しみください。(あ、先にとってしまわれたのでお仕事かしら?)




1361. Re^2: 韓国から帰国しました さわらびY(ゆみ)  2004/05/01 (土) 10:53
> 韓国の史跡など楽しまれたようですね。いいですねぇ〜。。。

あっという間の短い旅でしたが、ほんの一部しか残っていない百済の遺跡と風景に接し、日本とつながる古代史のイメージがつかめました。

> はぁい!ヨン様・・・ぺ・ヨンジュン氏ですね。
>彼は心のオアシスです(笑)ポスターは「あえますよね、きっと」のでしょうか?DVD・・・なんでしょう?

そう、その実物大の写真とツーショットを撮りました。
DVDは「同感USympathy」というぺ・ヨンジュンがちょっとだけ登場する音楽DVDですが、洗練されていてなかなかいいです。
http://164.46.137.43/tk/tk/dra/oz/tour/k7.html

旅行の前に、ちょっとだけハングルを勉強しようかなと、書店でNHKのTVハングル講座のテキストを探したのですが、どこもすぐ売り切れたそうで、手に入りませんでした。
「冬のソナタ」の会話レッスンがウリだそうで・・・

こんな話をしていると、「さわらび通信」リピーターの方々に笑われそうですが、この「冬ソナブーム」、2002年のワールドカップについで、日韓文化交流に新しい時代が来たという実感がしています。(Wカップでのアン・ジョンファンもすてきだった)
「朝鮮半島の苦悩の歴史に学ばねばならない」といった気構えでのお付き合いではなく、まして安く遊べるからでもなく、トレンディなファッションと心やすらぐ風景を求めてごく普通にあこがれる国、そんな国になりつつある韓国の姿は新鮮です。

今晩も11時10分から放送の「冬のソナタ」、楽しみですね。

職場の近くの図書館で予約した本は、連休のため、取りに行くのが先になりそう。
天気がよいようですので、ご家族で楽しい連休をお過ごしください。




1359. Re^3: ゆみさまこんばんは! まさみ [URL]  2004/04/30 (金) 10:36
探していただいたのですね、ありがとうございます。

> 正しくは 「宿神思想と被差別部落」水本正人著ですね。
>
> 図書館の検索で探せたので、読んでみたいと思います。
> 内容的には少々ハードな予感がしますけど・・・

そんなことはないです。高校の先生が書かれた本で「では・・・とは何か」と順に追っており、わたしのつるつるの脳みそでもわかるものでした。




1358. Re: 韓国から帰国しました まさみ [URL]  2004/04/30 (金) 10:28
ゆみさま、Tさまおかえりなさいませ。
韓国の史跡など楽しまれたようですね。いいですねぇ〜。。。

> パックツアーでしたので、例によってロッテ免税店に寄らされましたが、冬ソナのヨンさまがキャンペーン中で、必需品のバッグを買い、ポスターやDVDをおまけにもらいました。(まさみさんならわかるよね。Tはミーハーな私にきっと呆れ顔?)

はぁい!ヨン様・・・ぺ・ヨンジュン氏ですね。わたしは決してミーハーではない(つもり・笑)ですが彼は心のオアシスです(笑)ポスターは「あえますよね、きっと」のでしょうか?DVD・・・なんでしょう?すごく気になります。

> しかも2泊は、高級ではありませんが、温泉付きホテルでした。
> 残念だったのは、お値段からもオンドル部屋覚悟だったのに、普通のベッドルームだったことと、晴れ女の威力が発揮できず2日目の扶余が雨だったこと。

オンドル部屋というのは民宿感覚のようですね。わたしもかんこくにいったら是非オンドル部屋に泊ってみたいですね。

> 意外だったことは、2泊目のややくたびれた感じの地方温泉ホテルの部屋にWindows98搭載のパソコンがあったこと。

そうなのですよ、韓国や台湾は意外と「ネット」が発達しています。HPも凝ったものが多くて目を見張ります。
ですが、著作権に対する考えが違っていてちょっと驚きます。

また、レポートのほうのUP楽しみにしております。




1357. Re: 古代史最大の内乱「壬申の乱」を追う さわらびY(ゆみ)  2004/04/30 (金) 00:25
ドン・パンチョさま
ようこそいらっしゃいました。
メールではごあいさつ済みでしたが、あたらめてよろしくお願いいたします。

「大和〜河内遺跡の旅」をまとめるに当たっては、貴兄のHPがたいへん参考になりました。
というより、「詳しくは、 Don PanchoさんのHPをみてください」と、省略してしまった箇所があるような書き方になっているかもしれませんね。

ところで貴兄の「韓国歴史探訪五日間」の「はじめに」のページで、「3月23日、場所は御所市の條のウル神古墳の現地説明会会場。教授の冗談を交えながらのお話は分かりやすく、その人柄が偲ばれたのを覚えている。網干教授がが同行されるのであれば、今までに抱いた疑念をいくつか晴らす機会があるかもしれないと期待した。」とお書きになっていらっしゃいますが、実はその現地説明会場にもしかしたら、私たち夫婦もいっしょだったかもしれません。(まあ、すごい人数でしたものね)
「巨勢山古墳群現地説明会」の3ページ目「葛城氏って何?」にTがちょっこと書いています。http://homepage1.nifty.com/sawarabi/koseyamakuhunngunn/katugagisihtm.htm

「壬申の乱探訪記」、落ち着いたらゆっくり拝見させていただきます。
今後ともよろしくご指導ください。




1356. Re^2: ゆみさまこんばんは! さわらびY(ゆみ)  2004/04/30 (金) 00:01
まさみさま
本のご紹介ありがとうございました。
正しくは 「宿神思想と被差別部落」水本正人著ですね。

図書館の検索で探せたので、読んでみたいと思います。
内容的には少々ハードな予感がしますけど・・・

レスが遅くなってごめんなさいね。では、また。




1355. Re: 旅 さわらびT  2004/04/29 (木) 22:05
開田様

今日の午前中まで韓国にいました。ガイドさんにも恵まれ、同行の方々とも気兼ねなく過ごせ、目的の武寧王陵も見学できましたし、満足の旅でした。札幌のご夫婦もいらっしゃったせいもあって、開田さんのことを思い出していました。

>その旅ではお世話になりました。ありがとうございます。ようやく、PCの前に坐る落ち着きを取り戻しました?ここは、かわらずににぎやかですね。いいこと。

こちらこそ、あの再会がうれしかったです。早いもので、あれから3週間近くになりますね。ご無事にお帰りになれたようで、よかった。あの日、ゆっくりご一緒に一杯酌み交わせたのも楽しい出来事でした。

ところで大山先生のことですが、かなり破天荒なお人柄だということが、お分かりいただけたでしょうか。

ただ、今度の蘇我王朝説をどう考えたらいいのか、少々判断に迷うところでもあります。馬子が大王だったとする「蘇我王朝」論ですが、ご講演でも話しておられましたが、王が男というのは、隋書倭国伝にある、王には妻がいて、後宮には六、七百人の女性がいることが根拠のようです。果たして、これが「真実」なのか、・・・・

また、こうした機会があればお便りします。もう一度の春を満喫してください。




1354. 韓国から帰国しました さわらびY(ゆみ)  2004/04/29 (木) 18:07
今日午後、韓国から帰国しました。
 
少々早いGWの休みをとらせていただき、27日は古代百済の史跡の扶余(定林寺跡・扶余博物館・扶蘇山城・落花岩)と公州(武寧王陵)、28日は、近世李氏朝鮮王朝の史跡の水原(水原華城)、ソウル市内(宗廟・景福宮)を駆け足で巡ってきました。

パックツアーでしたので、例によってロッテ免税店に寄らされましたが、冬ソナのヨンさまがキャンペーン中で、必需品のバッグを買い、ポスターやDVDをおまけにもらいました。(まさみさんならわかるよね。Tはミーハーな私にきっと呆れ顔?)
しかも2泊は、高級ではありませんが、温泉付きホテルでした。

残念だったのは、お値段からもオンドル部屋覚悟だったのに、普通のベッドルームだったことと、晴れ女の威力が発揮できず2日目の扶余が雨だったこと。

意外だったことは、2泊目のややくたびれた感じの地方温泉ホテルの部屋にWindows98搭載のパソコンがあったこと。
「さわらび通信」のBBSもメールチャックもでき、皆さんの書き込みも一部拝見できて、うれしかったです。

初めての磯自慢太郎さま、ほか皆様、ありがとうございます。
旅の片づけが終ったら、ゆっくりレスします。




1352. はじめまして 磯自慢太郎  2004/04/29 (木) 10:39
はじめまして。磯自慢太郎と申します。
藤枝鬼岩寺のレポ、大変興味深く拝見させて頂きました。
GW中、藤枝蓮華池公園で行われる藤祭りを見学ついでに、鬼岩寺、古墳、博物館などを見に行くつもりですので、参考にさせて頂きます。
恥ずかしながら1度も行ったことが無いので^^;。地元何ですが。

ところで聖母のコーナーを見て思ったんですが、日本でウケル(という言い方もないんですが)女神の条件というのは、どういうものだと思われますか? 
最近、ターラー・妙多羅天女に興味を持ったんですが、北インドやチベットでは人気があるのに、日本では不人気なんですね。
何が原因で、こういった違いが生まれるのでしょうか? 

取り止めのない書き込みで失礼しました。
他のコンテンツも、近日中に拝見させて頂きます。




1351. Re;Re^2:なるほど  HON [URL]  2004/04/27 (火) 18:51
はにわ処さん こんばんは

>それからHONさんのHP<坂東千年王国>少し覗かせていただきました あまりのページの多さに少しずつ見させていただきますね

数だけはいっぱい有ります。ごゆっくりご覧ください。

>宜しければ相互リンクをお願いできませんか
もちろんこちら営業目的のHPなのでご無理でしたら構いません
こちらからだけでもリンクを貼らせていただきますが宜しいでしょうか?
どうぞ宜しくお願いします

これまでにもお店のサイトに相互リンクいただいております。
こちらこそ宜しくお願いいたします。




1350.  開田 誠 [URL]  2004/04/27 (火) 13:40
  旅に出かけていました。2週間、秋田から本土(!?)に入り、東北を横断して岩手の大船渡(息子が学生をしています)を訪ね、東京へ。友人4人をそれぞれに訪ねる。また、かねてから気にかかる大山誠一さんの”聖徳太子はいなかった”の講演会に出向きました。彼がその主張を始めた時から注目し、手紙を差し上げ激励をしたものです。講演会のあと懇談会にも出て、その人柄にふれてみますと、その説の発芽状態が理解できるように思いました。夜行寝台で城崎温泉へ。ぜいたくに寝台列車です。目的地は京都なのです(息子が勤めを始めた)。駅前の温泉の開湯の7時を待った。一番札をいただきました。帰りは敦賀からの船でした。苫小牧に迎えに来てくれたつれと
由仁のホテルへ。翌日、クロッカス20万本の庭を見ました。そして、襟裳岬まわりで帰りました。500kmを走りながら、北海道にようやく春が近かづきつつあるのを実感してきました。一足早い春の本土をまわってきて、もう一度の春をこれからあじわいます。
 帰ってすでに一週間、仕事をさぼっていた後処理に追われていました。
 雑誌『彷書月刊』へ載せる目録出稿もそのひとつでした。

 その旅ではお世話になりました。ありがとうございます。ようやく、PCの前に坐る落ち着きを取り戻しました?ここは、かわらずににぎやかですね。いいこと。
 




1349. Re^2:なるほど はにわ処 [URL]  2004/04/27 (火) 10:53

HONさんはじめまして

> ときどき貴サイトのウインドショッピングを楽しませてもらっています。
> いずれ、さきたま古墳群へもまた行くつもりですが、
> その節はお店に寄らせていただくつもりですので、宜しくお願いします。
>
ぜひそのときはお声かけください(^−^)

八角古墳の情報有難うございました
機会があれば稲荷森古墳も訪れて見たいですね

それからHONさんのHP<坂東千年王国>少し覗かせていただきました あまりのページの多さに少しずつ見させていただきますね
宜しければ相互リンクをお願いできませんか
もちろんこちら営業目的のHPなのでご無理でしたら構いません
こちらからだけでもリンクを貼らせていただきますが宜しいでしょうか?
どうぞ宜しくお願いします




1348. Re:Re^2:北條芳隆先生の講演 HON [URL]  2004/04/26 (月) 22:54
さわらびTさん

【古窖発見】の文献、さっそく引用というより転載させてもらいました。
ありがとうございます。
文中にある洞中の白骨、 なんと龍源寺の近藤勇の墓と向かい合って「穴佛」として
祀られ、当時「白骨様」として評判になり、人々が押し寄せたそうです。
穴佛の碑と「白骨様」騒動
http://www.shougai.city.mitaka.tokyo.jp/mitaka/tekuteku1999/d_data/d_0190.html




1347. 古代史最大の内乱「壬申の乱」を追う Don Pancho [URL]  2004/04/26 (月) 11:36
仮称ドン・パンチョといいます。わらび・ゆみさんのお誘いで、厚かましくも小生のHPに最近追加した歴史探訪記をお知らせします。先月末から今月初め、壬申の乱で大海人皇子軍がたどった足跡を追って見ました。探訪記は、我ながらかなり独断と偏見に満ちたものと思いますが、興味のある方は一度アクセスしてみてください。




1346. 韓国へ出発します さわらびY(ゆみ)  2004/04/26 (月) 10:31
今日(26日)これから、木曜まで韓国に行ってきます。
前回(2003年8月)は、オーダーメードの贅沢な加耶・新羅史跡ツアーでしたが、今回は格安の出来合いのツアーなので今日はとまりだけ、明日と明後日で百済の史跡観光をしてきます。

掲示板は、皆様で意義ある会話をどうかお続けください。
帰ってから読むのを楽しみにしています。




1345. Re^2:北條芳隆先生の講演 さわらびT  2004/04/25 (日) 23:31
HON様

> 武蔵府中熊野神社古墳についての【古窖発見】の文献、
> 有難うございました。
> 探すとなると大変だなと思ってましたので助かりました。
> これ、うちの掲示板に引用させてもらっても宜しいでしょうか。

先日の小林先生の講演資料に、「古窖発見」の記事がありました。府中市郷土の森博物館の深沢靖幸学芸員がお書きになった論文「熊野神社裏の塚は古墳だった」にも引用されています。この論文から、短い文章なので、書き写しました。私のワープロミスを恐れますが、古い文章ですし、私に著作権があるわけでもありませんのでどうぞ引用してください。

『武蔵野叢誌』記事の写しも資料にありましたので読んでみますと「今亦た本郡本宿村の熊野神社の・・・」ですが、「今亦た本郡本宿村の鎮守熊野神社の・・・」と「鎮守」の二字が入っている事に気づきました。「万世橋」(原文は「萬世橋」)に「めがねばし」と振り仮名がついてます。

> 個々の説の内容についてはともかく、私にできることは、
> 専門家の説にいちいち付和雷同しないというか、
> 同じ考え方をしないといけないじゃないかとか、
> 同じ論法を採らなければいないなどと考えない、
> というようにしています。

HONさんのように、学識があるからこそご自分の説が出せるってことですよね。私はまだまだふらふらしてます。でも、北條先生って、僕は立派だと思ってます。冗談とおっしゃってましたが、K考研の批判をしたことで、大学を変わることになったとか。気骨のある考古学者だと思いました。




1344. Re:北條芳隆先生の講演 HON [URL]  2004/04/25 (日) 22:29
さわらびTさん こんばんは

武蔵府中熊野神社古墳についての【古窖発見】の文献、
有難うございました。
探すとなると大変だなと思ってましたので助かりました。
これ、うちの掲示板に引用させてもらっても宜しいでしょうか。
是非お願いします。

ところで、北條芳隆先生の講演の件、興味深く読みました。

>こうした、同じタイプの古墳発掘の繰り返しは三位循環構造(公費による発掘→被葬者は誰か→邪馬台国畿内説)になっていて、それにより権威の空回りが見られると指摘。こんなことをお書きになったことで、随分お叱りも受けたとか・・・

研究が学会内で政治的に利用されてるって感じですね。

>専門家の間にこのような混乱があるのだとしたら、私たちはどうすればいいの?

個々の説の内容についてはともかく、
私にできることは、
専門家の説にいちいち付和雷同しないというか、
同じ考え方をしないといけないじゃないかとか、
同じ論法を採らなければいないなどと考えない、
というようにしています。

つまり、専門家とは違った切り口を採らないと
ぜんぜんかないっこない!
それが先輩の専門家に認めてもらう必要なんかない
私たちの特権なんですから。




1343. Re: Re2: Re2: 武蔵府中熊野神社古墳 さわらびT  2004/04/25 (日) 19:45
HONさん

ありがとうございます。丁寧なレポートですね。ご指摘の胴張り・・めがね橋の記事は、小林先生の資料にありました。いわば再発見んのきっかけになった、『武蔵野叢誌』の熊野神社裏について触れた記事「古窖(穴)発見」(明治十七年八月二十一日号)から引用します。(深澤靖幸「熊野神社裏の塚は古墳だった」『あるむぜお』36、1996年)

【古窖発見】
去る六月中、大沢村にて古窖を発見したることハ其頃の誌上へ登載せしが、今亦た本郡本宿村の熊野神社の後背に於いて一箇の古窖を発見したり。其構造の外面は目方凡六七貫目程もある玉川石を以て一帯に積立、入口は大なる滑土及び石等にて掩ひ、夫より中を三区に分てり。初の二窖ハ左程大ならざるも第三の窖は大にして広さ凡六畳程あり。其周囲及び天井等悉皆滑土を切石様に切り出したるを以て恰も万世橋の装置の如く組立てしは、能く建築方に適ひしものヽ如し。其堅牢鉄壁の如くにして如何にも戦国の落武者が隠遁せしものかと想像る。洞中に二个の白骨あり。側に錆たる釘の如きもの幾個となく落散りありしハ甲冑などの腐れたるにはあらざるか。兎に角当地方ハ新田足利などの戦争も数度あり、名所旧跡にも富むところなれば世の好事家諸君が参考にもと其概略を記し置ぬ。




1342. Re2: Re2: 武蔵府中熊野神社古墳 HON [URL]  2004/04/25 (日) 18:09
さわらびTさん こんにちは

八角墳の検索してたら武蔵府中熊野神社古墳の新情報が引っかかりました。

読売新聞の多摩地方版に連載されたものらしいのですが、
明治の中頃から胴張り型と分かっていたらしいことが紹介されています。
もっとも、胴張り型という名は無く、「めがね橋のように組まれている」
という言い方のようですが。

各界の専門家のご意見の紹介もあります。

上円下方墳が出た!読売新聞サイト
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyotama/kikaku/053/main.htm




1341. Re:なるほど HON [URL]  2004/04/25 (日) 18:07
はにわ処さん、はしめまして。

ときどき貴サイトのウインドショッピングを楽しませてもらっています。
わたしは金目のレプリカを少々手元に持ってます。
近江の一番大きい銅鐸とか、二荒山の鉄鐸とかですが、銅鏡が欲しい!

お店は、さきたま古墳群の側にあるんですね。
稲荷山古墳の鉄剣が出たとき見学に押しかけましたが、
それ以来ご無沙汰です。
最近、自分のサイトの取材に狭山丘陵付近によく出かけます。
いずれ、さきたま古墳群へもまた行くつもりですが、
その節はお店に寄らせていただくつもりですので、宜しくお願いします。

ところで、八角形墳ですが、多摩川の近くにも稲荷塚古墳があり
自分のサイトに載せています。
稲荷塚古墳
http://hon.web.infoseek.co.jp/tama/ogu/o010/o010t.htm

群馬県のは吉岡町大久保字三津屋の三津屋古墳で、写真によると
噴き石もあり、かなりはっきりした八角形墳のようです。
三津屋古墳
http://www.gunmaibun.org/guide/3/3-6-25.htm

あと山梨県にも八角形墳があると聞いていますが、
場所ははっきりしません。




1340. 北條芳隆先生の講演 さわらびT  2004/04/25 (日) 17:12
昨日、北條芳隆先生の『古墳時代の年代観をめぐって』という講演を聴きに行きました。注目の先生です。

旧石器の捏造問題に言及されたのですが、そればかりでなく 、古墳研究では上高森の「成果」の発表と競い合う形で中山大塚・下池山・小泉大塚・島の山・黒塚・ホケノ山・勝山と続く一連の発掘が行なわれたことの問題点を指摘されました。これが系統だった調査でなく、同じことの繰り返しだとおっしゃる。

こうした、同じタイプの古墳発掘の繰り返しは三位循環構造(公費による発掘→被葬者は誰か→邪馬台国畿内説)になっていて、それにより権威の空回りが見られると指摘。こんなことをお書きになったことで、随分お叱りも受けたとか・・・

北條先生のように、考古学の現状へのこうした批判をされる方は少ない?

本題のテーマである年代観は後藤守一、小林行雄、白石太一郎説を丁寧にご説明いただきました。白石先生による年代修正案は新山古墳の帯金具を4世紀後半とすることがポイントとか。

問題の箸墓の出現年代が3世紀第2四半期(240年頃)と2世紀第4四半期(190年代)との説が並立する状況があること、つまり考古学をめぐる年代測定法をめぐり議論が並行している現状もお話しになられました。専門家の間にこのような混乱があるのだとしたら、私たちはどうすればいいの?




1339. なるほど はにわ処 [URL]  2004/04/25 (日) 11:14
T様
早速の書きこみ有難うございます
群馬の八角古墳は実は本で読んだだけで行ったことが無いので自分も行って見たいですね たしか群馬町のほうだったような、、、定かではない でも畿内に集中する八角古墳がなぜ群馬にもあるのか(他にも関東にあるのかな?)仏教や道教との結びつき、方墳との関係など色々興味深いですね




1338. Re: 関西へ さわらびT  2004/04/24 (土) 23:28
はにわ処様

お久しぶりです。今日は北條芳隆先生の講演を聞いてきただけに古墳の話しになると、なんか気になります。

石舞台古墳が、上円下方墳であった可能性は濃厚だと思われます。もしかしたら八角墳であるという可能性もあるくらいだそうですね。封土が全くないので、完全な証明はできないのでしょうが、円形部分が乗っていたことなど想像すると興味もましますね。

埼玉県熊谷市の宮塚古墳(上円下方墳)、群馬県一本杉古墳(八角墳)・・・見てみたいですね。

八角墳ですが、河上邦彦氏の本を読んで興味が深まり、昨年暮れ束明神古墳を探してみたものでした。なぜ八角墳なのか、仏教の影響即ち8世紀代には供養堂として八角円堂があるという説に対して、八角墳はすでに7世紀前半には出現しているので、むしろ道教思想を河上説は重視していたようでした。




1337. Re: ゆみさまこんばんは! まさみ [URL]  2004/04/24 (土) 23:04
書き忘れました

> 「宿人思想と被差別部落」
水木正人著 明石書店
です。




1336. ゆみさまこんばんは! まさみ [URL]  2004/04/24 (土) 22:59
ゆみさま、こんばんは。ご無沙汰しております。
素材、可愛く使っていただきほんとにありがとうございます。

さてゆみさま、「宿人思想と被差別部落」と言う本は読まれましたか?ちょっと切り口が違い、且つわかりやすくよい本です。
そこに守宮神→宿神の変遷が書かれており、私見では宿神が従来からあった石神思想と習合したのではないかなと思っています。さらに関の神・咳の神に発展したのかな?
守宮(宿)神は障礙神であったらしいので、そういう意味で石神としてムラの境におかれたのではと勝手な想像をしています。
皆様はどう思われますか?




1335. 八角墳のこと & 山神調査で古墳を発見の大ニュース さわらびY(ゆみ)  2004/04/24 (土) 22:19
はにわ処さん こんばんは
> TOPがちょっとかわって可愛くなりましたね(^−^)
ありがとうございます。
まさみさんがとってもかわいらしい素材を作って「はぁとの木」というHPを開いていらして、そのロゴを使い、初めて「ウェブアートデザイナー」でちょっと加工してみた試作品?です。

> 先週仕事もかねて関西方面の博物館めぐりをしてきました 

GWは、はにわ処さんの家業が最盛期ですものね。
明日香はまだ静かで、花もきれいだったでしょう。

>八角古墳・・・珍しい形の古墳って何か特別の意味があるんですかね〜

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/12.29nara.htm
の「壷阪寺に見る藤原京と慶州南山の面影」では、
「八角円堂・・その形は夢殿と同様に廟を意味する」と書きましたが、その意識は終末期古墳にも反映しているように思います。
関東のもそうなのか知りたいですね。
そういう意識って、信長が、ヨーロッパの大聖堂の風聞を聞いて、安土城につくらせたという奇妙な八角円堂ドームにもつながるような気がする・・・



あるけ〜さま
>姥神といえば、わが千葉市の大宮神社の石造物が、疱瘡神かなにかとしてハンドブックか何かに掲載されていなかったかな。

房総石造文化財研究会の会報復刻版に沖本博先生が報告されているこれですね。
http://members.at.infoseek.co.jp/sekiou/04kaihou/kaihou13.html

今日のYahoo!ニュースで、「亀岡市保津町保津の山林で、郷土史を学ぶ地元住民らが偶然、前方後円墳を発見した」という記事が載っています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040424-00000034-kyt-l26

「この付近に伝わる山神の伝承を調べよう」と峠の雑木林を調べていたのが発見につながったとか。

>>郷土史への関心も〜
>ただ同じような大発見をしたいものです

草の根分けて、丹念な調査をされておられるあるけ〜さんなら、千葉でも大発見がありそう。




1334. 関西へ はにわ処 [URL]  2004/04/24 (土) 19:51
こんばんわ
TOPがちょっとかわって可愛くなりましたね(^−^)
先週仕事もかねて関西方面の博物館めぐりをしてきました 今話題?!のキトラ古墳もはじめて行ってきましたが外観が建物で覆われていたのでちょっとがっかり 石舞台や高松塚など明日香にも行きましたよ 石舞台って上円下方墳の可能性があるんですか?ちかくの熊谷にも宮下古墳がそうですが珍しい形ですよね 群馬に八角古墳がありますがこの形は天皇家だけのものと聞きましたが珍しい形の古墳って何か特別の意味があるんですかね〜




1333. TOPをちょっとだけリニューアル さわらびY(ゆみ)  2004/04/24 (土) 00:29
お友だちのまさみさん素材集「ハートの木」からロゴをいただきTOPページをちょっとだけリニューアルしました。
http://heart-tree.main.jp/

BBSのロゴはちょっと品がよすぎて、気づきにくいかも・・
今晩はここまでにして、また手直ししてみます。
好みの問題ですが、気になることなどありましたら、どうかご助言ください。




1332. Re^4近隣の咳神様・風邪の神様・疱瘡地蔵 あるけ〜  2004/04/24 (土) 00:28
さわらびYさん、こんばんわ
>関の姥神→咳のおば様
柳田国男大先生がいっておられましたか。未熟なせいかどうも・・・
歴史には、こういう誤解のような飛躍ってありなんでしょうか。
姥神といえば、わが千葉市の大宮神社の石造物が、疱瘡神かなにかとしてハンドブックか何かに掲載されていなかったかな。
関→咳という点では関係ないか。

>10年前に行った時堂の山にあった大日堂は、
>風邪治し地蔵は、おどろおどろしい首塚に気をとられて
風邪治し地蔵のことを小生に教えてくれたのは、
墓地にすーっと現れた老婦人=おばあ様でした。
首塚関連の(公言しにくい)ことも教えてくれました。

>郷土史への関心も〜お生まれ変わり?
とんでもない。恐れおおいことでございます。
ただ同じような大発見をしたいものです(^^;

>『博物館に学ぶ ちばの歴史』
仕事柄、そういう楽しい本がないんですよ〜
それも図書館で探して見ます。
何でしょうか?「土一揆」から何が見えるんだろう?




1331. Re^3近隣の咳神様・風邪の神様・疱瘡地蔵 さわらびY(ゆみ)  2004/04/22 (木) 22:54
咳神様のことを勝手な想像で書きながら、なんか昔こんな内容を読んだことがあるような気がして、古い文庫本を見つけてきました。
柳田国男の「日本の伝説」という本の「咳のおば様」の短い文章から、遠いかなたにあった記憶が蘇ってきます。

「子供を守るウバ神=咳のおば様」とだけかすかに覚えていたのですが、読み直してみると、後半で、そのルーツが、精進の川の石の境神→三途の川の奪衣婆→関の姥神→咳のおば様ではないかと説いているではありませんか。
八千代市の「シャブキバアサン」の碑や、佐倉市の「ちゃぶくばあさん」の樹は、やはり姥神だったのですね。

> そういえば、幕張の風邪をなおす地蔵のある堂の山も村のはずれでした。

10年前に行った時堂の山にあった大日堂は、おととし自転車ではるばる行った時もうありませんでした。
風邪治し地蔵は、おどろおどろしい首塚に気をとられて気がつきもしませんでしたが、あるけ〜さんのHPを探したら、ちゃんと健在のようですね。
http://chiba.fc2web.com/hamadagawa/kubiduka.html#kubiduka

> なお「柳生の徳政碑文」の発見の話は他人事でないような気がします(^^)

郷土史への関心もお仕事も、それからもうひとつの偶然の一致。あるけ〜さんは、やはり徳政碑文発見の大正の杉田定一氏の生まれ変わり?

お仕事柄、もし身近に『博物館に学ぶ ちばの歴史』の本があったら、「土一揆から何が見えるか」の章を開けて見てください。このHPで見慣れた写真があるかも・・




1330. Re^3近隣の咳神様・風邪の神様・疱瘡地蔵 あるけ〜  2004/04/21 (水) 22:19
>東北の三沢で、男女の藁で作った人形を見ました。
>道切り辻きりの任を負わされて立っていると、思いました。
災いは外から来るという発想がかなり一般的だったんですね。
そういえば、幕張の風邪をなおす地蔵のある堂の山も村のはずれでした。
同じ意味をもっているかどうかわかりませんが、
塚がいくつも並んでいる塚群があるところも村はずれが多いような・・・

>北柏井にもあるのですか。
まだ直接には実物を見ていません。
『千葉県の地名』でたまたまその記事を見ただけですが、あるようです。

>「柳生の徳政碑文を訪ねて」〜『中世の奈良』安田次郎著
金銭や金貸し業者を嫌悪するのはなんとなく想像がつくのですが、
借金を伝染病と同じように考えて、外に追い出すというのは、思いつかない発想ですね。おもしろそうです。今度図書館にいったら探してみましょう。
先日の木曜日、『史談 八千代』を見に図書館に行ったら、なんと休館で、『史談』のほうもまだ読んでません。
なお「柳生の徳政碑文」の発見の話は他人事でないような気がします(^^)
ではでは


 



1329. Re^2近隣の咳神様・風邪の神様・疱瘡地蔵 さわらびY(ゆみ)  2004/04/19 (月) 00:28
東北の三沢で、男女の藁で作った人形を見ました。
病気や災厄を送る人形送りの行事に使われるもので、村びとの厄を負った人形はムラ境まで送りだされ、そして二度と病厄が進入してこないようそこで境の守り神にされ、賽の神、道祖神として道切り辻きりの任を負わされて立っていると、思いました。

> 幕張や北柏井にある「風邪神」または「風邪の神様」というのと咳神は 同じものなのでしょうか。

幕張の大須賀山(通称:堂の山)のもと不動堂があった裏に風邪を治すという地蔵尊があるとのことらしいですね。
北柏井にもあるのですか。ぜひ教えてください。
一般的な風邪なら八千代にも「けんけさま」というのがあったのを思い出しました。
咳→風邪にも転化するでしょうから、調べてみたくなりました。
今日、友人からいただいた資料にも、佐倉市土浮に「おわば様」という風邪神様があって、やはり咳をしてつかまった話が付随しています。

「柳生の徳政碑文を訪ねて」http://homepage1.nifty.com/sawarabi/page4.htm
の疱瘡地蔵は、柳生のムラ境を守っているとこの掲示板のNo.1309に書きましたが、徳政碑文と疱瘡地蔵に関連して、『中世の奈良』安田次郎著に興味深いことが書いてありました。
「中世の人々は借金を一種の病、災いとかんじたのではないか」という説で、「借金も疱瘡と同じような悪い病だから疱瘡地蔵の脇に『負い目あるべからず』と彫ったのではないか」という記述です。
なるほど中世になって急に普及した銭に対しての正体不明な病を「銭の病」といっていたそうな。
この本、「大和〜河内 遺跡の旅」の2「甘樫坐神社にて」でも引用しましたが、けっこう「目からうろこ」で面白かったです。




1328. Re: Re2: 武蔵府中熊野神社古墳 さわらびT  2004/04/18 (日) 22:17
HONさん、こんばんわ。

学者の皆さんは、当然のことながら慎重になっているのに、中村記者は刺激的な提起をしてくださったと思います。

ただ、年代の決め手になる副葬品が出ていないので議論はこれからのようです。石室ですが、小林先生は畿内型石室構造となっていたらとを期待したようですが、胴張り型だったそうです。

私はまだこの古墳を見ていないので、早く現場を訪ねたいものです。

HONさんはご承知でしょうが、胴張り型を説明せよ、というY(ゆみ)の要望ですので、簡単にひとこと。つまり、玄室の平面形が、三味線の胴部のような左右対称の曲線を描いているという特徴を持っているというわけです。金井塚良一氏によれば渡来系氏族(吉志氏)に関係する墓制とか・・・

(村田文夫『古代の南武蔵』(有隣新書、1993)を参照しました。)




1327. Re:「大和〜河内 遺跡の旅」&近隣の咳神様データ あるけ〜  2004/04/18 (日) 21:42
こんばんわ
高津のツジギリと近隣の咳神様のデータ、拝見しました。
貴重なデータ、集まりましたね〜
ところで咳神というのは、千葉市のほうではほとんど聞かないのです
が、とくに調べていないから、小生が知らないだけでしょうか。
幕張や北柏井にある「風邪神」または「風邪の神様」というのと咳神は
同じものなのでしょうか。
これから、小生も咳神に注意をはらってみたいと思います。

高取城は特別な城だったんですね。内容豊富なページなので、
そのほかはあとでゆっくり見させてもらいます。
ではでは




1326. Re2: 武蔵府中熊野神社古墳 HON [URL]  2004/04/18 (日) 16:31
さわらびTさん こんにちは。

講演会のご報告、ありがとうございます。
とりわけ「武蔵府中熊野神社古墳」について期待してました。

中村俊介氏の文章に「石室の構造などから最古の例になる可能性」
とありましたが、その「石室の構造」というのは「玄室が胴張り」
のことだったんですね。

とすると「胴張式」は確かに関東に多く、
畿内には無いといわれます。

小林三郎氏は石室の位置を問題にされて、
古墳時代とのつながりを強調されているようですが、
どうもお二人の議論がかみあってないようですね。

石舞台古墳も上円下方墳だったのではないか、
といわれてますが、
どう見たって「胴張式」ではありませんね。

石室の位置と胴張式の二つを同時に説明しなければ
実りある議論にはならないでしょう。




1325. Re: 武蔵府中熊野神社古墳 さわらびT  2004/04/17 (土) 21:36
明治大学考古学博物館友の会主催の講演会「日本考古学2003」に行って来ました。
「登呂遺跡」の発表ですが、講師の大塚初重先生がお病気のためご欠席でした、残念。ほかの発表は下記の通りです。
   
・「陸平貝塚」中村哲也・茨城県美浦村教育委員会      
・「古代官衙」鳥羽政之・埼玉県岡部町教育委員会 
・「武蔵府中熊野神社古墳」小林三郎・明治大学教授 

さて注目の武蔵府中熊野神社古墳ですが、先日の朝日新聞・中村俊介記者の「古墳文化の近畿中心説に一石」(3月30日夕刊)という記事が刺激的だったことは掲示板1295に書きました。

小林先生のお話をうかがいましたので書いておくことにします。
この古墳は他の古墳群からは離れた単独の古墳で、まわりはすべて円墳であるそうです。
現在調査続行中ですが、堀は今のところ見つかっていないのですが小林先生は、あるとすれば大きな堀になることも考えられるとおっしゃってました。
方形の一段目、1辺32メートル、方形の2段目、1辺23〜24メートル、3段目は円丘、直径16メートル。石室は墳丘のほぼ中央部分に奥壁、切石による横穴式石室。奥行き8.7メートル。

武蔵府中熊野神社古墳の石室ですが、玄室が胴張りになっているという東日本の古墳の特徴を持っていながら上円下方墳の墳形であることをどう考えるか、実は特別な意味はないのかもしれない。

中村俊介氏の説に対して、小林先生はそれも一つの考え方ではあるが、そう簡単にはいえないとおっしゃいました。
方墳の上に円墳をのせるという形状は、構造上、比較しなくてはならないことがある。
武蔵府中熊野神社古墳は横穴式石室が方墳の中に入っています。天上部から上に円丘の部分が乗っかっている。

石舞台古墳ですが、上円下方墳であった可能性があるようです。もしこれを上円下方墳と考えた場合、石室の上半部、天井部が円丘になる。
ところが、奈良県にある上円下方墳、石のカラト古墳の場合は主体部全体が方墳の中に全部入ってしまって、円丘が石室と全く無関係になっている。これは武蔵府中熊野神社古墳とは違う。
石舞台や武蔵府中熊野神社古墳は古墳時代の古墳の伝統を残していると考えていいのではないか、とおっッしゃいます。いずれにせよ、多くの刺激を与えてくれる古墳には違いありません。今後も注目したいです。




1323. 高津のツジギリと近隣の咳神様のデータをUP さわらびY(ゆみ)  2004/04/17 (土) 00:16
高津のツジギリと近隣の咳神様のデータを仮にUPしました。
本掲示板1304.〜1309.に書きましたように、高津の「ムラ境」の民俗を調べています。
その過程で少したまったデータを整理しました。

このうち志津の方に案内いただいて写真を撮りに行って感動したのは、「咳神のやどる榎の木」です。
ちょうど芽吹きのころの葉がきれいでした。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/takatutujikiri/simosidusekigami.jpg
夕方でしたが、畑仕事をしていた大正生まれの方から、「ちゃぶくばあさん」という咳神で、今でも子どもの風邪に効くらしいです。

ここにあげた咳神さまのいわれや、他にご存知の咳神様をご存知でしたら、どうかお教えください。





1322. Re: 「大和〜河内 遺跡の旅」完結しました さわらびT  2004/04/15 (木) 23:37
「草壁皇子の陵墓を探して」に関連して言えば、20代後半で夭折したこの皇子が育まれた時代は内戦があった。その壬申の乱の勝利した、天武と持統、そしてその子どもたちの運命は・・・

血が尊いとは誰が決めたルールなのだろうか。血統を重視した王位継承は「血」が濃くなればなるほど近親婚による弊害も生まれる。天智や天武も近親婚によって生まれた。(父・舒明は押坂彦人の子、母・皇極は押坂彦人の孫に当たる。が、近親婚は弊害ではなく、天智・天武は傑出した人物として登場し、押しも押されぬ歴史上の存在となった。(注:私は天智・天武が兄弟でないという説をとりません。)

しかし、天智の子・持統が天武との間に生んだ子・草壁は夭折した。そこで血の連鎖を止めれたのが、外戚氏族=藤原氏であったのでしょうが、今度は配偶者を独占してしまうということになった。(これこそ女系!!)横道にそれたが、草壁はいずれ破綻する直系王位継承の犠牲者であったかもしれない。

持統の心の中までは読み取れないが、草壁の妻、阿倍皇女(のちの元明)も天智の子であってみれば、この近親婚のすごさは異様である。この時代、女帝が輩出する。私は、「中継ぎ」論だけでは回答を得られないこの時期の王位継承のありようを徹底した近親婚に見る。




1321. イラクの現実 さわらびT  2004/04/15 (木) 23:02
「歴史に好奇心」といえども、直面する現実から目をそむけるつもりはありません。

解放されるまでは、胸が痛くて書けませんでした。3人が無事解放されたことでほっとしていますが、一方新たな拉致事件も発生しているようです。

現地の状況は綿井健陽氏のHPなどを見続けていきたいと思っています。
http://www1.odn.ne.jp/watai/




1320. 「大和〜河内 遺跡の旅」完結しました さわらびY(ゆみ)  2004/04/14 (水) 23:59
長々かかってしまった「大和〜河内 遺跡の旅」のUP、やっと完結しました。
「近世の謎の山城・高取城」と「草壁皇子の陵墓を探して」がラストです。
ついでに、目次のページをつけました。

読み返してみると、かなりへそ曲がりな内容で、特に前半は、入鹿の首塚と馬子塚をテーマに、元の題名も「古代寺院遺跡と中世石塔」というマニアックな?視点。Tが「だれも読まない」と、のたまうのもしかたないかなと思えるほど。

新説と解けない謎ばかりで、ガイドブックとしてご利用になる方には、ベーシックな情報が不足してごめんなさい。
まっとうな史跡の解説は、各ページ下の参考HPをご覧ください。

それにしても、大和・河内の史跡を、古代史以外の視点から紹介した本やHPは少ないですね。
入鹿の首塚のような五輪塔も、聖徳太子信仰も、中世史の視点からアプローチしないと、古代史跡と錯覚してしまうあやうさがあります。
そのあやうさを実感いただければ、作者としては本望なのですが、ご面倒でしたら、文章は読み飛ばして、写真だけでもご覧いただければ幸いです。

最後に、飛鳥寺でお会いし資料をメールいただいた橿原のKさま、しっかりしたデータの優れたHPをおつくりのDon Pancyo氏に感謝します。






1319. Re:正覚院の時代&城砦寺院 あるけ〜  2004/04/12 (月) 23:18
おもしろいですね〜
想像力をかきたてられます。
たしかに、そういう話も昨日の講演会でしていただければ、いっそう
おもしろかったでしょう。
今度、「史談八千代」19号、読んでみます。
ではでは




1318. Re: 正覚院の時代&城砦寺院 さわらびY(ゆみ)  2004/04/12 (月) 23:13
> 掘は戦国時代になってからのものである可能性が高いということでしょうか。とすると、おしどり寺の伝説にはそぐわないかもしれませんが

北総のむらは、忠常の乱後の、鎌倉政権と千葉常胤のもとでの開拓の時代と、享徳の大乱後の戦国期では、かなり様相が違っていますよね。
おしどり寺の伝説は、忍性さんや無住さんの時代のお話。
つまり、宣教師が開拓地に赴くような時代背景の中で、野蛮な武士に殺生禁断を説いたお話ですから、中世前期のまだ戦さが日常的でなかったころののどかな時代だったのでしょう。

> 城郭寺院というか、城郭の機能をもった寺院であった可能性もあり、ですね。

天文15年(1546)の檀那は、釈迦像内の木札で、「平胤広」という千葉氏の一族ということがわかります。
この方の館の中の持仏堂か、出家後の寺院だったのが、原氏が臼井城に入り、1566年太田・上杉軍の臼井城攻撃の矢面に米本城が晒される中、正覚院も米本城の惣構えの一部として組みこまれ、南の砦として城砦寺院化を余儀なくされたのでは、と私は考えています。

「城砦寺院」としては、「史談八千代」19号(1994)に、「臼井田宿内砦跡の現状と歴史的意義」というレポートを書き、その中で臼井城外郭の宿内砦=長源寺山を「城砦寺院」と勝手に(?)規定したことをなつかしく思い出します。

「千葉県中近世城跡研究調査報告書」にもまだその存在しか掲載されていないころで、宿内砦跡がすぐにでもマンション開発で破壊されようとする最中の緊急レポートでしたので、「うすゐ」という地元の雑誌のコラムにも拙文の書評が掲載されたことがあります。

実はこの宿内砦=長源寺は、原氏と道誉上人の寺で、あるけ〜さんの追っている大巌寺とふかーい関係にあります。

長くなるので、またその関係などについて別に書きましょう。

「史談八千代」19号は、もしかしたら千葉県立図書館にあるかと思いますが、入手困難でしたら、いつかお持ちします。

あるけ〜さんの「戦国房総マップ(1560−70頃) 」よくできていますね。
http://chiba.fc2web.com/sengokumap.html

地図の「1566年」の下の矢印のところ、つまり通り道に米本城と吉橋城があったのですから、この時代の八千代のむらの人はたいへんだったのでしょう。




1316. Re:Re: また八千代におじゃましました-正覚院の時代 あるけ〜  2004/04/12 (月) 18:33
ご丁寧なレスありがとうございます。
おかげさまである程度事情がわかりました。
掘は戦国時代になってからのものである可能性が高いということでしょうか。とすると、おしどり寺の伝説にはそぐわないかもしれませんが
城郭寺院というか、城郭の機能をもった寺院であった可能性もあり、ですね。
ところで入口のところの右の遊具の傍らにある土塁状地形は、オリジナル?あるいは復元?けずったら鎌倉時代の水差しが出てきたと聞きましたが。

千葉市の大厳寺も同じような地形を利用しており、館址と
言われているのですが、もともと、寺院と区別される意味の、
世俗的領主がいた館なのかどうか、確実なものはなく、
それとの関連で疑問に思った次第です。

>もっと具体的な城郭址の事例説明の時間があったほうが面白かったなと
>贅沢なことをつぶやいています。
おいしいところは後に残しておくということでしょう。
次回の見学会に参加しない者にとってはちと不満です(笑)。

ともあれ正覚院は遺跡としても重要な遺跡であるということもわかりました。
またおじゃましたいと思います。では




1315. Re: また八千代におじゃましました-正覚院の時代 さわらびY(ゆみ)  2004/04/12 (月) 00:01
> ところで博物館の展示の解説では、正覚院館は、「鎌倉時代の典型的な武士の館」とかいてあるのですが、「八千代市の埋蔵文化財」のホームページでは、「室町時代(戦国時代)」の欄に正覚院館がはいってます。一部発掘しているということなので、ある程度、館の存続時期は特定されているのでは思うのですが。あるいは二つの見解があるということでしょうか。

正覚院には、釈迦堂に鎌倉時代の清凉寺式釈迦如来像が安置され、墓地に応永18年(1411)銘の宝筐印塔が残っていることから、鎌倉後期の寺院または鎌倉時代の千葉氏系武士の館に付随する持仏堂であったことは確かですが、直接的な文献史料があるわけではありません。
(このことを、下総の律宗の広がりの中で確かめようと、−「おしどり寺」村上正覚院の来た道−のシリーズをスタートさせたのですが、現在松戸の万満寺のところで足踏みをしてしまい、道未だ遠しといったところです。)
その後、釈迦像胎内の天文15年(1546)と延宝2年(1674)の修理の墨書銘から、14世紀(13世紀の末?)から近世にいたるまで、継続して維持されてきたらしいです。

館址の構造については、新川沿いの西側は断崖と犬走、南側入り口に高い土塁、本堂左後の墓地とその裏の藪には堀があり、戦国時代は小さな城郭としても機能していたと思います。
1992年、墓地整備に伴う発掘調査では、私も見せていただきましたが、深いV字の薬研掘とその底から水瓶が見つかっています。
「八千代市の埋蔵文化財」の記述は、職業柄?こちらを重視しているのでしょう。

>あるいは鎌倉時代から戦国時代までずーっと館として使っている?・・
たぶんそうでしょうね。江戸時代にその機能を失うまでは。

ところで、「八千代市の埋蔵文化財」HPは、新年度の市HPのリニューアルでリンク切れになっていますね。だれか新しいURLご存知ありませんか。




1314. Re:講演会「八千代市周辺の城址と中世の歴史」参加 さわらびY(ゆみ)  2004/04/11 (日) 23:50
> 市民団体の主催しかも街づくり(!)の団体主催の講演会が博物館でできるという市民と博物館の関係は、うらやましいことです。
>先生の講演の内容にも満足しました。

街づくりの会の皆様と館長が聞いたら(ここを見て下さっていたら)とっても喜ぶでしょうね。
北総の複雑な戦国の勢力状況ができたとは思いますが、私としては、もっと具体的な城郭址の事例説明の時間があったほうが面白かったなと贅沢なことをつぶやいています。

あるけ〜さんのHPのTOPの大厳寺山門もきれいですね。
小弓公方の御座所?の推理面白いです。

今日、Tは、柏市の松ヶ崎城跡を市民の皆さんと見学してきたようです。
今後とも、城跡や文化財、自然景観を守ろうとする市民活動をいっしょに応援していきましょう。




1313. 松ヶ崎城址に行きました さわらびT  2004/04/11 (日) 23:11
松ヶ崎城址の現地案内会および確認調査の説明会に参加してきました。

松ヶ崎城というのはJR北柏駅から北西500メートル、「腰巻」という字名の残る台地上に築かれた中世城郭です。この保存に取り組んでおられるのが「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」です。

私が、この運動を知ることになったのは先年、千葉史学会で鈴木英夫先生がご発表されたからでした。是非一度現地に出向いてみたいと思っておりました。

松ヶ崎城址については、会のHPをご参照いただければよくわかると思います。

http://www.matsugasakijo.org/

でもやはり現地をおとづれることは大事ですね。配布された図面もわかりやすく、柏市教育委員会のI氏のご説明も細やかな配慮があって感激しました。よく残っている史跡です。保存のことには、申し上げる立場ではありませんが、大事にしたいと思いますよ。




1312. また八千代におじゃましました −講演会「八千代市周辺の城址と中世の歴史」参加 あるけ〜  2004/04/11 (日) 21:29
こんばんわ
先日にひきつづき、またまた八千代におじゃましました。
市民団体の主催しかも街づくり(!)の団体主催の講演会が博物館でできるという市民と博物館の関係は、うらやましいことです。あっちについたりこっちについたりする複雑な関東の中世の歴史をユーモアをまじえながら易しくお話いただいた先生の講演の内容にも満足しました。

講演後、正覚院(館)に行きました。
ところで博物館の展示の解説では、正覚院館は、「鎌倉時代の典型的な武士の館」とかいてあるのですが、「八千代市の埋蔵文化財」のホームページでは、「室町時代(戦国時代)」の欄に正覚院館がはいってます。一部発掘しているということなので、ある程度、館の存続時期は特定されているのでは思うのですが。あるいは二つの見解があるということでしょうか。(あるいは鎌倉時代から戦国時代までずーっと館として使っている?)ふと思った疑問でした。ではまた




1311. Re^2:Re: Re;ツジキリと咳神様の伝承との関係 さわらびY(ゆみ)  2004/04/11 (日) 01:21
HONさま

山口昌男の著作のご紹介ありがとうございます。
さっそく図書館のHPで検索し、貸し出しを依頼しました。

> 共同体の「敗者」だから村の外か境に、周縁に祀り捨てられたのです。
> 周縁に対する中心の「勝者」にとって、それはトリックスターとしてなくてはならない、活性源であると。言い換えれば、それは「村八分」の象徴であり、村や共同体なるものの狡猾さの現われなのです。

なるほど、面白い視点ですね。

以前ご紹介いただいた赤坂憲雄の著作の「東西/南北考」ももう一度読み直しています。
そのほかにも興味深い本がありましたら、ご紹介ください。

現在フィールドワークで集めたツジギリと咳神様の画像データをHTMLで整理中です。
最近はエクセルよりHTMLのほうがデータ整理しやすくなりました。
ただのデータ集ですが、律宗関連の仏像・石塔データのようにまれに見て利用される方がおられるようなら、UPも考えています。
ご近所の事例がありましたら(できれば北総地域で)ご連絡お願いします。




1310. Re:Re: Re;ツジキリと咳神様の伝承との関係 HON [URL]  2004/04/09 (金) 01:37
さわらびY(ゆみ)さん こんばんは

>今後気長に、事例を調査して、ムラの構造と境の観念を探っていきたいと思っていますので、ご協力のほどよろしくお願いします。

先のReで書き忘れました。
以前、フオットアルバムのページにUPして、あまり評判が良くなかったのでアルバムサイトを変えたときに削除してしまったのですが、大内宿の画像がありました。
一本道の街道筋に三十軒ほどの茅葺屋根がならぶかつての宿場町です。

現在では何処の村も隣村とつながってしまい、村境は見境がなくなってしまいましたが、大内宿にはそれがよく残されていています。当時は仕事柄、茅葺屋根ばかりに眼がいっていましたが、村境に堂や石柱がまとめてありました。

これ、後に文化人類学の山口昌男の著作を読みふけり、共同体の構造的な実体として現われたものと気づくことになります。

これまで挙がった例でいうと、逃げてきたお姫様や謀反人車丹波とは共同体から追い出された者です。山口昌男以前、それらは「敗者」としてのみ、否定されるか、肩を持つかのどちらかにあつかわれていました。共同体の「敗者」だから村の外か境に、周縁に祀り捨てられたのです。こういうあつかい方は、今でもHPを検索すると掃いて捨てるほど有ります。

文化人類学のすごいところは、この境や周縁を中心との関係の中で構造的に説明して見せたことです。共同体から追い出された者にも関わらず、庶民はそれを祀るのは何故か、ということを文化人類学は説明してくれます。単に「敗者」に肩を持つからではなく、周縁に対する中心の「勝者」にとって、それはトリックスターとしてなくてはならない、活性源であると。言い換えれば、それは「村八分」の象徴であり、村や共同体なるものの狡猾さの現われなのです。

現在、山口昌男の著作はあまり本屋に出ていませんが、
『仕掛けとしての文化』講談社学術文庫
『天皇制の文化人類学』岩波現代文庫
ならあるかもしれません。
できれば図書館で次のものを探されることをお薦めします。
『文化と両義性』岩波書店 1985

大内宿
http://hon.web.infoseek.co.jp/krog/krog12.htm#343




1309. Re: Re;ツジキリと咳神様の伝承との関係 さわらびY(ゆみ)  2004/04/08 (木) 00:02
HON様
咳神様の情報をありがとうございます。
>シャモジをそなえる咳の神が多くあり、
> それを一本借りて、患者の咽喉をさすり、お祈りして、
> 治ったら新しい杓子をそなえる。

新横浜の近くに「蛇幸都(じゃこつ)神社」という咳の神様があり、私もそこのHPで「おしゃもじさま」というのを知りました。
http://www.sinyokohama.co.jp/zz.menu.html

「新編武蔵風土記稿」によれば「弓を射て矢の落ちたる処を村境とせん」というのも断片的に米本城合戦伝承の「矢中」地名由来とも似ていますし、蛇を埋めたという記述も、ツジギリの蛇を連想させます。

> 石神――シャクジン――シャモジ――杓子になったのではないかと。

石神でもあるミシャグジ神は道祖神でもあるわけですから、納得です。
諏訪系の神様は、鎌倉時代に関東各地に盛んに勧請されましたから、特に相模・武蔵は多いのでしょう。(長作の史跡と風景T)

佐竹の忠臣車丹波が咳をして見つかった、という話も興味深いですね。

咳神様と並んで多い疱瘡神も村境に多いですね。
3年前にUPした「柳生の徳政碑文を訪ねて」の疱瘡地蔵は、正に柳生のムラ境を守っているのですから。
流行り病が、ムラに侵入しないようにガードしているともいえるしれません。







1308. Re;ツジキリと咳神様の伝承との関係 HON [URL]  2004/04/07 (水) 16:59
さわらびY(ゆみ)さん こんにちは

咳神様について、ちょっと思い出したので。
古本屋のゾッキ本の中から見つけた昭和50年発行という
川口謙二著『宿なし百神』(東京美術)というのを持ってます。
聞いたことも無い神名にぶつかったとき、思い出して開きます。

咳の神、ありました。
全国いたるところにあり、関・堰・石・尺などの字のつく神は
ほとんどが咳の神であると。
そして、シャモジをそなえる咳の神が多くあり、
それを一本借りて、患者の咽喉をさすり、お祈りして、
治ったら新しい杓子をそなえる。

面白いのは、著者がここから推測したことです。
咳の神は石の神とも書かれる。
石神――シャクジン――シャモジ――杓子になったのではないかと。

で、社宮司(しゃぐうじ)神の項に、諏訪の御左口神もまた
シャモジに転化したとあります。
こっちはうちの掲示板でも触れましたが、諏訪の古い神で
土地によっては石神とされます。
http://hon.web.infoseek.co.jp/krog/krog31.htm#818

また、咳のゼイゼイが転じたケイケイ神といのがあるそうです。
水戸市大鋸町にケイケイ神祠があり、佐竹の忠臣車丹波が
水戸家に謀反して隠れていたら咳をして見つかった、という
例のパターンによる伝説がつている。

佐竹の忠臣車丹波といえば江戸の非人頭車善七のことではないか、
と思ったら、善七はその弟だというから、追跡すると非人伝説へ
行くかもしれません。ア〜、叡尊・忍性にこんなところで、、、




1307. 八千代市郷土博物館のURLが変わったみたいですね さわらびY(ゆみ)  2004/04/05 (月) 21:46
八千代市役所のHPリニューアルの関係か、郷土博物館のURLが変
わったみたいですね。
引越し先を探し出したので、リンクのページは修正しましたが、新しいURLは下記のとおりです。

http://www.city.yachiyo.chiba.jp/sisetu/rekisi/rekisi.html




1306. ツジキリと咳神様の伝承との関係 その3 さわらびY(ゆみ)  2004/04/04 (日) 22:41
お隣の佐倉市では、臼井城落城伝説で咳神として「お辰さま」が祀られているのは有名ですが、そのほかでも丁寧に調べると、逃げる途中で咳をして追っ手に捕まり殺された場所の供養碑・塚(「お辰さま」や米本の「しろぬしさま」)や、野垂れ死にした人のお墓(佐山の「乞食の墓」や市川の「こんこんのんのんさま」)などがあり、いずれも非業の死を遂げた人のたたりが供養によって咳の神様としてご利益を持つようになったと信じられているように思えます。

村の境というのもほぼ共通しています。
八千代市の桑納では、ツジキリと咳神の「シャブキバアサン」は同じ三叉路にあります。
子供を守るウバ神が咳のおば様の原型だという視点(柳田国男)もあるようですが、「関止め」、「堰留め」の語呂合わせから、村境のいくつかの賽の神のひとつが咳止めの神様になったのだと思います。(伊勢原の「せきど橋」の「咳止め地蔵」、国分の坂のどんつまりにある腹きり樣)

風邪のほか、喘息や結核の持病で苦しむ人は必ず村にいますから、疱瘡神や疳の虫の神様と同じように、村の必需品の神様なのでしょう。

何人かのお友だちにメールさせていただきましたが、現在、佐倉市の小竹、先崎、上座の咳神様を調べています。この3ヵ所の神様の祀られている姿は撮影しましたが、そのいわれについては、まだ旧家の方々にお聞きしていません。

今後気長に、事例を調査して、ムラの構造と境の観念を探っていきたいと思っていますので、ご協力のほどよろしくお願いします。

小竹の咳神様は出羽三山の梵天塚の右後の大日石仏。
先崎の咳神様、鷲神社の手前のお地蔵様の並びの墓石。
上座は手繰橋のすぐそば、成田街道と上座公園入口中間の立ち木。




1305. ツジキリと咳神様の伝承との関係 その2 さわらびY(ゆみ)  2004/04/04 (日) 22:38
さて、高津の8ヵ所のツジキリのうち、大和田新田との境の坂の分岐のツジキリは、咳神様のところでもありました。
ここの咳神様は、道から民家の庭に畳一畳ぐらい食い込んだ敷地に、高さ50cmぐらいの刻字が不明の石碑があり、湯飲みが供えられていました。

1月に写真を撮ったあと、このお宅の庭を広げるため近く撤去されるとのことを聞き、3月11日に見に行ったところ、石碑は高津の観音堂に移されていました。
よく見ると、「地蔵堂跡」と彫られていて、裏返すと首から上を失った地蔵像でした。

たぶんこの道のムラの境には、この石の地蔵が立っていて、祠のようなお堂があったのかもしれません。

咳神様のいわれについて、高津の旧家のおばあさま方にお聞きすると、「逃げてきたお姫様が咳をしてつかまった」とか「働きに来ていた男女がひそかに逃げ出し、咳をしてつかまった」とかいうお話をされました。





1304. ツジキリと咳神様の伝承との関係 その1 さわらびY(ゆみ)  2004/04/04 (日) 22:35
昨秋の高津の七年祭で神輿の渡御の折り返し地点が、ツジキリがあるところ(またはあったところ)であることから、興味を持ち本年1月より高津のツジキリを調べています。

八千代市の高津には8ヵ所のツジキリの慣わしが現存していて、1月25日(担当の家の都合でまたはその翌日)にムラの境に今も、縄やヤツデの葉や高津比盗_社の御札などの呪物を祀ります。
近隣のムラでは、下市場や上高野、井野(佐倉市)のように藁で作った大蛇でツジキリをするところもありますが、高津や勝田、桑納(今年はやっていなかった)では、道を横断して注連縄を張りました。
ところが自動車が通れないという理由で、戦後はその縄を丸めて道端の立ち木に結んだりしています。




1303. Re: 花見日和 さわらびY(ゆみ)  2004/04/04 (日) 22:30
mwaraさま

写真のプロに、丁寧にご批評いただき、精進の甲斐があります。
mwaraさまのHPのようなすばらしい写真作品に接することができ、また気軽に撮影できて、皆さんに見ていただけるのもデジカメとインターネットのおかげですね。
デマージュA1はまだまだ慣れませんが、私も心に残る作品をめざしていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いします。

西琳寺の礎石は、かなり高さがあって、上面と横しか撮れませんでした。ガイドブックのはたいてい横からのみですので、いったいどんなものか、わからなかったです。
少しよじ登って、カメラを頭の上に上げ、モニターで見てシャッターを切ったしだいです。

また、先崎の咳神様の情報をありがとうございました。
「三五八」さまと呼ばれていることから、「俗名佐五八」と彫られた墓石であるらしいことがわかりました。
「じんべいさん宅」で、ぜひそのいわれについてお聞きしたいと思います。今後ともよろしくお願いします。

皆様へ
なぜ咳神様を調べているか、メールの断面的な引用では、おわかりにくいかとも思い、別稿で詳しく書きますので、よろしかったら、お読みください。

1031の新川の桜が「テグス病に侵されている」と書いたのですが、正しくは「テングス(天狗巣)病」でした。
次の写真で、緑の葉だけの枝が見えると思います。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/sinkawa2_1.jpg
桜の植栽は里山と同じように、人がまめに手入れしていかなければいけないようですね。




1302. 花見日和 mwara [URL]  2004/04/04 (日) 01:17
今日は、花見日和でしたが午前中は畑仕事で外の空気を思い切り吸い春を堪能しました!!??。
ところで、先日のメールの件ですが、先崎の咳神様はその場所であることは間違いありませんが、どの石碑かはまだ聞いていません。先崎に、屋号で「じんべいさん宅」の先祖が祭ったとされているようです。昔の人は風邪を引いても医者がいないので神に頼るしかなかったのかも知れません。
サイクリングをしながら花見川の花見は気持ちが良かったでしょうね。
写真を拝見しました。1点目は満開の桜をバックに釣りをする男性が一人、贅沢な釣り環境ですね。ねらいも良かったと思います。2点目は花見川沿いに咲く桜の大木、空と川をバックにしたため、桜が浮き立って見える効果がでました。欲を云えば左側の散策路をぎりぎりで入れるとより見る人の情景推察ができ良かったかなと思います。

「私は、史跡や民俗の説明的な写真をせめてうまく撮りたいものと心がけていますが、なかなか満足な写真が撮れなくています。
「大和〜河内の旅アルバム」では、Vの西琳寺の巨大な礎石の心柱穴、Yの津堂城山古墳が、自分としてはまあまあかなというところ。ご批評ご指導をいただければ幸いです」

Vの西琳寺の巨大な礎石の心柱穴については2枚組で理解できる絵であると思いますが、斜め上から全体を撮れれば1枚で分かると思います。
Yの津堂城山古墳の日没で、むしろ史跡等の紹介写真は文章と絵が理解しやすい事が一番だと思います。





1301. 新川の桜 さわらびY(ゆみ)  2004/04/03 (土) 22:25
北海道は雪が降ったそうですが、千葉の今日は絶好のお花見日よりとなり、八千代市郷土歴史研究会の仲間と、新川堤をサイクリングしてきました。

印旛沼から続く新川は、八千代市を縦断し、大和田排水機場からは花見川となって幕張の海に注ぎます。
といっても、排水機場の巨大ポンプが動くのは大水の時だけですので、印旛沼から東京湾に、常時流れているのではありません。

江戸時代、3回の印旛沼からの掘割工事が試みられ、昭和42年大和田排水機場の完成によってやっと水の調節が可能となりました。

一緒に行った方のお話では、近年、新川沿いのソメイヨシノにテグス病という病気が拡がり、早めに葉が絡み合った病気の枝を切ってやらないと、花より葉だけの醜い桜になってしまうそうです。

写真をUPしましたのでご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/PICT0002_1.jpg
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/sinnkawa_1.jpg