バックナンバー
No.201-No.300 2002/07/122002/10/12
Since 2001.10.08
・オーバーフローで消えてしまった発言を収納しました。
・書き込み、修正、削除はできません。修正・削除は、管理人にお申し付けください。
・他への引用は、著作権などの配慮から、発言者へ連絡をお願いします。
No.1-No.100 No.101〜200 No.201-300 No.301〜400 No.401-500 No.501-600 No.601-700
No.701-800 No.801-900 No.901-1000 No.1001-1100 No.1101-1200 No.1201-1300 No.1301-1400
No.1401-1500 No.1501-1600 No.1601-1700 No.1701-1800 No.1801-No.1900 No.1901-2000
No.2001-2100 No.2101-2200 No.2201-2300 No.2301-2400 No.2400-2500 No.2500-LAST

TOPへ  現在の掲示板へ


300. ブタ便所? さわらびT  2002/10/12 (土) 23:17
昨日の西谷大先生のご講演ですが、本題に入る前に中国・海南島での食生活の実態をパソコンからの画像をお使いになられ、興味深いお話をしていただきました。本題では、各方面からの中国への朝貢品のリストを掲げられ、わが倭国からのそれが特異なことを教えてくださいました。生口について西谷先生は「奴隷」説のようですが、岡村秀典氏から反論があり「儒教的理想人の証しとして珍重された」という説であることも紹介されました。倭が差し出した「生口」って、なんだったのでしょう。

ただそれより、ブタ便所が話題になりました。研究としてもかなり個性的な部類になりますネ。みなさんの参考までに、論文を紹介します。『豚便所 飼育形態からみた豚文化の特質』(国立歴史民俗博物館研究報告90集)

懇親会もかなり盛りあがりましたね。突然大爆笑状態になっていましたが、何がきっかけ?西谷先生、みきこ様、さしつかえなければ、おたよりいただけますか。




299. 龍の爪数進化の仮説? さわらびY(ゆみ)  2002/10/08 (火) 22:45
龍の爪について私のまったくの想像の仮説です。
1.太古=4本 自然界の鳥類などを即物的に表現したと思う
 ex.
@6千年前の仰韶文化の彩陶の龍(サンショウウオ?)の紋様
A前16-17C 殷代の婦好の墓出土玉製の龍
2.漢代=3本 奇数特に3を聖数とする(3本足の烏)→皇帝独占の龍→一般化する
3.宋代=4本 これがよくわからない(皇帝独占が緩んでくる?→一般との差別化)
4.13C元代=5本(民需拡大→奇数を聖数に→皇帝専属の工房のブランド?)

まだ、なんにも実証的な資料を丹念に見たわけではないのですので、はてさて仮説どおりになるか、図録を見るときの私のひそかな楽しみです。




298. だんだんわからなくなります みきこ  2002/10/08 (火) 21:30
桃崎先生、お疲れの様子ですね。くれぐれも無理をなされぬ様にお願いします。という私も皆様の白熱したお話につい夜更かしをする日々が続いております。「後漢代に単口鈴の原形ができる・・」びっくりです。ありがとうございます。「中国国宝展」の図録では6世紀の河北省修徳寺址の菩薩立像の胸飾りに大型の鈴が付いていました。龍の爪を数えたり鈴に目を奪われたりと忙しいです。頼りになるゆみ様!貴重な情報ありがとうございます。「中国国宝展」の図録では、唐の高宗以後歴代の皇帝の宮殿・大明宮跡から出土した「走龍」青銅製鍍金は3爪で、「漢代以降一般的な龍の形が確立された」と解説してありました。でも
私が一番興味がある奈良新沢千塚古墳群。その327号墳(6世紀半・方墳)から出土してる鉄刀に銀象嵌された龍は、復元された図を見ると四爪に見えます。龍の特徴をよくとらえ、文様を理解できた工人によって列島内で製作されたものとされています。(「研究紀要」平成12年)古代の日本の方が自由な意識を持っていたのでしょうか。西周時代(前11〜10世紀)の青銅の大鼎の龍は四爪です。(2爪のものもある)鼎の足に羊頭が表現されているのも興味深いですね。
貴重な三角縁神獣鏡の画像と、旅行記楽しく読まさせて頂いています。




297. シルクロード展見てきました 桃崎祐輔  2002/10/08 (火) 00:04
おひさしぶりです。
このところ考古学ジャーナルの原稿(九州の騎馬文化)の詰めに手間取り、思いのほか消耗して顔を出せずにおりました。
日曜日、一念発起してシルクロード展の最終日を見に行って参りました。話題になっていた焉耆回族自治県ジングダ墓地で出土した漢代の金製帯金具も見てきました。すばらしい資料ですね。志賀和子先生がよく論文に書かれている北方民族の素朴な帯金具と異なり、漢代の細金細工、おそらく尚方(官営工房)で作られた優品ですね。この類例は楽浪の石巌里9号墳(漢代併行)にあったように思い出しました。以前九州大学の俵君という大学院生に、ベトナム北部にも楽浪郡のものとよく似た漢人植民地の磚室墳墓群があり、やはり似たような銀製帯金具が出ていると教わったことも思い出しました。当方としては五胡十六国時代のギザギザした紋様パターンの織物や騎馬像などが印象に残りました。
 そういえば先日、鈴の起源を調べていたとき、梅原末治先生が大和文華館(あやめ池)の『大和文華』に、漢六朝期の細金細工類を報告している中に注目すべき資料がありました。ロンドンの故ユーモスフォポロス氏所蔵品の中に、中国出土の金製小鈴と木苺を思わせる垂下飾があり、梅原先生はこれと、新羅慶州金鈴塚出土の細金細工の金鈴・垂下飾の技巧と類似すると述べています。この鈴は「扁平な丸形で、下邊に口が横に作られ、上に垂下の為の捉手を着けてある。ところで、右の捉手は向ひ合ふた双禽形をして、それが嘴を合せた如何にもむつましげな鴛鴦と見ゆるものを、巧みに表出して居り、生々としたその小さな細工が注目されるのである。器體の飾りは両面にそれぞれ一種の八花形を作って、その葉状の部分に青石と玻璃とを交互に嵌入する。そして作りは割合に簡単であるがしっかりしている。」と述べられています。この鈴の扁円形の形状は、山東省莒県双合村漢墓で鍍金銅馬や細金細工とともに出土した鍍金銅鈴(扁円形で同心円文があり、つまみがつく)と形が似ており、所謂単口鈴では確認しうる最古の遺品です。後漢代に鈴の原形が出来、魏晋代に退化する過程で形態が確立し、それが鮮卑を介して朝鮮や日本にも伝わったと言えそうです。




296. 明解の数々・・・ 赤猪子  2002/10/07 (月) 23:17
たかが<龍の爪>されど<龍の爪>・・・興味津々ワクワク拝見しました。漢・宋・元ですか? 日本は古墳出土品から3爪で、現代の神社の手水龍にいたるまで3爪・・・中国に対する遠慮?配慮?
律儀な日本人。でも・・・5爪って特別の意味ありそうですね<木火土金水>思想とか・・・ 台湾は4爪・ネパールも4爪。トプカプ宮殿の大皿は?爪・・・みき子さんがおっしゃるように、素人の私はあっちこっちでせっせと数えます。さわらびYさん、お薦めの本読んでみます。




295. 龍のツメの鍵は中世にありそう さわらびY(ゆみ)  2002/10/07 (月) 00:03
これ以上レパートリーを広げまいと思っていたのですが、掲示板の白熱した面白い「竜のつめ」論争に引き込まれ 図書館で、林義勝「龍伝説」、荒川紘「龍の起源」、池上正治「龍の百科」と3冊も借りてきてしまいました。
「龍伝説」は写真がいっぱい。「龍の起源」は世界文明や民族と龍の関係が面白そう(「天皇は龍を避けた」など)、「龍の百科」は、中国・日本の歴史の中で捉えていてこれも面白そう。
「龍の百科」には爪についてひとこと載っています。
「龍のツメの数について注目したい。龍のツメの数には「規定」がある。一般論でいえば、漢代が三本、宋代が四本、元代からは五本である。 ・・・ 十三世紀の元以降、五本のツメの龍があれば、それは皇帝専属の窯の作品である」
逆説的にいえば、古代はすべて皇帝のために生産する工房しかなかったのに、宋のころからは、皇帝用以外にも龍のデザインのものを作ったり持ったりできたというころかしら。
鍵は中世にありそう。中国で買ってきた図録をせっせと見てみましょう。

ところで、今日、「隋唐洛陽城〜含嘉倉〜洛陽博物館」のページをUPしました。お待たせした洛陽の「三角縁神獣鏡」についても、最後の下のほうに載せてあります。
そのうちTが、「三角縁神獣鏡」について、一言でも二言でも、言いたいことを書くでしょう。
鏡の画像は博物館の図録から600%(165KB)でスキャナーしてありますので、必要な方には添付メールでお送りします。

管理人から追伸。昨日またまたHPの契約容量を超してしまい、とうとう40MBにしました。今まではアルバム類を削除したり、画像のサイズを小さくしたりしてやりくりしてきましたが、これからはちょっと余裕がありそうです。今後ともよろしくお願いします。




294. ついなんでも気になって みきこ  2002/10/05 (土) 23:56
さわらびT様
6世紀になると出土しなくなる帯金具。稲荷山古墳の鈴付帯金具も含め日本出土の帯金具の多くが龍文なので気になっていたのと、藤井康隆さんが「古墳時代中期から後期における金工製品の展開」で帯金具を製作技法、文様でU群V群に分類され、文様の変遷を詳しく述べられていて、京都・穀塚古墳の龍が四爪の様に見えたのです。(虎のようでもある?)それで興味をもったのです。他のものは爪まではわかりませんね。「兵庫宮山、福岡楓山古墳、遼寧、吉林省以外(龍文ではない)の日本の帯金具の故地を中国南朝」と結論されています。帯金具をはじめ金工製品の系譜を遼寧省、高句麗に求める意見が多い中でどうなんでしょうね。




293. 龍の爪の数 さわらびT  2002/10/05 (土) 00:06
赤猪子様
ようこそ、おこしいただきありがとうございます。西嶋先生の冊封体制論については、まだまだ議論の余地はあると思います。私の場合、むしろ、足利義満が「日本国王」に任じられたことが、ポイントになっているかもしれないなと考えたことがありました。「冊封」は隋唐時代というより明清時代の用語という指摘もありますね。

「龍と言えば、中国の龍は五爪、日本だと三爪、朝鮮半島は一本爪もみられますよね。僕はここにもバックグラウンドを見ていて、この龍の爪の数って、それぞれの国の身分を表しているものなんですよ。日本では北斎や横山大観を始めとして画家はみんな龍を三本爪で描くんです。五爪の龍を誰も描きません。日本の龍には五爪の龍を描いてはいけないという暗黙の了解みたいなものがあったんですね。僕はこれが腹立たしいんですよ。五爪というのは人間に転化できるもの、つまり皇帝が転化したものなんです。だからこその五爪なんですね。日本の龍というのは皇帝の化身ではないから五爪を持てない。それを知ってか知らずか、左甚五郎も北斎も大観も三本爪の龍を描いてしまう。実は日本の龍って屈辱的な絵なんです。」(明石散人・高橋克彦『日本史鑑定』、1999年、徳間書店、明石散人氏の発言から)

みきこさんのように、龍の爪にこだわられる方っているんですね。気がつかなかったけど・・・




292. 私もそう思います みきこ  2002/10/03 (木) 23:52
赤猪子様
そういえば、魏志倭人伝に書かれていましたね。魏から倭は「絳地交龍錦五匹」もらっているのですよね。たぶん三爪だったでしょう?なんて勝手に思っています。天に昇る龍ー全宇宙を支配する天帝の象徴らしい・・シルクロード展でみた馬蹄形のホ具の大きな龍1頭と小さな龍7頭ーについて帯金具の研究で有名な町田章さんは「漢の辺郡、属国に限って分布する傾向があり、漢の政府が辺郡、属国の官人、王に対して身分を象徴する一種の勲章として贈与した」と述べておられます。当初はそういう意味があったのではと思ってしまいますよね。中国王朝の王に残る五爪のこだわりと伝統、近い人は四爪、それ以外は三爪かな、なんて。私達は日本の帯金具や、馬具、太刀の龍の爪をせっせと数えましょう。そういえば誉田丸山古墳の鞍の龍は三爪だったような・・・




291. 僭越ですが・・・ 赤猪子  2002/10/03 (木) 00:01
龍の爪。ずっとずっと気にしてました・・・まったくの素人考えですが爪の数は中国の柵封制度?体制?と関係あるのでは?どうでしょうか?
ルーツは<金印のあり>かな? 駄目?




290. お帰りなさい みきこ  2002/10/01 (火) 22:52
桃崎先生お疲れ様でした。さわらびT、Y様お帰りなさい。桃崎先生のご講演の内容、後日詳しくお教えくださいませね。鎌倉国宝館での特別展行ってみたいですね。実物を見ていないのでなかなか理解できず・・です。




289. ご清聴ありがとうございました 桃崎祐輔  2002/09/30 (月) 23:41
さわらびご夫妻様

西大寺の戒律文化研究会では、当方の拙い話を熱心にご聴講いただき、また過分のおことばをいただきありがとうございます。
 本当はもうすこし専門性の高い話をしようかと思っていたのですが、会場を見渡して少しくだけた話にしたほうが良いかなと思って抑え気味にしましたが、やや中途半端な話になってしまったと反省しております。
 しかし学生時代から尊敬していた木下密ウン先生や上田さち子先生と親しくお話出来て非常に楽しい時間を送ることができました。
 ただ松尾先生とは、懇親会でも意見は平行線に終りました。
 今回のレジメ作成では、実地踏査で内容も確かなこちらのHPの内容もずいぶん参考にさせていただきました。ありがとうございます。機会があればもっと詳細な東国律宗の展開について、時間をかけてお話できればと思っております。

 ちなみに土曜日の夜には文京区役所で「文化財と技術の研究会」の発表を行いました。ネタはシルクロードの会の内容に若干の補綴を行ったものですが、金工史家の鈴木勉先生から、誉田丸山古墳2号鞍とラマ洞UM101号の鞍は、形やデザインは同じでも龍文の彫り方に差があり、誉田丸山の鞍のほうが良い出来だとうかがいました。金工の奥深さを痛感しましたが、松林先生をはじめ誉田丸山鞍の復元にあたられた金工職人(江戸っ子)のかたがたも、自分たちが手掛けた馬具の来歴がわかったと喜んでくださいました。今後も研究に精進したいと思います。




288. 29日桃崎先生ご講演の速報 さわらびY(ゆみ)  2002/09/30 (月) 21:27
 みきこさんほか桃崎ファンのみなさま、お待たせしました。
 29日奈良での桃崎先生ご講演の速報です。
 西大寺で行われた「戒律文化研究会」での「律宗系文物からみた東国の律宗弘布の痕跡」というテーマのご講演は、考古学から中世東国の律宗弘布のポイントを復元する試みについて、桃崎先生らしいさわやかな語り口で、科学的な説得性のある内容でした。
 三村山五輪塔調査での感銘から律宗研究へ取り組まれたいきさつ、例の「西大寺様式巨大五輪塔と階層様式」の図(いつ見ても名作ですよね)について、特に関東と関西の大きさの序列の違いについても大和という場所柄、丁寧にお話くださいました。
 膨大なレジメに対し、ややゆっくりしたテンポで時間内に終わるのかしら、と思っていましたら後は、律宗系の瓦文様のルーツや沼津霊山寺の調査、行基・鑑真・徳一上人への崇敬と思慕が残した律宗教団の宝篋印塔や寺院縁起、丸彫りの石仏など新知見を織り交ぜながら、とてもわかりやすく要領よくまとめられ、さすが聴衆を惹きこませる名講演でした。
 松尾剛次先生、吉井敏幸先生など宗教史の大家の講演も内容的には面白かったのですが、話し方が速すぎたり、時間オーバーになったりで、結局桃崎先生が一番良かったです。

 先生は日帰りなのに、私たち3人(夫婦+友人)は2泊3日で何をしていたかですって?
27日はhttp://www.narahaku.go.jp/exhib/2002toku/saidaiji/saidaiji-1.htmにある「大和国西大寺与秋篠寺堺相論絵図」のポイントを探して現地を歩き、28日は午前中、奈良博の特別展、午後はお知らせ欄(TOPからはずしましたので、http://homepage1.nifty.com/sawarabi/sinpojiumu.htmを見てください)の28日のシンポジウムに出て、その間に西大寺はもちろん法華寺や元興寺、佐紀古墳群を見学したりととってもパワフルに動き回っていました。
 西大寺の釈迦像、叡尊の五輪塔、元興寺の行基瓦が拝観でき感激でしたが、西大寺の文殊菩薩騎獅像と四侍者像が、鎌倉国宝館に行ってしまって、特にあのかわいらしい善財童子像に会えなかったのは残念でした。
 今年は忍性700年遠忌ですので、鎌倉国宝館で下記の特別展があるので、そこでまた再会できるのを楽しみにしています。
 特別展「極楽寺忍性ゆかりの遺宝−奈良から鎌倉への軌跡−」: 平成14 年10月4日(金)〜11月17日(日) 鎌倉国宝館 (鎌倉市雪の下 鎌倉八幡宮境内)




287. ありがとうございました! 利時  2002/09/30 (月) 12:43
桃崎裕輔さま。
レスありがとうございます。
『かくれキリシタンの聖画』ぜひ見てみたいです。私が興味を持ったきっかけはその「洗礼者ヨハネ」像だったのだと思います。なにかで見て、あまりのキッチュさに凍りつき「これはもっと見てみたい!」と思ったのです。他のご助言も参考にさせていただきます。

さわらびY(ゆみ)さま
わざわざアドレスまで書かせてしまってすみませんでした。私がよく見なかったのがいけなっかったんです。ご紹介の本、読んでみたいと思います。
「サンタ某のお地蔵様」かわいいですよー。お地蔵様はプレゼントのかわりに慈悲をくださるのですね。


お二人ともおいそがしいのにかかわらず、質問に答えていただいて恐縮です。ご好意を無駄にしないようにこれから勉強したいと思います。

これからもさわらび通信にうかがわせていただいていいでしょうか…?




286. 「カクレキリシタン」の資料について さわらびY(ゆみ)  2002/09/30 (月) 00:03

 管理人のさわらびY(ゆみ)です。
2 7日から29日まで、お知らせ欄にあるシンポジウム「荘園絵図と西大寺」と戒律文化研究会研究大会のため、奈良に旅行中で留守にし、先ほど帰宅しました。
 今日、戒律文化研究会で講演された桃崎先生が、「カクレキリシタンについてお問い合わせあり、お答えしておきましたよ」とおっしゃられたので、とても楽しみに掲示板を開けました。
 利時さま、お問い合わせありがとう。また本日奈良を日帰りされた桃崎先生、お忙しいところ御回答ありがとうございました。

 本日の中世律宗に関する桃崎先生の講演でもふれられておられましたが、宗教遺物の研究はやはり、その宗教の教義や宗教儀礼(そのための聖具など)を理解することが必須だと思います。
 私は日本史特に郷土史の調査に仏教を知る必要があったのですが、自分の生い立ちからカトリックの見方からのほうが理解しやすく、そのためには、ひろさちや著「仏教とキリスト教」(新潮新書)がどの入門書よりもわかりやすかったです。
この本は逆に、仏教からキリスト教の教義や儀礼を理解するためにも最適ではないかと思っています。
 『日本史をみつめた「聖母」たち』の参考文献や参考HPを「リンク」で載せてありますが、アイコンがわかりにくかったかもしれませんね。次をクリックして下さい。  
 http://homepage1.nifty.com/sawarabi/sann.htm
 このうち『カクレキリシタンの信仰世界』が、民俗学からのアプローチには最新の資料でしょう。
 そのほか、基礎的な通史として「椿を持つ聖母」の冒頭で紹介した五野井隆史著「日本キリスト教史」があると便利です。

 利時さんも「サンタ帽のお地蔵さま」がお好きとは、わたしとフィーリングが合う気がしています。
 今日は遅くに帰宅し、時間がないのでここまでにします。また本HPの御感想やお問い合わせをお寄せください。




285. 切支丹遺物 その2 桃崎祐輔  2002/09/27 (金) 11:35
また『滋賀考古』という考古学の雑誌では、京都市内から出土したキリシタン墓碑に関する論考がありました。
 また本のタイトルは忘れましたが、数年前、たしか長崎県教育委員会が島原の乱で有名な原城を発掘し、シンポジウムが行われ『原城の発掘』とかいうA5版くらいの本が出ています。そこには反乱軍の残した聖杯の旗のほか、出土した多数のメダルが収録されています。
また私の母校福岡県立城南高校では、むかし『離島調査報告書』をつくっていましたが、当初は長崎県下のかくれキリシタンのいる島の調査をもっぱらとしていました。長崎県の小さい島には聖画像が多数伝世しているはずなので、地図にある町のHPを探し、そこの文化財画像がないか探してみてはいかがでしょうか。またキリシタン遺物は骨董品として非常な高値がつくと聞いていますので、骨董関係のHPで検索したら画像があるかもしれませんね。
 以上この分野は素人ながら、管見の範囲を申し上げました。




284. 切支丹遺物 その1 桃崎祐輔  2002/09/27 (金) 11:22
利時様
ご存知かもしれませんが、中城忠・谷川健一編 1999『かくれキリシタンの聖画』(小学館 A4版202ページ 定価7350円)が絶対におすすめです。この本では長崎県生月島を中心とした聖画・メダイなどを数多く収録していますが、ここに出てくる例えば「洗礼者ヨハネ」像は、ちょんまげを結った役者顔の男が牡丹柄の和服を着流して赤い川のほとりに立っているとか、修験者かカラス天狗みたいな大天使ガブリエルが黄色い和服島田髷の女に告げる「受胎告知」、「デウス大仏」とか、脳味噌にガツンとくるような強烈な聖画が多数収録されています。この西洋聖画とは似ても似つかない聖画像を見てると、念仏や修験道と集合して土着化し、戦後カトリック復帰を拒否したという彼らの行動も理解できる気がします。あと古典的名著では京都大学の考古学報告の『切支丹遺物の研究』、刊行年は忘れましたが長崎奉行所から東京国立博物館に収監された切支丹遺物収録。織部南蛮人燭台は骨董品としても有名ですよね。あと保育者カラーブックス、森浩一著『考古学入門』には、京都南蛮寺跡から出土した硯の線刻画の写真があり、帽子を被った西洋人風の男が蝋燭消しの竿?を持っている奇妙な宗教儀式?が描いてありますが、全く同じ図像で、茨城県土浦市の墓地から出土した柄鏡が寺島誠斎遺稿集『土浦市備考』のどれかの巻に収録されていた覚えがあります。また大分県で先日戦国時代のキリシタン墓地が見つかり、大阪府高槻城についで2例目となりましたが、大分県の大友氏関係の特別展図録では、しばしば切支丹遺物も展示されているようです。




283. はじめまして 利時  2002/09/27 (金) 10:40
はじめまして。
検索を続けるうちにこちらまで来ました。
管理人の方がまじめに対象に接していらっしゃって、素敵なHPだと思いました。
個人的には寒中見舞いのサンタ帽被ってる地蔵が1番好きです・・・。

私は今度カクレキリシタンについて調べようと思っています。彼らの礼拝している物体を宗教画、像として見るという、美術的なアプローチをしたいのですが、なかなか資料があつまりません。いきなりのお願いでずうずうしいとは思いますが、もしよろしかったら参考になるような本など教えていただけないでしょうか?勉強不足なため、民俗学、社会学の方面から見たカクレキリシタンについてももっと知りたいのですが・・・。よろしくおねがいします。

突然きてこんなことを書き込んで、すみません。もしご不快になられましたら削除されてください。




282. 『筑紫君磐井の戦争』 さわらびT  2002/09/26 (木) 18:40
みきこさんも山尾先生の本を読んでおられるのですか。『筑紫君磐井の戦争』(新日本出版社、1999)は、「石母田正批判」などが大胆に書かれているだけにかなり刺激的ですが、いわゆる「任那」関連での新たな知見も示されていました。「「任那問題」とは加羅の歴史なのだ。いかに痕跡が乏しいとはいえ、まずもって加羅の立場から見るべきだ。強くそう思うようになった。」(p152)
山尾先生は、視点を変えることで529年に大加羅王自ら倭王に援軍要請した事実が見えた、とお書きになっておられます。この本が出版された当時、ご講演を拝聴しましたが、この話もされたと記憶しています。「若い研究者の批判」により「任那問題」を考え直したとも書いておられます。
田中俊明氏の『大加耶連盟の興亡と「任那」』(吉川弘文館、1992)に、継体23年(529)条の分析があります。(p225)新羅と大伽耶の関係は、いったんは婚姻同盟を結んだものの破綻をむかえるわけです。倭は近江毛野臣を安羅に派遣するとあります。これは新羅の金官国侵攻に危機を感じた安羅が派遣を要請したからではないか、と田中氏は書いておられます。この指摘を受けて山尾先生は大加羅王からの援軍要請があったことをみとめられたようです。「百済側の史料を過度に評価するのは問題である」と山尾先生を批判、そして山尾先生がこの批判を受け入れたことになります。

龍の爪のことは、よくわかりませんが、規制があったとしてそれは強制によるもの自主規制なのか、どうなのでしょう。




281. ご報告楽しみに待っています みきこ  2002/09/25 (水) 20:55
桃崎先生、皆様、奈良でのご活躍お祈り(?)いたします。楽しいご報告お待ちしています。T様にお尻をたたかれシルクロード展行ってきました。せっせと龍の爪数えてきましたよ。金細工のすばらしいこと本当に感動しました。ホータンの四神双鳥木棺の龍は三本爪でしたね。トゥルファンの連珠双龍文綾の龍は四本爪のように見えました。そういえば、「なんでも鑑定団」で、中国王朝最後の王一族の服が出ていましたが、五本爪の龍のすばらしいものでした。やはり、規制があるように思いますけど・・・今、山尾幸久著「筑紫君磐井の戦争」にはまっています。




280. Re: 鷲神社祭礼 さわらびY(ゆみ)  2002/09/24 (火) 23:27
先崎からの鷲神社祭礼の情報をありがとうございました。
静かな村がさぞにぎやかな一日になることでしょう。
貴兄のhttp://www2u.biglobe.ne.jp/~W730688M/index.htm
「鷲神社最新情報」も「印旛沼周辺風景模様」もすばらしいですね。
またよろしくお願いします。




279. Re: 平田寺の仏具と新安海底文物 さわらびY(ゆみ)  2002/09/24 (火) 23:17
 桃崎先生
 新安沈没船の文物についての情報をありがとうございました。
 21日の「中世の龍角寺」このレジメの「大縁起」で「承久二年、平常秀が寺の荒廃を嘆き、唐船一艘をたてて、本堂を建立した」という記述がありますが、これは復興資金稼ぎの貿易船だったとのことでした。「ベニスの商人」のように、無事船が帰れば一攫千金、でもリスクも大きかったでしょう。
 金沢文庫の金沢顕時の骨壷は形も青磁の色もとても良いですね。
 10月からの国立歴博の「中世寺院の姿とくらし」では、「禅僧の世界と外交」のコーナーで書画を中心に「舶来品」がでるようです。
 ローカルな郷土史や民俗を調べていても、インターナショナルな視点は必須のように思え、仕事の帰り、京成八幡駅前の歴史や美術専門の古本屋で、「カラー版東洋美術史」などの本を買ってきました。まずは図版で目をならしたいと思っています。
 韓国の光州博物館もいつか行ってみたいですね。




278. 鷲神社祭礼 mwara [URL]  2002/09/24 (火) 12:31
こんにちは;鷲神社祭礼の日取りが決まりましたのでお知らせいたします。平成14年11月3日(日)文化の日です。式典は9時より行われ、その後写真撮影等行い、お神輿は10時半ごろ出陣となります。休憩場所は5ヶ所で、休憩ごとに接待があり、八木節の民謡に合わせ花笠踊り等が披露されます。神輿のご紋は徳川家のものであり、伝統的な祭典ですので是非ご覧下さいますようご案内申し上げます。




277. 平田寺の仏具と新安海底文物 桃崎祐輔  2002/09/24 (火) 02:53
このところ原稿に追われて大学に泊り込む日が続いていますが、今日はひさしぶりに図書館で本を読み漁っていて面白い発見がありました。
 先日静岡県相良町で実測してきた鋳銅製の仏具類は、禅宗寺院で使われる三具足(花瓶・燭台・香炉)の変形したセットでしたが、このうち中国古代、殷周時代の觚(コク、酒器)を模倣した口がラッパ状の花瓶、觶(シ、飲食器)を模倣した筒状の耳がついた扁壺、錫杖のようなリングを下げた蕪形の耳付瓶、三足香炉類のいずれも、韓国木浦に近い新安沖の沈没船の引き上げ文物の中に似たものが含まれていたのです。新安沈没船は、14世紀初め頃、中国の寧波あたりを船出して、日本に向かう途中沈没した船で、古瀬戸の瓶子や将棋の駒、日本刀の鍔なども見つかっているため日本人の船員も乗っていたようで、木簡の記載から京都東福寺のチャーター船だったと推定されています。この船からは引き上げられた青磁や青白磁には、金沢文庫の金沢顕時墓の骨壷(青磁酒会壺)や東福寺出土香炉と似たものも含まれていることがよく知られており、陶磁器の年代研究上の重要資料となっています。金沢文庫古文書によれば、称名寺や極楽寺はしばしば造営船を派遣しており、律宗寺院では中国の青磁や書画、文房具や茶器など唐物のオークションが行われていたそうなので、きっと鎌倉時代の律寺には、新安文物のような高級陶磁器が並んでいたことと思います。
 平田寺の仏具が新安遺物の14世紀はじめに近い年代とすれば、開山龍峯宏雲和尚が元の留学から帰国した13世紀末に持ち帰った品物の可能性が高く、年代の明らかな資料として、仏具や中国の金属器研究の上で基準資料となりそうです。新安文物の一部は、日本でも数回展覧会が行われて見学する機会がありましたが、人気の陶磁器ばかりで金属製品はあまり展示されませんでした。新安の遺物は現在韓国の光州博物館に展示されているそうなので、いつか見物に出かけたいと強く思いました。




276. 『中世の龍角寺』の講演会に行きました さわらびY(ゆみ)  2002/09/23 (月) 16:13
 この掲示板も古代史の討議で最高に盛り上がっていますね。
興味深く拝見していますが、私は今はなにせこれ以上の「多角経営」は慎みたいと決意?していますので、誘惑に負けず、楽しく読ませていただくだけにします。
 皆様、桃崎先生、どうぞさらにこの討議をすすめてください。

 私は植野英夫先生の『中世の龍角寺』の講演会をお聞きしに、友人と房総風土記の丘まで行ってきました。
 八千代から印旛村を抜け途中、松虫寺に寄って彼岸花を撮影し、TOPページに入れました。以前よりだいぶ明るくなりましたが、由緒のあるよいお寺ですね。(ここの伝承は「THE印旛村」http://www.inbamura.com/matumusihime.html
をご覧ください。)ただ、ニュータウン開発で行く度に道が変わっていて、つい入り口を通り過ぎてしまいます。印旛村郷土資料館で道を聞いて行ってよかったです。

 植野先生のお話は丹念に称名寺文書などの文献に当たられて、中世の談義所だったころ近隣の僧が滞在したであろう周辺の坊を、現在残っている小字や通称地名で再現しようを試みられていることに興味がありました。
 また今は空襲でなくなった「龍角寺大縁起」全文を資料として紹介されていました。
 一般には、もっぱら雨乞いの龍伝説の由来に活用されている「縁起」ですが、14世紀末、印西が一時円覚寺領であったころの禅宗の用語(監寺=カンス、庄主=ショウズ)があることや、15-16世紀の大檀那の名前(松崎村湯浅治部卿・千葉勝胤)などで、中世のこの地域の支配状況などを分析されて、さすがと感じました。
 律宗系寺院の瓦が出てもよさそうなのですが、文献では中世は「茅葺」だった由、なかなか遺物は見つからないようですね。

 また『図説房総の城郭』刊行を記念して11月10日千葉大学けやき会館で講演される予定の井上哲朗先生が、風土記の丘資料館上席研究員としてこの日、司会されておられ、龍角寺まで御案内いただき、途中お話ができたのもうれしかったです。
(井上先生講演の予定はリンクの「千葉城郭研究会」HPに載っています)

 どなたか中世史(郷土史でも)がお好きな方いらっしゃいませんか。よかったらぜひこの掲示板にご訪問ください。




275. 栄山江流域の前方後円墳について さわらびT  2002/09/23 (月) 16:11
桃崎先生
栄山江流域の前方後円墳についての議論、並びに興味深い最新情報ありがとうございます。私がこの問題に関心を持ったきっかけは、朝鮮学会創立50周年記念シンポジウムのレジュメを入手したことでした。被葬者問題に決着がつくかは存じませんが、背景として倭の五王の称号にある慕韓の実在、「任那四県割譲」問題への解釈などがからみ興味をいだかせてくれます。常に論議されるところですが、「任那日本府」問題は避けて通れないわけで、日韓研究者の間には真摯なやりとりがあっただろうと想像するのみですが、冷静な議論を期待するものです。

東潮先生の説は慕韓・秦韓の実在を前提にしている点、「任那四県割譲」を書紀の倭から百済ではなく、百済による領有化と解釈している点などについて山尾先生は反対意見をお持ちだということに関心を持ちました。東先生は被葬者問題に関連して「5世紀後半、日本列島内外において政治的・経済的変革があり、九州の諸勢力が栄山江流域に大量移住するような背景があった。栄山江流域の前方後円墳はそうした国際環境のなかで、倭(倭韓)集団の墓制として」築造されたと当日レジュメにお書きになっておられます。ただし出版された『前方後円墳と古代日朝関係』に収載された文章はニュアンスが違うように思います。

諸先生はそれぞれ独自の歴史観をお持ちですから文章の一部だけ取り上げるのも申しわけないですが、東潮先生の議論は韓国側に少し配慮しすぎるような気もします。山尾先生はそこをついているのかとも思っています。先日奥野先生の講演を拝聴した折、栄山江流域の前方後円墳の被葬者問題に触れて、倭人の墓説の60メートルもあるような墳丘は王墓である、倭人が韓国に渡って首長になることはありえない、だから東説は間違いだとおっしゃっておられました。多少わかりにくい説明ですが、前方後円墳だから倭人の墓という短絡的発想はまちがいだというお考えのように感じました。

いずれにせよ、倭と百済・新羅・加耶の交流・政治的緊張をどう見るかが5〜6世紀史を考える上でのポイントですね。

桃崎先生からは、宮崎でのマキムク型古墳かつ木槨墓の発見というご指摘もいただき、古代の探求は難しく奥が深いと考えさせられました。




274. 鈴について みきこ  2002/09/23 (月) 10:57
ここ3年ほど埼玉・稲荷山古墳の被葬者の実像に迫ろうと副葬品等の代表的な論文を読んできました。画文帯神獣鏡の分布からは宮崎持田古墳群を介して熊本江田船山古墳との関連が考えられ、鉄鏃の一部が福岡浦谷古墳群の一部と似ていること、町田章氏帯金具の分類では江田船山、大谷、京都穀塚、福井西塚古墳と共にUbのタイプに入る事を知りました。日本出土の帯金具20数例(?)ほどの文様はほとんどが龍文で、新羅の王陵クラスのは双葉、三葉文で、日本で双葉、三葉文の文様を持つのは、新沢・千塚126号墳と岡山・一本松古墳ぐらいだということを知りました。帯金具が5世紀後半〜6世紀前半にかけての時代の政治的な立場を表現しているのかと思って興味があったのです。これらの古墳の副葬品を調べていくうちに、やたらに共通して鈴付馬具や、三環鈴、鈴が出土していることが気になりました。勾玉を縄文以来の日本の祭祀のシンボルとするならば鈴は渡来系の祭祀のシンボルなのかと思ったり、鈴を出土する古墳は単純に鈴で結ばれた同族なのかと考えたりしていました。桃崎先生には鈴について詳しく教えていただいて感謝しております。「鈴製品の愛好をシャーマニズムや東国志向に帰納するのではなく、鳴り物の拡散は、中国東北地方の鮮卑系馬具の拡散過程の一環とみたほうがよい。当時の東アジア全体の中で位置付けなければ理解できない」と教えていただいて、霧が晴れたように道が見えてきた気がします。本当にありがとうございました。




272. 韓国の前方後円墳の研究現状 桃崎祐輔  2002/09/22 (日) 16:48
韓国の全羅南道、栄山江流域の羅州周辺で見つかっている前方後円墳については、現在大きく分けて3つの議論があるようです。@全羅南道の前方後円墳は、朝鮮半島に進出した倭人の墓である(柳田康夫など。任那日本府説を前提とする)A全羅南道の前方後円墳は、馬韓(慕韓)の在地勢力が、倭(特に九州)との通交関係でその墓制を受容したものである(吉井秀夫など)B全羅南道の前方後円墳は倭人の墓である。しかしそれは任那日本府のそれではなく、百済が馬韓地域に政治支配を拡大するにあたってその尖兵となった倭人(特に九州)の残したものである(朴天秀など)。
このほかC前方後円墳は、のちに倭を征服した騎馬民族がその故地に残したものである、あるいはこの地域の前方後円墳が列島に伝わった(奥野先生?)。
Cについてはトンデモ説の類ですが、しかし最近、韓国で3世紀に遡る土器を伴う前方後円墳が見つかったという話もあり、いますこし静観したいと思います。たぶんA説とB説が妥当な線だと思います。
栄山江流域は、@大型の甕棺を伴う方形・三角形などの不整形墳丘墓。遺物はきわめて少なく馬韓の在地墓制と考えられる。4〜5世紀か。→A甕棺に百済製の冠帽や環頭大刀が副葬される段階。馬韓が百済の政治支配に組み込まれはじめる。5世紀後半〜→B百済式の横穴式石室が出現する段階。前方後円墳はこの段階で加わるらしい。石室には甕棺を納めるものと木棺を納めるものとがある。新しい段階では百済の身分標章である銀花冠飾をしばしば伴う。百済の南遷に伴う地域支配の強化、倭政権との交渉活発化を反映すると考えられる(6〜7世紀)。

 あと面白い情報があります。宮崎県宮崎市の沿岸砂丘地帯にある檍(あおき)遺跡は、宮崎県最古の弥生前期の土器や壺棺が見つかったことで知られていますが、最近ここで古墳時代はじめ、3世紀後半頃のマキムク型古墳(箸墓のような完成形になる以前の寸詰まりな前方後円墳)が見つかったそうです。更にその主体部は、岡山県の楯築遺跡や奈良県のホケノ山古墳と同じ木槨らしいのです。ひょっとして神武東征伝承の背景には、古墳時代初頭の日向の勢力が、ヤマト政権成立に重要な役割を果たした経緯があるのかもしれません。なおこの古墳群では、6世紀代の殉葬馬がたくさんみつかっており、そのうち1頭には金銅製の豪華な馬具を装着していたそうです。

 



271. 『シルクロード 絹と黄金の道』開催中です さわらびT  2002/09/22 (日) 15:56
東京国立博物館で下記の特別展が開催されています。
『日中国交正常化30周年記念特別展 シルクロード 絹と黄金の道』
会期:2002年8月20日(火)〜 2002年10月6日(日)
新疆(しんきょう)ウイグル自治区の金銀製品や絹織物などが出品・展示されています。

http://www.tnm.jp/doc/Guide/Dyn/eten/eten19.html

昨年訪れた新疆ウイグル自治区博物館から多数の出品があります。このシルクロード展で興味深かった1点をあげます。みきこさんも興味がおありかと思いますが、出品番号25の金製帯金具のことです。龍文がまばゆいこの帯金具は実用ではないこと、類似品として朝鮮半島北部から1点、出土地不明2点があるとのことです。実はまばゆすぎて図柄がよくわからなかったので図録であらためて見たのですが、龍がたくさんいるらしいことだけはわかるのですが・・・

「金製帯金具 1個 焉耆回族自治県ジングダ墓地 漢時代・1〜2世紀 新疆ウイグル自治区博物館」(昨年、現地で購入した『新疆文物古迹大観』の186頁にも載っていました。漢代の遺物と紹介されています。)

図録の補足資料には、この出土物の発見の経緯について『文物』の論文を紹介していますが読めないので残念。さらに日本での、金製帯金具の研究として、次の文献があると紹介しています。機会があれば目を通してみたいです。

志賀和子「漢代『北方系』帯金具稿-金銀打出金交季語具について-」(上)(下)『古代文化』第46巻第7・8号  




270. 『前方後円墳と古代日朝関係』 さわらびT  2002/09/22 (日) 00:26
あまり掲示板向きの話題ではないかもしれませんが、山尾幸久先生の研究についてのことの続きです。Noriさんからの提案にお答えするためにも、少し考えてみます。

最近まで、気付かなかったのですが『前方後円墳と古代日朝関係』(同成社、2002年)が出版されていました。一昨年10月に天理大学で開催された朝鮮学会創立50周年記念シンポジウムの記録集です。(テーマは、韓国の「前方後円墳」をめぐる諸問題)

私はこのシンポジウムには出席しなかったのですがレジュメ集を入手しておりましたので、関心がありましたが、この本には山尾先生のレジュメが文章化されていました。

山尾先生の思考を理解するのは文章を読む限りは至難の技ともいえますが、とりあえず引用します。(p305)

「古墳や古墳群は、先ず以て、それぞれの歴史的地域または政治経済ブロックの、流動的で具体的な交流関係の個別性において捉えること、多様性や差異性の個別化把握を志向すべきでないのか。一躍、列島規模で、斉一性・画一性で意味付けて「体制」などと言うのは、危うすぎる。韓国の前方後円墳を理解する上で、これは前提である。」

「前方後円墳体制」論を批判されているのでしょうか。考古学から提唱されたこの論に文献史学からの批判でもありましょう。『日本書記』が一つの世界を語っているのに、さらに私たちは独特の「山尾ワールド」を読みとおさねばなりません。

「古墳時代の考古学の、不知不識の裡の、『記』『紀』に当て嵌めた資料解釈への不信は、筆者の場合洵に拭い難い。」

韓国の前方後円墳をめぐる議論が一体何のためになされるのか、そこから問う必要があると教えてくださっているのだと思います。この掲示板258『山尾先生と「渡来人」』で引用したや山尾先生のお考えに直結しています。

『日本書紀』の「任那支配」史を批判するにあたって「観念の実体化認識は避けよ」と書いておられます。これは「文献学的研究では最も初歩的な常石に属する。」とのことです。わかりづらいのは山尾先生の文章と格闘する場合はやむを得ません

さていよいよここから先がNoriさんがおっしゃられた『日本古代王権形成史論』での分析に入ります。『神功紀』46年〜52年の「任那支配」成立記事の吟味ですが、字数の関係で残念ながら「続く」です。




269. Re: 戒律文化研究会のレジメできました さわらびY(ゆみ)  2002/09/20 (金) 23:40
桃崎先生
「東国の律宗のレジメ完成お疲れ様でした。確かに「かなり膨大な量」で、50分の講演時間でどうお話しになるかそれもまたたいへんそうですね。みきこさんから「奈良ではしっかり応援してきて」とエールをいただいていますので、奈良でお会いするのを楽しみにしています。

私は、八千代歴研機関誌「史談八千代」の原稿「高津新田の民俗行事」を書き終わり、明日は「中世の龍角寺」の講演を聴きに行って来ます。
HPの「忍性」シリーズも素材と構想はいっぱいたまっているのですが、八千代歴研の共同研究が佳境に入っていて手を抜くわけにいかず、このシリーズは桃崎先生のご研究の後を追いつつ、気長に楽しみながら作っていきたいと思います。
本当は「西安・洛陽旅日記」HPづくりで遊んでもいられないのですが、楽しんで下さっている方のメールもあり、また続きをぼちぼち作り始めました。
「多角経営」もちょっと限界かななんて思ったりしますが、どれも面白くてハマルと抜けられそうもなく、週末も「歴史に好奇心!」(HPの副題)三昧になりそうです。
ではまた、奈良で。




268. 戒律文化研究会のレジメできました 桃崎祐輔  2002/09/20 (金) 18:12
15日〆切だった戒律文化研究甲斐のレジメが遅れ、今朝やっと送りました。例によって当方の悪い癖で土壇場になると急に凝り性がアタマをもたげてしまい、また粘って遅くなってしまいました。
 使い回しに水増しもしたのでかなり膨大な量(B4版本文9、図版14)になってしまいました。これから講演でどう話すか考えたいと思っています。
 しかしまだ研究会レジメや論文原稿が山積み。無事に10月を迎えられるか不安です。




267. ようやく少しわかってきました みきこ  2002/09/17 (火) 21:59
清涼寺式釈迦如来ってすごくきれいなのですね。山と星雲と仏像の写真をべたべた部屋に貼って癒しを求めていた中学生時代。仏像って造形的に癒されますよね。動乱の時代には癒しが求められるのかなと思っていました。知り合いが中国の小金銅仏を持っている影響かその美しさに惹かれ、「中世の霞ヶ浦と律宗」を購入した際、五胡十六国時代の小金銅仏の写真集「中国古式金銅仏と中央・東南アジアの金銅仏」和泉市久保惣記念美術館1988も購入しました。こんな小さなものをどうして造ったのだろうって思いますよね。広めるために運びやすくしたのでしょうか。




266. 『中世の龍角寺』講演会 さわらびY(ゆみ)  2002/09/15 (日) 20:28
千葉県立房総風土記の丘で植野英夫先生(国立歴史民俗博物館)の講演会があります。
9月21日(土) 午後1時30分からでテーマは 『中世の龍角寺』。
講演会終了後、龍角寺の特別拝観ができるそうで「薬師如来坐像」が見られるとか。

それまでに八千代歴研の「史談八千代」の原稿が書き終わっていたら、行くつもりでいます。(でも書けるかしら?)
もしかしたら「忍性がたどった中世の風景」の9.「古代寺院竜角寺の中世」を書き換えられるお話が聞けるかも、とちょっぴり楽しみにしています。





264. 『天皇考』に津田左右吉自筆の書きこみ さわらびT  2002/09/14 (土) 19:33
9月13日のシルクロードの会「天皇号の成立と東アジア」はタイトルも魅力的でしたが、講師の増尾伸一郎先生(普段は「先生」と呼ばないでほしいとおっしゃいますが、昨日は「先生」でしたからこう呼ばせていただきます。)のお人柄のにじみでた清々しい講演会でした。これまでの研究をなぞっただけだと謙虚におっしゃいますが、研究史を丁寧にお教えいただいた上で、大事なテーマの理解の助けになる重要なお話でした。

「天皇号の成立」時期は天武・持統朝、国号「日本」と軌を一にした政策であること、唐の高宗が「天皇」を称した674年をさかのぼらないと明言されました。この改称を「日本」が知る可能性にも言及されました。詳しくは『東アジアの古代文化』106号に掲載の「日本書紀の編纂と天皇号の成立」を読みましょう。大和書房から出版の『聖徳太子の実像と幻像』にも収載されています。

講演で興味深かったのは、早稲田大学中央図書館に所蔵されている『天皇考』(1920年)には、津田左右吉氏の自筆による書きこみがあったと資料をつけて話されたことでした。今から約80年も前にいくら研究とはいえ、いや学問であればこそかもしれませんが「天皇」をテーマに取り上げたことの大変さはあらためてすごいと思いました。斜線や×があるのは津田氏自身によるものなのでしょう。緻密な研究成果にも満足せず津田氏は書き直そうとしていたようです。

書きこみは中断され「以下別本へ」となっています。その「別本」は早稲田の図書館のどこかに眠っているのでしょうか?まだ発見されていないそうです。




263. Re: 巨大五輪塔 さわらびY(ゆみ)  2002/09/14 (土) 11:00
桃崎先生
 レジメ締切りでお忙しいところ、五輪塔についての情報をありがとうございました。
 土浦市宍塚の般若寺は、1月に三村山の帰りに寄ったのですが、巨大五輪塔を探せないうちに日が暮れてしまいましたので、7月霞ヶ浦町柏崎の発掘現場の帰路、またまた行ってみました。
 境内の外にあった五輪塔はなかなか探せなくて「中世の霞ヶ浦と律宗」の写真の載っているページを(綴じ目がばらばらになってもはやシート状態なのです)祭りで神社にいた地元の方にお見せして、やっと探し出しました。手がかりは、バックに写っている建物でした。
 大きな木が台風で倒れていて、後ろ側から撮影しました。その画像を、PCトラブルで五輪塔データにUPし忘れていたことを、先生の書込みで思い出し、夜中にUPしましたが、一緒に写っているあの倒木は、その後どうなったでしょう。

 香取の海に面する般若寺はぜひ、詳しく見てみたいところです。ビシュカツマ作の仏頭に体をついで作ったという釈迦像縁起は、まさに八千代の釈迦像伝承のルーツのようですし、五輪塔の主、源海と無住が師弟関係とすると、たぶん私の律宗シリーズのラストはここ般若寺でおちとなる予感がします。(あちこち寄り道をしていますので、ラストはいつになることやら…)
 三村山の梵鐘の鋳物師の名をたずねて、日光の化け灯篭も見てきました。本当に般若寺をセンターにすると、下総から東北南部までの中世の交通がよく理解できるように思います。(龍角寺の木挽き坂は、日光からの木材を運んだ坂という)
 近くの不気味な佐野子五輪塔というのも、またご本尊もまだ見ていませんし、このお寺を皆さんにもご紹介したいので、先生がお暇になられたら、ぜひグループで見学させてください。

 岩清水八幡宮の6mの五輪塔というのは、先日、川戸彰先生は、どこにあるのかわからなかったとおっしゃっておられましたが、やはりあったのですね。
 宇治や奈良般若寺の塔もそうですが、律宗の石造物もやはり上方はすごいようですね。
 西大寺では、東国の律宗遺物のホットなニュースを、「西国」勢にまけずに展開してくださるよう、期待しています。




261. 巨大五輪塔 桃崎祐輔  2002/09/13 (金) 00:37
 こんばんは。皆様お元気でしょうか。
 こちらは大学の雑用にかまけて15日〆切の戒律文化研究会のレジメがはかどらず泣きが入っている状態で、使い回しの話しかできないのではないかと少々ひよっているところです。
 最近は清涼寺式釈迦如来よりも、その原形が製作された五胡十六国に意識がいっており、また律とも離れていたので、「中世とは何か」という本質的な問いが、いまひとつピンとこない状況から抜けられずにいます。皆さんをいちど、ぜひ土浦市の般若寺にご案内したいですね。清涼寺伝承も五輪塔も鎌倉時代の梵鐘も忍性の結界石もあり、近くには不気味な佐野子五輪塔もあります(もうごらんになりましたか?)。
 茨城でいちばん大きな五輪塔は、新治村の頭白上人塔で、高さ385cmもありますが、時代は16世紀初めまでくだりますので、形はだいぶくずれています。鎌倉時代のでは、京都の岩清水八幡宮のふもとにある6mの五輪塔が圧巻ですよね。まるで小さい家みたいにでかい。
 この五輪塔は、年代的にみて岩清水八幡宮での叡尊の愛染明王法による蒙古調伏の祈祷のあとくらいに立ったと考えられるので、蒙古撃退を感謝して忍性が立てたのだろうと思っています。証拠はありませんが。機会があったらごらんください。




260. Re: 何がきっかけで? さわらびY(ゆみ)  2002/09/11 (水) 23:26
 地元八千代市の郷土史を学んでいて、村上の正覚院の釈迦像と「おしどり伝説」の背景に興味を持ったのですが、「市史」を見てもその全国分布や宗教的な背景はつかめずにいました。
 「忍性がたどった中世の風景」の最初に書いたように、たまたま8年前宇治の放生院橋寺で叡尊という僧を「初めて」知りました。
 あとは連想ゲームです。叡尊→清凉寺式釈迦如来像→正覚院の釈迦像→律宗→忍性。
放生院→殺生禁断→おしどり伝説→沙石集→無住→忍性。
 はてさて主観的で強引な論理といえばそのとおりで、このふたつの連想ゲームの輪がクロスするかは「?」ですが、このまぼろしの中世教派の足跡を探して「私にとっての新発見」の旅を続けていきたいと思っています。

 桃崎先生に出会ったのは、「中世の霞ヶ浦と律宗」の律宗系五輪塔の挿図がきっかけです。
 成田街道調査で船橋西福寺をたずねた際、巨大五輪塔がなぞでした。もしかしたらこの巨大五輪塔も桃崎説に該当するのではと思って、千葉歴研中世部会の先生方にコンタクトをお願いしていましたら、4月に運良くその会での桃崎先生のご講演を拝聴することがかないました。
 このあとのフィーバーぶりは、ご存知のとおりです。

 もうひとつ、中世律宗に疑問と興味を持っているのは、その教えそのものに対してです。ヨーロッパの宗教改革時、カトリック内部でも同じような宗教的な動きがあり、それは、現代のマザー・テレサに実践にもつながっています。
 なぜ日本では、叡尊や忍性の同様な教えが消滅してしまったのか、その原因はなんだったのかを知りたいと思っていますが、ただこれはきわめて個人的なことですので、HPや文章になることはないでしょう。

 みきこさんとそして引用された桃崎先生の名文につづけて、拙い独り言を述べてしまいました。
 HPでは、中世の東路に忍性の足跡を追い「おしどり寺」の来た道を解きながら、鎌倉時代の宗教史・東国の交通史の中で、村上正覚院の歴史的な位置を見定めていきたいという思いますので、どうかおつきあいください。




259. 何がきっかけで? みきこ  2002/09/10 (火) 23:08
さわらびY様
「中世の霞ヶ浦と律宗」読みました。以前『常陸の国風土記』が好きでそれに関連する遺跡を数年かけて散策したことがあります。古代の常陸はイメージできていたのですが、中世の霞ヶ浦周辺はまったく知りませんでした。漠然と理解できました。桃崎先生が「おわりに」で述べられていますー「香取・鹿島・筑波の三極を擁する古霞ヶ浦が、他地域にさきがけて新たな思想や文物を受容したのは偶然ではない。神仏の入海は、次第に民衆の湖へと変質していくが、鎌倉・京都と都が移ってもこの世界は常に外に開かれ、内に結ばれていた。・・・・今我々の前に疲弊した広大な湖がある。そこはかつて豊かにして聖なる世界であった。我々は歴史の中にこそ、その再生の鍵を見いだせるように思う」ーこの名文心にしみてきますね。本当に!
Y様は何がきっかけで律宗を研究されるようになったのですか?




258. 山尾先生と「渡来人」 さわらびT  2002/09/10 (火) 19:20
Nori様
書き込みいただいてありがとうございます。ただし、お願いがあります。私信の部分はこの掲示板をご覧になられる方には不明なことになります。また私信であるから書いていることもありますので、その点ご配慮いただきたいのです。
山尾先生をお呼びするのは願望であって、現時点で実現できると考えていたわけでもありません。私信だから安易に書いたことです。「髻華の会」の講師をお願いするなど、私の一存で決まることでもありません。「髻華の会」は古代史を愛好する人々の集まりとはいえ各人が多彩な研究対象をお持ちです。
今回は加藤謙吉先生に大変お世話になり有意義な勉強会が開催できたと胸をなでおろしている次第です。月例会にするためにはまだまだクリアーしなければならないこともありますので、あまり急がないでいただきたいのです。ただご参加いただく方々には満足していただける集まりをしたいものだとは考えています。
山尾先生は、加藤先生も一目おかれておられる大先生です。私自身も山尾幸久先生のご研究には多大な関心を持っておりますし、数年前からNoriさんと個人的なやり取りをさせていただきました。でもいまそれを再現するわけにも行きませんので、この掲示板では少しずつお話することにしましょう。
「渡来人」をテーマにするだけで大問題です。『加耶から倭国へ』(竹書房、1986年)の第5章「史料と学説“大和朝廷の任那支配”をめぐって」で山尾先生は"大和朝廷の任那支配"を戦後も否定しきれていない学界を問い直し「学界でも、十数年前までは、四世紀中頃から六世紀中頃まで、大王の直轄領が朝鮮半島の加耶の地に実在したと考えてきた。私自身も1968、9年頃に書いた文章では、はっきりそう書いている。この事実は、簡単に消しゴムで消すようなことをしてはならない。」と述べておられます。「帰化人」を「渡来人」といいかえればいいというものでもないとも言明されておられます。問われているのは史料批判とはなにか、です。任那問題は当事国の一方すなわち『日本書紀』にしか史料がない、ということだと明言されています。私が山尾先生の研究を信頼する原点のひとつであることはご承知のことと存じます。
さらに研究は進んでいると思います。加藤先生も今回のご講演で「任那」に言及されています。軽々に論じる問題ではないだけに今日はこれでおしまいです。




257. 渡来人について。 Nori  2002/09/09 (月) 23:42
さわらびTさんへ
渡来人について考えています。謎の四世紀から七世紀の列島政権が渡来人を抜きにしては考えられないはずですよね。
そこで、山尾先生の『日本古代王権形成史論』(1983年、岩波書店刊)を問題にしたいわけなんです。山尾先生の渡来人に対する史的認識の本質は何を根拠にしておられるのでしょうか。ポイントはその点に在ると考えています。史料批判によるとは云いつつも主観的な予断をどこまで排除できているのでしょうか?…先生にお尋ねしたいところです。と、云うことで、さわらびTさんが今朝のメールでご提案いただいたように「髻華の会」での山尾講演が実現できればありがたいですね。
Mさんへ。山尾講演の企画立案を鄙の会員としてはお願いします。





256. Re: 静岡から戻りました さわらびY(ゆみ)  2002/09/09 (月) 23:31
桃崎先生、お帰りなさい。
 お宝の金工遺物などの文物との格闘に至福のひとときをすごされたとのこと、さすが幅広い見識と技術をお持ちの研究者ならではのお仕事だったことでしょう。
 中国ではまたまた重い図録を買ってきましたが、今回は洛陽で見た三角縁神獣鏡については写真だけでなくせめて立面の実測図が載っていればと、強く思いました。
 精密な実測図は、やはり感動ものですね。律宗に、また桃崎先生にも興味を持ったのも、先生が作成された「中世の霞ヶ浦と律宗」の「西大寺と律宗諸寺院の巨大五輪塔」の挿図の見事さに惹かれたからでした。

 このHPのシリーズ「忍性…」を見てくださった茨城県小幡の要小学校の方からメールをいただきました。高棟王のことと、文応元年(1260)忍性が小幡来住の時、平相正が観音寺伽藍を建立したとの史実を調べておられるそうです。
私も不勉強で、先生の「中世の霞ヶ浦と律宗」に書かれてある小幡観音寺の論考が、今ある資料のすべてでしたので、この本をご紹介させていただきました。
 そのうち余裕ができたら、小幡にも足を運んでみたいと思います。

 奈良へは、27日から29日まで2泊で行きます。先生の戒律文化研究会の報告を楽しみにしております。
 ではまた。




255. 加藤氏の著名入り書籍。 Nori  2002/09/09 (月) 23:04
さわらびTさんへ
今日、帰宅したら届いていました。Mさんからの宅急便が…
『大和の豪族と渡来人』(加藤謙吉著、02年9月1日、吉川弘文館刊)は確かに、拝受しました。加藤氏のご著名入りでした。いろいろとご配慮いただき感謝いたします。Mさん、本当に有難うございました。
Mさんのお心遣いのメモ、それに納涼会の写真まで入っていて何からなにまで、お気遣いいただき感激しました。有難うございました。




254. 静岡から戻りました 桃崎祐輔  2002/09/09 (月) 15:13
皆様
当方は8月26日から9月8日昨日まで静岡県相良町にある平田寺という臨済宗妙心寺派のお寺に、開山龍峯宏雲和尚の墓所である霊松庵という塔頭跡から出土したという仏具や陶磁器の実測に行っておりました。このお寺は入手経路不明の聖武天皇勅(国宝)や白鳳仏、静岡県史にも収録されている多数の中世文書を所蔵されておりますが、いずれも厳重な防犯管理のもとにおかれているため、仏具類も断片的な情報し
か公表されておりませんでした。
 ここの仏具類(広口の花瓶、双耳の花瓶、双耳の壺、紋様ある三足香炉、沈線をめぐらす三足香炉、提子、六器、水滴)は、かつてこの寺を訪れた喜田貞吉先生の目にとまり、浜田青陵先生が、中国古代の銅器を模したもので宋代を遡らないと鑑定されたそうです。以上のうち三具足については、おそらく宋元頃に中国で骨董趣味で作られたものだと思いますが、表面にトウテツや怪獣が雷文や渦文を地文とした上に表現
されていて、難儀な実測でしたが、ここ3年大学の調査にかかる実測に終始し、以前のように馬具や仏具を終日実測する機会が減っていた自分にとって、ひさしぶりの金工遺物との格闘は、至福のひとときでありました。
 また期間中は町内の中世石塔や遺跡の踏査確認作業にも参加させていただき、熊本県人吉に移住する以前の相良氏の最初の居館跡と考えられる場所をつきとめ、12世紀の白磁・13世紀の山茶碗・14世紀の五輪塔残骸、堀と土塁を発見するのに立ち会うことができ、幸運でした。

 これから15日締め切りの戒律文化研究会のレジメ作成に全力で取り組みたいと思います。
 それではまた。




253. 「西安・洛陽の旅日記」のページ開始しました さわらびY(ゆみ)  2002/09/09 (月) 00:05
 「西安・洛陽の旅日記」のページを一部開始しました。
 まだ8日の日程中、2日分です。
 次の都城址探索レポートは、Tが書くと宣言していますので、もうしばらくお待ちください。
 観光地の絵葉書風ではつまらないし、かといって一見なんだかわからない遺跡の画像は説明がたいへんだし、子供や犬の写真じゃテーマに無関係とTに言われそうで(でも私は好きなんだけど)、画像選びに時間がかかっています。
 秋は、八千代郷土史研の文化祭展示と研究誌「史談八千代」発行の季節、というわけで9月中は「史談八千代」の原稿書きにいそしみたいので、「西安・洛陽の旅日記」は小休止です。
 この写真がよかったとか、歴史についての突込みがたりないとか、いろいろなご感想をお待ちしています。




252. 見瀬丸山は稲目の墓? さわらびT  2002/09/08 (日) 23:44
Noriさんにはお伝えしたことがありますが、見瀬丸山古墳=蘇我稲目の墓説はけっこうホットな話題だと思います。(この話題を提供してくださった先生のお名前はプライベートな会合でのお話でしたので掲示板では割愛します。)

『季刊邪馬台国』76号が特集を組んでいます。また森公章編『日本の時代史3 倭国から日本へ』(吉川弘文館)に掲載の小澤毅論文が話題の論文になります。『季刊邪馬台国』は『明日香風82号』掲載の小澤論文を再掲しています。(これらの論考では見瀬丸山を五条野丸山古墳と表記していますのでご注意ください。)

加藤先生は見瀬丸山=真の欽明陵説(東アジアの古代文化』111号掲載論文『東漢氏と檜前』参照)ですが、もし平田梅山が治定通りであるとしたら檜前を広い範囲と考える加藤説にも影響があるので一大事!

小澤論文は、推古紀20年2月の「軽の術(チマタ)に誅(シノビゴトタテマツ)る」は、堅塩媛が平田梅山に改葬される前の丸山古墳(稲目の墓!)で馬子と堅塩媛の娘・推古が行なったという解釈です。今後市民権を得るでしょうか。日本の時代史の編者の森公章先生は小澤説を支持されておられるようです。

見瀬丸山=欽明説は森浩一先生が、唱えられたと記憶しています。真の天皇陵探しに目が向いたのも今城塚=真の継体陵説とともに象徴だったように思います。見瀬丸山も今城塚も剣菱型で大王陵の系譜、という議論はどうなるのかなってことも気になります。

蘇我氏の権勢は大王陵に匹敵する古墳を作るほどだったのでしょうか。




251. 加藤先生はすごいです さわらびT  2002/09/08 (日) 23:07
みきこ様、Nori様

加藤先生のご講演に関心を示していただいてありがとうございます。お人柄もすばらしい先生です。渡来人を研究テーマにされておられる学者は少ないとのことですが、出発したばかりの「髻華の会」で講演していただるだけでもありがたいのに、熱気あふれるお話にいつも大感激です。

東漢氏の氏族組織の性格はよく理解できました。もっとも最後の東漢氏の故国を安羅とするお考えを示されたさい、ナカンダコウハイとかヨウガキミあるいはアケエナシ、サロマツの名が登場する頃には頭がくらくらしましたが・・・(^-^)

ご講演内容を復習するのに『大和の豪族と渡来人』(吉川弘文館)は欠かせないです。




250. 十月の参勤交代を検討中。 Nori  2002/09/08 (日) 22:17
加藤氏の講演は盛況だった由、ご苦労様でした。
Mさんも大変だったでしょうね。どんなイベントでもそれなりに成功させるには周囲で考えているほど楽じゃないはずですよね。
お客然として勝手気ままにたまの参勤交代でお茶を濁している小生など鄙の会員は、運営される方々のご苦労に感謝しています。
ところで10月の例会26日は土曜日ということですし、上京するつもりで日程の調整をしています。はっきり決まったらあらためてご連絡します。嫌がらずに、西安洛陽のお話と併せてよろしくお願いします。
また、ご多忙なさわらびTさんへのお願いです。山尾先生の最近のお仕事など、お知らせいただくと有り難いのですが…。
御身専一に。 




249. 加藤先生のお話面白かったですね みきこ  2002/09/07 (土) 22:18
加藤謙一先生のお話を聴くのは初めてでした。T様お世話になりました。
 朝鮮王朝末期の王妃暗殺を扱った「閔妃暗殺』角田房子著の中で、「王や王族はもとより、高官達の服装は形も色も全て厳しく定められていました。例えば竜の模様は王夫妻とその直系だけが用いるのですが、それも王と王妃は五爪の竜、王世子は四爪の竜、王世孫は三爪の竜と定められていました」と民族博物館長の言葉として紹介されています。この規定がいつの時代の頃からか知りませんが、その関係か日本には三爪の竜しかいないと聞いたことがあります。「飛鳥・藤原京展」での藤ノ木古墳の馬具の竜も三爪だったし、復元された青龍幡も三爪だったしと、気になりました。でも奈良・新沢千塚327号墳出土の銀象嵌大刀の龍の足は四爪のようです。加藤先生にお聞きしたところ、新沢千塚古墳群も東漢氏の領域と考えて良いとのこと。「東漢氏の故国は安羅」とのお説に納得でした。




248. ちょっとだけ更新しました。 さわらびY(ゆみ)  2002/09/06 (金) 20:00
 ホームページビルダーが動けるようになったので、久々に更新しました。
 といってもちょっとだけで、西安洛陽のアルバムはまだまだ時間がかかりそうです。

 きのうの「髻華(うず)の会」の講演会はなかなか盛況だったようですね。
 次回のスケジュールを入れましたので、「更新」ボタンをクリックしてください。

 それと、7月栃木で調べた律宗関係の画像データを忘れそうなので追加してあります。
 氏家の五輪塔と釈迦像は、桃崎先生の「ミュージアム氏家」の講演レジメからを探しだして行った西導寺のもので、このお寺には「葛地蔵」という丸彫りの中世の石仏もあり、いつか、「東国の律宗」シリーズでご紹介したいところです。
 石橋町開雲寺の「五劫思惟の阿弥陀如来」という頭髪が清涼寺式の仏像は8月11日はご開帳でぜひ拝観したかったのですが、八千代歴研の例会を重なって行けなかった未練の残る像です。
 この寺は下野薬師寺戒壇院五世恵雲律師が開祖の縁起を伝える寺で、下野薬師寺に残る律宗の痕跡をやっと見つけた気がしました。
 「五劫思惟の阿弥陀如来」とは、どういう仏様か、桃崎先生がお帰りになったら、ぜひお伺いしたいですね。
 栃木の記録も、PCの事故や中国旅行で中途半端になっていて、ご案内いただいたKさんに申し訳なく思っています。
 「東国の律宗」シリーズは気長に追求していきたいと思いますので、ご指導のほどよろしくお願いします。
 





247. パソコン直ってよかったですね。 防人  2002/09/01 (日) 23:12
こんにちは。
福岡で史跡巡り三昧の生活をしている増田です。
パソコン戻ってきたようで、よかったですね。
こちらも、8/29からADSLがつながりました。
4Mbps位の通信速度がでます。快適快適。
先週は、小倉に行ってきました。
長崎街道基点の街と言う事で、じっくり歩いてきました。
そのうち、HPも更新して行きたいと思っています。
MSのサーバーの件は、情報を整理して書き込みます。




246. Re: ノートパソコンの調子が悪く さわらびY(ゆみ)  2002/09/01 (日) 00:34
 桃崎先生のPCもダウンされたとのこと、例年にない暑さのせいでしょうか。
 7月に同じ症状でクラッシュした私のPC(2月に購入したその時最新のFMV)は、修理を終えて昨夜やっと戻ってきました。
 ハードディスクを交換したとのこと、保障期間で修理代はかからないとはいうものの、まっさらな購入時状態で戻されてきました。
 設定のやり直しを考えるといったいどうしてくれるのと、当惑しています。
 3月からの原稿や調査記録、民俗行事や非公開の仏像などの貴重な画像データがバックアップなしで多量に入っていましたので、クラッシュしたときは、さすが気がめいりました。
 電話もつながらないメーカーのサポートセンターはあきらめ、秋葉原のPCに強そうな電気店を探し、壊れたハードディスクからでもデータを取り出ししてくれるという九十九電機にお願いしてデータをCDに入れてもらったあと、メーカーに修理を出した次第です。
 数千円の手間賃と九十九電機さんのおかげで、幸い最低限のデータは救出できましたが、インターネットやNifty Manager、屋内LANの設定のやり直しで、昨夜は夜中の3時ごろまで四苦八苦(なんたって、我が家の専属SEの増田さんは福岡転勤になっちゃいましたものね)やっと通信が開通しました。(バンザイ!)
 とにかく「転ばぬ先のバックアップ」と、設定に関してはメモをとっておくことですね。(わかっていても、ムズカシイ)
 それから、重要なデータは愛想よく配っておくと、だれかが持っていてくれたりして助かることもあります。(桃崎先生からいただいたデータでお役に立つのがあれば、おっしゃってください)
 またW-XPでは、MSのサーバーが無料で使えるとのことを聞きましたが、詳しいことをご存知でしたら(増田さん)お教えください。
 桃崎先生のPCのデータも無事だといいですね。静岡からのお帰りをお待ちしています。




245. 加藤謙吉先生のご講演があります さわらびT  2002/08/30 (金) 00:00
9月5日に加藤謙吉先生の講演会があります。(「髻華(うず)の会」)タイトルは『東漢氏と大伴氏』、詳細はお知らせ欄をご覧ください。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/uzunokai.htm

新刊の『大和の豪族と渡来人 葛城・蘇我氏と大伴・物部氏』(歴史文化ライブラリー144、吉川弘文館)にもお書きになっておられますが「雄略朝に始まる軍事的専制王権の時代は、一方で、渡来系のの人々が王権の直接的な支配下に組みこまれ、さまざまの先進的な技術や知識をもって、大王に職務奉仕するようになった時代でもある。」そして「軍事的専制王権の成立期には、渡来系諸氏中、もっとも有力な氏族の一つである東漢氏(倭漢氏)のウジの組織(その原形)が誕生した。」(p102〜103)

前回のご講演『葛城氏と渡来人』では、雄略の治世を『書紀』の記載より10年ほど年次を下げて考えるべきだと論じられました。允恭死後の王位継承をめぐる抗争、とりわけ履中系王統と允恭系王統の対立の激化、各王統・各王族と結びついた畿内の豪族を巻きこんだ抗争の拡大の中、履中系王統と結んだ葛城氏が滅亡したとする理解を示されました。通説とされる塚口義信氏の葦田宿禰系は健在であったとする説には、少数派と認めつつも反論を展開されました。かって門脇先生の蘇我氏=渡来人説に反論された加藤先生の意気軒昂ぶりはすごいです。これら論点もこの新刊書で論じておられます。

ご要望も多いと思いますので会場で販売いたしますのでこちらもよろしく。




244. お帰りなさい みきこ  2002/08/29 (木) 21:22
さわらびT&Y様
お帰りなさい。収穫のたくさんあった旅行だったんですね。楽しみにお写真待ってまーす。王仲殊氏の衝撃の「魏に三角縁神獣鏡はなかった」という説が発表されてからずいぶん経ちますが、最近では『古墳時代の考古学』の中で、東潮氏が、遼寧省の前燕の墓で三角縁の鏡があると報告されているように中国の東北部との繋がりが注目されているようですね。鏡ってむずかしい!でも三角縁神獣鏡の多く出土する椿井大塚山古墳から小札革綴甲冑が出土していますが、そのルーツも興味深いですね。




243. 龍門石窟の大仏に感動!の旅でした さわらびY(ゆみ)  2002/08/28 (水) 22:30
 「中国都城・仏教関係遺跡巡見団」に参加し、西安・洛陽から昨日(8/27)夜遅く帰宅しました。明大Y先生が団長の愉快な旅でした。
秦始皇帝陵を始め、陵墓や城壁のスケールが巨大なのは予想していたとはいえ、やはりびっくり。
 しかしかの有名な阿房宮(秦の宮殿)や漢の長安城の版築の基壇や城壁が、耕作地に浸蝕され、また遺跡を示す石標が廃棄物に埋もれ、道も藪こぎや鉄道路を渡って行きつくという現状はもっと意外で、またそれなりに楽しい経験でした。

 洛陽近くの龍門石窟では、清凉寺式を思わせる釈迦坐像に感動しました。
 7世紀唐代の大仏で、ギリシャ風の頭髪、通肩のインド風の大衣、まさにガンダーラ由来の釈迦像が、完全に唐風のおだやかな丸みをもった姿になっています。
 10世紀にちょう然が入宋してわが国に請来したときには、「インドの優填王(うでんおう)が釈迦の在世中に造立した」という釈迦栴檀瑞像の説話が、流布していたのでしょうが、この像の原点は、シルクロード経由のガンダーラ仏像が、唐代に中国風に完成した像で、このころまで人々に広く愛好されていたのでは、と思いました。

 デジカメで8日間で1000枚ものスナップ撮影をしてきましたので、これから画像整理に精を出さねばと、旅の物が散乱して足の踏み場もない室内でためいきをついています。
 パソコンが修理中でHPにするには、ちょっと時間がかかりそうですが、どうかご期待ください。




242. 帰国しました。洛陽に三角縁神獣鏡? さわらびT  2002/08/28 (水) 18:24
中国旅行から昨日、無事帰国しました。西安・洛陽8日間の都城・仏教関係史跡をめぐる旅でした。留守中書き込みいただいた皆様、さまざまな論議の話題を提供していただき、ありがとうございます。

明治大学の吉村武彦先生の呼びかけで企画された旅に参加させていただいたのですが、今回は西安で北京から来られた中国社会科学院の徐建新先生とも合流し実りある8日間でした。通常の史跡めぐりではおそらく断念するような場所にもバスを乗りいれるといった、ちょっとした“アドベンチャー”も体験できました。

いずれ旅の報告はまとめていたしますが、今日は、洛陽博物館に展示されていた「王公王母画像鏡」が気になりましたので一言。写真撮影禁止でしたのでもっとよく見てくればよかったのですが、そのときは図録を見ればいいかな程度にと思っていました。帰宅してあらためて図録によると、1955年洛陽老城北ぼう山出土、直径18.2cm、内区に王公・王母・車馬・神獣、外区に雲文・鋸歯文、内区・外区に銘文が見られる、と書いてありました。内区の図柄は神仙思想、平縁でなくあきらかに三角縁でしたので、「三角縁神獣鏡」の中国出土例なのかと、吉村先生同様気になった次第です。この鏡についててどなたか書かれているかと思ったのですが、手元の資料では確認できませんでした。どなたかお教えいただけるとありがたいです。

岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』(吉川弘文館、1999年)を拾い読みしたのですが、「斜縁神獣鏡」という分類があることを知りました。この、「斜縁神獣鏡」に該当するのでしょうか?

岡村氏は楽浪出土漢鏡7期として@第一段階…上方作系浮彫式獣帯鏡・飛禽鏡・画像鏡・き鳳鏡・獣首鏡A第二段階…画文帯神獣鏡B第三段階…斜縁神獣鏡とし、斜縁同向式二神二獣鏡や斜縁四獣鏡は徐州系統と推定、また山東省滕州市出土の斜縁同向式二神二獣鏡が「三角縁神獣鏡」といえる可能性を述べておられます。(p125〜128、p152)

この山東省滕州市出土の斜縁同向式二神二獣鏡は実物を見ていませんので私にはなんともいえませんが、洛陽博物館が「三角縁神獣鏡」なのか興味深く感じました。




240. 管理人さまお帰りなさい。 Nori  2002/08/28 (水) 03:26
さわらびT&Y(ゆみ)様
本当にご無沙汰でした。管理人さまの居ない間に、と思っていましたがやっぱり今日も遅い帰宅となりました。5ヶ月ぶりの書き込みです。
この間、小生の身辺も大きく変わりました。これまでは気ままな身分で自由に我がままを云えたのですが、今ではそれも許されない窮屈な毎日です。長崎での生活が懐かしく思われる今日この頃です。
とは言え、それでも何とか自らの小宇宙を大事に貫く身がってさだけは健在です。もちろん、それなりのストレスは有るのですが…
16日のお昼から17日夜遅くまで、お付き合いいただき感謝しています。管理人様には招かざる客人として、出発前の多忙な時間をご無理いただきました。ごめんなさい。
久しぶりの参勤交代(M女史の表現)でしたので多少はしゃぎ過ぎの感は否めません。大山氏との意見交換は有意義でした。欲を言えば、加藤氏、天才・清ちゃんの両氏にお会いできなかったのが如何にも残念。次会を期して…、よろしくお願いします。
里帰りしていた北京の彼女と今日のお昼にはデートです(ちょぴりウキウキ?)。
博多で9月の15日、16日は古代交通研究会(西南学院大)です。列島(九州)古代の官道と都城は当面の課題です。それ以上に、時間のやり繰りこそが大きなハードルになっています。多少の焦りを感じています。
中国旅行はお疲れ様でした。西安・洛陽からのお土産情報を心待ちにしています。
とりとめもない書き込みになりました。今日のところはこれにて失礼します。





239. ありがとうございました みきこ  2002/08/24 (土) 00:02
桃崎先生
 お忙しいのにすみませんでした。早速教えていただいて申し訳なく思います。先生のご講演の馬具資料を年代、地域別に貼り付けて多少理解できるようになりました。パターン化された歴史観を身につけている自分にとっては先生から教えていただく全てが驚きで、歴史の複雑性、多層性を感じてしまいます。先生の緻密な論証に感動します。
『王者の武装』京都大学総合博物館1997の中で森下章司さんが桃崎先生のことを「馬具に限らず、5世紀の馬一般の利用状況を示す使用も増加している。馬を犠牲とした墳墓祭祀の例が数多く報告され総括的な研究も発表された(桃崎93)」と紹介されていましたね。




238. 新羅ブームから伽耶ブームへ 桃崎祐輔  2002/08/23 (金) 11:59
みきこ様
千賀先生のこの論考は、発表当時倭や三国の初期の馬具を位置付けた論考のなかでは最も優れたものでしたが、これは中山清隆氏の論考とあわせ、朴政権時代に進められた新羅古墳の調査成果が大きく反映しています。その後伽耶地域の発掘調査が急速に進みますが、このころ大阪大学の都出比呂志先生のもとに留学していた朴天秀さんは、小野山節先生、中村潤子先生、千賀先生らが、日本列島の5世紀前半と後半で馬具が新旧2相に系譜が分かれると述べているものの実態は、5世紀前半は金官伽耶、5世紀後半は高霊大伽耶と、伽耶地域の政治的変動と文物の変化の影響を受けていると主張したのです。この論は金斗吉吉さんの馬具の系譜研究や申敬テツ先生の伽耶論を日本人にもわかりやすく咀嚼したもので、非常に明快で論理的であったので、現在日本の古墳時代研究者の多くがこれにならっています。 朴さんとは10年来の友人で彼の勉強ぶりにはいつも脱帽していましたが、実態はもっと複雑であるというのが私の考えです。
 たとえば5世紀前半のものでも、新開1号墳の轡は、一見すると鮮卑三燕のラマ洞UM16号墓の出土品に似ていますが、引手構造が全く異なっています。全体的な構造やセットからみると、新羅に隣接する伽耶北部の古寧伽耶の墳墓である尚州新興里39号土壙墓のものと酷似しているのです。なお新開1号墳の帯金具は高句麗域の平安南道大同郡高山里9号墳のものに似ているそうなので、新開の馬具は高句麗の影響を強く受けた新羅製品と私は考えています。鞍塚のものについても伽耶製より新羅製の可能性が高いと思います。誉田丸山の馬具はたぶん三燕のうち北燕の製品であろうと思います。
 玉田M3の馬具についても、大伽耶製なのか百済製なのかは検討の余地があると考えています。なお長持山のf字と埼玉稲荷山のf字は一見よく似ているように見えますが大きな違いがあり、長持山には百済式の遊環があるのに対し、埼玉稲荷山は遊環がない点で新相を示しています。埼玉稲荷山と同じ構造のf字は群馬県高崎市普賢寺東古墳や茨城県三昧塚古墳に見られますが、TK47型式の新しい段階くらいでしょうか。すると鈴杏葉と年代差はほとんどなく、f字を古式の長期伝世とみる小野山論は成り立ちません。
 鈴についてはパソコンの修理終ったら申上げます。





237. パソコンよくなるといいですね みきこ  2002/08/22 (木) 22:11
桃崎先生 
 発掘調査お疲れ様でした。今年は酷暑だったので大変でしたね。パソコンも調子が悪いとか、私の拙い疑問にお答えして頂けるそのお気持ちだけでありがたいと思っています。お忙しいのにお時間をさいて頂いてありがとうございました。私もさわらび様のように奈良へ追っかけていきたいのですが・・・律宗という言葉も知らなかったので新しい世界です。これから少しづつ勉強したいと思っています。「日本初期馬具の系譜」千賀久を読みました。初期馬具に二つの系譜(新羅系、新羅の影響の弱い)があるというのが印象的でした。前者が新開1号墳、誉田丸山、鞍塚で、後者が玉田M3号墳、長持山、稲荷山の馬具で5世紀後半を境に後者の馬具の系統に変わっていくというのは本当なのでしょうか。玉田M3号墳の3セットの馬具のランクで言えば中に位置する馬具に鈴が付いているのが何か意味があるのではと思いました。
 




236. ノートパソコンの調子が悪く 桃崎祐輔  2002/08/21 (水) 17:45
発掘調査から戻るなり急にノートパソコンの調子がおかしくなりました。スキャンをかけるとハードディスクとファイルはいかれてないみたいですが、セーフモードにしてもウィンドウズ画面が立ち上がらず、ファイルも読み出せず、参っています。
 調査期間中の日誌やデジカメ写真や8月〜9月締め切りの書きかけ原稿がバックアップとらないまま入っていたので。みきこさん宛の鈴に関する文章も、かなり気合入れて書いてあったのですが。なんとかなるといいのですが。

 現在戒律文化研究会のレジメをつくりはじめました。8月26日から
9月4日までは静岡県相良町の平田寺に仏具・陶磁器と境内石造物の調査に赴く予定です。

 発掘の疲労もおおむねとれたので、これから原稿がんばります。
それではまた。 




235. ヒスイの故郷へ行ってきました みきこ  2002/08/19 (月) 22:24
さわらびTY様
富山から帰ってきました。途中糸魚川にあるフォッサマグマミュージアム、長者ケ原遺跡に寄ってきました。長者ケ原遺跡は縄文時代早期から後期に渡って長期に営まれた集落跡で、中期の集落跡からは近くの姫川から運ばれたヒスイの原石、加工品が出土しており、玉生産の拠点といわれている遺跡です。日本海を見下ろす丘の上に、今は公園として整備されていましたが、市内のいたるところに勾玉とヌナカワヒメの絵があり、タイムスリップしたような感じでしたよ。日本で出土しているヒスイの玉、勾玉のほとんどがこの姫川産なので、一度この原石を見てみたかったのです。ミュージアムでは大きな原石が展示されていてきれいでした。縄文人たちが愛したヒスイの神秘性にうっとりでした。ヒスイ海岸で私も手に入れたくて探しましたが・・・・この遺跡では縄文時代ではヒスイの勾玉はなかったよう(?)です。弥生時代になってヒスイの勾玉を製作しているようでした。




234. 納涼の夕べは楽しかったですね さわらびT  2002/08/19 (月) 19:30
スンニリ様

本当に涼風が心地よかったですね。たまには、気の会う方々と懇談できるのも楽しいです。「髻華の会」でも、講演会が開けるようになったのもスンニリさんのご経験をずいぶん参考にさせていただいています。ありがとうございます。当日、加藤先生が来られなかったのは残念でしたが、大山先生の元気に皆さん励まされましたよね。




233. 西安・洛陽に旅行してきます さわらびY(ゆみ)  2002/08/19 (月) 13:22
 明日20日朝から27日まで、管理人夫婦ともども西安・洛陽に旅行してきます。
 留守中はいつもこのHPをごらんいただいている方々で、掲示板での談話をもりあげていってください。
 帰国後楽しみに読ませていただきます。
 またメールチェックもできませんので、あしからずご了承ください。 (お急ぎの用件は今晩中にお願いします)

増田さんへ
 新天地での活気ある近況報告をありがとう。
 なんたって「現地が一番」の増田さんですから、ユニークな視点での見聞記を楽しみにしています。
 それにしても北九州は、古代からの史跡の宝庫ですから、うらやましいかぎり。
 (航空運賃考えるとそうしょっちゅう行けないですもの)

 わたしの職場にも休み明けの同僚の姿がもどってきました。
 増田さんはじめ、今日から本格的にお仕事のみなさま、がんばってください。
 気になるのは台風とアザラシの「たまちゃん」のこと、(今日入るはずの、江戸川河川水検査の仕事がまた延期になっちゃった)被害が少ないことを祈ります。
 ではでは、夏休みしてきます。




232. 桃崎先生へ さわらびY(ゆみ)  2002/08/19 (月) 13:17
桃崎先生
 猛暑の中の発掘調査、ほんとうにお疲れさまでした。
 貴重な成果をあげられて、報告書が楽しみです。
 また調査中の現地見学の際は、たいへんお世話になりありがとうございました。

 17日は房総石造文化財研究会の講座で、川戸彰先生の「五輪塔と宝篋印塔の見方」という講演をお聞きする機会がありましたが、お話の中で東国の律宗の研究について(特に三村山の五輪塔調査にふれて)、桃崎先生のお名前をあげ、「最近ようやく西大寺流律宗の点と線がつながりはじめた」と述べられておられました。
 このHPで連載中のシリーズも当初は近隣の清涼寺式類型像を中心に数回で終わるはずだったのに、忍性の史跡や五輪塔、称名寺文書の中の地名人名を追って、エンドレスになりそう。とにかく、調べていていくらでも疑問が出てきます。
 というわけで、9月西大寺での桃崎先生の「東国での律宗の痕跡」のご報告を心待ちにしているしだいです。
 (みなさん、9月29日は奈良へ行きましょう)
          ではまた。




231. 大宰府方面に行ってきました。 増田  2002/08/18 (日) 23:25
こんにちは。
今回は、自転車を抱えて自宅から比較的近い史跡を見てきました。
JR鹿児島本線で香椎から20分位乗った所にある笹原駅で降りて、福岡市埋蔵文化センターで周辺の情報を入手して、まず板付遺跡に行ってきました。環集落と水田の跡があったのですが、環壕集落は吉野ヶ里を見た後だったのでちょっと寂しい感じでした。でも、やはり環壕集落には緊張感を感じます。
その後金隈遺跡(弥生時代前期から後期にかけての共同墓地)、岡本遺跡(こちらも、甕棺中心の共同墓地)、日拝塚古墳(全長47mのかわいい前方後円墳なのですが、横穴式石室が結構大きいので国史跡)、水城跡(国特別史跡)、筑前国分寺跡、苅萱の関跡、大宰府跡を見てきました。
明日から仕事、未だに観光気分が抜けず、職場復帰できるやら。




230. ありがとうがとうございました スンニリ  2002/08/18 (日) 14:40
昨日は久しぶりの外出でした。何せ毎日が暑いものでエアコンの効いた
部屋から出るのが億劫、程ほどの暑さで隅田川の涼風に吹かれての風情のある船旅をさせていただきありがとうございました。お世話下さった望月さん、はじめ皆さんに感謝申し上げます。一杯飲みながらの歓談、和やかであり切れ味、迫真の議論に大いに沸き立ちました。快適な暑気払いでした。来月の髻華の会楽しみにしています。




229. おつかれさまでした さわらびT  2002/08/17 (土) 11:57
桃崎先生おつかれさまでした。発掘のご苦労お察し申しあげます。

先生もお出向きになられたようですが、飛鳥藤原京展には私も16日に行ってきました。藤ノ木古墳出土の馬具をはじめ展示品にはよく知られたものも多かったのですが、実物を見せられるとあらためて感嘆しました。桃崎先生のご講演を拝聴して、あらためて騎馬文化の受容の意味を考えるようになりました。穴沢・馬目論文(『古代を考える 古墳』です)なども読み直しています。

朝日新聞朝刊に古宮遺跡出土の金銅製四環壷に鳳凰が精巧な毛彫りで描かれていたことがわかった、と報じられていました。古宮遺跡は蘇我氏と関係が深いとの理解でいいのでしょうか。この線刻の技法も高い技術力といえるのでしょうね。なお図録には、中尾山古墳の蔵骨器であるという異説も紹介されていますが、となれば檜前の渡来人−東漢氏と関りを考えていいのかとなど、思いをめぐらせたりしました。

「髻華(うず)の会」の9月講演会(加藤謙吉先生の「東漢氏と大伴氏」)にもあらためて関心を持っています。




228. 柏崎須恵器窯の調査終わりました 桃崎祐輔  2002/08/16 (金) 23:08
こちらはようやく柏崎須恵器窯跡第4次発掘調査を終えて戻ってきました。
 わらびさんをはじめ、皆様にはたびたびへんぴな現場までお運びいただきありがとうございました。
 7月8日の調査開始後、2度台風に見舞われるも被害らしい被害はなく、7月29
日には記者発表を行い、朝日新聞を除く6社が取材にやってきました。そして常陽・
いばらき・毎日・読売が報道してくれたようで、東京・産経もついたかもしれませ
ん。このあと8月4日には現地説明会を行い、皆様を含め、交通が不便な場所のワリには137人もの
見学者が来てくれました。
 最終的にはTK217古相併行の地下式窯、全長9m、最大幅2m、窯尻幅70c
m、傾斜約30度、窯尻に派生する煙道・作業溝を伴い、周囲および焚口両脇に排水
溝をめぐらすことがわかりました。
 しかし燃焼室内の須恵器片の量やガラス化した床面の記録に予想以上に手間取り、
予定していた12日には到底
終わることができませんでした。結局14日まで現地にとどまって埋め戻しを続け、
その日の夕刻にいったん撤収してのち、15日にようやく埋め戻しを完了して打ち上
げました。最後には筑波大学の学生たちは皆帰ってしまい(簡単に調査を延長しろと
か拡張しろとかいう前に、シラバスの実習ノルマを最低20日にして学生を確保でき
る対策をたてろと川西先生に言ってやりたいです)7人ほどになって、とても埋め戻
しできる状態ではありませんでしたが、隣接地で調査されている国士舘の須田先生
が、14・15日の二日日間、学生を十数人手伝いにまわしてくださったので、なん
とかなりました。筑波大学の教官の無策ぶりや体制の弱さに忸怩たるものがありまし
た。

 今日16日には東京に出て飛鳥藤原京展を見てきましたが、檜隈寺の軒丸瓦と毛彫
馬具の意匠の共有が気になりました。今後取り組みたいテーマです。

それではまた。





227. 九州島に移住しました。 増田  2002/08/16 (金) 15:22
突然ですが、8/1付で九州の博多に転勤になりました。
新しい住み家は、福岡市東区香椎にあります。
最寄り駅は、JR鹿児島本線の香椎駅で、徒歩8分で駅に行くことが出来ます。
香椎駅から博多駅へは、15分程で行くことが出来ます。
マンションは、標高272mある三日月山の裾野にある言う感じで、駅までは平坦な道を歩いていけばいいのですが、三日月山方面に少しでも行くと急激な上り坂になります。
マンションの前の道を、20分ほど自転車で登っていくと、三日月湖という大きな湖があります。
とってもきれいな湖です(そのうち私のHPにアップします)。お気に入りの散歩コースになっています。
また、近所には香椎宮があります。
折角九州に来たのだから史跡めぐりをしようと、既に「吉野ヶ里」と「門司港」に行ってきました。
吉野ヶ里は、公園化される前に一度行ったのですが、きれいに整備されていました。
門司港は、門司港駅が見たくて行ったのですが、自転車を抱えていったので、周辺の門司関址の碑を見たり、関門海底国道トンネルを通って山口県に上陸したりしてきました。ちなみにトンネルは歩行者はただですが、自転車は20円取られました。
これからも、積極的に九州の史跡を見て回ろうと思っています。





226. 青谷上寺地遺跡の出土遺物 さわらびT  2002/08/13 (火) 18:59
弥生人の脳の出土で有名な青谷上寺地遺跡の出土遺物が松戸市立博物館で展示されています。(8月18日まで)
鳥取県外で見られるのは初めてのようです。

http://www.pref.tottori.jp/bunka/aoyakamijichi/

私は鉄器に興味を持ちました。弥生前期後葉以降段階になると安定的な出土するとの説明。大陸からもたらされたものですがリサイクル品もあり、初歩的な鍛冶技術があるというのも興味がわきます。木器類もすばらしく弥生の技術に感心。




225. 『特別展 考古紀行いばらき』面白そうです さわらびT  2002/08/11 (日) 23:19
先日、霞ヶ浦町郷土資料館に行った時に見ることができなかった風返稲荷山古墳出土の鉄地金銅張杏葉などは、現在茨城県立歴史観で展示中のようです。

http://www.edu.pref.ibaraki.jp/rekishi/

『特別展 考古紀行いばらき』(7月20日(土)〜9月16日(月・祝))

以前に紹介したことがありますが、中山清隆さんに教えていただいた考古学に造詣の深かった小説家、江見水蔭の関連資料も展示されているようですね。




224. 現地説明会に参加して みきこ  2002/08/07 (水) 19:28
猛暑の続く関東地方ですが、この日はそれほど暑くなかったのですが、違う熱気が漂っていましたね。道が開けたとたん丘陵に柏崎窯跡が見えて感動しましたね。思っていたより大きくて古代に時空を超えて行ってしまった様な錯覚を覚えました。霞ヶ浦を行き来する船、丘陵に立ち上る煙、この地域が古代のコンビナートだったのだと実感できました。
似た構造の窯が近畿地方北部から北陸地方の窯跡で見つかっているという説明が印象的でした。「今回出土した須恵器の中には外地から来た専門技術者の手によるものと、地元の土器職人が動員されて作ったもの2種類ある」という解説でしたが、残念なことにどの須恵器のかけらがそうなのか教えていただくのを忘れていました。どなたか教えてください。富士見塚古墳からの眺めもすばらしかったですね。私の大好きな三まい塚古墳を対岸に眺めながら古代に夢馳せた1日でした。暑い中、発掘調査をされている方々に頭が下がります。皆様のおかげで私たちは夢を語れるのですから・・・ありがとうございました。




223. 古代霞ヶ浦のテクノサイエンス さわらびY(ゆみ)  2002/08/05 (月) 22:49
 今回の現地説明会は、「霞ヶ浦古代テクノコンビナート」を、筑波大と国士舘大学の連携で実感できた貴重な経験でした。
 なんたって、須恵器窯・炭窯・瓦窯(ロストル式平窯)・製鉄炉のしくみと構造をいっぺんに実地で教えていただけたのですから。
 現地でお話を聞きながら、頭の中は高校と大学で覚えた化学の復習。うーんなるほど、これらのテクノサイエンスに共通の極意は、「燃焼における酸化・還元と温度」か。
 この極意さえ理解できていれば、古代の技術エリートになれるでしょう。でもたぶん当時は最大の企業?秘密。「渡来系技術集団」という単語がでてくるのも無理はなさそう。

 胴体しかない埴輪がなぜ「斑犬」?
 富士見台古墳展示室にあった完全な形の鹿と胴体しかない「斑犬」の埴輪、なんで鹿と犬かという答えは、「鹿の方だけ、尾の周りのお尻が白い」&「鹿は彩色に白の斑点で、犬は無地に色の斑点」じゃないかしら。
 ニホンジカの生態を調べたら「危険を感じるとしっぽの白い毛を広げて合図する」のだそうです。
 先月末職場で小学生高学年を相手に「夏休み理科教室」をやりましたが、昨日はわたしにとっての「理科教室」でした。

 現地説明会の写真と報告は製作中、近日中にUPしますので、参加したみなさま、参加した感想やルポを掲示板かメールで寄せてね。




222. 柏崎窯跡群の現地説明会に参加 さわらびT  2002/08/05 (月) 20:20
8月4日、霞ケ浦町柏崎の柏崎窯跡群の現地説明会に参加してきました。

遠足気分で、土浦駅に9時集合した一行4名、柏市在住のAさんが車で迎えに来て下さったので大助かり。

説明会開始の10時には充分すぎるほどの時間に富士見塚古墳公園に到着。発掘現場は目の前です。説明会場にいらっしゃる桃崎先生の愛用のターバン(?)姿に出会えてホッと一安心。テーブルに並べられた須恵器の断片を見せていただきました。

説明会は現場の狭い状況から20名づつとのこと、早くから待機していた私たちは最初に説明を受けることができました。これで、早起きしてはるばると来たかいがあった(^-^)

ご説明していただいたのは筑波大学大学院の渥美さん。7世紀前半代の窯跡であること、窯そのものが煙突状になった窖窯であって、焚口部・燃焼部・焼成部にはっきりした区別がないという構造のことをお話いただきました。

発掘作業も続けていました。のぞきこんで見ますと、須恵器の破片が重なるように見えています。なぜ残されているのでしょうか。

国士舘大学が発掘中の製鉄遺跡も急遽、現地説明会を開催してくださったので、そちらにも足を運びました。須田勉教授からご説明を受けました。当時、石岡にあった常陸国府の建物を作るため、砂鉄からの鉄素材を生産する場所だったこと、またなぜ高い山に作るかというと、平地では置き場に困る、たくさん生じる鉄の流動滓を転げおとすことができるからだとご説明してくださいました。

お昼を霞ヶ浦町郷土資料館前の食堂でとりました。ぺヘレフライ定食は桃崎先生のお勧めです。

資料館を見学したのち、再び発掘現場へ。差し入れを届けに行きました。(これって誰のため?)
まだ発掘は1週間ほど残っているとのことです。(12日まで)
駐車場や、ガイドに立っておられた学生の皆さんも暑い中ご苦労様。

富士見塚古墳公園を拝見したあと、せっかくだからと風返稲荷山古墳を目指しました。説明板も倒れていると聞いておりましたので、不案内なまま近くまで車で行ってみました。残念ながら、住居地図をたよりに民家の裏山にあたる所かなと見当をつけるだけしか出来ませんでした。

資料館で購入した『霞ヶ浦町遺跡分布調査報告書−遺跡地図編−』(1000円で売ってます)で、きちんと勉強もしなければとも思いました。




220. カールした髪の西域の仏陀と清凉寺式釈迦像 さわらびY(ゆみ)  2002/07/28 (日) 22:09
 金・土曜日と2日間、西大寺荘園絵図に関するシンポジウムで東大の古びた教室に缶詰だったので、今日は上野の森を散歩し、「アフガニスタン悠久の歴史展」を見てきました。
 戦禍でダメージをうけたアフガンの文化財救済キャンペーンとして行なわれた展示でしたが、さすがユーラシア文明の十字路だけあって、感動的な内容でした。
 特に、かろうじて残された仏像にインドとギリシャの重層的な深い文化が感じられます。
 彫りの深いおもざしにカールした髪を結い上げ、水にぬれたようなひだの衣をまとう仏陀。 
 私がなぜかはまってしまっている清凉寺式釈迦如来像は、はるかこの地に生をうけ、中国からこの下総の地まで来たのでしょうか。
小学校の時、長蛇の列に並んで上野の東博の正倉院展を見ました。
 その時受けた感動と、初めて知ったシルクロードという言葉を、今回また思い起こされたような気がします。
 それにしても清凉寺式釈迦如来像を貴んだ西大寺の叡尊さんもまた、はるか西域の仏陀に惹かれたお一人だったのでしょう。
 この特別展、9月16日まで東京芸大美術館でやっています。




219. 現地説明会には行きましょう さわらびT  2002/07/28 (日) 22:00
先週は「佐原真さんとのお別れの会」がありましたし、21日も別の用件があったので北谷遺跡の現地説明会には行けませんでした。昨年11月に上野国府探訪バス旅行があって、北谷遺跡もおとづれたのですが、その時は埋め戻された状態でした。
現地説明会に参加された方から資料をいただきました。三ツ寺T遺跡との関係について、資料では「@王が三ツ寺T遺跡から北谷遺跡に館を移し、新しく山麓を開発した。A三ツ寺T遺跡と北谷遺跡の王は別の家柄であった。という2つの説」と紹介しこれからの研究課題とされています。三ツ寺T遺跡と設計が同じなら、親しい関係のように考えますが・・・
ところで、霞ヶ浦町柏崎窯跡群現地説明会には是非行きましょう。ちょっと遠いですがせっかくの機会です。誘い合わせて出かけることにしますので、ご同行いただける方はご連絡ください。




218. 茨城県霞ヶ浦町柏崎窯跡群現場説明会のお知らせ  さわらびY(ゆみ)  2002/07/26 (金) 08:03
 茨城県霞ヶ浦町柏崎窯跡群現場説明会のお知らせ 

 筑波大学考古学研究室では、8月4日に茨城県霞ヶ浦町柏崎において柏崎須恵器窯第4次調査の現地説明会を開催します。
 本窯跡はこれまでの調査で、古墳時代後期、7世紀初頭前後の地下式窯であることが判明しており、今調査で完掘の予定です。
 隣接する国士舘大学の調査地点では、常陸国分寺の創建にかかわる瓦窯、製鉄炉、炭窯も見つかっています。

日時 8月4日(日) 10:00〜  14:00〜 各二回
場所 茨城県霞ヶ浦町柏崎
交通 JR 土浦駅西口発 玉造駅行き 柏崎三叉路下車徒歩約5分
 田伏車庫行き 下根入口徒歩約10分

下根入口は柏崎三叉路から菱木川を挟んで対岸に位置で目視できる距離。
柏崎三叉路バス停と、駐車場付近からは学生が案内表示を行う。

駐車場:近接する富士見塚古墳公園と柏崎農村公園(数に限りあり)

(以上http://6302.teacup.com/k21926/bbsから引用しました。)






217. なんで「ブチ犬」? さわらびY(ゆみ)  2002/07/26 (金) 00:29
> よかったですね。霞ヶ浦は本当にきれいですよね。岸辺では今でも砂鉄が取れるとか、以前拾ってきたことがあります。製鉄遺跡は砂鉄を使用しているのでしょうか。
 
たぶんそうでしょうね。4日の現説で桃崎先生にぜひお聞きになってきてください。

> 遠くから見ても大きくてびっくりした富士見塚古墳ですが、動物埴輪もかわいくて、群馬、埼玉で見る埴輪とは印象が違ったのを覚えています。

富士見塚古墳展示室中央の展示ケースに、かわいらしい鹿の埴輪とそのとなりに同じ大きさぐらいの「ブチ犬」と書かれた首のない埴輪がありました。
同行した4人で、なんで「犬」って決めたのかなとしばし議論しましたが、「?」でした。
もし行かれたら、その疑問のこたえも探してきていただけますか。
それにしても柏崎は遠いですよね。



215. 水上に浮かぶ巨大館 みきこ  2002/07/24 (水) 20:53
7月18日の読売新聞での「群馬県群馬町・北谷(きたやつ)遺跡で三ツ寺T遺跡と同じ規模の豪族居館が発見」の記憶も新しいですが、群馬の友人から上毛新聞を頂きました。その見出しが「水上に浮かぶ巨大館」です。主は?@勢力的にみて染谷川を支配した総社古墳群説、A井野川水系に近く三ツ寺遺跡と関係の深い保渡田古墳群説B火山灰で埋まった造りかけの古墳が近くにある可能性、とのこと。付近の農家の人の話では消えてしまった古墳があったとか。
 5世紀末に築かれ6世紀初の榛名山噴火で廃絶されたそうです。三ツ寺T遺跡の居館も6回ほど改築された事がわかっているみたいですが、祭祀、工房、水道橋、掘立柱建物とその当時の土木工事技術も含めてびっくりしますね。近くにガラスと、歩揺の付いた下芝谷ツ古墳の飾履もあるし、かなり渡来系の技術が入っているということなのでしょうか。 ところで、保渡田古墳群の薬師塚古墳出土の小金銅仏について、桃崎先生におたずねしたところ、それは信頼できないものと教えていただきました。後世鋳型で複製を造った様な感じがしますが。五胡十六国時代の小金銅仏と感じが似ていると思っていたのですが・・




214. Re: 同窓会 さわらびY(ゆみ)  2002/07/24 (水) 01:03
可児さま
Yが在学したミッション系小学校の同窓会のHPが先日、Yの弟達の尽力で開設されました。セミプロの手になる作品のようで、さすがよくできていますね。
 開設祝い?に、当「さわらび通信」も「同窓生個人のHP」にリンクされたようで、ここからでしょうか、さっそく可児さまにもアクセスいただきまして、ありがとうございます。

 私は1期生ですので、8期生というと、面識がないかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします。
 このHPのhttp://homepage1.nifty.com/sawarabi/2oyayubinoseibo.htm
にも、碑文谷教会の建設中の古い写真などを載せていますが、最近はめったに母校を訪れることはなく、同窓会のHPで母校の周辺の写真をみるとなつかしく思います。

 以下母校および個人的な件は、メールしますのでそちらをご覧ください。




212. 同窓会 可児裕章  2002/07/23 (火) 23:20
8期生の中途入学の可児です。家も鷹番なので、母校が昔の面影なく、ある意味では残念です。まるでマンションみたいで!
マリア様の像も隅っこに追いやられて胸が痛みます。
たまに同窓会開きますが、皆50近く大変な時で(子供:仕事等ローン)なかなか集まれません。
何かいいアイデア有りませんかね?



211. 霞ヶ浦はいいですよね みきこ  2002/07/23 (火) 20:13
さわらびY様
よかったですね。霞ヶ浦は本当にきれいですよね。岸辺では今でも砂鉄が取れるとか、以前拾ってきたことがあります。製鉄遺跡は砂鉄を使用しているのでしょうか。遠くから見ても大きくてびっくりした富士見塚古墳ですが、動物埴輪もかわいくて、群馬、埼玉で見る埴輪とは印象が違ったのを覚えています。説明会行ってみたいですね




210. 柏崎須恵器窯発掘現場を見学しました さわらびY(ゆみ)  2002/07/22 (月) 00:04
 梅雨明けで関東地方はすごい猛暑でしたね。
 桃崎先生から7日に「193. 明日から発掘です。」というお便りをこの掲示板にいただき、さっそく八千代市郷土歴史研究会の転勤族若手メンバーと4人で、発掘中の霞ヶ浦町柏崎須恵器窯現場を見学してきました。

 まずは、霞ヶ浦町郷土資料館(なんで近世の天守閣の建物なの?…)に寄り、地域の様子を大づかみに予習、地図をいただいてから、富士見塚古墳公園展示館に行き、そこで運よく桃崎先生にお会いできました。
 先生はお元気そうに日焼けし、くらくらするような暑さもものともせず、熱心に説明されながら、富士見塚古墳すぐ近くの筑波大学担当の現場を見せてくださいました。 
 柏崎須恵器窯は7世紀初頭を前後と考えられる茨城県下では最も古い須恵器窯で、窯の構造や、霞ヶ浦の水運を意識した生産や流通の解明が期待されるそうです。
 29日がプレス発表予定、台風の襲来で作業が遅れ、とてもお忙しい中でしたが、急斜面に作られた窯の構造や、窯内の酸化・還元反応での色が違いなど基本的な説明を丁寧にしてくださり、また同じ丘陵の先端で製鉄炉の発掘現場(こちらは29日から国士舘大が発掘)にもご案内いただきました。
 この暑さの中、手弁当で作業されている大学の方々、本当にご苦労様です。

 なお8月4日に現地説明会があるとのことです。
 お出でになる方は、霞ヶ浦町郷土資料館(tel 0298-96-0017 隣接して食堂も完備、ただし現場は遠い)かまたは、富士見塚古墳公園展示館(tel 0298-96-0174 土浦からバス50分柏崎三叉路下車すぐ)にお問合せになるとよいとでしょう。
 暑かったけど、古代のテクノコンビナートの丘上に築かれた富士見塚古墳からみる霞ヶ浦の景色は絶景でした。
 桃崎先生、現場のみなさま、本当にありがとうございました。




209. 佐原さんありがとう さわらびY(ゆみ)  2002/07/21 (日) 08:07
佐原真さん
 きのうは、とてもすてきなお別れ会でしたよ。
佐原さんのお人柄から、一ファンが参列しても、偉い先生方の弔辞に距離感を感じてしまうようなお式では決してないだろうと確信していましたが、ご家族や友人の皆様方が一生懸命なさって、本当に心あたたまる会でした。

 昨春、あと半年の命と宣告されてからの1年間、与えられるものはすべて与え、残すべきものはすべて残していきたいという気迫をずっと感じていました。
 パソコン通信を始められたのも、急に年賀状をくださったのも、今にしてみれば決して意外ではなく、これから末永くおつきあいできない代わりだったのですね。
 Tがサインを求めたご著書には、私の名前もいれてくださって『原始、女は実に太陽であった。そして、今も太陽だ』と記してくださいました。
 メル友の佐原さんにぜひお見せしたくて、このHPに載せた唐古鍵遺跡の桜と平等坊の発掘現場の写真を、とても喜んでくださったのも、私にとってすばらしい思い出になりました。
 そして、この掲示板148にメモした「600万年前、人間が誕生したとき、チンパンジーのような相手を威嚇するための牙を持たなかった。牙は犬歯となった。最近私は神がいるように思うのだが、神様は人の口に武器となる牙ではなく、平和のための言葉を与えた。」という歴博植物園でのメッセージは、やはり遺言だったのですね。

 式の最初の黙祷のとき、「神さまはおられましたか」と、そっとたずねてみました。
 式が進行し、等身大の佐原さんが皆さんのことばでうきぼりになり、そして最後に奥様が「邪気のない真っ白な心、そしてだれをも平等に愛する心」と表現されたとき、生きてすべてをみんなに与えてくださったあなたご自身こそ、神さまがいかなる存在であるかを語っていると思いました。

 心にしみるお別れ会を、佐原さん、そして佐原家のみなさん、ありがとう。やっと元気が出そうです。




208. 佐原先生とお別れ さわらびT  2002/07/21 (日) 07:52
7月20日(土)「佐原真さんとのお別れの会」に行きました。お別れの言葉は皆さんとても心のこもったものでした。誰に対しても同じ接し方をされたのだということがよくわかりました。
佐原先生は残された時間を十分ご承知で、私たちにメッセージをつたえ続けておられたように思います。

神津カンナさんのあげられたエピソードもお人柄と学識を偲ばせてくれました。「長い人類の歴史を顧みれば、家族がみんな揃って食卓を囲んでいる姿のほうが、ごく最近になって出現した珍しい光景なんです。古代は外敵に襲われないよう、変わりばんこに見張りに立ったり、僅かな時間にかきこんだりしていたのですもの。かっては○○だった、○○が失われたと人はいとも簡単に言うけれど、案外ね、ほんの人の一生分、数十年程度の中で比較していること、多いんですよ、気をつけないと」

女優の真野響子さんが「先生に会わなかったらこんなに考古学のことを、そしてモースさんのことを知ることはなかった」と語りかけられました。私たちもまた佐原先生との出会いが考古学の面白さを教えていただいたし、勉強する元気の源でした。考えているうちに涙が止まらなくなりました。

奥様のごあいさつ。7月10日、「ありがとう」と三回告げて佐原先生は旅立たれたそうです。




205. 旅行の報告 さわらびT  2002/07/18 (木) 00:04
みきこ様

いつもYの行動力に後押しされて、旅に行きます。佐原先生の訃報をうかがったあとだけに今回は元気がイマイチ。しかもパソコンがダメージ受けていますので、Yの旅行報告は遅れそうです。

13日に下野薬師寺周辺の史跡を探訪したのち、しもつけ風土記の丘資料館にたちよりました。ご説明いただいたあとで国分寺・国分尼寺も見学してきました。

資料館の展示品で気に入ったのは、桑57号墳出土の天冠・蛇行剣。被葬者は出土した4個の歯から30歳前後の女性と判明しているとのこと。残念ながら遺跡に立ち寄る時間はありませんでしたがみきこさんの影響でしょうか、天冠にじっくり見入ってしまいました。5世紀末、小山市喜沢の群集墳の盟主墓と想定してもいいかな。被葬者のシャーマン的性格を考えてもいいのでしょうか・・・
蛇行剣と七支刀の関連は?興味は尽きないです。




204. 佐原先生の思い出 さわらびT  2002/07/17 (水) 23:57
 佐原先生がなくなられて1週間ですね。ご病状をうかがってはおりましたので、覚悟はしていましたが、なんとも寂しいです。

 国立歴史民俗博物館の第155回講演会「倭国乱る」(1996年11月9日)が本になっています。(「歴博ブックレット」、1997)来週「シルクロードの会」でご講演なさる仁藤敦史先生との掛合いの模様を懐かしく思い出しました。

「皆さん今日は、私は歴博の広報普及委員の佐原です(1996年当時)。歴博講演会の司会は、広報普及委員会の誰かがやることになっているので、これから私が司会を務めます。
 ただ今から第155回の歴博講演会を開きます。講演は「倭国乱る」、講師は考古学の佐原真さんと歴史学の仁藤敦史さんです(拍手)。
 ただ今紹介を受けた佐原です(笑い)。」
 
 名調子でいつもこんなに元気に飛びまわり私たちを楽しませてくださり、学問の面白さを堪能させていただきました。本当にありがとうございます。

 ご冥福をお祈りします。




203. 栃木はよかったですか みきこ  2002/07/15 (月) 22:03
さわらびT、Y様
おかえりなさい。いろいろと収穫があったようですね。私はようやく上野の韓国国宝展に行ってきました。金冠塚古墳出土の勾玉と歩揺のついた王冠はすばらしかったですね。茨城の三まい塚古墳出土の冠は人がかぶったとは思えないほど大きかったと覚えているのですが、金冠塚のはかぶれますね。天馬塚古墳出土の腰はいは腰回りが大きくて、存命中に着けていたとは思えなかったですね。でも私の好きな勾玉と鈴がついていたので感激しました。私の収穫は「中世の霞ヶ浦と律宗」の本を博物館でてにいれたことです。ウフフフ。「常陸の国風土記」の関係で霞ヶ浦付近はよく出かけたのですが、私にはまったく新鮮な世界です。教えていただいてありがとうございます。




202. 栃木の旅行から帰宅しました さわらびY(ゆみ)  2002/07/15 (月) 20:09
昨夜、栃木の旅行から帰宅しました。
宇都宮在住のKさんが、千葉史学会でお会いした際に、「おしどり塚公園は僕が子供のころからの遊び場」をおっしゃったので、「おしどり伝説の伝承地と律宗ゆかりの寺や石造物を探しに行くので、その公園も教えてください」とお願いしたところ、なんと2日間も暑い中、史跡探訪のご案内をしていただきたいへん感激しました。
Tは、古代寺院(下野薬師寺は夫婦共通?)と栃木の古墳を探索し、充実した3日間でした。

出発する朝、W-XpのPCが起動しなくなり、帰宅後、がんばってみたけど、これはプロに頼むしか手だてはなさそう。バックアップしていなかった春から撮影した画像ファイルが、リカバリーで消えてしまったらどうしようかと、気持ちはブルーです。

帰宅後、佐原家の「密葬」に参列したH.Fさんから「奥様の看病・真先生の闘病生活に涙が止まりませんでした」というメールがついていました。
涙腺が耐えられるか不安ですが、先生へ心からの感謝の気持ちをお伝えしたく、20日のお別れ会に参加しようと思っています。




201. 佐原先生への思いをありがとう さわらびY(ゆみ)  2002/07/12 (金) 07:53
みきこ様、おみや様、佐原先生への思いをありがとうございました。

今日2002年7月12日は、忍性さんが入滅して七百年忌の日です。
忍性について「今、本に書いていますよ」といっていろいろ教えてくださった石井進先生も、去年突然、この世から去っていかれました。
佐原先生と、あの世でどんなお話をおられるのでしょう。

今から、2泊で栃木に歴史探訪の旅行に行ってきます。メールチェックが遅れますが、ご了承ください。

今朝、W-XpのPCが立ちあがらなりました。帰宅後リカバリーできるか、不安な旅立ちになりました。
では、行ってまいります。