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No.1201-No.1300 2004/01/232004/04/02
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1300. Re: 雪が降る さわらびT  2004/04/02 (金) 23:30
開田様

またお会いできそうですね。その行動力に脱帽です。

このところ、私たちの望むところに風は吹いてこない。そこで、何をすればいい。この歳になって自問しているのも、ふがいない話ですが、せめてインターネットの世界で、語れるあいだは、続けていきたいものです。

憲法が危ないと強く認識され、末永く運動を続けられている方がおられます。私は尊敬しておりますが、その方、高田健さんは『幕末・明治民衆運動史研究会』を主宰されてもおられたのですが、残念ながら今は活動休止状態です。

今、歴博で『民衆文化とつくられたヒーローたち』開催中です。アウトローが登場する幕末維新期を描いているようですが、まだ出向いていません。今回は、歴博には行かれませんか?

いつの時代も同じこと、役人風を吹かせて民衆をいたぶるのに対して、国定忠治がヒーローであったのでしょう。今日ではその役割をになったのが久米さんであり、岡留氏であったはずですが、舞台を去ってしまいました。




1299. 雪が降る 開田 誠 [URL]  2004/04/02 (金) 16:51
 寒いなと思い、外を見ると、雪が舞っている。ストーブもつけた。
ここ連日、花の便りばかりだったのに、これだからだねという気持ちになった。

 書き込みをさぼっていました。書きたいことはいっぱいあるのですが、、、
 なにしろ、今の私は声が出ないので、こういうところで、言いたかったことを言うものがたまってくることもないのではないのです。なぐさめになるかもしれませんが、そればかりに走るのはどうかと思い、書き込みにはふん切れていません。
 実際、言いたいことが次々とやってくると、このPCの前に坐らんかなとなるのは、いかんとなってしまいます。

 『噂の真相』が休刊になるのかと思っていましたらば、”ニュースステーション”の久米さんが降りる、都の卒業式の「日の君」問題(友人たちが31日に処分されました)につづいて、「週刊文春」検閲問題がおこりました。

 私はまだ網野善彦さん関連書を読み続けている毎日でした。
 始めたばかりの古書店が閑なことにかこつけて、好きなことをやっているばかりです。
 目録登載のための整理が済んでいる分もかなりあって、PCの前に坐れば、その入力の作業をまず第一にしなければなりません。と思うとこの作業が仕事とはいえ、かなりの脅迫的なことになり、病後の私にはきついのです。(何をしていればいいかという悩みから解放されては、まだいないのでしょう)。

 久しぶりに、「週刊文春」を買い求めました。差し止めの次号である。表紙はサクラの花がいっぱいでした。見解を述べる方々も多彩でした。
 憲法論議、権利問題の論議が重要であるのだとも思うのですが、私には、販売ルートの人々がやすやすと販売中止にしてしまったことや、図書館がすぐさま閲覧中止にしてしまうこと、そういうところから、うかがえる社会的な体質が重要な問題だと思いました。

 戦前を振り返り、”私たちはだまされていた”という声が聞かされてきましたが、それはあの時代の彼彼女がみずからが率先だまされていたのではないのか。
 学生時代以来、私も多くの社会的な問題に関わる闘争に関わってきましたが、そこで痛切ににおもいしらされたのは主体性のない御仁を見続けたことでした。

 ”イラク派兵”に疑問を持ちつつ、いつしか仕方なしと思う世論を誘導する新聞マスコミのふがいなさは、全く戦前を学んでいません。

 雪が降ると、全ての汚さを覆い隠す自然のズルさをにくみます。




1298. また、旅に出ます。 開田 誠 [URL]  2004/04/02 (金) 12:40

 PC漬けにならないように、あまり立ち上げない。
 始めたばかりの古書店への注文があるかもしれないので、メールを開かなければいけないのだが、それはつれが息子たちからのメールがないかとしてくれる。ほとんどが、私の友人からのもので、ため息ばかりしている。
 上手に交渉成立なのだった。なかなかメール、便りを寄こさない二人を訪ねることになったのだ。私に金はないが、時間がある。(今、財務は彼女なのです)。
 仕事はのんびりで、その閑?にかまけきって、この一ヶ月は網野さん関連の経済史の本ばかりに熱中してしまっていました。
 中世史は久しぶりに戻った。その何倍かのエネルギーで古代史にむかってきました。その一つのテーマが”聖徳太子はいなかった”で、その論者、大山誠一さんの講義が4月10日に東京である。それに行こうとしたのが今回の旅なのです。
 旅たつと歴史的に関心のあったところをついでに訪ねます。息子が京都に居つくことになってしまうのに、(拠点ができるのだ)いいのではないかと言ってしまった。
 どこかで、たのしい探訪会はないかと捜しています。
 4月5日〜18日の旅になります。
 北海道、道東から出るのはしんどいので、出ると飛ぶようにあちらこちら行くのですよ。




1297. 「壷阪寺に見る藤原京と慶州南山の面影」をUP さわらびY(ゆみ)  2004/04/01 (木) 23:53
「大和〜河内の旅アルバムZ- 壷阪寺に見る藤原京と慶州南山の面影」をUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/12.29nara.htm

年末に2泊3日の駆け足で廻った旅の歴史紀行ですが、ガイドブックにないような視点からの考察と、画像の選択に手間取って、7ページになってもまだ終っていません。

一緒に行ったTは、どこへ行ったかもすっかり忘れてしまって、「どうせ誰も見ない」を連発しています。(もし見てくださっていたら、どうかエールのおめぐみを!)
まあ、最後までぼちぼちUPしますのでなんとかお付き合いください。

大和・河内はどこに立っても遺跡ですし、古代だけでなく中世・近世の歴史も興味深く、また東アジアの歴史と直結しているので、いくらでも話題は広がってきて、今回はたぶんに恣意的な観点で好きなことを書いています。

史跡のオフィシャルなきちんとした説明は、ページの下に参照リンク先を載せてありますので、そちらをご覧ください。
特に「Don Panchoのホームページ」には丁寧で正確な解説があります。

ただいま、今月の下旬の格安百済ツアーの申し込みを検討中。
飛鳥も、高槻も、韓国にも行きたいと夢ばかり追っている昨今です。






1296. Re: きのうはありがとうございました さわらびT  2004/03/31 (水) 00:29
なんか場違いなところにいるようで落ち着かなかったです。でも面白い経験でした。久しぶりにお目にかかれたので、話したいことばかりで好き勝手にしゃべりまくってしまったようで申し訳ないです。加藤先生の中臣氏の話も機会があれば、よかったら一度、聞きにきてください。

学生時代は、帰宅経路だったんですが、渋谷は現在の私にはちょっと遠いんで帰りを急いでしまいました。もっとお話したかったですね。マドレーヌおいしかったです。




1295. 武蔵府中熊野神社古墳 さわらびT  2004/03/31 (水) 00:20
朝日新聞夕刊(30日)、中村俊介記者の署名入りも記事ですが、「武蔵府中熊野神社古墳」が上円下方墳として最古例になる可能性を指摘しています。近つ飛鳥博物館館長になられた白石太一郎先生の発言を紹介していますが、「上円下方墳と見られる古墳は埼玉県にもあり、畿内と直接関係なく、武蔵国に共通した築造背景があったのではないか」とのことです。

ますます注目される古墳ということになります。

4月17日明治大学博物館友の会「日本考古学2003」では小林三郎先生がお話されるようです。

昨年12月の現地説明会の報告もかねたHONさんの『坂東千年王国』掲示板過去ログもご参照ください。(私は別の行事で参加できなかった。)

http://hon.web.infoseek.co.jp/krog/krog32.htm#837




1294. きのうはありがとうございました まさみ  2004/03/31 (水) 00:11
さわらびTさま、昨日はありがとうございました。
平均年齢20ん才の店はすごかったですね。
また変なものを食しに行きましょう。




1293. Re: 津田左右吉 さわらびT  2004/03/30 (火) 00:01
私は、まだきちんと読んだことはありません。

ただ、高橋氏文をテーマにした加藤先生のお話の中で、津田左右吉にふれておられたので、興味を持ちました。

『古語拾遺』に依拠して、安房神社の斎官は忌部氏であるという説に加藤先生は待ったをかけたのですが、そこで津田左右吉を引き合いに出されたのでした。

『古語拾遺』の記述に関して、「安房と総を忌部氏の勢力範囲であったかと如く説きなさんがためにつくられたものであろう」と述べている、と説明されておられましたね。これ、『日本古典の研究』に書かれているんでしたっけ?調べる余裕がなくて、気になったままになってます。




1292. 津田左右吉 オホヤシマ  2004/03/29 (月) 12:18
「日本古典の研究」を読みはじめたことありますが、途中でやめてしまいました。なんでも後世の潤色、造作でかたずけている感があり、反発を覚えました。ただ、詳しくみると色々面白い観点があるようですので、一度ちゃんと読んでみたいと思っているのですが、まだ達成できていません。




1291. 米本城址での「街づくり市民の会」主催「里山づくり行事」に参加して さわらびY(ゆみ)  2004/03/28 (日) 23:04
本日(3/28)八千代市の米本城址での、「街づくり市民の会」の皆様の「里山づくり行事」に参加させていただきました。
市博物館の村田館長が子どもたちに(私たちにも)米本城の説明と案内をされ、米本城址を探検したほか、、竹炭焼きや竹釜でのご飯炊き、さらに上総掘りで井戸を掘る実演など盛りだくさんの行事を、皆さん和気藹々楽しんでいられました。

いつもは、やぶこぎと急な断崖で、一人ではなかなか入れない米本城址ですが、市民の会の皆様が城址の手入れをしてくださっていたのと、良い天気に恵まれて、久々に本丸(T郭)まで奥深くまで入れました。

写真はこちら→http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/honmaru1.jpg
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/kazusabori1.jpg

市民の活動と地権者の方々のご理解で、こうして遺跡と環境が守られていくのだという未来を予感しました。
街づくり市民の会の皆様、どうもありがとうございました。
(竹釜で炊いたおこわも美味しかったです)

午後は、八千代市郷土歴史研究会の調査で飯綱神社下の道標の拓本とりをしましたが、よく日に焼けたのか、顔がひりひり。
本当に春を満喫した一日でした。




1289. 川崎市市民ミュージアムの展示 さわらびT  2004/03/28 (日) 00:16
今日は法事があり生田まで出向いたのですが、その帰りに川崎市市民ミュージアムに立ち寄りました 。

常設展示の3「川と墓の文化」のコーナーでは馬絹古墳(7世紀後半頃)の石室内部を3分の2に縮小した模型も展示されていて、切石積みの状態がよくわかります。

現地では、石室内部の見学は不可能とのことです。この終末期古墳の複室構造、床面にが敷かれていた模様も再現されわかりやすい。(馬絹古墳については、以下を参照)

http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/zukan/z0804.htm

ほかにも、白山古墳出土の三角縁神獣鏡の復元複製など、興味深い展示もありました。




1288. Re: 日本書紀の読み方 さわらびT  2004/03/27 (土) 00:02
オホヤシマ様

こんばんわ。さすがに加藤先生は、『日本書紀』から史実を読み解くのに鋭いですから、うーんと感服させられます。雄略の「軍事専制王権」のもとでの物部と「和珥」系豪族との交流の様相の問題など、興味深く読んでます。

山田英雄『日本書紀』(教育社歴史新書、1979)という本に、津田左右吉にふれた部分があるのですが、ちょっと興味をもちました。誰にもまねのできない業績と評価した上のことですが、多少の欠陥はある、として書いてありました。津田が後世の付加であると切り捨ててしまった中に重要な史料がありはしないか、というのです。とても難しいです。だから、『日本書紀の読み方』って、すごく大事なテーマになりますよね。

オホヤシマさんは、読んでおられるのでしょうが、私は津田左右吉ってあまり読んだことないです。ただ、だいぶ前になりますが、増尾先生が講演で『天皇考』を取り上げておられたので、サワリを読んだかな?その増尾先生から教えていただいていたのですが、みのかも文化の森・美濃加茂市民ミュージアムで『津田左右吉―その人と時代―展』(2月8日〜3月21日)が開かれてたようですね。行けなかった催しのことを書いても仕方ないか・・・・




1287. 日本書紀の読み方 オホヤシマ  2004/03/26 (金) 12:36
今読んでいます。やはり加藤先生の話が内容も充実していて興味深いですね。今勉強している氏族のことを背景にするとより理解が深まります。




1286. Re: 壁紙写真集 さわらびY(ゆみ)  2004/03/24 (水) 23:15
mwaraさま

> 壁紙4点ほど更新しました。

すばらしい写真作品をありがとう。
「大塔したの手すりに移った木々」のは、こんな視点があったのかと驚かされました。2点目は大塔はたぶん明日、職場のノートパソコンのデスクトップにいただき!です。

1月に撮影された成田山の作品も、その大胆な構図と色彩に目を見開らかされるものがありましたが、3月の作品ではさらに精進されておいでのようで、今後とも期待しています。

私は、史跡や民俗の説明的な写真をせめてうまく撮りたいものと心がけていますが、なかなか満足な写真が撮れなくています。

「大和〜河内の旅アルバム」では、Vの西琳寺の巨大な礎石の心柱穴、Yの津堂城山古墳が、自分としてはまあまあかなというところ。ご批評ご指導をいただければ幸いです。





1285. 壁紙写真集 mwara [URL]  2004/03/24 (水) 00:09
壁紙4点ほど更新しました。21日成田山公園へ行ったときの絵ですが午後5時日が沈む寸前でした。1点目は大塔したの手すりに移った木々です。メタリックに写る自然の絵は何となくクラッシク調で昔保管してあった写真のイメージのようです。2点目は大塔と芽吹き始めた木々を入れての伸び伸びした感覚で撮影に心がけた絵です。3点目は枝垂桜と池に写る木々の様子です。この時すでに6時近くになっていました。4点目は自宅の花壇です。後方にはパンジーが咲いています。チューリップもご覧の通りです。




1284. 『日本書紀の読み方』(講談社現代新書) さわらびT  2004/03/22 (月) 23:56
『日本書紀の読み方』(講談社現代新書)が発売されました。

『古事記』と比べて、面白さにかけるということなのか、いまいち人気がないのが『日本書紀』です。こうした現状に対して、チャレンジされたのは遠山美都男氏、平林章仁氏、前田晴人氏、早川万年氏そしてこのHPではおなじみの加藤謙吉先生です。

加藤先生は「「歴史の出発点」としての雄略朝」のほか、遠山美都男氏とともに「日本書紀を作ったのは誰か」を論じておられます。講演会「『日本書紀」とその原資料」(5月8日)で詳しく論していただけることでしょう。

刺激的で読みがいのある一冊だと思います。




1282. Re: 暑さ寒さも彼岸まで・高津の桜が咲きました さわらびY(ゆみ)  2004/03/21 (日) 23:52
mwara様

春を待ちわびながら、貴兄のHPの吉高情報を拝見していました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~W730688M/warasan195.htm
吉高の桜は、十年ぐらい前に父と行ったことがありましたが、4月中旬なのに、まだつぼみだったことを思い出します。

今日は母を車に乗せて、父の命日に近いので墓参りなどに出かけたついでに、高津の観音寺の桜を撮影してきました。
先週まだ6分咲きぐらいでしたが、今日は満開を過ぎようとしています。
なんという種類なのか、市内では早咲きのほうのようですね。
「高津の桜がさきました」にUPしましたのでご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/04.3.21sakura.htm

佐倉のチューリップ祭りも見て帰ろうと誘ったのですが、母は父とよく行った所なので思い出すから行きたくないと言い、こちらの撮影はまだできずにいます。
というわけで、mwara様の花情報を楽しみにしています。




1281. 歴史展「きさらづの古墳出現期」 さわらびT  2004/03/21 (日) 22:26
今日は講演会もありましたので、金鈴塚遺物保存館の歴史展「きさらづの古墳出現期」に行って来ました。
高部30・32号墳出土品など、多くの土器、鏡、小銅鐸、ガラス玉など、見ごたえある展示がなされています。

期間は、3月13日〜5月3日
[問い合わせ先]
木更津市立金鈴塚遺物保存館 TEL0438-22−3676
開館時間 午前9時〜午後4時30分(月曜日は正午まで)
休館日 毎週火曜日・4月30日

http://www.city.kisarazu.chiba.jp/information/topics.html#02

今日の講演は、『千葉県から見た古墳出現期の木更津』
講師:(財)印旛郡市文化財センター調査課長 加藤 修司さん
会場:県立上総博物館(太田山公園内)

高部30・32号墳は出現期の前方後方墳ということになりますが、市原が畿内勢力との関連が強いのに対して、木更津は東海との結びつきが強いのは一目瞭然。

講師の加藤先生は、箸墓以前を古墳と考えない近藤説には批判的なお考えを示し纏向型を古墳と考える立場を明らかにされました。発掘のご経験をもとにわかりやすく、楽しいお話でした。

木更津は前方後円墳の成立が遅れるようですが、解説シートには高部30・32号墳の出現をもって古墳時代の到来とする、と明言されています。




1280. 暑さ寒さも彼岸まで mwara [URL]  2004/03/21 (日) 00:56
ゆみ様>冬眠からやっと抜け出したクマの心境です。
今日は春分の日、本来なら暖かい日でありたいと思っていましたが、国立では雪が降っていたようです。我が家の花壇も今は雪柳にチューリップが顔を出して来ました。クリスマスローズは花を沢山つけ直向きに咲いています。桜は例年より早く開花宣言が出たのにこう寒くては咲こうにも咲けないもどかしさ。佐倉の春はチューリップ祭りで始まりますが、その頃はきっと桜も満開になっていることでしょう。




1279. Re: 本の泉:事典をたのしむ さわらびT  2004/03/20 (土) 12:14
開田様

本当によくお読みになりますね。最近、老眼の度が進んだせいもあって(言い訳?)、あまり多くの本は読まなくなりましたね。興味あるとこだけ読んで、考え込んだりしてます。

>  4月に、また東京へ行けそうです。Tさん、会えそうですよ。ゆっくりお話をおききしますよ。この、広開土王碑について勉強しておきますよ。

早乙女先生が、ご講演の中で紹介された本ですが、『好太王碑と高句麗遺跡―4、5世紀の東アジアと日本』(読売新聞社、1988年)は確かに面白いです。残念なことに品切れです。開田さんにお願いして探してもらうのがいいのかな。私は、近隣の図書館にあるので時々借り出して読んでます。

「集安の歴史文物と高句麗遺跡」(賈士金氏)「千秋墓、太王陵、将軍塚」(方起東氏)が、今回ご講演いただいた内容に沿ったテーマの記述です。

あと、今回は直接のテーマにしなかったのですが広開土王碑の問題について、王健群「好太王碑研究におけるいくつかの問題」があります。

佐伯先生が解説を書いておられますが、これがまた素晴らしい。

4月に、お会いできそうですね。楽しみです。




1278. 網野さんの「遺書」『日本の中世6』を読み始めました さわらびY(ゆみ)  2004/03/17 (水) 23:22
>  千の本を読み飛ばしています!?

うらやましい限りですね。
最近は短い朝の通勤電車での読書が常になりました。
ほとんど立ち仕事に近いフルタイムの勤務で、帰りは鈍行で座ると、数ページも読まないうちにウトウト! 夜は零時を過ぎてPCをダウンすると、私の目もシャットダウンです。

>  今の私は網野善彦関連書を読み飛ばして、時間を惜しむ毎日なのですが、網野さんの本は、学説史の上にたって自らの説を押し出そうとしていますので、本の中できちんと学説史に触れています。

貴兄が先日触れられた『日本の中世6 都市と職能民の活動』を読み始めました。
「中世は農村から出発した」というド・イデのフレーズのアンチテーゼで始まる学説史の記述が丁寧ですね。

でも、なぜか読み進むと、34歳の清水三男氏が赤紙を覚悟して書いた著書への想いが綴られて、戦地から帰れなかった若い中世史研究家の鎮魂歌のように感じました。
そして、ところどころ伴侶のように登場する石井さんの説。網野さんは病床でどんな思いでこの長いプロローグを書いたのだろう、開田さんの「体験」を知るとなんとなく想像はできます。

はなやかな古代史や、にぎかな近世史の研究とちがって、中世、それも「封建社会論」の枠組みと自分の思想性とを共に問いかえす地味で重い研究のとりこになり、そして鬼籍に入られた人々(Tの友人だったという富沢清人氏も)の存在を網野さんのこの「遺書」で知ることができました。

日本の国の成り立ちを追う古代史も面白いですが、「株式」「談合」といった日常的な現代社会の用語の淵源がたどれる中世史の世界もなかなか興味深いですね。




1277. 本の泉:事典をたのしむ 開田 誠 [URL]  2004/03/16 (火) 13:34
 千の本を読み飛ばしています!?
 肩はこりません〜か?とたずねられたのですが、本に熱中しすぎですよと。大丈夫です。ただ、朝起きるのが遅くなってしまいますね。

 宿をしている時は、たまにしか、本に熱中できる時間がありませんでした。夏は新聞さえ見る時間がありませんでしたよ。ですから、暇になる秋は、素敵な秋でした。

 これからの春、いよいよ自然観察の季節で外へ行くことが多くなりそうですが、こちらはまだまだ冬です(北海道です)。

 今の私は網野善彦関連書を読み飛ばして、時間を惜しむ毎日なのですが、網野さんの本は、学説史の上にたって自らの説を押し出そうとしていますので、本の中できちんと学説史に触れています。
 そのようなところを紹介し、網野説の特色は何かということを書いてみたい誘惑にかられますが、それはそのうちに、、、、


 『日本考古学事典』(三省堂)は佐原真の遺書になりました。私の入院中の刊行でした。すでに、小林行雄のもの(若い時の佐原真が手伝っている)がありましたが、入院中の私は死んでいく人に親しみをもっていて、訃報に気づいてしまった人の本は手もとに取り寄せようとしていました。読み甲斐のある本でした。考古学は興味はあるものの不案内なので、紹介されている文献の大半が知らないものばかり。退院したら、読むぞと思ったものです。

 最近、入手したものに、『社会学文献事典』(弘文堂)があります。社会学とあるが、社会学へ影響をもった本は分野を問わず広く載せているのは、うれしい。また、紹介解説される本についてを執筆者自身が書いているのがユニークなのでした。いままでの私の読書遍歴のあれこれが、ここに載せられているのを、発見しておもしろい。

 4月に、また東京へ行けそうです。Tさん、会えそうですよ。ゆっくりお話をおききしますよ。この、広開土王稜碑について勉強しておきますよ。




1276. Re: 『朝鮮半島の考古学』ー高句麗編です さわらびT  2004/03/15 (月) 23:49
早乙女先生の講演会には、多くの方にお集まりいただきました。先生も休憩時間にも、丁寧にご質問にお答えになられておられました。3時間以上、立ちっぱなしでお話いただくことになりました。ありがとうございました。

太王陵で出土した「辛卯年好太王九十六」と刻まれた鈴が中央博物館に所蔵されていることから、太王陵=広開土王陵説が中国、韓国では主張されていることを述べられました。しかし、墓の修理に基づく王権による儀式を行なったことによる出土物の可能性もあるので、将軍塚=広開土王陵説は揺るぐわけではないとご発言になっておられたのが印象に残りました。




1275. 『朝鮮半島の考古学』ー高句麗編です さわらびT  2004/03/13 (土) 23:53
明日は、早乙女先生のご講演があります。お申し込みいただいた皆さんありがとうございます。私はまだ行ったことがありませんが、すでにご訪問された方も多いのではないでしょうか。

広開土王の墓については、見解が分かれているようですね。

太王陵ですが、広開土王碑からは一番近い位置にある大型積石墳で、墳丘から出土した刻字せんには「願太王陵安如山固如岳」(太王陵の安きこと山の如く、固きこと岳の如きを願う)とあります。

間違いなく王墓のようです。そのほかにも将軍塚や千秋塚といった積石塚を検討して下さると思います。詳しいお話は、明日うかがえるので楽しみです。広開土王は「国岡上広開土境平安好太王」と碑文に記され、これは墓地が「国岡上」にあることを指すらしいですね。

積石塚から出土する瓦の編年から太王陵→千秋塚→将軍塚という築造順になることから、早乙女先生の結論ははっきりしておられます。(『朝鮮半島の考古学』参照)




1274. Re^2: 追悼 網野善彦 ・歴史と旅・ さわらびY(ゆみ)  2004/03/12 (金) 00:33
先生の70年代後半の著書には、従来の「発展段階説」への疑問を提起しておられる論考があります。

抽象的な学説史について、私はあまり知りませんが、「土地所有/年貢負担」あるいは「天皇制/隷属」といった概念を、フィールド調査を通して克服し、新しい民衆像を探ろうとしていた先生の試みは、自ら負ってきた史学への反省と再生を伴う深いものがありました。

開田さんと共に、網野善彦氏の著書をもう一度精読してみたいと思っています。




1273. Re: 追悼 網野善彦 ・歴史と旅・ さわらびY(ゆみ)  2004/03/12 (金) 00:30
開田樣
「追悼 網野善彦」の記事、感慨深く拝見しました。
このような読書の「友」を持つことができたことに、この掲示板を開いていてよかったと思っています。

2001年10月、この掲示板を開設して早々に、石井進先生の訃報に接した思いを綴ることになりました。
(過去ログ、No.82、01/10/25
 http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/BBS3-99.HTML 
No.118〜120、02/03/17〜02/03/18
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/BBS101-200.htm )

>  石井さんの『中世のかたち』(日本の中世1)を、取り出して、不覚だった。その月報に、網野さんは「石井進氏を悼む」を書かれていたが、そこにすでに、ご自身の肺ガンのことにふれられています。
>  まさしく、それからの1年の闘病の中で書かれていたことを知りました。

私も、この付録の網野先生の文を涙ながらに読みました。
その網野氏もまた石井先生の元に逝かれてしまったのですね。佐原先生と3人で何をお話しておられるのでしょう。

私が網野先生を知ったのは、難解な学術書ではなく、日本エディタースクール発行の『列島の文化史』創刊号(1984.3)でした。
「日本国家とか日本民族という問題から離れて・・・新しい日本人像、日本史像を創りだそう」という志を、この創刊の主旨として対談形式で述べられておられ、その新しい視野に心ときめいたものでした。
(こういうときめきは、70年代に金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化』を手にした時の驚きに近いものでした。)

『列島の文化史』の中の「歴史と民俗学」という特集シンポジウムでは、「地域史の視点」「国境をはずして考える日本史」などのサブタイトルがついています。
郷土史という地を這うような調査に、面白さと展望を与えて下さったのもこの雑誌だったと思います。

04/02/28のNo.1257に書きましたように、私にとって網野先生は石井先生と同様に、行動と実践の方でした。
中世の史跡を開発から守ろうとする市民・研究者の運動の中にいつもおられ、景観から想像して歴史を把握することの大事さを痛感させてくださった網野先生。
本HPの「忍性がたどった中世の風景」の『7.六浦湊の「聖地」の風景』は、そんな横浜でのシンポジウムから出発しています。

→1274に続く




1272. 追悼 網野善彦 ・歴史と旅・ 開田 誠 [URL]  2004/03/11 (木) 07:32

 網野さんの死亡記事を読むと、肺ガンであったということがわかり、どうだったのだろうと、悲しみを増加させています。同じガン患者として。
 
 『都市と職農民の活動』(日本の中世6)を、今回読みました。退院してすぐに買い求めていたのに、きちんと通読していませんでした。
 最後の著作になったそれの”はじめに”で、石井進さんの死への驚きが書かれていました。昨年2月刊行された時は、氏はお元気だったのだろうか?!それから、わずか1年であるのだ。
 これを書きつつ石井さんの『中世のかたち』(日本の中世1)を、取り出して、不覚だった。その月報に、網野さんは「石井進氏を悼む」を書かれていたが、そこにすでに、ご自身の肺ガンのことにふれられています。
 まさしく、それからの1年の闘病の中で書かれていたことを知りました。
 今回、精読してよかったと思いました。

 やはり、通読せず読み飛ばしていた、『中世の非人と遊女』の中に収めらていた「古代・中世の悲田院をめぐって」を精読しました。孤児・窮人を修養したという悲田院が非人と関係してきた先に泉涌寺の末寺となることの関係を解こうとしてます。
 寺院としての悲田院が律宗と関係することがどんな意味をもつかというのは私も宗教史を勉強しはじめてきて少しばかりわかってきたところです。
 そして、アジールの場として機能してきたことの指摘は、網野さんの年来の主張の未開論であり興味をもちました。
 さらに、泉涌寺といへば、天皇家の菩提寺であります。天皇代々の墓があります。神道の天皇が寺に葬られていることに興味がひかれて、私は訪ねたことがあります。墓のことは、本当でした。
 この先の天皇制と非人との関係をもっとたくさんききたいのですが、もうかないません。

 網野さんが提起した問題は多岐にわたりますが、天皇制の問題はその一つです。
 現在、日の丸、君が代が教育現場への持ち込みが強制されていますが、議論が封殺されているのは残念です。
 戦争体験者が少なくなり、反対する感性が社会全体に乏しくなってきてしまいました。
 反対していく理論的根拠として、豊かな学説として網野さんの著作があります。

 (『世界』4月号が、”「日の丸・君が代」戒厳令”を特集しています。石原都政とは何かの問題を考えさせられます。)
 




1271. 飛鳥浄御原宮の正殿遺構 さわらびT  2004/03/09 (火) 23:47
橿原考古学研究所の発表によると、飛鳥浄御原宮の正殿遺構が発見されたという。

飛鳥のすごさは、土の下にこういった史跡が無尽蔵ともいえる規模で眠っているということでしょう。

現地説明会は13日午前10時から午後3時まで。

古代史ファンならずとも是非参加したいところですが、所用もありますので残念ながら、後日ネットで拝見させていただきます。

『現説公開サイト』
http://www.keyton-co.jp/gensetu/index.html




1270. Re: 博物館で さわらびY(ゆみ)  2004/03/08 (月) 23:09
TaKさま、お久しぶりです。

東博の「大航海時代のキリシタン遺物」が明日から開催されるようですね。
2004年3月9日(火) 〜 5月9日(水)本館2階第17室

実は、3月末日まで特別展1回だけ無料の東博友の会カードを使って今月中に「法隆寺夢違観音」特別展に行こうと思っていましたので、「親指のマリア」http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2oyayubinoseibo.htm
にもお会いしてこようと思います。

お知らせありがとうございました。




1269. Re: お久しぶりです! さわらびY(ゆみ)  2004/03/08 (月) 22:59
まさみ樣

お互いにHONさんの掲示板でお会いしましたね。

ネットスカイウイルス、蔓延していますね。今日も15本ひねりつぶしました。
おまけにうちのアドレスでよそ様に送られ、そこのウイルス検索ソフトにひっかかって戻ってくるメールもあって、厄介ですね。

> いったいいつまで続くのでしょうね〜。
同感です。うっかりウイルスではないメールを消さないよう神経を使いますし・・

14日の早乙女先生の講演会『朝鮮半島の考古学』はいらっしゃいますか。
私は、八千代市郷土歴史研究会のフィールドワークで出席できませんが、Tがはりきっているので、期待しておいでください。




1268. 博物館で Tak [URL]  2004/03/08 (月) 22:06
こんばんは、ご無沙汰しております。

「親指のマリア」が公開されるそうです。
3月9日(火)〜5月9日(日)本館第17室

取り急ぎご連絡まで。




1267. 『高橋氏文』の世界 さわらびT  2004/03/07 (日) 23:11
加藤先生のすべて受け売りですが、今勉強している『高橋氏文』にまつわる話を書いておくことにします。

膳氏とは何か?ということです。つまり、「中央」の朝廷において食膳に関わる専門職が膳氏だけの特権でそれがこの氏の特質だといえるのか、と問いかけているのです。

『高橋氏文』はたまたま、年中行事を書いた書物に引用されて残ったものですが、現存する『氏文』はこの『高橋氏文』だけなので、大変貴重な記録です。しかしあくまでも逸文であることは知っておかなければなりません。

筋立ての一部はHPで書きましたように、景行天皇の御世、東国巡行のおり安房の浮島宮に逗留、磐鹿六鴈命(いわかむつかりのみこと)が、皇后の命で覚駕鳥を捕獲しようとしたが果たせず、代わりに堅魚と白蛤を献上、それを調理したところ大いに喜ばれて料理人を管轄する役職を得たという話です。

『高橋氏文』が何のために書かれた文章だったのかということですが、当時同じように朝廷に食事を捧げる職掌をもつ氏族に安曇氏がいました。この安曇と主導権争いがあって、自らが正当性を主張したものが氏文ということになるようで、現存はしませんが、『安曇氏文』も存在したと考えられています。ですから現存している『高橋氏文』(高橋というのは、膳氏がのちに高橋氏と改姓しているのでこの名になっています)は、わかりやすくいえば膳氏の氏の来歴を氏族自らが主張しているということです。だけでは、片方の主張にすぎませんので、加藤先生もくぎを刺しておられますが、史料としては要注意だという事です。膳氏だけが本来的なものと考えやすいのですが、果たしてどうなんだろ。

また膳氏の祖先とされる、磐鹿六鴈命(いわかむつかりのみこと)の登場するこの伝承は何を意味しているのだろうか。

膳氏というのは阿倍氏と同族関係を持っています。例の稲荷山古墳の鉄剣銘文にも登場する大彦命の子孫ということになります。

『新撰姓氏録』や記紀の系譜関係をたどっていって、大彦命の子供の比古伊那許士命、その子供が磐鹿六鴈命という風に位置づけられているのけですが、もしかしたら磐鹿六鴈命を大彦命の孫にあてただけであとから継ぎ足していった系譜なのだ、という考えもできるのだと、加藤先生は疑問を投げかけておられます。

根本的には、中央中心史観への疑問です。




1266. Re: Re2: Re2: Re2: Re3;卑弥呼の箸墓 さわらびY(ゆみ)  2004/03/07 (日) 12:02
不精にも13本目の「Re」でごめんなさい。

箸墓の写真から気軽に始まった大和・河内の旅アルバムですが、ガイドブック風の通説に「?」を提起しているうちに、伝承と謎の泥沼にはまって遅々として筆が進まず、Web友のHPへ余所見ばかりの毎晩です。

その中で、やはりHONさんの新掲示板は読み甲斐があります。
といっても、限定公開の登録制の掲示板ですので、私にそのさわりを宣伝させてください。

>「そこでは歴史は構造に還元されてしまう。それは神話への道だ。 歴史が書かれるのは、神話的世界の構造が分裂したときである。」

(ご本人が「ひどく抽象的な書き方」で「何を言っているのか分からない」という)難解なフレーズですが、なるほどと思いました。
「進歩史観」を超えよう試みた網野善彦氏の業績の限界から、記紀書かれた時代にHONさんの話は飛びますが、ひとつの「歴史が書かれるとき」、それが進歩史観であれ、『大日本史』のアジテーションであれ、突き動かす力と動かされゆく歴史の展開には、さらにこの後続く「多摩の御一新」を読んでみて、怖いものを感じました。

>この程度の王権移動説なら、本気で母系系譜から移動説を裏付けてみたくなります。
「書かれた歴史」が、振り払い落っことしてきた真実はいったいなんだったんでしょう。
未整理の神話と伝承の世界にまだその残滓が残っているなら、ぜひ知りたいと思います。

気分転換に「梅の咲くころ」をUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/04.3.6ume.htm
写真作品としては駄作ですので、「暖冬だった2004年の梅の咲くころ」の記録とでもしておきます。




1264. お久しぶりです! まさみ [URL]  2004/03/06 (土) 00:20
ゆみさま、こんばんは!

ウイルス、ゆみ様のところもなのですね。うちもすごいんです。ここ3日くらいですかね。メールチェックするたびにはいってきます。

いったいいつまで続くのでしょうね〜。




1263. Re2: Re2: Re2: Re3;卑弥呼の箸墓 HON  2004/03/06 (土) 00:02
さわらびY(ゆみ)さん、こんばんは。
「Re」の数字をどうつけていいか分からなくなってきた。

>2/17にHONさんから始まった「卑弥呼の箸墓 ? 」の9本目のレス。ここで、タイトル本来の話題に戻しましょう。

それがいいですね。別な話題は必要があれば新たなスレットにしましょうか。

>高群逸枝が数十年前に言っていたことで、当たり前のことに思えるのですが・・・

まったくその通りですね。ちょっと思い出して数年前の白石氏の
『古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか』文春新書
を引っ張り出して拾い読みしてみました。
巨大古墳の築造移動にともなう政権の移動は既に触れていますが、
その根拠はしめされておらず、ご紹介の新刊本では井上光貞氏の
婿入り説に拠っているだけというのでは、何の説明にもなってない。

この程度の王権移動説なら、本気で母系系譜から移動説を裏付けて
みたくなります。といっても、大変な作業量がみこまれますけど。




1262. 心配と感動 さわらびT  2004/03/05 (金) 23:54
場違いな発言になりますが、私は実は大の長嶋ファンなのです。
心配ですね。めづらしく、あせっている自分がいます。

TV 放映された『たそがれ清兵衛』を見ました。映画もすきなのですが、近年、「歴史に好奇心!」三昧してますので、あまり機会がなくなってしまってました。こういう感動もいいものだと思っています。

それにしても、長嶋さん、がんばって!!




1261. ウイルスメールにご注意! さわらびY(ゆみ)  2004/03/03 (水) 13:07
このところ連日ウイルスメールがウジョウジョ来ています。
WORM_NETSKY.Cというものらしいのですが、次のようなタイトルがついています。
Re: Excel file
Re: Details
Re: Approved
Re: Your software
Re: Your music

かたっぱしから削除していますが、要注意です。
また私のメールアドレスでこのようなメールがもし届いていたら容赦なく削除をお願いします。

参考HP
http://www.trendmicro.co.jp/vinfo/virusencyclo/default5.asp?VName=WORM_NETSKY.D&VSect=T




1260. 安房の浮島宮はどこ? さわらびT  2004/03/01 (月) 00:00
実は、昨日、『高橋氏文』第一章の磐鹿六雁命の伝承で有名な安房の浮島宮と思われる地を探訪しました。
詳しくはこちらをご覧ください。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2004.2.28katuyama/katuyama.htm




1259. 増尾先生の講演の感動 さわらびT  2004/02/29 (日) 23:51
静かな感動が伝わる講演会だったと実感しています。ご参加の皆さんありがとうございました。32名の方々にご参加いただきました。

先生のお人柄のせいかも知れません。講演内容をお伝えする以前に、ご参加いただいた皆さんの“聞いてよかった“という声が伝わりました。

読み方は一つではないので、こういう読み方をしてもいいんです。当時の藤原氏のおかれた状況、必死さも伝わってきました。あれだけの権勢を誇ったかに見える一族も懐風藻には困ったのでしょうか。武智麻呂伝には、不比等の死も伝えず、光明皇后の立后も記さないのか、皇親対藤原だけではとらえらえられない微妙な政治構造の綾を読み解くのは、また新たな知的好奇心をかきたててくれます。

帰宅して見たNHK『新撰組』もまた時代に翻弄される人々になぜかより親近感が増したといいましょうか・・・・・




1258. Re: 網野善彦先生のご冥福をお祈りします さわらびT  2004/02/28 (土) 22:54
網野善彦著『日本中世の民衆像』(岩波文庫、1980)を思い出しました。全く個人的な思いです。

「公事」を論じられ、その定義を辞書から、@公務、朝廷の儀式A荘園制で年貢以外の雑税、賦役の総称B訴訟及びその審理、と引用していますが、もちろん中世史で論議されるのは、Aということになります。

網野氏は、なぜ、年貢とは別に「公事」があったのか、を問いかけます。渡辺澄夫『畿内荘園の基礎構造』(吉川弘文館)と並んで、富沢清人「荘園体制下における村落と農民−公事と身分秩序をめぐって」を紹介していたことが印象に残っていました。

網野氏がなくなられたという報に接して、なぜか学生時代の友人であった富沢清人(故人)を思い出しました。この論文は、彼がなくなった後に出版された『中世荘園と検注』(吉川弘文館)に収録されています。富沢は「公事」を検討して「水田耕作をめぐる生産関係を規定的なものとする前提に立った諸研究」の問題点を指摘しています。

網野氏の研究とは対極にあった荘園制にこだわった研究者であったと思いこんでいたのですが、柔軟な思考を持ち合わせていたことを知りました。それを教えてくれたのは網野善彦氏でもありました。




1257. 網野善彦先生のご冥福をお祈りします さわらびY(ゆみ)  2004/02/28 (土) 20:00
中世史の網野善彦先生がとうとう亡くなられてしまいましたね。
初めて「なま」でご講演を聴いたのは、1996年歴博の「中世商人の世界」のフォーラムだったでしょうか。

その年12月の横浜市立大学、その翌年の関東学院大で、六浦・金沢の開発で失われようとしていた史跡を守ろうというシンポジウム、その翌年(?)、館山の稲村城をめぐるシンポジウムでも、石井先生とご一緒に、市民や若手研究者の地道な研究と保存運動を力強く応援されていたのが印象的でした。

特に館山のシンポジウムの日は、寒い小雨の降る一日で、道も遠かったけど、気軽にサインにも応じてくださり、充実した一日でした。

ミーハーな私の「追っかけ」の対象だった佐原真先生、石井進先生に次ぐご逝去に、なんだか私にとってもひとつの時代が過ぎていくようで、とてもさみしい今年の春を感じています。
ご冥福をお祈りします。




1255. Re^2: Re2: Re2: Re3;卑弥呼の箸墓 さわらびY(ゆみ)  2004/02/27 (金) 23:46
「纏向遺跡搬入土器の円グラフ」

1239で、先々週の白石先生の講演会メモで次のように書きました。
「古墳の出現は、卑弥呼の宗教的呪術的な権威でまとまっていた連合(線的に広域な)が、卑弥呼の死後、その権威に代わるものとして首長たちがつくった。
3世紀初頭の箸墓やホケノ山古墳には、吉備型の器台形埴輪や尾張型の壷形埴輪があったり、四国の石が使われていて、このころ古墳は各地の首長たちが共につくるものだった。」
この論旨の裏付けとなる「纏向遺跡搬入土器の円グラフ」を、次の掲示板でワイワイグッチさんが紹介されています。http://www3.ezbbs.net/27/chibaiseki/

桜井市埋蔵文化センターに展示されていたそうです。
見ると、東海系が49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、吉備系7%、関東系5%、近江計5%、西部瀬戸内海系3% 播磨系が3%、だそうですね。

また話が飛びますが、昨晩「大伴、蘇我氏らの墓か 大阪・アカハゲ古墳」というニュースを見つけました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040226-00000214-kyodo-ent
オウム裁判と京都の鳥インフルエンザで今日も全国ニュースにならなかったみたいですね。




1254. Re: Re2: Re2: Re3;卑弥呼の箸墓 さわらびY(ゆみ)  2004/02/27 (金) 22:53
2/17にHONさんから始まった「卑弥呼の箸墓 ? 」の9本目のレス。ここで、タイトル本来の話題に戻しましょう。

中世武蔵七党、系譜では一見縁がなさそうな説教節の小栗判官と横山党のヒロインも、母系で捉えるとみごと結ばれる!という話にとんじゃいましたが、たしか、始めは3〜4世紀の連合政権と王権の移動を、母系制でとらえようということがテーマでしたね

今日、帰宅途中で白石太一郎先生の『考古学と古代史の間』(ちくまぷリーブックス)を買ってきました。
一週間前に出たばかりの新刊で、カバーはきれいな箸墓の航空写真。内容は、No.1239.の『 歴博講演会・白石太一郎先生の「考古学から見た日本古代国家の形成」2−メモ 』とほぼ同じです。
そのさわりをご紹介します。
「・・・大阪平野の勢力への王権の移動に際しても、それ以前の大和の王家と婚姻関係を結ぶことが不可欠であったものと思われます。(中略)当時、王の子どもは当然その母の里で育てられたわけですから、王の子どもが即位するようになると、当然王の宮が母の里に移動することになり、ひいてはその墓も里の地に営まれることになったのではないでしょうか。」
高群逸枝が数十年前に言っていたことで、当たり前のことに思えるのですが・・・

「大和〜河内の旅アルバム」の次のページは、誉田八幡でしたね。まずはこの本を読んでから、なんて。ああ、ますますUPが遠くなる!


1253. Re2: Re2: Re3;卑弥呼の箸墓 HON  2004/02/26 (木) 21:19
あ〜、タイトルに意味がない!

さわらびY(ゆみ)さん、こんばんは。

>常陸の小栗と武蔵の横山党をつなぐキーマン(中条家長)が『八田知家考−系譜的研究1 』雨谷昭(『常総の歴史』4 1989-7)で出てきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~ku4t-tkhm/amagaironbun.htm

雨谷論文の紹介ありがとうございます。たいへん参考になりました。
たしかに中条家長は常陸の宇都宮=八田氏をつなぐ要にあり、大国魂神社と二荒山の関係を追ったときに気づきました。中条氏は埼玉県熊谷市にいて、戦国時代には小田原北条氏の元で地元調布に蓮慶寺を開基しています。わたしはこの調布の中条氏から熊谷を経て八田氏へたどりました。
大國魂神社と小野氏 http://hon.web.infoseek.co.jp/krog/krog2.htm#061
蓮慶寺 http://hon.web.infoseek.co.jp/tama/tam/t074/t074t.htm

しかし、八田氏の名が小栗の八田館からの名乗りとは知らなかった。

>「敕命によりたる史書を正史と言ひ、非公式の史書・記録の類を私史・稗史と言ふ。」

正しく、敕命つまり天皇の命令によって書かれた史書を正史とする、というのが近代史学の始まりだったということです。それ以外は稗史なんですよ。




1252. Re: Re2: Re3;卑弥呼の箸墓 さわらびY(ゆみ)  2004/02/25 (水) 23:41
>学者先生に認められなくたって、一般化していくものは多々ありますから。
> ま、正史に対する稗史のようなもんでしょうか。いっそのこと稗史で埋め尽くしてしまおう!

「敕命によりたる史書を正史と言ひ、非公式の史書・記録の類を私史・稗史と言ふ。」
本当はトンデモ説嫌いで正史に「忠実」なおりこうさんのつもりなんですが、最近は「正史」の明かしてくれない素朴な謎(おしどり伝説・中世巨大五輪塔の謎・オビシャや大祭礼の由来などなど・・)を、目と足で追っかけしているうち、私も「稗史」を生みつつあるよう気がしてきて。(アブナイ、アブナイ・・)

> 筑波山麓の小栗判官、想い女の照手姫は武蔵七党横山党の娘だと知って驚いたものです。筑波と多摩をつないだのはきっと熊野比丘尼あたりかと思うのですが、

からす伝説のHP拝見しています。
当HPの「稲毛浅間神社のお祭り見聞録」でも、武蔵国大国魂神社のスモモ祭りとカラスうちわにちょっとだけ触れました。有名なお祭りのようですね。

常陸の小栗と武蔵の横山党をつなぐキーマン(中条家長)が『八田知家考−系譜的研究1 』雨谷昭(『常総の歴史』4 1989-7)で出てきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~ku4t-tkhm/amagaironbun.htm
武蔵の横山党から追っているHONさんと、常陸で八田氏を追っているこの方の論文をクロスさせると横山党と小栗氏がつながるのですが、いずれにしても母系の系譜で追わないと真相は明らかにならないようです。
「高津姫」は、昨秋の七年祭の「縁起・高津ひめ神社」で触れました。
こちらも「時代劇」のにおいもしますが、流され姫(または貴公子)伝承の伏線を追ってみたいですね。

ではまた、HONさんのHPの新撰組シリーズ楽しみしています。友人に「土方さん」の大ファンがいるもので・・・




1251. Re2: Re3;卑弥呼の箸墓 HON [URL]  2004/02/23 (月) 22:38
さわらびY(ゆみ)さん、こんばんは。

>《1247. Re^2: Re2;卑弥呼の箸墓》で変換ミスをしました。

わたしもコピーしていながら気づかなかったです。

> 先駆者の試練ですね。高群逸枝の論をたたき台に歴史民俗での女性史の重要性は深まり、その流れの上に、私たちが享受している点は多いと思います。

そうですね。学者先生に認められなくたって、一般化していくものは多々ありますから。
ま、正史に対する稗史のようなもんでしょうか。いっそのこと稗史で埋め尽くしてしまおう!

> 東国の小栗判官などプリンスの貴種流離伝承のほか、下総では、松虫姫や高津姫など政治的失脚や不治の病で流された姫の伝承があります。
当面、高津姫伝承をターゲットに試行錯誤の謎ときを試みてみたいと思っています。

筑波山麓の小栗判官、以前、HPの「からす伝説」の熊野詣の章で少し触れたことがあります。想い女の照手姫は武蔵七党横山党の娘だと知って驚いたものです。筑波と多摩をつないだのはきっと熊野比丘尼あたりかと思うのですが、その後は追っかけていません。
松虫姫はたしか柳田国男が採集していはずですが、高津姫の名ははじめてです。高津姫伝承を楽しみにしています。




1250. Re: Re3;卑弥呼の箸墓 さわらびY(ゆみ)  2004/02/23 (月) 20:05
HONさん、ごめんなさい
《1247. Re^2: Re2;卑弥呼の箸墓》で変換ミスをしました。
掲示板では、些細なミスや脱字はお互い大目に見ることにしていますが、高群逸枝『女性の歴史』の引用のちょっと大事な所(族墓→族母)だったので、訂正しておきます。
「墓は母所(はか)であって、族母の死後のありかを標示し、生前と同じく、死後も一族がその庇護のもとに結束していきようとしたもの・・」

《1239.  歴博講演会》のホケ山古墳→ホケノ山古墳、これはすぐわかるのでご愛嬌にしてください。

> 高群の母系制は古代史家には相手にされてないのが現状ですが、逆に中世史家の一部では武家の発生を説明するのに最適として受け入れられています。とりわけ、武蔵七党などの武家集団が争いもなく急速に勢力を拡張した理由の説明に用いられています。

先駆者の試練ですね。高群逸枝の論をたたき台に歴史民俗での女性史の重要性は深まり、その流れの上に、私たちが享受している点は多いと思います。

東国の小栗判官などプリンスの貴種流離伝承のほか、下総では、松虫姫や高津姫など政治的失脚や不治の病で流された姫の伝承があります。
当面、高津姫伝承をターゲットに試行錯誤の謎ときを試みてみたいと思っています。




1249. Re3;卑弥呼の箸墓 HON  2004/02/22 (日) 23:56
さわらびY(ゆみ) さん、こんばんは。

高群逸枝をしっかり読んでらっしゃる方がおられるとは驚きです。
『母系制の研究』や『招婿婚の研究』は実証論ですから面倒ですが、『女性の歴史』は一般論として書かれたもので、大変読みやすいものです。

「墓は母所(はか)であって、族墓の死後のありかを標示し、生前と同じく、死後も一族がその庇護のもとに結束していきようとしたもの・・」(高群逸枝『女性の歴史』より)

わたしもこのフレーズに感銘したものです。ここから母族=一族というものの有り方が具体的にイメージできるようになったと思っているくらいです。それに、これによって場当たり的な解釈ではなく、一定の基準に元ずく系譜解釈もできるようになりました。

>允恭天皇が盟神探湯で正そうとしたほど、自己申告の氏姓がいかがわしいものだったかは知りませんが、

このあたりも『母系制の研究』ではしっかり押さえていたと思います。いかがわしいというより、そうならざるを得なかった理由が、正に父系の記録にあったというように。

高群の母系制は古代史家には相手にされてないのが現状ですが、逆に中世史家の一部では武家の発生を説明するのに最適として受け入れられています。とりわけ、武蔵七党などの武家集団が争いもなく急速に勢力を拡張した理由の説明に用いられています。

ただ、それでも、発展が遅れた坂東が先発の西から招婿婚を導入した、という相変わらずの西高東低の観念
からは抜け出せないようですが。




1248. Re: 両宮山古墳 さわらびT  2004/02/22 (日) 23:02
西博孝様

ご案内ありがとうございます。行ってみたいですね。
 
両宮山古墳について、読ませていただきました。

「ただ問題は、二重周濠に墳丘の築造規格も大王級でありながら埴輪、葺石が見つかっていない。このことにまだまだ謎が秘められているが、日本書紀の「稚媛と上道臣田狭の話」を併用すると築造中に何かが起こり途中で未完成のまま残った古墳だった可能性もあると推定できる。」

この田狭に興味ありです。例の、雄略が田狭の奥さんを横取りするために任那に派遣してしまったという話ですよね。この人、うかつにも中央に出仕したときに仲間たちに自分のカミサン自慢を下のが大失敗、まんまと雄略に奥さんをとられてしまった。

怒った田狭は反乱、新羅と手を結ぶ。そこで、田狭臣の子弟君と吉備海部直赤尾とが、新羅討伐の任につくわけです。ところがこの弟君は、討たないばかりか、その妻樟媛に殺されてしまう。

かなり混沌とした話ですが、吉備海部直赤尾は百済の工人を連れてくるという、役割を果たしますね。

横道にそれましたが、面白い伝承です。この伝承上の人物たちと関係があるのでしょうか。




1247. Re^2: Re2;卑弥呼の箸墓 さわらびY(ゆみ)  2004/02/22 (日) 22:30
「大和〜河内の旅アルバムT」は「箸墓の椿」の画像でスタートしました。
「墓は母所(はか)であって、族墓の死後のありかを標示し、生前と同じく、死後も一族がその庇護のもとに結束していきようとしたもの・・」(高群逸枝『女性の歴史』より)
ホトをついて死んだ倭迹迹日百襲姫、前方後円墳とはもしかしたら「子宮」ではないかと変な妄想にとりつかれています。
「燃えるような箸墓」の一枚が撮りたくて、天気の悪い撮影場所でずいぶん粘りました。
(その間、Tは一周して探索してきたみたい)

ところで、郷土史調査で実感したことですが、かつての下総の旧家は「イエ」の存続は大事にしたけれど、男系血統にこだわっていません。
『K家の墓誌から相続の系図をたどってみると、「長女・二男」と記載されていることもあり、この場合「二男」とは旧戸籍でいう「長男」のことで、男女に関わりなく初生子である長女が婿養子を迎えて家を継いでいる。このような男女を問わず初生子に相続権を認めた初生子相続は「姉家督」とも呼ばれ、東北・北関東・新潟県に見られた。ただ初生子が女で、のちに弟が長男として生まれた場合、明治民法の嫡長男子主義に背くこともあって、この慣行は明治中期以後廃れていったといわれているが、家内労働力の確保とイエの維持継承を目的として、実際に長女夫婦が相続した例もあった。・・・婿養子も実際に少なくなく、またオビトキなどの民俗行事に残ってきた初めての子の成長を祝う慣習からも、男系継承を絶対視しない初生子相続の慣行を推定できると思う。』(「史談八千代」28号に書いた私の文章)

古代律令制と明治民法によって、いつしか「父系の常識」を疑わなくなってしまっていたようです。




1246. Re: Re2;卑弥呼の箸墓 さわらびY(ゆみ)  2004/02/22 (日) 22:18
HONさんこんばんは
>考古学がこれだけ大胆な説を出しても、文献史学にそれに応える用意はあるのか、
>連合政権や王権移動説に対応できるのは、記紀の系譜分析が一番大切だろうと思っているのですが、・・・父系系譜の背後に隠された母系をたどることによって、王権の移動もある程度導き出せるはずなのです。

うーん、なるほど!
「高群逸枝の母系説」かつて(○十年前?)、夢中で読みました。(「女性解放運動の理論武装」と勘違いしないでください)
ぶあつい『招婿婚の研究』が書斎(=本のごみため部屋?)にあったはずなのですが、発掘作業をあきらめました。実家で探してきた講談社文庫『女性の歴史』、無造作に線が引いてあって表紙もぼろぼろ、でも懐かしかったです。
古代史に興味を持ったのは、この本と金達寿氏の著作だったように思います。


HONさんのHP「母系制」から
http://hon.web.infoseek.co.jp/dust/bokei/bok-2.htm
>天皇系図以外の各氏族がのこした古系図をみても同じで、父系を辿って記録されています。母系を連綿と記録した系図は皆無といえるでしょう。
>記録されなかった母系とは、記録するまでもない日常的な現実だったのです。

允恭天皇が盟神探湯で正そうとしたほど、自己申告の氏姓がいかがわしいものだったかは知りませんが、父系の認知と記録は「人為的」にしかなしえないものであったし、またそれしか史料として残っていないのも現実だったと思います。




1245. 両宮山古墳 西 博孝 [URL]  2004/02/21 (土) 20:12
さわらび様

 この度は、研修会の案内をトップページのお知らせに入れていただき、有り難うございました。お陰様で来週行くことになりました。有り難うございます。

 今城塚古墳の現説に行けず、資料だけを見ましたが、「石室」と想定される場所が後円部の中心でないと思われます。今後の調査を見守っていきたいと思います。

 関連して、今城塚とほぼ同時期だと考えられる岡山の両宮山古墳が二重の周濠をもつことが明らかになりました。今城塚も二重の周濠を持っており、両古墳とも墳長が同じということで、今後は今城塚だけで考えていくのではなく、同時期の両宮山古墳と福岡の岩戸山古墳をあわせて
考えていく必要があると思います。

 両宮山古墳については、下記のホームページに写真と説明がございます。

http://kodaikibi.com/




1244. Re: 「八千代市内中世城郭をとりまく情勢」という講演会について さわらびY(ゆみ)  2004/02/20 (金) 23:22
『美浦村お散歩団』のひづめさん、こんばんは

> 余湖さんの掲示板でタイトルの講演会のお知らせを見ました。

「八千代市内中世城郭をとりまく情勢」
日時 : 4月11日(日)午後1時半
場所 : 八千代市郷土博物館
のことですね。
八千代市郷土歴史研究会会員へ講師の会長(=八千代市郷土博物館館長)よりご案内をいただき、私も楽しみにしております。
現在、主催団体の幹事さんに詳細を問い合わせ中です。
時期が来ましたら詳しいご紹介をさせていただきますので、もうしばらくお待ちください。

陽が長く、薮蚊と夏草に悩まされない春は、中世城郭探検に最適のシーズンですね。(今年は花粉症もまあまあのようですし)
そういう意味では、最近行った成東の経僧塚古墳や駄ノ塚古墳など、やぶこぎ必須の房総の古墳探しも似たようなものです。
またどちらも見晴らしのよい舌状台地にありますから、まれに重なっていることも。
(微妙な凹凸が、古墳の周壕跡に見えたり、城郭の空堀跡に見えたり・・・)

河内や吉備でも、城郭に利用された巨大古墳があって、津堂城山古墳のくびれ部では虎口の構造がよくわかりますし、吉備の造山古墳の後円部には土塁がしっかりありました。
両方に興味があると、頭の中は古墳の構造と城郭の縄張りの二重奏で、うまくすると2倍?楽しめます。
そういえば、高槻の今城塚もそうでしたね。

春はやっぱり、外歩きがいいなと、今日も職場の窓からうららかな空を見ていました。

ではまた。




1243. 「八千代市内中世城郭をとりまく情勢」という講演会について ひづめ [URL]  2004/02/20 (金) 00:07
さわらびゆみさん、こんにちは。

 『美浦村お散歩団』のひづめです。余湖さんの掲示板でタイトルの講演会のお知らせを見ました。お城仲間に知らせたいので、藪ログ<YABlog>というWeblogにこの情報を掲載させて頂きました。さらに詳しい情報をお願いいたします。

ひづめ@美浦村お散歩団




1242. Re2;卑弥呼の箸墓 HON [URL]  2004/02/19 (木) 23:23
先に紹介した新聞の連載は三回ありました。
二回目は、前方後円墳は半島でも見つかり、一時は半島から伝えられたとする説もあったが、日本列島の方が早い時期に発生したという説に落ちついたそうです。

三回目の連載は、巨大古墳の築造は年代によって地域的な移動が見られるということから、それは王権の移動を示すものではないか、という説の紹介です。

三世紀半は箸墓のある奈良盆地南東部、四世紀になると奈良盆地北部へ移り、五世紀には大阪平野に変わり、六世紀に再び奈良盆地へ戻ってきた。それ以降、他の地域では巨大古墳が造られなくなり、覇権が確立したという。

これは考古学から出された説ですから、この移り変わる王権はそれぞれ誰であるかは、考古学からは明らかにできない。だから連載の最後に、季刊『東アジアの古代文化』を出されている大和岩雄氏の「歴史学と考古学の双方からの研究がかみ合わなくては、新しい時代像は見えてこないのではないか」という意見を紹介していました。

しかし、考古学がこれだけ大胆な説を出しても、文献史学にそれに応える用意はあるのか、はなはだ心元ないというのが現状でしょう。既に史学には王朝交代説があるにはあっても、今日の考古学の成果とずれてしまっている。

わたしの素人考えでは、連合政権や王権移動説に対応できるのは、記紀の系譜分析が一番大切だろうと思っているのですが、父系をたどって記されたそれを鵜呑みにして、万世一系はなかったというだけでは何も出てこないと思う。父系系譜の背後に隠された母系をだどることによって、王権の移動もある程度導き出せれるはずなのです。

しかし、この原理を研究した高群逸枝の母系説なんぞ、学会は見向きもしませんからね。せいぜい、わたしが吹聴してやろっと !




1241. Re: 卑弥呼の箸墓 ? さわらびT  2004/02/17 (火) 23:56
HONさん、こんばんわ

お久しぶりです。私はあまり邪馬台国所在地論については、あまり言及したことはないのですが、朝日にこれだけの記事が出ますと気になりますね。

白石先生の講演には参加できなかったのですが、考古学の世界では、古墳時代の始期を4世紀初頭とする小林行雄説が、近年揺らいでいることが、前方後円墳体制論などを生み出す背景になっているというお考えは、なるほどと感じています。

そこで卑弥呼は箸墓に眠るという説は、信憑性がでてきたというわけですね。朝日に紹介されたように山尾先生などは、掘れば殉葬の骨が出てくる、と以前からはっきりおっしゃっておられました。

私は邪馬台国=大和説ではありますが、ここまで主張されますとちょっと、待て、と思ったりします。掘ればわかるわけでもないと思いますが、あの箸墓って結構無防備な状態なので、中に入って探索したい衝動にもかられましたが・・・・

卑弥呼が都したのは、多分、大和でしょうが、考古学の知見によれば「連合」なこともわかってきたわけですし、新聞に誘導されるのはもっといけないな、・・・邪馬台国論はそれがあるので疑問は常に持ち続けるべきだと思っています。




1240. 卑弥呼の箸墓 ? HON [URL]  2004/02/17 (火) 20:16
ご無沙汰しました。

白石太一郎先生の歴博講演会のご報告が゛さわらびY(ゆみ)さんからありましたけど、「連合国家」という考えを興味深く拝見しました。先に同じくゆみさんからご紹介いただいた母系制に照らしても、単純な天皇制や、それを言い換えただけの王制に比べて「連合国家」はうなずける側面を持っていると思えます。

詳しい講演の内容がわからないので、この問題はこれ以上踏み込めませんが、この講演にちなんで、今日の朝日新聞夕刊の文化面に、「転換 古代史 新たな古墳時代像」と題した、たぶん2〜3回の連載記事が載りました。

白石先生の講演を踏まえて、最近の新しい年代測定により、箸墓は卑弥呼のものではないかという説が再浮上してきたというものを紹介しています。もっとも、多くの学者がこの見方に傾いてきた中で、肝心の地元では、奈良盆地には弥生時代の墳丘墳や金属器が非常に少ないので、邪馬台国=大和説には否定的な見方もあるそうです。

いずれにしても、しばらく静観という感じがします。




1239.  歴博講演会・白石太一郎先生の「考古学から見た日本古代国家の形成」2−メモ さわらびY(ゆみ)  2004/02/14 (土) 23:10
個人の感想だけ書いて、中身はどうだったのといわれそうなので一言。

「古墳の出現は、卑弥呼の宗教的呪術的な権威でまとまっていた連合(線的に広域な)が、卑弥呼の死後、その権威に代わるものとして首長たちがつくった。
3世紀初頭の箸墓やホケ山古墳には、吉備型の器台形埴輪や尾張型の壷形埴輪があったり、四国の石が使われていて、このころ古墳は各地の首長たちが共につくるものだった。」

「基本的に古墳は本貫・本拠地の地に造られ、勝手なところへは造られない。大きな古墳が5世紀に大和から大阪平野に移っていくが、それは造った勢力が大和から替わっていくこと。王朝交代論ではなく、連合政権の盟主が動いただけのこと。」

「古墳時代中期、吉備の造山古墳と小坂の上石津ミサンザイ古墳など同規模同型の前方後円墳が各地に作られる。このころ朝鮮半島では皇南大塚古墳が慶州にあるのみ、前漢皇帝陵を見ても、各地に大古墳があるのは日本だけ。高句麗の南下という対外的な状況からも同盟・連合の時代だった。」

「吉備池廃寺の塔の址などからも、百済・新羅の大寺の影響を見てとれるが、7世紀中頃、舒明天皇や蘇我氏には百済・新羅への対抗意識があって、固有の形式の大王陵が成立していく。そして東国などの地方では岩屋古墳や宝塔山古墳など国造にひとつだけ選別されて造られ、地方支配のシステムができてくる」

「箸墓が出現した3世紀初頭に古代国家が成立したという議論もあるが、それは国家ということをどう理解するかという概念規定の問題であって、それより古墳時代の政治秩序をどうとらえるかということに関心を向けるべき。7世紀以前に日本の古代国家の成立を求める諸説は成立し難い。
 古墳時代には、いくつかの画期があり、それが歴史の中でどういう意味をもつのか。
石井進先生が、『形だけ中国から持ってきて国造制の上に乗せただけ』という律令制虚構論をおっしゃられた。」

「3世紀中頃には広域のまとまりがあったという日本における政治秩序は、朝鮮半島のそれが5世紀であることと比べ早熟であった。」

2時間余の講演の全てをまとめるのは無理ですから、印象に残った点だけメモしました。




1238. 歴博講演会・白石太一郎先生の「考古学から見た日本古代国家の形成」をお聴きして1 さわらびY(ゆみ)  2004/02/14 (土) 23:05
今日は、国立歴博の白石太一郎先生の最後のご講演でしたので、何はともあれ早めに会場に駆けつけ、受け付け時間前から並んでしっかりお聴きしてきました。

古墳と国家形成についてのテーマのほか、司会の井原先生に「歴博の思い出も交えて」という注文に、歴博開設当時こと、また数年前の独立法人化への抵抗の苦心談も、(意識して脱線して)お話くださいました。

歴博講演会や友の会の旅行を含め、地域の公民館などでも白石先生の古墳についてのお話を聴く機会は多く、淡々と冷静に述べられる論理的なお話し振りもあって、先生の講演はいつも「定説」(=オフィシャルな概論)という印象を受けていました。(というより私たちにそう信じさせる雰囲気がある?)
今日改めてその集大成的なテーマを、いろいろな学説を紹介しつつ、その批判も含めご自身の考えをはっきり述べられように(そう私には受けとれるように)感じ、今まで「定説」と思っていた中身も、実は白石先生のオリジナリティのあふれた独創的な理論だったのだと気づきました。

今年度いっぱいで歴博を去られ、関西に戻られるとか。河内での講演会があれば、旅の計画にいれることになりそう。
なんとなく歴博もひとつの時代が終っていくような感じがしました。




1237. 積善の家=藤原氏の歴史 さわらびT  2004/02/12 (木) 22:49
2月29日(日)北とぴあ(王子駅前)での増尾先生の講演の宣伝をします。

「仲麻呂は併せて諸氏に本系帳を勘進させて『氏族志』の撰録も進めており(『新撰姓氏録』序、「中臣氏系図」所引「延喜本系」)、『家伝』もその一環として撰述された。それだけに史実に改変、潤色を施した部分が少なくない。やはり編年体で武智麻呂の閲歴を叙述しながら、祖父不比等の死にふれず、長屋王の変と光明子の立后についてもまったく言及しないのである。それとは対照的に多くの筆を費やすのは、武智麻呂が大学の振興に尽力し、図書経籍の充実をはかり、風流侍従や文雅の士、方士、陰陽師、暦算、呪禁の諸家を賞揚したことや、習宜(すげ)の別業に多数の文人才子を集めて文会を主催したことなどである。これらの記事が長屋王の佐保(作宝)楼における詩宴や、「私かに左道を学びて国家を傾けんとす」という嫌疑がかけられた長屋王の変を前提とすることは明らかであろう。」(増尾伸一郎「『藤氏家伝』が語る古代」『歴史読本』2003年1月号)

『新撰姓氏録』はなぜ作られたのか、これは当時の天皇家と藤原氏の対立的な政治構造とも関わるようです。嵯峨天皇の時代の弘仁6年(815年)に本系帳を提出せよとの命令に応じて提出したものです。それ以前に『氏族志』の撰録が仲麻呂によって進められていたようです。以下は加藤先生の講義録からの引用になります。

『新撰姓氏録』序に「宝字の末、其の争猶繁し。仍りて名儒を聚めて、氏族志を撰ばしめしに、抄案半ばならざるに、時の難有るに逢へり。諸儒解体して、輟みて興らず。」
奈良時代、天平宝字年間に、氏姓の混乱を正す目的で氏族志、氏族から提出せしめた本系帳をもとに氏族志を選ばすための役所が設けられたのだけど、その事業があい半ばの段階で途絶えてしまった。なぜ途絶えたかというと「時の難有るに逢へり。」これは天平宝字八年の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱をさます。撰氏族志所と呼ばれる、氏族志を編纂するための役所が設けられたことが中臣氏系図にひかれている『延喜本系』の中にあります。「去る天平宝字五年の撰氏族志所の宣に依りて、勘造し進むる所の本系帳を案ずるに云く・・・」

政争が続く時代、仲麻呂は『藤氏家伝』をつくり、氏族志の編纂にも携わっていました。積善の家=藤原氏の歴史の一断面が明らかになります。




1236. Re: 今城塚古墳 さわらびY(ゆみ)  2004/02/11 (水) 23:03
開田様

7日は、せっかく佐倉の歴博にお出でになっていたのに、「板碑研究の現状と課題について」の斎木勝先生の講演のため千葉県中央博に行きましたので、お会いできず本当に失礼いたしました。

継体天皇の今城塚古墳は30年ぐらい前?に、森浩一先生のご案内でまだ未整備の状態を見に行ったのを覚えています。

実は1998年にも高槻に行ったのですが、茨木の「キリシタンの里」千提寺で時間を費やして、今城塚は寄れず、あれからずっとTにうらまれています。

(そのときの旅のエッセイが次ぎのページですが・・
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/1tubakinoseibo.htm )


今城塚の調査もいよいよ核心部分へ進んでいるようですね。
羽曳野の峰が塚古墳や藤井寺の津堂城山古墳など、指定外の陵墓の調査報告は楽しみです。

西様
現説があれば、飛んで行きたい気がしてます。今後とも、詳しいご報告をお願いします。





1235. お返事を有難うございます 西 博孝 [URL]  2004/02/11 (水) 22:38
さわらび様

早速のお返事を有難うございます。29日の講演会が盛況でありますように。

開田様

初めまして、考古文化研究会の西でございます。コメントをお寄せ頂き有難うございます。今回の研修会は、恩師の近藤先生と高橋先生にお願い致しました。近藤先生のご配慮で、弧帯文石も見学できることになりました。

今回の研修旅行では、両先生から纏向古墳群の位置づけや初期ヤマト政権の性格、その後の吉備と大和・河内の関係が実際の考古資料に基づいて、従来の説とはまったく異なるものが出されると思います。

次回は備前編もやる予定ですので、北海道からはかなり遠いですが、ご都合がつけばご参加下さい。

それから今城塚の件ですが、私自身は横穴式石室と思い、常にそのように述べてきましたが、なかなか畿内では理解してもらえず、今回の物証でホッとしております。

今後の調査の結果を待たなければなりませんが、石室はかなり破壊されていると思います。と申しますのは、今城塚に埋葬されている中心の人物は、阿蘇ピンク石の石棺に埋葬されていると考えられます。

ところがこれまでの高槻市調査でも、また私ども研究会スタッフも阿蘇ピンク石の破片を採集しておりますが、非常に細片で、石棺はことごとく破壊されたと考えられます。

このような状況を考えますと、石室も破壊されていると考えられます。それから石室には少なくとももう一つ石棺があったと思われます。これは石材が異なりまして、流紋岩質火山礫凝灰岩質溶結凝灰岩で兵庫県高砂市の伊保山の石材です。考古学では、竜山石と呼ばれるものですが、厳密には石切場が異なります。この石棺石材も細片で、このような状況から少なくとも石棺の一部はかなり破壊されていると思います。

石棺の底石部分や石室が残っていればと願うばかりです。

今後ともよろしくお願い申し上げます。




1234. Re: 研修旅行のご案内 さわらびY(ゆみ)  2004/02/11 (水) 22:29
西様
吉備の旅、いいですね。行きたいけど、うちの講演会とぶつかり日程の調整がつかなくて・・・

申し込み〆切まであと2日間あるので、その間だけTOPページお知らせ欄にご紹介しリンクをつけました。関西地方の方はぜひご覧ください。

吉備路は平成8年の1月、倉敷に出張した際、レンタサイクルを借りて、総社駅から一宮駅まで約20kmを一人旅で廻りました。
しぐれ模様の寒い日で、ほとんど人に合わずに作山・造山古墳や備中国分寺をみて、最後に吉備津神社で「桃太郎うどん」を食べた時は、ほっとしたのを覚えています。

楽しい旅行になるよう、願っております。




1233. Re: 今城塚古墳 さわらびT  2004/02/11 (水) 20:39
開田さん。

初めてゆっくりお話できましたね。吉村先生の講演会は、思いがけず超満員でした。会場前にいたおかげで私たちは入れましたが、食堂には整理券配布の通知がなかったようで、そのため入れなかった方もいて、かなり混乱してましたっけ。

吉村先生と中華街で夕食というのは予定した行動でした。食事を楽しむという目的の集まりでしたので、お誘いしながら開田さんにはちょっと申し訳なかったのですが、少しは楽しんでいただけたのでしょうか。仁藤先生もこられましたし、私は食事会では結構はしゃいでしまいました。関羽廟前での記念写真ですが、あとでメールします。

> 今朝の新聞に、継体天皇の今城塚古墳のことが書かれていました。わらびさん、このタイミングに驚きませんか!

そうですね。ここまできたら石室まで到達して欲しいです。昨年吉村先生はグループで行ってこられたのですが、私は都合で参加できませんでした。そのため、イメージがわきにくいのですが、今回の遺構の発見のニュースは興味深々ですね。
つい先日まで近くにおられたのですから、確かに寄ってこられたらよかったですね。大阪では随分、書籍を仕入なされたとか、いろんなお話うかがえて、よかったです。




1232. Re: 研修旅行のご案内 さわらびT  2004/02/11 (水) 20:31
西博孝様

ご案内ありがとうございます。
とても残念ですが、私は29日に東京で講演会を開催しますので、今回は参加できません。またこのような機会があれば是非お知らせください。
近藤先生・高橋先生の現地解説というとても贅沢な企画ですね。掲示板をご覧の皆様、申し込みはお早めに。




1231. 今城塚古墳 開田 誠 [URL]  2004/02/11 (水) 17:47
 今朝の新聞に、継体天皇の今城塚古墳のことが書かれていました。わらびさん、このタイミングに驚きませんか!

 石棺のある石室に辿り着きそうなのだというのです。
 この古墳から出土した埴輪が、相模原市立博物館で展示されているところです。
 高槻では、埴輪を制作した窯跡が史跡公園になっています。

 私たちは8日に、博物館で継体天皇をめぐる問題を明治大学の吉村武彦さんが講演するというので、でかけていったのでした。
 わらびさん、お世話になりました。

 私は旅先でして、大阪からやって来たわけなのでした。高槻の現場も見ておくべきでした。後悔しています。古書店めぐりが先になってしまっていました。   





1230. 七支刀 開田 誠 [URL]  2004/02/11 (水) 17:33
 七支刀を見てみました。石神神宮から出されたのは、初めてだそうです。その文字をめぐって多数の解釈があり、古代の東アジア世界をどう理解するのかが試されます。
 見て、まず感じたのは、あれっ、小さいなということでした。1mほどでした。
 いつも、写真で、文字を読もうとしてきていましたが、それは拡大なんだ。
 花でも、そうで、コケモモの花を見るとその小さなことに驚きます。写真のイメージでは困ることがありますね。

 奈良国立博物館で展示中です。




1229. Re: 研修旅行のご案内 開田 誠 [URL]  2004/02/11 (水) 17:27
  うわぁー、ぜいたくな企画ですね。行けないのが残念。
 孤帯石を見てみたいです! 楯築墳丘墓に行った時、グルグルとその周辺を迷いました。
 また、鬼の城は、一度目は上まで行く時間がなく、ようやく2度目の時、時間をとり、登りました。
 北海道から行くのは大変です。こういういい企画が、またありましたら、教えて下さい。




1228. 研修旅行のご案内 西 博孝 [URL]  2004/02/11 (水) 12:01
さわらび様

 いつもお世話になり、有難うございます。お陰様で30数年ぶりに西倉様とこの掲示板で再会することができました。併せて御礼申し上げます。

 この度吉備の研修旅行を計画しておりますので、そのご案内をさせて頂きたいと思います。要項は下記のようになります。

日程:2004年2月28日(土)〜29日(日)
集合・出発:28日午前8:30 新大阪駅
見学予定地:
2/28(土)1.鬼ノ城 2.宮山墳墓群 3.江崎古墳 4.作山古墳
2/29(日)5.備中国分寺 6.吉備路郷土館 7.こうもり塚古墳(石室見       学)
      8.楯築墳丘墓(収蔵庫内の弧帯石も見学) 9.鯉喰神社墳丘        墓 10.造山古墳(周辺)など
参加費用:¥39,000
締 切 日:2月13日(金)最低催行人員30名 *50名様限定です。
宿泊場所:サンロード吉備路(総社市三須825−1)

現地講師:高橋 護先生(ノートルダム清心女子大学教授)
     近藤 義郎先生(岡山大学名誉教授)
総合講師:西 博孝(当研究会代表)
  講師:中岡 敬善氏(当研究会会員)

申込み・お問い合わせ:考古文化研究会・西森氏まで
企画担当:西森 忠幸氏(当研究会会員)

 なお、楯築弥生墳丘墓と鯉喰神社弥生墳丘墓では、楯築墳丘墓を発掘調査し、弥生墳丘墓と前方後円墳成立を詳細に研究されておられる近藤義郎先生の現地での解説と案内が決定しております。
 また鬼ノ城では発見者で、その後の調査団で研究されておられる高橋護先生から現地での解説と案内を予定しております。そして宮山弥生墳丘墓でも、発掘調査団の現場責任者であった高橋先生から説明をしていただく予定になっております。
 お二人の先生の最新のお考えを交えての現地解説という大変贅沢な企画ですので、一人でも多くの方々に参加していただきたいと思っております。

 旅行中はすべてバスで移動し、鬼ノ城では麓からマイクロバスに乗り換えて、頂上部まで参ります。他の見学地でもバスを近くにとめるので、歩く距離はほとんどございません。

 まだ定員に若干の余裕がございますので、ご興味のある方はこの機会をご利用下さい。
申込みとお問い合わせは、西森忠幸氏(ni.tada@siren.ocn.ne.jp)までメールでお願いします。
私どものホームページにも案内と見学地の簡単な紹介がございますので、ご参照いただければ幸いです。以上よろしくお願い致します。

 





1227. Re: 飯高神社の画像 さわらびY(ゆみ)  2004/02/08 (日) 23:21
> この間は、飯高神社の画像資料をありがとうございました。

2月21日に飯綱神社で「飯高神社と飯綱神社の彫刻の比較」とテーマに小学生を対象とした講演をなさるとのこと、HPがお役に立ってうれしいです。
高校の勉強とクラブ活動と郷土史研究とそれぞれがんばってくださいね。




1226. Re: 講演会ご参加ありがとうございました さわらびY(ゆみ)  2004/02/08 (日) 23:13
>  2月1日の桃崎祐輔先生の講演会にはご参加下さいましてありがとうございました。

お疲れ様でした。4回のご講演(シルクロード&髻華の会を入れて、延べ8回!)あっという間の1年間でしたね。

>  先生にはすばらしい「講演集」No.2を書いていただきました。
> 皆さまにもお薦めいたします。

「古代の風」の公式HPとリンクしました。
皆様には、そちらの「新着情報」でご覧ください。

ではまた。ゆっくりお休みください。




1225. Linkページを更新しました さわらびY(ゆみ)  2004/02/08 (日) 23:05
Linkページを更新しました

「さわらび通信」ページ制作で参考にしたサイト、お友だちとの相互リンクサイトを追加しました。

「古代の風」=「市民の古代研究会・関東」の公式ページ。「新着情報」は、桃崎祐輔氏編著・古代の風特別号No,2「考古学講座講演集」発行の案内です。

「Don Panchoのホームページ」=日本の成り立ちに興味をもって案内くださる関西&韓国の古代史跡の記事は充実しています。現在UP中の「大和〜河内の旅アルバム」でも参考にさせていただいています。

「宮彫刻」=江戸期の寺社彫刻の系譜研究の最先端を行くHP。画像データも豊富です。「長作の史跡と風景」と『身近な神社の「二十四孝」彫物比べ』では、彫工の系譜など学ばせていただきました。

「はあとの木」=まさみさん制作のWeb用素材のページです。すてきな才能があったのですね。

今後とも、どうかよろしくお願いします。




1224. 飯高神社の画像 藤本 涼輔  2004/02/08 (日) 22:27
さわらびY(ゆみ)様

この間は、飯高神社の画像資料をありがとうございました。とても参考になりました。僕も、先月現地に行ってきたのですが、屋根など障害物(?)が多く、影ができ、全然良い画像が撮れませんでした。あんな画像を撮る、さわらびY(ゆみ)様は、本当にすごいと思います。これからも、良い画像を楽しみにしています。




1223. 講演会ご参加ありがとうございました みきこ  2004/02/07 (土) 11:43
さわらび さま

 2月1日の桃崎祐輔先生の講演会にはご参加下さいましてありがとうございました。先生の熱気と皆さんの熱気が交じり合ってあっという間に時間が過ぎましたね。
 先生にはすばらしい「講演集」No.2を書いていただきました。
皆さまにもお薦めいたします。
 難しいけれど、じっくり読めば読むほど見えてくる世界があります。




1222. 高句麗遺跡が世界文化遺産への同時登録 さわらびT  2004/02/06 (金) 22:32
毎日新聞によると、高句麗遺跡が北朝鮮、中国による世界文化遺産への同時登録へと向かうことになったとのことです。1月のシンポジウムで平山郁夫氏がお話されたことが印象に残っています。以下は、記事からの引用です。

その平山郁夫氏の談によれば、「中国は今年の議長国であり、北朝鮮との間にしこりを残さないためにも同時登録が望ましいというのがパリ(ユネスコ本部)の意向だ。」とのこと。

北朝鮮は古代壁画で知られる平壌周辺の高句麗古墳群を世界遺産に申請しているが、昨年の審査では書類不備や「類似遺跡」との比較研究の必要があるとして登録が延期されていた。一方、中国は北朝鮮国境に近い吉林省集安にある高句麗第19代広開土王の業績を刻んだ石碑や付近の壁画古墳などの登録を目指している。

同時登録について、中国政府高官は「政治と文化」を切り離すよう平山氏が訴えたことに理解を示したという。




1221. Re: ありがとうございます さわらびT  2004/02/05 (木) 20:47
西倉一喜様

共同通信の方だということはすぐにわかったのですが、西さんが、お知りあいだったというのはご縁というものでしょうね。

私の関心で申し訳ないのですが、中塚明「近代日本史学史における朝鮮問題−とくに「広開土王陵碑」をめぐって」(『思想』561号、1971年、のちに『近代日本の朝鮮認識』研文出版、1993年に所収)という古い論文があります。中塚氏のここでの問題提起が出発点でした。広開土王碑の拓本が、1884(明治17)年、参謀本部の現役の軍人によってもたらされ、さらに拓本の解読が参謀本部でなされたこと。すなわち日清戦争前夜、この現役軍人は何を目的に鴨緑江の上流のこの地に出かけたのか、さらには参謀本部での解読作業という事実をどう考えるべきなのか。拓本と称されているものは、ふちどりされたものにすぎないという事実も指摘されたのでした。

私は、もともと自由民権運動など近代史に関心があったのですが、この碑文をめぐる議論(その後の李先生の指摘など)や騎馬民族征服王朝説などへの興味から、古代史の世界にも好奇心を持ったものでした。

残念ながら、まだこの史跡を訪れていません。先日のシンポジウムで、知らされたのですが中国はかなり整備をしていることでした。僻地なので旅行には向かないと思っていたのですが、どうもそうではないようです。しかしながら、この碑は一貫して中国の王権と果敢な戦いをくりひろげた高句麗の王を顕彰するものです。しかも中塚論文にありますように近現代史にかかわる史跡でもあります。日本においてさえ政治利用されたものですから、高句麗にかかわる問題はもはや冷静に論議しづらいものかもしれません。

さらに先日講演された桃崎氏のお話にもありましたが、鮮卑系の人々の活発な動きもまたわが国への影響を少なからず与えていたとなると、これは東アジア全体として考えるしかないのでしょう。しかしそれが欧州連合と同様な連合形成への合意に直結する議論になるためには、いくつものプロセスを必要とすることでしょう。

むしろ、東アジア史の中での日本史という視点すら、まだまだ認知度は低いと感じております。そういう意味では、桃崎先生の研究は例外的な鋭さをお持ちなのだと思います。

3月に早乙女先生をお招きしての講演は、いずれ旅行に行くつもり(願望です!)の集安についての知識を深めたく企画したものです。ご都合がよろしければご参加ください。




1220. ありがとうございます 西倉一喜  2004/02/05 (木) 14:07
さわらびさま、西さま

 早速のお返事ありがとうございます。大変参考になりました。小生は現在、共同通信の編集委員兼論説委員として東アジアを担当しています。アジアで欧州のような地域統合が可能なのかに興味があり、アイデンティティーとしての歴史の共有の問題に注目しています。この一環として東アジアの古代史を勉強していきたいのでよろしくお願いします。
 それとは別に西さまとは、岡山での地方記者時代に接点が有ったようで、本当に奇遇ですね。瀬戸内海の島でのキャンプがきのうのように想い出されます。あの中国からの少年は今ごろはどこで何をしているのでしょうかね。機会があれば、是非お会いしたいですね。




1219. 『新撰姓氏録を読む』 さわらびT  2004/02/04 (水) 23:18
この掲示板では、蘇我氏の出自問題を考えたりしてますが、文字史料というのは作為性が強いので、慎重に検討しなければと思います。とはいえ、すべて疑っても答えは出ませんから、難しいです。謎解きには挑戦しましょう。

ところで、『新撰姓氏録を読む』会ですが、通算して11回になりました。毎回、加藤先生の熱意ある講義と、熱心なご参加に皆さんのおかげで毎回充実した時間を持っています。

ここ数回は『高橋氏文』という史料を読んでいます。膳氏は実は何であったのか・・・

講義の一部を再現しましょう。

「高橋氏の祖先として登場してくるのは磐鹿六鴈命(いわかむつかりのみこと)という人物ですね。膳氏のは阿倍氏と同族関係を持っています。従いまして有名な大彦命の子孫ということになりますので、『新撰姓氏録』だとか、『日本書紀』『古事記』の中に出ているような系譜関係をたどって、これまでは大彦命の子供の比古伊那許士命、その子供が磐鹿六鴈命という風に勝手に位置づけているわけですが、継ぎ足して系譜が復元できたというだけなわけなんです。
膳氏は本来、自分たちの祖先、いわゆる始祖にあたる人物として伝承していた人物は、果たして大彦命であったのか磐鹿六鴈命であったのかという疑問がまずもたれるわけです。磐鹿六鴈命というのは、あとから阿倍氏と同族関係系を結ぶような段階で大彦命の系譜の中に位置づけられていったわけですが、もともとはそれと全く無関係であった可能性もあるということです。そういう問題を、『高橋氏文』は語っているわけです。」

びっくりしますよね。膳氏は、東国に本来のルーツがあったのではないか、ということです。




1218. Re: リンクの件 さわらびY(ゆみ)  2004/02/04 (水) 22:23
「宮彫刻」管理人様
リンクのご了解、ありがとうございました。
長作の諏訪神社や先崎の鷲神社など身近な社寺探訪の折、立派な彫刻を見るにつけ、その題材や作者の系譜がわかれば、と思っていました。
貴兄のHPを拝見し、歴史探訪に楽しみがひとつ増えました。

貴重な調査研究の成果をHP制作で参考にさせていただいた場合、各ページ毎に「参考HP」として、ご了承を得てリンク紹介させていただいています。
今回、「長作(千葉市)の史跡と風景」では、「宮彫刻」の知見にお世話になりました。
改めてお礼申し上げるとともに、貴HPへのリンクにも感謝です。




1217. リンクの件 宮彫刻・管理人 [URL]  2004/02/04 (水) 09:21
こんにちは、管理人様。
訪問ありがとうございます。
リンクの件、了解しました。
こちらからもリンクを貼らせていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。




1216. 桃崎祐輔先生の講演会をお聴きして さわらびY(ゆみ)  2004/02/01 (日) 23:18
今日は、「市民の古代研究会・関東」主催の桃崎祐輔先生の講演会を聴講してきました。
http://www.ne.jp/asahi/kodai/kaze/shinchaku.htm

「倭国への騎馬文化の道−慕容鮮卑三燕・朝鮮三国・倭国の馬具の比較研究−」と題するテーマで、3時間のお話はいつものように中身の濃い内容でした。
誉田丸山古墳出土の金銅製龍文透彫の鞍金具について、三燕時代の喇嘛洞墳墓出土の鞍金具との類似から「日本列島の騎馬文化のはじまりに、密接なつながりがあることが国際的な共通認識となってきた」というご見解は、年末に誉田八幡神社で見てきましたので特に興味深かったです。
また誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の築造の時代と被葬者については、443〜461年ごろ在位の允恭天皇を想定されるとのこと。
分厚い講演集を読み直しながら、ご講演の余韻に浸っています。

わかりやすく熱演くださいました桃崎先生、主催の労をとられましたみきこさんほか、会の皆様にお礼申し上げます。




1215. 自衛隊の派遣承認案可決に思うこと さわらびT  2004/02/01 (日) 22:45
昨1月31日未明に、イラク復興支援のための自衛隊の派遣承認案が、与党による衆院本会議での単独採決されました。

現実の政治動向に関することは、この掲示板ではあまりふれないでおりましたが、さすがに昨今の小泉内閣の「暴挙」には一言。いずれ憲法改正論議にもつながりますし、ちょっと不安に思うのは、「どっちにしても民主党は派遣に反対なんでしょ!」のような野党を小ばかにしたような小泉首相の言辞は、論戦そのものに意義を求める民主主義の精神には反する行為だと思っています。

少数意見の尊重こそ大事だと教わってきた世代としては、うーんと思ってしまう昨今です。せめてこの場は、多様な意見の交換の場でありたいと願っています。




1214. Re: 高句麗論争 西 博孝 [URL]  2004/01/31 (土) 02:04
さわらび様

ご無沙汰を致しております。考古文化研究会の西でございます。早々のメールをいただきましたのに、古巣の岡山に行ったりで、御礼を書くことができませんで、失礼を致しました。本年もよろしくお願い申し上げます。

西倉様のご質問に関してですが、中国の最近の『中国東北古族古国古文化研究』などの研究を指していると思いますが、残念ながら私は原文をまだ読んでおりませんので、発言できる立場ではございません。

西倉様もご指摘のように、現在の国家関係にも微妙に関係する問題です。中国東北の延辺地域は朝鮮族自治区であり、共和国との関係を考慮してか、これまで中国では高句麗に関しては積極的な研究はなかったと思います。

現在の国家関係や民族問題に縛られての研究というものほど、学問的にとって不幸なことはないと思います。現代に生きている私たちは、本人が意識するか否かを問わず、大なり小なりそのようなような影響下で、古代史や考古学を勉強しているわけですから、逆にできる限りそのような呪縛を解いて、事実に即して研究することこそが大事だと思っております。そしてその成果を各国の研究者が論議することこそが大事だと思います。

中国での最近の状況は、どのような背景があるのか、あるいはないのかは存じませんが、これまでの状況から考えれば、その論の是非はともかく、さまざまな角度からの自由な論議は研究をする上では最低限必要な土台だと少々楽観的に考えております。

ところで私事で誠に申し訳ございませんが、西倉さんはかつて岡山におられたのではないでしょうか?

私は苗曄(miao ye、xiao hua)とよく一緒におりました。確か西倉様も一緒に瀬戸内の小島にキャンプに行ったのではないでしょうか?

お名前を拝見して、つい懐かしくて書き込んでしまいました。さわらび様申し訳ございません。




1213. Re: 高句麗論争 さわらびT  2004/01/30 (金) 23:39
西倉一喜様

ご訪問ありがとうございます。ただ、突然のお問い合わせに少々とまどっております。

ご承知のことと存じますが、朝日歴史・移動教室が4月末〜5月初旬にかけて、高句麗壁画古墳の世界遺産登録関連の旅の企画を発表しています。この旅行の同行講師のお一人にに李進煕氏のお名前があります。

先日(17日)朝日ホールで開催されたシンポジウム『高句麗と東アジア』もその企画の関連イベントであったようです。
ともあれ、その会場で私は、李先生の昔と変わらぬご発言を聞くことが出来ました。30年前の衝撃的な論文に刺激を受けたものとしては、懐かしく思い出したりもしました。
李先生は、「広開土王(好太王)碑文には、今でも石灰は広範囲に残っている。したがって、「海」の字が判読できるとする」王健群説は成立しない。」と述べておられました。

お問い合わせの趣旨に直接答えることは出来ませんが、中国人研究者と在日朝鮮人研究者の見解が真正面からぶつかるこの事例も研究者の個人的な見解の相違ととらえるべきなのか、別の理由があることなのか。私自身、判断しかねております。理想を言えば歩み寄ること、相手を慮ることなのでしょうが、そんな奇麗ごとは通じないのでしょうか。私は、いまだに青臭いものですから、世界中の人々が手をつなぐことを夢見ています。

高句麗壁画古墳の世界遺産登録をめぐり、中国・韓国・北朝鮮が高句麗の歴史を取り合っているようです。対岸の出来事のように思えますが、東アジアの歴史は、日本列島に少なからぬ影響をもたらしてきたわけですから、いかなる形でかかわるのか、問われることになるのかもしれません。独自の裁定者としてわが国の為政者たちが、ありえたことはないのではないのか。

高句麗の歴史は、朝鮮半島の歴史だと思いますが、北方騎馬民族が建国した国家も近接して存在する以上、領土の取り合いよろしく、歴史の取り合いというのも無茶な話ですが、それが現実だということに驚いています。




1212. 高句麗論争 西倉一喜  2004/01/30 (金) 13:22
高句麗の帰属をめぐって中国と韓国・北朝鮮が歴史論争を始めているようです。世界遺産登録問題にも飛び火しています。かつて好太王碑の碑文の解釈をめぐって日韓でも論争がありました。現在の国家の枠組みから歴史を論ずる問題点についてご意見をお聞かせ下さい。




1211. Re: 蘇我氏と葛城 さわらびY(ゆみ)  2004/01/28 (水) 23:40
> ここ何日か、「葛城」について気がかりでたまりません。
> あ、ゆみさま、場所がずれちゃったかな・・・(^_^)

ああ、それなら巨勢山古墳群現地説明会の続きの「葛城氏って何?」の話題ですね。
(2年前、私の現地での恥じも外聞もないつぶやきと疑問に、Tが見かねて書きました)
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/koseyamakuhunngunn/katugagisihtm.htm
古代氏族をめぐる話題には、一般ギャラリーでいたかったのですが、ご指名ですから一言。
「○○の外戚」とか「養育氏族」ということに重要性があるようですが、この表現が妥当かどうか?
だって、大昔女が太陽だったころ、母系性が当たり前だったはずよね。
(日本史の戦いや争乱は、元寇や近・現代の戦争を除けばしょせん、母系に対する父性の挑戦だったように思えます。)

ところで、そんな思いに、ずばり応えてくれるHPがあります。(というより、愛読しているうちに影響されたのかな?)
おなじみのHONさんのページです。
http://hon.web.infoseek.co.jp/dust/bokei/bok-1.htm

こういう長文はWordにコピーし、プリントして朝の通勤電車の中で読むことにしています。
そういう意味で、最近、はまっているのが次ぎのHP。
「私論・厩戸皇子」は、プリントに夢中になって下車駅を過ぎてしまいそうになりました。
http://www.bell.jp/pancho/index.htm (「Don Panchoのホームページ」)




1210. 蘇我氏と葛城 まさみ  2004/01/28 (水) 21:03
>もののけ姫?
ははは、(^_^)、いいですねぇ。。。

話を戻しましょう。
ここ何日か、「葛城」について気がかりでたまりません。
馬子の主張によると馬子の母は葛城の女で、馬子の事を「蘇我葛木臣」と記した史料があるそうです。
これを信用するとして、葛城の血によって栄光を手に入れたとすると、葛城の皇子を擁した(ちょっと表現が違うかな?)鎌足がやはり栄光を手に入れたのは、無関係なこととは思えません。
あ、ゆみさま、場所がずれちゃったかな・・・(^_^)




1209. 大和〜河内の旅アルバムのUをUPしました さわらびY(ゆみ)  2004/01/26 (月) 23:03
-古代寺院遺跡と中世石塔の謎を追って-
大和〜河内の旅アルバムのUをUPしました。

 石川精舎跡の巨大五輪塔がテーマです。
 鎌倉時代のすばらしい五輪塔で、これが関東にあったら、県や市の文化財として有名になっていてもおかしくないのでしょうが、古代遺跡がいやというほどあふれている大和では、別にどってことないのでしょうね。

 舞台は、蘇我氏の故地です。
 この掲示板で話題の蘇我氏ネタに間に合わせようとしたのですが、楽しいおしゃべりは、蘇我氏→物部氏→もののけ姫?へと発展しそうですね


 古代史の史跡レポートはその筋では通のギャラリーが多そうで、びくびくしています。
 特に関西は、私にとってはまだまだちょっと贅沢な旅なので、じっくりというわけにはいかず、地元の方の資料提供とご教示に支えられてがんばっています。
 次は、河内が舞台、皆様今後ともよろしくお願いします。




1208. Re^2:物部氏について さわらびT  2004/01/26 (月) 22:28
あれっ?蘇我氏の話題だったはずなのにいつの間にか、物部になってしまいましたね。

> ところで、、『先代旧事本記』はわたしも持っているのですが、この中に「鎌姫」の記述があって、(巻第九、推古天皇)16年
> のところで、「物部鎌姫大刀自連公を参政と為す。」とあるのですがこれはいったいどういう意味なのでしょうか?

全く不勉強なので、何ともいえませんが政治=マツリゴトの原則でいえば、重要な祭祀をつかさどったということじゃないでしょうか。鎌姫というのが、入鹿の母だとして、実名が分かるというのもすごいですね。

物部氏は軍事氏族だと思うのですが、祭祀にも携わっていた形跡があるようです。物部の語源が物の怪(もののけ)なら、職掌としては祭祀と関係することになるのかな。




1207. Re:物部氏について まさみ  2004/01/26 (月) 12:55
>物部って名前が妙ですよね。モノの部(べ)、物の怪、もののふ(武士)・・・諸説あるようですね。
物部ですね。(笑)この「物」ってこの氏族を大変よくあらわしていると思いますが。

ところで、、『先代旧事本記』はわたしも持っているのですが、この中に「鎌姫」の記述があって、(巻第九、推古天皇)16年
のところで、「物部鎌姫大刀自連公を参政と為す。」とあるのですがこれはいったいどういう意味なのでしょうか?




1206. 物部氏について さわらびT  2004/01/25 (日) 18:57
すいません。話がずれるかもしれませんが、物部って名前が妙ですよね。モノの部(べ)、物の怪、もののふ(武士)・・・諸説あるようですね。

守屋が倒されたことで、その所領は蘇我氏が継承したので勢力は削られたようです。但し巨大氏族ですので、没落といってもまさみさんのおっしゃるようにほかの一族は残りますよね。

以前お話いただいたときの、加藤先生のレジュメには「分布地域は四十四ヶ国九十一郡以上に及ぶ(秦氏の三十四ヶ国八十九郡を越えて、第一位)」って書いてありました。(以下もそのレジュメから)

「第一種(本宗氏「物部氏」と同族関係[擬制的な関係も含め]にあるもの)
物部飛鳥・物部海運・物部医連・物部伊勢連・物部射園連・物部朴井連・物部鏡連・物部借馬連・物部肩野連・物部韓国連・物部浄志朝臣・物部匝瑳連・物部志太連・物部斯波連・物部多芸連・物部中原宿禰・物部二田造・物部文連・物部屋形・物部弓削大連・物部依網連

第二種(物部氏の支配下にある下級官人的氏族、軍事・警察的任務)
阿刀物部・聞物部・来目物部・坂戸物部・竹斯物部・相槻(なみつき)物部・贄田物部首・二田物部・網部物部・殖栗物部」

この氏族の巨大さを示すもののようです。

ところでさらに余談ですが、物部氏となれば、『先代旧事本記』ですが、そして「国造本記」は篠川先生のご専門らしいです。加藤先生の講義の途中に、時おり篠川先生の話題が出ますので、一言。

(「篠川賢「物部氏の成立」『東アジアの古代文化』95号)」などもご参照ください。)




1205. Re^3: 入鹿の母;追記 まさみ  2004/01/25 (日) 15:51
書くべきかどうかまよったのですが・・・波多氏の波多八代スクネの母は物部の女とあります。とすると、氏族間では仲がよかったのではなどと思ったりします。
また波多氏の系図がないのであくまで想像ですが、鎌姫の母が波多氏の枝族とも考えられます。

こういうことで、林太郎なのでは・・・???
でも、わかりませんね。ううううん。。。想像の域をでませんね。




1203. Re^3: 入鹿の母 まさみ  2004/01/25 (日) 15:20
さわらびTさま。お返事ありがとうございます。

>ともあれ、入鹿の母は物部氏系のようにも私には思えますが。
ああ、ありました。
別ノートに入鹿の母は物部鎌姫とありました。
この鎌姫ですが、守屋の妹、もしくは姪であるという。
波多氏の枝族か物部かどちらでしょうね?


さて、物部氏が没落したといわれますが、冠位十二階では物部依網連乙が小徳になっています。
守屋が物部氏の代表格であったなら、物部氏は高い地位にはつくことは出来ないのではないのでしょうか?
没落したのはあくまでも、「守屋さんち」であって、物部ではないのだと思います。
Tさまはどのようにお考えになりますか?




1202. Re^2: 入鹿の母 さわらびT  2004/01/24 (土) 22:25
皇極紀二年十月条、「蘇我大臣蝦夷、病によりて朝らず、私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬ふ。復た、其の弟を呼びて、物部大臣と曰ふ。大臣の祖母は、物部弓削大連の妹なり。故、母が財に因りて、威を世に取れり。」

なんか分かりにくい文章ですね。「其の弟」とは誰か?『聖徳太子伝略』には「復呼其第字曰物部大臣」とあるので、「弟」とあるのは間違いらしい。

問題は、入鹿の母、すなわち物部氏の財力が物をいった、と読めるのですが、これも母ではなく祖母の間違いだとか、・・・文献を読むのは難しいです。これ以上いじると解釈が広がりすぎますよね。ともあれ、入鹿の母は物部氏系のようにも私には思えますが。

物部氏(守屋)は、蘇我氏との戦いに敗れて財産没収の憂き目にあってるはずなので、この「財」とはなんなんでしょう。つまり没収した物部の財がものをいう、というか・・・

でも、まさみさんのおっしゃるように、入鹿が林太郎の別名を持つのは母方の氏族名である可能性も高いです。

謎を解いていくことが出来るでしょうか。




1201. 素人考えですが・・・ まさみ  2004/01/23 (金) 02:05
さわらびTさま。お返事ありがとうございます。

>通常、養育氏族の名がつけられるといわれてますので、間違いなく葛城氏が養育にあたったということでしょう。しかし問題は、葛城氏は五世紀(雄略期)に滅亡もしくは没落しますから七世紀に有力な王族の子弟を養育した「葛城氏」となに?という疑問が出ますね。

そうですね。
推古朝の葛城臣烏那羅の件もありますし、天武朝では葛城氏は朝臣のカバネをもらえなかったというのを無力化したとしますが、天智朝でも同じであったかはわかりませんし。
なんといっても、天武と天智は仲が悪かったらしいので、天武としては、天智側の勢力を削ぎたいはず。高い地位にはつかせたくないでしょうね。
わからないことばかりです。(だから面白いのですが・・・)