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No.1601-No.1700 2004/09/052004/10/15
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1700. Re^2: 馬場小室山 さわらびY(ゆみ)  2004/10/15 (金) 23:45
T花様
「遺跡は、一部の人のものではない」というお言葉、ありがとうございます。

すすむ様
研究者の方、行政や埋文の方々のお働きで、明らかにされる歴史の真実と、その価値ある知見をいつもありがたく享受させていただいています。
このHPは、そのいただいたことの何割かでも感想を交えて見ていただきたいと思って、発掘調査現場の取材ルポなどを載せていますが、もし当事者からのご意見をいただければ都度、改善して行きたいと思っております。

皆様へ
本BBSは、発言者の正しいアドレスをお願いしております。
またアドレスをオープンできかねるという方には、メールで掲載UPをご依頼いただければ、当方で引用紹介いたします。
またHPの感想や励ましのメールを下さった方、本当にありがとうございます。

今回の馬場小室山遺跡の紹介「お出かけガイド」は、遺跡を大雑把にかつ正しく知っていただく「概念図」がメーンです。

週末はお天気がよさそうなので、遺跡にお出かけになる方もいらっしゃると思い、案内をかねましたが、ご助言などいただき、見学にあっての注意点も加えました。

やはり、民有地でしかも緊迫した状況ですから、マナーとルールの厳守は大切です。
学ばせていただく、という視点で現地へ行って見たいと思います。




1699. 追伸 T花  2004/10/15 (金) 20:07
すみません。
1698でひとこと言い忘れましたので、書き加えさせていただきます。

それは、遺跡は、研究者や埋蔵文化財行政担当者といった、一部の人のものではないということです。研究者や行政担当者がいくら頑張ってもできないことはたくさんあります。日本の場合、遺跡の「記録保存をすること」が埋蔵文化財行政だと思ってしまいがちですので、保存については、まだまだ議論が不足していると思います。
 また、たとえ学術目的の調査であっても、大学の先生が古墳の主体部だけ掘ってしまう場合も多々ありますよね。そういうほうがよっぽどたちが悪いです。

「素人は口を出すものではない!」というような考えは排除すべきでしょう。




1698. Re: 馬場小室山 T花  2004/10/15 (金) 18:57
さわらびT・Y 様  すすむ 様

 こんばんは。
 馬場小室山遺跡の件については、私が「千葉市の遺跡を歩く会」の掲示板に、情報を寄せたこともあり、毎日、その後の状況を見守っております。確かに様々な考え方はあろうかと思います。このような情報社会ですから、誰がいつ、この情報を得て、どのような行動に発展するのか・・・、怖い面はあるでしょう。
 私は、埋蔵文化財に係る業務に関わっていますので、多少なりとも情報は入ってきます。今回、土地を購入した業者等のことも含めて・・・。 この遺跡について、実務として関わっているさいたま市教育委員会が、「部外者からあまり意見をもらいたくない。」という考えを持っているかもしれませんが、私個人としては「黙っていては始まらない!」という考えを持っています。ただ、私も日常業務に追われ、現地に行くこともできずにおりますので、発言は慎重にしたいと思っていますが、様々な意見が出され、遺跡保存についての議論が活発化することは悪いことではないと思います。
 ですから、すすむ様のようなご意見を持たれることも大いに結構ですが、匿名での発言はよろしくないと思います。せっかくこうしたHPが解説され、自分の意見が発信できる場が提供されていますので、正々堂々とした方がいいと思います。

 多少意見が偏ったかもしれませんが、私は、情報の載せることは大いに賛成です。




1697. Re: 馬場小室山 さわらびT  2004/10/15 (金) 07:00
すすむ様

はじめまして。掲示板への投稿ありがとうございます。

遺跡の保護についてはお考えもおありでしょうが、いつブルドーザーが入ってもおかしくない状況です。今は多くの人が関心を持っていただくことが優先だと考えています。

もし差し支えなければ、もう少し詳しいお立場とかお考えをお聞かせいただき、遺跡保護へのアドバイスをいただければ幸いです。尚、メールにてお話したいこともありますが、アドレスが不正確で届きません。メールいただけますでしょうか。




1696. 馬場小室山 すすむ  2004/10/15 (金) 02:11
今回の馬場小室山遺跡についてさまざまな記事が掲載されているように思われました。しかし、これら遺跡の状況写真を掲載したり、遺跡の細かな位置をこういった場所で掲載するのは果たして適当なのでしょうか?調査の不十分さを訴え、保護や保存のために多くの方が動いている中で、こうしたものを掲載することは単なる興味本位の人間によって遺跡を壊すきっかけを与えたりはしないでしょうか。鈴木先生の熱意に感動なさったのならば、こうしたことはおかしいのではないかと感じます。




1695. Let!Go!馬場小室山 さわらびY(ゆみ)  2004/10/15 (金) 00:11
「遺跡を訪ねてみよう 馬場小室山お出かけGUIDE」をUPしました。
この週末の埼玉地方の天気は晴れ! とにかく行ってみませんか。
この遺跡の特徴を大雑把につかむために、オリジナル「馬場小室山遺跡概念図」が役に立つことと思います。Let!Go!




1694. 「消えゆく遺跡」にさせたくない! さわらびT  2004/10/14 (木) 20:09
鈴木正博先生から、お教えいただきました。東京新聞10月11日朝刊(さいたま版)に、次の記事が掲載されています。心ある方なら素直に納得できる文章だと思います。読む機会が少ないと思われますので、全文を引用させていただきます。(タイトルは『各駅停車 きえゆく遺跡』)

「さいたま市緑区三室にある縄文時代の遺跡「馬場小室山遺跡」の一部が、宅地開発のための発掘調査を終え、姿を消すことになった。古代から手つかずで残され、専門家が驚くほどの貴重な遺跡だった。
自主的に発掘調査を手伝っていた研究者や市民有志は「調査は終えていない」「将来まで残して」と訴えたが、調査を指導・監督する立場の市教育委員会は「最低限の調査は終えた」「民間の土地だから」と聞く耳を持たなかった。
遺跡を開発する場合、発掘調査の費用は通常、開発業者の負担。「金も出さずに、口は出せない」との市教委の主張は理解できる。
しかし、調査最終日、日没まで泥まみれで汗を流す市民有志の姿が忘れられない。古里の文化遺産を必死で守ろうとする市民に対し、先頭に立つべき市教委のつれない対応。その日、現場に姿を見せることさえなかった市教委担当者の態度に、消えゆく遺跡は何を思っただろう。(磯谷 佳宏)」




1693. 草の乱 さわらびT  2004/10/14 (木) 19:55
実は、11日(祝)に浦和方面に出向いたのは、『草の乱』の上映があることを知ったこともきっかけでした。

前述した、馬場小室山遺跡は東浦和駅からバスで10分ほど、(4キロと聞きましたので歩けば1時間)の距離です。映画の上映は浦和ですので、好都合です。

縄文時代の史跡探訪と、「自由民権」とでは時代も問題意識も隔たりを感じるかもしれませんが、もともとは日本近代国家成立史に興味がありました。

車内で読もうと持参したのは、『日本の時代史』第22巻「自由民権と近代社会」(吉川弘文館)。鶴巻先生の論考も収載されていますが、この日は巻頭の新井勝紘先生の論文に読みふけりました。

千葉宅(卓)三郎というわずか31歳で生涯を終えた教員が、憲法草案を残していました。考えてみますと、『民衆憲法の創造』という本にであったのはもう40年近く前のことになります。私は現行憲法が、こうした民衆憲法の作成に熱意を持った草の根の力が生んだものとの認識をもっておりますので、大いに関心のあるところです。

ところで、『草の乱』は1884年に起きた民衆運動「秩父事件」を題材に、井上伝蔵を主役に描いた映画です。事件後120周年なんですね。

民衆の決起に目をそむけ、当時の自由党が解党しようとしていたこともよく描かれています。生糸相場の下落、法外な高利の借金の返済に追われ困窮した秩父の人びとは、田代栄助と言う義侠の人を総理に担いで11月1日をもって蜂起しました。

大宮郷(現秩父市)はコンミューンとなったのですが、同時決起は起こらず、わずか数日で解体を余儀なくされます。事件90周年前後のころでしたか、「秩父困民党群像」(井出孫六)などをよく読みました。映画ではその主人公たちが活躍します。今年は120周年になるそうです。

北海道で暮らした井上は、伊藤房次郎と名を変えて暮らしていたのですが、死の直前、家族に秩父事件の会計長・井上であることを告げます。家族一同の写真がのこされています。あっという間の2時間、エンドマークが出ると、盛大な拍手を持って上映は終了しました。映画のパンフレットに伝蔵の最初の妻(古ま)が生んだ布伝(ふで)の娘さん、小池もとさんの言葉と写真が載っていました。100年間は伝蔵の孫だという身元を明かすなといわれていたそうです。事件の重みを考えて目頭が熱くなりました。公式ページがありました。

http://www.kusanoran.com/top.html




1692. 馬場小室山遺跡の概念図拝見 あるけ [URL]  2004/10/14 (木) 00:39
馬場小室山遺跡の概念図,拝見しました.
よくわかりました。
さわらびさんに作っていただいてよかったです。
中央窪地を大きな盛土のひとつと誤解してました




1689. 夜の船橋市の縄文大学 さわらびY(ゆみ)  2004/10/13 (水) 23:28
仕事の帰りに、船橋市飛ノ台史跡公園博物館主催の「縄文大学」を受講してきました。
http://www.city.funabashi.chiba.jp/tobinodai/joumondaigaku.htm
今日のテーマは千葉県の発掘事例をもとにした「ここまでわかった縄文社会」講師は高橋龍三郎先生でした。
市原市草刈遺跡の例からは、縄文中期の廃屋墓への埋葬の実態、また後期では、市川市権現原貝塚の例から洗骨人骨土坑への再葬など、また祭祀遺跡や祭祀遺物のあり方など最新の情報により、階層化社会への過程にある縄文時代の社会構造を丁寧にご説明くださりました。

高橋先生もまた馬場小室山を視察されておられる有識者のお一人でしたね。
縄文人の精神社会について、多少でも理解が深められたように感じました。




1688. Re: お久しぶりです さわらびY(ゆみ)  2004/10/13 (水) 23:01
磯自慢さま

> 鬼岩寺のレポをプリントアウトして
> 今日、届けてまいりました。

ありがとうございます。藤枝でみた中世石塔群や富士山はわすれません。
若王子古墳群もわかりやすいよう、よく保存されていましたね。

中世石塔を追いながら、充分な調査をされずに消滅しようとするさいたま市の馬場小室山の縄文遺跡の緊迫した状況に関心を寄せている今日この頃です。




1687. お久しぶりです 磯自慢太郎  2004/10/13 (水) 21:51
鬼岩寺のレポをプリントアウトして、ご住職にお渡しする、と言っていた磯自慢ですが覚えておいででしょうか^^;? 
言いだしてから大分経ちましたが今日、届けてまいりました。
残念ながらご住職は不在でしたが、家の方にお渡ししましたので。
また、その内に行くこともあると思いますので、その時に感想でもお聞きしておきます。




1686. 葛井氏 オホヤシマ  2004/10/13 (水) 12:22
葛井氏とすれば白猪史、野中古市人、フミヒト。まさに加藤ワールドですね。野中古市人の重要性がますます浮き彫りになってきます。遣唐使になったのは19歳の時ですか。もし戻ってきたら、日本で玄ぼうクラスの重要人物になっていたでしょうね。




1685. Re: 遣唐使の墓誌 さわらびT  2004/10/12 (火) 22:08
オホヤシマ様

すごいものが発見されましたね。報道によれば、東野治之先生は、「葛井(ふじい)氏」の出身説ですね。遣唐使を多く出した氏族で、「ふじいのまなり」と推定されていますね。

「葛井」氏なら、先日掲示板に書いた道昭が葛井氏と同族の船氏なので、話が自分なりにつながってくるので、面白いなと勝手に思ってます。

今回発見の墓誌の主は開元22年(734)に亡くなっているので、前年の遣唐使の到着は知っていたと思われます。帰国を楽しみにしていたのかも知れませんね。墓誌がどこまで正確にその人を伝えているかはわかりませんが、優秀な人材だったのでしょう。霊亀2年(717)、多治比県守を押使とし、阿部仲麻呂・吉備真備・玄坊らが渡航しているこのときに、渡唐したとすれば、17年間の日々を、唐ですごしたわけですね。

故郷に帰れなかった人もあるのはもちろんのこと、時代はさかのぼりますが道昭たちがわたった白雉四年(653)の遣唐船のうち、第2戦が往路で難破し120人中生存者5名というのですからまさに命がけですね。

相変わらず話はそれますが、白雉四年(653)の遣唐船なんですが、この間まで勉強していた藤原氏、不比等の兄の定恵も乗っていたし、勉強会で、加藤先生が紹介されてましたが、若き粟田真人が乗船していたらしいです。(佐伯有清「山上氏の出自と性格」『日本古代氏族の研究』所収)

佐伯先生は、この論文で、『書紀』白雉四年五月壬戌条の、学問僧の一人としてみえる「道観。春日粟田臣百済之子」に注目、さらに国史大系本などの分注として「俗名真人」とあることなどから推理して、「道観」=「粟田真人」説を提唱されています。粟田真人の没年養老三年(719)まですると、「道観」が生存する可能性を問い、「道昭」は文武四年(700)に72歳で物化していることなどから、検討を加え、白雉四年には道昭25歳、定恵は11歳、もし定恵と同年とすれば、粟田真人が遣唐執節使となった大宝元年(701)は59歳、なくなった養老3年は77歳であって可能性はあるとされてます。

いろんな史実が見えてきます。




1684. 遣唐使墓誌続編 オホヤシマ  2004/10/12 (火) 12:59
しつこくてすみません。下の記事、字数オーバーのため、東野さんのコメントカットしました。参考までに

東野治之・奈良大教授(日本古代史)の話 遣唐留学生の墓誌発見は初めてというだけでなく、留学生の勉学状況や死亡後の待遇などこれまでよく分からなかった留学生の状況を具体的に明らかにする極めて重要な資料。墓誌は一般に良いことを書くので、事実かどうかわからないこともあるが、皇帝が高い官職を与えて葬らせたとあり、大変優秀な人物だったと考えられる。振る舞いが礼儀にかなっていたともあることから、儒学を学びに行ったと思われる。




1683. 遣唐使の墓誌 オホヤシマ  2004/10/12 (火) 12:26
こんな記事が出ていました。遣唐使の墓誌が出てきたという話です。鈴木靖民先生は井上忌寸ではといっていますが、加藤先生ならどんな推理をするでしょうか。
新華社通信によると、中国陝西省にある西北大学は唐時代に日本から中国に渡った1人の遣唐留学生が客死したことを記す墓誌を同市内で発見したと発表した。この留学生は奈良時代、阿部仲麻呂らとともに遣唐使の一員として中国に渡ったと見られる。中国で当時の日本人の墓誌が発見されたのは初めて。
 この墓誌には「国号日本」と書かれており、中国で確認されている漢文の実物資料のうち、「日本」という国名が出てくる最も古いものであると報じた。
 墓誌は、遣唐留学生について「姓は井、名は真成、国号日本」で、豊富な知識と勉学に励んだ業績を評価している。「井真成」は官職として宮廷に仕えたが「開元22年」(西暦734年)に36歳で死去。死後、皇帝の衣服を管理し直接皇帝に仕えることができる「尚衣奉御」という高位の職を授与されたことも付記されている。墓誌には、玄宗皇帝がその死を悼んで盛大な葬儀を行ったとの記述もあり、「亡骸は異国の地にあるが、魂は故郷に帰ることを願う」と結んでいる。
 「尚衣奉御」という役職から、「井真成」は唐で官吏として出世した仲麻呂に匹敵する人物だった可能性がある。また墓誌にある死亡年齢などから717年に仲麻呂や、帰国して右大臣になった吉備真備ら557人が参加した遣唐使として中国に渡った可能性が強い。
 遣唐留学生の中では、仲麻呂や吉備真備、空海らの名が残っているが、日本側に「井真成」の記録はない。中国名のうえ、日本で高位の官職に就いてなかったためと見られる。
 鈴木靖民・国学院大教授(日本古代史)の話 遣唐使の役割、目的などは文献では分かっていたが、同時代の生の史料が見つかったのは初めてで、日中交流史、日本の古代文化史を具体的に想像できる第一級の史料だ。(「井」という中国姓は)現在の大阪府藤井寺市一帯を本拠とした渡来系の「井上忌寸(いみき)」という一族ではないか。一族の中でも特に優秀で、コネもあったのだろう。死後に贈られた、皇帝の衣服を管理する役職「尚衣奉御」は従五品上(官位)に相当するが、ほぼ同じ年齢で、ともに唐に派遣された阿倍仲麻呂は同じころ、従五品下に昇格しており、「もう一人の阿倍仲麻呂」ともいえるだろう。
(毎日新聞) - 10月11日1時40分更新




1682. 馬場小室山遺跡の新情報2 さわらびY(ゆみ)  2004/10/12 (火) 01:19
鈴木先生の公開メール【馬場小室山その後の展開】と、さいたま市教育委員会と宅造業者への要望書が「千葉の遺跡を歩く会」サイトにUPされています。
http://www.geocities.jp/chibaiseki/

先生の決意にジ〜ンと来ました。ぜひお読みください。
新しい展開が見えてくるかもしれません。

またいただいたご本から遺跡の実測図をUPしました。
「馬場小室山のかたるもの」のページ下にリンクしてあります。
ご参考にしてください。
(あるけ〜さん、お得意の空中マップにわかりやすく加工できますか?)




1681. 馬場小室山遺跡の新情報 さわらびY(ゆみ)  2004/10/12 (火) 00:42
気にかかっていた馬場小室山遺跡ですが、Tが浦和に行くというので、遺跡の様子を見てきてと、頼みましたら、なんと現地で遺跡の保存に奔走されておられる鈴木先生にお会いできたとのこと。
現地をつぶさにご案内していただき、さらに浦和市郷土文化会発行の『馬場小室山遺跡』(S59発行)を、おみやげにいただいてきてくれました。
話を聞き、また本の中の遺跡実測図を見て、いろいろな謎が解明できました。
1.中央くぼ地は(予想通り)遺跡東側の竹やぶで半径50mぐらいもあり、周囲より2mほど低くなっている
2.遺跡はこのくぼ地の周囲に形成され、その範囲は200m四方におよび、井野長割遺跡をはるかにしのぐ
3.なぞの大穴は、人面土器が埋めてあった第51号土坑のように、土器をていねいに埋めた穴とのこと。ここからは完形の土器が多数の土器と共に出土したらしい。
などなど・・

また気にかかる現状ですが、樹木の伐採と重機用通路の確保が進んでいるが、まだ多量の遺物の包含しているマウンド部分の掘削までにはいたっていないそうです。
先生は、もし多量の遺物を含んだ廃土を他所に運んで廃棄すると、そこに新しい縄文遺跡が「捏造」されてしまう結果になるので、この「残存埋蔵文化財」の取扱いに慎重を期すよう、また未調査地区が保存されるよう絶対にあきらめずに運動していかれるとのことです。

一応完結なんて言った馬場小室山シリーズですが、新しい情報や私があらためて学んだことをまた追加していきたいと思っています。どうかご指導をお願いします。




1680. 馬場小室山遺跡・再訪しました さわらびT  2004/10/11 (月) 20:53
Yにあおられたわけではないのですが、思い立って、「馬場小室山遺跡」を再訪しました。

前回は車だったのですが、今日は電車をのりついで、武蔵野線の「東浦和」駅まで、約1時間、駅からは「馬場折返所」行きのバス、「三室中学校前」で下車、バスの乗客は私一人でした。

写真を撮っていましたら、ちょうど鈴木先生がこられ、自己紹介しましたら、それならと、ぜひ遺跡を知っていただきたいと概要をご説明いただきました。

よく知られた遺跡で、ずいぶん丹念に調査されていたことを知りました。なぜ、全国でも有数の環状盛土遺跡が、消滅しなければならないのか、中央窪地は買収されていて関連する隣接地を入手できるのに、なぜか手放す、行政のあり方にあらためて疑問を感じます。とにかく、行ける人は、何度でも出向きましょう。




1679. 「馬場小室山遺跡からのメッセージ」を早速拝読しました。 ドン・パンチョ [URL]  2004/10/11 (月) 10:41
ゆみさんが新しくアップされた「馬場小室山遺跡からのメッセージ」を早速拝読しました。気になっていた人面画土器や土偶装飾土器などの出土品が写真で紹介されていて、非常に分かりやすいレポートに仕上がっています。

実は、「馬場小室山遺跡」は小生の自宅から車で15分ほどの所にありますが、古代史の関心がアスカなど関西にもっぱら向いていたため、この遺跡の存在など知りませんでした。先日、このさわらび通信のBBSで初めて知った次第です。早速、7日の朝出かけて現在の様子を小生のHPの橿原日記(http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/index.htm)に追加しておきました。

地域開発と遺跡保存の問題は、どこの発掘現場でも起きていて難しい問題です。100年先200年先を睨んで文化遺産にどう対処するかは、はっきりしたビジョンが必要です。飛鳥や橿原といった古代遺跡の宝庫でも、折角発掘された遺跡が地域開発を優先するために次から次への記録だけの保存という形で破壊されています。さいたま市教育委員会にどれだけ卓見を持つ人間がいるかで、この遺跡の運命が決まるのではないでしょうか?




1678. 「馬場小室山遺跡からのメッセージ」をUPしました さわらびY(ゆみ)  2004/10/11 (月) 01:16
「馬場小室山遺跡からのメッセージ」をUPしました。
とても珍しい出土品などからこの遺跡の性格を想像してみました。

この拙いHPが、遺跡の保存、または調査の続行をお考えいただく一助になればと願って、とりあえず馬場小室山遺跡シリーズはこれで完結します。

また新しい情報がございましたら、このBBSかメールでお知らせください。




1677. 馬場小室山遺跡の緊急で重要な資料 さわらびY(ゆみ)  2004/10/10 (日) 08:21
「千葉市の遺跡を歩く会」のHPで、馬場小室山遺跡の緊急で重要な資料を掲載してくださいました。

馬場小室山遺跡の調査に関する要望書 (鈴木正博氏 2004年9月16日提出) 
馬場小室山遺跡緊急発掘調査の経緯と研究者ボランティア活動推移
馬場小室山遺跡緊急発掘調査の課題(研究者ボランティア報告)と今後の対応(要望書) 鈴木正博氏

http://www.geocities.jp/chibaiseki/
「千葉市の遺跡を歩く会」のTOPページ更新欄よりご覧ください。




1676. 台風一過? さわらびY(ゆみ)  2004/10/09 (土) 23:51
心配していた台風22号は、オペラシティで「細川ガラシア」を鑑賞している間に気づかずに通り過ぎ、暴風雨にもあわず、ダイヤが乱れてかえってガラガラの電車に乗って無事帰宅しました。

夫婦別々に見に行った市川の遺跡の現地説明会を、コラボレーションして、Upしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/itikawagennsetu/itikawagennsetu.htm

どういうわけか、私のほうが珍しく!雨女です。

気になる馬場小室山遺跡の続きは、もうちょっとかかりそうです。
調査を担当した研究者からの学術的な報告が早く公開されるといいのですが・・




1675. 国府台遺跡現地説明会と市川市下貝塚の咳神様を訪ねて さわらびY(ゆみ)  2004/10/08 (金) 23:56
明日は超大型台風が直撃とか。野外のフィールドワークならさっさと中止でしょう。
私は明日、中高の時の同級生とオペラ「細川ガラシア」の鑑賞会なのですが、行く事はできても帰ってこられるのかとても心配です。

天気予報を見て、8・9日の国府台遺跡現地説明会も今日午後から、半休して行ってきました。
市川市国府台の千葉商科大学内の現場で、下総国庁想定地の南側の地点です。7世紀後半の国衙造営にかかわる?竪穴建物群、8世紀終わり頃の幅大きな南北の溝と氷室の穴、そして一度なくなった竪穴建物が10世紀にはまた現われているのもわかりました。
11世紀以降の遺構としては、六所神社(総社)の参道の溝らしきものがあります。
大きな溝は、国衙の東の区画を意味し、今回の発掘で国衙の想定範囲がはっきりしたそうです。「国厨」の墨書土器や江戸時代の埋銭などの出土品も面白かったです。

市川に行ったついでに、この春から追っかけている北総の咳神信仰のひとつで、市川の「こんこんのんのん様」を探しに行きました。
市川市の下貝塚と大野の境にあるという情報だけが頼り。いつでも行ける、いつか行こうというのはなかなか実行に至らないものなので、この際雨でも行ってみようと歩き出しました。途中、国分尼寺やお猿さんが桃を持った庚申塔、国分寺裏の「腹切り様」(これも咳神)を撮りながら、北下遺跡(国分寺の瓦を焼いたかまど跡)をフェンス越しに見て、曽谷へ。もう4時ごろになっていましたので、曽谷貝塚はまた今度にし、下貝塚の咳神の祠を捜し歩いたのですが、雨で人通りも少なく、やっと犬のお散歩の方に教えていただき、やっと探し当てました。
国府台から下貝塚の端まで遠かったですね。しかも市川はアップダウンの迷路ですから疲れましたが、おかげさまで、咳神様データはこれで19例目になりました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/takatutujikiri/sekigamisama.htm




1674. 宇治橋断碑と道登・道昭 さわらびT  2004/10/08 (金) 23:46
先日、掲示板で唐突に宇治橋断碑を取り上げたことで、Yから異論があるとの指摘を受けております。

>宇治橋断碑なんかもそうですが、同時代のものでないと信用しないクセがついてしまいました。(掲示板1652)

誤解されても仕方のない表現でした。訂正いたします。江戸時代に発見された「宇治橋断碑」を「偽作」と考えてはおりません。ただしその碑文に書かれた内容をすべて史実かどうか、慎重に考えたいと思っています。

Yが、八千代郷土歴史研究会機関紙『史談八千代』21号(1996)に「「宇治橋断碑」を訪ねて」を発表しております。論点を丁寧に踏まえた論考ですので、ご紹介いたします。「偽作する妥当な理由がない限り、安易に偽作と決めつけることはできない」という立場で、現地に足を運んだレポートです。

偽作とは考えませんが、@道登=架橋者A「大化」年号、について記すのは、7世紀後半〜8世紀初頭以降に、碑が作られたことを間接的に証明していると考えています。橋は壬申紀にも記されるところですから、碑文に記載する「大化二年」(646)に存在した可能性を否定するものではありません。

近年注目されたのが歴博企画展「古代の碑」で発表された、阿部義平先生の、分析です。碑の複製作成過程で江戸時代の補修部分ではなく、オリジナルの碑(真碑)には自然石面はなく、加工碑であることが判明、笠石を持つようだと考察されています。

先日、加藤先生の勉強会で「多胡碑」を検討されました。立派な笠石を持っています。この「多胡」ですが、「胡人が多い」から命名されたという説には批判的で、「多胡吉士」に因むと指摘されています。(『吉士と西漢氏』参照)

笠石のある碑は、朝鮮半島に多いこともあわせ考えますと、「宇治橋断碑」にもその影響があるのかもしれません。むしろ、船氏である道昭こそ、この建碑の創設に携わった可能性を強く感じます。道登は孝徳紀に「十師」とされたえらい僧侶のようですが、橋との関連が、よくわかりません。

『日本霊異記』上巻12「人畜に履まるる髑髏救い収められ、霊しき表を示して現に報ずる縁」に、「高麗の学生道登は、元興寺の沙門なり。山背の恵満が家より出づ。往にして大化元年丙午、宇治橋を営り・・・・」

橋を作ったことと、この話が関係ないところが、ユニークなところです。まだ不勉強なところが多いので、すぐにはまとまった論にはなりませんが、問題意識をとりあえず記します。




1673. 継体 オホヤシマ  2004/10/08 (金) 12:47
さわらびTさま

鈴木先生の論文紹介頂きありがとうございます。
石和田さんの論文、私も頂き読みましたが面白かったですね。
やはり、金石文は漢字の特定が基礎ですが、この点については、普通の古代史の先生もなかなか字体までは踏み込めないので、文学系の先生もどんどん参入してほしいものです。
石和田先生は、「弟」という漢字の音は「テ」であり「ト」ではないので、「フト」=彦太説はなりたたないと言っていますが、これは説得力あると思いました。




1672. Re: 講演会のご案内 さわらびT  2004/10/07 (木) 22:09
鈴木靖民先生は、『東アジアの古代文化』117号(2003年)に「継体の王位継承とその性格」を書いておられます。煩雑な内容で恐縮ですが、鈴木先生の説明がわかりやすいので、引用させていただきます。

隅田八幡神社の人物画像鏡の銘文のことですが、さし当たって以下のように読めます。

「癸未年八月曰十大王年孚弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人尊所白上同二百旱作此竟」

これを、平野邦雄・山尾幸久先生の解釈に従い、「癸未年、ヲシ大王(億計、または仁賢)の年、斯麻がオシサカ(忍坂)宮にいた孚弟王に長く奉えんことを念じ、開(帰)中費直・穢人今州利の二人の尊を遣わして銅を上り、この鏡を作らせた。」とされ、「この鏡が北紀伊に伝存することからみて、作られた鏡が斯麻から孚弟王へ贈られ、さらに王から紀伊の紀ノ川水系の首長に授けられたという経路を推定できる。遣わされた二人は武寧王の側近の渡来人とみなされている。この斯麻は百済の「斯麻王」(武寧王陵出土墓誌)と同じ表記で「嶋王」(武烈四年条)にも通じ、いわゆる武寧王のこととする説が有力である。」と書いておられます。

ところが異説があります。その提唱者のお一人が、7月に鈴木英夫先生の講演会にもお見えだった、石和田秀幸先生です。実は、以前この掲示板でもお名前を出させていただいたことがあります。東京成徳大学で、ハングル石塔の勉強会があって、出席させていただいたことがありますが、その折にお話になられておられました。石和田説によれば、ですが、武寧王は無関係とされます。鏡の実物にあたって文字そのものの解読をされています。その探求姿勢はすごいと感動しました。『千葉史学』第36号(2000年6月発行)に論文が掲載されてますが、「開」は「帰」と読むべきとのこと、さらに「帰」は「紀」につながるので、紀氏だという説、ムム・・・ですが、考えさせられます。

鈴木靖民先生は、同時に沖森説も紹介されておられるのですが、顕宗・仁賢の史実性・実在性を疑問視する史学の検討に言及されていない点を批判されてます。長くなるのでこの辺でやめておきましょう。鈴木先生の論考では、『倭国と東アジア』(『日本の時代史2』吉川弘文館)も有益でしかも上記、沖森・石母田説も紹介されておられます。ご参考まで。




1670. 講演会のご案内 オホヤシマ  2004/10/07 (木) 14:30
講演会の案内を出させて頂きます。誰でも参加できますので、会場にお越しください

継体天皇シリーズ第4回
「東アジアの中の継体大王の即位と王権」

日時 10月23日(土)13時半開演
場所 建築会館 JR田町駅を山手線の内側に出て、最初の信号を越えて道なりに進むと
        2分ほどであります。
講師 鈴木靖民先生(國學院大學教授、当会副会長)
資料代 会員1300円、一般1500円、学生500円
照会先 090−9835−1857 稲垣 
ご案内 継体天皇シリーズの最終回として、隅田八幡宮鏡銘の「男弟王」や文献史学、考古学の解釈から、継体天皇を、鉄の生産、渡来人の編成、朝鮮半島との外交に関与する形で倭王権に参加するに至った地方首長とした上で、5、6世紀の王位継承史のなかでの継体の位置づけについて、述べて頂く予定です。




1669. 市川市国分の北下遺跡 さわらびT  2004/10/06 (水) 23:59
現地説明会がありましたので、珍しく私が参加してきました。

市川市の北下遺跡は、外環道建設にともなう発掘調査です。遺跡の西へ300メートルの距離に下総国分寺があり、その創建時の瓦を焼成した窯が発掘されました。

構造のまったく違う「登り窯」と「平窯」の2基が並んでいます。残念ながら、それぞれ天井部と焚口部は失われていますが、報道を参考にしますと、市川市考古博物館の山路直充さんは「国分寺の寺域内で、創建期の窯が種類の違う2基見つかったのは貴重」だとおっしゃっておられるようです。

これも保存されるといいですが・・・・




1668. 馬場小室山遺跡の出土品 さわらびY(ゆみ)  2004/10/06 (水) 21:21
あるけ〜さま、T花さま

馬場小室山のルポを編集し始めました。
不勉強のまま出かけたので、今になって「復習」し、その遺跡と出土品の重要性にびっくりしている現状です。

有名な土偶装飾土器・人面画土器は、県立博物館で撮影も可能でした。買ってきた写真集「浦和市出土品百選」に収録されているその他の出土品も祭祀用の重要なものばかりです。

いったいこの遺跡はなんだろうと考えてしまいます。

ところでちょうどその週末、大宮西口ビルで市教育委員会の「最新出土品展」がおこなわれていたのですね。
http://www.city.saitama.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020046&WIT_oid=saitama::Contents::19602

県立博の帰りにこのチラシを入手しましたが、もう寄る余裕はなくて見逃してしまいました。

市のHPでは、不鮮明だと思いますが、遮光式土偶と「の」字形石製品は、なんと馬場小室山遺跡出土なのです。

市立浦和博物館では、出土品を見たいと一生懸命お聞きしているのに、この展示について何にも教えていただけなかったのは、とても残念でした。

わたしもつい愚痴っぽくなっているかもしれません。
(さいたま市教委の関係の方、もしご覧になっていたらごめんなさい。)




1667. Re: 掲載写真について。 さわらびY(ゆみ)  2004/10/06 (水) 20:48
考古@ぐん様

ご助言ありがとうございます。

> ところで、こうした発掘現場の写真は、調査者の理解と許可が必要に思います。

調査データとして具体的な写真ではなく状況と雰囲気をと思ったのですが、まだ未発表の段階では慎重であるべきと思い、削除しました。

現在、連載中のシリーズ「縄文遺跡のある風景in印旛沼南岸台地の遺跡群」のなかで、ご許可をいただける写真とデータのみ使ってあらためて再編集したいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。




1666. 掲載写真について。 考古@ぐん  2004/10/06 (水) 19:54
さわらび通信を拝見しました。
今縄文研究で非常に注目されている千葉県遠部台遺跡と曲輪ノ内貝塚の調査状況の紹介、とてもわかりやすく興味深いものがありました。
掲載された写真も調査の詳細が伝わるものが多く、驚きました。
ところで、こうした発掘現場の写真は、調査者の理解と許可が必要に思います。
阿部先生達の論文を見ると、末文に文部科学省の研究費によっていることが明記されています。文科省は、その成果の公表、情報管理には、ひときわ厳しい条件をつけているようです。
掲載写真が調査状況を伝えるものであるだけにその点は調査者の直接の許可が必要になると思います。また、そうした許可があればその旨も明記していただければ利用者にとっても大変にうれしく思います。




1665. Re: 馬場小室山遺跡の速報をUP T花  2004/10/05 (火) 23:37
さわらびY 様

こんばんは。
さわらびさんの行動力には本当に感心してしまいます。
あるけーさんも書かれていますとおり、色々と事情はあると思いますが、本当の被害者は遺跡です。私も似たような仕事に関わっておりますし、同じようなことに直面した経験もあるため、あまり言及はできませんが…。遺跡の保存よりも経済活動(開発行為)を優先する今の日本社会を責めてもよいのか?個人的には責めたい思いもあります。課題は多く、そして重いですね。すみません。愚痴っぽくなってしまいました。




1664. 神八井耳同族 オホヤシマ  2004/10/05 (火) 12:22
朝明郡の郡司について、『後拾遺往生伝』(926年成立)に「伊勢国朝明郡船木良見」とあり、船木氏が任じられていたこと、また、『古事記』神武天皇段に「神八井耳命」の子孫として、中央豪族の意富臣らと同族として「伊勢船木直。尾張丹羽臣。島田臣」らがあること、が指摘されています。
*この神八井耳同族(多氏)も、大分氏、阿蘇氏、磐城氏、常陸那珂氏など、装飾古墳の分布地域と重なる点など興味深いですね。それと、小泊瀬部、小子部、磐城(有力皇子に磐城皇子あり)、雀部、など雄略に近い勢力も集まっています。この中に、船木、丹羽、嶋田などの伊勢・尾張の豪族が混じっているのが不思議でしたが、装飾古墳のモチーフに船があるように、船や海洋交通に関係のある氏族なのでしょうか。
この同族がいつできたかは難しいところですが、装飾古墳に注目すれば、6世紀半ば位ですかね。




1663. Re^3:馬場小室山遺跡の速報をUP あるけ [URL]  2004/10/04 (月) 22:26
いつもながら貴重な情報、ありがとうございます。

>貴会の「加曽利町を歩く」は雨の中の遺跡巡りだったご様子、
>お疲れ様でした。
あの雨の中、参加予定のほぼ全員が集まったのには、
主催している側の身ながら、驚きました。
最後まで元気だったのは私だけだったようですけど。
秋はいろいろ予定がみなさんあるようで、敢行しましたが、
距離があり、みなさんにはきつかったようです。反省してます。

>「市のほうは、従来より遺跡の存在、重要性を市民・業界に周知する努力をしていたのか」は本当に?です!
やはりそうですか。
>さいたま市立浦和博物館〜県立博物館に行き〜
>図書の販売コーナーでも最近の資料はありませんでした。
さわらびさんの行動力と熱意には頭が下がります。
そもそも興味のない人にも関心をもつように広報・普及活動をする責任があるのにわざわざ積極的にこちらから調べにいっても何もない、とはけしからん話ですね。埋蔵文化財に関してはどこの自治体も実態は「知らしむべからず」の世界なんですかね。
どこの市だったか(どーこだったかなぁー)、重要な遺跡であればあるほど市民に知らせてはいけない、という倒錯した「論理」を職員に徹底している市があることを知ってますので、それほど驚かなくなっていますが(慣れは恐ろしい)。
いずれにしろ情報隠しをしていてはやるべきことをやったといえないのは当然です。

せめて今後の動向に注目し、情報を発信していきたいと思っています。




1662. Re: 車持氏 さわらびT  2004/10/04 (月) 20:22
オホヤシマ様

> それと、例の「久留倍」遺跡のクルヘは、古代地名の伊勢国朝明郡訓覇郷の地名にもとづくようですが、クルヘと車持氏とは何か関係があるのでしょうか。興味深いところです。

それはよくわかりませんが、思い出したのですがシンポジウムで倉本先生から指摘があったのは、船木氏のことです。

岡田登氏の論文に書かれているのですが、朝明郡の郡司について、『後拾遺往生伝』(926年成立)に「伊勢国朝明郡船木良見」とあり、船木氏が任じられていたこと、また、『古事記』神武天皇段に「神八井耳命」の子孫として、中央豪族の意富臣らと同族として「伊勢船木直。尾張丹羽臣。島田臣」らがあること、が指摘されています。

倉本先生は、岡田氏は初めから同族と考えておられるようだが、むしろ壬申の乱をきっかけとして、多臣品治(おおのおみほむじ)がこうした地方豪族を組織化した結果ではないかと発言されてました。

生き生きとした歴史が見えなかなか、面白いです。




1661. 車持氏 オホヤシマ  2004/10/04 (月) 12:23
車持氏は雄略朝に行幸へ従うことを職掌として成立したという伝承を持っているようですが、そこから馬の生産に関わったのでしょうか。ただ、鎌足の妻が車持氏出身で、その子のフヒトが田辺史に養育されたということは、フミヒト的な氏族でもあったのでしょうか。フミヒトと馬との関わりを加藤先生が述べておられますが、この辺り興味ありますね。
田辺氏と上毛野氏のことは、この勉強会の最初の方で話されたと記憶していますが、当時はまだ理解が浅かったのでよく意味がわかりませんでしたが、今はすごく興味が深いですね。
それと、例の「久留倍」遺跡のクルヘは、古代地名の伊勢国朝明郡訓覇郷の地名にもとづくようですが、クルヘと車持氏とは何か関係があるのでしょうか。興味深いところです。




1660. Re^2:馬場小室山遺跡の速報をUP さわらびY(ゆみ)  2004/10/04 (月) 00:25
あるけ〜さま
本日の貴会の「加曽利町を歩く」は雨の中の遺跡巡りだったご様子、お疲れ様でした。くれぐれも風邪をひきませんように。

馬場小室山遺跡の速報を見てくださってありがとう。
発掘の担当された方々も、調査用具もひきあげてしまった調査現場。宅造工事の前のつかの間の静けさのなか、近所のご家族が散歩されていましたが、「市のほうは、従来より遺跡の存在、重要性を市民・業界に周知する努力をしていたのか」は本当に?です!

現場を訪ねた後、有名な人面土器など小室山遺跡の重要な出土物を見たいと思って、すぐ近くのさいたま市立浦和博物館に行きました。
ところが、「浦和とサッカー1世紀展」のため、常設展示されているこの遺跡の出土品も片付けられて、一切見ることができませんでした。
http://mytown.asahi.com/saitama/news01.asp?kiji=5905
(これって、遺跡隠しとしか思えない!)

遺跡に関しての資料もほとんど置いていなく、市教育委員会でないとなにもわからないとのこと。
しかたなく、「浦和市出土品百選」という10年前の写真集を買いましたが、なんと馬場小室山出土品が13点も入っている。ほかもほとんどこの付近のものばかりで、馬場小室山とその周辺は旧浦和市を代表する遺跡だとわかりました。
といっても、ここでは最新の情報はなにひとつ入手できません。

仕方なく県立博物館に行き、この遺跡の出土の人面土器のレプリカと土偶付土器の2点を見ましたが、図書の販売コーナーでも最近の資料はありませんでした。

新聞記事にもあった考古学協会の「馬場小室山遺跡の保存に関する要望について」と「馬場小室山遺跡に関するコメント」が考古学協会HPにUPされていますので、こちらもリンクしておきます。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaa2/maibun/index.htm
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaa2/maibun/yobo0416.htm




1659. Re:馬場小室山遺跡の速報をUP あるけ [URL]  2004/10/03 (日) 21:26
速報、拝見しました。
ひじょうに参考になりました。
「強制終了」(!)の記事の情報も。
プロの企業がわざわざ重要遺跡を選んで買って開発ということのようですね。
市の言い分もよく聞く言い分で、他人(市)事ではありません。
市のほうは、従来より遺跡の存在、重要性を市民・業界に周知する努力をしていたのか、それが気になります。

いずれまた




1658. 馬場小室山遺跡の速報をUP さわらびY(ゆみ)  2004/10/03 (日) 08:33
馬場小室山遺跡見学の速報をUPしました。
まだ資料と知識が不十分ですので、とりあえずの速報です。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/omuroyama.htm




1657. 馬場小室山遺跡へ行ってきました さわらびY(ゆみ)  2004/10/02 (土) 20:17
T花さんからお寄せいただいた情報と、千葉市の遺跡を歩く会のあるけ〜さんのサイトの地図を頼りに、さいたま市緑区三室にある馬場小室山遺跡へ行ってきました。

調査期限の緊迫したタイムリミットのなかで、発掘作業にご苦労されて先日調査終了せざるを得なかった遺跡現場の最後の姿を見届けてきました。

現地で、遺跡に興味を持ってこられた地元の若い方に教えられることがありました。次のURLはこの方にお教えいただいた東京新聞の地域ニュースです。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/stm/20041001/lcl_____stm_____001.shtml

画像とルポは整理次第UPしますが、とりあえずこの記事をお読みください。
なお、明日駆けつけたいと思った方へ、
地図はこちらです。
http://www.nifty.com/cgi-bin/mapview.cgi?map_x=139.41.15.0&map_y=35.52.57.7&map_szx=520&map_szy=420&map_zoom=11&map_center=1




1656. シンポジウム『朝鮮通信使と関宿藩』 さわらびT  2004/10/02 (土) 00:43
國學院大學講師の鈴木先生からご連絡いただきましたのでお知らせいたします。

シンポジウム『朝鮮通信使と関宿藩』
「江戸時代の朝鮮通信使と関宿藩−新発見の通信使書契から探る」
10月24日(日) 午後1時〜5時(展示は12時から)
柏市野村証券ホール(柏駅東口みずほ銀行5階)
講演 「朝鮮通信使と関宿藩」 仲尾宏氏(京都造形美術大学客員教授)
報告 「通信使を迎えた藩士たち−『仕宦録』と藩重臣−」 松本松志氏(千葉日韓関係史研究会)
   「関宿藩の歴史」    鈴木英夫氏(國學院大學講師)
展示 「書契」・「仕宦録」・久世藩主直筆など関宿藩関係資料
参加費 1000円
主催 シンポジウム実行委員会、千葉日韓関係史研究会

このシンポジウムの趣旨ですが、昨年、京都において関宿藩主久世重之が朝鮮通信使と交換した友好を確認する「書契」(文書)が発見されたのですが、日本において現物はこれまでわずか2点しか存在せず、今回で3回目の発見例ということになるのだそうです。貴重な史料ですね。

とりわけ重要なのは、関宿藩に残された『仕宦録』という史料の存在で、そこには江戸藩邸において朝鮮通信使を迎えるためのあわただしい準備の様子や交流が生き生きと描かれているとのこと、拝見出来るのが楽しみです。仲尾先生は、数年前、NHK人間講座でお話になっておられました。聞き逃せない講演になりますね。




1655. 中国国宝展と宝篋印塔のルーツ さわらびY(ゆみ)  2004/10/01 (金) 23:46
五輪塔と並んで中世の代表的な石塔の一形式である宝篋印塔のルーツを実物で見てみたいと思っていましたが、今日仕事の後に寄った東京博物館の中国国宝展で、そのルーツと思われる銅製塔をふたつも見ることができました。

ひとつは銭弘俶八万四千塔〈浙江省金華市万仏塔塔基出土・五代十国時代(呉越)・顕徳2年(955) ・総高22.6cm〉、もうひとつは宝塔(江蘇省蘇州市瑞光寺塔出土・五代十国〜北宋時代・10〜11世紀・総高37.6cm)と展示一覧にある塔です。

宝篋印塔は、一切如来の全身舎利の功徳を集めた呪で四十句からなる『宝篋印陀羅尼』を納めたことに由来する塔ですが、わが国では鎌倉時代、忍性により大蔵派石工の技術で大和額安寺、生駒の竹林寺近くの輿山往生院に、さらにその後忍性の足跡と共に箱根やつくば市の三村山などに造られ、供養塔としてひろく普及していったと思われます。
この額安寺宝篋印塔に遡る事例として、9月5日に中世都市研究会2004鎌倉大会で山川均氏は1230年代に造られた旧妙真寺と高山寺の塔を紹介し、この塔のさらにルーツとして、中国五代末期の顕徳二隼(955)呉越王銭弘俶が、八万四干基の金塗小塔を造立して諸国に分け日本にも将来された銅小塔をあげれておられました。
中国国宝展では、「仏舎利の信仰」のいうセクションで、この銭弘俶塔と、これより大きめで隅飾りなど細部の形式が観察しやすい宝塔を見ることができます。

今回の中国国宝展は、なんと言ってもポスターにもなっている菩薩立像(山東省青州市龍興寺址出土)の微笑が魅力。次に中国へ行くとしたら山東省青州市へ行ってみたいですね。
また文殊菩薩倚像(甘粛省天水市麦積山石窟第102窟出土)もすてきです。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=755

私には、金縷玉衣や青銅の爵や鼎などより、日本の古代・中世の仏教美術に影響を与えた仏舎利信仰の工芸品や石仏の方が親しみやすく興味がもてました。
特別展開催期間中の毎週金曜日は夜8時まで開館しているのも便利ですね。この秋おすすめのちょっと贅沢な展示会です。

ところで、No.1652にTが書いている宇治橋断碑と中世の行基墳墓発見の経緯についての私の見解は少々異なるのですが、それはいずれまた。




1654. 車持氏 さわらびT  2004/10/01 (金) 23:11
オホヤシマ様

さっそくレスいただいてありがとうございます。差しさわりがあるときにお告げというのは、方便なのでしょうですが、それが真実を伝えていることは当然あるわけですね。むしろ妙な占いやお告げで改名するタレントもいる今の時代の方が、嘆かわしい。

群馬の見学会には残念ながら参加できなかったのですが、以前、かみつけの里博物館に出向いたときに購入した図録『グンマはクルマから始まった−なぞ解き「群馬」の名の由来』2001年、を取り出してきました。今度講演があるとうかがっていますが、若狭先生の編集のようですが、あくまで「仮説」とことわっているところもユニークです。

三ツ寺T遺跡をはじめとする豪族居館が車持(くるまもち)氏の勢力圏にあったという仮説を前提に論じられています。

車持氏で印象があるのは、不比等の母親が車持君国子の娘だったという伝えがあることです。(『尊卑文脈』)田辺史→上毛野氏との関係も想像されますね。

ちょっとこじ付け気味ですが、勉強会は藤原氏から車持氏へリレーするといったテーマでお願いしましょうか。多胡碑のお話をしていただけるとも聞きましたけれど・・・

車持氏って、自然発生的な名称ではないですね。職掌に由来するのは確かですが、車(くるま)って、地名としては不自然ですね。群馬(くるま)と改められたわけですけれど、これもかなり無理な改名という感じです。図録では、馬生産と関係があると書いておられますが、この地における重要な生産資源だったことが想像されます。

そういえば、掲示板(1591)で、剣崎長瀞西遺跡出土の鉄製轡の写真をリンクしたことがありました。五世紀における渡来人の色彩の濃い遺跡・遺物も興味深いです。




1653. 行基 オホヤシマ  2004/10/01 (金) 12:27
大僧上(正)舎利瓶記というのは、はずかしながら、初めて今回その存在を知りました。こんなものがあったんですね。
日本書紀、続日本紀に載っていないことは、それこそ無数にあると思いますが、それを別の情報源から拾いあげていく作業、あるいは別の情報源をもとに正史の記述を検証していくことが、ある意味では、学者のみなさんがやっていることかもしれません。
ただ、夢のおつげイコール造作とはいえないのではないかと思います。この前、聖武天皇の本を読んでいたら、聖武の諱として伝わっている「首(おびと)」は実は、続日本紀などの正史にはまったく登場せず、江戸時代に出来た「本朝後胤しょう運録」という書物に記述があるだけのようですが、それとは別に、平安時代の貴族か僧侶の日記に、その書き手が夢の中で聖武の諱が首であることを知るという記述があります。
これなども、もし諱が本当なら、夢の中の出来事として真実が伝えられているわけです。何かいいにくいこと、などを言う一つの便法として夢のお告げなどが使われた可能性もあるのではないかと思います。




1652. 大僧上(正)舎利瓶記 さわらびT  2004/09/30 (木) 23:37
オホヤシマ様

いつもご参加いただきありがとうございます。

加藤先生のお話で、面白いなと関心をもったのは、いくつかあるのですが、唐招提寺に伝わる『大僧上(正)舎利瓶記』のこともひとつです。

鎌倉時代に出現したものですが、その出現の経緯が不思議で、竹林寺の僧や信徒が、託宣によって墓を掘ったら銘文を刻んだ舎利瓶が見つかったというわけです。舎利瓶は現在、残るのは残片で、銘文そのものは写し取られて全文がみられるのですが、信憑性を考える必要がありそうな話ぶりだったと思います。

天寿国繍帳発見の経緯と似ているので、そう考えると銘文自体も疑わしいと思われてきますが、これまであまり疑う説はなかったたようです。

宇治橋断碑なんかもそうですが、同時代のものでないと信用しないクセがついてしまいました。

天福二年(1234)6月24日、行基廟の傍らに庵を構えていた僧慶恩に、託宣がくだった。その託宣に、呼応するかのように行基墳墓上に立つ石塔から舎利二粒が発見された、という。なんかすでに胡散臭く思えてきます。

翌文暦2年8月11日に、また託宣が下ります。同月の25日に、わが廟を開掘し、人々の疑念をはらせ、というのです。

このように開掘までに、いくつかの「奇跡」が起こっています。「いわば一種の宣伝によって、「群集道俗」「隣里之輩」「土民」と呼ばれた民衆が次第に行基遺跡崇拝に感化されてゆき、これらの参加を待って開掘がおこなわていることである。」(細川涼一『中世の律宗寺院と民衆』より)

開掘した寂滅らの一種のプロパガンダに利用されたものかもしれません。ちなみにこの開掘に忍性が「群集道俗」の一人であった可能性もあるようですが、これはYの世界ですので、ここまでにします。

聖徳太子信仰も、このようなプロパガンダの成功例じゃないかと思っています。




1651. Re: 遺跡の調査と保存 さわらびY(ゆみ)  2004/09/30 (木) 00:43
T花さま
遺跡の調査と保存の大切さをさまざまな観点からお教えいただきありがとうございます。
松ヶ崎城跡の保存運動などでは、柏市の市民グループの活動に学ぶ点が多いと思います。
現状が維持されている中での学術調査と開発に伴う事前調査では、それぞれ問題点やご苦労もあるでしょうが、研究者と行政や現場の調査担当者と市民がそれぞれの立場で共に遺跡に関心を持つことがとても大事ですね。

>市民の皆さん向けの行事は非常に大切なこと・・
印旛郡市文化財センターや八千代市・佐倉市などの主催の現地説明会など、いつも丁寧な内容に感謝しています。
現在はインターネットですばやく情報が得られ、よほど田舎でない限りけっこうにぎわっていますね。どうか今後ともよろしくお願いします。

>「縄文遺跡のある風景」内の神楽場遺跡ですが・・・発掘調査が行われていることが確認されました。
そうでしたか。情報お待ちします。

私も自分でできる範囲で、分厚い調査報告書、学会誌などを参考にしつつ、街やムラのくらしと景観の中で「遺跡」が主張しているものを、今しばらく追ってみたいと思っています。

ところで、お知らせ欄に八千代市立郷土博物館の「市内出土遺物展〜 あなたに身近な、いにしえの八千代 〜」の企画展へのリンクをつけました。

また、久々にTのコンテンツ「久留倍遺跡(四日市市)探訪記)をUPしました。
(さてTは、続きを近日中に書いてくれるのでしょうか?)




1650. 遺跡の調査と保存 T花  2004/09/29 (水) 13:24
さわらびY さま

こんにちは。
馬場小室山遺跡についてコメントをいただき、ありがとうございました。ご存知だとは思いますが、現在、日本国内で実施されている発掘調査は、開発に伴う事前調査がほとんどです。
私は、多少ですが埋蔵文化財に関わる業務には携わっております。しかしながら、なかなか、他の方が実施されている調査へのお手伝いはできていません。現状では近隣の職員との情報交換が精一杯です。お恥ずかしながら・・・。
ただ、こうしたHPがあり、情報提供により、色々と議論が高まることはずばらしいことと思います。
井野長割遺跡のシンポジウムもそうですが、市民の皆さん向けの行事は非常に大切なことです。いくら研究者が遺跡の重要性を主張しても、市民の皆さんに理解・興味・関心を持っていただき、保存についての理解がなくては遺跡の保存は難しいですよね。ほとんどの遺跡では、指定史跡になりますと、その土地を公有化して保存し、そして見学ができるように整備しますが、それは税金で賄われます。

追伸 「縄文遺跡のある風景」内の神楽場遺跡ですが、さわらびさんが歩かれた台地の斜面付近(線路に近い位置らしいです)にある、現在「市民農園」になっている場所で発掘調査が行われていることが確認されました。平成13年頃のようです。詳細は調査中ですので、確認でき次第、ご報告します。

それでは、これからも、よろしくお願いいたします。




1649. 最終局面を迎えている馬場小室山遺跡について さわらびY(ゆみ)  2004/09/28 (火) 23:02
T花氏よりのNo.1590「環状盛土遺構のある遺跡について」で紹介されている環状盛土遺構が見つかっている馬場小室山遺跡について、この遺跡の調査が最終局面を迎えている模様が伝わるメールの紹介が、「千葉市の遺跡を歩く会」のBBSに載っています。
http://www.book61.co.jp/に掲載の「【緊急依頼】馬場小室山遺跡発掘調査ボランティア募集」という転載メールです。http://www.book61.co.jp/information/borantia.htm

開発のための発掘調査期限のタイムリミットと闘いながら、極限状態で真摯な調査を続けておられるプロの担当者の苦闘が、この転載メールから伝わってきます。
私たち一市民が先日の「環状盛土遺構」のシンポジウムのような機会に貴重な知見に接することができるのも、現場の調査担当者のご苦労の結果であるとすれば、他人事ではありませんね。
来月には宅造工事が始まってしまうのでしょうか。現場はさいたま市でちょっと遠いですが、一度見てみたいとも思うのですが・・




1648. 「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」の催しのおしらせ さわらびY(ゆみ)  2004/09/28 (火) 19:51
TがNo.1313で書いている松ヶ崎城跡ですが、7月1日付けで、柏市文化財に指定されたそうです。
また、保存運動に取り組んできた「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」が5周年を迎えるに当たり、歴史シンポジウム&企画展示会を企画しています。
秋はイベントが目白押しでスケジュールの調整がたいへんだと思い、少し早めに主催者から企画書をいただきましたので、皆様にお知らせします。(TOPにPDFファイルをリンクしました)
なお、下記の公式HPでもそのうち詳細がUPされると思います。 http://www.matsugasakijo.org/
---------------------------------------------

――祝 柏市制施行50周年・当会設立5周年記念――

歴史シンポジウム&企画展示会

「松ヶ崎城と街道(みち)−中世柏地域の陸上交通」

 中世、松ヶ崎城は陸上交通(水戸道中)の要であった。JR北柏駅周辺の遺跡群(中馬場遺跡・法華坊遺跡・根戸城跡)は交易や商業の中心・宿(しゅく)であったが、隣接する松ヶ崎城もその一翼を担っていた。北柏駅周辺遺跡との関係はどのようなものか?
 また、2回の発掘調査で新たになった「松ヶ崎城の実像」とは? シンポジウムと企画展示会で考え、探っていく。

*展示会では模型、焼失した大絵馬の復元プリント、平安時代の古代東海道コーナーなども設けています。

1)日時 シンポジウム 11月28日(日)午後1時〜4時
     企画展示会  同日  午前10時〜午後4時

2)場所 柏市中央公民館
     シンポジウム  5階講堂   
     企画展示会   3階美術サロン 

3)シンポジウム  資料代 300円
    企画展示会   入場無料 

4)シンポジウム パネリスト 

・「手賀沼と水戸道中」
中山文人 氏(松戸市戸定歴史館学芸員)

・「松ヶ崎城跡の確認発掘調査でわかったこと」
間宮正光 氏(山武考古学研究所首席研究員) 
井上文男 氏(柏市教育委員会文化課文化財担当)

・「松ヶ崎城はどんな城だったか」   
遠山成一 氏(千葉城郭研究会事務局長)

*司会 鈴木英夫 (國學院大學講師、当会顧問)

5)シンポジウム 先着 180人、 予約不要

6)後援 柏市 柏市教育委員会 

7)主催 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会

8)問い合わせ Tel・Fax 04−7134−3322 
事務局 槙 慎吾




1647. フミヒト オホヤシマ  2004/09/27 (月) 12:57
さわらびT様
加藤さんの講演会開催頂きありがとうございました。色々な資料を駆使した内容の濃い話だったと思います。壷にはまったというのでしょうか。
河内のフミヒトが地方に派遣され、派遣先の地名を氏族名とする。彼らのうちには、そのままその地にとどまり、あたかも在地の豪族のように郡司(大領とかサカンとか)になっている人がいるという指摘は重要であると思います。
昨日、三ツ寺・保渡田遺跡に行ってきましたが、すぐ近くに渡来人の集落と大きな墓(積石系の方墳)がありました。三ツ寺の位置づけは種々説があるでしょうが、やはり中央となんらかの関係があったのでは。渡来人も中央が送り込んだという要素が濃いのでは。五世紀末位からそういうことがあったと見てもよいのでは、ということを考えました。
車持氏、上毛野氏、田辺史などの話も加藤先生に聞いてみたいですね。あと、白猪史とか、中央と地方という観点から氏族をみられればといいと思います。




1646. 加藤謙吉先生の講演、ありがとうございます さわらびT  2004/09/26 (日) 23:31
9月25日(土)、加藤謙吉先生の講演『コシ史とコシ国−『日本霊異記』中巻七の記載の解釈をめぐって−』、無事終了いたしました。31名のご参加をいただきました。4ヶ月ぶりに開いた講演会でしたので、久しぶりにお目にかかる方も多く、懇親会でもゆっくりお話も出来ず失礼したかと存じます。

ご講演はまだ活字になっていない、意欲的な内容のお話でした。

行基の父方とされる高志氏についての研究から、コシ史(古志史)が河内古市郡周辺を本拠としたフミヒトであること、そのウジ名がコシの国名に因んでいること、すなわち、古志史の一族の者がコシ国(後の越後国頸城郡郡)に派遣され一時的に拠点を構えたことによることなど論じてくださいました。

『日本霊異記』中巻-第七に、行基につい「俗姓は越史なり。越後国頸城郡の人なり。母は和泉国大鳥郡の人、蜂田薬師なり」とある、これらの事実が踏まえられていることになり、景戒の誤解とはいえないことがわかってきたわけです。

「舎利瓶記」の出現経緯などの不審な点も、これからあらためて検討されることになればと思います。加藤先生のご研究の更なる伸展も期待してます。




1645. Re: 秋の気配 さわらびY(ゆみ)  2004/09/26 (日) 23:24
お久しぶりです。お仕事たいへんそうですね。

>私の知っている貝塚です。

ここですね。今は休日の午後となると、サティへ行く車でにぎわう交差点、せめて遺跡としての記録があるといいのですが・・ もしかしたら貴重な証言かもしれませんね。
http://www.nifty.com/cgi-bin/mapview.cgi?map_x=140.9.37.9&map_y=35.42.46.0&map_zoom=11&map_szx=520&map_szy=420&map_center=1&map_title=&channel=&x=238&y=257

>上座貝塚はどのあたりなのでしょうか。

上座貝塚の位置です。上記の位置からサティ方面への坂の途中、コジマの交差点を右折し突き当たったところです。駅に近いのにこの辺は道が迷路ですね。
http://www.nifty.com/cgi-bin/mapview.cgi?map_x=140.9.36.4&map_y=35.43.5.8&map_zoom=11&map_szx=520&map_szy=420&map_center=1&map_title=&channel=&x=425&y=166
この周りに住んでいる方の話では、庭から貝殻が出てくるそうです。

今日は井野小学校構内の井野長割遺跡のシンポジウムと遺跡見学会がありました。
先崎の秋はのどかでしょうね。
城跡のほかにも、まだ未知な遺跡があるような気がしています。土器や貝殻のある畑や森がありそうな気がしているのですが・・




1643. 秋の気配 mwara [URL]  2004/09/26 (日) 21:52
今年の夏の暑さはいづれも最高記録ずくめでした。
花の撮影も時々しては居るのですが、根が入らないので、その時を待っている状態です。今、大変忙しいです。と言うのは本社からの引越しで毎週土日で引越しに絡んだ仕事をしています。来年の3月までは続く予定です。合間を見てゆみさんのHPも時々覗いています。上座貝塚はどのあたりなのでしょうか。私の知っている貝塚ですが、地図を載せましたので見てください。中学生頃の記憶ですが志津方面から来ると左手の土手に貝殻がぎっしり詰まっていたのを鮮明に覚えています。




1642. 「獅子舞の道笛が流れる佐山貝塚」拝見しました あるけ  2004/09/26 (日) 00:43
拝見しました。
地味になりがちな貝塚の記事で、
さすが趣のあるページになりましたね。
>縄文と一人立ち獅子舞(シシオドリ)は分布やその精神で
>つながっている、そんな印象を強く感じています。
貝塚と獅子舞がどうつながるのかと思っていましたが、
すばらしい洞察です。
とくに「猪の骨」のところで「降参!」参りました。(^^)




1641. 獅子舞の道笛が流れる佐山貝塚をUP さわらびY(ゆみ)  2004/09/25 (土) 23:21
縄文遺跡のある風景の3弾目として、わが八千代市の佐山貝塚を予定より一日早くUPしました。

佐山は獅子舞見学や道標悉皆調査などで何度か訪ねたおなじみの場所でしたが、彼岸の中日、終日獅子舞を追いながらの貝塚探索はまた新鮮でした。

今回は貝塚中心の作品ですが、館林市木戸町のささら舞いとの共通点や違いが興味深いと思いますので、郷土史展の作業が一段落したら、佐山の獅子舞(「ヒガンジシ」)の祭礼行事の一日をまとめて見たいと思っています。

兎の足跡や猪の骨などを編集しながら、宮沢賢治の「鹿(しし)踊りのはじまり」の童話を思い出し、再読してみました。
縄文と一人立ち獅子舞(シシオドリ)は分布やその精神でつながっている、そんな印象を強く感じています。

明日は、シンポジウム『井野長割遺跡を考える』が楽しみです。





1640. 上座貝塚遺跡をUP さわらびY(ゆみ)  2004/09/22 (水) 22:25
「縄文遺跡のある風景」第2弾として、ユーカリが丘駅南側の上座貝塚遺跡のルポと写真をUPしました。
住宅開発の中で「県指定史跡」として、ほんの少しだけ残された貴重な遺跡です。
縄文早期ですから神楽場遺跡より何千年も前の遺跡。現代的なユーカリのタワー群との対比が面白い写真になりました。

明日は、八千代市佐山で獅子舞の奉納があります。
佐山は、八千代市で最大の貝塚のあるところ。カメラ小僧としてはどっちも被写体として追っかけたいところです。
雨が降らないといいな〜




1639. Re: 持統主導説 さわらびT  2004/09/22 (水) 22:23
オホヤシマ様

髻華の会で講演されたときには、持統が黒幕だなんてお話は、なかったように記憶していますが、天智が大海人を後継者と考えていただろう、という話はされてました。問題は、大海人のあとの候補としては、当時は王位継承者は母方が皇女、もしくは蘇我氏のような特定の氏族でなければならない、となると大友は王位につく可能性はないんだ、ということですね。

先にあげた4名(中継ぎとして「う野讃良皇女」を含め)が大海人後の候補だとおっしゃってましたね。天智にとってはその4人の誰でもいいが、草壁でなければ困るのが誰あろう、持統、その人ではなかろうかと思い当たった、ということのようです。

今、『壬申の乱』を執筆中とのこと、どこから、いつ出版されるのか?聞きそこないました。

吉野脱出に際し、女嬬(皇子側近の女官)を連れているのは、残された彼女たちが襲われてもかわいそうだというので、大海人が連れて行ったというより、実は草壁の世話をさせるためではないか、ともご発言されてました。

女性のほうが主導権を握っていたのかな。我が家もそうなんですが・・・?!

私は、倉本説で、もっともな指摘と思ったのは、前にも書いたのですが、国際情勢の分析です。時代は異なりますが、篠川先生の国造制の講演(懇親会だったかな?)でも、国際的契機を指摘されていたことを思い出します。

何ゆえに大海人軍、近江朝廷軍の双方は、あれほど大量の兵力を動因しえたのか、近江朝廷がこのような大量の徴兵を行なった目的と言えば、671年正月の李守真、11月の郭務そうによる対新羅戦出兵要請に応えたもの、というのが倉本説。(掲示板640. 髻華の会講演会『壬申の乱をめぐる諸問題』もご参照ください。)

壬申紀はとりわけ潤色が目立つので、解釈が分かれますね。そこが面白いですが。東国の豪族の問題も、きわめて興味をそそられます。




1637. 持統主導説 オホヤシマ  2004/09/21 (火) 12:51
さわらびT様
四日市の情報書いて頂きありがとうございます。勉強になります。
持統主導ですか? そこまで先のことを考えていたんですかね。
ちょっと、実感がわかない説ではあります。
ただ、吉野へは、即位してから何度もいっていますから、特別な場所だったかもしれませんね。
でも、東国との関係はあまりなかったのでは。壬申の乱の主役はなんといっても尾張・美濃勢。これはやはり大海人の線でしょうね。皇位継承も原因のひとつでしょうが、豪族同士の争いという面もあったのでは。




1636. Re: 吉見台遺跡について さわらびY(ゆみ)  2004/09/20 (月) 22:35
T花様
いつもHOTな情報をありがとうございます。

今日は、ユーカリが丘の上座遺跡を取材に行き、その後、佐倉市美術館と歴史生活資料館に八千代市歴研の「郷土史展」のポスターの掲示をお願いに行って、ちょうど美術館で開催されていた特別展「佐倉の美術−先人からの贈り物―」を見てきました。
http://www.city.sakura.chiba.jp/museum/exhibition/sakura.htm
吉見台と井戸作遺跡の縄文土器や土偶などすばらしい出土品のオンパレード。
センターなどの遺跡調査研究発表会と違って撮影禁止でしたが、「美術」として鑑賞するための展示でしたので、さすが見ごたえがありました。
愛すべき吉見台のシャコちゃん土偶もすまし顔で、ミミズクさんや山形さんといっしょに立派なりっぱな陳列ケースに入っていましたね。いつかこのページに入れたい井戸作の筒型土偶など、撮影可能な展示会があるとうれしいな〜と思っています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/doguu/doguu.htm

その後、臼井の実家で所用を済ませてから、染井野のイトーヨーカドーへ買い物に行き、誰もいない屋上Pに車を停めて、七井戸公園と臼井南中学校方面の撮影をしました。
ヨーカドーができる前、中学裏の丘の上で発掘していた吉見台遺跡はあの辺りかとめぼしをつけながら見ていたのですが、秋の日没は早く、ユーカリのビルの横に落ちていくすばらしい夕陽を眺めることになりました。
生谷交差点近くの現場も中学のテニスコートも今度はしっかり見てきます。
ご助言ありがとうございました。




1635. Re: 久留倍遺跡シンポジウムから(2) さわらびT  2004/09/20 (月) 22:28
倉本先生の発表ですが、壬申の乱の「首謀者」について、大海人皇子ではないと・・・

天智は本当に、大友皇子に継承させようとしたのであろうか?その可能性はなく、むしろそのままなら大海人が次の天皇に予定されていたはず、というのが倉本説。問題は、天智、大海人の次であって、選択肢は天智直系の葛野王・大津皇子・草壁皇子、それに中継ぎとしてのう野皇女(後の持統)の四通りしか考えられない。

それなら、なぜ大海人が吉野へ逃げたのか、その謎は草壁皇子を皇位につけたいう野を首謀者と考えると理解しやすいのではないか?エッと驚く「新説」です。

さて問題の天武の天照大神遥拝のことですが、この時期に伊勢神宮はあったのかという問題もあります。朝日を拝んだのだと、倉本先生はおっしゃったのですが、勝敗の行方はまだわからない中での、何を祈願したのでしょうか。
「その時、歴史が動いた」?!

@三滝川A海蔵川(かいぞうがわ又はあくらがわ)B部田川(へたがわ)、遠保神社C米洗川(よないがわ)D十四川(じゅうしがわ)、実は朝明川説以外にも、こんなに説があったんです。

レンタカーを借りて、数箇所回ってきました。米洗川には糠突山という山があってその頂上に碑を建ててるようですが、今回は行けませんでした。




1634. 久留倍遺跡シンポジウムから(1) さわらびT  2004/09/20 (月) 22:04
シンポジウムでは、興味深いご発表が多かったのですが、奈良文化財研究所の山中敏史先生『久留倍遺跡と朝明郡衙正倉』はちょっとショックな内容でした。

発掘調査が途中であり、現状では多くの解釈の余地が残されているということですが、ご発表から受けた印象では、発掘された遺構からは、壬申の乱の当時ここはまだ郡衙ではなかった可能性を指摘とされました。

山中章先生からもご説明があったのですが、建物は建替えられているようで、T期からU期、もしくはT期からV期に区分できるそうなんですが、そこからこの遺跡の変遷について解釈がいくつか出来るというご発表でした。

かなり細かい分析でしたのでまとめることはなかなか困難です。政庁や正倉について郡衙の政庁の場合は、支所の可能性、正倉には別院の場合もあるらしい。

問題の壬申の乱に関連する「朝明郡衙」との関連ですが、T期政庁の創建時期が672年に遡らないとする想定もされてました。正確に言えば当時は「評家」となるのですが、プレT期に相当するものの存在は想定しうる、また未発見の「朝明郡衙」が存在したかもしれない、・・・まだ検討の余地があるようです。




1633. Re: やっと中国旅行記を書き終えました さわらびY(ゆみ)  2004/09/20 (月) 21:51
ドン・パンチョさま

> 「中国旅行−飛鳥渡来文化の源流を尋ねて」と題する探訪記を、一部の創作部分を除いて一応小生のHPにアップしておきました。送付頂いた写真は洛陽の歴史を説明した箇所で使わせていただきました。

力作のUP、お疲れ様でした。
いつものように完成度の高い紀行HPですので、これから中国史跡旅行を志す方々には、たいへん勉強になることと思います。
さらに創作もおありになるとか。そちらも楽しみですね。

また、お送りした画像をお使いいただき光栄です。
そういえば、漢魏故城祉の探索は、線路を渡ったりしてけっこう冒険旅行に近かったことを思い出しました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seian.rakuyou/25rakuyou/25rakuyou2.htm

ドン・パンチョさんのHPで、私のまだ行っていない史跡では、石壁山玄中寺が印象深く拝見しました。法然の浄土宗のルーツなのですね。
お寺での網干先生の敬けん深いお姿も拝しましたが、お元気そうで旅を続けておられたよう。
駆け足に拝見しましたが、またゆっくり後日、復習と予習?をかねて見てみます。

ご記入のURLが、リンクしていませんでしたので、このBBSをご覧の方々のため、下に記入しておきます。
http://www.bell.jp/pancho/travel/china-1/index.htm


1632. 吉見台遺跡について T花  2004/09/20 (月) 16:52
さわらびY 様

こんにちは。本日は、八千代市郷土歴史研究会のご案内をいただき、ありがとうございました。
また、「縄文遺跡のある風景in印旛沼南岸の遺跡群」ですが、非常に期待しております。
さて、その中で、吉見台遺跡は染井野のイトーヨーカドーの近くにある臼井南中学校付近に所在していましたが、そのほとんどは発掘調査後に消滅してしまいました。ところが、実は、ごく一部だけ、保存されている場所があります。それは、臼井南中学校の敷地内にあるテニスコートの下にあります。発掘調査で見つかった縄文時代後期の大型竪穴住居跡が埋め戻され、保存されているのです。このことはあまり知られていないのでしょうか?分かりませんが、低い場所にある臼井南中学校ですが、なぜかテニスコートだけが、不自然に高い場所にあります。中学校の前の道路を通れば、一発でわかりまりますよ。ただし、埋め戻されていますので、現状で住居跡は確認できませんが。
 私は、仕事の関係上、発掘調査の情報が多少入ってきますので、もし、ご参考になりそうな情報が入りましたら、お伝えします。最近では、染井野・臼井方面から四街道へ抜ける道沿い(生谷交差点そば)で発掘調査が行われています。縄文時代の遺跡だそうです。やはり、臼井周辺は縄文時代の遺跡が多いですね。それでは。

 



1631. やっと中国旅行記を書き終えました ドン・パンチョ [URL]  2004/09/20 (月) 09:00
ユミさん。ご無沙汰致しております。「中国旅行−飛鳥渡来文化の源流を尋ねて」と題する探訪記を、一部の創作部分を除いて一応小生のHPにアップしておきました。送付頂いた写真は洛陽の歴史を説明した箇所で使わせていただきました。どうも有り難うございます。
ゆみさんも2年前に洛陽、西安を探訪されておられるんですね。後塵を拝するような探訪記になりましたが、一度アクセスして見てください。



1630. 久留倍遺跡シンポジウム さわらびT  2004/09/19 (日) 23:38
19日の久留倍遺跡シンポジウムに参加しました。

三重県津市ご出身の倉本先生が、パネラーのお一人であることですし、加藤先生も四日市のご出身でこの久留倍遺跡についての重要性を以前からうかがっていたこともありますのでこの機会にと思ったわけです。前日に、四日市に向かい遺跡ならびに天武遥拝の候補地と思われる場所の周辺をたどってきました。

オホヤシマさんからご連絡いただいたように「本線を高架式にして遺跡をまたぐ工法などで保存する方針」があるようなのですが、景観を大事にするべきであって、高架にすることは往時を偲ぶことにはならない、と倉本先生からはご指摘がありました。保存のあり方をあらためて問うことになりそうです。



1629. 「縄文遺跡のある風景in印旛沼南岸台地の遺跡群」をUp さわらびY(ゆみ)  2004/09/19 (日) 23:30
「縄文遺跡のある風景in印旛沼南岸台地の遺跡群」の「神楽場遺跡」をUPしました。

このページにも書きましたが、私にとって佐倉市の臼井周辺は第二の生活圏。所用で水道道路を走る度に、帰りは興味本位の城跡や古道探しでつい遅くなり、神楽場遺跡のところでいつも日が暮れていきます。

この近辺の縄文遺跡にも興味を持ったのは、4年前、遠部台の土器塚発掘を見てその遺物の夥しさに驚嘆したのが、きっかけでした。

中世も、はるか古代・先史時代も、地域の歴史を考える時、大事なのは景観と、その時代の風景をイメージする想像力だと思います。
そういう意味で、空中撮影写真や衛星写真を駆使して、地形の把握の重要性を強く教えてくださったのは、「千葉の遺跡を歩く会」のあるけ〜さんのHPです。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1467/index.html

香取の海の一部であった印旛沼、そしてその水辺に接した台地。
自然と歴史が織り成す風景、その中に私という自分がいる。
空から、宇宙からその私のいるポイントを鳥瞰しつつ、はるかな歴史をその足元の小さな黒曜石の剥片に感じる面白さ、その辺をうまくお伝えできるといいのですが・・



1628. Re: 田中氏の本 さわらびT  2004/09/18 (土) 08:28
たぬき様

ようこそ。どうぞよろしくお願いします。

> 聖徳太子の興味深いページありがとうございました。
> 先日、田中英道氏の「聖徳太子虚構説を排す」という本がでました。

その本のことはしりませんでした。大山先生が「聖徳太子ブーム」に火をつけたのかもしれませんね。批判本がでるということは、『<聖徳太子>の誕生』もあらためて注目されますね。大山先生は現在次のテーマの構想を練っておられるようですが・・・

「聖徳太子」は後世の産物であることは間違いないんですが、その信仰が今日まで続いているのは、なぜなんでしょう。魅力的な太子像を作り上げた僧たちがいたんでしょうね。



1627. 田中氏の本 たぬき  2004/09/18 (土) 07:09
はじめまして!
聖徳太子の興味深いページありがとうございました。
先日、田中英道氏の「聖徳太子虚構説を排す」という本がでました。
谷沢永一氏と大山誠一氏への批判ですが、谷沢氏はともかく、大山氏に
「誠実な歴史家として失格である」とはいただけない表現だと思います。
墨書銘の事も無視しているとのことですが、大山氏は「聖徳太子の真実」
で触れているので田中氏の見落としなんでしょう。
田中氏は五重塔の心柱の伐採年代により「彼らの論は破綻する」とする
が、そうでしょうか。表面は削られているでしょうし、ストックとか
なかったのでしょうか。川原寺や山田寺、百済大寺など沢山の材料が
必要だった時期ではないのでしょうか。
心柱より重要なのは「天皇号」の使用についてだと思います。
これが推古期に使われていたのなら、田中氏に賛同できますが「書紀」を
引用したり、いまいち納得のできる根拠ではないです。
田中氏は美術史の大家として有名ですし様式論も大切ですが、そればかり
にとらわれることも問題でしょう。
仏教を「蕃神」「仏神」と捉えていた時代。
私が当惑する「山代大兄王、山尻王、山背大兄王」といった同じ人の異な
る表記。
血族結婚を繰り返しての権力闘争。
このような時代に憲法17条があったのでしょうか?
さらに驚いたのは田中氏は法華義疏が「聖徳太子の真筆」だ書いているこ
とです。鑑定団に出して欲しいものです。
真筆かどうかは予め本物があって判断するものではないんでしょうか。
個人的には大山氏を支持しますが結局「天皇号」の問題が鍵になりそうで
すね。




1625. Re: 行基 さわらびT  2004/09/17 (金) 20:46
オホヤシマ様

いつもありがとうございます。ご紹介の井上説が通説と言ってよいかと思いますが、景戒が高志を越と誤ったのは「江戸の人といえば神田の生まれ、大坂の人といえば船場や島の内生まれと片付けてしまう仕方」と類したことだ、と書いておられますね。(かえってわかリにくいんですが・・・)

この行基の出身が載っている『日本霊異記』中巻の七ですが、「知者が、変化の聖人(行基のこと)の悪口をいい、閻魔の庁に行って地獄の苦しみを受けた」という話で、面白いんです。「僧の智光は河内国の人で、その国の安宿郡鋤田寺の僧である。俗姓は鋤田連、後に姓を上村主と改めた。母の氏は飛鳥部造である。生まれながらにして賢く、知恵第一といわれた。・・・・」

要するに、高僧なわけですが、行基が聖武天皇に重用したのをねたんだので地獄におとされてしまいます。この話、さらに面白いことに「死んでも焼くな。九日待て。」と弟子に言い残すんですね。結局、智光は生き返って行基をあがめることになるわけです。

行基の出身氏族の古志の本拠地は和泉の高石とするのが通説なんですが、加藤先生も、以前はその説にしたがって論じられているようなんです。(「聞く所に従ひて口伝を選び・・・」『日本霊異記を読む』所収)

今回は、新説を述べられるようです。『霊異記』の記述の信憑性を検証するとのこと、初めてうかがうお話ですので大変楽しみです。(9月25日「北とぴあ」1時半からです。)



1624. 行基 オホヤシマ  2004/09/17 (金) 12:26
今、井上薫「行基」を読んでいます。井上氏は霊異記の、行基を越後出身とする説を否定しています。いわく、高志氏は古志氏とはかかれるが、越氏とはかかれない、越後説は、高志を越氏と誤ったためにおきた、頸城郡の大領に高志氏がいたため、頸城郡出身者とされたなどが根拠とされています。
25日の加藤先生の講演は、このあたりを論破いただけそうですね。でも井上先生の本は大変参考になるので、25日に行く人は読んでおいた方がよいと思います。



1623. おいでくださり、ありがとう。 さわらびY(ゆみ)  2004/09/16 (木) 23:56
鈴木小太郎さま、いらっしゃいませ。
『後深草院二条』オーナーじきじきのお出まし恐悦です。こちらこそよろしくお願いします。「鎌倉時代史掲示板」での仏岩宝篋印塔の話題の過去ログが保存されているとのこと。ちょっとどきどきしながら、お待ちしています。

織田百合子さま、お忙しいところ丁寧な書き込みうれしく拝見しました。
>現地見学会でも飾られていた写真の出土品・・
そうこれですね。私も魅せられました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/syutudohin.jpg
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/rennge.jpg

>顕時の下総での仮寓居について・・
「U下総に律宗の痕跡を追って1.古代寺院竜角寺の中世」
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/11ryuukakuji.htm
で、「埴生荘は建長3年(1251)金沢文庫創立の北条実時の所領で、後に弘安8年の霜月騒動に連座した二代顕時が7年余の間、配流された地であり、称名寺旧蔵の典籍には、竜角寺で書写した朗海・心慶などの学僧の名が残っている。」と書いたのがすべてで、まだそれ以上はないのですが、不思議なことに手がかりになることがほんとうに偶然見つかることがあります。
実は、芝山町・観音教寺で竜角寺の僧朗海を供養した五輪塔線刻の板碑を偶然見つけ、朗海の隠居先の殿部田西福寺を捜すことができました。顕時の仮寓先もきっと執念をもって探せば埴生荘の竜角寺かその周辺に手がかりが見つかるかもしれません。いつかご一緒しましょう。

石井進先生の「霜月騒動おぼえがき」を読み直してみて、霜月騒動については乏しい史料から研究する難しさを感じました。安達泰盛、金沢顕時の実像を甦らせるため、どうかがんばってください。

オオヤシマさま
ニュースをありがとうございました。
http://www.human.mie-u.ac.jp/~koukogaku/kurube/index.html
にもやっと「久留倍遺跡シンポジウムのお知らせ」が載りましたね。
Tは、もう寝てしまいましたが、宜しくとのことでした。
私は行けませんが、Tは張り切って聴きに行くみたいです。
ではまた。



1622. 御無沙汰しまして・・・ 織田百合子  2004/09/16 (木) 19:59
しばらく執筆に籠もってました。今月締切の原稿にかかっていて、ようやく参考文献をまとめるところまできて、一息ついたとき、なんだかお訪ねしたくなって来ました。原稿は実時に関するものでかなり面白い展開になりました。(自画自賛? ゴメンナサイ・・・)

永福寺のお話で盛り上がってらっしゃいましたね。以前、発掘調査に携わっていたとき、神奈川県のその年の発掘調査報告の会で永福寺の発表があったんです。そのとき、4日の現地見学会でも飾られていた写真の出土品が紹介され、魅せられてしまいました。すぐに報告者の福田氏(4日でも説明されてましたよね)のところへ行って、いろいろお訊ねしました。そしたら、まもなく平泉で「永福寺展」をされるとのこと。嬉しくなって平泉まで行ってしまいました。そして、出土品の黒蓮華とか、黒く焼けたほとけさまの小さな手とか、つぶさに見てきました。写真でしたけど、4日の日にそれら出土品と再会できてとても嬉しい一日でした。今は見渡すかぎりの草地ですが、経塚が発見されたときの現地説明会ではまだ発掘跡がそのままのところを歩かせていただけて、池に水も溜められていて、当時の雰囲気を少しだけ偲ぶことができましたので、近々「中世の遺跡」ページにUPすることにします。

今日のほんとうの目的は、ゆみさまが顕時の下総での仮寓居について書かれていたこと。もし皆様で探索なさる折が是非誘ってください。私もかねがね探りあててみたいと思っていました。個人で行かれるならお邪魔はしませんから、あとで場所を教えていただけたら嬉しいです。

それから一つご紹介を。「中世の遺跡」ページで石清水八幡宮を紹介させていただいていますが、10月3日に石清水八幡宮で放生会を再興されるそうです。希望すれば一般者も放生に参加できるそうです。「平成の御代において、慶應三年以来百三十余年の時を経て、九月十五日の勅祭『石清水祭』の後を承けて日を定め、平安時代以来の古式に倣い、天台宗延暦寺による法要厳修と石清水八幡宮による神幸祭を併せて、『石清水八幡宮放生大会』として再興される次第であります。」と案内状にありました。



1621. 久留倍遺跡 オホヤシマ  2004/09/16 (木) 12:24
さわらびT様
毎日新聞にこんな記事が載ったようです。15日付

四日市の久留倍遺跡、市「国史跡指定目指す」−−来年度、範囲調査 /三重
◇06年度実現へ
 四日市市が古代の地方役所「郡衙(ぐんが)」跡とみられる「久留倍(くるべ)遺跡」(同市大矢知町)を保存する方針を固めた問題で、同市は14日の市議会本会議で06年度に国の史跡指定を目指す意向を明らかにした。
 一般質問で三平一良市議(自由会議)が保存方法を尋ねたのに対し、川北欣哉教育長は「国の史跡指定を受けて保存していきたい」と明言した上で、「05年度に史跡指定の範囲を確定するための調査を行い、06年度の指定を目指したい」と答弁した。
 また、指定後の史跡整備について、川北教育長は「05年度中に考古学、歴史学の専門家を中心に史跡調査整備委員会(仮称)を立ち上げ、整備計画案を作成する予定。全面的な復元は困難だが、建物の一部復元などを行っていきたい」と述べた。
 同遺跡は奈良時代に県北西部の一郡だった朝明郡の郡衙とみられ、北勢バイパスの計画ルート上で発掘された。このため、道路と文化財をどう共存させるかが課題になっていたが、同市が本線を高架式にして遺跡をまたぐ工法などで保存する方針を決定。遺跡の価値については、官庁の中枢施設である「政庁」と税として徴収した稲を保管する「正倉院」が一体になった貴重な遺構で、文化庁も「国史跡に相当する」と高く評価している。【松本宣良】





1620. 出遅れました。 鈴木小太郎 [URL]  2004/09/16 (木) 00:00
こちらでは初めまして。
『後深草院二条』を運営している鈴木小太郎と申します。
宜しくお願いします。

>さわらびY(ゆみ)さま
過去ログは現在投稿しているのとは別のパソコンに保存してありますので、少し遅れるかもしれませんが、後ほどメールで送付させていただきます。



1619. 信濃の仏岩 さわらびY(ゆみ)  2004/09/15 (水) 22:24
むらじさま
「鎌倉時代史掲示板」では、歴史上の「ダンナに早く死なれた女性が幼いわが子の代わりに家を牛耳った、という例・・」というむらじさんの幅広い薀蓄ある書き込みは、感心して読ませていただきましたよ。

信濃遠足をご計画中とか、信州の旅行では「信濃大門街道・仏岩石塔の謎」で紹介した仏岩が一番印象が深いです。仏岩は軽いハイキングコースですので、お天気さえよければ鎌倉時代のみごとな宝篋印塔に出会えます。ただし高所恐怖症の方にはお勧めしません。(笑)
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/1-12hotokeiwa/1-12hotokeiwa.htm
この宝篋印塔についての私の考察が、「鎌倉時代史掲示板」で一時話題になったそうですが、残念ながらそのころ私はまだ見ていませんでした。

「仏岩宝篋印塔=武石四郎左衛門尉宗胤の建立」説を提起したのですが、中世史に詳しい方々からどんな反響、ご批判があったのかちょっと気になっています。



1618. 鎌倉時代史の同好のむらじさま、萩月さま さわらびY(ゆみ)  2004/09/15 (水) 22:17
むらじさま、萩月美妙さま
>ふだんは「鎌倉時代史掲示板」に居候しているのですが

9月4-5日の中世都市研鎌倉大会の情報を知りたくて、私もこのところ「鎌倉時代史掲示板」http://6925.teacup.com/kabura/bbs
を見にいっていましたが、軽妙で?チャット風な会話になかなか割り込めなくて・・。
でも、昨日の萩月さんの永福寺跡について、「でもあの広大な原っぱを見るだけでも、・・中略・・なんかはるかな時の流れとか世の無常を感じてなんともいえない感慨にふけるんですけど。・・中略・・想像を無限に広げられる可能性を残した風景にしておいてもらいたいと、個人的には思っています。」という書込みには私もまさに同感で、思わずそちらのBBSに初めて寄らせていただきました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/04.09.04youhukuji.html
の画像には萩月さんのこのナレーションがきっとよく合うんじゃないかと思います。

萩月さんは、北条時行と源実朝を追いかけていらっしゃるとのこと、先日はこのBBSで安達泰盛のファンで、エッセイや創作をお書きになっている織田百合子さんのHPをご紹介しました。
私は、もっぱら忍性というお坊さんが追っかけの対象。『鎌倉大草子』のなかの、「鎌倉極楽寺の良観上人(=忍性)を請うて小金の馬橋と云う所に大日寺を建立して、頼朝公より代々の将軍、并に千葉一門の菩提を祈る」という記事から、下総での足跡を追っているのですが、その馬橋のところで昨年から足踏みをしています。
霜月騒動のとき安達泰盛と行動を共にしていた金沢顕時の下総での仮寓先も興味がわいています。そのうちまた探索を再開したいと思っています。



1617. 久留倍遺跡と迹大川 さわらびT  2004/09/15 (水) 21:44
先に、壬申の乱をめぐるエピソードのひとつ、天武天皇が天照大神を遥拝したとされる迹大川(とほがわ)の比定地についての新知見をお知らせしたのですが、(1557「朝明郡家跡の発見」 2004/08/07をご参照ください)誤解を招く表現がありましたので訂正いたします。地理不案内のため、よくわからずご紹介していたようです。

岡田論文は、天武天皇が遥拝したとされる迹大川、「三滝川」説をとられているのではなく「海蔵川」説です。

もう一度、岡田論文から、引きなおします。「東大寺諸国庄々文并絵図等目録事中」(『大日本古文書 東大寺文書』)に「三重庄 絵図一 天平勝宝九歳四至 東布沼雪上埼 南遠河 西甘南淵山 北河多良河」とあります。「北河多良河」は阿久良河の間違いで、これは海蔵川(あくらがわ)に比定できるので、その南を流れる三滝川を「遠河」にあてる。これが「三滝川」説です。
ここに「とおがわ」が出てきていますね。

ところが、ここからは少々ややこしいのですが、この「遠河」は上記史料から読み取れるように三重郡にあると思われることです。実は、三滝川と海蔵川の合流地点があり、合流地点以東を「遠河」と読んでいた可能性が高いということです。したがってこの「海蔵川」こそ「迹大川」にあたるということになります。「安斗智徳日記」においても「明朝郡迹大川」なる表現が使われたのには、こんなわけがあるからではないか、岡田登氏は述べておられます。

実は、倉本一宏先生から私信で、岡田論文についての、私の認識間違いをご指摘いただきましたので、訂正させていただきます。

これまで、通説が朝明川としていたかというと、朝明郡家を縄生廃寺と見ていたからだということも教えていただきました。

倉本先生から、シンポジウムでたっぷりお話が承れると思います。



1615. はじめまして 萩月美妙  2004/09/15 (水) 19:42
 はじめまして。鎌倉時代氏掲示板から飛んでまいりました、萩月美妙と申します。
 思いがけず永福寺跡についての好意的な反応をいただき、嬉しくて一言お礼を申し上げるべく、お邪魔いたしました。
 ご夫婦で歴史好きなんてとてもうらやましいです。
 私もそんな伴侶が欲しい…。
 充実したHPに感銘しました。
 私は北条時行と源実朝を追いかけるのをライフワークにしております。
 どうぞよろしくお願いいたします。



1614. はじめまして むらじ  2004/09/15 (水) 01:34
初めてお邪魔させていただきます。
むらじ と申します。
ふだんは「鎌倉時代史掲示板」に居候しているのですが^^;)、お名前を拝見しうかがわせていただきました。
都市研には都合がつかず参加できませんでしたが、永福寺のお写真見渡す限り寥々たる叢がどこまでも続く静寂なおもむきがよくわかり、たいへん感銘を受けました。
この春から信濃に居住しておりますが、仲間内で信濃遠足をやろうと計画を立てており、信濃の史蹟探訪のページなどを拝見させていただきました。
絵心あふれるお写真、とても素晴らしいと思います。
これからもよろしくお願いいたします。m(__)m



1613. 「奥琵琶と若狭の史跡と古寺を訪ねて」のUP終わりました さわらびY(ゆみ)  2004/09/14 (火) 23:25
「奥琵琶と若狭の史跡と古寺を訪ねて」を昨晩(居眠りをしながら)UPし終えました。

渡岸寺と羽賀寺の十一面観音と菅浦以外は、ほとんど不勉強のまま、あわただしく出かけた旅行でしたが、神宮寺のお水送りや義民松木庄左衛門のことなど現地で知り(地元では常識?)有意義な旅でした。

仏像は、文化財の指定と保護を受けるようになって、秘仏ではなくお願いすれば拝観できるようになりましたが、やはり信仰の対象ですから、撮影はほとんど禁止です。
写真は絵葉書、パンフレットも著作権がありますし、公共のHPへのリンクや、買い求めた御影で何とか補ったのですが、境内の雰囲気をお伝えするだけになったページもあります。
ご興味がありましたら、国宝の写真集などで美しい観音像をご鑑賞になってください。



1612. 久留倍遺跡シンポジウム さわらびT  2004/09/13 (月) 22:26
以前掲示板で、久留倍遺跡のことをお伝えしました。朝明郡の郡家遺跡であることが確認されたわけですが、遺跡保存問題も焦点です。下記シンポジウムが開催されるそうです。ご関心のある方は是非お出向きください。(報告者の敬称は略させていただきました。)

久留倍遺跡シンポジウム「朝明郡と二人の天皇〜久留倍遺跡からみえるもの〜」
2004.9.19(日) 四日市市総合会館

第T部 10:00〜12:00 スライド解説 
    三重大学 山中章『久留倍遺跡と古代伊勢国』 
    奈良文化財研究所 山中敏史『久留倍遺跡と朝明郡衙正倉』
第U部 13:00〜14:00 作家 永井路子『天武・聖武と朝明郡』
第V部 14:00〜15:30 特別報告
    駒澤女子大学 倉本一宏『壬申の乱と伊勢国』
    岡山大学   今津勝紀『律令国家の地方支配と朝明郡』
第W部 15:30〜16:30 久留倍遺跡を大いに語る
    激論!!『久留倍遺跡とは何か?!』
    司会 山中章
    討論 今津勝紀 倉本一宏 山中敏史他
主催 久留倍遺跡シンポジウム実行委員会



1611. ワニ オホヤシマ  2004/09/13 (月) 12:42
岸氏の論文、ちらっと読みましたが、あまり区別していないようにみえましたね。難しいところです。いずれにシテモ、ワニ氏は后再生産氏族という位置づけだったのでしょうか。



1610. Re: ワニ さわらびT  2004/09/10 (金) 22:18
ワニ氏の話ですが、けっこうややこしくて混乱してます。まず通説とされる岸説なんですが、論文を読んでませんので、ちょっと判断違いがあるかも知れませんが、書いておきます。加藤先生の紹介された「王女がまた后妃にたつ」という特徴なんですが、武烈は例外なのかと思ったりしたんですが、考えてみれば手白香は父系でみれば仁賢の娘ですが、春日氏の娘(母系で見れば)ともいえるんです。オオヤシマさんのご指摘で、考え直してみたんですが、どうしても「天皇家」から見てしまうから、見えなかったかもしれません。

母系で見る必要があるんじゃないかな。葛城氏の場合、磐之媛が3人の「天皇」の母というわかりやすさですから、これはまさしく「葛城王朝」かもしれない。それに引き換え「ワニ王朝」ではなく、父系を主とする王権構造になったのか・・・モヤモヤしながら考えてます。

愛宕から近江の小野に抜けるルートが3つあるというのはよく調べておられますね。八瀬・途中峠コースというのがあるそうですが、地理感がないのでよくわかりません。小野氏の拠点がけっこう重要な問題らしく、「粟田と小野は本来同じ氏族」で山城が拠点の粟田が近江に進出して小野氏が分立というのが加藤説でした。



1609. ワニ オホヤシマ  2004/09/10 (金) 12:16
ワニ系の后といっても、父がワニ氏の女性と、父が天皇で母がワニ系の女性の后の二種類あると思いますので、両者を区別するかが問題になると思います。加藤先生は区別しているのかなあ。
武烈の母は後者です。欽明も同様です。

愛宕から近江の小野に抜けるルートは3つ位想定できますね。
加藤先生がこのうちのどれを想定しているか興味あります。



1608. ゆりこ様へ さわらびY(ゆみ)  2004/09/10 (金) 00:35
>貴HPのLINKへのご紹介ありがとうございました。

私もロゴを使ってLINKしました。http://homepage1.nifty.com/sawarabi/link/Link.htm

>「寺院揺曳ーまぼろしの廃寺佐々目遺身院を訪ねてー」

予告編のように参考文献がUPしましたね。
懐かしい石井先生のご本や、見慣れない文献、読んでみたい報告など眺めているだけでわくわくしてきて、本文UPが待ち遠しいです。

>泰盛も実時も凄い風格ある立派な人格者で・・イメージとしては加藤剛さんに演じていただきたかった・・

それならますます、待ちきれないですね。

連載中の「奥琵琶と若狭の史跡と古寺を訪ねて」は、余裕があればエッセイもと、思ったのですが、「寂聴古寺巡礼」や白洲正子さんの「かくれ里」などの優れた魅力的な文章のインパクトが強くすぎて、写真アルバムにしました。
キャプションは最低限というのが写真アルバムの鉄則ですが、そうもできないというところが、まだ未熟なところです。

「おはようございます」でいただいていながら、勤めもあって私のレスはいつも真夜中。ではまた、あした。



1607. Re: ワニ氏について さわらびT  2004/09/09 (木) 23:47
話が盛り上がってるところで、割り込む形で申し訳ないですが、加藤先生の講演が好評でしたので、ちょっと書かせてください。

「ワニ氏に関する基礎的考察」で岸俊男氏が分析されたわけですが、ワニ氏の特徴としては、葛城氏と蘇我氏が后妃を出した中間期にあたる、五世紀後半から六世紀前半に多くの后妃を出していること、和邇氏出身の后妃の、その所生した皇子が即位するのではなく、その皇女がふたたび后妃となるように、后妃関係が重複されている、というわけです。

武烈だけは即位してますが、『書紀』によれば、武烈の母は「春日大郎女皇后」となっていて、雄略と童女君(和珥臣深目の娘)の娘です。この童女君(をみなぎみ)の逸話がちょっとエロティックで面白いので(一夜で七廻召した(^0^))印象的なのですが、それはさておき、確かにこんな風に重層的に和邇氏の娘が、后妃になっていきます。

ところがこれほど后妃を出しながら有力な氏族にはならないのはなぜか・・・ここに雄略以降の王権構造の特徴が現れているようです。

それと皆さん興味をもたれたのは、小野氏でしたね。小野を近江国滋賀郡小野を本拠地であるという説に対しては、山城国の愛宕(おたき)郡を拠点としていたであろうと推測されています。近江の小野と、峠道をはさんでつながっているのが、山城国で、その山城の有力在地土豪であったのが小野と粟田である・・・

この峠とはどこだろう。地理不案内の私ですが、いつか現地探訪の機会があれば、と興味をつないだご講演でした。(また続きのご講演も予定されているようです。お楽しみに。)



1606. おはようございます。 ゆりこ  2004/09/09 (木) 11:42
レス有難うございました。エッセイ「寺院揺曳ーまぼろしの廃寺佐々目遺身院を訪ねてー」のUPに専念しようと思っていましたが、安達泰盛について書いてくださったので、ちょっとお邪魔させてください。
べつに私は柳葉さんやピーターさんを嫌いでなく、むしろピーターさんは憧れの方ですが、泰盛と実時に関してはミスキャストと思って、がっかりしてみていました。
今、実時をテーマにした論文を書いているところですが、泰盛も実時も凄い風格ある立派な人格者で、軽率なところの全くない、どちらかといえば重々しい人物です。イメージとしては加藤剛さんに演じていただきたかったと思ってました。私の好みでいうのでなく、調べていてドラマでのああいう言動はしない人物と思えるので。泰盛があのドラマのイメージで流布していくのはいくらなんでもひどいと思い、レスさせていただきました。

無量寺庭園での見学者、私も目をこらして探してしまいましたが、いないみたい。残念! でも、同じ空間にいたなんて楽しいですね。

「御深草院二条」のHPは何回か訪ねさせていただきました。どういう方がなさってるのか、不思議でした。何かあって調べようと検索すると必ず行くんです。同じ範疇をなさってるんだなあと思ってました。エッセイには二条も登場します。楽しみと言って下さって有難う。これから「小浜」を訪ねさせていただきます。



1605. Re: おはようございます。 さわらびY(ゆみ)  2004/09/09 (木) 00:19
ゆりこさま、いらっしゃいませ。

> 昨日は無量寺庭園現地説明会・・。

ゆりこさまも去年1月の無量寺庭園現地説明会のおいでだったのですね。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kamakuragennsetu/kamakuragennsetu.htm
の大勢の見学者の画像に写っているのかしら?

> ほんとうに膨大で拝見しきれないから、とりあえず・・

夫のTもほとんどすべて見てくれていません(笑)。
シリーズものでも1ページずつの読みきりになっていますので、どこからでも拾い読みくださればけっこうです。コンセプトは「歴史のある風景」。それだけのごった煮のようなHPですので。

> 安達泰盛のファンです。
>泰盛がここにあった建物のどこかに座して庭園を眺めたこともあるのだろうか・・

安達泰盛さんは、ドラマ「時宗」のギバちゃん、霜月騒動の仕掛け人でしたっけ?
(そういえば、時輔さんはファンの願望で生き残っていましたね。新撰組の山南さんの復活はないのかな?)

>短歌結社の同人誌に連載して、えんえんと20回になった長いもの、なにしろ文学の分野での発表でしかないので歴史の方のお目にもっと触れて欲しいと思っていました。

ぜひ拝見したいです!
永井路子さんや杉山苑子さんの文章からこのところ少々遠ざかっていて、論文調でない文学的な読み物に飢えていましたので、とても楽しみです。

私は国文学のたしなみには疎いのですが、鎌倉時代の文学をとりあげた「後深草院二条」のHPのうち、「参考文献(一般)」をよく拝見していました。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/
このHPの掲示板の皆さんが鎌倉大会におおぜい参加されていらしたようで、にぎやかでしたね。
このHPはゆりこさん向きかも・・。

ではまた。
さきほど「小浜の古寺」のアルバムをUPしました。ちょっと画像の枚数を欲張ったので編集に疲れました。「奈良へ通ずる鵜の瀬の不思議」の画像が今回のお気に入りです。



1604. おはようございます。 ゆりこ  2004/09/08 (水) 09:39
掲示板にURLを紹介していただき有難うございました。
昨日は無量寺庭園現地説明会と一遍上人の熊野古道を拝見させていただきました。ほんとうに膨大で拝見しきれないから、とりあえず関心のある場所から見させていただくことにします。
安達泰盛のファンです。無量寺庭園現地説明会には私も何をおいてもと駆けつけました。たしか禅宗様庭園でしたよね。泰盛がここにあった建物のどこかに座して庭園を眺めたこともあるのだろうかと偲びつつ、しみじみ(しつこく)巡ってきました。
鎌倉の甘縄は泰盛ゆかりの地ですが、近くにかつて佐々目遺身院という寺院があったそうです。今は廃寺で場所もはっきりしていないそうですが、金沢文庫に指図があって、それに興味をもちました。歩いたり、『親玄僧正日記』等の文献を追ったりして書いたエッセイがあるのですが、それを思い出しました。3、4年前、所属している短歌結社の同人誌に連載して、えんえんと20回になった長いものです。かなり楽しい作業でしたよ。文庫関係の方や歴史の先生等個人的には読んでいただいているのですが、なにしろ文学の分野での発表でしかないので歴史の方のお目にもっと触れて欲しいと思っていました。ゆみさんとお知り合いになったのをきっかけに、HPに連載のかたちでUPしてみたい気持になりました。入力はすでに済んでいるので、作業は簡単と思います。近いうちに載せられると思いますので、お気の向いたときにご覧になってください。(当方は文章が膨大なたちなので、覗いてくださるだけでも嬉しいです。)
お近づきになれてなにかパワーをいただきました。これからもよろしくお願いいたします。



1603. 中世都市研究会2004鎌倉大会を聴講 さわらびY(ゆみ)  2004/09/06 (月) 22:36
9月4日・5日、中世都市研究会2004鎌倉大会を聴講するため、2日間長距離通学していました。
お目当ては、湯浅治久氏の「御家人経済と地域間ネットワーク―千葉氏の事例から―」、山川均氏の「奈良と鎌倉―忍性と大蔵派石工―」、馬淵和雄氏の「職人・宗教・都市―中継基地としての鎌倉―」でしたが、他のテーマも面白く、結局全て聞いてしまいました。

4日の午前中は鎌倉市教育委員会発掘担当者の解説で永福寺跡を見学できました。
早朝の大雨に天候が心配されたのですが、幸い晴天に恵まれ夏草の茂る夢の跡を展望でき、峰岸先生ほかあこがれの先生方もご同席で、すばらしい見学会でした。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/04.09.04youhukuji.html

中世史は、古代史や郷土史とちがって、大学や研究所、自治体の先生方と学生さんが主体で市民のグループ参加が少ないようで、私も“たったひとり“だったのですが、鎌倉時代をテーマに文学的なHPを開設しておられるペンネーム織田百合子さんという方と知り合うことが出来ました。
http://homepage3.nifty.com/shirabyoushinokaze/index.html
とてもすてきなHPで、特に私も取り上げた六浦の上行寺東遺跡について、「白拍子の風」の章のプロローグで、お彼岸に遺跡の阿弥陀像の背後に沈む太陽を写真におさめた一節が心惹かれました。

そのほか、ご講演なさったY先生からも質問についてメールで丁寧なご回答をいただき、実りある学会だったと感じています。
もしご覧になっておられましたら、どうか今後ともよろしくお願いいたします。



1602. ワニ氏について さわらびT  2004/09/05 (日) 23:28
カタアキ様

何度もご丁寧にありがとうございます。私どもは素人ですから、たいしたことは申せませんが、ご専門の先生方の研究のオリジナリティはきちんと伝えたいと思っております。たとえば、下記のような加藤先生の説は、新説といえると存じます。

髻華の会でもお話をされた「ワニ氏」についての加藤先生のご見解の一端を記します。通説化されている岸俊男説(「ワニ氏に関する基礎的考察」)があるのですが、その見直しを提起されているわけです。

ワニ氏というのは春日氏と同一の氏族であるという風に一般には考えられていて、蘇我氏だとか、葛城氏だとか、息長といったような、大王家と婚姻関係を結んでいた、外戚氏族というような形で位置づけられる氏族ですが、従来は、『古事記』だとか『日本書紀』の中に記されている記事を通してワニ氏から春日氏に氏の名前を改めたとか言われてきているが、おそらくは、春日氏に限らず大宅だとか小野だとかそういったようなこの諸氏族、同族関係を持っている諸氏族の全体の総称的な名称としてワニという名前が存在したのではないか、というお考えです。

渡来系氏族、難波吉士にも見られるような総称的な名称が在来系氏族にも、見られるという説を述べているのは、専門家では加藤先生以外にはいらっしゃらないようです。

古代の王権構造を考える上で、重要なご指摘です。



1601. 早速のお返事ありがとうございました カタアキ  2004/09/05 (日) 21:23
> ネットで検索されるより、この本を読まれるほうが、有益でしょう。

それもそうですね。ネットは手軽で便利ですが、怪しい情報もたくさんあるのが難しいところ。
でもここのホームページは最高級だと思いますので(お世辞ではなく)、これからもよろしくお願いいたします。