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No.501-No.600 2002/1/292003/3/8
Since 2001.10.08
・オーバーフローで消えてしまった発言を収納しました。
・書き込み、修正、削除はできません。修正・削除は、管理人にお申し付けください。
・他への引用は、著作権などの配慮から、発言者へ連絡をお願いします。

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600. 1万2千年前の土器と再会 さわらびY(ゆみ)  2003/03/08 (土) 19:03

、「駄ノ塚古墳出土の須恵器をUPしておいて」と言って、歴博の 杉山晋作先生の講演会のあと友人と飲んでいるTの依頼で、とりあえず、UPしておきます。
(文章は帰ってからTが書くそう。)
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/danoduka.jpg

朝、この写真を撮影に歴博に行って、驚いたことがあります。
縄文の展示コーナーに、4年前の1999年4月に鹿児島県加世田市文化財センターで見た12000年前の隆帯文土器の複製が展示されていたことです。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kasetadoki.jpg

「さわらび通信」開設当初の第1号のネタ
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/page1.htm
で貼り付けた画像は、文化財センターの作業室で、発掘・修復直後のもの。
完形品に近いものでは最古の土器ということで、胸がたかなったことを思い出しました。
ではまた。(軽いネタ大歓迎です。)




599. TK209の須恵器(白石先生の論考から)B さわらびT  2003/03/08 (土) 00:51
白石先生の論考の続きです。

「田辺昭三氏の陶邑編年のうち、このTK209型式からTK217型式の型式設定の基準となっている資料はあまり良好なものとはいえない。この欠を補うため先にふれた隼上り窯出土須恵器の編年や奈良国立文化財研究所の飛鳥編年が援用されることが多い。」

「最近の豊浦寺の調査の成果から、同寺の創建瓦は飛鳥寺系のもので、高句麗系の瓦が用いられるようになったのは第二段階になってからのことで、おそらく7世紀第1四半期の終り頃と想定されるのである。したがって隼上りT〜V段階の型式展開がなされたのは7世紀第1四半期の終わり頃から645年までの20〜30年間の比較的短い期間と考えられる。このことはTK209型式の新段階に相当する隼上りT段階が、7世紀の第1四半期終りころまでしか遡れないことを示している。
 一方、出土した須恵器がTK209型式の古段階に比定しうる牧野古墳は、『延喜式』にみられる押坂彦人大兄皇子の成相墓の蓋然性がきわめて高い。大和国広瀬郡内で7世紀初頭ころの大兄の称号をもつ王族の墓と考えられるような古墳は牧野古墳以外には見出しがたい。またこの墓が『延喜式』所載の陵墓のうちで最大の兆域をもつことも、この古墳が不毛の地であった馬見丘陵のほぼ中央部に位置することとも符号する。彦人大兄の没年については諸説あるが、薗田香融氏の指摘するようにその子舒明の年齢などから600年以降と考えられるから、まさにTK209型式の古段階は7世紀の第1四半期を中心を中心とする時期ということになるのである。」

「以上のような検討から、大まかにはTK209型式の古段階を600〜610年頃に、中段階を600〜620年頃に、新段階を620〜630年頃に求めることができよう。」

省略引用ですので分かりにくい点お許しください。しかも私には判断力はありませんが・・・

岡安光彦氏のHP「考古学情報広場」を拝見していますと考古学協会の総会の翌週、白石先生のご講演 「畿内の終末期古墳の編年と実年代」があるそうです。「箕谷の戊辰年については668年と考えられておられる」とのこと、興味深いところです。

http://bbs1.parks.jp/17/momoso/bbs.cgi

今日はここまで。おやすみなさい。
また長すぎる、誰も見ないのに・・・とYの怒りが爆発寸前?




598. TK209の須恵器(白石先生の論考から)A さわらびT  2003/03/08 (土) 00:42
白石先生の論考の続きです。

「このTK209型式のうちで最も古いところに位置づけうる資料は、奈良県広陵町牧野古墳の羨道部から出土した須恵器群であろう。この一群の資料については、TK209型式に先行するTK43型式に比定する考えもあるが、この一括資料の有蓋高杯と無蓋高杯の脚部の透かしは二段三方のものと二段二方のものがほぼ相半ばしている。田辺昭三氏の設定されたTK209型式は、高杯の脚部の透かしが「二段でその配置は三方のものと二方のものとがある」時期であり、二段二方透かしの脚部をもつ高杯が出現する時期にあたる牧野古墳の須恵器は、まさにTK209型式の古い段階のものと考えるべきであろう。
一方TK209型式の下限は、ほぼ京都府宇治市隼上り窯の出土資料をもとに菱田哲郎氏が設定された隼上りT段階に相当しよう。この段階の高杯にはまだ二段二方の透かしがのこるが、脚部自体が短くなっている。
 三点とも二段二方透かしの脚部をもつ駄ノ塚古墳の須恵器有蓋高杯については、三方透かしと二方透かしの脚部のものが共存する牧野古墳の須恵器群より後出のものであることは確実であり、一方、二段二方の透かしを持つ短い脚部の高杯を持つ短い脚部の高杯をともなう隼上りT段階に先行する時期に比定できよう。牧野古墳例をTK209型式の古段階、隼上りTを新段階とすれば、駄ノ塚例はまさにその中間のTK209型式の中段階に位置づけることができよう。この段階はつまみとかえりをもつ蓋をともなう杯が出現する直前と考えられるが、駄ノ塚古墳の出土の蓋類はいずれもつまみをもつ杯蓋に先行して出現する壷類や椀の蓋と考えられるものであり、他の器形のものを含めて駄ノ塚古墳の須恵器全体もこのTK209型式の中段階に並行する時期のものと判断して大過なかろう。」




597. TK209の須恵器(白石先生の論考から)@ さわらびT  2003/03/08 (土) 00:39
西博孝様

先日は、私の不注意な入力ミスでご迷惑をおかけしました。

> 私ども研究会の統一テーマが横穴式石室墳で、古墳から出土する須恵器を見ております。その中でTK209段階のものがあまりにも多すぎて、本当に1型式なのかという疑問があります。消費地から見た場合、この場合は古墳ですが、どうしても少なくとも2段階、あるいは3段階になるものを一つにくくっているのではないかとの疑問がずっとありまして、質問をさせていただきました。

まったく不勉強で、というか勉強し始めたばかりで諸先生の論文に目を通しながらの書き込みですので、論点とそれることはご寛恕ください。むしろお教えいただければ幸いです。坂本先生の論については、随時UPしたいと思っておりますが、今日は白石先生の著作からです。

先日、探訪した成東町の駄ノ塚古墳出土土器にTK209型式のものがあるようです。関連した白石太一郎先生の論考の引用をします。(気をつけてはいるつもりですが、入力ミスが避けられない私です。妙だなと思われるところはご指摘ください。)

白石太一郎「東国における前方後円墳の終末(−駄ノ塚古墳の調査成果を中心に−)」(『古墳と古墳群の研究』2000、所収)より

「このように産地が確定出来ないにもかかわらず、年代の検討の上で幸いなことは、この一群の須恵器の様式が陶邑窯跡群のものに近く、またその型式変遷も陶邑窯の影響下に、それにきわめて近い形で進行したものと想定されることである。このことは、これらの須恵器の年代決定に際しては、陶邑編年のスケールを援用することができることを示している。ここでは、陶邑窯跡群の須恵器に近い形態の一群について、同窯跡群の須恵器編年のスケールにもとづいて検討してみることにしよう。
いま、これらの資料のなかで年代差を最も敏感に形態差に示すと思われる有蓋高杯について検討すると、三個体がすべてきわめて近い形態を呈するとともに、すでにふれたようにそのいずれもが脚部の透かしが二段二方に穿たれていることが注意される。田辺昭三氏の陶邑窯の須恵器の編年によると、有蓋・無蓋を問わず高杯の脚部の透かしが、それ以前の二段三方のものに対して二段二方のものが出現し、両者が共存する時期、すなわち前者から後者へ変化する時期がTK209型式に相当する。」

この掲示板は文字制限がありますのでいったんここで切ります。




596. Re^2: 山梨県立考古博物館を訪問 さわらびT  2003/03/07 (金) 23:11
加茂鹿道様

貴重な情報ありがとうございます。この特別展は行ってみたいですね。
最近でこそ1日バス旅行などに出かけていますが、私自身は元来出不精なのですが、いつもYにせきたてられて旅に出てました。

騎馬民族征服王朝説に関心ががありながら馬具のこと少しもわかっていません。興味を持つようにしています。

馬っていつから人とともに生きるようになったんでしょうね。

今や馬の走るのを見るのが好きで「週末投資研究会」というグループを作っておられる方もいらっしゃいます。(^-^)
私は、そちらのことはさっぱりで、息子に教えられたことがありますが、投資効果が得られないまますぐ興味を失いましたが・・




594. 山梨県立考古博物館を訪問 さわらびT  2003/03/06 (木) 20:27
昨日から所用で甲府へ出かけてたのですが、せっかくなので今日は山梨県立考古博物館を訪問してきました。
南アルプスを背景に、整備された曽根丘陵公園を散策。ゆったりした時間を持ちました。予定になかったためカメラを持参していなかったのであわてて写ルンですを購入、撮影許可をいただいて館内で展示物のいくつかを撮影しました。かんかん塚古墳の三環鈴や輪鐙、小柳塚古墳の壺鐙などじっくり見てきました。
ついでに釈迦堂遺跡も立ち寄ろうとしたのですが、うまく見つけられず高速道路を往復してしまい、運転して付き合ってくれた友人に遠慮して今回は断念しました。
甲府にはまた機会があるので、次回はきちんと計画して出かけよう!




593. 佐倉城址馬出しの桜 さわらびY(ゆみ)  2003/03/06 (木) 00:09
TOPに春を先取りして、「佐倉城址馬出しの桜」(昨年3月撮影)を載せたのに、今年は弥生3月になってから、急に寒い日が続きますね。

ついでに、シリーズ「下総に律宗の痕跡を追って・5.印旛沼のほとりの仏たちT・手繰川の岸辺で」をUPしました。
これも昨年のネタです。
旅行先のルポと違って、地元に取材した作品は、もう少し調べてとか、いい写真をとか、きりがつかずなかなかまとまりません。

最近ご遠方からアクセスいただく方も多いので、佐倉城址についてひとこと。
国立歴博のある佐倉城址は、1610年に築かれた近世城郭です。
そして、写真の馬出しは、コ字型の堀で防御された出入り口で、歴博のある椎木曲輪から本丸方面への守りを固めています。
ここの桜と柳はみごとで、歴博のロビーから売店のうえの大きなガラス越しにみる春の景観は、屏風絵のようです。
歴博は、春も秋もいいですよ。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/sakurajousi.htm

開館20周年記念展示の「はにわ−形と心−」においでの際は、ぜひ外の庭もご覧ください。




592. Re: 仏像の手相術 さわらびY(ゆみ)  2003/03/06 (木) 00:07
みきこさん、いらっしゃい。

> 正光寺の薬師如来立像の手相にも運命線がありますね。西大寺の弥勒菩薩坐像、釈迦如来立像、極楽寺の釈迦如来立像もそうでしたね。
> 「国華」1269号で長岡龍作さんが清涼寺の釈迦如来像について
> 「カタカナのキの字の手相などに極端に記号的な特徴を持つ点に特色がある」と書かれていますが、

清涼寺式の像は生き身の釈迦をいわれているので、手相があっても写実的表現だと思っていましたが…。

> 手相占いで言う「運命線」とは理解されていないんでしょうね。

みきこさん、するどい!
私は占いに凝ったことないので、興味がなかったけど、手相見の好きな方に教えてもらおうっと。

> インドで仏教と共に生まれた手相術は、日本では平安時代の貴族の間で流行したらしいです。

なるほど…(源氏物語にもあるかしら?)

> 明日から3日間ほど富山へ行ってきます。

日本海が穏やかだと雪をいただいた山もきれいでしょうね。
親孝行?してきてください。




591. 仏像の手相術 みきこ  2003/03/05 (水) 23:28
Yさま
Tさまお留守の間におじゃまします。正光寺の薬師如来立像の手相にも運命線がありますね。西大寺の弥勒菩薩坐像、釈迦如来立像、極楽寺の釈迦如来立像もそうでしたね。
「国華」1269号で長岡龍作さんが清涼寺の釈迦如来像について
「カタカナのキの字の手相などに極端に記号的な特徴を持つ点に特色がある」と書かれていますが、
手相占いで言う「運命線」とは理解されていないんでしょうね。
私は絶対手相占いで言う運命線だと思うけど・・・
インドで仏教と共に生まれた手相術は、日本では平安時代の貴族の間で流行したらしいです。
飛鳥仏などにはないですよね・・しばらくはまりそうです。
明日から3日間ほど富山へ行ってきます。




590. Re: 古墳の年代について(坂本先生のレジュメからA) さわらびT  2003/03/05 (水) 00:01
坂本先生のレジュメの続きです。

「稲荷山古墳の築造時期は、埴輪やFAの堆積状況などからしてTK23型式期の可能性が高いと考えられる。そして、括れ部出土のTK47型式の須恵器を礫槨に対応するのとみるのが妥当だと考えられる。このことは、既に三鈴杏葉が、TK47型式期に存在したと考えられる状況証拠からも指摘される。
三鈴杏葉が、TK47型式期に存在したことを示す状況証拠として、群馬県粕川村白藤P−6号墳出土の三鈴杏葉を表現した馬形埴輪をまずあげる必要があろう。この古墳では、MT15型式期の初期に降下したと考えられるFAが周溝の底よりも上部で検出されている。その築造時期は、埴輪・土師器の特徴やFAの堆積状況などからMT15型式期よりも古いTK47型式期と考えるのが妥当である。粕川村では、FAが周溝の最下層に堆積することから白藤P−6号墳より新しいと考えられる近戸4号墳の周溝内から三鈴杏葉が出土している。この古墳は、埋葬施設が竪穴石室と考えられており、MT15型式期直前に築造されたと考えられる。周溝内出土の三鈴杏葉は、石室が破壊された時に混入したのか、古墳築造後に置かれたのか明らかでないが、古墳の築造時期とあまり時期差を考える必要はないだろう。この三鈴杏葉は、長沼律朗氏の編年ではY期とされる三鈴U式e類に相当すると考えられて新しくなり、斉藤弘氏の編年では三方珠文系でV期に編年されるように思われ初期のものとされる。両者の評価は異なるが、三鈴杏葉がMT15型式期直前には確実に存在したことを示すものである。この三鈴杏葉に比較して、稲荷山古墳の礫槨出土の三鈴杏葉は決して新しいものではないだろう。つまり、三鈴杏葉の中では古いタイプとされる稲荷山古墳のものをMT15型式期に下げる根拠は全く存在しないのである。
したがって、MT15型式期の開始を西暦500年頃とすることによって、須恵器の出現期までを古くする白石太一郎の説は成立しないと考えられる。」

桃崎先生の講演でも長沼律朗氏と斉藤弘氏の編年をお使いでしたね。そして「桃崎編年」(作成途上)も




589. 古墳の年代について(坂本先生のレジュメから@) さわらびT  2003/03/04 (火) 23:59
坂本先生のレジュメからです。

「稲荷山古墳の築造時期について白石太一郎氏は、第3の埋葬施設を想定した上で、TK47型式に比定される括れ部出土の須恵器をそれに対応させている。そして、辛亥銘鉄剣が礫槨に埋葬されたのは、他の古墳における三鈴杏葉に伴う須恵器の初現がMT15型式であると考える立場から、MT15型式期と捉えている。さらに辛亥銘鉄剣が製作されてから副葬されるまでに30年近くの歳月が経過したと想定した上で、MT15型式の開始時期を西暦500年頃に求めている。」(つづく)




588. 古墳の年代について(桃崎先生のレジュメから) さわらびT  2003/03/04 (火) 23:44
西博孝様

考古学の知識を欠いております。しかも入力ミスは多いです。これからもよろしくお願いします。したがって私は、須恵器そのもを見て考えていたわけではないので、専門的なご質問にはお答えできないと思います。ご容赦ください。

坂本先生のレジュメの中に1形式の存続期間が短いと同一住居址の出土土器が2型式、3型式にわたることになる、との記述がありました。単純に年数を配分するわけにも行かないのでしょう。実際の型式変化というのは年月の経過によるだけではなく、急激な変化をもたらす出来事もあったことでしょうね。

考古学のことに関心を抱かせてくださったのは桃崎祐輔先生です。ご講演だけでなく、質問に丁寧に答えいただいたことで関心も増しました。

坂本先生のレジュメの引用の前に、桃崎先生の講演「古墳時代実年代論と埼玉稲荷山古墳の馬具」(髻華の会2002年12月21日)のレジュメから少し引用させていただきます。私の関心はこの桃崎先生の問題提起から始まっていますので・・・

「埼玉稲荷山礫槨をめぐる論点」(p3)
1(省略)
2 伝世か当初のセットか
@小野山節氏は伝世した古い形式のf字鏡板式轡と新式の三鈴杏葉のセットとみる。白石太一郎氏は小野山論を踏襲し礫槨築造時期の引き下げを合理化
A宮代栄一氏は当初のセットであると論証しTK23期を471年前後に設定。
→小野山節氏が繰り返す安易な伝世論の乱発は、馬具研究に深刻な混乱を招いている。
3 年代的位置付け−TK23か、TK47か、MT15か
@白石太一郎氏は墳丘出土のTK23・47型式須恵器を未発見の中心施設の年代に当て、礫槨はMT15期まで降るとする。そして礫槨被葬者非ヲワケ臣説を念頭に置きつつ、辛亥年=471年+伝世年とみて、礫槨を500年前後と想定し、MT15型式の開始を500年前後に置く。
→しかし墳丘裾の調査がいくら進んでもMT15型式の須恵器は未発見。

とりあえず引用はここまで。通説の白石説に対し、坂本和俊先生が反論、桃崎先生もまた白石先生の年代観に疑問を抱かれておられました。そこで昨年、桃崎先生にお願いしてお話いただいたわけです。たまたま機会があって坂本先生同行の埼玉古墳群バス旅行に参加、しっかり勉強しなければ、と考えました。次に坂本先生の記述を書くことにします。




587. Re^3: 須恵器の年代(2)大庭寺でした 西 博孝 [URL]  2003/03/04 (火) 21:05
さわらびT様

マシントラブルの困難な状況で、ご丁寧な返答を有り難うございます。

大庭寺(おばでら)ということがわかり、少し安心しました。勉強不足で、また新しい資料があるのかと思い、その確認で書き込みました。

> TK209ですが、616年以降築造の狭山池堤利用の須恵器窯からTK217型式須恵器出土。戊辰銘(608として)大刀出土箕谷2号墳の須恵器は209〜217型式、が基準のようです。  
> 少しづつになると思いますが、これからもレジュメを抜き書きさせていただきます。

私ども研究会の統一テーマが横穴式石室墳で、古墳から出土する須恵器を見ております。その中でTK209段階のものがあまりにも多すぎて、本当に1型式なのかという疑問があります。消費地から見た場合、この場合は古墳ですが、どうしても少なくとも2段階、あるいは3段階になるものを一つにくくっているのではないかとの疑問がずっとありまして、質問をさせていただきました。

レジュメの抜き書きを楽しみに致しております。




584. Re^2: 須恵器の年代(2)大庭寺でした さわらびT  2003/03/03 (月) 20:38
西博孝様

ご指摘ありがとうございます。入力ミスです。大阪府堺市大庭寺窯跡、したがって大庭寺期の間違いです。西さんのようにご興味のある方も多いと思い、なかなか言うことを聞いてくれないパソコンと格闘しながらの入力でした。申し訳ありません。

十二月にご講演いただいた桃崎先生は、この初期須恵器については編年を保留されておられました。考古学にはまったくの、素人ですので坂本先生の編年案をただUPしただけで無責任ですが、私の今回の関心は稲荷山の年代論にありました。

ご講演ではなく臨地講師としてお付き合いいただいた坂本先生に個人的に質問した範囲と配布資料からのUPですので要領を得ないことをお詫びします。坂本先生は1型式20年で考えておられるような印象を受けました。レジュメを消化しきれないでいます。

打ち間違えたのは、稲荷山の礫槨を見たあと舟葬の話題を坂本先生に問いかけて、大寺山洞穴のことなどに及んだせいでしょうか。(ただの言い訳!)(^-^)


TK209ですが、616年以降築造の狭山池堤利用の須恵器窯からTK217型式須恵器出土。戊辰銘(608として)大刀出土箕谷2号墳の須恵器は209〜217型式、が基準のようです。  
少しづつになると思いますが、これからもレジュメを抜き書きさせていただきます。

坂本先生はサービス精神旺盛で、FA降下時期については年輪年代法をつかえば特定できるだろうと話しておられたのが印象的でした。




583. Re: 須恵器の年代(2) 西 博孝 [URL]  2003/03/03 (月) 17:24
さわらびT様

いつもお世話になっています。須恵器の年代の貴重な資料をアップしていただき、興味深く拝見いたしました。

それで少し確認をさせて下さい。

>坂本先生のの結論は、@大寺山・TK73(揺籃期) 430〜450年 ATK216型式期 450〜465年 BTK208型式期 465〜485年 CTK23型式期 485〜505年 DTK47型式期 505〜525年 EMT15型式期 525〜545年 FTK10型式期 545〜560年 GMT85型式期 560〜575年 HTK43型式期 575〜595年 ITK209型式期 595〜615年

@の大寺山というのを勉強不足で存じませんが、どちらの窯跡なのでしょうか。教えていただければと存じます。
それから@〜Iの各段階が約15年から20年の範囲でとらえられているようですが、TK209型式も約20年間と理解してもよいということでしょうか。よろしくお願いします。






582. Re: 楽しみに待っています→有孔円盤の写真 さわらびY(ゆみ)  2003/03/02 (日) 22:13
> 家にある耳飾の中に有孔円板土製品(これは耳飾ではないですね)があるのですが以前は恥かしながらこれも耳飾の一種と考えていました 紡錘車の説がありますが本当のところ何に使われたものでしょう 縄文後期以降は用途のわからないものが結構出てきますが分かりましたら教えてください

それは、プロの加茂鹿道隊長さまにお聞きしましょう。

今日、千葉市遺跡発表会があり、千葉県の古墳で有名な白井久美子先生の講演ほか、出土品の展示などもあり、またまた、考古のお勉強の日曜日でした。

縄文は、うならすず遺跡の出土品が目をひきました。
でっかい石棒やユーモラスな獣面とってと並んで、有孔土製円盤があり、さっそく次にUPしたので見てください。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/doguu/unarasuzuiseki.jpg
本当にこれは何でしょう?
昨日買ってきた『日本の美術』369号では、1万年前から習俗で頭に着けるそれこそ「死装束」の「ヘッドバンドアクセサリー」らしいと書いてあるのですが…

隊長さんの所の掲示板ではにわ処さんが提起している「前方後円墳の形って何をモチーフに作られたのでしょう」という謎は、少し前からTが長文のエッセイを書いています。写真が揃わないので、作品に仕上げてUPするには、しばらく時間がかかるでしょう。たぶんそのうち隊長さんちに遊びに行くと思いますが…





581. 須恵器の年代(2) さわらびT  2003/03/02 (日) 20:29
坂本先生のレジュメから引用です。

「日本の古墳時代中期の暦年代を規定する要素」として、

415年 中国北燕 馮素弗墓 馬具の鐙が編年材料
429年 倭伽耶で軍事行動
   ↑石津丘古墳(履中陵)造営? 円筒埴輪野焼き
   ↓七観古墳(石津丘古墳)陪塚 円筒埴輪穴窖窯焼成
443年? 癸未年 隅田八幡宮人物画像鏡鋳造
461年+ 大阪府堺市京塚古墳 木棺の年輪年代測定による木の辺材を全て喪失
471年? 辛亥年 稲荷山古墳出土鉄剣製作
503年? 癸未年 隅田八幡宮人物画像鏡鋳造
523年 韓国百済 武寧王陵 王埋葬 王妃埋葬526年 青銅製火熨斗・宜子孫獣帯鏡
531年 継体天皇没 今城塚古墳に埋葬?
531年? 辛亥年 稲荷山古墳出土鉄剣製作
588年 飛鳥寺造営開始
608年? 戊辰年 兵庫県箕谷2号墳出土大刀銘文
616年 佐山池樋管木材伐採

これらが定点となるとされ論じられた坂本先生のの結論は、@大寺山・TK73(揺籃期) 430〜450年 ATK216型式期 450〜465年 BTK208型式期 465〜485年 CTK23型式期 485〜505年 DTK47型式期 505〜525年 EMT15型式期 525〜545年 FTK10型式期 545〜560年 GMT85型式期 560〜575年 HTK43型式期 575〜595年 ITK209型式期 595〜615年

このレジュメ、私には貴重品です。




580. 須恵器の年代(1) さわらびT  2003/03/02 (日) 20:18
3月1日の日帰りバス旅行の配布資料、「埼玉古墳群をめぐる諸問題」(坂本和俊)を参照しつつ、当日坂本先生のお話から知りえたことなどを書きます。
桃崎先生の講演でも問題点とされた編年論です。@稲荷山古墳の築造時期・・・括れ部出土土器からTK23期、円筒埴輪及びFA堆積状況から同時期か、それより古い。A礫槨の時期・・・白石説は第3の埋葬施設を想定しTK47期の土器と対応、礫槨の三鈴杏葉に伴う須恵器の初現をMT15期と考える立場から礫槨=MT15期。このことは昨年12月の桃崎講演でもとりあげられていました。三鈴杏葉をMT15期に下げる根拠はないと坂本先生は反論、白藤P−6の馬形埴輪の三鈴杏葉などからTK23期にさかのぼる。ここまではわかりやすいです。

問題はこれから。お話を伺っているうち、驚きの編年観を示されました。配布レジュメには書いておられないので書き留めます。私自身混乱があるので、わかりにくいと思いますが、坂本説をかいつまんで紹介します。(辛亥年は471年説、礫槨の時期は510年ごろ)
高井田山古墳は503年である。その根拠は『武烈紀』に百済の王族、「意太郎」が「高田丘」に葬られたという記事があること。武寧王陵の火熨斗と高井田山古墳のそれとは同一形式。高井田山古墳の須恵器はTK23、したがってTK23型式期を523年に近づけることができ
る。となると、TK47も年代が下がる。(韓国の研究者の年代に近づく。ただ同じではない)

坂本説の一部しか紹介していませんので、余計わかりにくいですよね。パソコンですが、文字変換にもかなり時間がかかるのでイライラしながら書いてます。(つづく)




579. 楽しみに待っています(^−^) はにわ処  2003/03/02 (日) 11:46
T様ぜひまたお越しください(^−^)

話は変わりますが今隊長さんとゆみさんでケツ状耳飾の話で盛り上がっていますがちょっとお聞きして良いですか?
家にある耳飾の中に有孔円板土製品(これは耳飾ではないですね)があるのですが以前は恥かしながらこれも耳飾の一種と考えていました 紡錘車の説がありますが本当のところ何に使われたものでしょう 縄文後期以降は用途のわからないものが結構出てきますが分かりましたら教えてください
話がそれて済みませんが、、、




578. Re: T様雨の中ご苦労様です さわらびT  2003/03/02 (日) 08:49
はにわ処様

ゆっくりお話できず本当に申し訳ありません。
午前中の予定が、当日変更になり岡部町中宿遺跡→深谷市幡羅遺跡を廻ってからになりました。埼玉古墳群に到着したころには雨、お店はすぐわかりましたのでとりあえず顔を出させていただきました。想像通りのさわやかな方がいらっしゃいました。

資料館で利根川先生のお話が45分、それからあわただしく鉄剣はじめ出土品を見てると、「将軍山展示館が4時半に閉まる!」と呼ばれまたあわただしく移動。ちょうど坂本和俊先生に質問中でしたので、お話しをうかがいながら歩き出して、再びはにわ処さんの前に戻ったのでした。
「さかもとさん」重なりでした。(^-^)

パソコンの調子、最悪でご連絡遅れました。あたたかくなったらみきこさんもお誘いしてゆっくりうかがいます。今度はお天気に恵まれますように。




577. T様雨の中ご苦労様です はにわ処  2003/03/02 (日) 00:54
こんばんわ さわらびT様
今日は雨の中埼玉古墳群へのご見学大変だったでしょう
帰り際は土砂降りでしたもんね
団体行動の中わざわざ店のほうにも顔を出していただき有難うございます(^−^)
今さきたま資料館では稲荷山の埴輪展をやっていますが実はまだ見に行っていないのですよ 近すぎると反対にいつでも行けると思い後回しになってしまって困ったもんです
今度はゆっくりご見学ができると良いですね
これから桜が咲く時期は古墳も綺麗ですよ




576. 縄文時代の装身具のなぞ さわらびY(ゆみ)  2003/03/02 (日) 00:30
加茂鹿道隊長さま
お風邪と「お尻に火が付いて火達磨状態」の超多忙の中、家庭教師にお越しいただき恐縮です。

耳飾について少しは自習もしなくちゃと、東京国立博へ行ったついでに、『日本の美術・第369号 縄文時代の装身具』(1997・土肥孝)を買ってきました。
神奈川県上浜田遺跡・国府遺跡・福井県桑野遺跡・新潟県大宮遺跡の出土例などで少しは基礎知識が補充。でもさらにいろいろと謎も深まって、すっかり縄文の装身具の世界(隊長の世界?)にはまってしまったみたいです。
この本では、前期は対のりっぱな石製だったのが、前期末〜中期に手抜きの骨角製が出現してくるので「ケツ状耳飾は死装束」との見方もしているようで、それなら、耳に開けた穴に通すのではなく、「挟む」ということも考えられますね。

> 大きな耳飾をはずしてしまうと、垂れ下がった耳たぶはまるで竜角寺の白鳳仏のような仏像の耳たぶみたい・・なんてずーと思っていたんだけど。

通過儀礼のたびに大きくしていくということは、清のころ纏足が深窓の育ちのバロメーターだったように、耳たぶの穴(=耳飾)が大きいのは人生経験の成熟度?
でもあんまり大きくすると切れちゃうのですって。(東南アジアの民族例で、切れちゃった人の写真があった)

信州考古学探検隊も盛況ですね。森将軍塚の話題など、おじゃましたくてうずうずしていますが、ケツ状耳飾論に限っては、引きつづきこのまま隊長さんに出前授業いただければ幸いです。

ところで、東博友の会の講演会の本日の講師はキリシタン史の五野井隆史先生(東大史料編纂所)で、三十数年前院生でいらした時、私の高校に日本史の講師でおいでになり、キリシタン文化について個人的に教えてくださった恩師でした。
今日の講演で受けた感銘と課題はまたいつかまとめたいと思っています。(この講演会のため、とうとう東博友の会に入ってしまった!)




573. Re: 画像集きれいですね さわらびY(ゆみ)  2003/02/28 (金) 22:26
> 画像集きれいですね!
ありがとう。ディスクに入っている画像ファイルは、ほとんど記録用。遺跡や路傍の石造物(それも銘文のみとか)、古文書、展示物など、わけのわかんないものばかり。最近は、コピー機がない上貸し出しもしていない資料館の図書もデジカメで撮ってきたりして。メモ用にデジカメは便利ですね。
そのガラクタ画像のファイルから、ちょっとお気に入りの風景だけチョイスしてみました。

> 世間では花粉が飛びまくっているけど、最近の免疫学ではきれい好きな人ほど花粉症になるらしい。
職場では仕事柄、次のようなサイトを見ています。(執務時間中の歴史・考古モノは、業務怠慢でしょうから)
http://www.hitachi-hitec.com/sapiens/016/ajsa0161.html
皮肉にも抗菌無菌の環境がアレルギーを多くしているという現代。でも明日はまたまた雨のようで、Tが古墳探索の日は雨というジンクスは免れがたいようですね。ちなみに明日、私は講演会のため東博です。

>  群馬の耳飾館にあるあのすばらしい円形耳飾…
あれは驚きでしたね。フィリピンの赤ちゃんのように生まれたらすぐピアス穴を開け、径2mmぐらいの魚の背骨のピアスからだんだん大きくするのかと思っています。
日本列島でのケツ状耳飾の出土例は、C型の完形品と、半分に切って穴をあけた加工品とどっちが多いのでしょう。おそらくケツ状は耳の合わない?ので勾玉まがいにしちゃったとか。

ところで、LINKページのいとこの絵画ギャラリーのページがリニューアルしました。http://www.manekineko.ne.jp/mogu/
こちらもよろしく。




572. 橿考研特別陳列 西 博孝 [URL]  2003/02/28 (金) 17:45
さわらびゆみ様

はじめまして、わざわざT様に代わってのお返事をいただき、有り難うございました。画像集楽しく拝見致しました。野々瀬古墳群のある朝倉村は5年前に訪れたことがあります。樹の本古墳や根上がり松古墳など珍しい古墳があったことを思い出しました。

さて、橿原考古学研究所付属博物館では3月中「古墳出土土器の語るもの」と題して、特別陳列が行われます。

纏向古墳群のこれまでに公開されていない出土土器が展示されるようです。一見地味ですが、古墳の性格や編年を考えていく上では、大切な企画だと思います。詳しくは私どものHPの表紙、もしくは橿原考古学研究所のHPをご覧下さい。今後ともよろしくお願いします。




571. 駿州霊山寺の成真について さわらびY(ゆみ)  2003/02/28 (金) 00:50
 http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/1-10numadu/1-10numadu.htm
のページの駿州霊山寺の成真について、先月UPしたとき、大事な文献を見過ごしていたことに気づきました。
(昨年9月西大寺での桃崎先生の講演でもふれられていたし、和島芳男『叡尊・忍性』にもよく読むと書いてあった!)

というわけで、このページの最後の部分を以下のように書き直しましたので、はずかしながらご報告します。

 霊山寺の巨大な五輪塔は、沼津の津を経営し、東海道沿いの教化に活躍したであろう「成真」という叡尊の弟子僧の存在を、今に教えてくれた。
 いずれその名を文献資料に見てみたいと思っていたところ、『西大寺叡尊上人遷化之記』にその名があったことがわかった。
 正応3年(1290)叡尊入滅翌日の記事にこうある。
 「亡くなった翌26日、飛脚をもってこのことを関東極楽寺良観(=忍性)上人のところに告げしらせた。悲嘆限りなく、事をつくす間もなく、同法の(宗賢房)成真を差しのぼらせ、また仏事に必要なものを送った。」
 さらにこの悲報を受けとった東国の弟子達の名が続く。「常州清涼寺長老頼玄、総州願成寺長老栄真、相州浄福寺慈照、駿州霊山寺成真などが面々懇志を示した。…」
 駿州霊山寺の成真は、南都に最も近いところにいたことから、悲報を受けた忍性ら東国の兄弟弟子たちより仏事の志などを託されて、東海道をひたすら急ぎ上って師の葬儀に馳せつけた僧であった。
 その成真の墓塔は、今、桃崎祐輔氏が作図した「西大寺と律宗諸寺院の巨大五輪塔」図の中に、師叡尊を頂点として、忍性-忍公-覚賢-頼玄と並ぶ位置にその存在を示している。




570. 画像集きれいですね みきこ  2003/02/27 (木) 20:13
Yさま
画像集きれいですね!私もきれいな画像撮れるようになりたいけど・・これはセンスですものね。
世間では花粉が飛びまくっているけど、最近の免疫学ではきれい好きな人ほど花粉症になるらしい。花粉症でないと恥ずかしいくらいで、「あんまり手を洗わないといいかも」なんて言ってヒンシュクをかってしまった。
年度末で仕事はきついし、あっちの方も勉強不足できついし・・
Tさまの埼玉古墳群のお話を楽しみにしています。
私も行きたかった・・・

加茂鹿道隊長さま
 群馬の耳飾館にあるあのすばらしい円形耳飾、雲南省の少数民族がつけている耳飾りと似ているような気がするんですけど・・・
おまけにあの大きな耳飾をはずしてしまうと、垂れ下がった耳たぶはまるで竜角寺の白鳳仏のような仏像の耳たぶみたい・・なんてずーと思っていたんだけど。





569. 画像集をUPしました さわらびY(ゆみ)  2003/02/26 (水) 23:43
西博孝さま
ご挨拶いただきありがとう。
来週新マシンに入れ替え予定のさわらびTのパソコンが末期症状で悪戦苦闘していますので、代わりにゆみがレスします。

Tは、このところ古墳にハマっていて、3/1も埼玉古墳群へ行くそう。(花粉が気になる季節、大丈夫かな?)
帰ってきたら、きっとみきこさんや「はにわ処」さんなどと、話が弾むことでしょう。
その節は、どうかお相手をよろしくお願いします。

1999年から2001年のデジカメ画像を整理し、さっき、壁紙集としてUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kebegami/99.01kabegami.htm
先日、ビデオ画像をUPした上、今日また大きなサイズの絵を入れ、自己満足の道楽で、とうとう60MBの契約料を払うことになり、Tにあきれられています。

古墳ファンの方には、愛媛県朝倉村野々瀬古墳http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kebegami/00.07.28asakuranonosejkohun.jpg

ワイワイグッチさんほか貝塚ファンの方には、八千代市神野貝塚
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kebegami/00.03.18kanokaiduka.jpg
をプレゼント!

写真は、waraさんのHP
http://www2u.biglobe.ne.jp/~W730688M/index.htm
にはかないませんが、何とかその世界に近づきたいとひたすら思っています。今後とも、ご批評などよろしくお願いします。




568. リンクを有り難うございます 西 博孝 [URL]  2003/02/26 (水) 20:39
さわらびT様

早速私どものところをリンクしていただき、有り難うございます。立派な他のHPの中に入れていただいて、恐縮しております。

私どもの会のスタッフもプロフィールに書いてありますように、全員考古学専攻生ではなく、考古学研究室の調査に参加したり、教育委員会の調査に従事した経験があるというだけです。現在みんな本業を持ちながら、考古学が大好きという一点で集まって楽しんでおります。

関東の古墳は勉強不足で、ほとんど存じません。何年か前にみきこさんたちと一緒に岩屋古墳は見学した記憶がございます。墳丘の大きさと石室の大きさが鮮明に記憶に残っています。

関東の古墳について、いろいろとご教示下さい。また関西に来られた時には、古墳見学等ご一緒させていただきたいと思いますので、ご一報下さい。

みこさん、こんにちは。
素晴らしいサイトを紹介していただき、感謝しております。関東から関西は遠いですが、またこちらに来られるときは是非スタッフと共に古墳や遺跡をまわりたいと思います。




566. 福山からありがとう さわらびY(ゆみ)  2003/02/25 (火) 22:19
福山のhiroさま

はるばる福山からのメッセージをありがとう。
貴兄のHPの「歴史山行」のコースはみな行ってみたいところです。
熊野古道の「果無(はてなし)山脈」は時間がなくて素通りしたところ。また、「龍馬脱藩の道」は、縄文の岩陰遺跡の上黒岩遺跡を訪ねたとき、この山を龍馬たちが越えたと土地の人に聞き、ここから土佐への抜け道が通じていたのかと感慨深く思った山脈でした。
このところ、しばらく山歩きから遠ざかっていますが、憧れの「歴史山行」の情報をこれからもお寄せください。




565. また教えてくださいね みきこ  2003/02/25 (火) 21:06
考古文化研究会の西博孝さんは岩石学から石棺を調査、研究されています。そのご講演や、遺跡めぐりでの解説には本当にいつも新鮮な感動を受けます。関東にもファンが多いんでーす。
近畿の古墳についてまたいろいろ教えてくださいね!




564. 始めまして hiro [URL]  2003/02/25 (火) 10:18
始めまして、「福山のhiro」といいます
偶然に貴HPを拝見し、スケールの大きさ、深さに圧倒されています。中途半端に歴史の好きな私にとって「眼からウロコ」の想いです。時々寄らせて下さい。




563. 加茂鹿道隊長の「ボロンテ」 とケツ状耳飾 さわらびY(ゆみ)  2003/02/24 (月) 22:59
待ってました!加茂鹿道隊長の「オシャレな縄文人−ケツ状耳飾り研究事始」
http://www7.ocn.ne.jp/~volonte/col-back.html

まるで私のリクエストに答えてくださっているような、タイミングもすごい!
この掲示板の加茂鹿道隊長の「485. Re: 勾玉ってむずかしい」まで戻って、もう一度中国新石器時代のケツ状耳飾りについて復習しながら、ボロンテのエッセイを読み直しています。
書斎(=物置同然の足の踏み場のない部屋のこと)から重い中国の図録を引っ張り出してきて、遼寧省牛河梁の6千〜5千年前の遺跡の人骨とりっぱな玉器を見てみましたが、日本列島に影響を与えたのはもっと古い文化だったのでしょうか。
朝鮮半島の半ケツ形勾玉と中国遼寧省の鄭家窪子遺跡(これは何千年前でしょうか?)、
約七千五百年前の興隆溝遺跡と三内丸山遺跡の関係もロマンがありますね。

(ボロンテに出会う前は、ケツ状耳飾りなんて知りもしなかったので、せっかく昨夏行った仰韶文化の半坡遺跡
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seian.rakuyou/21seian/21seian.htm
ではあったのかなかったのか全く記憶のかけらもありません。)

最前線の研究者からの最新の研究成果を教えていただけるなんて、とっても贅沢なHPです。
「東アジアの中で見たケツ状耳飾の起源と展開」の論文は、この続きでもう大意がわかってしまうのでしょうか、本当に次の展開が楽しみです。




562. Re: はじめまして さわらびT  2003/02/24 (月) 22:32
西博孝様

ご丁寧にありがとうございます。私共は専門的に勉強したわけでもありませんので、これから教えていただくことが多いと存じます。よろしくおねがいいたします。こちらもリンクを張らせていただきます。

どちらかといえば文献史学を中心に勉強しています。とはいっても古代史の勉強には、考古の知識も知らないと勉強になりませんね。

明治大学考古学博物館友の会にも最近入会させていただいています。1週間ほど前、日帰りバス旅行「成東町の古代遺跡を訪ねる」に参加してきました。1日中雨というあいにくの天候でしたが、古墳めぐりというと皆さん元気ですね。足元がどんなに悪かろうと墳頂を目指すのは、本当に「物好き」!かく言う私もそうでしたが・・・

白石先生の論文など、ちらっと読んだだけですが、板附古墳群の駄ノ塚古墳(方墳)に興味がわきました。見たからってどうおいうわけでもないですが、前方後円墳が2基(西ノ台、不動塚)つくられたあとに、この方墳がつくられたようです。なぜ方墳になのでしょう。房総には、岩屋古墳という大方墳もあります。駄ノ塚古墳は歴博が調査したとのことでした。

「石室よりメノウ製の勾玉や金銅製歩揺付金具などの馬具類が発見されている。年代については、周溝内から出土した須恵器が6世紀末ないし7世紀初頭を示すもので、これによって東国の終末期方墳の初現にあたる存在であると推定されている。」と下記に記載があります。

http://www.haniwakan.com/kanpou/017.html

白石先生がよくお書きになっておられる牧野古墳(押坂彦人大兄王子の墓と想定)の須恵器と併行するということかな、などとよくわからないながら考えていました。推古・用明陵が方墳ということもあわせ、興味はありますが、当日の悪天候でじっくり見られなかったのは残念。ただ整備されているようでもなく、アクセスはあまりよくないところでした。こういうところは団体で連れて行ってもらうに限ります。




561. Re: 祈年祭 & 春の兆し さわらびY(ゆみ)  2003/02/24 (月) 20:39
> 2月18日先崎鷲神社の祈年祭が行われました。

由緒ある神社の祭礼を維持する努力は並大抵ではないでしょうが、末永く続けていってほしいですね。

> ビデオメール有難うございます。踊りはうまくないが、ビデオは良く撮れていますね。やり方後で教えてください。

実行委員長の踊りもなかなかお上手ではありませんか。
ビデオはFinepix2800Zで撮ったビデオクリップを、リンクで貼りつけただけです。

2週続けて日曜は天気はいまいちでしたね。
八千代市の植樹祭で、印旛沼の平戸付近に植えた千本桜に、八千代市郷土歴史研究会の記念プレートをつけたあと、旧家をまわる歴史散歩をしました。
傘を持参したけれど降られることもなく、川風が肌寒いものの、まずまずのフィールドワークでした。

享保9年印旛沼の干拓工事を、志し半ばで断念せざるをえなかった平戸の染谷源右衛門家の白梅をカメラに収めました。http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/DSCF00401.jpg

貴兄の梅の写真(さすがプロ!)http://www2u.biglobe.ne.jp/~W730688M/030211ume01.JPG
には及びませんが、春のきざしは感じられました。

(リンクのワイワイグッチさんの紅梅もすてきですね。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~KAIGUCCI/img/030215ume17.jpg )

今晩は雪、春は遠いのか、近いのか。
また貴兄の季節の写真を楽しみにしています。




559. はじめまして 西 博孝 [URL]  2003/02/24 (月) 20:12
皆様、はじめまして。

考古文化研究会の西と申します。関西で考古学が好きな者10名ばかりで、研究会をつくり勉強しています。

みきこさんにこのホームページを教えていただき、早速拝見致しました。充実した内容ばかりで、勉強になることばかりで、私どものHPも少しは近づけるようになりたいと思っています。

さわらびT様

リンクの申し出をご了承いただき、有り難うございました。千葉県のところに貴HPのバナーを貼り付けました。

今後ともよろしくお願い申し上げます。




558. 祈年祭 mwara [URL]  2003/02/23 (日) 09:50
ゆみ様
おはようございます。2月18日先崎鷲神社の祈年祭が行われました。
この日は、井野にお住まいの堀越さん他3名の方が是非見せてほしいと言う事でいらっしゃいまして地域の皆さんと一緒に雑談していかれました。ゆみさんの事もご存知でしたよ。ところで、ビデオメール有難うございます。踊りはうまくないが、ビデオは良く撮れていますね。やり方後で教えてください。ここのところ、土、日は予定が入ってしまっていました。撮影が出来なくイライラしています。成田山の梅などもう終わりに近いですか!?。春近し、3月のチューリップ祭り、桜も見ごろとなり、撮影題材も豊富となる事からHPのUPも期待してください。ゆみさんのHPの長作、武石のおびしゃ大変参考になりました。お忙しい中、くれぐれもお体ご自愛ください。




557. Re: 春が近い さわらびY(ゆみ)  2003/02/23 (日) 00:19
みきこさま、早春のおたよりありがとう。
このところ音沙汰ないので、インフルエンザか?と心配していたのですが、職場の慰安旅行で温泉とは、よかったですね。

> 箱根町郷土資料館もよかったし、早雲寺の五輪搭もよかったーでもなぜ早雲寺にあるんですか?北条氏ゆかりのお寺だから?でも北条氏のお墓は普通のかたちだったような・・

同じ五輪塔でも、近世になると、笠の四隅かピンとうえに上がってくたりして、かなりかっこうが違ってきますが、早雲寺の後北条氏の墓塔はいかがでしたか。

> ようやく新しいパソコンどうにかセットできてよかった!
> これは試しです。

新マシンの開通、おめでとうございます。
我が家も、3月9日に新しいパソコンが来ます。
ソーテックのフルセット99,000円という安さですぐ予約したのですが、品薄ですぐには手に入らず、今日せっかく、我が家専属SEのMさんに九州からの出張ついでに寄っていただいたのに、新パソコンの設定は、再来週、自力でやらなきゃいけないみたい。
はたして、家庭内LANが成功するか、自信ないなあー。

でもMさんに今日は、ホームページにビデオファイルを挿入するやり方を教わって、さっそくUPしてみました。(意外に簡単!)
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/massakimaturi/massakimaturi3.htm
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seian.rakuyou/22seian/seian22.htm
です。
まあ、試して遊んでみてください。
ブロードバンドでない方には、重すぎてちょっとつらいかも。
それに、またNIFTYとの契約容量を増やさなきゃいけないかと思うと、たぶん「期間限定品」になりそうです。

あしたは八千代市の植樹祭で、印旛沼の平戸付近に植えた千本桜に八千代市郷土歴史研究会の記念プレートをつけたあと、旧家をまわるフィールドワークを計画しています。
お天気がよくなることを願っています。




556. 春が近い みきこ  2003/02/22 (土) 23:28
Yさま
 紅梅の咲く箱根湯元に行ってきました。のんびりしている暇はないんだけど、職場の慰安旅行で温泉に浸かりに!「オルゴールの小さな博物館」で聴いたオルゴールの音色に日頃の疲れもどこかに・・スイス製の鳥がさえずるオルゴールはとってもすてき!
箱根町郷土資料館もよかったし、早雲寺の五輪搭もよかったーでもなぜ早雲寺にあるんですか?北条氏ゆかりのお寺だから?でも北条氏のお墓は普通のかたちだったような・・
このコースの企画者は誰?とか言われたけど日帰りでも十分楽しめたー
ようやく新しいパソコンどうにかセットできてよかった!
これは試しです。




555. Re: 先日のシルクロードの会 さわらびT  2003/02/21 (金) 10:08
スンニリ様
会の主催は「シルクロードの会」ですので、こちらこそご許可いただいて掲載させていただいた立場です。ご遠慮なく。桃崎先生もご了承なさると存じます。データ等必要であれば、メールにてご連絡させていただきます。




554. 先日のシルクロードの会 スンニリ [URL]  2003/02/21 (金) 09:46
大勢の方のご来聴を頂き盛会に終わりましたこと厚く御礼もうしあげます。桃崎先生には大変ご苦労を頂き恐縮に存じます。大量のレジメに圧倒され聴講者も近来にない緊張感溢れる学習でした。限られた時間でのあの講義はもったいない感じです。もう一度ご講演をお願いいたしたいのですが。桃崎先生のレジメの当hpの掲載文、私のほうのhpにも転載したいのですが、ご許可頂けるでしょうか。




552. 加茂鹿道隊長の部屋 とケツ状耳飾 さわらびY(ゆみ)  2003/02/20 (木) 22:56
信州考古学探検隊のHPも充実してきましたね。
県歌の流れる「隊長の部屋」は、まずはその研究報告の量の多さに圧倒されました。
http://kaitaku.gaiax.com/home/kamosikamiti

これを見て「ケツ状耳飾」の論文が面白そう、特に2002年の「東アジアの中で見たケツ状耳飾の起源と展開」は読んでみたいけど、素人には入手は難しそうですね。

そもそも、ケツ状耳飾なんてけったいなモノ、HPを通じて隊長さんと知り合わなければ、展示品を見ても(たぶんおばあさん?になっても永遠に)気にもかけないことでしょう。
あのU型のわっかを半分にして、穴をあけて、蝶の羽みたいな形のペンダントにするなんて、五千年前の縄文人の美的?センスというか、お守り代わりにした心というか、日本列島人の個性を知りたいですね。
次の画像は東京国立博で撮ってきました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/doguu/ketujoumimikazari.jpg
No.3のケツ状耳飾は大田区馬込などで出土のものと書いてありました。
ケツ状耳飾の由来と時代の中での変容についてもっと知りたい!と、またまた「好奇心」が頭をもたげてまったく困ったものです。




551. 畝田・寺中遺跡出土の木簡について さわらびT  2003/02/19 (水) 23:40
少し話題を変えます。木簡についての最新情報を一つ。平川先生の講座でうかがったことを記します。

金沢市の畝田・寺中(うねだじちゅう)遺跡出土の郡符木簡のお話しをしていただいています。10号木簡は未発表史料のようです。

畝田・寺中遺跡出土の木簡についての平成14年3月8日記者発表資料は、下記で読めます。「畝田・寺中遺跡は加賀郡家関連施設である可能性が極めて高くなり、このことは従来推定してきた加賀郡津説を補強するものである。」とあります。

http://www.ishikawa-maibun.or.jp/maibun/hakkutu_2001/uneda_jityu/uneda_jityu.htm

@既発表の3号木簡
(表)「郡(符) 大野郷長□□件[  ]
(裏)「罪科知□火急 主政
          主帳
(294)×34×4

A10号木簡
(表)「符 田行笠□等 横江臣永嶋□(□は不明文字)
            西岡部物
(裏)「口相宮田行率召持来今船舩以付(「口相」は「くつみ」)
             田領横江臣□
(278)×42×3

10号木簡の「田行」は初見史料。飛鳥京跡苑池遺構出土木簡「俵一斛 行司舂米玉丑」との関連。
平川先生のお考えでは郡符木簡は、呼び出した郡で廃棄されたものであり、それを傍証するのが宛先が違う呼び出し状が出土したこと、この例では@は「大野郷長」Aは「田行笠□等」(□は不明文字)
類例としては、長野県更埴市の屋代遺跡、福島県いわき市の荒田目条里遺跡の2例あるがこれが3例目となるということです。

授業の復習でした。



550. Re: ご清聴ありがとうございました さわらびT  2003/02/19 (水) 22:10
桃崎先生、おつかれさまでした。当日レジュメの文章部分ですが、先生にご了承いただきましたので「シルクロードの会」講演案内のページにUPさせていただきました。先生の説の真髄が明快にわかる、すばらしい文章だと思います。

講演の最後にお話になられた『三燕文物精粋』(遼寧人民出版社2002)掲載の「遼寧省北票県の喇嘛洞UM101号墓出土の龍文透彫鞍」のことは、掲示板179にお書きになっておられました。このHPの読者のご参考までにお伝えします。。(一部を引用します。長文ですので、詳しくは掲示板に戻ってください。)

「なかでも遼寧省北票県の喇嘛洞UM101号墓出土の龍文透彫鞍は大阪府誉田丸山(応神陵陪塚)2号鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一で、丸山2号鞍は北燕の製品である可能性が高そうです。誉田丸山の古い方の轡も、朝鮮半島であまり見られず鮮卑領域に多い縦長方形銜通孔を採用している点や方円結合形金具が存在する点からも、まるごと鮮卑製の可能性が高そうです。」

この鞍の図をレジュメからスキャンして、カットとしてつかわせていただきました。




549. ご清聴ありがとうございました 桃崎祐輔  2003/02/18 (火) 23:47
皆様

 2月14日はいつものように準備不足・会場到着の遅れでご迷惑をおかけしました。講演の題目を決めた頃は、自分は慕容鮮卑や五胡十六国についてある程度わかっていた気になっていたのですが、今回改めてすべての三燕墓をレジュメ化しようと作業に取り掛かると、馬具のことが多少わかるだけでほかの事を何もわかっていないなと思い知らされました。このため話は消化不良のものになってしまいましたが、慕容鮮卑や五胡十六国というなじみの薄い世界の一端を知っていただくという当初の目的はなんとか果たせたでしょうか?
 今後機会をいただければ、今回提示した資料をじっくり吟味した上で、土器や馬具、墓の編年や、朝鮮半島や日本との関係についても、もっと踏み込んだお話ができることと思います。しばらくお待ちください。

 土日は伊豆に所用、月曜は千葉県東総文化財センターに中近世と7世紀の遺物を見に行き、現在正月前後に入稿した中世原稿の校正に追われながら、月末締め切りの須恵器窯の概報原稿と格闘しております。
 このため疲れてヘロヘロしておりこちらにご挨拶にうかがうのもままなりませんが、4月以降は少しは時間が出来ると思いますので、いましばらくご猶予いただければと思います。
 それではまた。







548. 桃崎先生の講演にあらためて感謝 さわらびT  2003/02/18 (火) 23:16
桃崎先生の講演、生で聞けなかった分、繰り返しテープを聞いています。
お話しの中「話しはでかく、観察は緻密に」という表現をされてました。すごいですね。それを実践されておられることがよくわかりました。

日本列島に北方騎馬民族の文化が渡来したことは間違いないことです。江上先生が着目した扶余なのか、今桃崎先生が着目されておられる慕容鮮卑なのか、一律に騎馬民族というわけでなく諸民族の生活・習俗・文化のちがいを分析し、事例を集積していく・・・
大変なご努力だとあらためて感心しております。それにしても最新の中国文献がふんだんに盛りこまれたレジュメですから私達には得がたい貴重な資料をいただいたものですネ。




547. Re: 感動のるつぼ さわらびY(ゆみ)  2003/02/16 (日) 00:36
桃崎先生
昨日はお疲れ様でした。
というより、連日の全力投入による準備で疲労困憊のご様子、本当にご苦労様でした。
文革のなか、記録作図された貴重な図版を駆使された膨大なレジュメも感動です。

敦煌で見た西晋の古墓http://homepage1.nifty.com/sawarabi/dunhaung26-2.htm
洛陽郊外の北魂の考文帝建立の鞏県石窟
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seian.rakuyou/26rakuyou/26rakuyou.htm
なども思い出しつつ、今日は一日まだ昨日の余韻が残っていて、ややぼうっとしていました。

でもこの3回シリーズでお話いただいた馬具についてHOTなうちにおさらいしようと、東京国立博物館に行き、レジュメや講演でお話になった実物をたっぷり見て、実感で復習してきました。
ここの平成館の1F右側の考古の部屋の馬具のコーナーは壮観ですね。
帰りにみきこさんにお会いでき、お茶しながら、みきこさんとデジカメ画像をカメラのモニターを見て、もう一度復習。
(さすがみきこさんは、馬具については詳しいですね。)

そのほか、この掲示板で話題になった「親指の聖母」などキリシタン遺物、土偶(本物のしゃこちゃん)、縄文の勾玉&ケツ状耳飾、大和と讃岐の前期古墳の「斜縁二神二獣鏡」(どこが三角縁とちがう?)、海岸尼寺出土の骨蔵器など見て、頭の中はもう完全にオーバーフロー状態。そのうちまた特に思い入れのある物についてゆっくり書きたいと思っています。

講演のあとも伊豆に向かわれ、あっちこっちから引っ張りだこの桃崎先生、また余裕ができましたら、ご消息をお知らせください。




546. 感動のるつぼ みきこ  2003/02/15 (土) 20:31
桃崎先生
 昨日はありがとうございました。あの厚い・熱いレジュメ!感動しました。なんだか、5世紀代の日本列島の古墳から出てくる副葬品のほとんどが鮮卑系のお墓から出ているんですね!最新の考古学の情報を織り交ぜながらのお話にまたもや、頭がくらくら・・!近い将来、今までの「古代史」が大きく変わるそんな予感を感じつつ・・
 本当に興味深い面白いご講演でした!!

ご講演が終わった後の聴衆の興奮と熱気に圧倒されつつ帰りました。




545. 桃崎先生の講演、大盛況でした さわらびT  2003/02/15 (土) 20:13
昨日(2月14日)は、2ヶ月ぶりの桃崎先生の講演ですので楽しみにしておりました。打ち合わせでは5時会場に到着、レジュメを下のフロアの事務室でコピーさせていただくはずでしたが、交通事情(とあとでうかがいました)、で先生の到着が20分ほど遅れたのが予定外。レジュメ26枚はいつもよりも多めですが毎度のことなので気にはならなかったのですが、問題は参加者数の読み違え。嬉しい誤算ですが、40部作ったのに足りない!桃崎先生も気付かれたようですが途中から宮代栄一氏も参加されておられました。

いつもは最前列で聞かせていただく私なのですが今回はご講演の半分も聞けませんでした。

レジュメ2ページ、張景明「内蒙古凉城県小土貝子灘金銀器窖蔵」『文物』2002年8期)の図面から注目です。これが、西晋王朝の瓦解から五胡十六国時代の始まりを告げる重要な遺品であったと話されました。「四獣系金飾牌」の背面刻面にある「猗い(宀に也)」(いい)とは何か・・・

桃崎先生も今回のご講演準備にはご苦労されたようで、珍しく文献をそのまま読まれました。その部分を引用します。

「拓跋力微死後、拓跋部は弱体化したが、三世紀末に力微の子の拓跋禄官が立つと、その領域を東・中・西の三部に分け、現在の河北省東北部から内蒙古自治区にかけての東部を自ら統治し、甥の拓跋猗いに参合陂(内蒙古自治区涼城県)の北の中部を、その弟拓跋猗盧(いろ)に盛楽周辺の西部を、それぞれ統領させた。そのうち中部は中原に近かったため西晋の動向に影響された。すなわち八王の乱の時には多数の漢族を受け入れ、また并州刺史の司馬騰を救援し劉淵や石勒とも戦った。しかし猗いは305年に、禄官は307年に没し、その部民を吸収した猗盧が拓跋部を統括することになった。拓跋猗盧も西晋を助けて劉淵の侵攻を抑え、その功により310年10月に懐帝から大単于・代公に任じられた。これが代国の始まりである。」(三ア良章『五胡十六国』(東方書店)、p85)

この305年に没した人物が「猗い(宀に也)」(いい)です。

同出土物のうち「如意形金飾」にふれておられました。今後の課題という事ですが仏教関連遺物の可能性を示唆されておられます。興味深いご指摘ですね。

それにしてもすばらしい講演会でした。参加の皆さんはすっかり堪能されたことことでしょう。桃崎先生おつかれさまでした。主催者の高さん、ありがとうございました。




543. 武石氏と忍性を結ぶ手がかりが信州と箱根にある? さわらびY(ゆみ)  2003/02/13 (木) 23:46
オビシャで紹介した武石は、千葉氏千葉六党の武石氏の本拠地で、羽衣神社のある真蔵院には永仁2年(1294)武石宗胤(左衛門尉)によって建立された3mもの板碑があります。

この武石宗胤(左衛門尉)は、箱根の宝篋印塔に「結縁衆」として「武石四郎左衛門尉宗胤」として「及月光源氏女」「源宗経」とともに名を連ねています。
武石宗胤の妻は源氏綱(佐々木氏綱)の娘で、その兄弟に「源宗綱(佐々木宗綱)」がおり、宗経と宗綱が同一人物であるとすると、武石宗胤の近親が導師として忍性上人を招いて、供養を行ったと推定できます。

また武石氏は長野県小県郡武石村にも所領があった関係から、美ヶ原高原美術館のところの小沢根の子壇峯神社境内に「岳石平胤盛」の名と「月星」紋がついた石塔があるそうです。

また長門町りんどうの郷 仏岩温泉には、仏岩の断崖のうえに、県宝の宝篋印塔があって、ここにも「武石四郎左衛門尉宗胤」があるらしいことがわかってきました。

八千代市村上の正覚院と花見川沿いの武石氏となんらかのつながりがあってもおかしくないとも思えますので、信州の石塔もいつか調べてみたいと思っています。




542. Re: 三代王神社・羽衣神社のオビシャのページ見ました さわらびY(ゆみ)  2003/02/12 (水) 21:49
武石のオビシャをさっそくご覧いただきありがとう。

八千代の高津新田のオビシャのルーツを知るために、花見川沿いに南下し、長作に続いて、とうとう武石まで行ってしまいました。
路傍の石造物や人生儀礼などはそんなに差がないようなのに、古来から続くオビシャは、地区によって実に個性的ですね。
この個性の中から共通する原点を探るのが、民俗学のおもしろいところのようです。

今回の取材は、日本中のオビシャを調査して『熊野の太陽信仰と三本足の烏』(戎光祥出版1999)を出版された萩原法子さんをお誘いし、ナオライの傍らで、お赤飯を振舞われながら、萩原さんの「講演」を独占してお聞きできました。
おかげさまで、まる1日がかりの取材でしたが、とてもよい思い出になりました。
三代王神社と羽衣神社は、その神社の由来にふれるだけでも、中世千葉氏の伝承の世界につながっていき、興味が尽きません。

> 的は卍でしたか。
> 起源はどこでどれくらい古いのか、

7000年前の中国の文様に「太陽」を意味する「卍」のいくつかのヴァリエーションが見られるとのこと、これからじっくり調べてみたいです。
県内には匝瑳郡にも「卍」の的があるそうです。

> いけなかったのは残念でしたが、ページの写真を拝見していると、
> 雰囲気も何となく伝わってくるような気もします。

毎年ずっとやっているでしょうから、また来年のお楽しみにしましょう。

気候がよくなったら、花見川を自転車で探検したいですね。
貝塚・城跡・江戸期の開削工事・中世寺院(私の関心は今これ)なにをテーマにしてもおもしろいです。




541. 三代王神社・羽衣神社のオビシャのページ見ました あるけ〜 [URL]  2003/02/12 (水) 21:05
ゆみさん、こんばんわ

三代王神社と羽衣神社のオビシャのページ、拝見しました。

的は卍でしたか。
起源はどこでどれくらい古いのか、
長作のオビシャとどういう関係にあるのか、など疑問がわきますね。

いけなかったのは残念でしたが、ページの写真を拝見していると、
雰囲気も何となく伝わってくるような気もします。




539. Re^3: 貝が分水嶺を越える!! ワイワイグッチ [URL]  2003/02/11 (火) 17:14
  >東京湾岸と香取の海をつなぐ最短ルートは新川だと思って
  >いたけど、鹿島川も最短の接点を持っているのですね。

平戸川(現新川)と花見川を繋げた花島橋付近の切り通しを見ると、ハマグリやカキを見ることができます(小輩のHPの2002/7「歩く会」参照)。これらが盛り土でないとすると、2つの川の繋がりが判ります。
平戸川/花見川、鹿島川/都川だけでなく、千葉市南部の仁戸名川(支川都川)と村田川の間にも「分水嶺を越えた」繋がりがあることが判っているそうです。2/23の歩く会ではっきりするとのこと。楽しみです。




538. 桃崎先生の講演が近い さわらびT  2003/02/10 (月) 00:37
どうも目が悪くなったせいか、最近パソコンに向かうのが少々つらくなって、書く回数が減っています。考えてることはありますし、関心も膨らんではいるのですが、断片的になってしまってますね。3月の髻華の会は壬申の乱がテーマです。これもおもしろいですが、みきこさんたちの影響ですが、出土遺物そのものに対する興味が出てきて、勉強したいことがたくさんなのに、時間がない……

川勝守『聖徳太子と東アジア世界』(吉川弘文館、2002)という本があります。桃崎先生の発表が間近でもありますので、五胡十六国の興亡の歴史を通史的にも頭に入れようと手にとった本のひとつです。帯には「聖徳太子は実在しないに反論!」とあります。大山先生の説への批判は東アジア世界を理解することかららしいです。

あと三ア良章『五胡十六国』(東方書店、2002)もお勧めかな。でも今から読むんじゃ桃崎先生の講演には間に合わないか・・・

初歩的なことだけど、慕容氏って「歩揺」からついた名前ですか?




537. Re^2: 東アジアの動乱から日本へ さわらびY(ゆみ)  2003/02/09 (日) 23:57
加茂鹿道(隊長)さんへ

今日そういえば、八千代の郷土博で、(先日しゃこちゃんに感動して気づかなかった)「けつ状耳飾り」と「たれ飾り」をよーく見ました。
今日は人がいっぱいでカメラなんてとんでもないし、メモでもとろうと思っていましたら、企画展終了後?に図録が出るのですって。
でも、帰ってから調べたら、下記のページに載っていました。
http://www.city.yachiyo.chiba.jp/syokai/mai5.html
どうあがいても、「末は勾玉に」は程遠い?という人もいますが、縄文時代はすごーく長いから、勾玉まで進化してほしいですね。
(八千代市のHPからだと、ちょっと探しにくいので「埋やちよ」のURLは今回リンクページに入れました。)

>来週の北アジア考古学調査報告会に行こうと思っています。久しぶりの学会だ!
場所はどこどこ?東京ならぜったいオフ会ですね。

「万年小学生」にぜひお会いしたい!!




536. Re^2: 貝が分水嶺を越える? さわらびY(ゆみ)  2003/02/09 (日) 23:26
>「おきシジミ」ではなく、「ヤマトシジミ」です。
あ、そうですね。ご指摘ありがとう。(ほかにもミスがあります。川→側)

>「霞ヶ浦は塩水であった」として、さらに奥の深さも違う印旛沼は淡水だったのではとも思いますが…?
『佐倉市史研究』14号に五反目遺跡についての小口論文が載っているので、読んでみたいですね。

なお、園生貝塚研究会のHPで佐山貝塚についてhttp://members.tripod.co.jp/kaizuka/view_24.html
に次のように書かれているのも興味深いです。
>新川を挟んで南対岸にある神野貝塚とともに,古鬼怒湾印旛南岸部に展開するヤマトシジミを主体とする貝塚文化の幕を開けた貝塚。
L字状に屈曲する印旛沼角に,印旛支湾湾奥部の縄文時代後期・晩期の貝塚としては規模が大きい佐山貝塚と神野貝塚が対峙して形成されている。オキアサリなどの出土から見て,東京湾岸との交流があったものと考えられるが,新川を遡ると容易に東京湾岸にも出られる

官道・街道は別にすると「歩く」のが最短なのが、水路中心の古代〜近世の常識だとするとどう考えても東京湾岸と香取の海をつなぐ最短ルートは新川だと思っていたけど、鹿島川も最短の接点を持っているのですね。

そのほかのワイワイグッチさんの問題意識には、打てば響くような「あるけ〜さん」のように応答できず申し訳ありません。




535. イメージがついてきました みきこ  2003/02/09 (日) 22:37
加茂鹿道(隊長)様
残念でした!さっき言わなかったけど、ちゃんと覚えておいででしたよ。本当に石川先生は万年青年のように誠実なお人柄でしたね。隊長のことを貫禄のある方だとおっしゃってました。
なんとなくわかってきましたー




533. Re: 貝が分水嶺を越える? ワイワイグッチ [URL]  2003/02/09 (日) 21:22
 >半径10kmぐらいの範囲で、流通圏を形成していたのではないかということです。
 >私は、やはり新川―花見川ルートと、都川−鹿島川ルートが有力ではないかと思っています。
10kmは1日の行動範囲だとの言葉がありましたが、「歩く」のは一般的な話しで、鹿島川沿岸貝塚に「八反目台貝塚」「野呂山田貝塚」「荒立貝塚」などの鹹水貝塚があることから、鹿島川が貝を運んだ交通路であったことも考えられると、講演会後に言っていました。今後検討したいとのことです。




532. Re: 貝が分水嶺を越える?2 ワイワイグッチ [URL]  2003/02/09 (日) 21:21
 >それが、後期になると印旛沼沿い支谷の奥深い八木原貝塚のように
 >本来は淡水性の貝塚でありながら、9割もの大量の海の貝が出土する
 >大型の貝塚が特定の河川沿いに形成されていく。
八木原貝塚だけが鹹水貝塚であるのは不思議です。なぜかについては答えがありませんでした。
阿部氏は日本内陸部の縄文人は狩猟した哺乳類の血を食べることによって塩分を摂取したと「縄文のくらしを掘る」で書いています。これは、押出遺跡で出土した「クッキー」の分析でNaClが含まれることが判明したことからこのように考えていると思います。押出遺跡付近には日本では珍しい岩塩が産出しますが、岩塩が使われているまでの分析結果は出ていません。この考えから、もしかすると、八木原遺跡以外の遺跡では獲物の血で塩分摂取していると考えているのかもしれません。ここら辺を話したかったのですが、挨拶をする人などがいましたので、タイムオーバーでした。
小輩は血を食べる風習以外に塩分を摂取する方法がないか、想像しています。今日、加曽利貝塚で土コネをしていましたが、見学しにきた人に、こんなことも考えられますよと、自説を話していましたが。普通の人には「何を言っているんだか」と言われるので、あまり話しません。実験して、何処かの発掘で関連する例がないか、調査報告書をさかさまにして読んでいます。




531. Re: 貝が分水嶺を越える?1 ワイワイグッチ [URL]  2003/02/09 (日) 21:19
 >縄文中期、印旛沼が淡水化していった時期
 >東京湾側のハマグリなどの海の貝が、印旛沼に面した側の貝塚からも
 >オキシジミなどの淡水性の貝に混じって少量出土する。
阿部氏は印旛沼が縄文中期に淡水化したと言っていましたが、小輩は?マークです。サワラビさんが「T 忍性がたどった中世の風景、2.香取の海のほとりにて・水辺に住まう清凉寺式釈迦如」で使用している「千年前の利根川」の図を見ると、香取の海は1000年前まで内海だったとのことです。縄文晩期に霞ヶ浦西岸で製塩が行われたことは有名です。先生は「霞ヶ浦は塩水であった」と言っていました。とすると、香取の海は塩水であったということになります。本当のことを知りたいものです。
「おきシジミ」ではなく、「ヤマトシジミ」です。たぶん、オキアサリとヤマトシジミを混同したものと思います。
幾つかの淡水貝塚で鹹水性貝類が少量含まれるのは同時期にいっせいに鹹水性貝類を食べたのかとの小輩の質問に対して、同時期であることが証明できれば、おもしろいことが言えるのだが、現時点ではそこまで判っていないとのことでした。




530. 東アジアの動乱から日本へ みきこ  2003/02/09 (日) 20:48
Yさま
 すっかり風邪が治られたようですね。
私の周りのチョー若い人たちはインフルエンザで倒れています。なんだか年配(?)の人はかからないのかなー必死でうがいをしています。
昨日の石川先生のお話は、最初はまぶたが・・まぶたが・・という状態でしたが、途中から引き込まれていきましたね。最後は肝心なところで時間が・・でも、弥生時代を東アジア的に考えることの大切さを力説されて、そうだ!そうだ!
 そういえば、石川先生は加茂鹿道(隊長)さんのことをご存知でしたよ。
「どんなお顔の方ですか」とミーハー的に質問してしまった。
先生ー「うー、うー」  結局わからなかった・・・残念!

14日は桃崎先生のご講演会!昨年の6月に初めて先生のお話を聴いて以来、頭をがーんとなぐられたような余韻をずーとひきずっている。
一言ではいえないほど難しくて、難しくて・・でも緻密で、知りたかった東アジアの中で生きていた大王、武人達の姿が少しづつ見えてく
る・・あーでもあっちの遺跡の名前だってなんて読むのかもわからない・・




529. 貝が分水嶺を越える? さわらびY(ゆみ)  2003/02/09 (日) 18:55
今日の阿部先生の講演は、楽しみにしていたとおり、とても興味深い説がたくさん聞けました。

中でも、縄文中期、印旛沼が淡水化していった時期、東京湾側のハマグリなどの海の貝が、印旛沼に面した側の貝塚からもオキシジミなどの淡水性の貝に混じって少量出土する。
それが、後期になると印旛沼沿い支谷の奥深い八木原貝塚のように本来は淡水性の貝塚でありながら、9割もの大量の海の貝が出土する大型の貝塚が特定の河川沿いに形成されていく。

その不思議な現象(貝が分水嶺を越える?)を阿部先生は次のように推論されました。
植物性の食事を主体に海の幸を求める食文化のこだわりと嗜好を持つ縄文人が、半径10kmぐらいの範囲で、流通圏を形成していたのではないかということです。

中世の北総の文化ルートを考えるうえでも、東京湾文化と香取の海文化がどこでクロスするのか、いろいろな説がありますが、私は、やはり新川―花見川ルートと、都川−鹿島川ルートが有力ではないかと思っています。
縄文から、東京湾−香取の海の物流(貝が勝手に歩くわけがないから、人も)があったというのは、とっても納得できました。

今日は、あるけ〜さんほか東京湾川の千葉人にもお会いできましたね。
帰りに、やはり千葉市と都内からおいでいただいた方を車で送りがてら、私のお気に入りのフィールドの神野にご案内しました。
ちょうど春の耕作前の雨上がりで、貝と土器片が一面に畑の表面の浮き出ていて、感動的でした。




528. 石川先生のご講演 さわらびT  2003/02/08 (土) 23:27
石川先生のご講演、無事終了しました。2回連続レジュメ作成で苦労しましたが、今回は早めにいただいていましたので安心。中里遺跡の出現のもたらした衝撃を軸にお話しいただきました。
懇親会で、邪馬台国はどこですか、とうかがったところ、どちらかといえば近畿、「弥生時代の考古学」(学生社、1998)ではあえて「播磨」説を述べたが無視された。(^-^)
講演では大胆なお話しをされましたが、とリあえずUPした文章レジュメでご想像ください。




526. 山倉一号墳出土埴輪 さわらびT  2003/02/08 (土) 00:20
Yがおとなしいので、今のうちに好きなことを書いておこう?!

国立歴史民俗博物館には何度も行っているのですが、これまであまり関心を持たなかったので気付かなかったのかもしれません。先日の房総地域文化研究プロジェクトでの鈴木英夫先生の講演テーマの一つ、市原の山倉一号墳出土の埴輪ですが、稲荷山鉄剣(複製です)などが展示されているのと同じコーナーにあります。「複製」とは書かれていませんので原品という事ですね。ぽっかりと空洞になった袖口、うでの反り具合がいわばペンギンのように見えてユーモラスではあります。

山倉一号墳出土埴輪は5点が展示され筒袖埴輪は「冠をかぶる男子」とプレートにはかかれていました。その「冠」ですが、辰巳和弘氏の『埴輪と絵画の考古学』(白水社)の表現を借ります。「この装飾は三角錐の形状をなして頭上に被る帽ではなく、頭に鉢巻状のベルトをまわし、その正面に三角形の前立てをとりつけた形を呈している。」
わかりやすくいえば死者につける三角の白布、のイメージです。そういえばそうかな・・・

鈴木先生の朝鮮系衣服というご指摘からこの埴輪に興味を持ったところです。




524. Re: 極秘情報その後… さわらびT  2003/02/08 (土) 00:01
加茂鹿道様

> 最澄(伝教大師)が佐久に来た証拠とか煽ってほしかったのに…
> 空也が更埴を通って善光寺に来たという説もあるぐらいですから…

いつも貴重で楽しい情報ありがとうございます。
Yがカゼでダウンしてます。掲示板に書く気力がないということで、久しぶりに書きこみます。明日は石川先生のご講演があるのですが、宣伝するのにはチト遅いですネ。

平川先生のコメントはずいぶん慎重でしたね。。知人のお勧めで最近平川先生の講座に出ています。『古代地方木簡の研究』(吉川弘文館)という大著を出版されたばかりですが、まだまだ研究意欲旺盛でこれからは、古代の里と村をテーマにした研究を進められるとのこと。

木簡については、文字の解釈にとどまらず出土状況からも読み取ることは多いと考古学的観点の重要性を指摘しておられます。今、郡符木簡がテーマなので、付札木簡との違い(必ず折ったりして処分されている)
など、なるほどと思いながら聞いています。

私には興味深かった話しです。正史に残された文字史料では「磐城臣」ですが、いわき市荒田目条里遺跡出土の郡符木簡に「大領於保臣」と出てくるのは同じ人物、里に出す命令書には中央氏族名である「多氏」を名乗って威張っている姿が見える。これこそ出土史料でないとわからない実態というわけです。

今度、平川先生から極秘情報いただいたら、ご連絡します。




521. Re: 9世紀の須恵器に文字が… さわらびY(ゆみ)  2003/02/06 (木) 22:07
加茂鹿道さん
「月と仏とおらが…」の信濃からの 超極秘情報をありがとう。
しばらくは、SM新聞のHPに注意しましょう。
(Tはきっと○○先生に見てみてってメールすることでしょう)

しゃこちゃんの掲示板
http://bbs12.otd.co.jp/1203169/bbs_tree
こまきのの掲示板http://bbs5.cgiboy.com/p/85/00013/を、
行ったり来たりしながら、縄文ランドスケープ論争を楽しんでいたのですが、おとといからの風邪をこじらし、今日はもうダウンしそう。
鬼岩寺の鬼にとりつかれたのかしら。
そういえば、あのすじのいっぱいついた「鬼かき岩」って縄文ファンからみると何なんでしょう。
では今晩はもう寝ます。おやすみなさい。





519. 鬼岩寺UPへのご声援に感謝! さわらびY(ゆみ)  2003/02/05 (水) 23:00
夜中に試しにUPしたまだ未校正の「鬼岩寺」をさっそくごらんいただきありがとうございました。
桃崎先生・磯部先生・西岡先生のご研究のさわりを、一般向けに編集しただけですが、でもその最新の成果を、ほとんどリアルタイムで皆様にご披露できたことを、私もうれしく思っています。
ホームページのよさなのでしょうか、雑誌などではこうは早くお伝えできなかったでしょう。
文中、ご住職の説明の言葉にあった「先生」とは、やはり、桃崎先生だったのですね。
五輪塔台座の小さい納骨穴は、写真の正面に写っている穴かしら?

次は何をテーマにしようか思案中です。
ひとつは、下総龍角寺僧の朗海の板碑をテーマに「U-1.古代寺院竜角寺の中世」の続編を書いて、なんとか竜角寺での敗北宣言?を書き換えたいと思っています。
芝山の観音教寺で出した『観音教寺御前立本尊…平成修理記録』によれば、殿部田の西福寺には朗海の板碑のほか、心慶の銘(もしかしたら定祐も?)がかろうじて読み取れる正応5年の板碑もあったそうですね。
そして西福寺は隠居寺で、池のある小さな庭もあったとか。(鎌倉の庭遺構が気にかかります)
ただ、これを記事にするには、殿部田の西福寺に行って見なければならないし、観音教寺にしまってあるという正応5年の板碑を見せていただかないと難しいでしょうから、いずれそのうちということになりそうです。
というわけで、とりあえず、昨年かたっぱしから見にいった佐倉・八千代の印旛沼沿いの清涼寺式変形像を、ひとまずまとめてみたいと思っています。
このうち保品の東栄寺薬師堂は、清水村、常州東条庄、河内郡山来村などの大工が天明3年に建てたとの銘が発見されたので、ひょっとしたら常州東条寺あたりとの関連があるのではと、これも課題になっています。
この記事は次のPDFの6ページ目をご覧ください。
http://yatiyo-web.hp.infoseek.co.jp/kyoudo/tuusinn39.pdf
湯山先生の「香貫郷内の釈迦堂」の記事も気にかかりますね。
数回で終るはずだった忍性シリーズもなんだかエンドレスになりそう。
でも縄文や古墳の考古学と違って同好の士が少ないのが寂しいです。

では、14日の北方騎馬民族の興亡の歴史のご講演も楽しみにしております。




518. 鬼岩寺のUPお疲れ様でした 桃崎祐輔  2003/02/05 (水) 01:33
 さわらびYさま
 おひさしぶりです。
 今日はどうも1日仕事がはかどらず、2月14日のレジメも、量が増えているのになかなか重要部分に手がつかずにいます。しかしやはりレジメを作るためコピーの切り貼りしていると、改めていろんなことに気付きます。なんとかいい話ができうようがんばります。
 鬼岩寺、良く出来てましたね。拍手。五輪塔台座の小さい納骨穴はごらんいただけましたか。
 私はこの寺に初めて行ったとき、まるで律宗寺院じゃないかと思いましたが、そのカンは外れていなかったのが嬉しいです。
 さっそく研究仲間に知らせて、皆に見てもらおうと思います。

 そういえば本日、図版のコピーをしに夜図書館に行き、ついでに地方史静岡の湯山先生が書かれた霊山寺の記事をコピーしてきました。今度お会いしたときにさしあげます。
 気になる記述がありました
 「金沢文庫所蔵『十八道私記』奥書に、「寛元二年申辰(1244)二月廿九日申剋 香貫郷於尺迦堂北僧坊書写了」とある。
 つまり鎌倉中期にくつかの僧坊をともなった尺迦堂が香貫郷にあった。現在の霊山寺本尊も釈迦如来像である(ただし山号の兜率天(弥勒菩薩に由来する。)。奈良西大寺の本尊も釈迦如来像で、叡尊は自ら清涼寺式釈迦如来像を描いている。香貫郷内にあった釈迦堂は霊山寺の前身ではなかったか」
 霊山寺にも清涼寺式の釈迦如来があったかもしれませんね。
なお香貫山の北麓の天神洞古墳群の調査では、なぜかここで1180〜1200年代初め頃の軒瓦がまとまって見つかっており、すべて北条時政が造立した韮山願成就院(狩野川上流)と同笵のようです。
 霊山寺から少し離れていますが、気になる寺院跡です。

  
 




517. 八千代の郷土博物館 ワイワイグッチ [URL]  2003/02/03 (月) 22:53
昨日、八千代の郷土博物館に行きました。学芸員と1時間以上話していたと思います。主として、分析に関する話しをしましたが、変な人間と思われたでしょう。
1.鴇崎貝塚の所で、貝殻の14C測定で年代を決定したようなことが書かれていますが、貝殻のCaCO3の炭素は必ずしも当時の大気のCO2組成を反映するものではありません。確かに有吉北貝塚の貝殻の14C分析値はそれらしき値ですが、原理的に問題がある測定値から論じるのはおかしい。
2.神野貝塚などで出土したヤジリの黒曜石はどこで産出したものか、博物館は関心を持っていない。
3.ヒプシサーマル期に宮内橋辺りまで海であったと説明されているが、中里貝塚のように汀線を示す自然貝層が
ボーリング調査でわかったのかと質問した所、海底泥層の存在がボーリングでわかったとのこと。
4.遮光器土偶の胎土分析は行われていないとのこと。佐倉市所蔵なのでそこまで出来ないだろうとのこと。
出土品の所有権が地方自治体にあることに疑問を感じました。簡単な分析も出来ないところにあることは、まさに「ネコに小判」です。ぶつぶつ・・・。
5.などなど




516. シャトルの悲劇ー悲しい みきこ  2003/02/03 (月) 22:26
シャトル空中分解・・ショックです。宇宙飛行士の皆様のご冥福をお祈りいたします。
 多感で悩み多き少女時代を救ってくれたのは宇宙へのあこがれでした。ナスカの地上絵からいつのまにか日本の古代への想いに変わっていたけれど、自分の原点は宇宙への想いにあると思っている・・
遮光器土偶も宇宙人みたいと思ったから惹かれたのかな。
Y さま
白井久美子先生のお話も聴きたいですね。でもその日は都合が悪い・です。でも行きたい・・むずかしいかな。




515. 3月2日(日)千葉市遺跡発表会のお知らせ さわらびY(ゆみ)  2003/02/03 (月) 19:45
昨日、所用でいけない私に代わってTが、加曾利の企画展にいって、「山形ちゃん」のでかいポスターをもらってきてくれました。

ついでに、あるけ〜さんのHPで予告のあった3月2日(日)千葉市遺跡発表会(於・鎌取コミュニティセンター)のビラをTが持ち帰ってきたので、地図も入っていたので、さっそくあるけ〜さんにFAXしましたら、同じ日、加曾利に行ったワイワイグッチさんが(マメですね)ちゃんとキーをたたいて、あるけ〜さんの掲示板に載せてくださっていました。

(情報がすぐに集まるなんて、あるけ〜さんの人徳ですね。
私はシルクロードと髻華の会案内UPで余裕がなかったのでUPする余裕がなくてごめんなさい)

ですから、この催しはあるけ〜さんの
http://chiba.fc2web.com/event/event0303.html か
http://www.wide.gr.jp/FreeBBS/020/chibaise.html
を見てください。

みきこさん、
白井久美子先生の特別講演もあるようですよ。
私は、その日予定が入っているのですが、またまた、変更の思案中です。
(私も「コピー人形」がほしい!)




514. Re^2: 佐倉の遮光器土偶 さわらびY(ゆみ)  2003/02/03 (月) 19:40
川崎さん、ワイワイグッチさん、はにわ処さん、また、メールでご意見を下さったあるけ〜さん
ご教示ありがとう。

亀ヶ岡ブランドのしゃこちゃんは縄文晩期、けっこう広く人気があったのですね。当然コピー製品も、出回ったことでしょう。
(「しゃこちゃんのお部屋」の「にせ博」
http://www.ne.jp/asahi/asamasa/shako/replica/replica.html
今でもなんたって「しゃこちゃん」の偽ブランドが人気を博していますものね。)

岩手日報http://www.iwate-np.co.jp/isan/isan566.html
にもそのような観点で、書かれています。

縄文晩期の文化の交流を、こんなにも感動的に教えてくださる佐倉のしゃこちゃん、八千代で見ることができて、幸せでした。

(というと、イベントがかちあってしまった、加曾利南貝塚の「山形ちゃん」がひがむでしょうが…)





513. 土偶 はにわ処 [URL]  2003/02/02 (日) 17:09
へえ〜佐倉からも遮光器土偶って出るんですね
埼玉からは行田市のとなりの川里町の赤城遺跡から上半身の遮光器土偶が出ています 埋蔵センターにひっそりと飾ってあります 遮光器土偶の顔や1部は稀ですが関東からも出土するそうですね
当店に飾ってある中空土偶の頭も東北の遮光器土偶を真似して関東独自の土偶かもしれないと思っています(どっちかと言うと遮光器土偶の次の世代かな?)http://homepage2.nifty.com/haniwadokoro/pege8.htm たぶんオリジナルを東北から持って来て需要が多く供給が間に合わなかった為にこういうものが作られたかもしれませんね
同じようなものが群馬の板倉町やそれからこの前訪れた松戸の博物館にもあったかな?
そういえば松戸の博物館の女性の学芸員さんに壊れた土偶と完形の土偶について聞いたのですが壊れた土偶は主に携帯用の護符のようなもので完形は神像のようにまったく別の意味をもって作られたかもしれないと聞きました だから扱い方もまったく違うと なるほどそう言われればそういうこともありうるなと思って聞いていました
自分もどっちかと言うと小学生の頃から古墳を見ることに夢中になり縄文についてはこれからです
色々な情報教えてください
私も三十路を過ぎたばかりなので少しずつ勉強したいと思います(^−^)




512. Re: 佐倉の遮光器土偶 ワイワイグッチ [URL]  2003/02/02 (日) 00:03
 > 今、佐倉市吉見台遺跡の縄文晩期のしゃこちゃん
  (遮光器土偶)とってもチャーミングです。
 > でもどうして、佐倉にしゃこちゃんがいるのでしょう。

民俗学的アナロジで遮光帯をかけている土偶とされていますが、小輩はデフォルメではないかと思っています。
昨年まで、朝、荒屋敷貝塚でこのような目を想像してしまう高校生を見かけました。写真を撮りたいと思いましたが、写真を撮る理由を言ったら心を傷つけるのではないかと思い、止めました。
同様なことを京葉線や総武線で経験しました。

きっと、縄文晩期に、佐倉に似た顔をしている人がいたから、遮光器土偶を移入することができたと思います。
きっと、目の大きい美人が青森にたくさんいたんだと個人的に想像しています。

ついでに。 学芸員に、佐倉で出土した遮光器土器の胎土はどこの土かと聞かれたらいいですよ。蛍光X線分析(or EDX)で分析が簡単に出来ます。文脈から明治大学の所蔵品と想像します。大学だったら分析はすぐ出来るはずです。




510. Re: 阿部助教授著「縄文のくらしを掘る」 ワイワイグッチ [URL]  2003/02/01 (土) 23:07
昨日、出張帰りの「のぞみ」の中で「縄文のくらしを掘る」を読みました。小輩が最も関心があったのは、土器づくりに関する記述です。加曽利貝塚土器づくり同好会との共同研究の内容を書いたのがこの本ですね。その一部が2001年8月にNHKで放送された「日本人遥かな旅−Part 1」で紹介されました。一昨年、縄文土器製造方法に関する本を阿部助教授が出版する予定との話しを同好会の人から聞いていました。
小輩はクェッションマークがたくさん出てくるので、同好会の人か、2/9にこの本の内容を話されるのなら、聞いてみたいと思います。

本日、左手は筋肉痛。右手首は関節痛です。粘土練りのためです。菊練りをしているのに、菊の花が咲きません。




508. 佐倉のしゃこちゃん さわらびY(ゆみ)  2003/02/01 (土) 19:57
今、佐倉市吉見台遺跡の縄文晩期のしゃこちゃん(遮光土偶)が八千代市郷土博物館で大きな顔?をしています。
この辺でよく出る宇宙人みたいな頭のうすべったくてかわゆくない山形土偶(東北の山形じゃないよ)に比べて、顔だけしきゃないけど、とってもチャーミングです。

吉見台は佐原真先生のおうちの近くです。
でもどうして、佐倉にしゃこちゃんがいるのでしょう。
だれか教えてください。




507. はにわ人気投票 はにわ処 [URL]  2003/01/31 (金) 10:31
ゆみさんこんにちは
はにわ人気投票にご参加頂き有難うございます(^−^)
こちらはまじめな考古学のお話に入れていただこうと思っていましたがおちゃらけた企画にも楽しんで頂けたようで嬉しいです
次回は土偶の人気投票をしたいですね
勿論レプリカで(^−^)
それではまた遊びに来ます〜




506. Re: 五輪塔って心ひかれる さわらびY(ゆみ)  2003/01/29 (水) 23:30
金沢文庫&称名寺にいらしたのですね。
黒田論文を読むには、「称名寺絵図」が特大で印刷された何年か前の企画展ポスター必需品、これは文庫の売店で200円で売っています。

「覚賢一周忌諷誦文」、そういえば、覚賢塔に桃崎先生とご一緒したのはこの掲示板303の10/15でしたね。
それに関連して桃崎先生が340で「研究は奥が深いです。」でこの「覚賢一周忌諷誦文」をご紹介してくださったのを、なつかしく読み直しています。
この340の書き込みで知って訪れた藤枝市鬼岩寺、さて忍性シリーズの続きで書こうかと思って、資料がほとんどないのを嘆いていましたら、1月23日桃崎先生からのメールで藤枝市郷土博物館の磯部武男氏が書かれた論文を紹介いただき、早速、資料館から取り寄せました。
桃崎先生がメールされたのは、岡安氏のサイト「考古学情報ひろば」でプロ同士の激しい議論が続いていたころ。
きっと徹夜続きの中ご教示いただいたのですから、なんとかそのご厚意に答えて作品に仕上げねばと思っています。(桃崎先生、ありがとうございました)

みきこさん、称名寺って、裏山の散策も五輪塔もなかなかいいでしょ。ここは交通費がかかっても、やみつきになります。
ではまた。

(書き込みが重複してますね。そちらで削除できなければ、管理人パスで消しておきますが…)




505. 吉村先生がテレビに登場 さわらびT  2003/01/29 (水) 23:01
明治大学の吉村武彦先生からご連絡いただきました。

2月1日(土)の午前10時半〜11時25分のNTV系の特番「聖徳太子」に登場されるそうです。ご関心のある方は、是非ごらんください。

番組表には、『飛鳥発!美ロマン紀行 聖徳太子からの伝言』<出演者> ナビゲーター:草野仁 立松和平 ナレーター:桜井幸子

となっていました。




504. 阿部芳郎先生の新刊「縄文のくらしを掘る」 さわらびY(ゆみ)  2003/01/29 (水) 22:40
北風が寒いですね。
考古学探検隊長の信州も、しゃこさんの東北も今夜は吹雪ですか。

友人から年賀メールで勧められた阿部芳郎先生の本を読み始めました。年末に発刊された岩波ジュニア新書「縄文のくらしを掘る」です。
3年前、阿部先生が学生さんと発掘していた遠部台遺跡を見に行きました。ぎっしりと土器が積もった「土器塚」が印象的でした。
遠部台遺跡のほか、我が家と母の住んでいる街に近いエリアがこの本のフィールドなのも、興味深いのですが、それ以上に、今までの「縄文」の常識を覆す新しい視点が面白く、今朝、通勤電車の中で読んでいて、乗り過ごすところでした。

2月9日に八千代市立郷土博物館で阿部先生のお話が聞けるとのこと、また企画展では佐倉の吉見台遺跡から出た顔だけの「しゃこちゃん」に会えます。
Web友のあるけ〜さんやワイワイグッチさんにもお会いできるかしら。
全部読み終わったら、また、感想を書きます。(とにかく早く読みたい!)ではまた。




502. 五輪塔って心ひかれる みきこ  2003/01/29 (水) 22:32
Y様
白井先生の論文あったら今度もっていきます。今「片付けられない女」状態になっているので・・日曜日には企画展「称名寺の石塔」の最終日に行ってきました。感動しました!冬空にひっそりと並ぶ五輪塔・・うーんなんとも言えない気持ちになりました。
「覚賢一周忌諷誦文」もありましたね。展示解説も聴けたのでよかったー。称名寺絵図の謎の話も聴けてよかった。「金澤文庫研究」308号の黒田日出男さんの「称名寺絵図のアポリアと解決」を帰りの電車の中で読んできたのですが、なかなか面白かったです。(以前鎌倉国宝館で見た絵図がずーと心にひっかかっていたので)
 スキーで半月板を損傷して以来、自信がなかった足も大丈夫だとわかってうれしい!(貴乃花の気持ちがよくわかる)
 海を眺めながら色々わいてくる疑問をこれから探していこうと思いました。