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No.401-No.500 2002/12/232003/1/26
Since 2001.10.08
・オーバーフローで消えてしまった発言を収納しました。
・書き込み、修正、削除はできません。修正・削除は、管理人にお申し付けください。
・他への引用は、著作権などの配慮から、発言者へ連絡をお願いします。
No.1-No.100 No.101〜200 No.201-300 No.301〜400 No.401-500 No.501-600 No.601-700
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500. 考古学研究会第2回東京例会「東・北日本の弥生文化」 さわらびT  2003/01/26 (日) 23:29
考古学研究会第2回東京例会「東・北日本の弥生文化」(1月26日:会場は東京都立大学)に行ってきました。
石川日出志先生(明治大学)の趣旨説明の一部を引用します。
「関東地方では、埼玉県池上・小敷田遺跡、神奈川県中里遺跡、千葉県常代遺跡などが示すように中期中頃に突如本格的稲作農耕社会が定着する。中里・常代両遺跡の東部瀬戸内系土器は、この激変を考えるに重要な示唆を与えるが、東北方面と関係する資料も認められる。前期に類遠賀川系土器が定着した東北地方仙台平野でも、中期中頃には灌漑水田(高田B遺跡)が確認できる。そしてこの段階に仙台平野の桝形式土器が福島から関東方面にまで強い影響を与えて型式構造の変動をもたらす。東北北部では、前期に類遠賀川系土器が定着し、水田跡も確認され、続く中期前半には東北北部と北海道渡島半島とが連動するなかで北海道に続縄文恵山文化が成立する。そして恵山式土器特有の把手鉢が東北地方南部の龍門寺式に採用されたり、関東の銛漁などにも北から南への技術波及が考えられる。弥生中期へ移行期にはこのように東日本各地が広域にわたって連鎖しながら地域独自の変貌を遂げているようであり、その実態を読み解く試みとしたい。」
これまで、西日本からの影響と定着に主眼がおかれてきた東日本の弥生文化に対するとらえ方からの脱皮を目指す試みだと理解しました。
歴博の設楽先生や東博の安藤先生など、会場から意欲的に発言されておられました。愛媛大学の村上先生にも出会ってびっくりでした。「刺激を受けようとやってきました」とのこと、このエネルギーがすごいですね。
石川先生は、「弥生」という言葉を脇において考えよう、などともおっしゃっておられました。髻華の会でもご講演いただくことになっていますので楽しみです。

発表者は次の方々でした。
発表1:「南関東弥生文化の成立ー発展と周辺との関わり−」大島慎一氏(小田原市教育委員会)
スライド:「千葉県多古町志摩城跡遺跡の弥生中期再葬墓」荒井世志紀氏(香取郡市文化センター)
発表2:「東北弥生文化の南への影響」石川日出志氏(明治大学)
発表3:「続縄文恵山文化と東北弥生文化」高瀬克範氏(東京都立大学)




498. 萩原先生とオビシャ さわらびY(ゆみ)  2003/01/26 (日) 21:18
早速の開店祝い?の考古学探検隊日記「ヒスイおじさん的ヒスイの見分け方大公開!」面白かったです。
すべりだし順調ですね。

> そういえば、萩原秀三郎さんという方の「神樹」(小学館)という本ご存知ですか?御柱をはじめ、東アジアの巨木、柱の文化を研究されている本です。オビシャのことも出てきます。

またまたテレパシーというか、女の勘?というか、494の書込みに続けて、オビシャと御柱祭りについてもお話をしたいなと思っていたところでした。
実は494の民俗研究者の萩原法子先生と、民俗写真家の萩原秀三郎先生は、ご夫婦でいらっしゃいます。
『稲と鳥と太陽の道』 萩原秀三郎 大修館書店 (1996)
『熊野の太陽信仰と三本足の烏』萩原法子 戎光祥出版(1999)
『神樹 東アジアの柱立て』 萩原秀三郎 小学館(2001)
この3冊の本は、秀三郎先生がアジアに、法子先生が常総や熊野に取材しつつ、東アジアの民族に共通したテーマ「太陽の道(=柱)」と「太陽再生の祭り」を書いていらっしゃいます。

まだまだ、オビシャは「武士の流鏑馬に対する歩射」という通説(柳田説)がご当地でもハバを利かせていますが、萩原法子先生は「太陽を意味する三本足の烏の的を必ず射当てること」に注目し、中国の「十日神話」から、「無秩序に昇る多数の太陽を整え天体の運行を順調にする古俗に由来すること」を説き、この説は1991年の日本民俗学会で発表以来反響を呼び、1999年発刊の『日本民俗大辞典』でも採用されています。
わがムラの行事が、常総につながり、信濃・熊野・出雲につながり、そして中国の山奥に通じているなんて、萩原両先生の本はすばらしく広い視野を教えてくださいます。
秀三郎先生の写真もいいですね。ではまた。




496. やっと一部のせました しゃこ [URL]  2003/01/26 (日) 17:17
いただいたレプリカをにせはくにのせましたので
ご報告いたします。
並べてみて驚いたのですが、歴博のレプリカは
やっぱしよくできてますね。
お名前の先頭の「さ」の字を入れるべきかどうか悩んだ末
いれてしまいました。指示事項等あればお手数ですが
御連絡ください。
あとリンクにも加えていただきありがとうございました。
こちらからもそのうちリンクはりますね。
ではまた。




495. リンクページをリニューアルしました さわらびY(ゆみ)  2003/01/26 (日) 16:36
「さわらび通信」も1年半たちおかげさまで、Web友・メル友・BBS友がたくさん増えました。
特にWebマスターの皆様には、相互リンクのお申し出でいただきながら、当方からは関連ページ上の臨時的なリンクでの対応が続き、申し訳ありませんでした。
このたび、リンクページを一新しましたので、ごらんになってコメントなど不都合・ご不満があれば、メールでご一報ください。

このたびのリニューアルの華は、掲示板でおなじみになった川崎隊長・姫河童副隊長の「信州考古学探検隊」のデビューでしょう。(皆さんでお祝いのメッセージを入れましょう)

残念で、悲しいのは、「THE印旛村」のクローズです。
いつでも見られると思って、一部しかバックアップをとっていなかったのも、痛恨の至りです。(HPは永久不滅ではない!ということですね。「CDに焼いておけばよかった」といっては、いつもTに何度後悔すればわかるのかと小言を言われています。)

「情報の宝箱」は、オーナーの利便本意ですが、もし、これはお勧めというサイトがありましたら、お知らせください。




494. Re: 霞ヶ浦を取り囲む謎 さわらびY(ゆみ)  2003/01/26 (日) 16:08
みきこさま

>  以前初めて石枕の立花を見たときびっくりしました。勾玉の隣り合わせのような形で!なぜ「立花」と命名したのだろうと思いましたね。白井先生の論文を読んで感動したことを思い出します。石枕は九州、四国、近畿でもありますが、立花があるのは常総地域だけなのですものね。

房総風土記の丘資料館の1979年企画展で、2階展示室にずらりとこの石枕が並べられていた光景は不気味でとても印象深く思いましたが、そのときは立花が何であるかピンときませんでした。白井久美子先生の「石製立花と石枕の出現」(『古代探叢』V)はまだ読んでいません。そこに「立花=勾玉の葬送儀礼?か」という謎の答えがあるのか、しばし先の楽しみにしたいと思っています。(もし持っていたら見せてください)

> 身近な所を探っていくうちにやはり日本列島全体、大陸へと続いていってしまうというのはそういう世界だったということなのでしょうね。
> 追いかけるものがたくさんありすぎますね!やはり鍵は霞ヶ浦だとおもいますが・・(わからないけど)

わが町のきわめてローカルな民俗行事のオビシャやアンバサマ信仰、あるいは中世の清涼寺式釈迦如来像を追っかけて、「香取の海」(古霞ヶ浦&古利根川水系)の広い世界を漂流する毎日です。(漂流しているうちに、桃崎先生に遭遇したわけですが…)

清涼寺式釈迦如来像もそのルーツがシルクロードの先のインドやアフガンに飛んでしまうし、オビシャは中国の射日神話の世界につながって、本当に「追いかけるもの」が広くそしてたくさんありすぎます。

ところで、3月14日のシルクロードの会は、「八千代市のオビシャ」
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/suwaobisya/obisya1.htm
で紹介させていただいた民俗学者の萩原法子先生のお話をお願いしました。
直接。立花の謎とはつながらないでしょうが、やはり地域的には同じ常総のエリアですので、興味深いと思います。




493. 間違えていた みきこ  2003/01/25 (土) 13:38
ごめんなさい。竜ヶ崎市の八代遺跡と間違えていた!八千代の郷土博物館で見た石枕と立花が印象に残りすぎていました。




492. 霞ヶ浦を取り囲む謎 みきこ  2003/01/25 (土) 09:15
Yさま
 以前初めて石枕の立花を見たときびっくりしました。勾玉の隣り合わせのような形で!なぜ「立花」と命名したのだろうと思いましたね。白井先生の論文を読んで感動したことを思い出します。石枕は九州、四国、近畿でもありますが、立花があるのは常総地域だけなのですものね。Y様のお住みの八千代には玉作り遺跡もあり、霞ヶ浦を取り囲む地域独特のものというのは縄文時代以来の伝統なのか、そうではない新たな流れの中で出てきたものなのか興味深いですね。たぶん香取、鹿島の神の前?・・の祭祀信仰との結びつきなのでしょうか。
身近な所を探っていくうちにやはり日本列島全体、大陸へと続いていってしまうというのはそういう世界だったということなのでしょうね。
追いかけるものがたくさんありすぎますね!やはり鍵は霞ヶ浦だとおもいますが・・(わからないけど)





489. ヒスイ勾玉の流通 みきこ  2003/01/23 (木) 21:11
かわさき様
 色々教えていただいてありがとうございます。私が勾玉に興味を持ったのはやはり新羅の皇南大塚古墳や金冠塚古墳などの王陵クラスの王冠にたくさん付いているヒスイの勾玉を見たときからです。一級品からそうでないヒスイ勾玉までを集めたような感じと何かの本で読んだ記憶があるのですが・・なぜ日本の三種の神器の一つをこれほどまでに集めなくてはならなかったのかと素朴な疑問を持ったのです。日本の古墳時代前期の首長クラスの古墳に多くみられたヒスイ勾玉が少なくなった頃、逆に朝鮮半島で多く見られるとか聞いたことがあります・・・新羅側が日本の祭祀のシンボル・勾玉を集めたかったということは、日本の側の方が優位な立場だったから、欲しがったのかな・・なんて単純に思ってシルクロードの会の後、桃崎先生におたずねしたところ、「それは違うでしょう」とか教えていただいたけど・・理由を聞きそこねてしまった・・・。
それで、西谷先生の「朝鮮先史時代の勾玉」を読んだり、日本のヒスイ勾玉の最古はどこで生まれたのだろう・・なんて考えていたのです。
でも三種の神器と決めた方が後だったのですね。
長野・天王垣外遺跡(弥生中期)で勾玉66個?出土していると聞きましたが、どういう遺跡なのかご存知なら教えてください。




488. Re^2: 勾玉ってむずかしい さわらびY(ゆみ)  2003/01/22 (水) 23:59
> 朝鮮半島でも天河石の勾玉状のものがあります。

見ました。あのワールドカップ開催記念「韓国の名宝」展の、勾玉のいっぱい付いた金冠のポスター。あの金冠は5世紀のようですが、それが載っている部厚い図録に、前3世紀の円環を半分に断ち割ったような天河石ペンダント=「勾玉」と書いてありました。
ふーん、これでも勾玉?と思いつつ見入ってしまいました。

汎アジアの視点が縄文でもやはり不可欠と思います。
ロシアの文献と取り組まれている姫河童さんに期待します。

私は、せこいローカルな視点で、いまだ常総の古墳の石枕についている立花の呪縛から解放されていません。
千葉県史研究第9号の白井久美子氏の「石枕」の論文を見ながら、日曜日展示会で実感した「立花=勾玉の葬送儀礼」のヒントを探したのですが、よくわかりませんでした。

勾玉終末期になると、勾玉も葬送儀礼に使われたり、朝鮮との交易の外貨代わりにされたり、ただの装身具や、仏舎利代わりにされたり、いろいろなのでしょう。

でもやはり勾玉のルーツの方ももっと興味深く、川崎さんとの交信で、いろいろ学べうれしく思います。





486. Re: 親指のマリア さわらびY(ゆみ)  2003/01/21 (火) 22:28
> 上野の国立博物館から届いたお知らせです。
> 「親指のマリア」が展示されるそうです!!
> 「キリシタン―信仰とその証」1月21日〜3月16日 本館第14室

お知らせありがとうございます。
そういえば、今日が初日でしたね。
3月1日には友の会講演会で五野井隆先生のお話があるので、その前に見ておきたいと思っていました。

「親指のマリア」のほか、マリア観音として伝えられた明・清代の白磁観音菩薩像があるのですね。
江戸時代に流行した子安観音との関係も気になる点です。

貴兄のフェルメールのページなど、美術をやっている従姉(リンク欄参照)も、楽しみで見ているとのこと。いろいろなジャンルの方からのアクセスを、とてもうれしく思っています。




484. 親指のマリア Tak [URL]  2003/01/21 (火) 21:38
ご無沙汰しております。Takです。
上野の国立博物館から届いたお知らせです。
「親指のマリア」が展示されるそうです!!
この機会に是非この目で観てきたいと思います。

★☆特集陳列のお知らせ☆★
■歴史資料■
「キリシタン―信仰とその証」1月21日〜3月16日 本館第14室
“親指のマリア”として知られる「聖母像」をはじめ、踏絵、ロザリオ、十字架などで日本におけるキリスト教の歴史をたどります。
聖母像(親指のマリア)1面 17c 長崎奉行所旧蔵品(宗門蔵保管)
白磁観音菩薩像(マリア観音)4体 明〜清・17c
天正遣欧使節記 1冊 1585年(以上、すべて重文)
その他板踏絵、真鍮踏絵 十字架、ロザリオ など




483. Re^2: 千葉県遺跡調査研究発表会の勾玉 さわらびY(ゆみ)  2003/01/20 (月) 23:32
かわさきさま

>まず墨古沢南T遺跡の年代が知りたいところです。

発表要旨では中期後半(加曾利E式後半)らしいです。

>牙製勾玉→ケツ状耳飾転用勾玉→後・晩期勾玉という変遷

なるほど、魔除けの牙のペンダントは原始時代どの民族にもありそう。
それが日本固有の勾玉に変化する途上に、ケツ状耳飾のリサイクル説が挿入されるとすると、なんとなく系譜が見えてきます。

かわさきさんの教えてくださったキーワードがなるべく即物的にわかるサイトを、ネットで探してみました。

http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2001/1111/nto1111_9.html
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-24.html
http://www2.jyose.pref.okayama.jp/cec/maruyama_iseki/17_ibutu_sousyoku/pendanto/idx0325170617.htm
http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/a/003.html

>河姆渡にもたしか勾玉みたいな垂飾があります。

いろいろな形の垂飾(石のペンダント)がある中で、たぶん勾玉に似たのもあるでしょうね。でも、「他人の空似」の場合も…。
そういう意味では、volnteの写真のように外来のケツ状耳飾からの再生品説のほうが、納得しやすいです。
どちらにしても、縄文文化の交流のエリアって考えたこともないくらい大きいことを認識させられました。
ありがとうございます。




482. 勾玉ってむずかしい みきこ  2003/01/20 (月) 22:13
かわさき 様
勾玉ってむずかしいですね。三種の神器となっている勾玉のルーツがどうにも気になっていたのです。けつ状耳飾が半分に欠けてそれがヒントになったのか、牙のイメージから発展したのか、日本独特のものなのかと思っていたのですが、外来の可能性とはびっくりしました。
朝鮮半島でも天河石の勾玉状のものがありますが、日本のほうが古いのではと思っていたです。遺跡の名を忘れたのですが、栃木の縄文前期?の遺跡から勾玉系の形の石製品が出ていたような気がしてたので・・




479. Re: 千葉県遺跡調査研究発表会 ワイワイグッチ  2003/01/20 (月) 00:20
>私も11時半ごろ展示会場に行って、〜 自己紹介できず残念でした。

小輩は11:40頃会場を出て、四街道の材木屋さんに行って、陶器づくりの道具を作るためのケヤキの半端板を探していました。等覚寺に行ってムクロジの種も拾って、延命寺に行って住職さんと千葉市の真言宗の寺の関係を話して・・・。小雨に濡れながら自転車で走り回っていました。11:30頃、ツインビルの入口付近に止めてあった角付の自転車は小輩のです。

>工学系?

サイエンティフィックに縄文時代を考えようというのが小輩のスタンスです。土器の型式を(敢えて)縄文時代のタイムスケールに使用していないのはそのためで、考古学を勉強して来た人にはシロウトと思われていると思います。

>(「ポテンシャルエネルギー」ってなに?)

「位置のエネルギー」です。「運動エネルギーと位置エネルギーの総和は一定である」というエネルギー保存の法則を高校で習ったと思います。ディスパージョンを掘削箇所に送るためには圧力が必要です。そのために、息を吹き込むことが考えられますが、管を長くしてヘッド圧=ポテンシャルを高める方法も考えられます。細い竹管を長くすると、圧損のため機能しません。上の方は太い管にする必要があります。そうすると、回転するのに力がいります。太い管は固定し、細い部分だけを回転できるようにすることを考えてしまいます。縄文時代でメカニカルシールを作るには、どのような設計をしたか、そんなことを考えています。普通の人は「そんなことできるわけがない」とバカにするでしょうが・・・。

>話題ついでに画像を送って下されば、ここにUPします。

請西古墳群の硬玉ヒスイは手にとって調べることにとらわれて、いい写真を撮っていません。湖西窯と古瀬戸はいつか参考にして焼き物を作ろうと思っているのでしっかり撮りました。

>石枕、立花

立花は石枕の外側にある穴に立てて、頭を固定するものなので、小輩はこの2つを見ないようにしています。 パチパチ。




478. 千葉県遺跡調査研究発表会の勾玉 さわらびY(ゆみ)  2003/01/19 (日) 22:32
> 本日、千葉県遺跡調査研究発表会に行きました。
私も11時半ごろ展示会場に行って、午後は夢見心地?で、最後までホールで発表を聞いていました。

あるけ〜さんにお声をかけていただきましたが、ワイワイグッチさんはお顔を知らなかったので、自己紹介できず残念でした。
「掘ってみなきゃ、何が出るかわからなかった」という室町から近世末までいろんな出土品が井戸から出た八日市場市福岡遺跡のコーナーで、初歩的な質問を説明員のお兄さんたちに連発していたおばさんが私です。

> 木更津・請西(じょうさい)古墳群で出土した硬玉ヒスイを展示していました。

見ました、見ました。
工学系?の貴兄とちがって技術的なことはわかりませんが、小さい穴でしたね。
(「ポテンシャルエネルギー」ってなに?)

行かなかった方には、何のことやらでしょうから、勾玉についての画像のページをUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/doguu/magatama.htm
話題ついでに画像を送って下されば、ここにUPします。

勾玉について今日、私の感じたこと。
@請西遺跡大山台古墳群の勾玉…メノウが多かったですね。ヒスイって貴重なのでしょうか。
A墨古沢南T遺跡の垂飾…フリースタイルの縄文勾玉? 半円形で目だまのように穴が大きい。
 逆C型の典型的勾玉になる前の姿でしょうか。とても気にかかりました。
B北の内古墳の勾玉と石枕…鏡の右にポツンとあった勾玉と石枕についている立花と形(大きさと厚みなど)がとても似ていて、「勾玉=立花」と一人で納得しましたが、これって常識?
C君津市鹿島台遺跡…請西遺跡は、プラケースを取ってもらって(私も触ればよかった)撮影しましたが、こちらは急いでいたのでそのまま撮り1枚はハレーション、これはケースの縁がじゃましてしまいました。メノウと白っぽいヒスイ、なかなか立派ですね。

かわさきさん、Aの垂飾の形は一般的に多いのでしょうか。




476. 請西古墳群の硬玉ヒスイ勾玉 ワイワイグッチ  2003/01/19 (日) 18:42
本日、千葉県遺跡調査研究発表会に行きました。と言っても、聞いた講演は縄文時代だけ。 講演者と話したり、展示コーナーでブース説明者や県埋蔵文化財センターの人と話していましたが。
木更津・請西(じょうさい)古墳群で出土した硬玉ヒスイを展示していました。手で持ってもいいと言うので、手にして観察することができました。小輩の関心は穴です。穴あけ開始部分(入口)は面取りのような傾斜があります。穴の出口は面取のような構造はありません。鋭角です。ヒスイに開けられた穴は円錐台です。口径が出口より入口の方が大きい構造です。このような穴の構造を見ると、穴を開ける際に、細い竹管で石英質の砂を送るとしても、砂のディスパージョンをほっぺたを膨らませて圧力をかけて送っていたのかと想像してしまいます。小輩だったらポテンシャルエネルギーを利用したいところです。
市原市のパンフレットに「チョッと気になる木の道具!?」と書いてあったので、ふと、縄文土器作る時の道具を考えてしまいました。復元縄文土器作成時で、磨きをハマグリを道具とすることにこだわる博物館がありますが、硬い木の道具でもいいのではないか、成形の最終段階で土器を台から離す時に、糸を使ってもいいのではないか。焼き物の底部の観察から、糸で切り離す方法は古墳時代のものから行われたとのこと。「縄文時代にはカリンバ3遺跡の布痕から絹のように細い糸が使われていたのに、縄文人は気がつかないこともあるんでしょうかね」などと説明人に冗談を言いました。
請西古墳群で出土した湖西窯(浜松)の灰釉や、市原・稲荷台遺跡で出土した18世紀の瀬戸焼きは、現在製造されている陶器より、すばらしい焼きでした。




475. 本年も宜しく!! mwara [URL]  2003/01/19 (日) 17:59
わらびゆみ様
昨年は色々とお世話になり誠に有難うございました。
本年も宜しくお引き立てお願い申し上げます。
貴ページ千葉市長作諏訪神社のあるところは、妹が嫁いで
おります。るの字が烏に似ていると言われればそのようにも
思えますね。所によっては色々な仕方があり参考になります。
先崎の1月12日の御彌射には4人ほど研究会のメンバーが見えました。2月18日に行われるのは祈年祭と言われる儀式です。
平成14年度の最終行事になります。
ところで、光にして変化したところは、動画がテレビ並に見れることでしょうか。最大で40Mが出ましたが、通常は16Mとか20M前後です。それにしても待ち時間は全くありません。
時間があればじっくり撮影に没頭したいと思います。
今、花を撮影していますが奥深く迷っています。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~W730688M/index.htm





474. 西大寺に行ってきました みきこ  2003/01/19 (日) 09:31
Y様
鎌倉末期の庭園遺構の説明会すぐ行かれたのですね。Y様のおかげですぐ貴重な報告、臨場感あふれる画像を楽しむことができます。感謝!です。
 そういえば、1週間前急に思い立って奈良へ。西大寺に行ってきました。人がいなくて、なんともいえない雰囲気が漂う中・・釈迦如来立像をみたとたんなんだかうるうる・・でした。五輪塔も大きくて感動!感動!よかった・・・です。
真冬の飛鳥路も人がいなくていいですね。みんなでまわる古墳めぐりも好きだけど、一人で古代人と対話を楽しむのも大好き。
相変わらず人には言えないハプニングの続出で、ヒヤヒヤの2日間でした。




473. 鎌倉時代の庭園遺構・現説ルポ さわらびY(ゆみ)  2003/01/19 (日) 01:20
急遽、行ってしまった鎌倉の扇ガ谷無量寺跡庭園遺構の現地説明会。やはり感動でした!
ついでにこの庭園がお手本になった?という瑞泉寺にハシゴしてまたまた感動!
早速写真入でトピックスにUPしましたので、鮮度のよいうちにご覧ください。
鎌倉時代の石塔についてお教えいただいている金沢文庫の斉藤先生にも会場でお会いできて、うれしかったです。





472. 考えさせられました さわらびT  2003/01/19 (日) 00:23
17日の「シルクロードの会」の講演はかなり刺激的でした。何しろ具体的な遺跡のお話がなかってのですから、受け取り方はさまざまではないでしょうか。一言で伝えにくいですね。前期中期新石器遺跡捏造事件とアメリカの同時多発テロが考えるきっかけであったとする黒沢先生です。歴史を必要とするのはわわれ自身がアイデンティティー(帰属意識)を求めているからだ。かって理想社会を求めて歴史をたどったのはソ連の崩壊でまちがいだったことが証明された。一方で「新しい歴史を作る会」のように検定意見を受け入れるように内容のこだわらないプロパガンダを目的に歴史をグループもある・・・書ききれないのでやめまうがウームと考えされられました。ナショナリズムに捕らえられすぎていることへの見なおしというか・・・同業の考古学者にはこんな話を聞いてもらえないとのこと。たくさん文献も紹介してくださいました。

今日(18日)は東博に行ってきました。東博は会員になると企画展は1回入場できるのです。日蓮展、混み合っていましたけれど、やっぱり考古に行ってしまいます。土偶も見てきましたが、私はあえて違う話題を・・・
先日の東京成徳大学での鈴木英夫先生の話しにあった埼玉県行田市酒巻14号墳出土の旗をたてた馬埴輪に興味があり「蛇行状鉄器 (奈良県田原本町矢部出土)」見てきました。東洋館三階には慶尚南道梁山市北亭洞夫婦塚出土「寄生」という展示品がありこれも舵行状鉄器のことです。解説に「なぜか寄生だけほかの馬具から離れた位置に副葬されていた。」とありました。「寄生」は『南斉書』に見られる名称とも書いてありました。鈴木先生のお話は酒巻14号古墳の筒袖埴輪の関連で朝鮮半島関連遺物として埴輪に表現された蛇行状鉄器のことだったんですが・・・

かわさき様、いつもご返事いただきありがとうございます。
ハングル石塔をめぐる朝鮮半島との交流史のことは聞きかじりなのであらためて勉強してみます。




471. 勾玉のルーツ みきこ  2003/01/18 (土) 22:01
かわさき様
縄文時代ではヒスイは大珠によく見られるけれど、いつの時代になって勾玉に使用されるようになったのですか?縄文晩期ですか・・勾玉のルーツを知りたくて、ヒスイ海岸の帰り、長者ケ原遺跡に行ったみました。けつ状耳飾のかけら?(よく覚えていないけど)はあったような・・ヒスイの加工品もあったけど、勾玉はなかったと思う。長者ケ原遺跡からは日本海がすぐ前に見えて、うーんどんな舟で運ばれていったのだろう?なんて考えてしまいました。
けつ状耳飾のルーツはやはり河姆渡遺跡にあるのでしょうか。






470. 鎌倉時代の遺構の話題二つ さわらびY(ゆみ)  2003/01/18 (土) 00:51
18日は、八千代市博の講座に行く予定でしたが、急遽鎌倉の扇ガ谷無量寺跡庭園遺構の現地説明会に行きたいと思っています。
http://www.kanagawa-np.co.jp/news/nw03011554.html
やはり13-14世紀遺構の魅力には勝てそうにありません。
(八千代歴研の方、ごめんなさい)

もうひとつ、城跡好きのWeb友のHP
 http://bbs2.on.kidd.jp/?0200/yogokunの掲示板に遊びに行って、茨城県三村山に後ろの宝篋山の登り方を模索しているうち、
次のページで、県指定文化財の宝篋印塔の露盤と相輪がずれているらしいと知りました。
http://www.asahi-net.or.jp/~DG8H-NSYM/hokyozan.html
http://www.asahi-net.or.jp/~DG8H-NSYM/image/hokyo13.jpg

桃崎先生、しかるべき管理者にお知らせしたほうがよろしいのではないかしら。





469. Re: ヒスイのすばらしさ さわらびY(ゆみ)  2003/01/17 (金) 21:22
ワイワイグッチさん、はにわ処さん、ありがとう。
「ヒスイの小箱」http://www6.ocn.ne.jp/%7Eisihisui/
「奴奈川の玉匠」http://www7.ocn.ne.jp/%7Ejadeite/?
を拝見しました。
玉(タマ)は、石を探すのみも、磨くのも、(ワイワイグッチさんが言われるように)穴を開けるのも、とてもたいへんで得がたいものであることがわかりました。
それだけに、玉は霊がこもっている石であり、その魔力ゆえに尊ばれ大事にされたのであり、単なる装身具ではなかったことを実感いたしました。
古墳時代の終わりとともに、仏教にその霊力を譲って、勾玉もヒスイの川や海も忘れ去られたのだろうと、昨日の「女心説」を修正します。
それにしても、勾玉には魂が宿っているらしいので、安易にほしいなどいっちゃいけなかったですね。
こわいほどの魔力に、わたしなんか負けちゃいそう。
せめて滑石で、まずは携帯ストラップでも手作りしてみようかな。それが分相応かもしれませんね。




467. こんにちは はにわ処 [URL]  2003/01/17 (金) 11:52
さわらび様
ヒスイのペンダント福岡市周船寺出土のものですが勾玉は既製品以外の特注品は扱っていないのですよ ヒスイの勾玉を製作する方はたくさんいますが皆さん趣味性が強く販売まで考えていないようです まして国産のヒスイは貴重品の為当店のものも外国産に頼っています 金額も何倍も高価になりますからね 手軽に楽しめる方が良いかと思っています 古墳時代も国産では糸魚川ですが外国産の軟玉〈ネフライト、ミャンマー産〉が代用としてかなり輸入されたようでから〈勾玉博物館にもネフライトの勾玉は結構あります)

ヒスイ製品はは古墳時代には技術も進み何日かで出来るようになったそうですが縄文時代は先祖代々にわたり少し形を表したものもあるそうですから古代から日本人を引きつけるだけの魅力があったのかもしれませんよね

私のHPで相互リンクして頂いているヒスイの小箱さんや奴奈川の玉匠さんのHPを覗くとヒスイのこと、ヒスイの勾玉の事がより詳しく分かると思いますよ
自分もヒスイを探しに行きたいですがなかなか見つからないようですね 素人が緑色の石を拾ってくるとほとんどがヒスイではないそうですから〈ヒスイも色々な色があることを最近知りましたから〈笑い〉)

私もまだまだ勉強中なので先輩方に教えていただく方が多いです(^−^)





466. ヒスイのすばらしさ ワイワイグッチ  2003/01/17 (金) 01:03
小輩は、展示会でヒスイがあると、その穴を見ます。日本で採掘される石の中で最も硬い部類に入る硬玉ヒスイ。その外観を曲面体に磨きあげるのもたいへんと思いますが、小さな穴を開ける技術に興味があります。細い竹管に石英質の砂を入れて水砥したとのこと。誰が発見した技術なんでしょう。 作るのが難しかったから尊ばれたと思います。奈良時代になると、ヒスイの人気がなくなったとのこと。目新しい舶来品を入手することができるようになって、日本人の心を忘れてしまったような気がして、何か、現代と同じような気がします。古くは唐津一氏、最近は奥井規晶氏が日本人に呼びかけているジャパナイゼーション を考えさせられるヒスイです。




465. Re: ヒスイ海岸のヒスイ さわらびY(ゆみ)  2003/01/17 (金) 00:33
 「勾玉のペンダント、ほしいなあ」のSubjectで奥田尚の『石の考古学』に触れたら、本当に今日UPしたVOLONTEの川崎さんのエッセイもこの本をとりあげていましたね。
 人が石に親しんできた歴史の中で、どんな石材を好み、または利用してきたかはとても興味がありますが、遺物の石材の鑑定は案外むずかしそう。

 昨日、寺村光晴『日本の翡翠』の本を借りてきて、読みふけっています。
 みきこさんも川崎さんご夫婦も拾われたヒスイ海岸なんていう名所があるくらいだから、古代のヒスイ=国産と当たり前のように思っていましたら、1942年ごろまでは日本にはヒスイの産地はなく大陸からの渡来と信じられていたのですね。
 縄文―弥生―古墳時代、「ぬなかわの底なる玉求めて得まし玉かも拾いて…」と必死に探し求め尊まれた玉も、色鮮やかな衣に美の関心が移ったせいか、見向きもされず、ついに産地も忘れ去られてしまったのでしょうか。
 全く、女心はうつろいやすいですね。

 この本の写真を見ていて私は、伝福岡市周船寺出土という黄金製兵庫鎖付ヒスイ勾玉の頸飾りがほしくなりました。
 はにわ処さんに同じのを作ってもらったら、いったいいくらくらいするのでしょう。




464. 房総地域文化研究プロジェクト学習会 さわらびT  2003/01/16 (木) 23:27
今日、房総地域文化研究プロジェクト(東京成徳大学)の学習会に参加しました。相互リンクさせていただいているのですが、なぜかあまり掲示板の話題にしていませんでしたね。地域密着型の試みで注目しております。平日なので参加しにくいですが、現役の学生さん達と机を並べてお話しを聞くのは楽しいです。
発表者の鈴木英夫先生は私には関心の高い古代朝日関係史のご専門家ですが、今日のお話は古代・近世・現代にまたがるテーマでした。山倉1号墳出土の「筒袖埴輪」が朝鮮半島系衣服であることから、(山倉の埴輪の窯はである埼玉県の生出塚窯であることは判明しています)「行田市付近の渡来系人物、あるいはその子孫が山倉1号墳の墓前祭祀に参列?」(レジュメより引用)と想定されました。形象埴輪の意味付けも論議になりましょうが、(水野正好氏の首長権継承儀礼説ではなく、車崎正彦氏の墓前祭祀説)渡来人の日本列島内での交流の一面を物語る遺物として興味深いです。
あとハングル石塔についても述べられました。結論だけ書いておきます。館山大巌院・雄誉上人の「文献上の知識」説だそうです。その説の主唱者であられる石和田秀幸氏も参加、ご発言されました。ハングル石塔については、

http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsu-bousou/sekitou/syoukai.htm

に詳しいです。今日発表者のお一人である現役学生の堀申次郎氏によるまとめが載っています。
ちなみに房総地域文化研究プロジェクト、のHPは下記です。ご参照ください。

http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsu-bousou/

ハングル石塔にかんする論議は、やはりリンク先である房総石造文化財研究会HP昨年6月〜8月掲示板のやりとりをご覧ください。

http://game.gaiax.com/home/douhyouoyazi/

増尾先生にも久しぶりにお目にかかれました。鶴巻先生からは長野の石塔を見に行かれたということもうかがいました。川崎さんとはご面識おありですよね。




462. ヒスイの魅力 みきこ  2003/01/16 (木) 21:27
かわさき 様
 三角ヒル星人よりカマキリ星人の方がやっぱりいいみたいですね。カマキリだって女性上位だし・・
たまたま友人がくれた絵葉書が仮面土偶の出土写真でした。横たわって出たのですか?
昨夏にヒスイ海岸を歩いたけど、海に潜って採るとは知らなかったーじゃー私が拾ってきた石はいったいなんだったのかしら?たぶんただの白い石だったのね。ああ残念!ヒスイは重そうですものね。
姫川のヒスイにもピンクや、ラベンダー、ブルーのヒスイがあるらしいけど、緑色のヒスイだけが勾玉に使われているのは、やはり何か意味があるのかな?中国のネフライトは緑色だから、その関係ありですか?
私もヒスイの勾玉がほしい!




459. 勾玉のペンダント、ほしいなあ さわらびY(ゆみ)  2003/01/15 (水) 00:17
川崎さんの「玉―ギョクとタマ、硬玉と軟玉」http://www.volonte93.com/
をうーんなるほどと読みながら、敦煌と西安で買ってきた「ギョク」のペンダントを触ってみています。
これってヒスイなのかな、ネフライトなのかなって。
奥田尚の『石の考古学』の「石と玉」を読んでも難しい鉱物の名称ばかりで、見て触って実感してみないと、こういうものの区別は文章じゃわからないですね。
(中国のお店で、値切るだけじゃなくてもっと石の種類を勉強してくればよかった…)
はにわ処さん http://homepage2.nifty.com/haniwadokoro/
の勾玉博物館のページと勾玉の商品目録のページはその点、色合いなどよくわかります。
この中にある2つのE型の勾玉はめずらしいですね。(こんなかたちあるだ!)
土偶のペンダントより、ヒスイの勾玉のペンダント、ほしいなあ。

そうそう、みきこさんの三角ヒル星人の疑問提起のまま、土偶のお話が切れちゃいましたね。
>肝心のあの三角のお面はなんなのでしょうか?縄文土器も動物を擬人化したものが多いようですが・・私はおもわず、あの三角頭のヒルをイメージしてしまったのです。(ヒルは雌雄同体?)三角ヒル星人と言いたいぐらいです。

私の疑問:中っ原の姉妹?泉水の土偶の後姿はどうなっているのでしょう。やはり仮面の紐の表現があるのでしょうか。

「長作(千葉市)諏訪神社のオビシャ」を12日にUPし紹介ついでに、あるけ〜さんのHP
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1467/index.htmlに遊びに行きそこでいりびたって、おびしゃの話をしていました。
我が家の掲示板、ちょっと話がまじめすぎて敷居が高いとメル友にいわれましたが、管理人が息抜きによそにおしゃべりしに行くようじゃ、そうかなと思いましたね。(反省…)
どうぞ、もっとお気軽に書き込んでください。




458. 『藤原氏と律令国家』(佐藤信先生)、無事終了しました さわらびT  2003/01/12 (日) 20:15
髻華の会1月講演会『藤原氏と律令国家』(佐藤信先生)、無事終了しました。
「無事」というのは、昨年12月の桃崎先生の時とは多少状況は違うのですが、今回もレジュメ入手にハラハラいたしましたので・・・
前日まで先生と連絡がとれず、何しろお忙しい先生なので多少心配にもなりました。昨日連絡がとれ、レジュメはコピーしてお持ちいただけるとのこと。大崎駅で先生の姿を見て一安心もつかの間、「コピーするところありますか」の一言に「?!」
幸い、駅構内にコンビニがあり、コピー機がすばやく反応してくれましたので30分で終了。ところが先生がとってこられたプリントが不鮮明(プリンターの調子が悪かったとのことです)、ご参加の皆さんには申し訳ありませんでした。先生から原稿あらためて頂戴して、お渡しできるよう手配させていただきます。

ご講演を依頼したのは、四兄弟の死、仲麻呂の乱など氏族としての存亡の危機を乗り越えながら近代にまで続く藤原氏の歴史がどのようなプロセスで形成されたかを勉強したかったからです。
「奈良時代の政治動向をたどる時、その展開の軸になったのは、一つは皇位継承の問題であり、もう一つは藤原氏の勢力伸張であったといえよう。前者は、天武天皇・持統天皇の直系の子孫に受けつがれる皇位継承がどのように実現され、そしてやがてその終焉を迎えたか、という点であり、後者は、皇位継承とからみながら藤原氏が天皇家の外戚としての地位を確立し、勢力を伸張して大伴氏・佐伯氏など伝統的な中央氏族を圧倒していったか、という点である。」(『律令国家と天平文化』吉川弘文館、2002より)また「藤原氏は、もともと不比等の娘宮子が文武天皇に嫁ぎ、産まれた聖武天皇にまた不比等の娘光明子が嫁ぐという婚姻政策によって、外戚としての政治権力を強化し、勃興してきた氏族であった。」(同書より)等々を検討いただく予定でしたが、鎌足・不比等だけで時間切れになりました。

レジュメは、藤原基経・時平まで〜摂関政治への道、までいただいています。是非続きをとの声も聞いております。

あくまで新興豪族でしかなかった藤原氏が律令社会の成立期にいかにその地位を確立していたのか、その入り口だけしかうかがえませんでした。次回、レジュメはありますのでこの点は心配ない(^0^)




457. ムラの行事が変わっていく昨今 さわらびY(ゆみ)  2003/01/11 (土) 18:42
桃崎先生
お忙しいところコメントをありがとうございました。

> しかし由緒ある糟地蔵が移転して、三明寺になったとは、ちょっと残念ですね。跡地に立て札でも立ててほしいものです。

本当ですね。
今日は郷土史研の仲間と千葉市長作町の諏訪神社のおびしゃに行ってきました。
おびしゃでは弓神事とセットの「おとうわたし」の儀礼は、この神社ではこれまで、深夜寝静まったとき、ひそかに行われるのですが、今年から廃止になりました。
村の民俗行事が消えたのは、東京オリンピックのころと、2000年からというのが多いと、撮影に来ていた方々が言っていましたが、この1-2年間で本当にいろいろなものが消えていきます。
お寺さんも、墓地整備や葬儀用の庫裏への改築で「再開発」の真っ只中、早く記録しておかなければ、由緒ある歴史ごと消えていきそうですね。

ところでいま、カウンターが10998です。11111のぞろ目はどなたになるでしょう? お知らせくださるとうれしいです。




456. 糟地蔵の謎 桃崎祐輔  2003/01/10 (金) 01:03
さわらびYさま
 糟地蔵の情報、興味深く拝見しました。「三国因縁地蔵菩薩霊験記」に糟地蔵の記述がある→忍性が増補してるから忍性が書いたのかな→なら鎌倉時代の地蔵さんかな・・と十分確認しないままレジメを書いてしまったなと反省しております。でも糟地蔵が室町時代のものだとすると、忍性のあとに更に増補したんでしょうか。それとも別物の文献なんでしょうか。この点は湯山学先生が(1987)「駿河国木瀬川・沼津と霊山寺−京・鎌倉往還の渡津と律僧・律寺−」『地方史静岡』15にきちんとした内容を書いてたはずなんですが、そのコピーをどこかにしまいこんでしまったので、今回の講演レジメでは、十分確認しなかったのです。ご迷惑をおかけしました。しかしいい勉強になりました。
 しかし由緒ある糟地蔵が移転して、三明寺になったとは、ちょっと残念ですね。跡地に立て札でも立ててほしいものです。




455. 阿部芳郎先生の講演は2月9日に変更とのこと さわらびY(ゆみ)  2003/01/08 (水) 19:31
もうひとつ訂正。

「印旛沼の貝塚」企画展にちなんだ阿部芳郎先生の八千代市郷土博物館での講演は、2月9日午後1時半に変更になったと、今、館長さんからメールで連絡がありました。

八千代市郷土歴史研究会の作業日と重なり、これからスケジュール調整をどうしようと思案しているところです。




453. 糟地蔵は三明寺の本尊でした さわらびY(ゆみ)  2003/01/08 (水) 19:08
前の書き込みで糟地蔵について、ちょっとフライングしたみたいなので訂正しておきます。
糟地蔵はなんと霊山寺よりかなり北のほうの大岡にある三明寺の本尊になっていました。
元は霊山寺の塔頭の光明院にあり、この寺は一年前の2001年11月下旬、香貫より大岡に移転し、寺名も、移転先の地で発掘された遺跡で1000年前の廃寺の名をとり「三明寺」に変えていたのです。参道で探せなかったのも当然でした。(そういえば、やっと教えてもらった参道右側のそれらしいところは、墓地でその前は空き地になっていてなんにもありませんでした)。
 
今日昼休み、やっとこの寺のHPにたどりつき、わかりました。
ここにはこうかかれています。
『本尊は、室町時代後半の頃の作といわれている延命地蔵菩薩で通称「酒かす地蔵」とよばれています。沼津市の有形文化財に指定されており、江戸時代に編集された「三国因縁地蔵菩薩霊験記」に掲載されています。 
 お話は昔、香貫の村に大変お地蔵様に信仰が厚い孝行娘がおりました。たまたま流行り病(コレラ)で両親が亡くなり、追善供養代を工面するため、お金を借りて酒を造りました。叔母の見舞いの帰途、急に雨が降り出し狩野川が舟止めとなり幾日も帰れず、お酒造りを諦めておりました。雨も止み帰ってみると誰かがお酒をしぼって売り、お金まで集められていました。いつもお参りする地蔵様が酒かすでいっぱいだったという身代わり地蔵のおはなしです。』

参道の辻にあった首なし地蔵さんも、なにか捨てがたい愛着がありますが、残念ながら糟地蔵ではなかったのです。訂正してお詫びします。




452. 桃崎レジュメを手に東海道を旅しました さわらびY(ゆみ)  2003/01/08 (水) 00:10
 7日まで原稿地獄の真っ只中におられることは、先日のご講演の前後の雑談や「考古学情報広場」の掲示板で存じ上げていましたので、律宗系石造物の情報の書き込みは冬休みが終ってからと思い、とりあえず画像データだけ何かのお役に立てばとコメント抜きでUPしておきましたが、意を汲んでいただきうれしく思いました。

 駿河の旅は、沼津霊山寺に関しては桃崎先生の奈良西大寺でのレジュメ、藤枝鬼岩寺については、この掲示板での桃崎先生のご教授により、金沢文庫の西岡先生の2001年秋のレジュメを入手し、それだけ持ってTと東海道を弥次喜多道中してきました。
どちらも大きな津と湊、街道筋の交通の要衝であり、古代からの端山の麓に位置する古刹で多くの石造物や伝承に満ちていました。
 桃崎先生のレジュメにあった霊山寺参道にある忍性も記述したという「糟地蔵」を探そうと行ったり来たりして(よくTがつきあってくれたよね)辻の道標の横にあった石仏を写してきました。首は他の石仏で補っていますが、ふっくらした丸っこい感じは中世的で、離れがたいものがありました。台座の銘文を、あわてて今UPしましたが、「衆?」などの字体などが手がかりにならないでしょうか。
 鬼岩寺も石造物などなかなか面白いものが多く、そのうち駿河の旅としてページにまとめたいと思っています。

3日は、年中無休の芝山のはにわ博物館に行き、たっぷりと古墳副葬品(はにわのほか馬具や銅椀などなんでもあり)を堪能してから、仏教美術の2階に上がったところ、「朗海」銘の板碑を見つけました。龍角寺では、文書にある朗海や心慶についてなんの石造物も探せなくて敗北宣言のようなページになっていましたが、それだけにとてもうれしかったです。
「戒律文化」の記事を楽しみにしてます。
ではまた。たくさんの宿題、がんばってください。




451. 雪国は寒かった みきこ  2003/01/07 (火) 23:29
 トンネルを抜けると吹雪。やっとの思いで雪国より戻ってきました。何もかも包み込む白い魔力・・雪降ろしをしながら、縄文人達はどのようにこの長い冬を過ごしたのだろうと考えておりました。やはり大型住居(日本海側に多い?)でヒスイを加工していたのでしょうか。たまたま北日本新聞で「婦中・道島遺跡の側で折れた縄文晩期の石刀つか出土」の記事を読みました。この道島遺跡では佐久の石棒にはかないませんが石棒も出土しており、桜町遺跡も含めて富山、長野に共通の祭祀が感じられて面白いですね。青森・三内丸山遺跡、富山・桜町遺跡のルーツを中国・紅山文化、河姆渡文化に求める研究のその後はどうなっているのでしょうか。縄文より道は続く・・のでしょうね。

Yさま 箱根路の石造物、凛とした雰囲気が感じられてすごくいいですね!

ワイワイグッチさま、色々教えていただいてありがとうございます。ところで、肝心のあの三角のお面はなんなのでしょうか?縄文土器も動物を擬人化したものが多いようですが・・私はおもわず、あの三角頭のヒルをイメージしてしまったのです。(ヒルは雌雄同体?)三角ヒル星人と言いたいぐらいです。

桃崎先生、相変わらずのお忙しい日々をお過ごしですね。「福岡考古」教えていただいてありがとうございました。早速読みました。21日の講演会についても、まだ言葉にならない疑問をかかえ、レジュメを読み返している日々です。




450. 今年もよろしくお願いします さわらびT  2003/01/07 (火) 22:55
桃崎先生
今年もよろしくお願いいたします。原稿の締切り、修士論文試験についてはうかがっております。
『発掘出土情報』まだご覧になっておられないご様子ですね。江上先生追悼記事が4ページあります。「東アジアの古代分化を考える会」に入会した30年前に聞いた講演では、話すことがとが楽しくて仕方がないような熱弁だったことを記憶しています。
「シルクロードの会」のご講演を楽しみにしております。




449. あけましておめでとうございます。 桃崎祐輔  2003/01/07 (火) 19:17
あけましておめでとうございます。
 当方は昨年末の27日に「常陸三村山採集の永福寺系瓦と「極楽寺」銘梵鐘−三村山極楽寺の創建と八田知家をめぐる宗教環境−」(『歴史人類』掲載予定)をなんとか入稿し、明けて1月6日には「筑波山麓における戦国の風景」『戦国時代の考古学』高志書院をなんとか書き上げ、本日7日、ようやく西大寺に『戒律文化』2号掲載予定の、「律宗系文物からみた律宗東国布教の痕跡」原稿をからくも送付いたしました。これであと戦国時代の考古学の図版を完成させて送れば、一息つけます。いや苦しかったです。西大寺の講演内容は、実質1晩しか割けなかったので内容は以前奈良大中世シンポの原稿を簡略にし、辛いので図版もそのまま流用させていただきました。面目ありませんがご寛恕ください。しかしまだ2月末締めで玉里村鰐口と相良町平田寺仏具と柏崎須恵器窯の概報の原稿が残っており、シルクロードの会の講演につきましても、どこまで仕込ができるかわかりませんが、出来るだけがんばります。
 年度末まで各種報告書の原稿がまだ4本ばかり残っているので、まだまだ予断を許さぬ状況が続きそうです。
 
 さわらびYさま
 こんどUPされた箱根や駿河霊山寺の石造物の写真、文章書くとき非常に参考になりました。特に霊山寺の首が折れた地蔵は気になりますね。中世に遡ればおもしろいんですが。
 あと下総龍角寺の僧であった朗海ゆかりの板碑も興味深く拝見しました。朗海は現茨城県総和町にあった前林戒光寺の円観房や戒円房らと親交があり、手紙には六浦や三村の情報も出てきます。この板碑は『成田市史研究』でその存在を知り、気になっておりました。

 ワイワイグッチ様
 柏崎須恵器窯は、地山を掘りぬいただけの窯体構造で、燃焼室には粘土張が施され、焼成床面に焼台として転用された窯体片や須恵器片が並べられていましたが、操業は極めて短期間らしく窯壁の構築や補修に須恵器片を使用した兆候は認められませんでした。
 折角のご指摘ながら、柏崎窯の調査内容について事実誤認を招く恐れがありますので、この点の議論は今後ご遠慮いただきたく存じます。

 みきこ様
 おいしいタルトありがとうございました。原稿書くときお茶の友においしく頂戴しております。この場をかりて御礼申し上げます。

 明日は大学院の修士論文の口述試験です。
 講演要旨は明日までご猶予くださいさわらびYさま。




448. 穴窯とその中にあった破片 ワイワイグッチ  2003/01/07 (火) 01:18
<font color=blue> >「7世紀前半代の窯跡であること、窯そのものが煙突状になった窖窯であって、焚口部・燃焼部・焼成部にはっきりした区別がないという構造のことをお話いただきました。</font>
登窯は部屋が分かれていますが、穴窯は焚き口から煙出しまで1つの部屋です。そのことを言っていると思います。備前の穴窯では、棚が作られているようです。通常の穴窯は長くても10mと思いますが、備前の穴窯は数十m(50m?)のものもあったとのことです。

<font color=blue> >発掘作業も続けていました。のぞきこんで見ますと、須恵器の破片が重なるように見えています。なぜ残されているのでしょうか。不良品だから捨てたとしても、そのまま放置したのでしょうか。。</font>
割れた須恵器が窯の壁材として使われたのではないでしょうか。中原窯跡では、瓦の破片が少量発掘されたのこと。灰原には瓦はなく、窯の中にあったとのこと。粘土だけではしっかりした窯の壁にならないので、瓦の破片が補強材的に使用されたのではないかと報告書にありました。
12/21、備前の伊部町で焼成を見てきましたが、その窯も一部、割れた焼き物で補修されていました(出張の帰りにぶらりと立ち寄ったのでカメラは持って行きませんでした)。




447. 『文化財発掘出土情報』1月号 さわらびT  2003/01/06 (月) 23:16
『文化財発掘出土情報』1月号に、昨年夏、現説にうかがった柏崎窯跡群の報告が掲載されています。報告者は桃崎先生と当日説明してくださった大学院の渥美賢吾氏です。繰り返しで恐縮ですが、当日ご説明いただいたことを私は次のように書いていました。

「7世紀前半代の窯跡であること、窯そのものが煙突状になった窖窯であって、焚口部・燃焼部・焼成部にはっきりした区別がないという構造のことをお話いただきました。発掘作業も続けていました。のぞきこんで見ますと、須恵器の破片が重なるように見えています。なぜ残されているのでしょうか。不良品だから捨てたとしても、そのまま放置したのでしょうか。この窯を使用した期間は意外と短期間であったと、あとで桃崎先生からうかがいました。接合して完形品が復元できるか、違った状況が読み取れるかは、これからの作業になるようです。」(222一部補足しています。)

1号窯に先行する2号窯がありその廃絶の直後に1号窯が作られているようです。しかも短期間の操業であった。
先日の稲荷山古墳実年代論でも教えていただいた陶邑須恵器編年ですが今回は7世紀代です。出土須恵器はTK209号窯型式とTK217号型式に併行しており、実年代7世紀初頭〜前葉とのことです。推古朝ですね。これらの須恵器が誰のために作られたのか興味津々ですが、答えはすぐには出ないようです。
理化学的方法による年代測定を検討されていることも報告されています。




446. 土偶の謎&北総の貝塚をめぐる話題 さわらびY(ゆみ)  2003/01/05 (日) 23:51
明日からいよいよ、仕事始め。(休みが長かったせいか、つらいなー)
この年末年始のお休み中、この掲示板も土偶をめぐるホットな話題で楽しく盛り上り、皆様ありがとうございました。
ちょうど八千代でも、千葉市でも貝塚をテーマにした企画展が開かれるとのことですので、もう少し勉強してみたいと思っています。
八千代市郷土博物館では、1月15日(水)〜3月2日(日) 「印旛沼の貝塚」をテーマに、また千葉市若葉区の加曽利貝塚博物館では「加曽利南貝塚と縄文後期の世界」の企画展が2月9日まで開かれるそう。
今日、八千代市郷土歴史研究会の新春行事で、わが会会長の郷土博館長に、企画展にちなんだ2月8日午後の講演会の講師(市のHPでは未定)についてお聞きしたら、佐倉市臼井田の遠部台遺跡から、縄文時代後期の「土器塚」を発掘された明治大学の阿部芳郎先生に決まったそうとのことです。
新川・花見川の小さな分水嶺(京成線路)を挟んで、おなじ北総でも東京湾岸側と印旛沼側とでも、貝塚に差があるのか、ほぼ共通しているのかも、興味がありますね。
どこかで、千葉のワイワイグッチさんには、お会いすることもありそう、その節はどうかよろしく。

壊される土偶・壊さない土偶については、本来流される運命の片代である雛人形が飾り物になっていく過程と似ているのではないかと思っています。
そして川崎さんがおっしゃるように『全部を一まとめに「土偶」の意味を問うのはナンセンス』なのかもしれません。
また、作り方焼き方についても調べると面白そうですね。
今晩は少し早く寝なきゃ。ではこの辺で。




444. 焼成温度1000℃の壁 ワイワイグッチ  2003/01/05 (日) 22:48
2002/12/1に千城台の東にある中原(ナガッパラ)窯跡(ソバ屋「葉月」の少し北です)を「千葉市の遺跡を歩く会」で見学した時に穴窯を想像するとともに、次のような勉強をしました。

焼成工程に於ける素地の構造変化 
    高嶋廣夫著「実践陶磁器の科学」内田老鶴圃発行 参照)
・100℃前後: 吸着水の脱着
・500℃付近: 構成鉱物の結合水が脱離
・1100℃付近: 長石中の酸化アルカリを含む鉱物が部分的にガラス化して熔融し始める
1250℃付近: 長石系鉱物が完全に熔融し、素地は磁器化(ガラス化)する

縄文土器は高々800〜900℃で焼成されたと言われています(加曽利貝塚博物館・新井司郎氏の試作実験による:「縄文土器のつくり方」加曾利貝塚博物館発行参照)。縄文土器を顕微鏡で見ると、粘土質鉱物は融着も融結もしていません。結合水を失って、粒子が弱い配位結合力で結合しているだけです。焼成温度が500℃以下だと水がかかるとボロボロになりますが、600℃を超したものは水がかかっても形が崩れることはありません。但し、単純に成形したのでは多くの空隙があるため水が漏れます。焼成温度が1100℃を超えると粒子が融着して陶質になります。陶器の場合、釉を使用することで水漏れを防ぎます。
http://yykaizuka.hp.infoseek.co.jp/s_walk0212.htm

P.S.)本日、花見川と新川をサイクリングして、江戸時代の善政を噛みしめてきました。昨年7月の「歩く会」のページに貼り付けました。覗いてみてください。
http://yykaizuka.hp.infoseek.co.jp/s_walk0207.htm




443. そう! しゃこ  2003/01/05 (日) 17:39
>腹部の磨きが非常に入念に行われていること、胸から腹部にかけて
>金雲母が胎土に練りこまれていることに感心しました。

そうなんですよね。私も本物を一度尖石で拝見しましたが
それはそれは美しいのです。




442. 土偶 はにわ処 [URL]  2003/01/05 (日) 10:51
かわさきさん、ワイワイグッチさんご教示有難うございます
縄文時代については興味が沸いて色々調べはじめてからまだ3、4年ぐらいですので先輩方に色々教えていただけると言う事はすごく勉強になります 土偶って年代や形象が同じようなものでも色々なところで見ていくうちに同じものなんてないですよね 土器などのように豊富に出土するわけではないですから当時の人々の一つ一つの村で丹精こめて作られ大切に受け継がれていったかもしれませんよね
雲母をいれたことによる神秘的な効果も面白いですね
それからワイワイグッチさんが1000℃以下の磨きについて書いておられますが当店のお客さんで反対に水が漏れるならこれをろ過に使って大きな土器をつくり災害時の水がめにしようかななんて人もいましたよ
それから管理人さん相互リンク有難うございます
自分も早速リンクさせていただきますね(^−^)
さきたま古墳にお越しの際にはぜひお寄りください
風土記の丘も今はすっかり綺麗に整備されていますよ

皆さんどうも有り難うございました
これからもお邪魔させていただきますね




441. 壊さない土偶 ワイワイグッチ  2003/01/05 (日) 03:12
小輩は土偶を意図的に避けているので、ある程度知っているのは、茅野市と千葉市の土偶だけです。的外れかもしれませんが・・・
中空自立型土偶はミミズク型土偶のような扁平のものとは違い、細心の技術で作られて置かれたりぶら下げられて、展示(鎮座?)されたようです。
「縄文ヴィーナス」と「仮面の女神」は土坑から発掘されています。その形のまま埋めたようです。但し、「仮面の女神」は1.3m強×1mの土坑の中に掘られた直径50cmの土坑とのことなので、人間とともに埋められたものかもしれません。また、「縄文ヴィーナス」は右足が取れていたので、扁平の土偶と同様、人間が折ったのではないかと言われていますが、右足部分は焼きが甘いので、取れたのかもしれません。
小輩は、「縄文ヴィーナス」に2001年3月に会いました。東京国立博物館の「土器の造形」−縄文の動・弥生の静−の展示会です。短命土器である火焔型土器を見るために行ったらありました。腹部の磨きが非常に入念に行われていること、胸から腹部にかけて金雲母が胎土に練りこまれていることに感心しました。小輩は、土器を見る時に内面や無文部分の磨きを見ます。磨きこそ縄文土器の命 と考えるからです。加曽利貝塚博物館に縄文土器研究所があった時に、新井司郎氏が粘土鉱物が溶融しない1000℃以下の温度で水漏れしない土器を作るには「削り、磨き」の工程が最重要であることを見出しました。渾身を込めて磨いた新井司郎氏の作品を見ると、縄文土器が実際に使用されていた時には素晴らしい輝きを持っていたと教えられました。4000年以上土中にいた「縄文ヴィーナス」が素晴らしく磨かれた腹部を持っていることに感心しました。みとれました。雲母を胎土に練りこむことは、阿玉式土器で行われ、雲母が産出しない千葉県でも茨城県などから雲母を手に入れて多くの阿玉式土器を作っています。雲母の練りこみは、土器の機能を向上する効果はないと言われています。装飾、煮炊きする際の神秘な光景を演出するためと言われています。この効果を演出するために、「縄文ヴィーナス」に応用されたと考えます。炉の弱い光のゆらめきで「縄文ヴィーナス」がイルミネーション的に輝き、神秘さが発現されたと考えます。
それに似たようなことを、「仮面の女神」の足を見た時に感じました。若干、水準は劣りましたが。「仮面の女神」はホットパンツをはく女性です。




439. Re: はじめまして さわらびY(ゆみ)  2003/01/04 (土) 19:12
> 土偶の話で面白そうなのでしゃこちゃんさんのHPから遊びに来ました(^−^)

よそのおうちに遊びに行ってて、またお友達ができちゃいましたね。(笑)
土偶のことは、VOLONTEの川崎さんの12月13日の記事で興味を持ったのがきっかけですので、私にとってはほとんど未知の世界ですから、「しゃこさん」のHPや「はにわ処」さんのHPで、ただいまお勉強中です。(ですから、御質問については、皆様に自由におこたえしていただきましょう。)

巡回展は2000年は行ったのですが、2001年はTが行っただけで私は行きそびれてしまいました。 仮面の土偶は大ニュースだったようですね。

はにわ処さん製作の寅とさくらさん埴輪見ました。
実は私の勤め先は下総国葛飾郡大島郷甲和里(=小岩)にあり、嶋俣里(=柴又)のとなりなので、正倉院文書の孔王部刀良(とら)と孔王部佐久良売にはとても親しみがあります。

> それから管理人さんぜひ相互リンクをして頂けないでしょうか

リンクページは近々更新予定ですので、とりあえず「いま話題の土偶たち」のページにリンク貼りました。

さきたま古墳群は、かつてまだ整備前に行っただけで、いつもTが行こうよと言っている所です。見学の祭はぜひお店にも寄ってみたいですね 。
では、今後ともよろしく。




438. はじめまして はにわ処 [URL]  2003/01/04 (土) 11:35
はじめましてこんにちは
土偶の話で面白そうなのでしゃこちゃんさんのHPから遊びに来ました(^−^)
仮面の土偶は2001年巡回展で近くの小山市の博物館に見に行ったのですがレプリカでどうしても現物が見たくて昨年の夏に尖石の博物館まで見に行ってきました 小学生以来でしたので随分綺麗になっていて驚きました
ところで土偶について教えて欲しいとことあるのですが大概土偶って壊されて出てきますが極稀に仮面土偶のように完品で出土しますよね これはどうしてでしょう?
また申し送れましたが自分土偶や埴輪のレプリカを販売しているHPをUPしているのですがその中に小さな博物館というコーナーを設けて我が家にある出土品の紹介をしていてその中に土偶もあります 自分なりの関東型の縄文晩期の遮光器土偶と思っているのですが詳しい年代や名称などわかる方がいらっしゃいましたら教えてください
それから管理人さんぜひ相互リンクをして頂けないでしょうか
自分も歴史は大好きなので宜しくお願いします
それではまた遊びに来ますね




437. Re: 仮面の女神:後姿の謎&大石棒 さわらびY(ゆみ)  2003/01/04 (土) 08:50
ワイワイグッチさん
仮面の女神さまのお写真拝借のお許しと解説をありがとう。
さすが、ワイワイグッチさんもみきこさんも土偶の後姿に着目されるとは。
この土偶の後ろを撮っていた意味がよくわかりました。
今後ともよろしくお願いします。

姫河童様
大晦日におせちを食べる習慣の地域は、やはりあったのですね。
明治に北海道に開拓で移住する前母の実家は石川、父の実家は秋田だったそうです。

御主人の考古学最前線の「佐久の日本一の大石棒」をよみました。
12月21日の 「391. Re: 信濃のこと・土偶のこと・・・」で、ネタが公開?されていたので、とても楽しみでした。
これだけ、長く大きいと、たぶん当時は木製の柱状のシンボルもあったでしょうし、むしろその方が、習俗としてメジャーだったのではないかしら?
御柱を立てる諏訪の祭りも、小正月のドウロクジン祭りも性を祀る祝祭で、石棒を祀ることと共通しているように思えます。

八千代には、印旛沼に面して神野(かの)貝塚があり、霜柱が立って空っ風が吹くと、一面きれいに貝と土器片が地表に浮いてきます。
(プロフィールのページのhttp://homepage1.nifty.com/sawarabi/kanokaizuka.jpg
のようです)
ここの一角に石神宮という小さな祠があり、その中にはなんと石棒らしきもの?が祀られていました。
日光の金精峠もその名は有名ですが、この祠のご神体のように意外と身近に性のシンボルを祀っていた(いる)ことに気づかされます。
そういう意味で、川崎さんのエッセイ面白かったです。




434. 仮面の女神(Re:後姿の謎) ワイワイグッチ [URL]  2003/01/03 (金) 01:03
あけましておめでとうございます。「千葉市の貝塚」のワイワイグッチです。
12/30にわらびさんから小輩の仮面の女神の画像をHPに掲載されたとのメールをいただきました。本日、HP「さわらび」を読まさせていただきました。広範囲な歴史に渡る話題が溢れていて驚きました。小輩の場合、千葉市/縄文時代/文明・技術に限って考えることを趣味にしていますので、理解し切れないところが残念に思います。

みきこさん、かわさきさん
>>お尻のところについている2個の突起はなんですか?
> 2個の突起はお尻ではないでしょうか。
>>それと首の後ろにあるのは仮面をおさえる紐なのでしょうか?
> そうですね、紐でしょうか。

「仮面の女神」は2000/8に茅野市中ッ原(ナカッパラ)遺跡で土坑から発掘され、「発掘された日本列島2001年」で展示され、2001年秋に茅野市教育委員会(?)によって命名されました。
みきこさん、後姿によく関心を向けられましたね。ヒモとオシリと思います。この土偶は、衣服の下にあるべき オヘソ、ホト、オシリ が描写されています。なぜか、乳房が表現されていません。下半身だけを重要視したのかもしれません。
小輩が関心を持ったのは、衣服、ヒモ、仮面の素材/作り方です。そのために、後姿の画像を小輩のHPに載せました。ヒモ、衣服は当たり前と現代人は思ってしまいますが、この仮面の女神が作られた縄文中期に、縄文人はヒモを作り、衣服を作る技術を持っていました。小輩はその技術に驚いています。縄文中期に繊維を作るために使われたであろうカラムシは現在の貝塚の周辺に自生しています。小輩は庭でそれを育てています。そんなことをしています。
小輩はこの土偶が伸展葬に相当する土坑に埋められていたとのことから、事取り上げることはしませんでした。埋葬などには触れないのが小輩の趣味の範囲です。




433. Re: 新年おめでとうございます さわらびY(ゆみ)  2003/01/03 (金) 00:47
「房総石造文化財研究会」http://game.gaiax.com/home/douhyouoyazi/
そして「滝を観る−千葉県の滝を例に」http://plaza28.mbn.or.jp/~takisekibututiba/tibataki/index.html
の管理人さんからじきじきの御挨拶ありがとうございました。
鯉?の滝登り、いいですね。元気が出ます。

石造物ファンの方々にはもうジョウシキ?の元箱根石仏石塔群を駅伝中継を見たあと、「即席で」料理し日付のかわった3日UPしました。
桃崎先生、斉藤彦司先生、房総石造文化財研究会石仏入門講座の川戸先生の講演に刺激され、昭和62年の『かながわの石塔と石仏』で予習して行ったのですが、整備保存事業が終っていてこの本とはずいぶん様子が変わっていました。
石仏や道標でまた今年もお世話になるでしょう。よろしくお願いします。







432. 新年おめでとうございます 道標おやじ  2003/01/02 (木) 21:48
謹賀新年
 本年もよろしくお願いいたします。
 房総石造文化財研究会掲示板に、吉祥図を頂きありがとうございました。年頭の感じが出て、めでたしめでたしです。
 鯛vsゴカイぐらいですが、滝を観て喜んでいるおめでたい奴の図柄を、滝の掲示板にのせましたので、お礼に持参いたしました。

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 即席で作ったので、ずれても、ご愛嬌ということでお許しください。(^.^)
 実は、掲示板があるとは気づいてませんでした。繁盛してていいですね。




431. 雪舞う元日 みきこ  2003/01/01 (水) 11:06
 あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。若王子古墳群から見た富士山素敵ですね!相変わらずの画像の美しさに感動です。私もいつか行ってきます。
年末は大掃除をしながら、新曲を覚えることを恒例としています。今年は「涙そうそう」。これは高音が出ないのでむずかしい・・
中島みゆきの歌はどっちかというと「ヘッドライト・テールライト」の方が好き。「プロジェクトX」のテーマソングになってヒットする前
から「あなたにぴったりの曲がある」と教えてもらっていたので。
「・・旅はまだ終わらない・・」本当に歴史探求の旅は終わらないのですね!
 6日までふるさとへ行ってきます。




429. Re: A HAPPY NEW YEAR !! arinco  2003/01/01 (水) 01:01
@明けましておめでとうございます。今年もお元気でご活躍されることをお祈り申し上げます。
 ウチの猫達も元気で新年を迎えました。ついでに、飼い主も・・。まだお付き合いも短いですが、どうぞ、よろしく。

@さて、30日にはBGMのご回答ありがとうございました。
> 「ブルグミュラー 25の練習曲」より「なぐさめConsolation)」・・・
@何と懐かしい。私もその昔におそらく弾いたことのある曲です。しかし、子供心にはConsolationを理解する感性は育っていなかったのでしょう。ただ、練習曲らしいな・・、とは察していましたが。ブルグミュラーとは盲点でした。

@大晦日の「おせち」「年越し」の慣習は、初めて知りました。私の家系は知る限りでは土佐のはずです。土佐弁というモノが存在しますが、「ゲニ、マッコト(本当に全く)古語にカワラン(に違いない)。」土佐弁は面白いですよ!!。

@では、また。




428. 謹賀新年 さわらびY(ゆみ)  2003/01/01 (水) 00:42
皆様
明けましておめでとうございます。
また「さわらび通信」を見てくださってありがとうございます。

なんとか、TOPに富士山の画像を入れることがかないました。
富士山って絵にしても写真にしても意外と難しい!
箱根の乙女峠・山中城・藤枝・静岡といろいろな場所で撮ってみたけれど、カメラの腕がないと絵葉書みたいで、あの感動は写真にはできないとしみじみ思いました。
「偉大なる平凡」の富士山ですね。(TはTOPページを見て「やはり下品、お正月だけだね」といっています)

紅白の中島みゆき(ちょっとドジッた?)を聴きながら、箱根路と駿河のフォトアルバムをUPしました。
今後とも史跡めぐりや歴史のエッセイ、写真作品などについて諸兄のご指導をよろしくお願いします。




427. 年の暮れ&防人さんのHP さわらびY(ゆみ)  2002/12/31 (火) 16:52
2002年もそろそろ終りますね。
買出しや大掃除、親戚への年始の準備などで今年もあわただしく暮れていきます。
やっとパソコンに向かい、元旦バージョンのTOPページや年始メールを作ったりで、どうやら忍性シリーズの「箱根路の石塔・石仏」制作はは正月休みの楽しみになりそうです。

そんな中、九州に転勤したWeb友の「現地が一番」が久々に更新されていました。
http://yatiyo-web.hp.infoseek.co.jp/
長崎街道石坂の階段や直方のアーケード街は踏破レポートならではですね。
なお、「妻のページ」は「夜空の世界」http://sachma.hp.infoseek.co.jp/yozoranosekaihyousi.htm
以外は目の毒なので見ないようにしています。

防人さん、九州新幹線の開通まで、九州の史跡めぐりと奥様との新婚生活?を十分楽しんできてください。

これから実家に「年取り」に行きます。
北海道(その前は東北)出身の私の実家は、大晦日におせちをいただき、年取りを祝います。これって、うちだけなのでしょうか? 各地のお正月の迎え方、いろいろなのでしょうね。
ではまた。2003年元旦0時にお会いしましょう。




426. Re^3: 縄文時代は魅力的 さわらびY(ゆみ)  2002/12/30 (月) 22:18
仙台のしゃこさま、長野の川崎さま、冬休みをいかがお過ごしですか。スキーor大掃除?

刈谷原の土偶の下腹の突起は女性の「へそ」説が有力なようですね。

> お母さんと赤ちゃんとをつなぐ絆の痕跡だから、これも土偶にとって大事な要素だったんだということです。

さすが、御両人の奥様方の目と直感は鋭いですね。
女性ならではの考察に私も同感です。

ところで、文章のやりとりだけでは、ほかの方には、なにが「へそ」やら「後姿の謎」やらチンプンカンプンでしょうから、「いま話題の土偶たち・・・掲示板のサポート画像集」をUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/doguu/doguu.htm
国立歴博の復元レプリカを撮った写真がほとんどですが、みきこさんが提起した中ツ原土偶の後姿は、ワイワイグッチさんのHP画像を拝借しました。
最後に載せたやたら肩幅のでかい猫顔の土偶、これについて思ったことがあったら教えてください。
またこのほかに、もっと興味のある土偶の話題が出ましたら、おってUPしましょう。
今回土偶の話題に遅れちゃった方も、このページを見て疑問や感想をどんどん書き込んでくださいね。

では、楽しい冬休みをお過ごしください。




425. 楽しかった1年もあとわずか みきこ  2002/12/30 (月) 09:43
川崎 様
ありがとうございます。ようやくこれでお話についていくことができました。
うーん確かに過激です。「縄文の巫女」そんな感じですね!
絶対男性がつくったのでしょう 偏見かな

ゆみ様
よかったですね。報告楽しみにしています。やはりお正月は富士山がいいですよ。お正月から舟葬では縁起が悪いです・・ 





424. BGMの曲名 さわらびY(ゆみ)  2002/12/30 (月) 08:39
有澤さま
こんにちわ、おたくの猫さんもお元気ですか。

> @BGM、何て曲ですか?練習曲のような雰囲気ですが、穏やかで心に浸みるやさしいメロディーですね!!。

「ブルグミュラー 25の練習曲」より「なぐさめConsolation)」
という曲です。

編曲者のリンク用バーナーをつけようと、お気に入りに入れたあったロード元のURLを、8月にPCをクラッシュさせてわからなくなりました。そのうち探して御紹介します。





423. 駿河・箱根の旅から戻りました さわらびY(ゆみ)  2002/12/29 (日) 23:17
ただいま、駿河・箱根の旅から戻りました。
忍性の史跡(箱根石仏群・沼津霊山寺・藤枝鬼岩寺)、藤枝若王子古墳群や・静岡賤機山古墳〜賤機城跡を見学したほか、よい天候に恵まれ、富士山のあで姿をカメラにおさめようと、それらのお寺や古墳の尾根続きのハイキングコースをひたすら歩いて汗を流してきました。
富士の見える端山には古代人の古墳、そのふもとに中世の寺院。人々が尊んだ風景と海と河川に面して山を負った地形は、沼津・藤枝・静岡ともに一致していていました。
お正月はやっぱり、富士。元旦のTOPページは、みきこさんがお好きな舟葬?の若王子古墳群からのにしようかなと思っているところです。
(資料館はすべて年末休みで、土偶にも金ぴか馬具にもお会いできませんでした。)

ところで留守中、掲示板の楽しいお話、また、たくさんのメールをいただきありがとうございました。
早速お返事をと思ったのですが、すみません、明日にさせてください。




421. へそ しゃこ [URL]  2002/12/29 (日) 08:25
へそも妊婦の特徴と言えると
うちのカミさんは申しております




420. 後姿の謎 みきこ  2002/12/28 (土) 12:34
かわさき様
仮面土偶ー後姿の写真(「2001発掘された日本列島」で見ました。お尻のところについている2個の突起はなんですか?それと首の後ろにあるのは仮面をおさえる紐なのでしょうか?




418. おっと、質問!! arinco  2002/12/28 (土) 01:35
@物忘れがねぇ、教えていただきたいことがありました。

@BGM、何て曲ですか?練習曲のような雰囲気ですが、穏やかで心に浸みるやさしいメロディーですね!!。

@ひょっとして「光さん」かな?。アテずっぽですが・・・。




417. いや〜、感服!! arinco  2002/12/28 (土) 01:17
@「arinco」こと 有澤朋子です。
@12月7日に八千代で初めてお目にかかる以前から、沖本さんに「さわらび通信」のことはお聞きしていたのですが、粗忽で煩雑な日々を送る身の上、ジックリ拝見することもなく今日にいたりました。

@27日夜、沖本さんとお会いする機会があり、大日寺の五輪の塔の話題が出て、その中で詳しいコトはさわらび通信にレポートがあると紹介され、帰宅後サイトをちょっとお訪ねしてみました。

@いや、五輪塔に限らず、その他諸々スゴく充実した内容と、パワーに「ただただ感服いたしました」。一夜で全部は無理、五輪塔と全体のコンテンツをザックリ拝見するに留まりましたが、年始に時間が取れたときに、少しずつ読ませていただくことにします。楽しみを増やしていただきました。ありがとうございました。

@実は私は、昔は考古学的なことや民俗学的なこと、歴史などに大いに興味を持ってはいたのです。しかし、いつの頃からかそんな自分は忘却の彼方、いまでは遙かアサッテの方向に来てしまいました。来年は、少しずつ思い出したり教えて頂いたりしながら、私なりに、ちょっとは歴史探訪めいた世界をお散歩してみたいな、という気分です。

@またお会いできることも楽しみです。あらためて、どうぞよろしく。




416. Re: 縄文時代は魅力的 さわらびY(ゆみ)  2002/12/27 (金) 23:56
> 「縄文のタカラガイ」の中で富山の北代縄文館に触れられていたのでそのHPで北代遺跡出土の「コの字」状勾玉(ヒスイ)は九州の玉文化からもたらされたものーと書いてあったのでびっくりしたのです。ヒスイの中心・富山から出ているものが九州系のデザインのものとは?出戻りかな・・注文品の残りかな・・

というみきこさんの疑問をもう一度、読んでみました。さっきの引用では、やはり解決していないようですね。
洗練された弥生勾玉のデザインがUターンして老舗の北陸に影響を与えたのかしら。私も謎です。
Webで見た寝屋川の縄文の勾玉も不思議な形をしていますね。http://www2.opas.gr.jp/neyagawa/gyousei/23/236/240/2406.htm#top

VOLONTEの川崎さんの新エッセイ、読みました。
毎週、目が覚める新鮮な内容ですね。

やっと今日で、仕事納め。明日とあさっては箱根の石造物や駿河の律宗系寺院と古墳を探しに出かけます。
ではまた。




415. Re: 縄文時代は魅力的 さわらびY(ゆみ)  2002/12/27 (金) 22:44
みきこさま

縄文の勾玉の魅力に、私もまたまたひっかかりそうなご発言。
誘惑のわなにはまって、Webの森を散歩してみつけた石川考古学研究会代表幹事河村好光氏の講演録から横着にコピー&ペーストしました。 
http://www.pref.toyama.jp/branches/3041/kawamurakouen.htm

「富山県の東北部から新潟県糸魚川の一帯は良質ヒスイの産地ですが、弥生時代の早期・前期はまだ完全に弥生社会には移行していません。糸魚川市大塚遺跡は、弥生前期に相当する遺跡で、玉つくり遺物が出土しました。ところが、そこで作られている玉はまだ縄文玉で、施溝分割技法はみられず、碧玉管玉も作っていません。ほかにも理由はありますが、北部九州のこの時期の弥生勾玉はやはり北部九州で作っていると考えざるをえません。半島文化を受け入れる玄関口であることから、ある意味では当然です。つまり、産地である北陸から遠く九州にヒスイが運ばれ、ここで弥生玉が成立したわけです。
しかし、問題はここからです。なぜヒスイでなければならなかったのでしょうか。また、なぜその形が北陸の縄文玉をモチーフとしているのでしょうか。
これには、縄文晩期に北陸の玉が北部九州にまで流通していた実態が背景にあります。たとえば、御経塚遺跡と菜畑遺跡で出土したペンダント風の玉は形といい紐穴の位置、横方向の切り込みといい、まったく同じものといってよいでしょう。ほかにもたくさん例はあります。
つまり、縄文晩期の頃には、北陸産の玉が北部九州に向かって運ばれる何かがあったということです。」

すごいね。弥生時代の早期・前期の北部九州とまだ縄文だった北陸で交易があったなんて。
縄文・弥生・古墳時代に好まれた宝石の装身具が、着物文化の中で消えていった過程も興味深いです。
ところで「E字形の玉」の写真を見てみたいですね。Webでみつかったら、URLどなたか教えてください。




413. 縄文時代は魅力的 みきこ  2002/12/26 (木) 20:41
川崎様
「縄文のタカラガイ」の中で富山の北代縄文館に触れられていたのでそのHPで北代遺跡出土の「コの字」状勾玉(ヒスイ)は九州の玉文化からもたらされたものーと書いてあったのでびっくりしたのです。ヒスイの中心・富山から出ているものが九州系のデザインのものとは?出戻りかな・・注文品の残りかな・・

しゃこ様
はじめまして よろしくお願いします。
すばらしいですね。「遺跡と怪しい場所の紹介」-関東近辺はなつかしく拝見しました。私の好きな神社は群馬・貫前神社です。子持山(字を忘れた?)もいいですよ!「隠された古代アラハバキ神の謎」は大好きな本の一つです。今まで見たことのない土偶の数々ー感動!感動!
自由な創造性が許された時代だったのかな?
現代のお墓は嫌いですが・・昔のお墓はタイムカプセルのようですものね!
私は何故かいつの時代でも文様が気になってしまうのです。釧路の博物館のアイヌ文様の前で眠ってしまったのもなつかしい思い出です。これから旅に出る時は参考にさせてくださいね。




412. 御礼 しゃこ [URL]  2002/12/26 (木) 07:23
たくさんのすてきな写真ありがとうございました。
土偶っておもしろいでしょ。
あとアイヌと縄文にはただならぬ関連があると思っております。
それから土坑墓については、推測とはいえお墓の可能性は
否定できないと思います。土偶そのものが副葬品という可能性は
ないのかなあ。
あと私、ストーンサークルも大好きなのですが
最近の小牧野遺跡の発掘結果は現在の周辺地域の葬礼との関連を
連想させるようなものがでており、やっぱり墓っぽいんだなぁ
などど思っております。私は墓が好きだったのです。

最後に
>どちらの掲示板も自由におしゃべりしていても、プロが控えていてく
>ださるので、トンデモナイ方向の歴史談義にならない安心感があります。

これうちの方に関してはアブナイです。
なにしろ管理人はトンデモナイ系が大好きなのです。(笑)
ではまた。




409. 土偶の気持ち みきこ  2002/12/25 (水) 22:18
川崎さま こちらこそよろしくお願いします。
 遮光器土偶で印象に残ったのは必ずどこかを破損させてあったし、特別な場所から出土したような記憶があるのですが・・一種の身代わり的な願い?がこめられていたのかなと思っていました。「仮面土偶」は完形で出土したのですか?土抗墓から出たのですよね。「仮面土偶」が女性をリアルに表現しているとしたらやはり子孫繁栄を願ったものでしょうか。関東でも男性とわかる埴輪を見たことがありますが、素朴でシャーマンというイメージは感じなかったのですが・・縄文時代の土偶の方がその当時生きていた人々の心が生々しく表現されているような気がしますね。それに比べると古墳時代の埴輪にはなんだか「生」が感じられなくて、その断絶の時代に何が起きたのでしょうね。すみませんとりとめもなく書いてしまいました。九州系の勾玉のお話面白そうですね。また教えてくださいね。




408. Re^2: 土偶のこと さわらびY(ゆみ)  2002/12/25 (水) 20:59
川崎さま・みきこさま・しゃこさま

今日はクリスマス休暇をとったついでに、国立歴博で土偶を見てきました。
国宝も重文もありの「土偶群像」。本やHPでは大きさの実感がつかめないのですが、ここのレプリカはその質感などもつかめますし、お部屋の雰囲気も縄文の世界に浸れます。
じーっと眺めていると、不気味な中になにか語りかけてくれるようでした。

> 縄文土器や土偶に渦巻文が多い
というのは、たしかにそうですね。
両親が札幌出身だったので、子供のころアイヌの民芸品が身近にいろいろありました。
アイヌの好んだ紋様も、縄文の紋様と共通するように思えます。時代は下って8世紀のころ、東北や北海道の古墳等から発見される蕨手刀も、その精神を受け継いでいるのでしょうか。

川崎さん、しゃこさんのおかげで土偶が面白くなりました。
「しゃこさんのお部屋」でも、土偶についての世間話を川崎ご夫妻と楽しませていただいています。
どちらの掲示板も自由におしゃべりしていても、プロが控えていてくださるので、トンデモナイ方向の歴史談義にならない安心感があります。
今後とも、よろしくお願いします。




407. Re^2: 桃崎先生講演会、感想の続き さわらびT  2002/12/25 (水) 00:34
川崎様

安易に書いてしまいましたかね。
年輪年代法は絶対年代がわかるので大変有用な方法だと存じます。
出された年代が間違っていると、考えているわけでもありません。
ただし、光谷先生以外の権威が今のところおられないのが、不自然に感じておりました。
昨年、法隆寺五重塔心柱の伐採年代が591年と発表され話題になりました。私が疑問に思ったのは、以前の調査では、白太と呼ばれる木の一番外側の部分が不明だったので、伐採年代はわからないとされており、たしか七世紀後半に近いと思われていたのではなかったでしょうか。それが突如、白太が発見されたために、594年というはっきりした年が出たということでした。(白太を3年とした)
それなりに納得はしたのですが、釈然としないままでおりました。

もう一つ、池上曽根のBC52年に対して『王権誕生』で寺沢薫先生が、建物の建替えを考慮すべきと述べられていると点も、気になり、絶対年代だから信用するだけでは、歴史学ではないのではないか、と疑問を抱くようになりました。

光谷氏のご努力については、『卑弥呼の謎年輪の証言』(倉橋秀夫著、講談社)という本などを読んで、理解しているつもりです。
うまく申しあげられませんが、批判的検証の精神は必要かな、と思っています。




404. 土偶のこと みきこ  2002/12/24 (火) 21:33
 雪のクリスマスイブとはならなかったようですが皆様楽しいイヴをお過ごしですか。私はケーキを食べ過ぎて・・苦しい。「縄文の巫女」中ツ原遺跡、棚畑遺跡の土偶を見せていただきました。不思議な土偶ですね。私は土偶のことはよくわからないけれど若かりし頃、長野の資料館を見て歩き見とれていたことを思い出します。遮光器土偶とか地域によって形が違うのは面白いですね。ただいつも気になっていたのは列島のどの地域の土偶にも共通してみられ、縄文土器にも見られる「渦巻文」です。上の二つの土偶にもありましたね。この渦巻文はけっこう汎世界的に見られる模様で螺旋的に続くー永遠の生ー再生の祈りを?表しているのかなと思っていました。長江文明の青銅器(とうてつ文)や道教の護符などにもあったと記憶していますが・・この文様が弥生時代になると日本列島から無くなる?・・銅鐸や鏡にはありますねー古墳時代の巫女埴輪は古墳の被葬者の再生を願ったのでしょうか?

 思い出したけど桃崎先生の箸墓古墳出土の輪鐙の評価びっくりでしたね!




401. 桃崎先生講演会、感想の続き さわらびT  2002/12/23 (月) 23:19
五世紀、倭の五王が、中国へ使者をたびたび遣わした時代。列島での覇権も智恵と政治力が求められたのだと思います。埼玉稲荷山古墳礫槨の出土物は具体的に時代を切り取って私たちの目の前に出現したのです。

礫槨の被葬者そのものにも関心は向けられますが、前提となるのは、この礫槨の作られた年代がいつだったのかということになります。この問題について、韓国の研究者と宮代栄一氏と論争があるようですが、お互いが不信感を抱いているようなで、我々にはわかりにくいです。わかりやすくご説明願えないか、と桃崎先生にお願いしました。

ご講演でもお話いただきましたし、レジュメにその答えは書いてあります。でもこれまたややこしい話でしたね。結論は宮代説が正しいということですね。大伽耶連盟成立と結び付けたい韓国の研究者ということだけはわかりやすかったですが・・・

須恵器編年のご説明で大庭寺型式にふれられ、年輪年代法批判をされましたね。理化学研究の落とし穴をついておもしろかったです。以前から光谷氏だけしか行なっていないのは信頼に足るか、と疑問だったそのとおりのお考えを伺い納得しました。