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No.1701-No.1800 2004/11/212005/1/3
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1900. 今年もよろしくおねがいします さわらびT  2005/01/03 (月) 19:28
開田様

今年もよろしく。図書目録お送りいただきありがとうございます。

> 驚くほど暖かなお正月を過ごしています。

寒暖の感覚が違うんでしょうね。本当は、きっととても寒いんだと思います。岸壁の寒さを想像しています。でも自然と親しんでおられるのは、いいですね。

こちらは暖冬と思っていたら年末にかけて急に寒くなって、ぶるぶる震えていました。それでも昨日今日と、環状盛土遺構を見て歩こうとYと出歩いてきました。井野長割遺跡は国指定史跡になったことが明記されています。馬場小室山が、なぜ今のような状態なのか、あらためて行政担当者が、人の歴史へ想像力を欠いていることに寂しさを感じています。

『僕の叔父さん』(集英社新書)を読んで、知的興奮を覚えました。同じ著者の『精霊の王』(講談社)では、今では見えない王になった「ミシャグチ」に、思いを通わせることを教えてくれます。想像力を養うには、頼もしい本じゃないでしょうか。



1899. 2005年1月3日 北の熊   開田 誠 [URL]  2005/01/03 (月) 15:12
 驚くほど暖かなお正月を過ごしています。
 大晦日から落石(地図をひろげてください)の海辺の宿へ行ってきました。その宿は、岸壁にあります。部屋の窓から初日の出を眺める(なんと、横着か!)のがねらいでした。海上からあがってくるのを眺めようとしました。1日の朝は出てすぐ雲の中へかくれていってしまいました。2日の朝は完ぺきでした。海の光が美しかった。
 落石岬にはアカエゾマツの森があります。1日に歩いてみましたが、寒いこと!鼻が痛くなりました。春から夏にかけては、次々と花の咲くところです。
 海側の反対の森へむかえば、シマフクロウ、クマゲラの森があります。静寂の森です。沼には、タンチョウが遊んでいます。
 冬の森は歩きやすく、この時季に地形感を養っています。



1898. Re: 今年も さわらびY(ゆみ)  2005/01/03 (月) 10:01
はにわ処さん、ありがとうございます。
お風邪、お大事に。

昨日は、正月で工事も調査もお休み中の流山市の三輪野山貝塚遺跡へおじゃましてきました。
大規模な環状盛土遺構の発掘が注目され、中でも南側窪地に置かれた大石が話題を呼んだ遺跡です。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/05.01.02miyawayama/miyawayama.htm
昨年の現地説明会はいけなかったのですが、その資料というのが、HPでUPされていましたので、プリントして持っていきましたが、あれから一年、宅地造成工事が進行していて、現状把握は、想像力の世界、雪も残っていて、足元はぐちゃぐちゃでした。(今年の現説は、見逃さないようにしたいです。)

新選組陣屋と江戸川ベリ、茂呂神社にも寄りました。
みわの山⇒みむろ山⇒おむろ山⇒もろ神社
またまた不思議な関連が気になります。

帰りは、上り方面の道が込んでいて、初石あたりを迷いながら抜け道を探したのですが、ちょうどこの辺は手賀沼からの大堀川がずっと西へのびていて、江戸川(太井川)と香取の海との交通をあれこれ考えさせられました。

さてもう明日からは、仕事。宿題も片付けも出来ず、あっという間のお正月休暇でした。



1897. 今年も はにわ処 [URL]  2005/01/02 (日) 14:09
皆さんあけましておめでとうございます
さわらび様おめでとメール有難うございます
年末から年越しで風邪を引いてしまい、まだ復活しておりませんので手短に
今年も宜しくお願いします



1896. 今年も歴史に好奇心! さわらびT  2005/01/02 (日) 08:03
遺跡大好きネコ様、あるけ〜様、皆様

明けましておめでとうございます。
元日は、食べて飲んで寝てしまうというのが恒例で、それでも昨日はNHKの「シルクロード」の宣伝番組は、しっかり見てました。今日が第1集の放映で、明日は「大化改新」ですね。評価は別として、見てしまいそう。

ところで、正徳元年(1711)、6代将軍家宣の襲職を祝う朝鮮通信使ですが10月に江戸に到着、11月1日国書呈出、3日以降歓迎行事が続きます。UPしましたシンポジウム報告には松本先生の講演資料をご紹介しました。

この同じ時期に「万石騒動」がおきています。11月2日安房27ヶ村の惣百姓600名あまりが江戸に到着、年貢軽減の訴えを起こしています。朝鮮通信使の接待という国家的行事の際に江戸で騒ぎが大きくなっても困るとする配慮が働いていったん訴えは認められますが、のちに3名が死罪となったようです。通信使外交の背後に、こういった史実もあるのですね。

『千葉のなかの朝鮮』(千葉県日本韓国・朝鮮関係史研究会編著、明石書店、2001年)は交流史を学ぶのに最適の本ですが、その中の鈴木先生の書かれたコラムを参照しました。

好奇心を持ち続けていたいと思っています。今年もよろしく。



1895. あけましておめでとうございます あるけ〜 [URL]  2005/01/02 (日) 00:49
みなさん、あけましておめでとうございます。

香取の海、実際どうだったか、
主に千葉市域に関心を寄せる者からも興味深いところですね。
縄文では、東京湾と分水嶺をはさんでの関係
古代では、上海上国・下海上国・石枕の分布
中世では、なぜ千葉氏が拠点を本佐倉城に移したか、等々。
 埼玉の見沼とはやはり東京湾〜奥東京湾経由?

>ちょうど日の出のころに晴れたよう。
千葉市では、まだミゾレの真っ最中でした。晴れたのは後です。

★ネコ様
>「歩けー」も掛けていますか?もしかして。
もちろんですとも。「歩く会」ですので。
♪あ・る・け あ・る・け あーるけあるけ ♪♪
こーいう歌、ご存知でしょうか(^^;

>上空写真
どれくらい緑地が消えたか、都市化が進んでいるか、
一目瞭然ですからね。みんなで眺めて、自分たちの
まちをどうするか、考えるステップになれば、と思います。
歴史に関心を持つ者としては、ヨーロッパでやっているように、
戦前や米軍撮影の写真も公開してくれると
もっとおもしろいんですけどね〜

本年もよろしくお願いします





1894. 謹賀新年 さわらびY(ゆみ)  2005/01/01 (土) 22:58
皆様 (遅れまして)あけましておめでとうございます。
遺跡大好きネコ様、ありがとうございます。

2003年は、高津の七年祭を追っていましたので、年越しを真夜中の高津比盗_社でしましたが、今年はゆっくり朝寝をし、それから御重におせちを詰めてから、高津比盗_社に寄って、横浜のTの実家に行きました。

八千代市の高津は、昨年も郷土史研の旧村調査研究のフィールドとしてお世話になり、今年もまた学ぶことになるので、まずは村の産土さまへのご挨拶でした。
ちょうど、神主さんにも新年のご挨拶ができました。

神社の隣、高津姫の伝承の高津観音寺は正月はお厨子も開いていて、本堂前には八千代八福神巡りの布袋様もゆかいなお顔で迎えてくれます。
この高津山観音寺には美しい韓国式鐘楼もあります。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/takatusyourou.jpg

この鐘楼と鐘は、関東大震災の時、この近くで故なく虐殺された朝鮮人の霊を慰めるために捧げられた痛悔と日韓友好のシンボルで、二度と痛ましい歴史を繰り返さないよう、韓国の方々と観音寺のご住職と高津旧村の方々の協力で心を込めて作られました。

首都高を走っていると、道路わきに雪が残っていて、東京と神奈川・埼玉などけっこう雪が降ったようですね。
千葉は明け方まで雨(みぞれ?)でした。
あるけ〜さんの「千葉市の遺跡を歩く会」の掲示板では、ちょうど日の出のころに晴れたよう。
http://www3.ezbbs.net/27/chibaiseki/
2005年は幸先よくスタートできそうな予感がします。


メールで新年のご挨拶と共に「さわらび通信」へのご支援のお言葉を下さった皆様、本年もよろしくお願いいたします。



1892. 新年初書き込みです 遺跡大好きネコ  2005/01/01 (土) 13:11
新しい年を迎えました。家主さんより先に書き込ませていただきます。今年もどうぞよろしくお願いします。

さわらびTさん、『朝鮮通信使と関宿藩』のレポートありがとうございました。このテーマにビックリです。実は、私は『はなこりあ』という踊りのティームの代表をしておりますが文字通りこりあ→コリア(KOREA)と関係のある踊りを舞っています。このティームには在日コリアンもいて、日本と朝鮮半島の関係を考える良い場所ともなっているのです。

埼玉に、「現代の朝鮮通信使になろう」という活動をしているグループがあります。縁の地を訪ねるツアーを組んだりしています。はなこりあの本拠地は東京ですが、私が埼玉に住んでいるので埼玉のグループとの付き合いも始まっています。今度、こちらこともぜひ聞かせてください。

それから、埼玉で初詣と言えばやはり氷川神社ですが、男体社(武蔵一ノ宮)のほうですね。女体社は静かな参詣地なのではないかなあと想像します。



1891. Re: 良い年になりそう さわらびY(ゆみ)  2004/12/31 (金) 21:52
「さわらび通信」をご覧くださっている皆様
2004年ももうすぐラスト。本年、世の中は波乱万丈、このHPも秋から馬場小室山遺跡にかかわっていろいろなことがありましたが、多くの方々との出会いがあり、思い出深い年となりました。

暮れの一日、昨日は、神野貝塚で雪景色を摂った後、「香取の海」の考察のため、古代から中世の古寺(印西市の大森長楽寺、手賀沼の南岸の岩井の将門伝承の龍光院、大井の妙見を祀った福満寺)を廻ってきました。
どのお寺も、住職さんや奥様が親切に応対してくださり、文化財の梵鐘や秘仏を見せてくださいました。
昨年は、実家から帰った後の大晦日の真夜中、高津ひめ神社に初詣しましたが、今年はさすが寒くて・・
博物館は、3ヶ日も開いている大きな寺社の付属の施設がいいですね。
芝山仁王尊の博物館は、おすすめです。

HPは「縄文遺跡のある風景」の「5.神野貝塚」と、久々のさわらびT作成の『シンポジウム 「朝鮮通信使と関宿藩」に参加して』をUPしました。

では、紅白の冬ソナの歌を聞きながら・・よいお年を!



1890. Re: 良い年になりそう さわらびT  2004/12/31 (金) 16:43
遺跡大好きネコ様

こんにちは。先日は別のイベントに出向いていてお会いできなくて残念です。次回の集まりには、私も参加しますのでよろしくお願いします。

香取の海が見沼までつながっていたら、もっと面白いんと思ったのですが・・・そちらせはお正月に氷川女体神社に初詣でしょうか。こちらでは何といっても成田山・・ですがほとんど行ったことないです。

いつの時代でも古代でも人は移動してますね。どこからどこへ、何を伝えたのか、興味深く感じてます。市原の埴輪が、鴻巣市の作られたいたのは、どんなつながりだったんだろうって考えてるとワクワクします。

王子の「北とぴあ」という会場で、勉強会や講演会を開催しています。HPでも紹介していますので、ご関心があるときは是非お立ち寄りください。来年もよろしくお願いします。



1889. 良い年になりそう 遺跡大好きネコ  2004/12/31 (金) 13:02
さわらびTさん、マウンドを荒らしてしまったようで申し訳ないです。さわらび通信やあるけ〜さんのHPを始め考古学関係のサイトなどを見させていただくようになって、また視野が広がり心も豊かになれた気がしています。これからもいろいろ教えてください。

今年は、今までにも増して新しい出会いがたくさんあり、そのどれもが素敵で、もうすでにずっと前から知っている人のようなお付き合いができています。岩園遺跡や小室山遺跡を通じて知り合った方たちもそうです。1年の終わりにまたすばらしい出会いができたことに感謝します。

来年はまたこの実りを生かして素敵な年にしたいと思います。みなさん、これからもよろしくお願いします。

追伸;あるけ〜には「歩けー」も掛けていますか?もしかして。上空写真面白かったです。実は、先日起きたドン・キホーテ火災現場2店の位置もこの辺で、報道ステーションで空撮生放映されたことがありました。嫌なことで報道されるのは嫌ですけどね。



1888. 香取の海を考える さわらびT  2004/12/30 (木) 23:31
「馬場小室山遺跡」で話題沸騰していましたので書き残したことがあります。先日、市川考古博物館の山路直充先生から「「衣河の海」と「香取の海」」(『古代交通研究第13号』)を拝受しました。

Yも記しているところでもありますが、(「内海の風景」)「香取の海」とは、現在の利根川下流、霞ヶ浦、北浦、水郷、印旛沼、手賀沼など中世のころまでひとまとまりだった広大な内海のことであるとする見解が有力になっています。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/4katorinoumi.htm

推定図は、「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」をご覧ください。

http://www.ne.jp/asahi/home/ws/matsugasakijo/rekishi/katorikai.html

山路先生の論文ですが、次の@、Aの史料です。

@『常陸国風土記』信太郡条
信太の郡、東は信太の流海、南は榎の浦の流海、西は毛野河、北は河内の郡なり。(中略)
風俗の諺にいへらく、葦原の鹿は、其の味、爛れるごとしといへり。喫ふに山の宍に異れり。二つの国(常陸と下総)の大猟も、絶え盡くすべくもなし。

A『今昔物語』巻二十五 源頼信朝臣 責平忠恒話 第九
衣河ノ尻ヤガテ海ノ如シ。鹿島梶取ノ前ノ向ヒ、顔不見ヘ程也。然ルニ、彼ノ忠恒ガ栖ハ内海ニ遙ニ入タル向ヒニ有ル也、然レバ。責ニ寄ルニ、此ノ入海ヲ廻リテ寄ナラバ、七日許可廻シ。直グニ海ヲ渡ラバ、今日ノ 内ニ被責ヌベケレバ、忠恒、勢有ル者ニテ、其ノ渡ノ舟ヲ皆取リ隠シテケリ。

「ここで葦原に多数の鹿がいたことに着目したい。鹿は湿地に巣を作らないので、葦原は餌場であった。鹿の口の高さから、葦原での鹿の餌となる草は成長したアシなど丈の高い草ではなく、草丈の低いスゲ類や春先のアシ類などである。つまり葦原が冠水しているような状態であれば、多くの鹿の餌場にはならない。陸化していたのであろう」と山路先生は推測されます。Aの鬼怒川(衣河)の河口はまるで海のようだったとする記述に目を奪われてはならないとも指摘されます。

新刊の、松尾剛次『忍性』(ミネルヴァ書房、2004)を見てますが、忍性が鹿島神宮を拠点に布教を開始、そして「香取の海」を通って三村寺、さらに常総各地へと布教した背景として位置づけています。このようにどちらかといえば中世史の領域から「香取の海」が定義されているようですが、『常陸国風土記』の記載を重視すると古代の「香取の海」の姿には、また違った様相があるのでしょうか。



1887. Re: みなさん、よいお年を! さわらびY(ゆみ)  2004/12/30 (木) 01:23
遺跡大好きネコさん、しゃこさん、あるけ〜さん、暮れも押し迫ってきましたね。

26日の馬場小室山遺跡研究会の報告、前半だけUPしました。
後半は、勉強会の内容を咀嚼するのに、時間がかかりそうです。

皆様、あるけ〜さんの12/26のアルバム、そして、「180度回る画像」「空撮 馬場小室山遺跡・環状盛土遺構 (2)」ごらんになりました?
お特異の技術でさすが!のできばえです。

ちょうど私も、色鉛筆でレトロに実測図と向かい合っていました。マウンドにどう番号を振ろうかなと思案していたら、ちょうど先にあるけ〜さんが「空撮」をUP。右へならえして同じように北から時計回りで1.2.3.4.5とつけました。(定番になったりして・・)

今回おまけにUPした「概念図U」ですが、最初の、えい!と円と楕円でオリジナル版概念図を描いた時に比べ、今回は研究会ワークショップで、図面などの資料がそろい、また何回も歩いて、遺構の姿もよりはっきりと認識できたように感じます。

溪慈さま、ほか年末年始の休暇で現地へおいでの方が、この図やあるけ〜さんの概念図、画像などから、遺構の姿がすこしでもおわかりになられればと思っています。

では年越しの大掃除、頑張ってください。



1886. みなさん、よいお年を! あるけ〜 [URL]  2004/12/29 (水) 21:51
さわらびYさん、遺跡大好きネコさん、しゃこさん、
みなさん、こんばんわ

 ともかく写真だけアップしました。
雑で肝心のところがたぶん抜けてますが、
それはさわらびさんの前座ということで
ご容赦。間違っていたら教えてください。

鈴木先生のお話にも出た『みむろ物語』の
井上香都羅さんの件ですが、次のURLのページを
ぜひご覧ください。
http://www.minkyo.or.jp/tv/ikiru_6-7.html

 ところでわがハンドルネームは苦し紛れにつけたもので
深い意味はありません。専門の考古学の先生に
対しては、僭越に思われる可能性があるので、
後でしまったと思ってるくらいです。

1年のサボりが祟って、
年越しの大掃除になりそうだ(汗)
みなさんは、よいお年を!



1884. こんにちは 遺跡大好きネコ  2004/12/29 (水) 12:35
お勤めのみなさんは、大体昨日が仕事納めだったでしょうか?私も、区切りをつけられたようなつけられなかったような終わり方で2004年の仕事を終えました。あとは、いつもためにためている家のことを1年に一度くらいやりましょう、と思います。

さわらびY(ゆみ)さん、ありがとうございます。私の拙いコメントや見難い写真をご紹介くださって・・・。あるけ〜さんの報告は早速見ました。ゆみさんの報告も楽しみにしています。

しゃこさん、遺跡近くの伝説探しにも早速!と言いたいのですが、できるだけ早くといったところかな?でも、何かありそうですね。

また、みなさんとお会いできることを楽しみにしています。小室山地元民としてできることはやってお待ちしています。



1883. Re: よいお年を さわらびT  2004/12/28 (火) 18:47
こちらこそ大変刺激をあたえてくださったことに感謝です。お世話になりました。

来年も加藤先生の講座も続きます。いよいよフミヒト制がテーマになりました。フミヒトは決して文人というだけでなく、文武両道であったと強調されました。歴史の勉強の面白さをいつも伝えてくださいました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/siminbenkyoukai.htm

私が不勉強なもので、オホヤシマさんが書かれた隅田八幡宮の人物画像鏡銘文の解釈についての斬新な説を、ご紹介できなかったのは心残りですが、来年の話題にしましょう。これからもどうぞよろしく。



1882. よいお年を オホヤシマ  2004/12/28 (火) 15:31
今年一年、いろいろと勉強になりました。ありがとうございました。この会が来年も活発に活動されることを期待します。私もその恩恵に預からせて頂きたいと思います。
よいお年をお迎えください。



1881. Re: 竜伝説 さわらびY(ゆみ)  2004/12/28 (火) 01:17
遺跡大好きネコさん、しゃこさん、あるけ〜さん
こんばんは。

私もはじめて小室山へ行ったあと、興味を持ったのはやはりしゃこさんと同じように、三室の主のこと。小さくて探しにくいでしょうが、「2 馬場小室山遺跡のあるところ」にHP「見沼の竜はどこへ行った」へのリンクをつけてあります。

> 遺跡のもっと近くに伝説とかはないんですかね。
> 実は小牧野遺跡の水場遺構が発見されたのは地元の伝承がきっかけ
遺跡大好きネコさん、ぜひ地元のおばあさんなどにお聞きしてみてください。
今回、三室に行こうと思ったのは、小室山から浦和博物館までの里道を歩いて、博物館で人面画付土器のほか、民俗関係の資料を漁ってみようと、あるけ〜さんに現地同行のご都合をお聞きしたのがきっかけ。でもせっかく来られるならと、鈴木先生が馬場小室山研究会を立ち上げてくださり、以前より気にかけてくださっていたメンバーがこんなにも大勢集まって、びっくりするほど充実した第1回ワークショップになりました。

冬ソナに時間を奪われているうち、あるけ〜さんがアルバムページをもうUPされています。
http://chiba.fc2web.com/bbo/

また「東六甲遺跡」の保存会伝言板で、遺跡大好きネコさんのすてきなコメントと携帯で摂った写真もUPされてます。
http://9005.teacup.com/ooisi/bbs
> 昨日の鈴木先生の言葉で感動したこと。「調査は、目があれば見えるというものではありません。何を見つけようとするか何を見ようとするかです。」

同感です!

>あるけ〜の意味がかなり経ってからわかりました。
そう私も、房総の城郭址マニアのHPの掲示板であるけ〜さんを知り合い、同じようなことを書きました。
アルケー(arkhē)とはギリシア語で「はじめ」のこと。 哲学用語としては万物の根源また根源的原理を指す。
アルケオロジー Archaeology考古学

昨日の余韻でぼうっとしているうち、時はたって・・ 今、デジカメの画像をPCに取り込んだところです。
明日は御用納め、また夜遅くなりそうなので、ルポのUPはちょっとお待ちください。



1880. Re: 竜伝説 しゃこ  2004/12/27 (月) 23:39
> ところで、鋭いご推察にも脱帽。三室と言うよりあの氷川(あそこは女体で大宮にあるのが男体です)神社付近の見沼(田んぼとかつての沼)に竜の伝説があります。それを感じ取られましたか?それから、今はあまりその痕跡が見えないのですが、氷川神社の向側にある公園(通称案山子公園)辺りはその昔の海岸線です。
>

どもしゃこです。情報ありがとうございます。
私はセンサーが鈍いので、その手の感覚は鈍いのです。残念!
三輪山の大神神社から連想したキーワードを並べてみただけです。

氷川神社は暗かったのですが、かろうじて竜神伝説云々の看板は見ましたよ。
あそこは案山子公園っていうんですか。あの銅像怖いっす。
神社はまた明るいときに行ってみたいと思います。ちなみに、
神社前の祭祀場遺跡のところで大ミミズが私を迎えてくれました
これも竜神様の歓迎か?

神社もまあまあ近いのですが、遺跡のもっと近くに伝説とかはないんですかね。
実は小牧野遺跡の水場遺構が発見されたのは地元の伝承がきっかけ
だったとの事です「あそこに近寄ってはいけない」とかね
なんかそういう話がありそうな感じがするなぁ
それにしてもわくわくする遺跡ですね。
それだけになんとかして欲しい。

三内とか、伊勢堂岱とかは、自治体が遺跡を守ってくれました。
三内は球場建設を中止しました。
伊勢堂岱のときはストーンサークルを移設して保存という案
も出たようですが、結局道路を曲げてくれました。
山形、宮城は、素敵な遺跡もほとんど調査後潰されているような
印象をうけますし、そのほうが他の地域でも一般的なのかな
という印象をもってます。
いろいろ利害がからむんでしょうが難しいですねぇ。

いろいろな遺跡を見てきて不思議に思うのは、
遺跡の跡地に学校が建ってるケースが多いですよね。
人が集まる場が出来ているのかもしれません。
ちなみに私がすんでいる小平市にも鈴木町遺跡というのが
ありまして、小学校はまさに遺跡との事。私が勤務する会社も
遺跡の上。さらにサンリオピューロランドも遺跡の上です。

とりとめもない話になってしまいました。ではまた。



1879. 竜伝説 遺跡大好きネコ  2004/12/27 (月) 13:31
わらびTさん、Yさん、そしてみなさん、こんにちは。

しゃこさん、昨日はお疲れ様でした。あのあと氷川神社とそしてミレナリオへ?すごいパワーですね。私もいろいろ掛け持ちするタイプですが脱帽です。

ところで、鋭いご推察にも脱帽。三室と言うよりあの氷川(あそこは女体で大宮にあるのが男体です)神社付近の見沼(田んぼとかつての沼)に竜の伝説があります。それを感じ取られましたか?それから、今はあまりその痕跡が見えないのですが、氷川神社の向側にある公園(通称案山子公園)辺りはその昔の海岸線です。

また、昨日歩いた遺跡の少し西側や私たちが学習をした教室付近にも海岸線とわかる地形が残っています。私の自宅付近(さらに西側に行ったあたり)も海岸線がかろうじて確認できます。昨日遺跡をご覧になったようにまだまだ地形もかつてのままのところが多い地域なのです。

大事にしたいと思いました。改めて。

あるけ〜さんも、またお会いしましょう。あるけ〜の意味がかなり経ってからわかりました。



1878. 大成功、馬場小室山遺跡研究会 あるけ〜 [URL]  2004/12/27 (月) 01:23
ほんの2,3人で見学のつもりが・・・・
知的刺激にとんだ素晴らしい内容の研究会になりましたね。
馬場小室山遺跡のすごさもあらためて感じ言った次第。
環状貝塚、縄文社会を考えるうえでも示唆に富んだ
スケールの大きい内容でした。
鈴木・斉藤両先生に感謝です。
地元でがんばんてこられた飯塚さんはじめ、みなさんに
実際にお会いできたのも収穫でした。
これからもよろしく、です。



1877. Re: 有意義なワークショップでした さわらびY(ゆみ)  2004/12/27 (月) 00:05
遺跡大好きネコさん、皆様
いやぁ、今日の馬場小室山遺跡研究会・第一回ワークショップ、すごい盛り上がりでしたね。
遺跡のフィールドワーク、遺物の実地説明、そして飯塚さんのお教室を借りての考古学研究最前線の勉強会、わくわくするよう中身の濃い内容でした。
予想外の参加者に、充実した分厚い資料も足りなくなりそうでハラハラ。ネットや直前に口コミでお誘いしただけなのに、プロの研究者や遺跡大好きネコさんのような熱心な方ばかりそろい、感動の一日でした。

しゃこさま
小さなお子様連れの参加、お疲れ様でした。
土器の吟味の後、しゃこさんが帰られた後は、勉強会、そして7時のバスで東浦和駅に行き、初めての懇親会になりました。

「馬場小室山研究会」は、まだ事務局も組織もなく(そのつもりもない?)自然発生的な研究会ですが、この緊迫した状況に対しての、問題意識の深さとそれを共有しようとする活気(熱気?)がありますね。研究の深化は、こういう状況でこそなされるのでしょう。

はやく勉強会の内容を書けと、Tが言いそうですが、今日は帰宅も遅くなり、(冬ソナもあって)よく復習してからにします。

鈴木先生、斉藤先生、最新のお話やご案内、ありがとうございました。



1876. ありがとうございました しゃこ  2004/12/26 (日) 23:29
久しぶりにナマ遺跡を見学することができ、
非常に楽しかったです。それにしても勿体無いですねぇ

「みむろ」とか「みもろ」っていうと三輪山を思い出しますね。
なんか、ムカデとか竜関係の伝承とかはないんですかね。

一般には何もないとの事ですが、私は窪地に興味があります。
まあるい土地を見るとどうしてもストーンサークルを想像して
しまいます。

土器も東北と違って、堀ノ内とか安行とかがあって楽しめました。
東北だと晩期は大洞ばっかです。

あのあと、氷川女体神社に参拝したあと、
東京まで足をのばしてミレナリオを見てきました。
一時間は並んだと思います。まあまあきれいでした。
実は列に並ばなくても横からなら見れるんですね。

本日はどうもありがとうございました
また面白い情報がありましたら、是非教えてください。
ではまた



1875. 歴博に行ってました さわらびT  2004/12/26 (日) 22:45
ワークショップは、皆さんずいぶん収穫があったようですね。私は、あえて歴博に行ってました。

文部科学省・科学研究費補助金 学術創生研究「弥生農耕の起源と東アジア」国際研究集会(12月25日及び12月26日)8)
報告内容は、(敬称略)
25日 2004年度の調査@「九州・韓国」藤尾慎一郎A「近畿・中国」春成秀爾B「東日本」小林謙一C「年輪年代」光谷拓実(奈良文化財研究所)D「暦年較正におけるいくつかの問題−統計的課題と資料の海洋リザーバー効果−」今村峯雄E「歴博における炭素14年代研究の現状と展開」坂本稔
26日
@「韓国中西部の無文土器時代の実年代」李弘鍾(高麗大学校)
A「ソウル大学校におけるAMS-C14年代測定施設の韓国考古学への応用の現状について」金鍾賛(ソウル大学校)
B「北京大学におけるAMS-C14年代測定法とその関連研究の現状」呉小紅 陳建立 趙輝(北京大学)
C「中国社会科学院考古研究所の炭素14年代測定」仇士華(中国社会科学院)
D「中国農耕儀礼の東方伝播」岡村秀典(京都大学)

報告は、当初のショッキングな盛り上がりからみれば坦々とした感があり、冷静に受け止めればいいのでしょうが、会場が閑散としているのは、物足りなく思いました。(これ以上のコメントは今は差し控えます。)

もしできることなら、朝日カルチャーセンター(横浜)の講座を聞くのが有意義なのだと考えます。(鈴木先生は2月です。有償ですのでお問い合わせは、同センターにしてください。)

『弥生時代の始まりとその年代』
1/25、27、2/22、3/8、29(1/27以外は火曜日 10:00〜11:30 1/27のみ木曜 15:00〜16:30)

@総論(石川日出志氏)
AAMS法の実際と弥生年代論(藤尾慎一郎氏)
B国立歴史民俗博物館弥生年代論を批判的に考える(鈴木正博氏)
C中国・朝鮮考古学からみた弥生年代論(大貫静夫氏)
D国立歴史民俗博物館弥生年代論を学界はどう受けとめているか(設楽博己氏)



1874. 有意義なワークショップでした 遺跡大好きネコ  2004/12/26 (日) 21:05
さわらびY(ゆみ)さん、鈴木先生、斉藤さん、飯塚さん、馬場小室山遺跡研究会・ワークショップ参加者のみなさんお疲れさまでした。そしてありがとうございました。今日は、午前中の予定を取りやめるほど風邪気味だったのですが、今日の参加を逃したらまた動きにくくなると思って出かけました。

行って良かったです、と言うよりも行かなかったらとても後悔したことでしょう。思っていたとおり、みなさん優しくて素敵な人たちでした。

現地に行く道々にも「いいところだア」と改めて思う場所がいくつもありました。そういう意味でも参加してよかったと思っています。とにかく、これから少しでも良い状態で遺跡が残せるように力を出したいと思います。

地元の知り合いに声を掛け捲るつもりです。(小室山に行く途中に会った知人は「でも、もう売られちゃったんでしょ?」と言いました。まだまだ守れる、そう言って広めたいと思います。)

みなさん、これからもよろしくお願いします。



1873. さきたま はにわ処 [URL]  2004/12/26 (日) 10:22
さわらびさんおはようございます
>土器に関して、在野のプロのはにわ処さんのコメントもお聞きしたかったのに残念ですね。
そんな専門家ではなくただの好奇家ですので皆さんの方から教えていただく事が多いですよ
さきたま資料館も予算の関係上随分制約が多く色々大変みたいですが、ゆみさんが言うように市民のボランティアを積極的に参加させるのは良い事だと思います
何も時給で雇わなくても歴史に興味がある方はたくさんいるわけですからそれこそ市民参加型の体験学習の場になりえると思うのですが、、、

来年も宜しくお願いします
良いお年を(^−^)



1872. Re: 馬場小室山 さわらびY(ゆみ)  2004/12/26 (日) 00:37
> さわらび様折角メールを頂きましたが仕事でいけなくて残念です

土器に関して、在野のプロのはにわ処さんのコメントもお聞きしたかったのに残念ですね。

> それから先日県立博物館施設再編整備計画についての説明会がさきたま資料館であったので行ってきました
> 学芸員の方とも話しますがいかんせん今までの資料だけでは今後の研究が進まないと気の毒な話もかわします

自治体は私の職場も含め、どこも再編(縮小)路線。特に研究者にとって厳しい状況のようですね。
博物館がレジャーランド化、カルチャーセンター化すること自体は悪くないけど、調査研究も地道に続けてほしいですね。

少ない予算でプロだけで充分に出来なければ、それこそ市民がボランティアで参加する場があってもよいと思うのだけれど。

はにわ処さんのお仕事は、遺跡現地でお土産と一緒に情報も提供する貴重な存在です。今さら「民活」なんて言うけど、ずっと前からそれを実践してきたわけですから・・

さきたま資料館がお休みの年末年始は、はにわ処さんもお休みでしょうね。
またお会いしましょう。



1871. 馬場小室山 はにわ処 [URL]  2004/12/25 (土) 12:04
さわらび様折角メールを頂きましたが仕事でいけなくて残念です
それから先日県立博物館施設再編整備計画についての説明会がさきたま資料館であったので行ってきました
 埼玉県では県内にある8つの県立施設の再編案が出され、さきたま資料館も平成18年度に歴史資料館と埋蔵文化財センターと3つが統合し展示内容が古墳と中世館の博物館となります。場所は現在のさきたま資料館の施設に移りもしかしたら名称も変わるかもしれません。県としてはものづくりや参加体験をコンセプトとしたワークショップ等の実施、テーマ別展示キットによる好奇心や探求心を刺激した体感的学習事業の実施を目指すそうです。地元として気になる公園整備の拡大までには今回いきそうにならないみたいで残念ですが私見ではそれに伴った目玉としての古墳の発掘をお願いしたいところです。新資料発見の為にも丸墓山古墳やニ子山古墳は無理にしても稲荷山古墳の中央部に第3の埋葬施設が確認されていますのでこちらを発掘してみてはどうかなと思っています。
学芸員の方とも話しますがいかんせん今までの資料だけでは今後の研究が進まないと気の毒な話もかわします
先日も知事がさきたま古墳群を将来的に世界遺産にと各報道機関に発言していましたがまるっきり逆の今回の再編は縮小路線のようで非常に残念です
気になる方でご意見があればぜひ埼玉県教育局生涯学習部文化財保護課のホームページまで(http://www.pref.saitama.jp/A20/BK00/hogo-frame.html)17年1月17日まで募集しています



1870. Re: 26日楽しみです さわらびY(ゆみ)  2004/12/25 (土) 01:12
今回は、ネットでしか存じ上げない方何人かともお会いできるので、私も楽しみです。

私も考古学は全くの素人ですので、中身は濃くても、やり方はお手柔らかにと、先生にお願いしておきましょう。

久々に、「縄文遺跡のある風景in 印旛沼南岸台地の遺跡群」を更新しました。染井野のクリスマスイルミネーションをぜひ入れたかったので、クリスマスイブの12月24日にUPにこだわりました。

シリーズをはじめたのが、9月18日、ちょうど夏に明治大学阿部先生が江原台の曲輪ノ内遺跡を発掘しておられたり、井野長割遺跡のシンポジウムが開かれたりと、縄文遺跡に興味をもちはじめたころ。そのころ馬場小室山では「調査打ち切り」でたいへんだったのですね。

六一書房の鈴木氏メールに出会わなかったら、馬場小室山の調査直後のあのすごい発掘成の現場を見なかったら、きっと「縄文遺跡のある風景in印旛沼南岸」の連載や、「忍性がたどった中世の風景・U下総に律宗の痕跡を追って」の続編をのんびりと作っていたことでしょう。

                 
> 私は、相変わらず仕事やその他の活動が忙しく、・・

私も同じ。それに今週は「冬のソナタ」をまた見ちゃうのにも忙しいし・・。
今回のワークショップは、それぞれの「その他の活動」の成果クロスするのも面白い点だと思います。

ではまた。26日に。



1869. 26日楽しみです 遺跡大好きネコ  2004/12/24 (金) 14:17
こんにちは。さわらびYさん。なかなか鈴木先生にご連絡差し上げられないでいる内にアクションを起こしてくださって感謝します。直接お会いして一緒に見たり考えたりすることができるようになってうれしく思っています。

私は、相変わらず仕事やその他の活動が忙しく、どこまで実際に行動できるかわかりませんがこれまた相変わらず私ができる方法で参加したいと思います。よろしくお願いします!



1868. 「馬場小室山遺跡研究会」発足! さわらびY(ゆみ)  2004/12/23 (木) 21:21
「馬場小室山遺跡研究会」発足!
 ⇒馬場小室山遺跡の重要性を多くの方々に知っていただくために、そしてその重要性をより客観化する努力を行うために
    
第1回ワークショップのおしらせ

1.日時:2004年12月26日(日) 13:30〜16:00

2.集合場所:JR東浦和駅 改札口 13:00集合
 ★ベレー帽の私(さわらびY)を探してください。はぐれた場合は馬場小室山遺跡でお会いしましょう!(「馬場小室山への現地視GUIDE」をプリントしてきてね)
 ★屋外ので活動時間が多くなりますので厚着の準備を。

3.ワークショップの内容
(0)はじめに−馬場小室山遺跡と向き合って−2003年の競売時点から保存運動を行ってこられた飯塚邦明さんのお話を伺います。

(1)馬場小室山遺跡の現状視察−踏査により地形を把握すると共に、「盛土」の供給場所を理解し、加えて「盛土」の残存状態から往時の状況を復元する。

(2)馬場小室山遺跡の「調査未了」地区から救済・保護した遺物の吟味−「調査未了」の実態を理解すると共に、「土器型式」について知見を深める。
  【縄紋式中期から堀之内2式】:<解説>斉藤 弘道さん
  【加曽利B式から安行2式】:<解説>鈴木 正博さん
  【安行3a,b,c,d式】:<解説>鈴木 加津子さん

(3)縄文時代の研究最前線−馬場小室山遺跡理解のために最先端の知識の提供
 @縄文時代中期という時代(『翡翠展』を意識して):<解説>斉藤 弘道さん(参考資料は富山県の企画展カラーパンフレット配布予定)
 A「盛土遺構」研究最前線  :<解説>鈴木 正博さん(『貝塚研究から観た「盛土遺構」』)

以上、鈴木正博先生からのお誘いのメールから編集しました。



1867. 馬場小室山遺跡研究会 さわらびY(ゆみ)  2004/12/22 (水) 23:09
馬場小室山遺跡へ心を寄せてくださる皆様

12月26日に馬場小室山遺跡の現状を見にお伺いしたいと、鈴木先生にメールいたしましたところ次のようなお返事をいただきました。

>折角何人かが集まるのであれば、馬場小室山遺跡研究会を行いましょう。
>これまでに救済・保護した遺物が結構ありますので、その吟味をしませんか?

私は、考古資料や土器など、全くの素人ですが、専門家の皆様から教えていただけるならこの際、実物で勉強したいと、とてもうれしく思っています。

よろしかったら、ぜひ現地の視察と土器の勉強に参加してみませんか。

時間はこれから調整いたしますが、(たぶん)東浦和駅午後1時を考えています。

メールをお待ちします。



1865. 倉庫・、ミヤケ ホホヤシマ  2004/12/20 (月) 12:24
方形区画の倉庫から、豪族居館、ミヤケという流れでしょうか。大工のイナベが作り続けたのでしょうか。



1864. 巨勢氏? オホヤシマ  2004/12/20 (月) 12:22
さわらびT
情報ありがとうございます。
ドンパンチョ様
参加記みさせていただきました。ありがとうございました。

ある新聞には「巨勢氏の前身的な勢力では」と書かれていましたが、辰巳さんや加藤さんの説とは違っているようですね。もっとも「前身」とはどういう意味かが問題ですが。
4,5世紀の朝鮮半島への軍事活動が紀伊路経由というのは鳴滝遺跡の存在などからも注目すべき見解ですね。百済武寧王からヤマトの忍坂にいた王に送られた鏡がなぜ隅田八幡宮にあったのかを考える上でも興味深いところです。
韓式土器が五世紀後半からというのは加藤先生とあっているようですが。



1863. 高取・薩摩遺跡 さわらびT  2004/12/19 (日) 23:16
先日、オホヤシマさんからお教えいただいたのですが、高取町薩摩で、3世紀中ごろから5世紀代の古墳10基と竪穴住居跡などが見つかったそうです。橿原考古学研究所による現地説明会が18日にあったそうですが、ドン・パンチョさんが参加記を書いておられます。

http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/index.htm

5号墳(5世紀前半)出土の青銅鏡ですが、国産で、乳(にゅう)の間に獣のような文様がある珍しい文様です。また、5世紀後半の古墳からは韓式系土器も出土しているそうで、興味深い発見です。(奈良新聞参照)



1862. Re: 居館、ミヤケ、郡家 さわらびT  2004/12/19 (日) 22:59
先月、近つ飛鳥博物館に行く前日のこと、大坂歴史博物館に立ち寄りました。1時間強程度の時間しかなく、企画展を見るので精一杯でした。難波宮下層遺構や、法円坂遺跡については機会をあらためて見てみたいと思ったものでした。

法円坂倉庫群は、こに難波宮ができる前の段階、須恵器の年代から5世紀代の倉庫群らしいです。軍用倉庫という説が有力のようですが、この技術が次の時代の豪族居館などの建設に関わりがあるのではないか・・・そんなことも考えてます。



1861. 東も西も・・ さわらびY(ゆみ)  2004/12/18 (土) 21:01
芦屋市岩園の大坂城石垣採石史跡の保存についても、東の馬場小室山も、自治体の文化財行政の姿勢が問われていますよね。

自然や歴史的景観を調べ、日常的にその価値をPRしておくこと、とりあえずそれが私たち市民にできる最も基本的なことなのでしょう。

「千葉市の史跡を歩く会」http://www.geocities.jp/chibaiseki/ や 「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」http://www.matsugasakijo.org/ の活動には、頭が下がります。

> そもそも山を崩す形式の宅地開発は、土地の使い方、生き方、
> エネルギー資源などの観点で時代遅れなのですが、

公共的な利用を望んで物納されたものかもしれないのに、国が叩き売りのように、競売してしまう。最近の動向なのでしょうか。

> 馬場小室山遺跡の現場・・

発掘された姿は10月16日が見納めでした。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/10.16omuroyama.htm

でも、現在工事中の場所は環状盛土遺構の一部ですから、ぜひ残された遺跡全体を歩いてご覧になってください。



1860. 居館、ミヤケ、郡家 オホヤシマ  2004/12/17 (金) 12:28
豪族居館を忘れてましたね。それとミヤケがあった場所に郡家が出来るケースが多いとどこかに書いてあった記憶があります。
そして、古墳から寺院・神社という流れがあります。
これらを一体として理解する必要がありそうですが、正月の勉強テーマでしょうか。
正月は聖徳太子と大化改新を勉強する予定なのですが。



1859. さわらびY(ゆみ)さま 溪慈  2004/12/17 (金) 01:20
レスありがとうございました

> 千葉市長作城山に行ってきましたが、旧家の持山が物納され、
それが競売にかけられて宅造に供される姿を見てきました。

全国的な傾向に見えます。業者さんにはお願いメールを差し上げ
ましたが、やはり無力のようです。愚痴っても始まらないので、
HPから情報を必至に探し、私に出来ることを探しています。

そもそも山を崩す形式の宅地開発は、土地の使い方、生き方、
エネルギー資源などの観点で時代遅れなのですが、現行法では
如何ともし難いですよね。(-_-;)何か無いのでしょうか……。

正月は一年で唯一の連休となるので、他の用事と合わせて
馬場小室山遺跡の現場にも立ち、当時の人の仕事そのもの
である(土器を埋めたという)穴にも触れてみたいのですが、
もはや存在しないのでしょうね…。

おかしいです。必ず間違っています。ここも失ったら、恒久的に
後悔することは目に見えています。本当に苦しいです;;;



1858. 豪族居館と郡家 さわらびT  2004/12/16 (木) 23:45
6世紀の豪族居館のような暮らしの痕跡が、わかることがあるかもしれないですね。初期の郡家が、豪族居館と同じものだったのか、それとも国庁なみの定型的パターンがあったのか、これもまだ謎なのかもしれません。

「神宮の南に郡家がある。その北には沼尾の池がある。古老がいうことには「神世に天から流れてきた水沼である」。そこでとれる蓮根は、味が一段とよく、味の美しいことは他所のものよりもすぐれている。病気の者もこの沼の蓮を食うと、早く治ってききめがある。また鮒・鯉がたくさん住んでいる。以前に郡家があったところには、多くの橘が植えてあり、その実は味がよい。」(河野辰男『口訳 常陸国風土記』筑波書林、1978)

神宮の南にあった郡家は神野向遺跡ですが、沼尾の池の辺りに以前、郡家があったらしいと読めます。ただし「以前に郡家があった」としても、改新詔にある郡司が任命されていたのでしょうか。まだ疑問は残ります。

同じ『常陸国風土記』の香島郡条は大化五年(649)のこととして、建評記事を載せています。下総国造の軽野から南1里、那須国造の寒田から北5里をさいて神郡をおいたのがこの鹿島郡というわけです。この暦年がどこまで信頼できるかも気になります。



1857. 関東地方の郡家遺跡 オホヤシマ  2004/12/16 (木) 12:19
私もまったく勉強不足なのですが、私の感じでは、関東地方で見るかっている郡家遺跡は7世紀第3四半期以降じゃないかと思います。645年頃にミヤケが解体されたことを示す遺跡でもあればいいんですが、ちょっと無理ですかね。そもそも「郡家」という言葉自体8世紀からの言葉ですから、問題は土器などの年代ですが。
改新の詔云々以前に、そのような試みがなされたかどうかという証拠を他にみつけるという作業でしょうね。



1856. Re: 大化改新と地方遺跡 さわらびT  2004/12/15 (水) 23:11
まず堅苦しくいえば、いわゆる「改新詔」の第2条、「初脩京師、置畿内國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。・・・・・其郡司、並取國造性識清廉、堪時務者、為大領・少領・・・」

養老令と同じ文章らしいですから、646年(大化2)に出されたものと断定するのはためらわれますが、遅くとも七世紀第4四半期には国造制からの転換が図られたのではないでしょうか。しかし、この25年間の違いは大きいという山尾説もあります。白村江と壬申の乱がありますよね。国際関係が、ものすごく重要な時期ですので、国内整備は必要に迫られたわけでしょう。蘇我氏内部の宗主権争いですが、結果的に「改新」がおこった・・・・

熊谷先生は『日本書紀』以外から「大化改新」は証明できると書いておられますが、(『大王から天皇へ』講談社)そんなにあっけなく国造制は解体したんでしょうか?

先日、行ってきた「神野向遺跡」は郡家ですから新しいです。香島評の段階の評家は別に遺跡(沼尾社)があるようです。それが七世紀第3四半期にさかのぼるのかどうか、不勉強でして、あらためて調べてみたいです。常陸の場合は、「常陸国風土記」が残されてますから、興味は尽きないです。



1855. 大化改新と地方遺跡 オホヤシマ  2004/12/15 (水) 12:25
大化改新の存在を考古學的に確かめる方法は難しいかと思いますが、最近よく発掘されている地方の政庁遺跡などで、七世紀中ばでのなんらかの変化・新設などの証拠が出てくれば、東国でなんらかの改新に対応した動きがあったという説を裏付けるものになるかも知れませんね。あまり勉強していないので、たんなる思いつきですが。



1854. 「馬場小室山遺跡 市史跡指定へ」を読んで(2) さわらびY(ゆみ)  2004/12/14 (火) 23:48
さいたま市議会「史跡と認める」の記事を読んで(2)

今回、鈴木先生、飯塚さんほか地元の皆さん、応援の考古学研究者、市会議員の方々の奮闘で、やっと、市は重要な史跡であることを認めてくださった! これは大きな成果です。

でも、目の前で切られてしまった樹林、掘り返された遺構、土とともに搬出された遺物は、どんなにお金をつぎ込んでも、もう戻ってきません。

そして、まだ残る未調査の盛土遺構も、今も破壊工事にさらされています。

時間は元に戻せないが、失われたものの代償にせめて、今日現在残っている遺構の保全と、他のたくさんの遺跡や自然、景観が、今後同じ運命をたどらないことをせつに祈ります。



1853. 「馬場小室山遺跡 市史跡指定へ」を読んで(1) さわらびY(ゆみ)  2004/12/14 (火) 23:47
さいたま市議会「史跡と認める」の記事を読んで

この10月2日からなぜか私は、馬場小室山遺跡と深くかかわってしまいました。
たぶん、夏に現地説明会でもあったら、「発掘調査現場探訪記」のコーナーに現説アルバムを追加して、それでたぶん終わりだったかもしれません。

5月、三代王神社の貝層を破壊して道路工事を進めている現場に遭遇し、HP「千葉市の遺跡を歩く会」の掲示板に画像をUPしたのがきっかけで、縄文遺跡について、HP管理人あるけ〜さんには教えていただくことが多々あり、私も遺跡の景観を紹介しようと、「縄文遺跡のある風景in印旛沼南岸の台地にて」の連載を始め、またHP「千葉市・・」掲示板では、環状盛土遺構のある遺跡探しの会話を楽しんでいました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/sanndainaiiseki/sanndainaiiseki1.htm
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/joumon/joumon.htm

9月28日「千葉市の遺跡を歩く会」の掲示板に載った「埼玉県さいたま市の馬場小室山遺跡の調査が最終局面を迎えている」という記事。その週末、現地を訪れたとき、もう調査は「終わって」いましたが、でもそのときから、私はこの遺跡と出会ってしまったのです。
考古学の「業界」とほとんど無縁の私は、有名な?鈴木正博先生のお名前すら知らず、ただこの遺跡と里山の景観が失われていくのが、とてもつらく感じられました。

そして10月2日、遺跡の帰りに寄った近くのさいたま市立浦和博物館では、何も出土資料の展示もなく、学芸員の市職員から遺跡について何の紹介も得られず、大宮駅前で開かれていた「さいたま市最新出土品展」の案内さえなかったのです。(「それは教育委員会の仕事」それはないよね)

馬場小室山遺跡の重要性について、私自身がとにかく「知る」こと、そして皆さん、特に市の職員に知ってもらいたい、そう思ってルポをアップしてきました。



1852. アサヒコムの記事紹介 さわらびY(ゆみ)  2004/12/14 (火) 12:08
「asahi.com:MYTOWN埼玉」に「馬場小室山遺跡 市有地分を市史跡指定へ  西側は開発、市民惜しむ」というの記事が出ていますので、ぜひお読みください。
http://mytown.asahi.com/saitama/news02.asp?kiji=6160




1851. さいたま市議会速報 さわらびY(ゆみ)  2004/12/13 (月) 23:15
鈴木正博先生からの議会速報の一部です。
先生のコメント入りの概要は、すぐに馬場小室山遺跡・緊急特設ページ
http://chiba.fc2web.com/bbo/ にUPされると思いますが、とりあえず、字数の関係で質問と回答だけお知らせします。

本日のさいたま市議会の12月定例会一般質問「馬場小室山遺跡」に対する教育長回答の概要

1.鳥海(とりうみ)敏行市議の質問と教育長の回答

(1)今回調査した馬場小室山遺跡についての教育長の所見は?
【答】 住居、土坑、盛土遺構の調査は完了したと聞いている。他の遺跡の調査同様、大きな成果があった。

(2)市有地については史跡と活用するため、教育委員会から文化財保護審議会に対して保存を諮問して頂きたい。
【答】 今回の調査成果を受け、文化財審議会の答申を受け、市指定史跡とする方向で検討中。

(3)既に調査された部分の結果を全国的に公開すべきとの要望についてはどのように考えているか?
【答】 成果についてはDOM(大宮駅前)で最新出土品展(1週間)を実施した。調査結果についてはさいたま市遺跡調査会が報告書を発行し、国会図書館や関係機関に配布され、一般の閲覧に供される予定。

2.岡まち子市議の質問と教育長の回答

(1)馬場小室山遺跡の評価、発掘調査の成果、および現状についての説明を求める。
【答】 約4万平米にわたる縄文中期から後晩期にかけての遺跡で、昭和44年から32階調査し、土器・石器・土偶・耳飾などが多数出土しており、重要な遺跡の一つである。

(2)馬場小室山遺跡を市指定史跡とし、市有地は市民公開の場(説明板や遺構・土器パネル展示)として活用すべき。
【答】 集落や遺構の広がりが見受けられるため、史跡化を検討している。

(3)史跡とするに当たり、その活用には市民とのコラボレーションを重視し、街づくりに寄与するようにしては?
【答】 管理については保安を含めていろいろな問題もあるので、今後研究・検討していく。



1850. さいたま市議会に注目! さわらびY(ゆみ)  2004/12/12 (日) 23:28
12月13日(月)午後、さいたま市議会で「馬場小室山遺跡の保存について」の質問の予定だそうです。
 とりうみ敏行市議  14:30〜
 岡 まち子市議   15:30〜

皆様の熱意で、馬場小室山遺跡について、市が史跡として認めてくれるよう、心から祈ります。



1849. Re: 昨日はありがとうございました さわらびY(ゆみ)  2004/12/12 (日) 23:23
高遠様
> 昨日はお話できて楽しかったです。
こちらこそ、最前線の研究成果のお話と和やかな会に充実した時間を過ごさせていただきました。

URLを開けてみました。
北条時行ファンサイト「狭雲月記念館」のオーナーさんだったのですね。拝見するのが楽しみです。

今後ともよろしくね。



1848. 昨日はありがとうございました 高遠彩華 [URL]  2004/12/12 (日) 11:15
>さわらびゆみさま
初めて書き込みさせていただきます。
昨日の山川氏のご発表の時に、仏岩の宝篋印塔のことなどお話しさせていただいた者です。

昨日はお話できて楽しかったです。ありがとうございます。
またお会いしたときには、いろいろお話しさせてください!



1847. 石造宝篋印塔のルーツ(1) さわらびY(ゆみ)  2004/12/12 (日) 09:26
石造宝篋印塔のルーツ(1)

9月4日・5日中世都市研究会2004鎌倉大会で、山川均氏の「奈良と鎌倉―忍性と大蔵派石工―」をお聞きし、その後中国泉州に調査に行かれるとのこと、帰朝後ぜひその成果をお聞きしたいと思っていましたところ、11日午後、東京大学史料編纂所にて、同氏の「初期宝篋印塔と中国宝篋印塔−その受容に関する基礎的考察−」という報告があると知り、さっそく行ってきました。

日本の初期宝篋印塔は、明恵の髪爪塔といわれている栂尾高山寺宝篋印塔が1239年造立という年代のはっきりしている最初の塔だそうです。
サイトでさがすとhttp://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/image/kozannji.jpg 
(@http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/hokyo-into.htm

これと、プロポーションがそっくりなのが妙真寺にあった塔
http://homepage3.nifty.com/owl/9700SHIKUISHIEN2.jpg
(@http://homepage3.nifty.com/owl/9700.html
こちらは四隅に鳥があって「鶴の塔」とも呼ばれています(鳥はふくろうだそう。)

スライドの紹介では、この塔の構成要素が中国泉州の開元寺にあった塔に類似し、そのほか石造文化(産業?)が盛んな泉州には11世紀の巨大石造橋や港を見下ろす山の頂に大きな宝篋印塔が建立され、それらは、塔身には本生図や仏像、その隅にカルラ像、隅飾(耳のように立っている)に仏伝、基礎に四仏や三仏が彫刻された華麗なデザインでした。

またそのルーツは金属製にもとめられることは本BBS「1655. 中国国宝展と宝篋印塔のルーツ」に書きました。
http://hpmboard1.nifty.com/cgi-bin/thread.cgi?user_id=QWR07752&disp_no=1655&log_no=1655&msg_per_page=50&def=50

1845へ続く



1845. 石造宝篋印塔のルーツ(2) さわらびY(ゆみ)  2004/12/11 (土) 23:40
石造宝篋印塔のルーツ(2)

今回の山川氏の報告で興味深かったのは、高山寺の明恵と交流があった證月房慶政が1217年に泉州に滞在し、ペルシャ語の四行詩を書いてもらって明恵に送っていること。慶政は泉州の開元寺に滞在し、その宝篋印塔を拝んでいたはず。また1232年になくなった明恵の百ケ日供養の導師を慶政が務めていることから、高山寺塔の建立には慶政がかかわっていたという説です。

13世紀後半からは、與山往生院、額安寺などの宝篋印塔が忍性など律宗教団によって作られて、その後全国に普及していきますが、そのルーツは11〜12世紀、泉州に栄えた石造文化が入宋僧の記憶の中にあったということだったのですね。
(額安寺=http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/6hurusato.htm

ただ、日本で普及したのは、ごてごてした彫刻のないシンプルなもの。
五輪塔に見られるように、幾何学的なデザインになにか宇宙観のような哲学的な思想を表現しようとしたのかもしれませんね。
そのたどり着いた最高傑作が箱根の宝篋印塔のように思えます。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/seitou-data2/hakonehokyouinntou_1.jpg

お好きな方は次のページにただの画像データ集がありますので、比較してみてください。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/seitou-data2/sekizoubutu.htm



1843. Re: 「大化改新」 さわらびT  2004/12/10 (金) 23:23
この話題ですと、山尾先生のお考えにもふれておきたいです。肯定論から否定論に変わったと自らおっしゃっておられました。1983年から取り組んでこられ、「孝徳紀」の11の詔のすべてを検討しなければならないとのことです。これらの詔が制度史的な検討を踏まえると670年から675年に出されているのだとされます。4半世紀ずれるわけですね。この違いは大事だ、歴史解釈が違ってくる、といった強い信念が感じられます。『古代王権の原像』(学生社)が比較的読みやすいので、時おり目を通しています。

これに対して、対照的な考え方を熊谷公男先生は『大王から天皇へ』(講談社)で書いておられます。
はっきり、改新否定論には賛成しないと記述しています。「たとえ「改新の詔」をすべて除外しても、また『書紀』以外の断片的な文献資料・考古資料からみても、新政権が一連の政治改革に着手したことは否定しがたい事実だと考えるからである。」

『日本書紀』の読み方、歴史理解を、あらためて問いかけてくる課題です。迷いながらも勉強してますが「改新」というものを、うっかり「王政復古」風に理解してしまうと、時代はとらえ切れないと思っています。重要なのは国際関係ではないでしょうか。(難しいところですね。)



1842. 「大化改新」 オホヤシマ  2004/12/10 (金) 12:33
篠川先生は石川麻呂首謀説から、孝徳・石川連携説へ、遠山先生は孝徳首謀説から孝徳・皇極連携説へそれぞれ変化されていると思いますが、やはり、王族・豪族間の組み合わせがないとあれだけのことは出来なかったのではないかと思います。山背大兄滅亡事件でも結局ほとんどの王族・豪族が参加していた可能性が高いので、バトルロワイヤル形式で次々に蹴落とされていったということなのでしょうか。

日本書紀が記すように、646年に詔は出たのか、それは効力を発揮したのかはまだまだ勉強不足ですが、孝徳は舒明・皇極と皇位が次がれるながで、有力王族として浮上してきたわけで、古人が去った時点で最有力王族であり、皇位についたのも実力であったと思われます。したがって、改新を試みたとしてもおかしくはないと思います。

篠川先生は、中大兄はむしろ保守派で、石川麻呂・孝徳は改新派とし、石川麻呂の自殺事件は、改新派の交代を意味するとの考えのようです。



1841. Re: 「遺跡が叫んでいる!」 さわらびT  2004/12/09 (木) 23:04
プロジェクトXですが、感動は毎週あるわけじゃないし、成功者の話ばかりだし・・・と思いながら私は最近はほとんど見なくなってしまってます。先日、アンコール放送で吉野ヶ里の物語があったようですね。私は見損なったのですが、Yが佐原先生への思いもあって感傷に浸ったようです。もちろん遺跡保存というテーマでもありますし・・・

次のようなメールをいただきました。一つのご意見として紹介します。(部分引用ですので、ご趣旨に反するようでしたらご指摘ください。)

「冒頭で七田忠志の話があり、それを弥生時代とナレーションしていました。採集した土器は縄紋式早期の押型文土器のみが沢山映りました。授業でかざした土器のナレーションで「弥生時代となると・・・・」と説明していましたが、あれも縄紋式早期の押型文土器です。・・・・考古学の知識が多少でもあれば、押型文土器と弥生式土器を間違えることは無いはずですが・・・・?」

どのように理解すればいいのでしょう。私は見ておりませんので、そのシーンがよくわからないのですが、再現ドラマとして、適当な土器を小道具に使っていたということでしょうか。七田氏は、監修されていないということなんでしょうか、それとも・・・・

「大化改新」は現代劇だと思って楽しませていただこうと思っていますが、気がついたら、NHKの番組に対する意見を続けてしまったようです。



1840. Re: NHKと大化改新 さわらびT  2004/12/09 (木) 19:58
オホヤシマ様

「大化改新」のことは、まず「 」にしましょう、という立場から説明しないとまずいですね。私は、必ずしも否定論ではありませんが、一般的には入鹿殺害=改新と考えられていますよね。ドラマだと、どんな風に描かれるのでしょう。『家伝』の記述をもとに主役の鎌足が入鹿と仲のいい同級生みたいな描き方になってるとか・・・・

以前書いた記憶がありますが、篠川先生は、入鹿の所領を継承したのが石川麻呂だったことからこのクーデター(乙巳の変)は蘇我氏内部の争いだと論じられたと加藤先生から聞きました。『飛鳥の朝廷と王統譜』の方を読んでいますが、遠山先生の『大化改新』を引きながら、孝徳−石川ラインによって起こされた事件と論じていますね。

中大兄−鎌足のラインは、初めからあったんでしょうか。推古の後継をめぐり争った人々が、どのような利害で組み合わさったことなのか、解きほぐす作業ということでしょうか。皇極(斉明)の果たした役割も当然軽視できないわけです。





1839. NHKと大化改新 オホヤシマ  2004/12/09 (木) 12:46
この時期「大化改新」のドラマが放映されるのは、大阪局のクーデターではないかという説が週刊新潮に載っていましたが、前から決まったこととはいえ、皮肉ですね。改新ならぬ改心ではないかとも。
遠山先生の新著では、旧著と違っている点があるが、これが現時点の考えであると言っていますね。孝徳だけでは説明できないということでしょうか。私も、皇極が入鹿暗殺を事前に知っていたかには興味があって考えたことがありますが、やはり知っていたんじゃないでしょうか。首謀者かどうかは別にして。
篠川先生の「日本古代の王権と王統」を今読んでいますが、篠川さんは改新以前の状況として@皇極から古市への譲位を図る入鹿・古市ライン A皇極から軽への譲位を図る軽・石川麻呂ライン、B皇極の死を待って中大兄への継承を図る天智・鎌足ラインの3つのラインが蘇我氏内部の主導権争いと結びついて起きたのが、入鹿暗殺事件であり、AとBと提携して@のラインを葬ったものであるとしています。
軽皇子は皇極朝において、政治に参与する王族に位置にあったとしています。



1838. ミステリー大化改新? さわらびT  2004/12/08 (水) 23:53
NHKの『その時歴史が動いた』で、『ミステリー大化改新〜蘇我入鹿暗殺の実像』が放映されました。お正月番組の宣伝のようですが、この番組では遠山美都男先生(学習院大学講師)の説がかなり全面に出されているので、興味深く拝見しました。

遠山先生は、山背大兄一族の滅亡事件の、首謀者はほかならぬ皇極天皇であったといわれるわけです。乙巳の変の首謀者が軽皇子(のちの孝徳天皇)だと『大化改新』(中公新書)で論じらたことでも有名ですが、「聖徳太子伝略」の記述に従い山背大兄が軽皇子と入鹿との共同戦線によって滅ぼされたのだという説だったのですが、『天皇と日本の起源』(講談社現代新書)では、新説を出されたわけです。

その流れの中で、入鹿を殺害するという出来事につながります。謎解きの面白さを感じますが、『天皇と日本の起源』を丁寧に読むと、いいと思っています。ただし、上記のように、旧著と部分的に説を替えておられますので要注意です。



1837. 「遺跡が叫んでいる!」 さわらびY(ゆみ)  2004/12/08 (水) 00:05
NHKプロジェクトX アンコール「王が眠る 神秘の遺跡」を見ました。
重機による破壊寸前、遺跡を守った七田さんと佐原真先生の懐かしい姿・・ 何度見てジーンときます。
「遺跡が叫んでいるのが聞こえた、今までつぶされてきた名もない遺跡たち・・」のナレーション。

馬場小室山にも、授業の合間に土器を拾って遺跡の重大性を発見した三室中学の町田先生、「縄文文化の正倉院」と書いた本を出版して遺跡の意義を訴えた浦和市郷土文化会や青木義脩氏など、遺跡を巡る発見と啓発の歴史とドラマがありました。

TOPページとフォトスケッチの写真「加曽利貝塚にて」のような景観が未来の子供たちに伝えられたらと、あらためて思います。



1836. 神社と郡家 オホヤシマ  2004/12/06 (月) 12:32
さわらびT様
大風の中、精力的に参加されて頭が下がります。
神社の中に郡家の遺跡があるというのも面白いですね。
こういう例はあまりないような気がしますが、どうなんでしょうか。鹿島神宮は、ある時期、日本列島の東の端という位置づけであったと思います。その北は毛人の世界であったという認識があったのではないか。もちろん、郡家が出来た時点ではそのような認識はなかったでしょうが。



1835. 真行寺廃寺と嶋戸東遺跡 さわらびT  2004/12/05 (日) 22:52
年初の掲示板1183(01/12 (月))Yが書いています。

「午後は成東の真行寺へ。胡摩手台16号墳(民家で行き止まり、さらにその先だった)、真行寺廃寺跡(何にもない畑と林、でも瓦片が落ちている)、経僧塚古墳(獣道のようなやぶこぎ)、さらに板附の駄ノ塚古墳(犬を連れたおばあさんが道案内)へ行きましたが、どこも案内板も表示も(道すらも)ないところばかり。」

確かに、案内版がほとんどない状態でYが懸命に、『房総の古墳を歩く』(芝山町教育委員会)をたよりに探索したのでした。真行寺廃寺のおもむきは、よく覚えています。そこから、「武射寺」の墨書土器が出土したことで、武射郡の郡名寺院と考えられているのです。その近くに嶋戸東遺跡があります。

今日、成東の町文化会館のぎくプラザで「嶋戸東遺跡成果発表会」がありました。(成東町教育委員会・(財)千葉県文化財センター)

同時開催されている、出土遺物展で、その墨書土器も見ることができました。嶋戸東遺跡は武射郡家であると断定されているようですが、少なくとも前期・後期の遺跡があり、後期は方6町(600メートル)に及ぶということです。(発表は千葉県文化財センターの栗田則久氏)

阿部義平先生の講演(「古代国家の成立と地方の役所」)も時間を大幅に超過する熱演でした。先生が文化庁におられた30年前には、古代の役所の史跡は僅かに1つ、それが現在は20を数えるという。考古学の成果といわれる。最近は、何でも史跡にするのはどうか?という議論まで出てるそうです。

さらに郡家成立に先行する遺構があるとの視点で板附古墳群(西ノ台・不動塚・駄ノ塚・駄ノ塚西)にも言及されておられたのも印象に残りました。

余談ながら、朝方の強風雨の影響で、JRが大幅に遅れ、会場に着くまでハラハラしました。そのせいでもあるのでしょうか、参加者が少なかったのは、この遺跡の重要性を考えると少々残念でした。



1834. 「鹿島郡家と日本古代史」 さわらびT  2004/12/05 (日) 00:00
久留倍遺跡シンポジウムに参加して以来、郡家に少々興味を持ち始めました。そんな気持ちもありまして、今日は、歴史講演会「鹿島郡家と日本古代史」(講師 佐藤信先生・会場 鹿嶋勤労文化会館)に行ってきました。

遠いのはやむを得ないのですが、むしろ鹿島神宮駅から会場までバスがない(に等しいらしい)のが不便でした。駅で、SUIKAが使えなかったのにもちょっとびっくり(^-^)

ところで、佐藤先生のお話を聞かせていただくのは、久しぶり、休憩なし2時間の講演を堪能しました。

「神野向遺跡」(かのむかいいせき)が鹿島郡家と推定され、昭和61(1986)年に国指定史跡になっています。せっかくだからとその「神野向遺跡」を探して見ようと歩いたのですが、どうしても、見つかりません。早めに会場に行って、鹿嶋市文化スポーツ振興事業団の方(だと思います)に、地図を見せていただけましたので、ようやくその場所がわかりました。探しながら歩いていたところでした。

広い敷地を、買い上げているそうですが、「鹿島神宮境内附郡家跡」(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)という標識は遺跡の場所に立っているのですが、案内看板もなく探しにくい状態でした。厨家・郡庁・正倉がそれぞれ発掘によって明らかになっているそうですが、ご案内いただかないとわかりにくいのもつらいです。せっかくの国指定史跡です。もう少し整備をしていただけたらわかりやすいのにと、感じました。

佐藤先生のお話にもありましたが、郡家は最初、鹿島神宮の北にあったようですが(『常陸国風土記』香島郡条)、のちに「神野向遺跡」移ったようです。16年度発掘調査現地説明会の資料もいただきましたので、拝見してますと、郡庁は建物配置・構造から3期に変遷されたと想定されるようです。大溝で囲まれた版築地業の建物跡(正倉のようです)が10棟近く存在しているとのこと、これらが同時期に存在したのか、増えたのでしょうか?これからの研究も楽しみな遺跡のようです。



1833. Re: はじめまして さわらびY(ゆみ)  2004/12/04 (土) 23:53
渓慈さま

渓谷を愛するナチュラリストからのメッセージ、ありがとうございます。

> 4000年もの生活の場は、ただ記録を取れば済むほど軽い
> 場所では在りません。周辺まで保存されて当然ながら、
> それが叶わぬなら、せめて一部でも保存しなければ、
> 人類の恥になります。

たぶん行政の最前線埋文担当者が、そのように遺跡の意味を市民に説き、市民に遺跡の大切さを知ってもらい、さまざまな方面に働きかけて守っていく責務を負っていると思うのですが・・。

今日も、千葉市長作城山に行ってきましたが、旧家の持山が物納され、それが競売にかけられて宅造に供される姿を見てきました。せっかく物納されたのに惜しいことです。




1832. はじめまして 溪慈 [URL]  2004/12/03 (金) 23:54
徳川大坂城東六甲採石場遺跡の保存を求める
市民の会HPからです。

いきなり本文で失礼しますが、さいたま市に他所者の私が
意見・要望を寄せても大丈夫でしょうか?

4000年もの生活の場は、ただ記録を取れば済むほど軽い
場所では在りません。周辺まで保存されて当然ながら、
それが叶わぬなら、せめて一部でも保存しなければ、
人類の恥になります。

そもそも、発掘調査などで出せる土器など一部だけである!
とは前々から確信していましたが、思った通りでした。
とにかく、重機で潰した後からでも多くの土器が出る…
そんな場を潰すことは断じて成りません。
急に行われた破壊の数々は目に余ります。

今も破壊は続いているのでしょうか…。
同じ人として、同胞の目に余る愚行を黙認できません;;;
何とか成らないのでしょうか(-_-;)



1831. 「そんな私でもできる動き」と「もだえ」の共有化 さわらびY(ゆみ)  2004/12/03 (金) 23:31
遺跡大好きネコさん はまりんさん
こんばんは
熊野が世界遺産とおおさわぎしているのに、ベットタウンの大都市圏では行政の中途半端?な「記録保存」で消えていく遺跡群、西でも東でも警鐘を鳴らさないと、観光資源の遺跡を除いて、いつか何もなくなっている時代になってしまいそう。

>そんな私でもできる動き
そう。誰に命ぜられるわけでなく、無理なく、義理でもなく、できることを自らの心のままにしていきたいと、思います。

お散歩ついでに小室山がどうだったか、ぜひ教えてください。

>手探りでもだえています
その「もだえ」を共有化していければ、いつか道が開けるような・・

Webの管理人さん、見てくださっている方々、ぜひよろしくお願いします。
なお、No.1828でのWebサイトへの謝意に次も加えたいと思います。
「常陸古文化探求室」さま
http://www015.upp.so-net.ne.jp/hitati-kobunka/banba-omuroyama.html
六一書房のサイトの鈴木先生のメールでこの問題を私が知る以前、9月末までの馬場小室山を巡る動きをまとめた先駆的なサイトでした。渡されたバトンの重みを感じています。

なお、鈴木先生は明日下記でご講演の予定とか。
http://www.littera.waseda.ac.jp/major/archaeology/news/news2004.html
私は、雨の降らないうちに、近く?の千葉市長作城山の現場を見にいく予定です。
馬場小室山が明日もなんとか無事であることを祈りつつ。



1830. はじめまして  遺跡大好きネコ  2004/12/03 (金) 21:52
ここでは初めまして。はまりんさんが管理人をしている大阪城採石場遺跡を残す応援をしていて、小室山の危機も知ることになり感謝しています。

そして、思いがけずHP上の繋がりが広がってきたことをうれしく思います。私は、小室山のすぐ近くにいながらなかなか現場に行けないような生活をしています。そんな私でもできる動きをしたいと思いました。

PCの前にいることは多いのでこれからもWEB上で情報を察したり広めることが中心になってしまうと思いますが、何もしないよりはいいかと思っています。

こちらこそ、これからもよろしくお願いします。そして、大事な財産を遺していきましょう。



1829. 徳川大坂城東六甲採石場遺跡の保存を求める市民の会 はまりん [URL]  2004/12/03 (金) 05:49
のホームページを管理しています浜田正博と申します。
手探りでもだえています。
貴サイトをリンクさせていただきました。
これからもよろしくお願いいたします。



1828. 馬場小室山をめぐるネット&リンクの力! さわらびY(ゆみ)  2004/12/02 (木) 23:55
馬場小室山遺跡の工事の進展が風雲急を告げています。
鈴木正博先生から昨日届いたちょっとショックな写真とメール、
こんな時いったい私に何ができること・・・それはただ、限られた時間の中での眠気と戦いながらのHPのアップ作業でした。

10月2日、小室山の発掘調査現場に行き、現説レポートのように速報をアップしたところ、「興味本位」というご批判を含めBBSに賛否両論の反響。
そしてわが家にも鈴木先生からの公開メールが届き、このメールをきっかけに10月10日には千葉市のあるけ~さんの緊急特設ページをアップして、情報のアーカイブとナビ機能がスタート、18日には地元の飯塚さんの「ばんばおむろ山」が最前線の経過の発信を開始しました。

特に面識があったわけでないそれぞれが、こうしてHPのリンクを通じて以心伝心の動きをしていることにとても不思議な気がしています。
インターネットの環境下にいる人は全体としてまだ少ないのでしょうが、こういうかたちの動きが、多少でもなにかの力になることを念じています。

また次のようなメッセージやコメントを載せてくださっているHPの管理人さん、各HPのBBSで話題にしてくださっている皆様、ありがとう。そしてよろしくお願いします。

「石器の考古学」管理人様 http://www.aruka.co.jp/
「鬼の城/掲示板」管理人http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?yamamura+421
「徳川大坂城東六甲採石場遺跡の保存を求める市民の会」の掲示板の皆様
http://9005.teacup.com/ooisi/bbs



1827. Re: 緊急UP 11/30の馬場小室山 さわらびY(ゆみ)  2004/12/02 (木) 00:28
鈴木正博先生からいただいた緊急メールと馬場小室山の工事現場写真のページの編集を終え、更新しました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/11.30/11.30.htm



1826. 緊急UP 11/30の馬場小室山 さわらびY(ゆみ)  2004/12/01 (水) 19:59
鈴木正博先生からいただいた緊急メールと、11月30日の馬場小室山の工事現場写真を、未編集のままとりあえずUPしました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/11.30/11.30.htm

事態は深刻なようです。



1825. 地震のお見舞い さわらびT  2004/11/29 (月) 21:52
開田さんからメールをいただいたので、ご無事だったことはわかりました。午前3時、釧路沖が震源とのこと、大変な揺れだったことでしょう。
それにしても、地震だけは、防ぎようがないので不安ですね。
新潟の地震のときは、土曜日で、ある講演会を聞いていた最中でしたので、多少実感もわいたのですが、今回はニュースで知っただけでした。被害が少ないことをお祈りします。



1824. 上毛野 オホヤシマ  2004/11/29 (月) 12:34
さわらびT様
27日お越し頂きありがとうございます。あまり一般受けしないテーマだったようですが、面白く聞けて頂いたようでなによりです。私としては、やはり古代氏族との関係から、車持君氏との関係などに興味があります。車持氏は、まだ車輪がそれほど普及していない時代に何を職掌としていたかというと、どうも運搬ではないかという説を見たことがあります。となると牧との関連もみえてくる気がします。

二子山と八幡塚とか系統を異にするというのも興味深い話です。同時代に並存した三ツ寺と北谷との関係も想像をかきたてます。
双系の首長が前期からみられるというのも、卑弥呼・男弟との中央王権との関係が注目されます。

保渡田古墳群の出現は、埼玉古墳群のように、中央に出自していた豪族の子弟が郷里に戻って開いたのですか、若狭先生に聞いたら、そのかもといっていました。この時代は王権との関係がないとあれだけのものは開けないでしょうね。渡来人も王権のある程度の許可がないと連れてこれないような気がします。



1823. Re^2: 仏教 オホヤシマ  2004/11/29 (月) 12:21
> 仏教が普遍的な要素を持った宗教であることが、我国に受け入れられた要因の一つなんでしょうが、儒教・道教をあわせてかなり混ざり合った状態で受け入れられたような気がします。
*このあたりはかなり難しいですね。勉強が必要です。
> 「用明天皇」ですが、例の病気平癒にからんで、仏教に帰依したことがポイントになるのでしょうか。
*用明という天皇は、即位してすぐ死んでしまったのであまり注目されませんが、重要な人ではないかと思います。
最初の方墳の人ですし、自らはっきりと「三宝に帰依する」と宣言した人です。その後の王権の仏教への対応を決定した人ではないかと思います。
> 仏教受容は国際情勢も後押ししていたんだと思います。欽明期はまさに加耶諸国の存亡が問題になる時代でもありますし、受け入れる素地はあったんじゃないかと思います。
*群臣にとって仏教は外交問題であったようですね。だから大王の諮問の対象になったというのが川尻先生の説のようです。
実際の信仰活動は、7世紀初頭の遣隋使について留学僧の大半が倭漢などの渡来系であったことからも、彼らの独壇場であったと思われます。



1822. 柏市松ヶ崎城址とそのイベントに参加しました さわらびY(ゆみ)  2004/11/28 (日) 22:22
今日は朝早く、柏まで出かけ、松ヶ崎城址を踏査した後、歴史シンポジウム&企画展示会「松ヶ崎城と街道(みち)−中世柏地域の陸上交通」を見て聞いてきました。
5年間の市民運動の成果で、松ヶ崎城跡は今年7月1日付けで柏市文化財に指定、学術調査も行われ、その報告を含めた稔りあるイベントでした。
松ヶ崎城址から、呼塚近くの会場まで、旧水戸街道も歩きました。
途中、「ながれやまみち」の道標のある馬頭観音塔も見つけ、楽しい街道ウォークでした。

ところで「鬼の城」掲示板で26日「さいたま市馬場小室山遺跡のその後」というコメントが載っています。「21世紀形の保存運動を 展開しているかもしれない」という感想。
なるほどね。数年前(20世紀末)、HPの活用をここまで予想できたかな、なんてつくづく思いました。
http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?yamamura+421



1821. Re: 群馬と言えば さわらびT  2004/11/28 (日) 07:30
二村順二様

おはようございます。私の方は古代の豪族について勉強しています。多胡碑の実物は見たことはないのですが、月2回行なっています勉強会(『新撰姓氏録を読む』)で、加藤先生のご見解をうかがったことがあります。碑文には、和銅四年の多胡郡の建郡をめぐる史実が表現されているようですが、渡来人(胡)が多くいたから作られた名前というより、多胡吉氏と関わりがあるとも考えられるようです。歴史の勉強は面白いです。これからもよろしくお願いします。今日は、シンポジウムの前に、松ヶ崎城を見に行こうと、思っています。



1820. 群馬と言えば 二村順二  2004/11/27 (土) 23:53
群馬県は、上州です。福田・中曽根・小渕の三人の総理大臣が出ましたね。私にとっては、新田義貞とか世良田・徳川の家康の先祖伝承地、岩宿遺跡、木枯らし紋次郎、赤城忠治など、歴史の宝庫ですよね。私の目下の関心で言えば、前橋や吉井町にも設楽氏が多いことです。私の弟は、前橋にある関東森林管理局に在職しているので、石碑や石仏を私の代わりに調査してくれています。歴史が専門ではないので、珍しいもの、有名なものに注目しているようです。多胡の碑の本やミニチュアを送ってくれました。ときどき、投稿させてください。これからも、よろしく。



1819. 若狭徹先生の講演 さわらびT  2004/11/27 (土) 20:17
今日は、若狭徹先生(群馬町教育委員会・かみつけの里博物館)の講演『古墳時代における地域社会の実像−群馬県三ツ寺T遺跡を中心に』を聞いてきました。
博物館には一度行ったことがありますが、三ツ寺T遺跡がどこにあるのかわからなくて、悩みました。今は新幹線の下、これだけの遺跡でも、地中に封じ込められてしまったのですね。

ご講演は、大変興味深い内容で、榛名山麓の弥生後期から古墳中期社会を概観してくださいました。古墳前期から東海系の土器が入ってきて、この地域の様相は一変するようです。

また、三ツ寺T遺跡について、広い突出部があるのですが、防御施設説があるけれど、そうではなく、祭祀施設であるという見解を述べられました。水の祭祀のあり方や、渡来系文物の出土のことなど面白く聞かせていただきました。

『古墳時代の地域社会復元』(新泉社、2004)に目を通してはいたのですが、直接お話を聞けるのはありがたいですし、よくわかりました。

オホヤシマ様、お疲れ様でした。



1818. Re: 仏教 さわらびT  2004/11/26 (金) 22:55
オホヤシマ様

いつの間にか話題が仏教になってしまいましたね。
最終日間際なので、あわてて『中国国宝展』に行って、仏像の美しさを味わってきました。

増尾先生は、博識ですからなんでもご存知ですよ。時代はちょっと違いますが、『日本霊異記』を題材に景戒の思想が、空海にも引き継がれる、といった論考を書いておられました。

仏教が普遍的な要素を持った宗教であることが、我国に受け入れられた要因の一つなんでしょうが、儒教・道教をあわせてかなり混ざり合った状態で受け入れられたような気がします。そのあたりも増尾先生にうかがってみたいところです。

「用明天皇」ですが、例の病気平癒にからんで、仏教に帰依したことがポイントになるのでしょうか。

仏教受容は国際情勢も後押ししていたんだと思います。欽明期はまさに加耶諸国の存亡が問題になる時代でもありますし、受け入れる素地はあったんじゃないかと思います。



1817. 仏教 オホヤシマ  2004/11/26 (金) 12:39
勉強不足のせいでしょうが、6,7世紀の仏教を論じた本というのがあまり見受けられません。田村円澄さんの本位でしょうか。
あることはあるのでしょうが、あまり目にとまりません。本屋の古代史の棚とは別の所に置いてあるのかなあ。吉田一彦さんですか、やってるのは。ご教示頂ければ幸いです。
増男さんはこの時代はやらないのでしょうか。
前田晴人さんのちょっと読みましたが、あまり残っていません。
読み直してみます。
用明天皇が重要ではないかと、私は思っていますが。



1816. 仏教史を見直す さわらびT  2004/11/25 (木) 23:09
仏教の受容について考えてみたいのですが、実際には紆余曲折があったとしても受け入れる方向は一筋の道だったと考えています。しかし、史書は、すでに滅亡した蘇我本宗家のみが最初に仏教を受け入れたと記述しています。なぜなんでしょうね。

前田晴人「飛鳥仏教史を見直す」(『日本書紀の読み方』講談社現代新書)が、面白いです。王権が自ら仏教興隆に乗り出した最初の天皇は、孝徳天皇であったと、とのこと一読をお勧めします。



1815. 入唐学問僧普照 さわらびT  2004/11/25 (木) 21:26
HONさんが史料を記してくださいましたので、せっかくですから、昨日、加藤先生がお話しになった普照の母方が白猪氏だとする史料を記します。(加藤先生のレジュメから)

『続日本紀』天平神護二年二月甲午条
授正六位上白猪与呂志女従五位下。入唐学問僧普照之母也。

『唐大和上東征伝』
日本天平五年歳次癸酉沙門栄叡普照等随遣唐大使丹墀真人廣成至唐国留学。是年唐開元二十一年也。唐国諸寺三蔵大徳皆以戒律為入道之正門。若有不持戒者。不歯於僧中。於是方知本国無傳戒人。仍請東都大福光寺沙門道璿律師。附副使中臣朝臣名代之船。先向本国去。擬為傳戒者也。



1814. 井真成、仏教 オホヤシマ  2004/11/25 (木) 12:20
さわらびT様
昨日はご苦労さまでした。盛況でしたね。
加藤さんが帰り際に、「井真成はどこかに文献に顔を覗かせるているのではないか」とつぶやいておられたことが印象的でした。みつかれば、大発見。粟田真人となんとかという僧侶が同一人物であることを発見した佐伯先生のような発見をしてもらいたいものです。
鑑真は、11月に橿原考古学研究所が講演会を開いたようですね。東野先生とか話していました。唐招提寺発掘にちなむもののようです。



1813. Re: 設楽氏について さわらびY(ゆみ)  2004/11/25 (木) 00:25
二村順二さま
愛知県よりの投稿ありがとうございます。
東国の律宗(叡尊・忍性による鎌倉仏教の一宗派)の痕跡を追っていて、1年半前に「−おしどり寺 村上正覚院の来た道−」に「T-7.流転の梵鐘を追って・六崎から風早の本土寺へ」をUPしました。

このシリーズでは「T-12.信濃大門街道・仏岩石塔の謎」の時もそうでしたが、すぐにBBSのほか、メールでの反響もあり、特に佐倉青菅の旧家ご出身の方より、専門的な資料もご提供いただきました。
佐倉の設楽氏については、外山信司氏が、「戦国期佐倉の人々」千葉県の歴史 第36号1988.8所収などで「設楽氏は出雲守利継が千葉介(千葉氏宗家)に近侍し、千葉介の奏者を務める有力な直臣となり、山口郷(東金市・大網白里町)の在地領主でありながら直臣としての任務を遂行するために、家族とともに佐倉に居住していた。」と古文書から考察されています。青菅の設楽氏はその流れであると思います。

過去ログの『864.』でも述べましたように、「T-7.流転の梵鐘を追って・・」は、律宗寺院だった文献上の「六崎大福寺」と、字名に由来するの「高岡大福寺遺跡」の関係の考察がメーンですが、設楽氏により本土寺に施入された梵鐘の「六崎大福寺」の銘も金石文として無視はできませんでした。

今後ともどうかご指導ください。



1812. Re;遣唐使墓誌と仏教伝来 HON   2004/11/25 (木) 00:02
>加藤先生も「井上」説が有力であることは認められつつも、「葛井氏」説の可能性として話されたことがあります。鑑真を日本に招来した遣唐僧の一人に普照がいますが、母方が白猪氏なのだそうです。

『続日本紀』養老四年五月十日 白猪史の氏姓を改め葛井連の姓を賜る。



1811. 遣唐使墓誌と仏教伝来 さわらびT  2004/11/24 (水) 23:21
シルクロードの会で、鈴木靖民先生と加藤謙吉先生の講演がありました。『中国で発見された遣唐使・留学生墓誌について』

先般、発見された遣唐使の墓誌に記載された「井真成」をめぐる話題です。鈴木先生は、いわずと知れた「井上氏」説です。かなり説得力のある説です。ところが面白いことに、関西では「葛井氏」説が有力らしいですね。鈴木先生が、お話されておられましたが、藤井寺には「井真成誕生の地」なる看板が立ったとか・・・・

加藤先生も「井上」説が有力であることは認められつつも、「葛井氏」説の可能性として話されたことがあります。鑑真を日本に招来した遣唐僧の一人に普照がいますが、母方が白猪氏なのだそうです。普照は栄叡とともに733に渡唐していますから、出会っている可能性はあるわけです。

ところで話は飛びますが、仏教伝来の話の流れでいえば、鑑真のことも、話題にしたいです。なぜ渡航を決意したのか、も気になりますが、日本側の理由もあるわけですね。

僧綱制が出来たのは七世紀の後半、しかし庶民の窮乏はなはだしく流亡や僧になって苛斂誅求から免れんとする現象が生まれたといいます。行基が出てくる背景があるわけです。そして、遣唐使は戒律の明師を迎えに行くことになる。こうした時代背景にも関心が向きます。(安藤更生『鑑真』、吉川弘文館、参照)



1810. 設楽氏について 二村順二  2004/11/24 (水) 21:24
893設楽氏について、投稿します。私は、愛知県蒲郡市に住んでいます。愛知県新城市に設楽原歴史資料館があります。ここは、武田勝頼が率いる甲斐武田軍団が織田・徳川連合軍に壊滅した古戦場の跡です。資料館の近くに、式内石座神社があり、三河伴氏の名族設楽氏の中心的根拠地として歴史を経てきました。三河伴氏は、伴大納言善男の子孫という伝説があり、平安時代から戦国時代まで奥三河を代表する武士団でした。古くは、後三年役に従軍した設楽資兼(伴次郎、三河大介)がいます。戦国時代になると、奥平・菅沼と言う外来の武士団に押されて、目立たなくなりました。設楽神三郎貞道は、奥三河の武将の中でもいち早く岡崎城の徳川家康に臣従を誓い、僅かな領地を安堵されました。その子孫は、旗本になり、関東に移りましたが、故郷の領地は知行していました。旗本の子孫で、岩瀬家に養子に行った忠震は、対米外交で活躍しましたが、安政の大獄で失脚し、数年後に憤死しました。実家の設楽家も明治維新後は没落し、旧領を頼りましたが、またよそに行って住んで、子孫を残しませんでした。愛知県には、約30件の設楽家がありますが、いわゆる三河伴氏の直系は全く滅んでしまっています。むしろ、埼玉・千葉・東京・群馬の関東地方、山形県に由来は解明できていませんが、たくさんいます。私は、最近、千葉県松戸市の戸定歴史館の中山文人氏から、松戸市の日蓮宗本土寺に関わる設楽氏の資料を入手しました。千野原靖方氏の「千葉氏」室町・戦国編も購入して読んでいたら、新しい史料に巡り合いました。また、私は佐倉市青菅の設楽氏の系図も入手しています。房総の設楽氏は、千葉氏の直臣か、それとも原氏の身内か判断がつきかねますが、鎌倉公方足利氏の重臣にも設楽氏がいて、これは足利義氏が三河守護になってから三河に一族を住まわせた時期に、地元として臣従した者の子孫のようです。太平記に、設楽・富永の名前がたくさん登場するのは、足利系の証拠です。他によい考えがあったら、教えてください。



1809. 遺跡見学会の写真をUPしました さわらびY(ゆみ)  2004/11/24 (水) 00:02
小春日和の中の馬場小室山遺跡見学会の写真をUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/omuroyama6.htm



1808. 小春日和の中の馬場小室山遺跡見学会 & 見沼の夕陽 さわらびY(ゆみ)  2004/11/23 (火) 21:56
今日は鈴木正博先生のご案内で、馬場小室山遺跡の見学会をおこないました。
先生が用意してくださった実測図などの資料を参考に解説をお聞きしながら、工事の進行状況の把握だけでなく、遺跡の中とその回りを広く一周して地形の起伏を体験、縄文の環状盛土遺構について理解を深めることができました。

11月18日付け鈴木先生のメール【市教委による文化財保護法遵守対応の件】
http://chiba.fc2web.com/hozon/bbo_041118smail.html
では、『学術ボランティアとしての今後の対応は、「行政の責任」の監視とともに、馬場小室山遺跡の重要性を周知させる活動にシフトしていきます』と述べられています。
今回の参加者は、先生ご夫妻を含む考古学の専門家が4名、私たち市民が5名。特に計画的に呼びかけたわけではないささやかな見学会でしたが、晩秋の小春日和の中、「遺跡の重要性を周知させる活動」の第一歩の記念すべき見学会となりました。

帰りに皆で氷川女体神社と、この神社の「御船祭」渡御の祭祀場所であった「四本竹遺跡」の推定地まで車で行ってみました。
「四本竹遺跡」は女体神社から国道463号線で芝川を渡ったさらに先で、現在は調整池の工事現場の中、案内いただかないとなかなか行きつけない所でした。
平成元年から3年まで芝川見沼第一調整池建設工事に伴う発掘が行われ、江戸時代享保年間に見沼が埋め立てられるまで行われていた女体神社御船祭祭祀場所が明らかになったほか、縄文の土器片も多数発見されているそうです。
かつての見沼田んぼ、その昔は海に続く湖だった広い見沼の原に立って、大宮台地に落ちていく真っ赤な夕陽を眺めながら、和気藹々と今日の見学会を終了しました。

鈴木先生、ご案内ありがとうございました。



1807. 夕暮れ 開田 誠(北海道・厚岸) [URL]  2004/11/23 (火) 00:40
 近所のお店がネオンサインを始めた。ハクチョウとトナカイの図柄で、大きいので目立つ。夕暮れが早くなっているので、明るさがうれしい。お店といっても、私のまわりでは、その1軒だけである。その万屋さんが酒も扱ってくれればいいのだが、残念。私は4時のバスでコンビニまでビールを買いに行ったのでした。その帰りに近所の店の明るさに気付いたのでした。
 霧多布の宿にいる時ですと、食堂の窓が大きいのでいつも空と出会っていたのですが、厚岸のここは普通の家屋ですので、やはり自然と切れてしまいます。朝夕にちゃんと散歩に出るようにとは心がけているのですが、まったくだめになっていました。外が見えていないので出かようという気持ちになれなかったのでしょう。

 今日、『モミジとカエデ』という本に注文があり、うれしくなりました。いい本が送れて。この時季なので出してしまったのでした。
 
 話題がつながりました。古代の仏教について、考えをまとめてみようと思います。述べている方は少ないですね。
 私も原典にあたれる力がないので、あ〜かなこ〜かなです。




1806. Re: 仏教伝来 さわらびT  2004/11/22 (月) 19:36
オホヤシマ様

実は昨日は、午前中に、まず郷土史展も拝見させていただき、それから、午後は横浜市歴史博物館に行って、企画展「ヤマトとアヅマ」を見学、田中晋作先生の講演を聞いてきました。せっかく横浜に行くのだからと、その前に、横浜ユーラシア文化館に行って企画展「そして、龍は舞い降りた」という画像石拓本の展示も見てきました。(残念ながら、常設展の江上先生寄贈品は見る時間がありませんでした。)

そんなわけで早稲田大学には、いけませんでした。

ところで、仏教なんですが、僧尼令というのは日本だけなんだそうです。それ以上のことはよくわかりませんが、仏教徒にとって釈迦が一番偉いので、王権ですら、それに従うというのが本来の考えなんだそうですね。

いわゆる崇仏・廃仏論争を経て、蘇我氏受容主体として登場しますが、実態は違うようですね。加藤先生がよくおっしゃるように物部も決して廃仏ではない、ということも考えますと、本当はどうなんだ・・・って知りたくなりますね。

川尻先生のお話、是非聞いてみたいです。



1805. 仏教伝来 オホヤシマ  2004/11/22 (月) 12:23
さわらびT様
早稲田シンポ、Tさんもさぼったのですが、出てくれるものと安心して私もさぼってしまいました。仏教は私もあまり勉強していないのですが、やはり重要でこれから勉強していきたいと思っています。私が関係している会で、来年欽明天皇をとりあげようかと思っていますが、仏教の話題を是非取り上げたいと思っています。先日ご紹介いただいた川尻先生にお願いしようかと思っています。



1804. 「郷土史展」にご来場ありがとう さわらびY(ゆみ)  2004/11/21 (日) 22:52
八千代市郷土歴史研究会の「郷土史展」にご来場ありがとうございました。
おかげさまで盛況にうちに終了し、またご来場いただいた高津の旧家の皆様や、市内や近隣の郷土史研究の皆様に多くのことをお教えいただき、大変収穫の多い展示会でした。

会場の様子など(今週末まで)UPしましたので、ご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudositen16/kyoudositen16.htm



1803. 郷土展拝見しました 赤飯 [URL]  2004/11/21 (日) 22:52
ゆみさん、会場に入って、すぐによく、私が判りましたねぇ。
ちょっと驚きました。去年もそうですが、駐車場の関係で
40分程度で慌ただしく退散しましたけど、算術の絵馬が
面白かったです。近所の神社にも変わった絵馬があるのか
調べるのも面白いですね。イベントの参加のお誘いは有り難
かったのですが、当日は仕事ですし、かたみち3、4時間は
ちょっときついです(笑)



1802. 初期仏教について考えました さわらびT  2004/11/21 (日) 22:15
開田様

ご無沙汰しております。その行動力に感服しています。
高野山には、いったことがないので、うらやましいです。
実は初期仏教について考える機会がありました。

早稲田大学で、「古墳から寺院へ−関東の7世紀を考える−」というシンポジウムが開催されました。(20日、21日)
終末期古墳をテーマに興味ある基調報告が続いたのですが、昨日の報告の最後が川尻秋生先生の「古代王権と仏教・寺院」でした。(ちなみに今日はサボってしまいましたので討論でもっと話が膨らんだかもしれませんが・・・)

中国では、東晋以来唐代にいたるまで、僧尼が王や親に拝礼するか否かの論争があったように、儒教と異なり王権は仏教を従属させていないようです。つまり、王や親に対しても拝礼するのは教えに背くというのが純粋な仏教徒の心得なんですね。

これに引き換え、仏教が王権に従属するのは新羅・日本だけだといわれます。ここに日本仏教の特質があるようです。仏教の受容と律令制の関係にもかかわるこうした問題点は、これから論議されるべきかと思いました。

川尻秋生「仏教の受容と伝来」(『古墳時代の日本列島』青木書店、2003所収)を参照。



1801. 高野山へ行きました 開田 誠(北海道・厚岸) [URL]  2004/11/21 (日) 15:03
 一見は百聞に如かずとは、やはり。
高野山の墓は20万に及ぶというが、参道沿いのものは織豊政権以降のものが中心であり、空海自身の時代とは隔たりがはなはなだたしいもので、寺院の作為がみえみえであった。
空海の廟も彼の衣鉢かどうかなと思った。

 うわさに聞いていた企業の名の墓も見た。
 樹齢500年余のスギは見事であった。
 九度山からの登りの道は、運転が大変なものでした。小さな曲がりがずっと続き、古い道のままなのだ。
 紅葉する木が少ないのは残念だった。