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No.101〜200 2002/02/17〜2002/07/12
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・オーバーフローで消えてしまった発言を収納しました。
・書き込み、修正、削除はできません。修正・削除は、管理人にお申し付けください。
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200. 神様はおりましたか お宮  2002/07/12 (金) 05:48
「僕は、近頃、神の存在を信じるようになってきた」4月29日くらしの植物苑での、最後の講演会の言葉でした。佐原ファンの妻の心に残った言葉です。
 2.3日前出版された「考古学つれずれ草」に「人間はいつから花を愛するようになったのか?」平和を愛する佐原先生らしい古代から現代を考えるエッセイ集だそうです。
いつだか忘れましたが「縄文人の墓に花が添えられていた」と言うことを聞いたことがあります。
佐原先生(佐原さんですね)ありがとうございました。   




199. ご冥福をお祈りいたします みきこ  2002/07/11 (木) 22:01
佐原先生
いくつかの講演会でお話を伺う機会がありました。にこやかな笑顔でありながら、鋭い切り込みで古代史を語ってくださいました。もうお話が聴けないのかと思うと残念です。ご冥福をお祈りいたします。




198. 佐原先生のお別れ会について さわらびY(ゆみ)  2002/07/11 (木) 19:23
佐原先生のお別れ会について 歴博友の会より下記の通りのご連絡をいただきました。

友の会 会員各位
 
国立歴史民俗博物館前館長で名誉教授の佐原 真 さまにおかれましては、病気療養中のところ、7月10日(水)午前10時すい臓癌のためご逝去されましたので、ここに謹んでお知らせいたします。
 お別れ会は、下記により執り行われますので、併せてお知らせいたします。

お別れ会 
 日時 2002年7月20日(土) 14時〜16時
 場所 千日谷会堂(東京都新宿区南元町19−2)
         (Tel 03−3353−4541)
         (総武・中央線 信濃町駅下車 徒歩2分)
 喪主 佐原 弘子(奥様)


佐原先生を慕うお友達と誘い合わせて、この会に行きたいと思っています。

昨夜は、お友達とメールやお電話で佐原先生を偲びました。
よろしかったら、先生との思い出や哀悼のお気持ちを、この掲示板に自由にお書き込みください。





197. 佐原真先生の訃報に接して さわらびY(ゆみ)  2002/07/10 (水) 19:13
 前国立歴史民俗博物館館長で考古学者の佐原真先生が今日、午前10時、すい臓がんのためお亡くなりになられたというニュースをインターネットで知りました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020710-00001070-mai-peo


 昨秋、歴博の講演会で「メールを始めました」とアドレスを公開され、親しく「メル友」になってくださいましたが、「めーるダンケ。」とユーモラスに始まる返信メールが5月でとだえ、ご容態が案じられていたところでした。

 本掲示板 148. 『人間は「牙」ではなく「言葉」を得た』に書きました4月29日、歴博の植物園のご講演は、あまりの感動に涙がこぼれそうでした。
 私にとっての先生の最後の遺言になったこの短い講演の中身を、決して忘れることはないでしょう。

 ご冥福をこころからお祈りします。合掌。




196. 射日神話について さわらびT  2002/07/09 (火) 22:33
みきこさんが、鈴に対する思い入れは大変よく理解できました。シャーマンと関連あるとする考察にも納得。

ところで、三星堆の「神樹」にふれておられますね。「神樹」のことは、私よりさわらびY(ゆみ)の方が適任ですが、ご紹介だけします。なにしろ私は民俗学には不案内なもので・・・・

写真家であり民族学研究をされておられる萩原秀三郎氏の『神がかり』(図書刊行会、1977)という写真集があります。この本で、鈴や扇が巫具となっている韓国のシャーマンの儀礼と日本の神楽の巫女舞の類似性の考察がありました。
昨年、そのものずばり『神樹−東アジアの柱立て』(小学館、2001)という本を出されています。

萩原法子さんの『熊野の太陽信仰と三本足の烏』(戎光祥出版、199)もお勧めです。萩原さんのご研究である射日神話については、掲示板109『キトラ古墳にカラスの絵?』や、下記のページもご参照ください。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/suwaobisya/obisya1.htm

その「射日神話」が面白いのです。『神樹』を読んで書いていますが、洞窟に隠れた太陽のおはなしです。ミャオ(苗)族の古歌によれば、太陽はいくつもあらわれるのですが、それが射られてしまいます(「射日」)。そしてそれを恐れた一つの太陽は岩山に隠れてしまいますが、ニワトリの声で呼び戻されるのです。(「招日」)
日本の天岩屋神話には、太陽が射られる前半部が欠けているのだそうです。冬至と関連付ける通説と違うところがすごい。

三星堆の「神樹」には「多日神話」が背景にあるそうです。




195. 鈴は何を表わすのかな みきこ  2002/07/08 (月) 23:06
さわらびT様
ワールドカップも終わり、ちょっとむなしい日々です。でもこの機会に韓国の文化に触れる機会があったこと良かったです。今年はとっても運のよい年なのでは!
そこで、5月に早稲田大学演劇博物館主催で、「韓国の巫俗と芸能」展と講演会がありました。韓国の学者の発表の中で、巫堂が巫祭を行う時用いる重要な巫具が扇子と鈴なのだそうです。そういえば百済の武寧王も扇を持っていましたね。珍しいその巫祭の録画も公開され面白かったですよ。なんだか、シャーマンのヒミコとだぶってしまいました。鈴は北方系のシャーマニズムの象徴的なものと言われていますが、古くは三星堆遺跡の有名な巨大神樹にも鈴形花弁がついており、鈴は太陽を表わしていたみたいです。「巨木と鳥竿」諏訪春雄氏の本が参考になりました。稲荷山古墳の主体部も舟形礫かく、絶対海人族だと最初は思っていたのですよ。今は・・・あまりにもたくさんの顔がありすぎて。
 




194. 稲荷山古墳の鈴杏葉 さわらびT  2002/07/08 (月) 19:47
しばらく桃崎先生は、柏崎須恵器窯の発掘のためメール環境から遠ざかるとのことです。発掘の様子も見てみたいですね。掲示板もしばらく寂しくなりますが、先生がその発掘成果をいち早くお知らせくださることを期待しましょう。

ところで、みきこ様

帯金具の問題もつきないですが、はじめに稲荷山古墳の鈴杏葉のことを教えていただくべきだったですね。私は、鉄剣銘にはこだわってきましたが、副葬品の多彩さにもっと関心をいだくべきなのでしょうね。この古墳はもう一つ埋葬施設があるのではないかという興味もありますが、丹念に検討されておられることに脱帽です。

以前いただいたメールで、大寺山洞穴出土の鈴に注目ということを書いておられましたね。鈴にこだわられておられるのがすごいです。私などは、編年はおろか、その意味など考えたこともありませんでした。

これがもし祭祀のシンボルだと考えるとしたら、同族意識の象徴として意味があるということになるのでしょうか。祭祀なのか身分制の表現なのか、遺物そのものを考察することになれていない私には,よくわからないのですが、日本列島の古代が海を通して朝鮮半島や中国大陸と結ばれていたのであり、その結びつきが一元的ではなかったことを確認できるというこにもなるのかななどと、考えたりしています。みきこさんのお考えとは、違う方向にいってしましましたかね。

ところで、この洞穴は舟葬ですね。先日の橿考研の岡林氏の講演で、大寺山洞穴のことも話題にされながら舟葬論の研究史を紹介されていましたね。舟葬論をめぐる議論では後藤守一先生のお弟子さんにあたる大塚初重先生は、お若いころ舟葬論の反対論者から激しい攻撃にさらされたらしいのです。(岡本東三『よみがえる舟葬論』(『図説古墳研究最前線』、新人物往来社、1999)を参照)このことも興味津々ですが、葬送習俗としての舟葬=海上他界観という思想が固有のものなのか、外来の習俗なのかと、考えてみるのもまた面白いです。また横道にそれましたね。

ではまた。




193. 明日から発掘です。 桃李  2002/07/07 (日) 21:21
みきこ様
新山古墳の帯金具のことですが、あの帯金具は本当に3世紀末から4世紀初頭まであがるかどうか、まだなんともいえません。
 なぜなら4世紀の遼寧省や河北省の鮮卑墓では、この種の帯金具が幾つか見つかっており、新山のものも、西晋のものか東晋や五胡十六国・高句麗のものなのか現状ではなんともいえない状況なのです。
 私は4世紀中葉〜後半代、東中国海沿岸のどこかで作られたんじゃないかなと想像してるんですが、今まで真面目に帯金具の勉強をしたことないので、発掘が終ったらぼくもすこし年代考えてみます。
 どちらにしろ近いうち、鮮卑墓出土品の編年研究をしたいもので。
 皆様
 私は明日7月8日から8月12日まで霞ヶ浦町柏崎須恵器窯の発掘で留守にします。PHSも届かないようなところなので、その間メールも送れない暮らしですので、しばらくこちらも失礼させていただきます。
 無事発掘が終りましたら、またお知らせいたします。
 それではまた。




192. ご質問に答えれないかも みきこ  2002/07/07 (日) 20:35
さわらびT様
帯金具の資料はちょっと前(だいぶ前かも)のものです。いつも一夜漬けの勉強なので時間がたつと忘れてしまいます。ごめんなさい。資料は「古代東アジアの装飾墓」の町田章氏の「古代帯金具考」の分類にそって、帯金具を出土している古墳の副葬品一覧を作成してみたものです。町田氏によると、新山古墳の帯金具を、分類Tとして規格性の高い、晋王朝から贈与されたものと考えられているようですね。これはありうるような気がしていますがわかりません。ただ帯金具の文様が気になります。新山古墳をはじめ、大谷古墳、江田船山、七観、月の岡、古墳等日本の多くの帯金具の文様が龍文であり、新羅の古墳や、新沢千塚126号墳の文様が鮮卑系の帯金具に多い双葉、三葉文をしていることです。
 私は素人なので、自由なアプローチをしても良いのではと思っています。つい、文様などに何かがあるのではと思ってしまいます。新山古墳には直弧文の鏡が出ていますが、直弧文が描かれたもの一覧も作成してみました(途中)。奈良・宮山古墳の埴輪の靫にも直弧文が描かれているので、年代差があっても、共通の思想性、祭祀性があるのではとおもっていました。ちょっと思惟的かもしれませんが・・・




191. 葛城氏ってなに? さわらびT  2002/07/04 (木) 23:12
みきこ様

先日いただいたコピー拝見しながら、帯金具や馬具のこと勉強しています。お作りになられた帯金具の分類表について、これから少しずつでいいですから教えてください。新山古墳出土のそれは晋の身分制を表現しているということでしょうか。

大古墳展の図録を見ていましたら、新山古墳出土帯金具の復元品の解説がありました。渡金板が先に出来ていて、それから加工してあるようですね。透彫りの文様の隅に穴をあけて線状工具で加工していると推定しています。技術のことなどわからない私はただ、ふーん。

葛城氏のことは最近勉強したばかりなので、一言。葛城襲津彦の実在性については井上光貞先生の「帝紀からみた葛城氏」(『日本古代国家の研究』、岩波書店、1965)で論証、葛城氏を5世紀に大王家の外戚として繁栄した氏族とされたのですが・・・異説もあります。先日、葛城氏をテーマにお話しいただいた加藤謙吉先生によれば、「葛城氏とは葛城地方の在地首長たちが政治的に連合することによって形成された複合的・擬制的集団」とのことです。(『蘇我氏と大和王権』吉川弘文館、『秦氏とその民』白水社など参照)

さらに自ら学界では少数意見とおっしゃられましたが、馬見古墳群のある馬見丘陵を葛城の範囲内とし、馬見古墳群の巨大前方後円墳の被葬者を葛城氏とする説を批判されました。ご興味あればレジュメをコピーしてお渡しします。

この説については、和田萃『体系日本の歴史2古墳の時代』(小学館、1988)などもご覧ください。和田氏の説は古代の「葛城」は「葛城川流域で、南は風の森峠ちかくの高鴨神社あたり、北はほぼ二上山のふもとまで」(p96)、馬見古墳群と葛城氏を結び付けないのです。

ところで、この新山古墳って謎ですね。前方後方墳らしいですが、陵墓参考地なのでよくわからないのでしょうか。葛城氏とだけ結びつけず馬見古墳群全体が当時の王たちの広域的な行動領域と考えるのも一案ですかね。




190. Re: 今夏は中世も勉強しようかな さわらびY(ゆみ)  2002/07/04 (木) 00:47
みきこさま

桃崎先生の中世研究でも同好の士が得られてうれしく思います。
桃崎先生の著書は、最近通信販売もあるようです。
国立歴史民俗博物館のミュージアム・ショップでは、全国の博物館で最近発行されたさまざまな図録を販売しているそうで、通信販売できるみたいです。
http://www.rekishin.or.jp/hakubutu.htm
には「279 中世の霞ヶ浦と律宗 1,380 土浦市立博物館」が載っていますので、ご参考にしてください。
わたしはこの図録(ほとんど桃崎先生が書いていらっしゃる)を綴じ目がバラバラになるほど読んだのですが、先生からのメールでは、もともと製本が悪いとのこと。

図録『中世の船橋 掘る・読む・たずねる』(船橋市郷土資料館1冊1100円)にも10ページほど書いていらっしゃいます
うちからもリンクしている千葉城郭研究会の次のページに取り寄せ方法が載っています。
http://www03.u-page.so-net.ne.jp/xb3/yuyanase/index.html/bunken.htm

また「第23回特別展図録 祈りの造形−中世霞ヶ浦の金工品−」は
http://www.town.kasumigaura.ibaraki.jp/pages/news/kakonews/kankobutu.html
にありました。

インターネットって便利ですよね。

日曜日金沢文庫では「総州願成寺の探索」のほかに「茨城県波崎町の碇石」(「六浦文化研究」第10号2001)コピーしてきました。これから楽しみにゆっくり読もうかなと思っています。

いまわたしの手元にあるのはこんなところ、あとは桃崎先生にフォローいただけることでしょう。
「たくさんの知らないことが多すぎて大変」なのも「ミーハー」なのも私も同じです。
実は、「忍性がたどった中世の風景」も「中世の霞ヶ浦と律宗」の中の一枚の地図がきっかけです。
12日から2泊で栃木県に行ってきますが、夫はたぶん古墳や古代寺院、私は律宗系?の寺院や鴛鴦伝承地(下野薬師寺は目的が重なりそう)を探すことになるでしょう。
こんな謎解きのような史跡探訪が楽しめるのも、桃崎先生の意欲的な著書のおかげでしょうね。

ではまた。




189. 今夏は中世も勉強しようかな みきこ  2002/07/03 (水) 23:18
さわらびゆみ 様
 ミーハーの私です。先日教えていただいた桃崎先生の中世の論文探して見ます。今夏は視野を広げてみます。すみません。律宗などはじめて聞きました。茨城、千葉の古墳めぐりは結構行きましたが・・・
たくさんの知らないことが多すぎて大変です。
 奈良・新山古墳の帯金具からの流れはどうなるんでしょうね。やはりソツヒコに関係ありでしょうか。




188. 「総州願成寺の探索」補遺   2002/07/02 (火) 21:11
さわらびゆみさま
 拙論に論及いただきましてありがとうございます。ただあの論文には幾つか間違いや問題点があるので申上げておきます。
 まず研究史ですが、願成寺の場所は特定できないながら、房総の律寺として認識していた論文は金沢文庫紀要や三浦古文化に幾つかありましたが執筆の段階では見落としていました。また外山信二先生は、千葉県の社会科教育の雑誌に、三国伝記に見える願成寺が東金の寺であることをさきに指摘されていましたがやはり執筆の段階では知りませんでした。(手元に控えがないので外山先生にお尋ねください)非常にすばらしい分析がされていますので是非お読みください。
 それから70ページに「和田義盛の屋敷があった伊北荘(成東町和田がその中心か?」などと噴飯ものの記述がありますが、伊北荘は上総の夷隅町周辺で、全然場所がちがいます。この点は以前遠山先生にご指摘を受け、汗顔の至りでした。以上ご留意ください。




187. 中世東国の律宗についての桃崎論文 さわらびY(ゆみ)  2002/07/02 (火) 00:54
桃崎先生、馬具について、詳しい記述をありがとうございます。
 Tと違って私は、古代考古学について、今はちょっと距離感がありますが、先日桃崎先生いただいたメールでの文章『中世とは「重装騎馬戦術に基づく武人政権・威儀の成立と、その暴力の制御装置としての宗教権門の異常な肥大化」と捉えることができ、このように考えた時、鐙騎乗による重装騎馬戦術が確立した中国五胡十六国、慕容鮮卑三燕の武器・馬具や歴史の解明は非常に重要なテーマで、また日本列島の中世世界の成立と解体を考える上でもこの点は避けて通れない』という視点は、目が覚めるように新鮮に感じています。

 昨日、中世石塔の反花座の編年について、金沢文庫で斉藤彦司先生の講座があり、基礎的なことをお聞きすると同時に、図書室で最近の律宗研究資料を入手、コピーしてきました。
もちろん中世東国律宗について、「六浦文化研究」8号(1998)に書かれた桃崎論文「総州願成寺の探索」もです。
 先生が書かれた鎌倉極楽寺二世円真房栄真と称名寺文書の伝える「総州願成寺」の実態は、私が東国の律宗を知る上で金科玉条にしていた小笠原長和氏の「中世房総の政治と文化」にも載っていない新しい知見のようですね。帰りの電車の中で読み耽り、その文献資料以外にも説話文学や郷土資料を駆使されての丁寧な論考に接し、房州での律宗の変遷について手がかりを求めていた私にとってたいへん大きな収穫がありました。
 今秋の西大寺での先生のご講演「東国の律系遺物からみた律宗弘布の痕跡」も今からとても楽しみです。

 本HPの拙稿「忍性がたどった中世の風景」は、奈良・鎌倉の「寄り道」を終え、これからやっと地元下総に律宗系史跡を探すという本題のテーマに入ります。上総の願成寺や永興寺については、だいぶ先になるでしょうが、いずれルポをしてみたいと思っていますので、その節は、ご指導のほどよろしくお願いします。

(せっかく盛り上がったみきこ様ほか考古ファン注目の、馬具考古学の討論のお邪魔をするつもりではありません。どうか先日の桃崎先生の馬具についてのご講演の内容をみなさまでさらに深めていってください。)




186. Re: はじめまして さわらびY(ゆみ)  2002/07/02 (火) 00:34
あやみ様ご来訪ありがとうございます。

> 正直歴史の「れ」の字も知らない(いい国作ろう鎌倉幕府しか知らない)私なので
> このホームページでちょっと面白い角度で歴史が楽しめるかな?って。

歴史好きの「ど素人」の夫婦ではじめたHPです。
管理人は、もっぱらYで、どちらかというと難解な(お互いさまなのですが)論稿を書いているのがTで、画像中心の視覚派がY、古代・近代がTで、中世&郷土史が好きなのがYらしいというのことはそのうちわかってくるかしら。

「歴史が楽しめるかな」というご期待に答えられるよう、また第一線の研究者を応援するサポーターとしても、プロとアマの橋かがりができるよう、より興味深いHPにしていきたいと思っています。
これからもよろしくね。







184. 追伸 あやみ  2002/07/02 (火) 00:06
追伸ですいません。
こないだホームページ1周年だったんですね。
おめでとうございます!これからも頑張ってくださいね。




183. はじめまして あやみ  2002/07/02 (火) 00:04
こんにちは。はじめまして。
私の上司のつてでやってきました。

正直歴史の「れ」の字も知らない(いい国作ろう鎌倉幕府しか知らない)私なので
このホームページでちょっと面白い角度で歴史が楽しめるかな?って。
これから書き込みした後、時間をかけて読んでみたいと思っています。

管理人さん、お二人なんですね。
大変でしょうが頑張ってください。
また勉強したら感想書き込ませていただきます。
それでは。




181. 鮮卑馬具のご質問について 桃李  2002/07/01 (月) 21:32
さわらびT様

先程は興奮して説明不足な文章を書きまして失礼しました。誉田丸山2号鞍というのは7ページの上から3段目につけた丸っこい鞍で、小さい方が鞍の前輪、大きい方が鞍の後輪(しずわ)で本来2個1セットをなすものです。農民が「喇嘛洞採集品」鞍後輪を偶然発見して数年後、喇嘛洞墳墓群全体が2次にわたって大規模に発掘調査されました。おそらくこの第2次調査で見つかったのが喇嘛洞UM101号墓出土の龍文透彫鞍で、丸っこく小振りな特異な形状は、驚くほど誉田丸山2号鞍に似ています。機会があったら両方の図と写真を並べてお見せしたいと思います。応神陵古墳の被葬者(応神天皇よりはあとの王と思います)は、436年に滅亡した北燕の亡命者をブレーンとして抱えていたのかもしれないし、鮮卑王朝と外交関係を持っていたのかもしれません。楽しい想像です。
 それから7ページの長野県飯綱社の鉄装鞍は、欠損部分が多くて特筆すべき特徴がありませんが、一緒に出土した19ページの鉄製輪鐙は、北燕馮素弗墓例に代表される短い柄の木心金属板張輪鐙に平面形態が似ています。具体的にはてっぺんが半円形で幅が広い柄、踏み込みの真中が盛り上がり輪の下辺がへこんだ形状をなす点です。全く同じ物が福岡県宗像の久原1号墳で出土していますが、いずれも鉄製は1点だけ、もともと片鐙として使われたようです。これは8ページにつけた5世紀後半の寧夏固原北魏墓や18ページにつけた玉田M3号墓の鉄製輪鐙(両鐙)よりも古そうな形態をしていますが、列島内での自生とはとても考えられないのです。慕容鮮卑墓から鋳銅もしくは鍛造銅製と思われる全金属輪鐙(それも片鐙)は幾つか出土していますから、全鉄製の古い片輪鐙も慕容鮮卑の領域に原形がある可能性があるのです。
 今後も気軽にご質問ください。あまりわかりやすくないかもしれませんが、可能な範囲でお答えします。




180. 興味がわいてきますね さわらびT  2002/07/01 (月) 19:04
桃崎先生

私どもにはわかりにくいものですから確認並びに質問させてください。丸山2号鞍というのは、先日の資料7ページに喇嘛(ラマ)洞採集品の下に掲示されてある丸みを帯びた鞍のことですか。この喇嘛洞採集品とメールにお書きいただいた「UM101号墓出土の龍文透彫鞍」とは別のものですね。

「長野市飯綱社古墳の鞍も、あのおかしな鉄製輪鐙」の鞍は7ページの真中にある破片に近いものでいいですか?輪鐙は19ページ2段目のものと思われますが、どのような特長があるのでしょう。

応神陵陪塚の誉田丸山古墳出土の馬具が北燕の製品である可能性を示唆しているというお話ですと、応神陵が応神天皇の墓というわけではありませんが、つい私どもは短絡的に江上先生の騎馬民族征服王朝説に結び付けたくなります。
ところが、「あるいは南朝が鮮卑と倭に同時に同一の鞍を下賜した可能性も想定しておく必要があるかもしれません」とも書いておられるので、多角的な見方をするべきだと、納得した次第です。ご教示ありがとうございます。




179. 『三燕文物精粋』の驚愕 桃李  2002/07/01 (月) 12:56
同志社の発表を終えて筑波に戻ると、中国書籍専門店書虫から『三燕文物精粋』(遼寧人民出版社2002)が届きました。収録資料は必ずしも網羅的ではありませんが、きわめて注目すべき遺物が入っていました。(以下先日配布の資料と対比していただければ)なかでも遼寧省北票県の喇嘛洞UM101号墓出土の龍文透彫鞍は大阪府誉田丸山(応神陵陪塚)2号鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一で、丸山2号鞍は北燕の製品である可能性が高そうです。誉田丸山の古い方の轡も、朝鮮半島であまり見られず鮮卑領域に多い縦長方形銜通孔を採用している点や方円結合形金具が存在する点からも、まるごと鮮卑製の可能性が高そうです。(あるいは南朝が鮮卑と倭に同時に同一の鞍を下賜した可能性も想定しておく必要があるかもしれません)なお喇嘛洞UM266号墓では丸山2号鞍のような丸っこい鞍で鉄装のものも出土してます。更に喇嘛洞UM202号墓では海金具を鉄装にした逆台形鞍が出土しており、あるいは長野市飯綱社古墳の鞍も、あのおかしな鉄製輪鐙とあわせ、鮮卑製の可能性も用心しておいたほうが良いように思えます。
また喇嘛洞UM217号墓で出土した四環鈴は金冠塚出土品の祖形と目されます。喇嘛洞UM196号墓の鉄製楕円形鏡板付轡は王子墳山腰M9001や長野県鳥羽山洞穴のものとよく似ており、喇嘛洞TM10号墓の鉄製楕円形鏡板付轡はX字形銜留に短い毛抜形横棒引手を伴っていますが、これは百済の天安斗井洞T−5号の楕円形鏡板轡・金属?
轡に対比されるもので、百済の初期馬具も鮮卑領域からの搬入品を交えているようです。
また帯金具類にも注目すべきものがあり、従来型式学的組列に不明の点が多かった4世紀型から5世紀型への間を埋める資料が喇嘛洞UM196号墓で出土しています。
すると奈良県新山古墳出土品→慶尚北道龍城出土品→喇嘛洞UM275号墓出土品→兵庫県加古川市行者塚出土品→喇嘛洞UM196号出土品→西溝村墓→王子墳山腰M9001→兵庫県姫路市宮山古墳3号石室という流れが描けそうです。
なお喇嘛洞UM196号墓出土の帯金具の垂飾は、心葉形の内部に蕨手文を配しており、その意匠は百済の龍院里1号墳の扁円剣菱形杏葉の祖形と目されるものです。

 以上、喇嘛洞の正式報告がなされたら古墳時代研究に大激震がくることは間違いないでしょう。ぜひ現物を中国で見たいですね。
 それではまた。






178. 「雨水利用を進める全国市民の会」URL さわらびY(ゆみ)  2002/06/29 (土) 21:08
175. 『空と海と大地をつなぐ雨の事典』のご紹介
S.Sさんから紹介いただいた「雨水利用を進める全国市民の会」のURLが変っていたようですね。正しいURLは、次のとおりです。
http://www.rain-water.org/index_j.html

ぜひご覧になってください。





177. 特集陳列『広開土王碑』(東京国立博物館) さわらびT  2002/06/29 (土) 09:21
東京国立博物館で『韓国の名宝』展が開催中(6月11日〜7月28日)ですが、同時に興味深い展示を東洋館でみることが出来ます。

特集陳列『広開土王碑』(6月11日〜8月4日)、詳しくは東京国立博物館のHPをご覧いただけばいいのですが、広開土王碑の碑文が展示されている光景は壮観です。

広開土王碑に直接関連する展示資料は@酒匂本A新収拓本(平成13年度寄贈)B臨写本です。この臨写本というのは、絹に広開土王碑文を書き写したもので、酒匂氏が持ち帰った墨水廓填本の復元作業を知る上での貴重な資料と思われます。

6月28日に行なわれた列品解説(東洋課長・谷豊信氏)によれば、新収資料である拓本は九州大学図書館本に似ているとのことです。拓本の作成時期には@石灰を塗りはじめた1900年ごろA石灰剥落期の1927年ごろ、の2説あるようです。

私が『高句麗広開土王碑は改竄されたか』で、「王健群釈文では「海」だが、徐建新氏は推測にすぎないとされた」と紹介した問題の箇所は、谷氏もおっしゃられましたが、この拓本を見る限り、「海」ともなんとも全く読み取れないです。

展示期間中に足を運ばれることをお勧めします。




176. HP1歳の誕生日だったのね さわらびY(ゆみ)  2002/06/26 (水) 23:33
そういえば、ワールドカップにうかれて忘れてましたが、「さわらび通信」は発足一年目を迎えていました。
更新記録のページを見ていたら、去年の6月23日にはじめてUPしたのだったのですね。
この一年、多くの方々に見ていただき、たくさんのメル友、Web友ができました。ほんとうにありがとうございます。
最近、ジャンルがとめどもなく拡大し、またページが多すぎてやや食傷気味?かも知れませんね。(夫婦でもすべて読んでいない?かも)
なにかご興味いただける1テーマあるいは1ページだけをご覧いただいて、よろしかったらこのコーナーへおたよりをください。
今後ともよろしくお願いします。




175. 『空と海と大地をつなぐ雨の事典』のご紹介 さわらびY(ゆみ)  2002/06/25 (火) 15:50
しとしとと雨が降っています。梅雨ですね。
さわらびYの仕事上(実は、自治体の衛生検査の仕事が本業です)の友人が、グループで『空と海と大地をつなぐ雨の事典』という本を出版しました。 「身近な雨から地球が見える」というキャッチコピーですが、中身もなかなかの力作。 雨とつきあってきた人々の暮らしや歴史・民俗も豊富な資料に基づき、丁寧に書かれています。ぜひ皆さんにご紹介したいと思っていましたら、メールで紹介文が送られてきましたので、さっそく転載します。
雨の日の読書におすすめの一冊です。

 墨田区内に本拠を置く「雨水利用を進める全国市民の会」の有志30数人で、「雨」をキーワードに雨にまつわる事柄を集め、それらをまとめて本にしました。 映画や演歌、雨乞いや洪水、竹やカエル、酸性雨や地球温暖化、雨水利用の実践例などなど、実に多彩な雨づくしの本になりました。国内外を問わず、自分たちの足で稼いだ情報をたくさん盛りこんであるのも特徴です。 カバーの袖には、永六輔さんと加藤登紀子さんからいただいた推薦文を載せています。読みやすいように1ページ毎の完結を基本としていますので、夜寝る前に興味に応じてパラパラとめくっていただくこともできます。
 都会では雨はとかく疎んじられる嫌いがあります。しかし、モンスーンアジアに位置する日本では、古くから農耕を主とする暮らしの中で雨と長くつきあってきた結果、さまざまな雨の言葉や表現が生まれました。また、雨が水や水蒸気、氷などに姿を変え、人間や他のあまたの生物を育んできたことも否めません。
 雨水利用というと、足元に降る雨を有効に活用するという直接的な意味が先行しがちです。私たちは事典をつくりながら、地球の成り立ち以来、雨によって生かされてきたことを実感しました。地球という閉じられた環境の中で、降った雨をまともに大地に還し、きれいな空と雨、多様な雨の文化を取り戻す「雨水循環型社会」をつくっていきたいものだと考えています。
 ご一読くださり、ご意見やご批判、その他何でも事務局にお寄せいただければ幸いです。(S.S)

2500円+税+(送料200円) 北斗出版(03-3291-3258 FAX03-3291-2074)  全国の書店で注文できますが、取り寄せの場合は、北斗出版に直接どうぞ。
「雨水利用を進める全国市民の会」事務局 E-mail rain@m-do.com
  homepage http://rain-water.org/




174. 房総地域文化研究プロジェクトHP紹介 さわらびY(ゆみ)  2002/06/24 (月) 22:16
このたびリンクのページに、「房総地域文化研究プロジェクト」(東京成徳大学人文学部日本伝統文化学科)のHPをリンクしました。

当面、つぎのような企画があります。
詳しくは「房総地域文化研究プロジェクト」HPでご覧ください。

7月5日(金)伊能忠敬関係史料の調査にたずさわって
講師 伊能陽子氏[伊能忠敬研究会顧問]

7月18日(木曜日)「習志野俘虜収容所のドイツ兵たち」
講師:星昌幸(習志野市教育委員会社会教育課)




173. 慕容鮮卑の「武冠制」の受容 さわらびT  2002/06/23 (日) 22:58
桃崎先生

ご講演本当にありがとうございました。

この間、埋蔵文化財研究集会での先生のレジュメとにらめっこしながら、考えていましたが直接お話を聞くことができ、満足しています。日本列島における馬の渡来の時期を論ずるのに、考古学的検証に耐えるために馬具装着馬のを取り上げるという意味をよく理解することができました。

時間の制約があるため、お話されなかったこともあるでしょうし私どもももっとうかがいたく存じました。次の機会を楽しみにしております。

宮代栄一氏の「馬具の渡来時期はいつか」(『古墳研究最前線』新人物往来社、1999)を読みました。先生が日韓で議論がかみ合っていないようにご指摘なさっていたことに関連すると思い読んだのですが、日韓の編年観の違いなど私などには理解しがたいこともありますし、稲荷山古墳自体の問題は関心が高いわけですから、先生に少しご説明いただけばよかったかななどと考えてた次第です。

慕容鮮卑の装飾馬具を伴う「武冠制」の伝播と受容いう問題提起はワクワクさせれますし、歴史と醍醐味を味あわせていただきました。これからもよろしくお願いいたします。




172. ご清聴ありがとうございました 桃李  2002/06/23 (日) 20:09
先日は私の拙い話を熱心にご聴講いただきありがとうございます。
私がこの分野で講演を初めて行ったのは、「騎馬民族は来た?来ない?」講演会で江上先生の前座をさせていただいたことに遡りますが、
そのころはなかば夢物語であった地域や分野の知見が飛躍的に広がり、
専門であるはずの自分でも追随できなくなることがしばしばあります。
そのような中で、講演の機会をいただいたことは、近年の錯綜する研究現状を整理咀嚼するよい機会でした。勉強熱心な皆様の高い知的欲求が、自分に新しい世界を開いてくれるよう思います。
 本当はまだまだお話したいことがたくさんあります。特に1つ1つの馬具や古墳の分析の面白さをお伝えしたいと思っています。
 もしご自身でごらんになった具体的な遺跡や馬具のことで、あるいは騎馬文化に関する基礎的なことで(素朴な疑問こそ、本質的な問いにつながっていると思います)ご質問がありましたら、お寄せいただければ、わかる範囲ではありますが、お答えしたいと思っています。
そうした問いに答えることで、精進出来ればと思っております。
 当方は7月8日から8月12日まで茨城県霞ヶ浦町の柏崎で、古墳時代須恵器窯の発掘調査で、この間留守にしますが、秋以降はまた積極的に研究に取り組みたいと思っています。
今後ともよろしくお願いします。




171. 桃崎ファンのご参加に感激 さわらびT  2002/06/22 (土) 22:20
みきこ様
ご訪問いただきありがとうございます。
桃崎先生のご講演は、終わってしまうのが残念に思えましたね。それとこれほどの桃崎ファンが参加されたことは私にとっても大感激でした。

桃崎先生は、もう古くなってしまいましたよ、とおっしゃられましたが「古墳に伴う牛馬供犠の検討」(『古文化談叢 第31集、1993』は画期的な論文だと思います。学ぶべきことが盛りだくさんです。

平林章仁『三輪山の古代史』(白水社、2000)が、この論文を引用され、意義をまとめておられるのでご紹介します。桃崎先生は、平林先生をご存知ですが、お目にかかったことはないとのことでした。

「桃崎氏の業績は、全国的な資料集成に基づき他界観との関連や朝鮮半島・中国東北地方の事例からその文化系統の見通しを示されたこと、動物供犠の視点から殉葬と生贄の区別を明示されたこと、古墳への動物供犠を古代文化史上の問題と位置づけられたことなど、この分野の研究を大きく前進させた。」(P157)

なるほど・・・納得です。先駆的で、独創的な業績だからこそ、私たちもひかれるご研究なのでしょう。

稲荷山古墳の被葬者、のことも私も大いに関心あります。出土馬具のことももっとお話伺えばよかった、と思っています。

これからもどうぞよろしく。




170. 先日はありがとうございました みきこ  2002/06/22 (土) 08:44
先日はありがとうございました。桃崎先生のお話は最高でしたね。あの厚いレジュメがすごかったですね。2時間があっという間に終わりもっとお話が聞きたかったです。納得のいく論証でした。私は「埼玉・稲荷山古墳の被葬者は誰」というテーマでここ数年勉強しています。稲荷山古墳の副葬品の一つ一つを東アジア的視点から追いかけていて、桃崎先生のお話が一番参考になっていました。いつかお話が聞けたらと思っていたので、本当に感激でした。ありがとうございました。




168. 上州の旅アルバムと九輪草 さわらびY(ゆみ) [URL]  2002/06/13 (木) 22:59
先崎のmwara様

6月9日と10日、八千代市郷土歴史研究会の史跡探訪で、群馬県に旅行しました。
貴兄のいらした奥日光同様、すばらしい天気で、若かりし頃通った上越国境の山々が、戦国史の舞台となった古城址から望まれました。
奇しくも私も川場村吉祥寺で、九輪草に魅せられて、たくさんシャッターをきりました。そのうち3枚をUPしましたが、さすが千手が原の九輪草のほうがみずみずしく可憐ですね。
歴史資料用とスナップ以外、写真とは縁がなかった私ですが、mwaraさんのHPを拝見しているうち、少し面白くなってきました。
まだまだ作品以前の未熟な画像ですが、手動のスライド形式でUPしましたので、ご覧いただければ幸いです。
ちなみに私のお気に入りは、7.永井宿本陣跡と5.泰寧寺石仏です。
なお、今日(13日)はテスト不充分でまだ不具合があるかもしれません。うまく表示されなかったらごめんなさい。






167. 奥日光のズミ mwara [URL]  2002/06/12 (水) 22:50
こんばんは、先週奥日光小田代ガ原と西の湖のズミ、千手は浜の九輪草を写真に収めて、ここでUPいたしましたのでお知らせします。天気もよく最高の1日でした。




166. シンポジウムのお知らせ さわらびT  2002/06/09 (日) 23:49
東京大学の佐藤信先生を代表とする研究グループ(「古代荘園絵図群による歴史景観の復元的研究」)が東京と、奈良でシンポジウムを開催します。
佐藤先生のご了解をいただきましたので、お知らせ欄に掲載しました。
ご関心のある方はぜひご参加ください。
@シンポジウム「古代荘園図の語る世界」(7月26日、27日東京大学)
A公開シンポジウム「荘園絵図と西大寺」(9月28日、西大寺興正殿)




165. 戦跡考古学について さわらびT  2002/06/08 (土) 23:55
今日の国立歴史民俗博物館の講演会は、『戦跡考古学』がテーマでした。
『南風原(はえばら)陸軍病院壕と戦跡考古学』池田栄史(琉球大学文学部教授)
詳細は下記を参照してください。

http://www.rekihaku.ac.jp/koohoo/kooenkai/index.html

戦跡考古学は、教科書検定問題をきっかけに當眞嗣一氏が1984年に提唱されたのだそうです。沖縄戦の記述にあたっては、証言記録が史料としてなじまないとする検定意見がきっかけとなったとのことです。
このことに対抗する強い意思が働いた結果生み出された学問といえます。

5月12日の千葉歴史学会大会でも各務敬氏による『歴史を語り継ぐ戦争遺跡』の発表があり、関心を持ちました。(各務氏は茂原市の事例による発表でした。)
「もし仮に、遺骨の発掘作業の段階で、住民側の多くが壕の入り口、兵隊の方が壕の奥側で発掘されたならば、『壕に避難した際、住民は危険な入り口近くに追い払われ、住民を守るはずの兵隊が壕の奥にいた』との証言の物的証拠」になるというのが當眞氏の提唱です。(各務氏の発表レジュメから)

今日の講演会は、聴衆がいつもに増して講演に真剣に耳を傾けているように感じました。南風原陸軍病院は、映画「ひめゆりの塔」の舞台となったところです。
病院は壕の中に作られ、そこに少女たちも働いていたのです。その壕を考古学の手法で発掘し歴史史料とするのです。現代史と考古学がなじむのか、という興味もわきます。
しかしさすがに史跡とはいえ、対象は現代です。発掘された遺骨から遺族も探すことになるようです。発掘を通じて直接体験ではないが「戦争体験」を学べる学習効果があるというのもうなずけます。

講演終了後、年配の方から、私ども戦後生まれの方、そして遺骨収集をされておられ若い方などの熱心な質問がありました。池田教授の「壕のもっている教育力」「あるがままを知っていただきたい」との言葉を素直に受けとめました。戦跡がもつ教育力・・・・なるほど

今月23日、沖縄では「慰霊の日」(県条例による「休日」)です。




164. Re: 先崎雲祥寺 さわらびY(ゆみ) [URL]  2002/06/07 (金) 00:07
mwaraさま
おしらせありがとうございます。
先崎雲祥寺はまだ、行ったことがありません。
先崎は友野姓と蕨姓が多いようですが、「上総千葉一族の臼井一族で印旛郡臼井庄和良比(四街道市和良比)を領して和良比(蕨)を称した」一族と関連があるのでしょうか。
貴兄のまた地域で写された画像を楽しみにしています。




163. 先崎雲祥寺は昔、地域で相当の力を発揮していた記録が残っています。 mwara [URL]  2002/06/03 (月) 23:00
こんばんは、このところ多忙にて失礼しておりますが、先日地域の人で、先崎雲祥寺の管理下にあった先崎地域(今で言う区長でしょうか)当時、蕨善兵衛氏は区長であったのではないかと思われます。昔の記録帳のコピーを見せてもらいましたが、至る所で蕨善兵衛氏のサインが確認されました。この記録帳をみる限り地域の有力者だったと思われます。




162. 桃崎祐輔先生のご講演に関連して さわらびT  2002/06/02 (日) 22:39
シルクロードの会の6月例会で筑波大学の桃崎祐輔先生がご講演されます。先生のプロフィールは下記をご参照ください。

http://www.histanth.tsukuba.ac.jp/gakukei/members/momosaki-yusuke.html

『古文化談叢』第31集(九州古文化研究会、1993年)に『古墳に伴う牛馬供儀の検討―中国東北地方・朝鮮半島・日本列島の事例を比較して』が掲載されています。知る人ぞ知るという論考でした。今回のご講演を機会に入手しましたが、手違いで2冊手元にあります。返品するよりも、ご関心のある方におわけしたほうがよいと思いました。ご興味のあるかたは、メールでお問い合わせ下さい。

桃崎先生の研究は松木武彦氏の『人はなぜ戦うのか』(講談社選書メチエ、2001年)にも紹介されています。ご参考まで。

大形前方後円墳に副葬された武装に関わる品々は、5世紀末〜6世紀になると馬具にしても装飾性が強くなるようです。「豪華絢爛たる馬上の大将軍といった風情だ。」と松木氏は書いておられますがさらに「この軍装のスタイルについて、桃崎祐輔氏は、四世紀の中国王朝の混乱のためによるべき身分表示の制度を失った東北アジアの周辺諸国が、独自に武冠の制度を作りだし、その一部が朝鮮半島や倭に伝わったものだと説く。」と付け加えておられます。(p167)




161. メールいただいた皆様ありがとう。 さわらびY(ゆみ) [URL]  2002/05/29 (水) 23:16
5月25日、八千代市郷土歴史研究会で作製した「血流地蔵道道標」の説明板ができ、現地の新木戸三叉路GS壁に取り付けました。
このルポ「道標の独り言・後日談・看板ができた!」をUPしましたら、何人かのお友達からメールをいただきました。

>道標の独り言楽しく読ませてもらいました。
>読んでる途中、後世のための説明があるといいのにと思いつつ、読んでいきました。さすが、後に看板ができていてほっとしました。

>新木戸の「ある道標の独り言・後日談」面白く読ませていただきました。
>道標を発見してから約4年で、人々に、道標の由来等、案内できるようになったのですね、すばらしいことです。私も、そちらへ出かけた折にはぜひ見たいと思っております。

>道標くん、どんなにか誇り高く思い、がんばって>来たことを、嬉しくおもっていることでしょう!
>私も、出来るだけ早いうちに、お目道りして来たいものです。

メールいただいた皆様ありがとう。

会長の実行力で看板ができ、市民や道標のためにも感謝します。
また若手会員と調査に行ってから4年間、最後まで皆さんの活躍のルポができ、本当によかったと思いました。ありがとうございました。

ところで、26日さわらびTが持ちかえった考古学協会総会の厚いレジメ集を読んでいて、「波板状凸凹面牛馬歩行痕説」と言う報告に興味を持ちました。
 田端不動坂遺跡発掘説明会
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/hudouzaka/hudouzak.htm
に載せた道路跡の遺跡の枕木状の凸凹の由縁がわからなかったものですから。
「なるほど、牛馬が歩いたあとか!」と、やっと納得できました。




160. 八千代市の縄文時代の丸木舟と墨書土器 さわらびY(ゆみ)  2002/05/27 (月) 14:18
いま、八千代市郷土博物館で、「よみがえった丸木舟と墨書土器」の企画展をやっています。(6月16日まで)
復元された6.5mの舟は壮観、また墨書土器は平川南先生が「歴博の企画展に借りたかったと話された垂涎の土器(下総の国名・人名・年号、人面が描かれている!)です。
6月2日(日)この企画展にあわせた「縄文時代の丸木舟」の講演会は、1時半から郷土博物館で。
詳しくは
http://www.city.yachiyo.chiba.jp/sisetu/rekisi.html でどうぞ。




158. 先崎のなつかしい風景をありがとう さわらびY(ゆみ)  2002/05/20 (月) 22:01
http://www2u.biglobe.ne.jp/~W730688M/index.htm オーナーのmwaraさま 
貴兄のHPのすばらしい写真を時々、壁紙に利用してきましたが、先月より専用のコーナーでサイズもぴったりの壁紙用の作品をUPしていただき、日替わりで楽しませていただいています。
(ピクセル数が多い鮮明な画像がダウンロードできるのもADSLのおかげかもしれませんが…)
観光地よりも、先崎のなつかしいふるさとの風景がgood!です。
北総にはまだこんな自然と先祖からの文化財や史跡・民俗が残っているのですね。
元宮や蕨善兵衛銘の石碑の興味深く拝見しました。
私も郷土の原風景をカメラに収めておきたいと思っています。
今後ともよろしくお願いします。




156. 更新しました mwara [URL]  2002/05/18 (土) 18:06
先日は、書き込み有難うございます。壁紙も週間なので4点、本日更新をかけました。身近なものを撮影し皆さんに見てもらえたらうれしいです。鷲神社の新着情報も更新しています。元宮とはどのような事なのでしょうか。蕨善兵衛氏の石碑も載せました。




155. デマメールにご注意 さわらびT  2002/05/16 (木) 09:57
一部の方にデマメールを送信してしまいましたので、お詫び申し上げますとともに訂正いたします。

下記メールは全くのデマです。
「jdbgmgr.exeという名前のウィルスは、14日間静かにしていてシステムを破壊します。」

これはアプリケーンソフトなので検索されて当たり前なのですが、私はうっかり削除してしまいました。

下記URLを参照して復旧しました。

http://www.microsoft.com/japan/technet/security/virus/false/jdbgmgr.asp

ご迷惑をおかけしました。ウィルスだけでなく、デマメールにも気をつけないければならないとは・・・




153. 変種ウイルス、手口巧妙(日経新聞から) さわらびY(ゆみ) [URL]  2002/05/04 (土) 19:36
昨日今日とたて続けにウイルスメールが到来しています。
sukiyoとか、no nameの知らないアドレスで英文のタイトルとかいろいろ。
全部捨てていますが、皆さんのところはいかがですか。
日経新聞でも警告を呼びかけていますので、参考にしてください。

変種ウイルス、手口巧妙

 他人の名前でメールを送りつけたり、受信者がついメールを開きたくなるよう日本語で「重要」といったタイトルを付けるなど、巧妙な手口のコンピューターウイルスが猛威を振るっている。既存のウイルスを改造した変種で、特定の日時がくると活動を始めるようプログラムされたものも。いずれも感染力が強く、専門家は注意を呼びかけている。

 今年に入り、世界各地で被害を与えているのが「Klez(クレズ)」と呼ばれるウイルスの様々な変種。いずれも、侵入先のパソコンのアドレス帳に記載されたあて先に勝手にメールを送りつけるが、その際、パソコンの持ち主ではなく、アドレス帳に記載された他人の名義を差出人として発信するのが特徴だ。

[5月4日/日本経済新聞 朝刊]




152. ウィルスにご注意 さわらびT  2002/05/03 (金) 20:23
またウィルスがはびこっています。数日前にも怪しいメールが来ました。今日は、知人からのメールがウィルスだと思われるものでした。受け取ったメールのタイトルは darling となっていました。

逆にお知らせいただいたのですが、私のアドレスで your password というタイトルでメールが来たということです。私どものパソコンぱ感染していないようなのですが、名前をかたることもあるらしいです。、

いずれにせよ、本文がない添付ファイル(クリップ)だけのメールは絶対にあけないようにして下さい。そのまま削除しましょう。

下記のトレンドマイクロ社のHPで確認しました。参考にしてください。

http://www.trendmicro.co.jp/virusinfo/news2002/worm_klez_g.asp




150. 千葉の海の思い出 さわらびT  2002/05/01 (水) 22:36
からのはこ様
ありがとうございます。写真家・早坂卓さんのHP拝見しました。

私も少年時代を千葉県の海をいつも見られる場所で過ごしました。
京成電鉄の「船橋競馬場前」駅の裏手に生まれた家がありました。団塊の世代ですから、同じ年頃の子供達が、たくさん住んでいました。週末になると父親が、子供達を連れて海浜で野球の相手をしてくれました。そのころはカメラは普及していなかったので、記念になるような写真が残っていたらいいのですが・・・
残っているとすれば、稲毛海岸の海水浴の写真ですかね。

からのはこさんが書かれた文章は、懐かしくまた、せつない気持ちにさせてくださいます。私も船橋の海浜で、あっという間に水の中という思い出があります。

実家に残されているかもしれない思い出の写真を探してみます。




149. 海の記憶写真について からのはこ  2002/05/01 (水) 12:58
以前に掲載させて頂いた「千葉の海の記憶」につきまして、写真家・早坂卓さんのアドレスが未公開となっていました。
改めて公開されているアドレスを掲載させて頂きます。

http://www.makunouchi.net/

です。

このHPに私の投稿した写真と文章が次ぎのアドレスに掲載されていますので、宜しかったら見てやってください。
また、昔の海の写真をお持ちの方は是非投稿してみませんか。

http://www.makunouchi.net/uminokioku-toyookasan.htm#





148. 人間は「牙」ではなく「言葉」を得た さわらびY(ゆみ) [URL]  2002/04/29 (月) 20:07
今日「みどりの日」は国立歴博の植物園でイベントがあり、久々に佐原真先生がお出でになりました。去年の11月に歴博で講演なさったときに比べ、だいぶ体力を落とされたご様子で、奥様が運転された車から降りられたとき、車椅子をお使いになったのは、正直言ってショックでした。
緑陰で、シーボルトの持ち帰った種からの子孫の苗木をオランダのライデン大植物園から贈られたことの記念行事がはじまり、セレモニーのあと、当初の予定通り佐原先生の「木と花の文化史」についてのミニ講演がありました。
お体の具合を心配し辻先生がピンチヒッターで、という周囲の配慮もあったようですが、私たち佐原ファンの熱い視線もあったのか、意を決してご自分がマイクをとられ、いつものように目をクリクリっとされながら、お話しされる一言一言が心にしみる感動的な内容でした。

「レンガや石づくりの家を造らなかったのは、日本は木が豊富だったので、必要なかったから。」「縄文から?人は栗の木を残すなど、人が関与して「山里」を作り、「人里植物」を育ててきた。」
「日本の大工道具は、やりかんなやのこぎりなど押すことから手前に引くことにかわり、錐は手で回すようになるなど、手がより密着した仕事をするようになり、すばらしい技術を生んだ。」 「桶は木とその加工技術の産物で、木の少ない大陸は、お酒でも漬物でも甕で造る」
そして「花の文化史」は去年話されたから、とおっしゃって「一億五千万年前から花はあった」「人が自然を壊すほど、人は花を飾るようになった」「植物が動物のあり方を決める」など短い話をされた後、大変感動的な言葉で締めくくられました。

「600万年前、人間が誕生したとき、チンパンジーのような相手を威嚇するための牙を持たなかった。牙は犬歯となった。最近私は神がいるように思うのだが、神様は人の口に武器となる牙ではなく、平和のための言葉を与えた。」




146. 大山説が小説に? さわらびT  2002/04/26 (金) 22:40
4月22日の大山誠一先生の講演会は盛況でした。50人近くの参加者だったそうです。懇親会もあやうく席がなくなりそうなほどで、私もゆっくり先生とお話できませんでした。

私は、何度かご講演を聞かせていただいていますから、復習でしたが、初めて聞かれる方には、新鮮な驚きだったようです。

ところで、余談としてうれしそうにお話になったのですが、『法隆寺の殺人』(著者は篠田秀幸氏、出版社は角川春樹事務所)という推理小説を紹介されました。なんでも、大山説が紹介されているとともに先生をモデルにしたとおぼしき「大川教授」も登場するとのこと。私は未読ですが、どなたかお読みになったら感想でも書いていただけませんか。




144. 千葉の海を語り継ぐ からのはこ  2002/04/21 (日) 18:07
さわらびTさん

久しぶりに書き込みさせて頂きます。
実は、幕張新都心の写真を撮り続けている写真家・早坂卓さんが、今は埋め立てられてしまった千葉の海岸の写真や思い出を後世に残そうという活動をしています。
私の生まれ育った千葉市登戸という場所も昔は国道14号の脇まで海でした。夏には多くの海水浴客が訪れ、アサリや蛤を採り、カニやハゼと遊んでいました。私たちも食料不足を補うために土中に潜むシャコをバケツ一杯採る日常でした。台風時には国道14号は波に洗われ、自然の猛威を肌で教えてくれる偉大な教師でした。
その海は高度成長と時を同じくして埋め立てられ、マンションや公団住宅にとって変わりました。
その歴史が正しかったのかどうかはともかく、昔、私たちの子供の時に、そこに海があり、自然がまさに人々とともにあったという事実を後世に語り継ぐ必要もあるだろうと思います。

私もアルバムを引っぱり出して、辛うじて残っていた千葉海岸の海の写真を見つけましたが、もしこのような貴重な写真が残っているのでしたらご一報下さい。
また、ご友人・知人にも声を掛けて頂ければ幸いです。

なお、写真提供を呼びかけている早坂氏のHPアドレスは次の通りです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://www.bekkoame.or.jp/~taku24/
・・・・・・・・・・・・・・・・・・




143. サクラ・御衣黄 小西政太郎  2002/04/21 (日) 13:30
高尾のサクラ保存林で珍しい「御衣黄」を観て、去年、近所で撮った見事な御衣黄を思い出し、早速プリントして提供した処、HPのフォトギャラリーに載せて頂けましたので、サクラと御衣黄について「園芸百科」等の資料を調べてみました。以下その報告です。
「サクラはバラ科サクラ属サクラ節に含まれる植物群の総称で、サクラと云う特定の植物は存在しない。然し、習慣的に昔からヤマザクラやソメイヨシノを指して『サクラ』と呼んでいる」と書いてあります。種類は「自生種が十数種、自然交配種が約20、園芸品種等が数百種にもなり、「御衣黄」はサトザクラ群(里に植えられている改良園芸品種)に属し、若葉の薄緑と同じ薄緑の八重の花が黄色からピンクへと色が変わっていく、たいへん珍しい花色の桜」。
名称の由来は書いてありませんが「御衣」「黄」から想像すると、園芸家は中国皇帝の衣服をイメージして作ったのかもしれません。
現在、御衣黄は、高尾のサクラ保存林の1本・飛鳥山公園の1本・田端変電所の昭和47年に植樹した1本が知られています。

・・・誰やらの句に『人の往くうらに道あり花の山』・・・




142. 歴博フォーラム『古代日本 文字のある風景』 さわらびT  2002/04/14 (日) 22:33
今日14日、第38回歴博フォーラム『古代日本 文字のある風景』がヤマハホールで行なわれました。

早稲田大学の李成市氏の報告で、高句麗起源の造字として「椋」(くら)の字があることをお話されたことが私には興味深かった。高句麗では、もとは「桴京」と記されたが、「桴」の木編と「京」が合成されたのだそうです。それが我が国にも伝えられたということのようです。

城山山城の出土木簡の釈文が追加資料として配付されました。これらの木簡が古代日本の木簡に影響を与えたそうです。討論の中で、文字の書体の共通性から木簡と高句麗民の関係を示唆されました。城山山城の発掘は一部のみなのでさらにふえる可能性があるとのことです。

韓国出土木簡が見られるのは国立歴史民俗博物館での展示だけなのだそうです。機会があれば、皆さん是非佐倉へどうぞ。




141. 「お客さまのフォトギャラリー」を開設しました さわらびY(ゆみ)  2002/04/14 (日) 00:40
小西様からすてきな写真が届けられました。

「お客さまのフォトギャラリー」を開設しましたので、ご鑑賞ください。

掲示板では文章だけしかご披露いただけませんので、力作の写真や絵などはこのコーナーを、皆様もどうぞご利用ください。




140. 久々のご投稿ありがとうございます さわらびT  2002/04/13 (土) 23:28
小西様
掲示板にお久しぶりの登場ありがとうございます。
今日もお会いしているのに、妙な気分です。

見事な「御衣黄」の写真拝見しました。いいですね。この緑の花をつけた桜が『多摩森林科学園』に咲いていたのを見られなかったのは残念。

14日から18日にかけては、地平線近くから、水星・金星・火星・土星・木星の順に並んで見えるとの情報もお教えいただきこれまた感謝。さらに新月直後の細い月が間に入るんですって。ナルホド。

来週は大山先生のご講演です。(シルクロードの会主催)

八王子城見学会に、お誘いした中山先生が元気すぎたこと。解散後、武蔵国分尼寺につきあわされてヘトヘトになったこともお伝えしょうね。




139. 雑学・サクラ 小西政太郎  2002/04/13 (土) 00:36
仕事の都合で長らくごぶさたしてましたが私は相変わらず元気です
これからは時々投稿しますのでヨロシク。
2日前に八王子城跡の勉強会を途中ぬけだして『多摩森林科学園』のサクラ保存林で花見をしてきました。ここでは全国各地の著名な桜を見ることができたので、短時間で日本中の桜見物をした気分になりました。また、桜の種類の多いのには感心して早速、我が家でパンフレットと園芸百科で調べた処、ヤマザクラ系・ソメイヨシノ系・エドヒガン系・カンヒザクラ系統・サトザクラ群など自生種・自然交配種・園芸品種等、多種多様な桜があることが判りました。来年の桜見物ではこころして見るのも一興かと思います。
場所はJR高尾駅北口から徒歩約10分




138. Re: 我家のチューリップ祭りご招待 さわらびY(ゆみ)  2002/04/09 (火) 21:26
> こんばんは、今年の春は2週間も早いようですが、我家のチューリップは今が最高の見所です。

ITでのご招待ありがとう。
500株のチューリップ、壮観ですね。さっそくデスクトップの背景にしました。
「今月の1点」吉高の大桜も今年は満開のよう。今週末でも見られるかしら。
佐倉市の風車のチューリップ畑もスケジュールが繰り上がって主催者は大変でしょうね。


4月8日、鎌倉の極楽寺の花祭りに行き、この日年1日のみ公開の忍性の五輪塔と、本尊の清涼寺式釈迦像を拝観してきました。
もちろん撮影禁止でしたが、お釈迦様は、眉が少年のようにりりしく素敵、また忍性塔は、大きくまたバランスがとれてさすがりっぱでした。
帰りに長谷寺と大仏さまに寄りましたが、桜は散って、石楠花やボタンが開花し、季節はすっかり初夏でした。(地球はどうなっているんでしょうね。)

また先崎発の情報をお願いします。





137. 我家のチューリップ祭りご招待 mwara [URL]  2002/04/08 (月) 22:37
こんばんは、今年の春は2週間も早いようですが、我家のチューリップは今が最高の見所です。UPしましたので是非ご鑑賞ください。




136. 『古代日本 文字のある風景』 さわらびT  2002/04/06 (土) 23:33
歴博で企画展示『古代日本 文字のある風景』が開催されています。韓国出土木簡に興味があって出かけました。安羅の故地、咸安の城山山城からの出土木簡が8点出品されています。

見てわかるというわけのものではないですが、「仇利伐 上彡者」が共通する木簡(続く字は個人名)2点は歴史への興味を誘います。

安羅とはいわゆる「任那」の地のことです。新羅の加耶侵略に抗するため任那王は継体23年(529)倭に救援要請します。近江毛野が3年後継体26年(532)に出兵、「日本府」が出来ますが(大山説です)、しかし新羅により金官の併合や久礼牟羅城占領という事態に至ります。この「久礼牟羅」と木簡の「仇利伐」が同地とする説もあるようです。

この木簡は付け札木簡とのことです。名を記した人々(図録の李成市氏の解説によれば在地首長層)は権力が移り変わる様をどんな思いで見ていたのでしょうか。




135. 「中世の船橋」展と條ウル神古墳説明会 さわらびY(ゆみ)  2002/04/06 (土) 22:41
1.今日は、船橋市郷土資料館の「中世の船橋」展を見てきました。
 マイナーな?中世を多角的に捉えて、なかなか、内容のある展示でした。
 忍性の東国史跡をテーマに個人的な感想をシリーズとしてHPで開始しましたが、「船橋西福寺&千葉大日寺の五輪塔=中世律宗」との私の短絡的な思いつきに、何とか裏づけがほしいと思っていたところ、「中世の船橋」展で、しっかりパネルにそのことが書いてありました。
 ただ図録がまだできていなくて、後日また行くことになりそうです。(5月5日まで tel047-465-9800)

2.トピックスで報告した御所市の條ウル神古墳3月23、24日の現地説明会には、約1万人が詰めかけたそうですが、(どうりですごい人だった!)あまりの反響に御所市教育委員会では5月3〜6日の4日間、見学会を開催するそうです。(でももっと混みそう?)
詳しくは 奈良新聞4月6日をどうぞ。
http://www.nara-shimbun.com/n_arc/arc0153.html
「観光の起爆剤に」とか書いてあるけど、さすが!古代史って「産業」になるんですね。





134. 大山説をめぐって さわらびT  2002/04/06 (土) 11:42
Nori 様
深夜の書き込みありがとうございます。大山説についてであればさっそく御返事さし上げないわけにはまいりません。
大山先生はその業績が先進的にもかかわらず学界での評価がいまひとつだとうかがっています。残念なことです。でも「聖徳太子」をめぐる議論は注目されていますから今後評価が高まることと思います。

ご紹介したかどうか忘れてしまいましたので、お伝えします。大山説をめぐり『東アジアの古代文化』誌上に掲載された論議をまとめた1冊(『聖徳太子の虚像と実像』大和書房、2002年1月)があります。なぜか遠山美津男先生の文章が掲載されていません。どうも『日本書記はなにを隠してきたか』(洋泉社)の新書版(2001年7月発行)に掲載されているかららしいのですが、読者には不便です。遠山先生は大山説に好意的なんでしょうかね?“聖徳太子より天智天皇に注目!”って感じですけれど…

大山説には露骨に不快感を示される先生もいらっしゃるようですね。ここにあまり書くわけにはまいりませんが、大山先生はご講演では諸先生に対してかなりはっきり批判なさいますので面白いです。

古代王権の形成過程に興味を持つものとしては推古朝の歴史的位置を検討するのは面白いです。もっとも王権継承をめぐり、同族が血で血を洗う抗争の始まりの時代でちょっと怖いです。

『聖徳太子の虚像と実像』に収載されている山尾先生の文章から引用します。(52頁)
「七世紀初葉の政治を、「聖徳太子」の鴻業、「大化改新」の前駆とする特殊な評価には客観的な根拠が殆どない。馬子を核とする「蘇我氏の諸族」(『舒明紀』)、「小墾田の御世より近江の朝に至るまで、常に汝等を謀るを以て事とす」とされた「東漢直(やまとのあやのあたい)」の「党族」(『天武紀』)、そのブレーンだった中国南朝の梁−百済系知識人「漢人(あやひと)」たち、彼らこそが、首都飛鳥に花開いた仏教文化の創造と政策領導との主役だった。」

あい変わらず読みづらい文章ですが(^0^)、重要な指摘だと思いましたので引用しました。しかし山尾先生は、津田左右吉・小倉豊文氏らの業績を評価する点では大山説に異論はないのでしょうが、不比等・長屋王・道慈が「捏造」したとする説には違和感があると書いておられます。このあたりが私にはムズムズするようなところです。古代王権形成史を学ぶのは、かなり手強いことだと常に感じさせられます。




133. 関心・期待・注目の講演会 Nori  2002/04/06 (土) 05:10
『日本古代の外交と地方行政』(1999年)は忘れようとしても忘れられません。以来、大山誠一氏は文献学者の中では斯界を代表するお一人であると思い続けています。
所謂、「任那日本府」の存在について、5、6世紀の列島古代権力の対外交流史を分析して明快な論旨により否定。1980年以後の「任那日本府」については素通りできない学史的位置にあったことは確かです。
今は、<聖徳太子>の誕生をめぐり又、糸口として「日本人論」なり「日本論」、更には天皇制とは何かの論究に集中しておられるとのこと。
<聖徳太子>に関した法隆寺系史料の成立は『日本書紀』以後である、とする氏の史料批判による「虚構」説が今後の「聖徳太子研究がふまえるべき水準に」(遠山美都男)なるだろうと評価されていることを素直に喜んでいます。「明快で説得力に富む」(遠山)仕事だけに方法論への賛・否論点、異論や問題点も多々あるようですが、かつて所謂「任那日本府」が当該テーマ研究の地平を拓くターニング・ポイントになったように実のある古代史研究の進展を期待し、歴史関心の深まりなど注目したいものです。
今月、4月22日(月)18時より。渋谷区立商工会館5F・第一会議室で。
大山誠一先生の「<聖徳太子>の誕生」講演会があります。
シルクロードの会(高淳日氏)の主催とのこと。
スンニリさんからの案内状を頂きました。有り難うございます。残念ですが参加できません。講演会のご盛会をお祈りします。
(一古代史ファン)




132. 感謝・興奮・惨めな気分。 Nori  2002/04/06 (土) 04:40
さわらびTさんのお陰です。チャンスは思いがけなくやって来るものなんですね。
歴博国際シンポ最終日(3/16)の報告合間、大山先生が会場にみえていることを、さわらびTさんが知らせてくれました。
内心“やった”と、思わず叫んでしまいました。それは以前から、さわらびTさんには機会があれば是非、先生を紹介して欲しいとお願いしていたからです。そのチャンスが意外にも早くやってきてくれました。
さわらびTさんと中山清隆氏には感謝しています。
さわらびTさんと大山誠一先生とのご関係についてはさわらびTさんご本人に語っていただきましょう。
(当HPの「聖徳太子」はいなかった―さわらびT、を参照)

コーヒー・タイムの歴博ロビーで、さわらびTさんに大山誠一先生をご紹介いただきました。
小生にとって大山先生との初対面はお陰様で印象深いものになりました。歴博国際シンポで、しかも最終日。4日間の疲れも吹き飛ぶ有り難いハプニングとなり喜びました。ネームカードを交換したはずなのに頂いたかどうかさえ覚えていないほど、(後のお食事会での話。「…、名刺はあげましたョ」…と。ショック。) 夢の中の出来事かと想い間違うほどに緊張しまくり状態。何をどうお話いただいたのかも今だに記憶は定かでありません。
情けないことなのだが、肝心の著作名さえも失念し「私は先生の…、『…と地方行政』、を読んで、と…しどろもどろ…云々…。」、「…ッえー?えー、“地方行政”?ですか…?」、怪訝そうな大山先生のお声だけが、耳元に今でも残っています。
『日本古代の外交と地方行政』(1999年)は感銘の一冊。忘れようとしても忘れられないはずだったのに…。興奮と惨めさで複雑な思いでした。
(一古代史ファン)




131. 峰岸先生の講演などがあります さわらびY(ゆみ)  2002/04/02 (火) 23:05
千葉城郭研究会のHP*に、千葉歴史学会第21回大会のプログラムが載っていました。興味深い内容なのでご紹介します
私も、時間があったら行ってみたいと思っています。

千葉歴史学会第21回大会 大会テーマ 「史跡の保存と活用」

期 日 2002年5月12日(日)

(会員以外の参加も自由。無料ですが、資料代を若干いただく場合もあります。)

場 所 JR西千葉駅 千葉大学西千葉キャンパス けやき会館3階会議室

千葉歴史学会 TEL 0472−51−1111(大代表)

10:30〜11:00 歴史教育 木村誠氏「小学校の教室を博物館につなぐ」 
11:00〜11:30 古代 宮本敬一氏「上総国分尼寺の整備」
11:30〜12:00 中世 鈴木英夫氏「柏市松ヶ崎城跡の保存運動」
13:00〜13:30 近世 鈴木映理子氏「大原幽学記念館の活動」
13:30〜14:00  近現代 各務敬氏「歴史を語り継ぐ戦争遺跡」
15:00〜16:30 記念講演 峰岸純夫氏(中央大)「中世城跡の調査と保存・復原―房総の事例を中心に―」

*詳しくは http://www03.u-page.so-net.ne.jp/xb3/yuyanase/index.html/chijyoken2.htm をご覧ください




130. 聖徳太子の墓? さわらびT  2002/03/29 (金) 23:56
駆け足の旅だったので、ゆっくり訪ねたとはいえないのですが、太子町周辺をレンタカーで迷いながらぐるぐる回ったあげく叡福寺だけには到達しました。
さわらびYは「聖徳太子と母后、妃が眠る三骨一廟の陵墓」と紹介していますが、聖徳太子信仰に基づき作られた可能性はあります。信憑性に疑問があるとも考えられますので一応、一言。
「三骨一廟」の信仰に合致させるための作為の可能性もあるというから、スリリングな話ではあります。それが興味をそそるのです。
以前紹介した『歴史検証天皇陵』(新人物往来社)に小野一之氏の論考があります。有益です。




129. 大和で初めての方形区画の大溝 さわらびY(ゆみ)  2002/03/29 (金) 22:37
おととい、「まほろばの春」をUP、その1ページ目「弥生の大和」の下に「近くの天理市平等坊では弥生の環濠と、方形区画の大溝を発掘中」の写真を載せました。
この「大溝」って、集落全体を囲む環濠の中に、さらに内郭を方形に区画する堀のことですから、弥生後期から古墳時代への過渡期のへの重要なメルクマールのような気がします。
吉野ヶ里にも内郭がありますが、方形となればまさに卑弥呼の居館にふさわしい遺構!
しかも環濠の幅が弥生中期の3mから後期には1mに縮小しつつある中、内郭の幅が何と10mとはびっくりです。
さらに進化すると、6世紀の群馬県三ツ寺遺跡のような豪族居館の周りのみ巨大な方形の堀で囲む姿になるのでしょう。

なお、この平等坊の発掘ニュースを佐原真先生にメールでお知らせしたら、「平等坊に方形の区画があったとは初耳、大和でははじめてとおもいます。」とおよろこびになっていらっしゃいました。

詳しくはぜひ奈良新聞の記事をお読みください。
http://www.nara-shimbun.com/n_arc/arc0142.html




128. 歴博国際シンポジウムへの感想 さわらびT  2002/03/27 (水) 22:37
あれだけのシンポジウムですとすべてに集中力を注ぐのは無理です。といっても私は半分しか参加していませんので体力勝負とおっしゃられたNoriさんに敬服です。

Noriさんのように厳格に研究者の方々と対峙することはできませんので遅れ馳せながら、ひとつだけ感想を述べておきます。

最終日、白石先生のご講演で、伽耶の鉄の入手ルートをめぐる確執が日本列島の政治連合の契機であるとするご自身のお考えに対し、最近説かれている批判に激しい抗議をされていたことに少々驚きました。でももしそうおっしゃるのなら、「弥生時代後期〜終末期における鉄器保有や鉄器生産技術にみられる北部九州の圧倒的優位から、畿内・瀬戸内連合による北部九州制圧など考え難い」(シンポジウムのレジュメからの引用)とする批判者も壇上にお招きするべきではなかったか、と感じたものです。

そんなことも含め、多少閉鎖性を感じさせるシンポジウムであったかと思うものです。とはいえ国立の機関が「任那」をテーマに4日間の討議するということは、開催そのものに意義はあったと思います。




127. 加藤先生のご講演のことなど さわらびT  2002/03/26 (火) 23:24
Nori様
長文の書きこみありがとうございます。余分なことまで書いて下さいましたね・・・(^0^)

20日にシルクロードの会で加藤謙吉先生のご講演に参加、翌日から奈良方面に旅行に出かけてしまいましたので、ゆっくり拝見できず失礼しました。歴博のシンポジウムも2日間参加しましたので、私なりの感想もありますが、それはまた後ほど、ということでお許し下さい。

加藤謙吉先生の『初期の藤原氏と渡来人』はすばらしかった。意欲的に鎌足・不比等・武智麻呂・仲麻呂と渡来人の関係を論じられました。渡来人が「藤原氏のブレーン的存在として、初期のこの氏の政治的台頭を陰で支え、さらにはその施策の立案・推進の立役者になっていたと推測する」とレジュメに書かれています。『藤氏家伝』鎌足伝が『日本書紀』と親子関係にあるとする近年の説には反対であり、原鎌足伝があったことが、周辺に知識層である渡来人と深い関わりのあったことから考えうる、と主張されました。この論考は6月に発行予定の佐伯有清先生喜寿記念論文集で発表されるとのことです。楽しみです。

加藤先生は『蘇我氏と大和王権』(吉川弘文館、1983年)で門脇先生の蘇我氏=渡来人説にも反論されておられます。あの門脇先生に反論するのですから大変、気骨のある先生ですね。

この著では蘇我氏が葛城氏の流れをくみ、葛城氏滅亡後のきびしい環境から発展していく過程を丁寧に論証されておられます。そこでつながるのですが、巨勢山古墳群に立ちよったのも葛城の故地に足を踏み入れたかったからでもありました。

私なりに充実した数日間でした。




126. 奈良に行ってきました さわらびY(ゆみ)  2002/03/24 (日) 21:09
21日から23日奈良に泊まり、レンタカーであちこち行ってきました。

21日は、額安寺(忍性のふるさとの寺)、島の山古墳、斑鳩へ、
22日は、竹林寺(行基の墓所・忍性の分骨先)、烏土塚古墳、長屋王陵、信貴山、南河内の叡福寺(聖徳太子廟)へ
23日は、天理市平等坊の発掘現場(弥生環濠遺跡?)、唐古鍵遺跡を通って、御所市の巨勢山古墳群の現地説明会に行ってきました。

天理市平等坊の発掘現場は、その日の朝、ホテルで洗面中にニュースで、ちょっと聞いただけ、とにかく行って見ることにしました。
もちろん職員もいませんでしたので、詳しくはわからなかったのですが、「弥生時代の環濠と中心拠点を方形に区切る溝が見つかり、22日、天理市教育委員会が発表した。環濠と方形区画溝が同時期に存在する資料」とのことです。(奈良新聞)

唐古鍵遺跡の桜は、二分咲きぐらい、信貴山はまだつぼみです。大阪側の叡福寺も二〜三分ぐらいでした。東京にくらべ遅いようです。

20日、ITで知ったばかりの御所市の巨勢山古墳群の現地説明会は、「とにかくすごい人並みを一度見てみたい」というさわらびTの変な願望で、「気合を入れて」朝起きし、奈良から35kmぐらい24号線(中つ道)をひたすら南に走って行ってきました。

話題の條ウル神古墳の巨大な石室の見学は、1時間から2時間待ちで一目見るだけ。ストップウォッチで計っていて、4人一組たったの1分です。でも天気はよく、室の集落内をのどかにウォーキングし、宮山古墳ほか発掘中の古墳や古墓を見て充分楽しんできました。
最後に帰ろうとしたら、網干先生が楽しそうに熱弁をふるって講義されていたのでつい聞きほれて予定時間をオーバー、レンタカーを返す時間にやや遅れてしまいました。

私は忍性ゆかりの史跡が目的だったのですが、弥生や古墳の発掘現場にも寄れたのはラッキーでした。

ただいまデジカメの画像を整理中(散らかり放題の我が家も)、そのうち良いのがあったらUPしたいと思っています。




124. 閑話休題 Nori  2002/03/23 (土) 01:39
歴博国際シンポの二日目。レセプションの帰りに入ったカラオケでは愉しいひと時を過ごすことができました。
さわらびTさんの本音(?)を聴けたことが最大の収穫でした。
何十曲?、二人で歌ったででしょうか。
“歌は世につれ、世は歌につれ”、さわらびTさんのまさに人生を表白する選曲に拍手喝采。ついて行けない歌が数曲はありましたが…
特に、女性と恋心を謳ったものには、…そうでしたか…と、聴いて頷く他ありませんでしたね。もったいなくて、Mさんに聞かせたいくらいでした。
愉しい時間を共有できたことで、堪りにたまった憂さを吐き出すことができました。お付合いいただき感謝しています。
また、機会をみつけてカラオケで歌いにいきましょう。病み付きになりそう。…すでに、傍から観れば、…ほとんど病気状態だったに違いないのだが…。




123. 傍で評するほど簡単ではない(歴博国際シンポ−シリーズ−) Nori  2002/03/21 (木) 06:52
〜歴博国際シンポ(倭と加耶の交流)に参加して〜
セッション2.騎馬戦用の武器と馬具の受容 <騎馬民族征服王朝説のその後を理解するために> ---2/2---

かくして、常備軍は果たして居たか。その軍事組織はどの程度の組織だったのか。政治史、社会史、文化史を組織論の側面から十分な議論が展開できたとは云えません。不満が残ったのも事実です。
田中晋作氏、千賀 久氏のテーマを絞り込んだ深い議論があってもよかったように思えてなりません。
勿論、何をもって“深い議論”とするかもあるには在るのだが。
モノ的考古資料を重視された割にはOHの不鮮明さも加えて必要なツール類の今日的整備は焦眉の課題と言えるでしょう。何はともあれ、意図された国際的意義が十分表現できなかったことだけは否めません。
「云うは易き」の評を免れえない素人古代史ファンの一感想に過ぎないのだが。

(「研究」が本来の仕事ではない一古代史ファンより)




122. 傍で評するほど簡単ではない(歴博国際シンポ−シリーズ−) Nori  2002/03/21 (木) 06:49
〜歴博国際シンポ(倭と加耶の交流)に参加して〜
セッション2.騎馬戦用の武器と馬具の受容 <騎馬民族征服王朝説のその後を理解するために> ---1/2---

(1)古代史としての元風景は復元可能か
馬匹文化の列島伝播はどのような社会生活をつくり出したのか、その説明は方法論的に成功したのだろうか。方法としても可能か否か、それだけのテーマが一本立てられても良いのではないかとさえ感じました。その点、田中晋作氏の議論は一つの救いになっていたと云えば言い過ぎだろうか。“物足りなさ”は否めないありきたりの国際シンポであったと云わざるを得ないでしょう。勿論、意図したことが成功していないとまでは言わないとしてもである。

馬匹文化の学問的説明の前に各々報告者が物証としたモノ資料とした武器や武具は地域間交流を前提とした@建家址A食の生産B衣服の生産C人々の思考と生産の相互浸透性D思考の階(重)層性等々についても「モノ」に語らしめなければならないでしょう。@以下をあくまで所与のものとして説明を受ける側のイメージに拠っかかった説明が果たして研究の方法としてはいかほどの妥当性を持ちえているのだろうか。学問としての理論的客観性を問わざるを得ません。

考古学、文献学における史学としての方法論的理論構築を提示して欲しいものです。つまり、報告者の数と日数日程、モノ資料をあげつらうのではなく、議論の対象をよく検討された報告者の厳選を含めて準備段階での考慮がおざなりの検討ではなく理論的側面を意識されていたならば国際シンポの内容と課題はもっと深められていたはずでしょう。
係って、準備主催者側とコーディネーターの常識レベル<誰のため、何のためのシンポなのか>に拠るところであり、そのことが問われるシンポ運営そのものをも含めた今後の課題になるのかもしれません。
21世紀の歴史学と直接にその仕事を本来業務とされている学者先生、研究者の方々に課せられた時代の要請と言えるのかもしれません。
学者先生と云えどもその場の演出や討議を深めるノウハウやツールの整備選定に一定のレベルが求められていることが学術研究会等の常識にしなければならないのかもしれません。合わせて、単に物理的時間の確保のみに拠るのは最早、限界であろう事も自覚されるべきでしょう。

(「研究」が本来の仕事ではない一古代史ファンより)





121. 非専門のオリジナリティーについて(歴博国際シンポ−シリーズ−) Nori  2002/03/21 (木) 02:44
 〜歴博国際シンポ(倭と加耶の交流)に参加して〜
セッション1.加耶の鉄と倭国 <列島における鉄の生産について>

(1)古代史としての元風景は復元可能か
5世紀以前には遡らないと云う列島における鉄生産遺構の発掘現状を観た時、「弁辰の鉄」をどのように解釈すればいいのでしょうか。その答えは出せませんでした。
モノ資料の現状については各々の解釈があり得ても社会構成体としてはどうなんでしょうか。
理念的にトータル・イメージを互いに強調しながらもリアルな元風景を復元しきれていない学問的現状を客観的に整理しきれていないのではないか、の思いを強く持ちました。
今回これまでに無い4日間の国際シンポに対する一古代史ファンの率直な感想です。(体力勝負の4日間でした。)

(列島の古代史フレーム)パラダイム論を描ききれていないのではないか。それこそ歴史学としての理論作業のうちにある見直すべき陥穽を横目で睨みながらも目をそらしてきた20世紀末の10年とここ1、2年の学問的在り様がそのことを物語っているように思えてなりません。
やはり、世紀末だったのか。
自らの拠って立つ学問の基盤を掘り崩してきたのではとさえ言いたくなるスキャンダラスな諸事件(含む、捏造事件等)が、結果的には言い逃れを許さない現代列島歴史のリアリティーであろう、との認識が観念的の謗りを仮に受けたとしても“理論の脆弱性”から自らを免罪するわけにはいかないでしょう。
東アジアに位置する列島社会の復元において、<鉄>についての各々の学者・専門家の先生(7人)方とりわけ文献史学の立場で報告されたコーディネーターの鈴木靖民先生に課せられた学問的任務から省みたとき、その点での責務は決して軽いものではないと云えるのではないでしょうか。あくまで、鈴木先生個人の問題にあらず、列島史学の問題として視点を明確にしたつもりです。(鈴木先生ごめんなさい。素人の戯言として逃げるつもりはありません。)
(「研究」とはもっとも隔たった処で呻吟している一古代史ファンより)




120. 石井進氏の遺著と「対話」 の続き さわらびY(ゆみ)  2002/03/18 (月) 00:28
119.石井進氏の遺著と、先生との「対話」 の続き
 
 今回HPに連載している「忍性がたどった中世の風景」は、もしかしたら私からの石井先生へのプラトニックな対話かもしれません。
『叡尊には忍性という弟子がいた。「中世を生きた人びと」の名著で横井清が「非人・癩者に直面し続けた律宗僧」とタイトル名をつけたその人である。』と書きましたが、昨日買った「中世のかたち」P181で石井先生も「忍性の複雑な側面」の項で、横井清氏の同書を引用されていました。
「筑波路の風景」で「信仰のあるべき原点を示した宗派が、時代に捨てられてしまったのはいったいなぜなのか。殺生禁断の教えにしても、かえって人々を苦悩させたのではなかろうか。」と書いてしまったが、先生のこの遺著を熟読しても、もしかしたらこの答えは出ないかもしれません。
 そしてこれ以上もうお聞きできないと思うと、とても悲しく思えます。

今日、「石井進先生を偲ぶ会」が盛大に行われたそうです。
 連れ合いのTが「であいの風景」という追悼文集いただいてきてくれました。
 著名な先生方が「本当に偉い先生だった」とお書きになっています。 でも素人の一ファンの私には、仕事上での「偉い先生」でもなく、学問の世界の「偉い先生」でもなく、中世史のわくわくする楽しみと、謎解きと、感動を与えてくださる「やさしいおじさま」でした。
忍性をテーマのしたHPをつづりながら、しばし、あの世に召された先生と一緒に旅し、一緒に考えていきたいと思っています。




119. 石井進氏の遺著と、先生との「対話」 さわらびY(ゆみ)  2002/03/18 (月) 00:24
昨日、国立歴博で「日本の中世T 中世のかたち」を買いました。 目次をみると、1996年歴博友の会で、石井進先生が「今取り組んでいる最新の研究テーマです」とおっしゃって講演され、私が「友の会ニュース」にその要旨を書いた内容が網羅されています。 付録で、網野先生が「まさか石井氏の遺著となろうとは・・・」と述べられておられるが、まさしく生前、ニコニコされながら「年輪から気候変動の中世がみえる」「下古館遺跡でこんなことがわかった!」「連雀ってなんだか知ってますか」と話されておられたホットな内容が詰まっていて、もっと詳しく教えてと思っていた「石井中世史ファン」にとってまさしく「遺著」でした。
素人の歴史ファンにとって、学会の雲の上の方と思っていましたが、講演要旨を見てくださったり、フィールドワークでお声をかけてくださったり、意外なほど親しく接してくださいました。
「保健所で食品の化学分析の仕事をしてます」と自己紹介したら「家内の仕事に似ていますね」とおっしゃられ、「忍性を調べていますが、殺生禁断の掟がかえって差別を生む結果になったといえるのでしょうか」とお聞きすると、「それは大事なテーマです。一緒に考えましょう。」とお答えになってくださいましたが、この私の問いには、今回「時間切れ」でとうとうお返事をいただけませんでした。




118. 石井進先生を偲ぶ会 さわらびT  2002/03/17 (日) 20:16
昨年10月急逝された石井進先生を偲ぶ会が学士会館で行なわれました。会場にはおおくの研究者の方々の姿が見られました。永井路子さんのスピーチにありましたが、この場で何かが起こったら日本の中世史はなくなってしまいます、というお言葉が大げさでないほど諸先生がお集まりでした。石井先生のお人柄が今さらながらに偲ばれます。
佐原眞先生のスピーチによれば、パリからの帰路ローマから満席のフライトに乗ることになったことが結果的によくなかったのではないかとのことでした。佐原先生は、ちょうどご一緒されたパリでのエピソードを披露されましたが、会場で配られた『であいの風景』というタイトルの文集にもおさめられていました。




117. 歴博国際シンポジウム参加おつかれさま さわらびT  2002/03/16 (土) 23:27
Noriさん
久しぶりにお目にかかれただけで感激です。
しかも歴博国際シンポジウム『古代東アジにおける倭と加耶の交流』に4日間参加された熱意と探求心に脱帽です。
テーマの選択に結果的には成功した企画ですが、加耶から古代を見据えることがこれほど参加者をあつくさせるとはびっくりでした。

それと今日はハプニングでしたね。大山先生にお会いできたのも驚きでしたが、中山先生の弾丸トークについていったNoriさんもお疲れだったでしょう(^0^)
大山先生のこともあらためて話題にさせていただきますが、今日のところは大山先生を歴博に呼び出した中山先生に敬意を表しましょう。

抜き刷りをいただいて読ませていただいたのですが、偉大なアマチュア精神に励まされます。中断しましたが、先日からの掲示板での話題に通じるテーマになりますね。

その中山清隆先生の論考『考古家江見水蔭のアマチュア精神 −『地底探検記』の復刻に寄せて−』はインターネット経由でも拝見できます。掲示板をご覧の方にもご紹介しておきましょう。

http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/pro/emisuiin.html

ではまた。次にお目にかかれることを楽しみにしています。明日もお目にかかれるようですが・・・




116. ジョイスティックを買ってしまいました。 増田俊幸  2002/03/15 (金) 09:00
私は、あまりゲームをやらないのですが、何故かフライトシミュレーションだけは大好きで、マイクロソフト製のフライトシミュレーションの大ファンです。
最初のバージョンから買いつづけ、今回もしっかりバージョンアップしました。
Microsoft Flight Simulator2002です。
最初のバージョンの頃は、CPUの性能も低く、飛行機を飛ばしているというには、物凄い想像力が必要でした。
しかし、今回のバージョンの画像は物凄いものがあります。また、シミュレーションの内容も飛行機の種類、空港のデータ量、気候の再現など、本当に空を飛んでいるようです。
最初のバージョンからやっているせいか、飛行機はキーボードで飛ばしていました。スロットルの操作も、エルロン・ラダーの操作も全てテンキーでやっていました。
何となく、フライトシミュレーションとは私にとってはそう言うもので、実際の飛行機の操縦とはちょっと違うものでした。
ところが、Microsoft Flight Simulator2002を購入したときお店の片隅にMicrosoft Flight Simulator2002のデモを見ました。そのマシンには、最近発売されたMicrosoftのSideWinderForceFeedback2が接続されていました。簡単に言うと、ゲーム用のジョイスティックです。
フライトシミュレーションの世界にキーボード操作で入ってしまった私は、ジョイスティックには余り関心がありませんでした。
でも何故かその時、何気なくそのジョイスティックを握ってしまったのです。
ちょっと衝撃的でした。今まで、キーボードで操作していたので飛行機のシミュレータでありながら、何となく全く飛行機とは関係ない乗り物を操作している感じがありました。そうして楽しむしかなかったのです。
ところが、このジョイスティックを握ると本当に飛行機を操縦しているように思われました。しかも、このジョイスティック、フィードバック機能が付いているので、スティックを通して実際に旋回した時の抵抗を感じることが出来るのです。
これで、キーボード操縦に戻れなくなってしまいました(笑)
で、直ぐに購入してしまいました。13,000円とお手軽な値段で購入できました。
しばらくは、夜な夜な世界中の空をいろいろな飛行機で飛びまわる事になりそうです。




114. イースターとグレゴリオ暦 さわらびY(ゆみ)  2002/03/13 (水) 19:36
増田さん
20日の土星食の情報をありがとう。http://www1.kaiho.mlit.go.jp/cue/KOHO/reki/moonph.htm で 月の満ち欠けを見ると、明夜14日が朔で、29日が満月ですね。

教会暦ではイースターは、春分の次の満月のすぐ後の日曜日と定められ、今年は3月31日に祝います
イースターは、キリストの復活を記念する最も古い祝日で、言葉の由来は、アングロ・サクソン民族の、いのちが芽生える春を祝う「春の祭り」からとのです。

西欧教会は、グレゴリオ暦を使っていますが、ギリシャ、ロシア教会などでは、ユリウス暦を用いていますので、カトリック教会とは違った日に復活祭を祝います。
紀元前46年からのユリウス暦は、太陽年と比べると、1年が11分4秒長く、復活祭日計算にとって重要だった春分が、15世紀には10日の誤差が出てしまい、そのための修正をしたのがグレゴリオ暦です。

天正少年使節が謁見したのは、他ならぬこの教皇グレゴリオ13世、そのため、日本には1585年ごろには、改暦グレゴリオ暦が伝えられ、このころの教会では、宣教師をとおし、この暦が用いられていたそうです。

イースター・エッグは、復活祭で用いられる装飾された卵で、「春の祭り」伝統の習慣が残ったもの。卵は、生命が生まれるものであり、キリストの復活を表現するものだからだとも言われています。
コンピュータの世界でも、使われる語彙だそうですね。(どんな意味なのでしょう?)

ではまた




113. 土星食が起こります 増田俊幸  2002/03/09 (土) 22:47
3月20日に、日本の北半分で土星が月に隠れる土星食が見られます。星食とは月が他の天体を隠す現象です。
今回の土星食は、20時頃におき月の高度も高く観測しやすいと思います。
ただ観測ができるのは、福井県越前岬と千葉県木更津を結ぶ線より北側です。
と言う事で、東京でもかろうじて見ることができます。
月齢は6.4で、月は欠けている縁から潜入し、輝いている縁から出てきます。輪を含めると、土星が隠れ始めてからすっかり見えなくなるまで、また出現を始めてからすっかり出てくるまでに2分から4分くらいかかります。この時間は観測する場所によって変わります。土星の中心点で食の始まる潜入時刻、終わりになる出現時刻は下記のようになります。
    潜入  出現
札幌 19:17.5 20:21.8
仙台 19:31.3 20:16.6
新潟 19:30.8 20:12.8
長野 19:37.1 20:06.6
東京 19:46.4 20:03.7

ただし輪の潜入が始まる時刻は上記の潜入時刻より早く、輪がすっかり月の後ろから出る時刻は時刻は上記の出現時刻より遅くなります。

2002年に見られる惑星食は、世界的に見ると、土星食が5回、火星・木星食がそれぞれ1回の計13回です。そのうち日本で見ることができるのは、土星食が2回、水星・金星・木星食がそいれぞれ1回の計5回です。土星・木星食はすでに1回ずつ終わりましたから、今後見られるのは、今回の3月20日の土星食と、12月5日の水星食、12月30日の火星食です。この水星・火星食はともに昼間の現象で、12月5日の水星食は四国、九州など、日本の一部で見えるだけです。12月30日の火星食は11時前後の現象で、月齢25.7の月に1.5等の明るさの火星が隠されます。これは、九州とそれより南の地域を除き、日本全国で見ることができます。ただ、昼間の現象なので観測には望遠鏡が必要です(笑)

では、また。






112. いまHPがおもしろい1 さわらびY(ゆみ)  2002/03/07 (木) 23:06
こんばんは
久々に「さわらび通信」からリンクした皆様のリニューアルしたHPを拝見しています。
ADSLにしてから、中仙道姫君道中のオモイ!HPもかるがる開くのでとても楽しめます。


ペンネーム駕籠舁さま
 http://homepage2.nifty.com/kagokaki/index.html

「沿線の道標余話」拝見しました。
古帳庵こと鈴木金兵衛ってすごい人ですね。
伊能忠敬に劣らず、50歳を過ぎて充実した人生、なにかひたすらに数を重ねて達成するという日本人の習性も半端じゃないですね。
古帳庵は「ふるちょうあん」と読むべきという情報も、団十郎のページの「加賀様と、母(かか)様をかけて詠んだもの」というコメントも納得です。(なーるほど!)



中仙道姫君さま
 http://members.aol.com/narumanaru/nakasendonotabi/

念願?のトイレ案内・お宿案内・石造物のページUPおめでとう!
すごい実用的!な情報ですね。

お宿案内の「トイレはピストル付き一見水洗の超進化型ぽっとん」というフレーズもトイレ案内の写真を見て納得!(節水型環境にやさしいトイレ?)
それにしても、トイレの写真なんてよく撮ってきたと感心するのみです。

では お互い夜更かしはほどほどに!おやすみなさい。




111. 大山先生の講演会 さわらびT  2002/03/05 (火) 23:05
大山誠一先生の講演会が今週の土曜日(3月9日)にあります。
タイトルは『聖徳太子と日本人』(信仰と研究の軌跡)
主催は、東アジアの古代文化を考える会
時間は13時〜17時
場所は「東京芸術劇場大会議室」(池袋駅西口徒歩3分)
詳しくは、考古学通信の掲示板をご覧ください。
http://6302.teacup.com/k21926/bbs
懇親会で、大山先生と直接お話もできます。




109. キトラ古墳にカラスの絵? さわらびY(ゆみ)  2002/02/26 (火) 22:40
 「太陽にカラスの絵か 奈良・キトラ古墳の天文図」という記事が夕刊に載っていました。
 キトラ古墳の天井の日輪の中にカラスが描かれているというのです。
 先日UPした「八千代市のオビシャ」http://homepage1.nifty.com/sawarabi/suwaobisya/obisya1.htm
に「的のカラスの絵は太陽」ということに触れましたが、このことをお教えくださった萩原さんにさっそくお電話したところ、新聞社からの連絡でもうとっくにご存知でした。

 奈良県立橿原考古学研究所河上副所長によれば、「日輪にカラスが描かれているのは常識で、キトラ古墳の日輪に黒い線が確認できた時点でカラスと確信した。3本脚なのか2本脚かは不明」とのこと。
 高津新田のカラスの的も、キトラ古墳の日輪もルーツは同じなんてすてきですね。

 ついでに次のページも見てね。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/dunhaung26-2.htm
敦煌の西晋の古墓にも、このモチーフが描かれていました。

 なお飛鳥資料館でキトラ古墳壁画の全容初公開 写真速報展が3月24日まで開かれるとのこと、ちょうど奈良に行くついでがあるので、見てきたいなと思っています。





108. 憲法を考えるHP さわらびT  2002/02/25 (月) 23:43
 昨日、憲法のことを書きました。『許すな!憲法改悪、市民連絡会』に詳しく書かれていますので、ご興味のある方はご覧ください。   http://www4.vc-net.ne.jp/~kenpou/

 高田さんには真忠組や相楽総三関係史料を教えていただいています。このごろは憲法をめぐる政治的攻防でお忙しいようで、歴史のお話をうかがう機会がへってしまいましたが、『週刊金曜日』でご健在ぶりを確認しました。




107. 憲法について考える さわらびT  2002/02/24 (日) 22:34
書店には並ぶことが少ないので、ご存知ない方が多いと思います。『週刊金曜日』400(2月22日発行)に掲載されている高田健さんの報告をお伝えします。タイトルは『民主的手続きを欠いた国民投票法案  憲法調査会は何をしてきた(高田健)』です。

高田さんは憲法調査会の全ての審議を傍聴されています。『週刊金曜日』に掲載された傍聴記をいつも拝見していますが、出席率が悪いことをしばしば高田さんは指摘されておられました。しかも出席した議員ですら居眠りしているのだと言われる。こんな状態で議論もされず、「憲法改正」を射程に入れた国民投票法案が提出されようとしているのだそうです。

この憲法調査会設置のねらいが「憲法改正」であったことは明白になったようです。そのためのアリバイ作りであったと高田さんは見ぬかれました。

「日本国憲法第96条@この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。A憲法改正について前項の承認を経たときは,天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」

 高田さんは、国会の多数とは異なる「国民の意思」があることを憲法が想定し、その場合は「国民の意思」が優越すると、と大事なことをおっしゃっておられます。国民投票法案はその考え方に対立するのだと。

 この掲示板で、書ききれる話題ではないのですが、私たちはまだ充分議論をしていないのではないか、と思います。私自身は、現行憲法擁護の立場であると表明すると、現実性がないとか、いわれてしまうのですが、国の基本法ですから理念があらわれていいと思うのです。憲法は自由民権運動に参加した開明的な人々の遺産が戦後花開いたものだ、と私は考えています。

 昨年の9月ニューヨークの事件以来、好戦的な世論も「憲法改正」を後押ししているのではないか、と危惧を感じています。じっくり議論したいものです。




106. Re: ADSL環境構築で快適インターネット さわらびY(ゆみ)  2002/02/19 (火) 00:06
 先崎からのおたより、ありがとう。
 鷲神社の文化財指定の追加があったとのこと。
 伝統を守って行くのは、経済的にも大変でしょうが、がんばってください。

 >ところで、ADSL環境で我がHPへのアクセスいかがでしょうか。八千代は8Mタイプもいけると思いますが、私は現在1.5Mタイプです。

 我が家は8Mで契約しました。(増田さんに計測いただいたのですが、どのくらいの速さなのでしょう?)今までがどうしようもないほど遅かったので、とても速く感じます。
 おかげさまで、貴兄のHP「四季の成田山」のスライドショーなど、「蒼い風より」のBGMを聞きながら、ゆったりとした気分で楽しむことができます。
 また季節に合った山や自然の作品を背景に使わせていただいてます。画像ももうあまり小さく荒いサイズにしていただかないほうが、背景にはきれいでいいですね。(ADSL先行派のエゴかな?)

 家庭内LANは、まだ「共有ドキュメント」のファイル整理などの作業中、またW-XPに慣れていないのでその効果はもう少し先でしょう。 
 HP製作は、新規購入のFMVについてきた「ホームページビルダー6.5」で今回、「オビシャ」のページを試してみました。
 今まで「 FrontPage Express 2.0」というおそろしく?原始的なソフトだったので、すごーく便利です。
 センスのよいwaraさんのHPhttp://www2u.biglobe.ne.jp/~W730688M/index.htm も、
素朴なつくりのseijiさんのHP http://www.inbamura.com/ も、大好きです。
 地域発信の情報をこれからもよろしく。
 




105. ADSL環境構築で快適インターネット mwara [URL]  2002/02/18 (月) 22:12
こんばんは;今日は先崎の鷲神社で祈年祭が執り行なわれました。神主さんの祝詞の後、玉串を奉げ儀式は終了しました。その後、宮世話人の方から佐倉市役所の文化財課の方が紹介されまして、鷲神社の本殿に付属する額、ご神体を入れてある棺等3点が新たに文化財として指定を受けたのです。これで、当神社の指定は、鳥居、ケヤキの大樹、等生涯受け継がれていく事になり、あらためてこの伝統を守って行かなければならないと感じた次第です。八千代の高津神社のオビシャ等を拝見し、何か共通点がある気がします。今後とも情報お寄せください。ところで、ADSL環境で我がHPへのアクセスいかがでしょうか。八千代は8Mタイプもいけると思いますが、私は現在1.5Mタイプです。それにしても快適環境を実現しておりますよね。増田様はその道のご専門でいらっしゃいますね。心強いですね。中国等のページ少しずつ拝見しています。




104. どんなOS使ってますか 増田俊幸  2002/02/18 (月) 13:36
もう皆さんはXPに移行しましたか?
OSは最も基本的なソフトウェアなので、そう簡単には乗り換えがきかないはずなのですが、マイクロソフトは次々とOSを開発しつづけています。

MS−DOSから発展させたWinbdows3.1・95・98・ME
ミニコンで使われてきたUNIXの技術を応用して開発した
Windows NT3.5・4.0

これまで、アマチュアには95系のOS、プロにはNT系のOSと言った具合に住み分けてきました。
しかし、ハードも十分に安くなりアマチュアも物凄いマシンを持てるようになり、GUIが進歩して見た目は全く変わらなくなってきたので、ついに今回2系統に分かれていたOSを1本に統合しました。
それが、XPです。
統合と言うのは変ですね。低能なOSと高性能なOSをひとつにしたわけですから、実際は95系OSの廃止です。

で、これから古いOSの切捨てが始まります。
OSのサポートが終了し始めているのをみなさんご存知ですか。

MS DOS x.xxは、2001年12月31日で終了しました。
Windows 3.xxも、2001年12月31日です。
Windows 95も、2001年12月31日です。
WindowsNT 3.5Xは、2002年3月31日です。
Windows98/98SEは、2003年6月30日です。
WindowsNT Workstation 4.0は、2003年6月30日です。

まあ、マイクロソフトはサポート終了ではなく非サポート対象フェーズに移行したという言い方をして、細かい規定があるようですが、我々素人ユーザから見ればサポート打切りに見えます。

もう、Windows95も廃盤なのです。

許せますか(笑)

では、また。




103. ADSLと家庭内LANに成功しました さわらびY(ゆみ)  2002/02/17 (日) 22:52
 「専属?」システムエンジニアM氏の活躍で、我が家のADSLと家庭内LANがつながりました。
 3台の新旧PCが快適に動いています。Mさんありがとう!

 ADSLがこの1週間つながらなかったのは、東京電話のアダプターのせいと思っていたのですが、さらになんと家を建てた20年前2階とつないだ親子電話の分岐器(今は使っていなかった時代物)がじゃましていました。
 東京電話の工事の方に、この撤去もずうずうしくサービスでお願いし、はずして直結したら、ADSLのシグナルランプが点灯しました。

 今まで時間切れで全部見られなかった「WARAのホームページ」の美しい写真も、Mさんのビデオもやっと拝見できます。
 
 ただこんなにインターネット漬けになってしまっていいのか、ちょっと不安? とにかくすごい情報化時代になりましたね。
 
 (ADSLのことやW-XPについてのご質問は、この掲示板でどうぞ。私はよくわからなくても、きっとMさんが答えてくださることでしょう。)




102. 『職業としての学問』 さわらびT  2002/02/17 (日) 10:01
スンニリさんに書いていただいたので、わかりやすくなりました。その発言だと思って私もコメントを書いたのです。
Noriさん、直接当世奇妙さんに質問してはどうでしょうか。
私の考えは先にお伝えしたとおりです。抽象論では前にすすみにくいと思ったものですから、松本清張説をあげてみました。松本清張氏は、酒船石とゾロアスターの関係も論じられましたね。学界を気にすることなく発言できる強みがあります。研究史から逸脱することが大事な場合もあると思うのです。しかしアマチュアだからといって荒唐無稽でいいというわけではありません。
スンニリさんのHPにも先日書きこませていただいたのですが、先入観を排除することは大事だな、とも感じた次第です。
当世奇妙さんのおしゃりたかったことと、Noriさんの書きこみに多少ズレもある気もします。当世奇妙さんが批判する「研究」者をお知りになりたくても私には答えが出ませんし・・・
なおマックス・ヴェーバー『職業としての学問』は学生時代、入ゼミに際して中村勝己教授に提出したレポートの題材でしたので懐かしく思い出しました。残念ながら職業としての学問にはなりませんでしたが、いかなる職業にあってもその精神は同じだと思います。ただヴェーバーの学問体系は膨大で、安易に比較するわけにはまいりません。
しかしいま問題なのはスンニリさんがおしゃるように、捏造で発覚したような「学問」の閉鎖性なのかもしれません。だとすれば未成熟であっても専門家に議論をしかけてもかまわないことではないでしょうか。




101. 平易な スンニリ  2002/02/17 (日) 07:52
Nori氏の問題にしておられるのは「東アジアの古代文化を考
える会」のHPにあった下記の書きこみのことでしょうか。

<研究 投稿者:当世奇妙  投稿日: 2月12日(火)12時59分41秒

研究の基本はオリジナリテイー。定説や権威を疑うことから
全てが始まる。先行研究は尊重するが従うものではない。文
献は一応読むべきだが、読み過ぎて発想が阻害されるのは問
題。
つい一言。>

上記の書きこみは私は極く普通に読んでいましたが、夫々の方が
自分の考えで人生を過ごすように、学問に対する考え方や態度も
その人に依って異なることは当然だと思います。ただ具体的な研
究の中身に付いては大いに検討、議論し合いそして仮説から真理
への探求をお互いが協力し合って学問の発展が期待できるのでは
ないでしょうか。従来、アマチュアを小バカにしたアカデミズム
が横行していましたが学界も以前よりはセクショナリズムからは
大分に開放されてきましたね。(実際はまだ存在していますが)
ただ素人が専門家のような真似をしたがるものが居て捏造問題な
どを引き起こした事実はやはり困ったことでした。