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No.1401-No.1500 2004/05/162004/06/29
Since 2001.10.08
・オーバーフローで消えてしまった発言を収納しました。
・書き込み、修正、削除はできません。修正・削除は、管理人にお申し付けください。
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No.1-No.100 No.101〜200 No.201-300 No.301〜400 No.401-500 No.501-600 No.601-700
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1500. 高須郷のこと kagokaki  2004/06/29 (火) 23:10
あるけー様
前から妙に気になっていた高須郷ですが、四街道町史を見ていたら天文19年(1550)に千葉妙見宮の遷宮工事の際にその新築に使用した材木などの調達先を書いた記録の中に、寄進者牛尾右近太夫、高須山から下屋・柱20本、ぬき、けた、かもい木寄進の記事がありました。調達区域は妙見宮を中心にほぼ10キロほどの範囲内に入っているとありますから、千葉郡、印旛郡の一部のどこかににやはり高須郷はあったのでしょう。この妙見宮の祭礼や千葉宗家の元服には多くの武士団が供奉したようですが、それに参加した一人、山梨主税之介というのが、間宮氏であるとする山梨の栗原家系図もあるそうで、16世紀の半ばには間宮氏がすでに入っていたのか興味あるところです。



1499. 「発掘された武寧王陵」をUP さわらびY(ゆみ)  2004/06/29 (火) 19:56
そういえば申し遅れましたが、「幻の百済と李氏朝鮮の史跡を巡る旅日記」の「発掘された武寧王陵」を先日UPしました。

Tにとって、この旅行の目的のほとんどがこの宋山里古墳群の武寧王陵見学にあったので、特に思い入れも多いでしょうから、Tに文章を書いてもらいました。
書き直しの上、やっともらった原稿ですが、なにやらまだ書き足りないよう。続稿は、このBBSか、別の機会に披露してもらいましょう。

同じ場所を見学しても、私はどちらかというと、石室の灯火をおく穴のデザインや、王冠や耳飾や枕の装飾の洗練性、あるいは石室の入り口に置かれた魔よけ?の石獣や、例の墓誌の裏側の「買地券」のもつ精神世界に興味を持ちました。

洗練された意匠についての私の印象は写真で見てください。




1498. Re: 鬼岩寺を再訪 さわらびY(ゆみ)  2004/06/28 (月) 00:41
磯自慢太郎さま
鬼岩寺を再訪しご住職とお話することが出来たとのこと、お知らせいただきありがとうございました。
一年半前の年末でしたのに、とても懐かしく思います。
ご住職もこのページをご覧になっておられるのかしら?
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/1-11hujieda/1-11hujieda.htm
もう過去ログに入ってしまってのですが「340. 研究は奥が深いです。」という桃崎祐輔先生の「これまで伝承だと思われていた鬼岩寺と忍性の関係が史実であった」という貴重な情報から、「忍性が永仁年間に鬼岩寺長老のために書いた供養表白」を金沢文庫で西岡先生から入手し、とうとう藤枝まで行ってしまいました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/BBS.301-400.html

ご住職が、感慨深げにこの表白文をコピーされておられましたが、あのお忙しさの中よく私を覚えて下さっていらしたと、感慨深いものがあります。

その桃崎先生も、福岡大学の助教授になられご多忙のよし、磯部武男氏もお若い研究者ですので、どこかでご活躍のことでしょう。
もう少しはやく、藤枝の郷土史博物館をお訪ねすればよかったですね。

> あとご住職は行基や空海よりも忍性の方に、より親しみを感じているようでした。
忍性さんのほうが数百年お若いですからね。行基さんは、忍性さんのあこがれの偉人。
忍性の足跡のあるところ、行基伝説が必ず置き土産になっていると、私は思うのですが・・




1497. お久しぶりです 磯自慢太郎  2004/06/27 (日) 20:49
以前、静岡の鬼岩寺について書き込みさせて頂いた者です。
今日、鬼岩寺を再訪してきました。
今回はご住職とお話することが出来、大変有意義でした。
ご住職ですが、管理人さん達のことを覚えておいででしたよ。
色々とお話させて頂いたんですが、軍事施設としての寺の話になった時、忍性さんの名前が出まして。
はっきりと名前が出たわけでは無いんですが、恐らく管理人さん達のことと思われる方の話題になりました。

藤枝の郷土史博物館ですが、磯部武男氏は職を辞されたようです。
といいますか、館員の方、磯部氏のことを知らず、更に鬼岩寺のことも知りませんでした。
ご住職に、そのことを伝えると残念そうにしてましたね。

あとご住職は行基や空海よりも忍性の方に、より親しみを感じているようでした。
行基・空海は「本当に来てくれていたら良いなあ」という感じで。




1496. 今年の夏、シルクロードへ行きませんか さわらびT  2004/06/26 (土) 21:54
この夏、シルクロードの旅の企画『天山南路から西域南道へ』があります。明治大学の吉村武彦教授の呼びかけによるものですが、多くの皆様にお知らせするために旅行案内を掲載しました。(お問い合わせは、直接旅行社へ。申し込み用紙は、そのままプリントできます。)

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/tabi.pdf

私たちは、3年前の夏にも参加させていただいたのですが、そのときの記録は、下記のページでご覧ください。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/silkroud.htm

トルファンではアスターナ古墓群や高昌故城を見てまいりました。さらに敦煌では、有名な莫高窟を堪能しました。

今回はさらに西へむかいます。クチャでは敦煌莫高窟よりさらに古くから造営が始められたキジル千仏洞の壁画に出会えることでしょう。

さらにカシュガルからホータンへと旅が続きます。交易の拠点、シルクロードの都市は今どのような姿を見せてくれるのでしょうか。楽しみにしています。




1495. 房総プロジェクトのページをリニューアル さわらびY(ゆみ)  2004/06/26 (土) 20:25
まさみさま、
房総プロジェクトの講座、電子紙芝居の状態でご覧いただき、恐縮でした。
ちょっと加工してナレーションを付け、コンパクトに1ページにまとめました。(説明無しのほうがいいかも?)
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/seitokudai/1-1.htm

「冬ソナ」いいですね。今晩も楽しみです。(どういう展開になるか、言わないでね)
NHK教育の講座もいいのですが、つい見逃してしまいます。
お知らせありがとうございました。




1494. こんばんは まさみ  2004/06/25 (金) 21:27
Tさま、あるけ〜さま、開田さま、円仁の話題楽しく読ませていただきました。
ゆみさま、「房総地域文化研究プロジェクトの講座」お疲れ様でした。読ませていただきましたよ。普段の活動の様子が良くまとめられており、飽きさせない内容ですね。画像が多いのもインパクトがありわかりやすくて良いです。
きっと楽しい講座だったのでしょうねぇ。(^_^)

ところで、面白い講座があったので、ゆみさまにお知らせいたします。
「冬ソナ」で習う韓国語講座です。
http://www.aii.co.jp/contents/hangul/index.html
韓国のTV局で作っているらしいです。
ゆみさまはお忙しいのでそんな暇はないかとも思うのですが
お知らせにあがりましたよ。

では、また。




1493. 房総地域文化研究プロジェクトの講座 ご清聴ありがとうございました さわらびY(ゆみ)  2004/06/24 (木) 22:27
房総地域文化研究プロジェクトの講座「地域を学ぶ楽しさ」で、私の拙い話をお聴きいただき、HPのデモをご覧になってくださった学生さん、市民の皆様、大学の先生方、どうもありがとうございました。
終ってみると、フィールドワークや民俗行事の説明も、必要な固有名詞をほとんど述べ忘れた早口のお恥ずかしいばかりの内容で、申し訳なく感じています。
やはり、内容を絞って、ひとつひとつもう少し丁寧にお話する必要がありましたね。
口頭説明で足りなかった点については、どうか、「さわらび通信」の各ページを再度お読みいただければ幸いです。

ところでこのプロジェクトの特別講座は、時々聴講させていただいていましたが、素晴らしい企画だと思います。
このプロジェクトで先生方の薫陶を受けた卒業生の方々とお話しする機会がありましたが、地域の文化と歴史を学ぼうとする目の輝きが印象的でした。

地域の文化研究での情報発信の仕方の参考にと、このような機会を与えてくださった学科長ほか先生方、また応援に駆けつけてくださった八千代市郷土歴史研究会会長ほか同志の皆様、励ましてくださったあるけ〜さんほかLINK先オーナーの皆様にも感謝です。

LINK先の今後とも「さわらび通信」をよろしくご指導くださいませ。




1492. 東京成徳大学のみなさんによろしくお伝えください あるけ〜@千葉市の遺跡を歩く会 [URL]  2004/06/23 (水) 08:49
おはようございます。
いよいよ (^^)ですね。
「房総地域文化研究プロジェクト」はすばらしい企画だと思います。
東京成徳大学みなさんによろしく!!




1490. Re: 円仁 さわらびT  2004/06/22 (火) 22:21
ライシャワー「日本近代の新しい見方」(講談社現代新書)に対し、「その非科学性を暴露し、近現代史の研究のために『日本資本主義論争』における科学的批判を継承しなければならない・・・・]

20歳の私は書いていました。開田さんからの便りは、それを思い起こさせてくれました。ライシャワーの業績に「世界史上の円仁」があることを当時の私は知りませんでした。

私は中村勝巳先生のゼミに入れていただきましたが、ヴェーバーもマルクスもわかりはしないまま、資本主義の揺籃期のイギリスを学んでいたのです。ところが一方でいわば教条的な「唯物史観」をも学んでいたのでした。

当時、中村先生が紹介された本で戸谷敏之『イギリス・ヨ−マンの研究』がありました。この若き学究は、こうした業績を残したままフィリピンの戦場に散ったらしい。そのことに感動を覚えた時代でもありました。戦争を、今よりも身近に感じていたのかも知れません。




1489. 円仁 北の熊   開田 誠 [URL]  2004/06/22 (火) 08:58
 円仁の本が紹介されていましたので、私の中にあるその冒険家について触れてみたくなりました。
 といっても、内容のあることではないのだが。
 大学に入って、教養(昔は、1,2年時にはそれをとらねばならない。次男の大学をみると理系であるかもしれないがほとんどない。体育が2単位でよいのだ。私の場合は8単位であった。そのため、私は5年生の時にようやくそれを取れたのだった)で、歴史を選択して楽しみにしたのだった。文学部に行きたかったが、それは食えない?!と思い商学部に決めたものの好きなこともしたいと思ったから、その歴史が選択できてうれしかったのだった。
 驚いた、授業は円仁のその本(岩波文庫)を読むことなのであった。
 遠い昔になってしまい、その時の自分を想い出すのがむずかしいが、熱心に授業に参加しなかったように思う。
 ライシャワーやロストーの近代化論に抵抗を試みていたからかもしれない。円仁はライシャワーにむすびつけすぎていた。
(最近の中国をみつめると、近代化論は有効なのかもしれない?!)(日本も、多くの人々はその近代化論をジでいきましたね!?)
 古代の仏教史を勉強しながら、そこに何をみようとしているのか忘れてしまうことがある。私の場合は昔の人間への興味である。ただそれだけである。
 あの授業は何だったのだろうか?あの大教授は何を伝えたかったのか、今なら話あえるかもしれない。




1488. 「房総地域文化研究プロジェクト」の企画の準備 さわらびY(ゆみ)  2004/06/21 (月) 23:49
急な話ですが、明日の23日いつもお世話になっている「房総地域文化研究プロジェクト」の企画に協力することになり、どうしようと頭を悩ましているところです。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsu-bousou/annai/annai.htm

レジメを作りながら、すっかり数年前のことも忘れていたりして、にわか勉強を始め、まるで大学の教育実習(そのときは、高校生相手の「生物」の授業)の時のよう。
「地域を学ぶことの面白さ」がテーマですので、無味乾燥の資料のレジメでは自信がなくなり、あわてて、スライド風HP(電子紙芝居?)を作って、当日はこれをプロジェクターで映しながら、と、またまた夜なべ仕事になりました。
(写っている方々、3日間だけご辛抱ください。よろしかったらダウンロードいただいてもOKです)

第2部は「さわらび通信」の紹介ですが、LINK先へもちょっとだけお寄りするかもしれません。
あるけ〜さんほか管理人の皆様、どうかご了承ください。
では、あと何時間? うまくいくのか、やっぱり焦ってきました。




1487. Re^4: 仏像関係の講演会について さわらびY(ゆみ)  2004/06/21 (月) 23:28
白井市教育委員会さま
民俗や銅造妙見立像についてなど貴重な情報をありがとうございます。
一昨年の高津新田の調査でも、旧家(名主を勤めた家)のおばあさんは富塚(白井市)から嫁に来たという話を聞き取り、「史談八千代」28号に載せました。
とても八千代市と白井市は昔からとても関係が深い地域らしいので、今後ともよろしくお願いいたします。




1486. Re^3: 仏像関係の講演会について 白井市教育委員会  2004/06/21 (月) 09:32
さわらびY様、先日は急なご案内にもかかわらず、ご出席いただきまして、ありがとうございました。また、「八千代の道しるべ」や「史談 八千代」もご寄贈いただき、ありがとうございました。
今後とも、情報交換等、よろしくお願い致します。

追伸
1.現在、当市教育委員会では、民俗調査として婚姻・葬送・出産等の調査を行っています。こちらも調査途中ですが、八千代市の保品・神野あたりとは婚姻関係や縁戚関係がある地区があることがわかりました。色々とご教示ください。

2.吉橋大師についての調査は進んでおりませんが、今年度、東葛印旛大師については同行取材してビデオに記録することとなっています。

3.仏像については、今回、中間報告として所有者を公表しませんでしたが、以下の文献で、別の方が、冊子を作成する目的で取材し、掲載について許可を取っておりますので、ご参考になればと思います{銅造妙見立像についても、所有者名(但し、住所まではでておりませんが)が出ています}。

鈴木普二男著 1984 「白井町の文化財ノート」(自費出版)
            113頁:「3 型を用いてつくられた史料」
            




1485. Re:妙見像の作例について あるけ〜  2004/06/21 (月) 00:17
初歩的な質問にご丁寧なレスをいただき、ありがとうございます。
実例(下総町助崎城跡の石仏)を見て、よくわかりました(^^)




1484. 円仁と妙見 さわらびT  2004/06/20 (日) 23:27
千葉に住んでいるせいで、妙見は話題になりやすいものですし、新発見の妙見についても、大変興味深いのですが、今回は、円仁関連で興味をもったことだけ、補足的に書きます。

『入唐求法巡礼行記』(東洋文庫)ですが、塩入良道氏による補注があります。着目される方も少ないと思いますので、「妙見」を、説明されておられる項を引用します。

「北辰菩薩、尊星王、妙見大士などと称し、北斗星を神格化した天部の尊で、中国において仏教と習合したもの。『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』に「我北辰菩薩、名曰妙見、今欲説神呪擁諸国土、所作基寄特、故曰妙見、処於閻浮提(えんぶだい、人間世界)衆星中最勝、神仙中之仙・・・消災却敵、莫不由之」とある。中国固有の俗信では、北辰は北極星である。特に航海安全の神とされていたかは不明。」

航海安全の神かは不明とあるのですが、観音とともに妙見をとなえているわけですから、海難から守ってもらいたいという思いがあるのは間違いないですね。北斗星もしくは北極星の神格化ということは、航海に限らず旅の安全を導いてくれる存在として信仰対象になろうというもの、それを円仁が称えたことに興味があります。

「不動明王・毘沙門天を一対で祀る安置法について−その由来と房総における展開−」(浜名徳順)(『房総の神と仏』、千葉市美術館)を読みました。千葉県下で盛行した観音など中尊の脇侍として不動明王・毘沙門天を対にして祀る事例の普及に関して、円仁の発案とする説に対しては、『入唐求法巡礼行記』に観音・妙見とあることが謝って伝わったらしいことを述べておられます。

こうした房総における天台布教と妙見のつながりは直接には見出しがたいものですが、ミッシングリンク的な要素があるかなと面白く感じた次第。




1483. 妙見像の作例について さわらびY(ゆみ)  2004/06/20 (日) 09:09
あるけ〜さま
>手を組んでいて、剣はどこにどうやって突き立ててるのでしょうか。
説明がたりなくて、すみません。
銚子市堀内神社妙見菩薩立像と同じく柄の上で組んだ手だけ残っていて、剣は別のつくりになっているのか、失われていますね。

この典型例は多いのですが、妙見像は秘仏のせいか、文化財指定でもHPに載っているのがなくて、ご紹介できなくてすみません。(千葉市美術館の企画展「房総の神と仏」図録が役に立ちます)
当HPでも、今回の画像は白井の教委、所蔵者のお許しを得ていませんので公開を遠慮し、妙見についてお調べの方だけに、メールさせていただきました。
そういう意味では、「亀に乗って剣を上へ向けた童男像」のほうの作例では、時代は新しいですが、当HPの長作の妙見画像は、堂守の方にお許しいただいてネット掲載させていただいている珍しい例かもしれません。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/nagasaku/nagasaku2.htm

そういうわけで、今回の「前で手を組み剣を突き立てた姿の立像」で白井に作例に似ているのをご紹介すると、「城跡ファン」垂涎の例の、下総町助崎城跡の石仏で「石仏百選」にも入っている妙見菩薩像(寛文八年銘)でしょう。
(勝手に引用しますが、房石研の会長さん、HPの管理人さんよろしくね。)
http://kobe.cool.ne.jp/douhyouoyazi/manpo/simohusa/simoh-sukez1-myouk1.jpg
http://kobe.cool.ne.jp/douhyouoyazi/manpo/simohusa/simoh-sukez-myouke1.html
より

野外にある石仏以外では、仏像販売店カタログの見本画像がネット上では役にたちます。
「剣を持って岩座に腰掛け右手に剣を持ち左手は二指を伸ばして剣印を結んだ像」としては、能勢型の妙見菩薩像が霊験あらたかで人気あるようです。
http://www.butsuzou.com/list2/my071.jpg

>妙見というとすぐ千葉氏に結び付けて考えていたので、意外だったのですが。
私も、房石研会長さんのご研究から、今その辺を勉強中ですので、また、よろしく。




1482. Re^4:仏像関係の講演会について あるけ〜  2004/06/19 (土) 23:25
さわらびさんYさん、こんばんわ
メール、ありがとうございます。
いい妙見像ですね。素朴な(間抜けな)疑問。手を組み、剣を突き立てる、というのですが、手を組んでいて、剣はどこにどうやって突き立ててるのでしょうか。どう見てもよくわからないので。

Tさんの円仁『入唐求法巡礼行記』の引用を見て、ある人から聞いた話を思い出しました。妙見は船乗りが信奉している神で、船の拠点となる場所にはしばしば、井戸があり、妙見がある。九州でもそうだし、安房の方でもそうだと。これってよく知られたことなのでしょうか。妙見というとすぐ千葉氏に結び付けて考えていたので、意外だったのですが。
本当かどうか確かめたことはないのですが。そんな話を聞きました。




1481. Re^3: 仏像関係の講演会について さわらびT  2004/06/19 (土) 22:32
大慈寺に行く予定でしたが、事情があって取りやめました。ちょうど白井市教育委員の方からご案内いただきましたので、Yともども講演会に出席させていただきました。ご講演は面白く聞かせていただきましたが、たまたま私が興味を持ったことをとりあえず一言。

円仁『入唐求法巡礼行記』には、以下の記事が出ています。

承和五年(838)6月末、円仁を乗せた船は江口(揚子江)に到着したが、浅瀬に乗り上げたらしく、大使を含めた一部の人間はボートで岸に向かったらしい。7月2日に迎えが来るまで、残された円仁たちは再び深刻な事態に見舞われた。

「以後、漂流の間、風は強く濤(おおなみ)は猛し。船の将に沈まんとするを怕(おそ)れて、矴を捨て物を擲(なげう)つ。口には観音・妙見を称えて、意(こころ)に活路を求む。猛風時に止んで、子時(廿四時)大江口〔揚子江河口〕の南の蘆原の辺に流着す。」(『入唐求法巡礼行記』平凡社の東洋文庫より引用)

ここで円仁は、観音と妙見を称えて風を止めています。今日の塩澤先生の講演でもこの記事にふれておられました。

千葉氏の妙見信仰と天台布教との関連はあるのでしょうか。




1480. Re^2: 仏像関係の講演会について さわらびY(ゆみ)  2004/06/19 (土) 21:29
白井市教育委員会のお知らせを受けて、白井市文化会館での、塩澤 寛樹氏の「房総と白井の 仏像」の講演をお聞きして来ました。
白井市教育委員会の悉皆仏像調査の中間報告をかねていましたが、この中でまだ未発表のいくつかの鎌倉彫像のスライド紹介がありました。

中でも個人藏(盗難が多い昨今、所蔵元は発表されなかった)の銅造妙見菩薩像は、13世紀半ばの優れた像で、前で手を組み剣を突き立てた姿の立像としては、銚子市堀内神社妙見菩薩立像よりも古い(最古?)の像とのことです。

ちなみに、ほかに亀に乗って剣を上へ向けた童男像(東庄町個人藏)、剣を持って岩座に腰掛け右手に剣を持ち左手は二指を伸ばして剣印を結んだ像(多古町妙光寺蔵)の2つのスタイルと、あわせて3パターンのスタイルがあるそうですが、白井での発見で、千葉氏では3つの作例はそれぞれ平行して造られ信仰された可能性があるとの、興味深いお話でした。


白井市教育委員会のTさま、ありがとうございました。




1479. Re: 仏像関係の講演会について さわらびY(ゆみ)  2004/06/18 (金) 19:53
白井市教育委員会さま

お知らせ、ありがとうございます。

白井は、大師講や道標など八千代市北部の民俗や文化と密接な関係もあって、お伺いしたことがありますが、今回の企画は、来迎寺の仏像群や長楽寺の木造阿弥陀如来立像、東光院の木造地蔵菩薩立像などについての興味深いお話もお聞きできそうなので、時間が許せば、行ってみたいと思います。

今後とも、よろしくお願いします。




1478. 仏像関係の講演会について 白井市教育委員会  2004/06/18 (金) 13:21
初めてご連絡させていただきます。
以下のとおり講演会がございますので、お近くの方は、ぜひご来場ください。
1.日時  平成16年6月19日(土)午後1時〜3時
2.会場  白井市文化会館中ホール
       住所:千葉県白井市復1148−8
       047(492)1121
3.内容  演題 「房総と白井の仏像」
       講師 日本橋学館大学助教授 塩澤 寛樹 氏
4.入場  無料
5.問合せ 千葉県白井市教育委員会社会教育課文化班
       047(492)1111(内線3431)




1477. 史跡歳時記「初夏の北信濃」をUpしました さわらびY(ゆみ)  2004/06/17 (木) 00:40
八千代市郷土歴史研究会の旅行で撮影したフォトアルバム「初夏の北信濃」を史跡歳時記にUpしました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/04.06.12nagano.HTML

今回も最初の1枚は、昨年五月の「新緑の信濃・史跡探訪」
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/sinnsyuu/sinnsyuu.htm
の1ページ目と同じ森将軍塚古墳からスタートします。

比べてみると、やわらかな新緑から夏の草花の季節へと、1ヶ月余の季節の移り変わりを感じます。

幕末維新の激動期に生きた「高井鴻山」や、夜のミーティングでの会長講義で知った「善光寺地震」(清河八郎の見た地震の爪痕)などの歴史の数々も興味深く、話題の尽きない旅でしたが、まずは今回初めて知った花々、小布施の栗の花、須坂の夏椿をご覧ください。

史跡歳時記も月を重ねて、管理人の私にもわかりづらくなってきていたので、目次のページを作りました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/saijiki/saijiki.htm
気まぐれに作り始めたフォトアルバムですので、なかなか「この一枚」が選択できず駄作ばかりと思う次第です。




1476. 講演会『藤原仲麻呂と藤氏家伝の成立』を聞いて(3) さわらびT  2004/06/14 (月) 23:09
補足です。

『藤氏家伝 注釈と研究』(吉川弘文館)には、次のように書かれています。

「天平勝宝八歳(756)六月の「東大寺献物帳」に見える黒作懸佩刀の来歴によれば、この刀は草壁皇子が常に用いた刀を不比等が賜ったもので、文武天皇即位の時に献上し、天皇の没に際して再び不比等が賜り、不比等が没する時に今度はのちの聖武天皇に献上されたという。このことは、天武・持統天皇の直系の皇位継承を保証する形で、藤原不比等が天皇家と結びついていた様相を象徴するものと考えられる。」

これは、上田正昭氏らの有名な説ですが、この説に仁藤先生は異をとなえられたわけです。
持統紀二年条、「三月の己未の朔己卯に、花縵を以て殯宮に進(たてまつ)る。藤原朝臣大嶋誄(しのびごとたてまつ)る。」

中臣の氏上はこの大嶋だったらしい。となると例の黒作懸佩刀はこの大嶋が賜った可能性を推定できる。仁藤先生のこの問題提起が気になってます。

ところで佐原先生がご健在のころなんですが、仁藤先生と掛け合い漫才みたいな、講演会をされたことを覚えてるでしょうか?(歴博ブックレットになってます)




1475. Re: 北の大地の自然観察会 さわらびT  2004/06/14 (月) 22:59
湿原を歩く経験をしたのは、多分、尾瀬が初めてだったと思います。

都会の生活がいやになって、無性に山に行っておいしい空気をたっぷり吸いたくなってくる。若い頃の懐かしい思い出ですが、開田さんからの便りに接すると、霧多布の自然を味わいたくなります。




1474. 北の大地の自然観察会 北の熊   開田 誠 [URL]  2004/06/14 (月) 13:08
 
 昨日が自然観察会でした。前々からの企画で、霧多布の森を歩きました。テーマは樹の花なのでしたが、前日の予行に出かけた時も樹の花らしきものがもうなくなっていたのでテーマに偽りになるかな、まあそれでも探すのを楽しむことにしようとしたのでした。

 観察の入り口の林道わきに、ヒオウギアヤメが咲いていて歓声があがりました。
 カッコウも声をあげていました。
 アカゲラのドラミングがありました。
 エゾムシクイの甲高い声を聴くと、夏が来たのかなと思いました。

 この数日は霧の多い日が続き、それが霧多布らしい季節を思わせるのでしたが、昨日は晴れに恵まれました。
 テレビでも新聞でも宣伝していただいたので、参加者が多く、はじめての方、若い方がいて盛況でした。いつもは、中高年ばかりで、この私が若い方なのでした。

 自然観察会は、15分で歩けてしまう林道を、首をあげて、見上げながら、この樹何の樹でしょうと話しながら2時間かけて歩きました。
 シロエゾマツの天然生林が観察地点ですが、広葉樹も多く、そのことを知ってもらいたかったのです。カツラ、シナノキ、ホウノキ、イタヤカエデ、ハリギリ、ミネカエデ、オガラバナ、ヤマモミジ、アオダモ、オニグルミ、トドマツ、ケヤマハンノキ、ダケカンバ、ミズナラ、、、、、などを見上げました。花があったのは、ナナカマドとシウリザクラとオノエヤナギであった。
(私の庭にある、キハダ、ヤチダモ、ハルニレ、エゾノコリンゴ、、、などが見つけられないのは、そこが霧多布の森でも標高の高いところであるからでしょう?)
 フキとウドを採集して楽しんでいられる方もいました。

 樹のあいだに見つけた花もありました。エゾノタチツボスミレ、マイズルソウ、オオヤマオダマキ、コケイラン、クルマバツクバネソウ、フデリンドウ、バイケイソウ、シコタンキンポウゲ、ヤマガラシ、キジムシロ、オオダイコンソウ、エゾクサイチゴ、ヤマブキショウマ、(オククルマムグラも見つけたのですが花がまだでした)。(スゲを見つけて、これは何でしょうときかれましたが私は逃げました!)。見つけるのは楽しいですね。
 先週にはまだ見られていた、オオバナノエンレイソウ、オオサクラソウなどはすでにおわっていました。

 嬉しかったのは、カラフトタカネキマダラセセリが乱舞していたことだった。(高山蝶ですよと声をあげたかった!)




1473. 講演会『藤原仲麻呂と藤氏家伝の成立』を聞いて(2) さわらびT  2004/06/13 (日) 21:57
本題は壬申の乱以降の新体制確立に伴う守旧勢力の一新をねらった動きの中で長屋王の変は引き起こされたということにあるようです。聖武にとっては、むしろ壬申功臣であった高市皇子の子、長屋王は、むしろ目障りな存在であったということになりましょうか。

仲麻呂とて一朝一石にことを運んだわけでなく、むしろその行動は最終的には自分を追い込んでしまったわけですから皮肉なものです。
仁藤先生がご講演で伝えてくださったのは、史料をどう読むか、ということですね。

面白いと感じたのは、不比等と天皇の関係をしめす黒作懸佩刀のキャッチボールについては、その出発点がちがうとおっしゃる。

粟原寺露盤銘(談山神社所蔵)には、「仲臣朝臣大嶋」が「日並御宇東宮」と関係が深かったとあるので、草壁皇子と不比等ではない関係を想定することが可能だといわれるのです。つまり中臣氏の当時の氏上は大嶋であったことがわかるわけです。懇親会でうかがったのですが、知られた史料なのに、研究者は使っていないのだそうです。




1472. 講演会『藤原仲麻呂と藤氏家伝の成立』を聞いて(1) さわらびT  2004/06/13 (日) 21:34
昨日(12日)、歴博の仁藤敦史先生による講演『藤原仲麻呂と藤氏家伝の成立』(主催:髻華の会)がありました。
なぜ仲麻呂が『藤氏家伝』を作ったのか、先生のコメントには、「鎌足や不比等・武智麻呂に対する歴史イメージは、仲麻呂の時代に多くが創られています。なぜ、仲麻呂はこうした情報操作(功臣の創出)が必要だったのでしょうか。このような疑問を、長屋王の変以降のポスト壬申の乱体制の構築および、藤原氏内部に於ける嫡流の形式という仮説により考えてみたいと思います。」とありました。

内容豊富なお話を聞かせていただきました。

戦後の史学、記紀批判は逆にいえばそれ以外の史料を中立的なものと扱ってきたけれど、『藤原家伝』も中立的な書物ではないので、記紀なみに扱う必要があるのではないか、と述べられました。『家伝』は、乙巳の変の史料として論じられたきたが、仲麻呂というフィルターをはずしてみると、使えるものは少ないのではないか、と見通しを立てて論じます。すべてをお伝えできないので残念ですが、仁藤先生の論文には注目です。

壬申の乱以後の体制確立過程は、江戸時代初期の様相を見て見ると理解しやすいらしい。

「大名にたいする将軍の権力が強大であったと同じように、家臣団にたいする大名の権力もまたきわめて強かった。それは、家臣の知行地にたいする支配権を制限し、やがては知行地をとりあげて、蔵米取りにしてしまう政策をとることによって推進された。その政策は、検地によって年貢の負担者である本百姓を独立させていく政策と併行しながら、だいたい一七世紀後半に完了し、その結果として諸藩の体制が確立した。」(北島正元『江戸時代』(岩波新書)42頁)




1471. Re^2: 壬生吉志福正と七重搭再建 さわらびT  2004/06/11 (金) 23:38
まさみ様

こんばんわ。

> その、円仁さんのお寺で、『入唐求法巡礼行記』の勉強会が6月19日から始まります。

面白そうですね。できたら参加させていただこうかと思います。

武蔵府中熊野神社古墳の話題からは、それてしまいますが、円仁さんのことは、好きな話題です。この『入唐求法巡礼行記』のおかげで、最後の遣唐使となった承和の遣唐使一行のことがわかってくるということですよね。古瀬奈津子先生の『遣唐使の見た中国』では、雨乞い儀礼のことなどもとり上げておられましたね。




1470. Re: 壬生吉志福正と七重搭再建 まさみ  2004/06/11 (金) 20:45
Tさま、こんにちは!

> そういえば、円仁も壬生氏ですね。
ちょうど、良いタイミングです。
その、円仁さんのお寺で、『入唐求法巡礼行記』の勉強会が6月19日から始まります。
ご興味がおありでしたらごいっしょにいかがでしょうか?
詳しくはhttp://www.cc9.ne.jp/~daijiji/index.htm
に、行ってみてください。




1469. 壬生吉志福正と七重搭再建 さわらびT  2004/06/10 (木) 22:49
今度は、壬生吉士に関心が向いてしまいましたので、加藤謙吉『吉士と西漢氏』(白水社、2001)を参照してます。本居宣長を嚆矢とする研究史が整理されています。

「壬生吉士」ですが、名が残っている人物としては、承和年間(834〜848)武蔵国男衾郡榎津郷に同郡前大領壬生吉志福正と二人の男子の名があります。この福正は息子二人の調康前納をしたり、武蔵国分寺七重搭再建を申請し許可されてます。大変な財力の持ち主ということになります。
 
最澄の弟子、円澄ですが「姓は壬生氏、武州埼玉郡の人なり」とあって、壬生吉志の出身と考えられるようです。かなり広範囲に壬生吉士は分布していたことになります。

そういえば、円仁も壬生氏ですね。




1468. Re: 三代王神社参道脇の工事現場について  あるけ〜  2004/06/09 (水) 23:00
さわらびYさん、こんばんわ
>いもさん
はじめまして。
>真蔵院から三代王神社迄の崖で探検ごっこしていて良く貝層を見つけたのですが
三代王神社付近以外にも貝層があったんですね。真蔵院にはあると聞いてましたが。
いもさんのお話は私も聞きたいです。ときどきここ(^^)に来てくださいね
私の関心では、武石氏と馬加氏の関係がよくわかりません。
武石の地元の方々の意識では、七年祭があるくらいですから、
やはり馬加氏のほうが昔の殿様という感じが強いのでしょうか。等々。
また私のHPでも間違っているところがあると思いますので、
ご指摘ください。




1467. 壬生吉士の入植時期 さわらびT  2004/06/09 (水) 22:56
再三、武蔵府中熊野神社古墳関連ですが、石室の構造がポイントですね。
この胴張り型については、壬生吉士の入植と関連付ける説が古くからあるようです。
磐井の乱→国造制の成立、屯倉の設置という流れを、前提とするなら、壬生吉士の入植は遅くとも六世紀後半ということになりましょうか。胴張り型石室が壬生吉士の墓制かについては異論もあるようですし、不勉強ですので、これ以上は立ち入るのは控えますが、この時代を考えてみる素材としては、大変興味を惹かれるところです。

継体擁立に蘇我氏に功があったのではないかという水谷説(『謎の大王 継体天皇』)も気になっていますが、蘇我氏が明確に政界に現れるのは宣化・欽明朝ですので、微妙なところではあります。




1466. Re: 三代王神社参道脇の工事現場について さわらびY(ゆみ)  2004/06/08 (火) 23:34
いも様 お久しぶりです。

>真蔵院から三代王神社迄の崖で探検ごっこしていて良く貝層を見つけた・・

など貴重なお話をありがとう。
はじめは、望遠でもよく見えなかったので、V字の溝らしきものに興味深かったのですが、工事用足場から間近で撮影してもらった画像では、地面に平行した貝層がとてもきれいなので感激しました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/sanndainaiiseki/L-kaisou2_1.jpg
いつの頃の貝層なのか、調査の結果が待ち遠しいですね。

あるけ〜様とのやり取りの中で、
>七年祭で二宮神社と子安神社の行列は県道を下らず今でもゆみ様の言われたコースを辿り工事現場横の交差点を通って磯出式へ向かいます。
>武石郷−三代王神社−馬加城付近−浜田川沿い−子守神社−堂の山下−幕張海岸とそんな感じではないでしょうか。

やはり、そうですか。

この会話の参考になるとてもよくできたあるけ〜さんの空撮写真と堂の山・幕張方面の展望写真をご紹介します。
http://chiba.fc2web.com/kuchu/kuchu88_takeishidaichi.html
http://chiba.fc2web.com/hamadagawa/makuhamapano_mj.html
ご実家も、御神輿の通った道も見えますか。

武石のことはずっと、あるけ〜さんのお世話になっていますが、いもさんのお話は、ともにお聞きしたいので今後とも当BBSにぜひお寄りになってください。




1465. 上円下方墳? さわらびT  2004/06/08 (火) 22:56
上円下方墳といわれる天皇陵古墳があります。「天智天皇陵」(山科御廟野古墳)ですが、もしこれが上円下方墳ならば7世紀後半に、先行する熊野神社古墳(七世紀前半)をマネしたと考えるのも面白いのですが、系譜的にはそう簡単にはいえないようですね。府中武蔵熊野神社古墳のように墳丘部が円形をしているわけではなく、八角墳というのが正しいようです。
上円下方墳になったのは、ちょっとした工夫=あえて八角墳にしない工夫だったかもしれない、と考えても面白い。

山科御廟野古墳ですが、藤原宮の中心軸、いわゆる聖なるラインに位置することからも、ちょっとどころでなく重要だと感じています。

さて府中武蔵熊野神社古墳が7世紀前半だとなると、「中央」では蘇我氏が権力を掌握していた時期、五条野丸山古墳が稲目の墓だという新説(小沢毅氏)もあって考古学の知見でも興味深々ですが、もしかして蘇我氏の動向が東国における墓制に影響を与えたか?、と考えるのも面白い。




1464. 三代王神社参道脇の工事現場について いも  2004/06/08 (火) 01:08
ゆみ様 こんにちは。

速報ドキュメント「武石三代王…」拝見致しました。遅れ馳せながら武石は生まれ故郷なので感想を書かさせて頂きます。

昨年の七年祭以来実家には帰ってないのですが、その時崖の部分は未だ工事が始まっていなかったので半年で随分工事が進展したものだと感心致しました。
しかし、この貝層がどれだけ貴重かは私には判断出来ませんが、殆ど調査しないまま工事が始まったのは非常に驚き(遺憾)です。
道路が計画されてから20〜30年は経つので調査をするには有余る時間が有ったはずですよね。
私が子供の頃、真蔵院から三代王神社迄の崖で探検ごっこしていて良く貝層を見つけたのですが誰も関心が無いようで、加曽利貝塚とは随分違うものだと子供ながらに不思議に思ったものです。
でも工事が始まったお陰でゆみ様もあの溝らしきものを発見出来たのでしょうから皮肉なものです。

ところでその前を通る県道についてのあるけ〜様とのやり取りの中で、
>長作−武石間の庚申塔のある短い坂道を通って武石の辺田道を行くほうがましだったのでしょう。
と有りますが、七年祭で二宮神社と子安神社の行列は県道を下らず今でもゆみ様の言われたコースを辿り工事現場横の交差点を通って磯出式へ向かいます。私もこの交差点で三代王の神輿を担ぎましたし、子守神社の行列も三山へ向かう際ここを通ります、ゆみ様も馬加康胤の首塚がある堂の山へ行った帰り道で溝を発見されるとは何か因縁めいてますね。
また、県道が整備されたのは大正期とありますがそれ以前七年祭の行列はどのルートを辿ったのでしょうか。多分、武石郷−三代王神社−馬加城付近−浜田川沿い−子守神社−堂の山下−幕張海岸とそんな感じではないでしょうか。(今のルートは武石−県道−開かずの踏切−幕張−堂の山下とゆみ様が辿ったコースと同じです。)
そうなると武石郷から三代王神社へ向かう道は県道が無い分もっと崖の上のほうを通っていたと仮定できます、丁度あの溝の横が道で七年祭の行列も昔はあの辺りを通っていたのだろうとこの因縁をもとに勝手に想像して喜んでいます。

この先調査発掘が進み更なる発見がある事を陰ながら願っております。次回の報告を期待してお待ちしておりますので是非頑張ってください。





1463. Re: 身近にも上円下方墳がありそう、かな? さわらびY(ゆみ)  2004/06/08 (火) 00:05
ひづめさま
いつもご紹介ありがとうございます。

> 上円下方墳のよう。桜川村の笈ノ塚といいます。

桜川といえば大杉神社=「アンバさま」ですね。
この近くの神宮寺の集落内には、数多くの古墳や廃寺跡(奈良時代)、古代かまど跡等数多くの遺跡が散在しているとか。

興味しんしんです。またわかったことがあればよろしくね。




1462. 身近にも上円下方墳がありそう、かな? ひづめ [URL]  2004/06/07 (月) 14:41
さわらびY(ゆみ)さん、こんにちは。

 「熊野神社古墳の現説ルポ」のお知らせをありがとうございます。さっそく『藪ログ』( http://homepage.mac.com/kopyto/iblog/ )で紹介させていただきました。

 その中にも書きましたが身近な場所に変わった形の塚(古墳?狼火台?物見台?)がありまして、以前一度見に行った時の印象では、その形が上円下方墳のようだったのです。桜川村の笈ノ塚(笈ノ塚城)( http://www.osanpodan.com/oinotsuka-jou.html )といいます。上円下方墳がそんなに珍しいものだとは知らず確認してませんでした。近い内に桜川村に問い合わせてみます。

ひづめ@美浦村お散歩団




1461. Re2: 熊野神社古墳の現説ルポの続編・高倉古墳群への散歩道をUP HON  2004/06/06 (日) 20:03
さわらびY(ゆみ)さん

>HONさんのHPでも掲載されている「抱き板碑」はその姿に感動しました。( 無断LINKおゆるしください(*^ー゚)v )

HPはリンクフリーをうたってますから、遠慮なくドンドンLINKしてください。
返って、ありがとうございます。




1460. Re: 熊野神社古墳の現説ルポの続編・高倉古墳群への散歩道をUP さわらびY(ゆみ)  2004/06/06 (日) 00:59
武蔵府中熊野神社古墳の現説レポートの続編・高倉古墳群への散歩道をUPをしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/04.05.30kumano/04.05.30takakurakohungun.htm

HONさんのHPでも掲載されている「抱き板碑」はその姿に感動しました。( 無断LINKおゆるしください(*^ー゚)v )

甲州街道を小仏峠まで自転車で史跡ウォッチングしたことのあるMさん。このコースを一緒に歩いてくださってありがとうございました。





1459. 武蔵府中熊野神社古墳の現説レポートをUP さわらびY(ゆみ)  2004/06/05 (土) 00:52
HON様 kagokaki様 あるけ〜様
間宮氏についての情報をありがとうございました。

後北条氏が秀吉軍に降伏して徳川政権の確立していく中で、北総の地の村びとがどのように新しい領主層を迎えていったのか、知りたいです。
あるいは、高津の伝承の「岩井源左衛門の祖仁山良雄」のように帰農?した兵もいたでしょうし、大阪夏の陣冬の陣に動員され、徳川政権下で旗本として生残っていった間宮氏や原氏などの一族も珍しくはなかったのでしょう。

土曜日(5日)は八千代市郷土歴史研究会会員はそれぞれ、高津の石造物調査や民俗調査で多忙なのですが、少しマクロな見方のなかで北総の一旧村を見てみたいと思っています。

話は飛びますが、武蔵府中熊野神社古墳の現説レポートをUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/04.05.30kumano/04.05.30kukanojinnjakohun.htm

不十分な内容ですが「鮮度」が命?のレポートです。
この古墳についてお世話になっているHONさんのBBS過去ログもリンクさせていただきました。
中身のある考察は、こちらをご覧ください。





1458. Re:四街道の大隆寺など あるけ〜 [URL]  2004/06/04 (金) 22:10
kagokakiさん、こんばんわ

>一昨日四街道の図書館で、日色義忠氏が書いた「無縁仏となった旗本間宮氏の群像」という一文を見つけました。
>大隆寺に間宮家の石碑があることを知り、早速見に行きました。
さわらびYさんより聞きました。
kagokakiさんは、さすがに情報も早いし、行動も早い(^^)

二代盛定=新四郎照継でしたか。
19歳で、夏の陣に出陣。真田と戦って負傷し、その後死去ですか。
ほー なんかいろいろ想像してしまいますね〜。

重要な情報ありがとうございます。
石塔類も小生はさっぱりなので
確認していただき、安心できます。
城跡の伝説もおもしろそう。

>調べ出すときりがなく広がっていきそうです。
まったくです。それで意外なところにつながったりして。
おもしろいですね〜
「史談八千代」での詳しい報告を楽しみにしております。

HONさん、こんばんわ
という次第で、間宮盛定=新四郎照継となって、
間宮氏の鹿渡城築城はやはり妄説だったという雲行きです。
しかし徳川家の下で、これだけ分家があり繁栄しているということは築城術などの技術もふくめよほど有能な一族だったんでしょうね。




1457. 四街道の大隆寺 kagokaki  2004/06/04 (金) 15:10
あるけ〜さん
こんにちは。YさんからこちらのBBSで、あるけ〜さんに知らせてほしいとのメールを頂いたので書きこませてもらいます。
一昨日四街道の図書館で、日色義忠氏が書いた「無縁仏となった旗本間宮氏の群像」という一文を見つけました。「四街道市の文化財」第14号・15号(続編)に、氏が数年かけて調べられた事柄を綿密に分析してまとめられた労作です。
そこで大隆寺に間宮家の石碑があることを知り、早速見に行きました。
広い境内に間宮家の碑は独立して並んでいました。
5基あるうち、頼次の跡を継いだ二代盛定(この人が新四郎照継、頼次の嫡男です。日色氏が突き止められた)、三代吉俊(頼次の二男、元服前は信縄と名乗る。盛定が19歳で戦死した後、特別の計らいで盛定の養子となり継嗣する)、四代盛重(幼名孫兵衛)が当主らの碑で、他の2基は頼次の正室と女性(不詳)ということです。頼次の墓所は未だに見つからないそうです。
なおYさんのメールで盛定は冬の陣で負傷とお知らせしましたが、あれは私の書き違いで、夏の陣で真田隊と戦って負傷し、その年の秋に亡くなっています。
とりあえず大隆寺の写真、下記HPでご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/kagokaki/dairyuuji.html
次に鹿渡の城のことですが、古老の間で「戸崎城」にまつわる幾つかの伝説があることを書かれています。日本地名辞典には「鹿渡台地の北東突端字戸崎に亥ケ鼻城址が残り、城主は間宮新四郎と伝え・・・」とあるそう。また、「小名木部落には元堀と妙見山のいう二つの城堀の跡がある」等々
長くなりますのでこの程度にしますが、調べ出すときりがなく広がっていきそうです。あるけ〜さんも何かわかりましたらお知らせください。




1456. Re2: 多摩川流域の間宮氏など HON  2004/06/03 (木) 23:32
さわらびY(ゆみ)さん

>間宮家のWEBページ『間宮氏の歴史』も教えていただきましたが、これにはとても詳細で、重要なことがいっぱい載っていました。

先日ちょっとのぞいたのですが、全部見てなかった。
「関係のない著名人物」でバッサリやられてますね。
こういうことが有るので、納得するまでなかなかHPにあげられないのです。
ありがとうございました。

でも、間宮林蔵が隠密というのは本当ですよ。幕府の隠密組織にガッチリ組み込まれていたことは秦新二著『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』(文春文庫1996)に詳しいです。これ幕末の前哨戦ですが、以前パソ通に忍者会議室なんていうのがあって教わったものです。

あるけ〜さん、はじめまして。
間宮氏が築城に関わったというのは確証のないことなので憶測の類でしたが、さわらびYさん推薦の『間宮氏の歴史』サイトを見ると、北条の間宮氏配下に隼人という番匠大工がいますね。城を造り、城を落すのも大工の役目でしたから、可能性は大きいようです。工兵隊ですね。




1455. 調査おつかれさまでした&印旛郡?の間宮氏 あるけ〜 [URL]  2004/06/03 (木) 19:51
さわらびさん、みなさん、こんばんわ
調査、お疲れさまでした。
写真の中にも、記録的な暑さの中のご苦労が察せられます。

 間宮氏(大井戸と同じ系統)は、印旛郡(だいたい四街道市?)に所領をもっていたようですね。『千葉県の地名』によると、四街道の大隆寺には数百基の石塔があり、その中に間宮氏の石塔があるとのこと。小生は石塔は弱く、まして数百もあると、ひるんでしまいますが、ついでがあったら見てこようと思います。

>>HONさん
はじめまして。
 HONさんの書き込みをみて、思い浮かんだのは、
鹿渡城(四街道市)について、間宮照継(どこの系統のいつ頃の人?)の築城という伝承(?)があるということ。「築城」というのも不確かなのですが。鹿渡城というのは、小城ながら、かなり技巧的な縄張りで戦国時代の後の方の城のようです。この伝承は、徳川氏が入ってきた後、その旗本としてこちらの領主になった間宮氏の伝承と城跡とが混同・創作された伝承だと思っていたのですが、鹿渡城についても、ひょっとすると、徳川氏が来る前、北条氏が築城技術をもつ間宮氏に作らせたという可能性もあるか、と思った次第。北条氏は鹿島城(佐倉城)も(千葉氏?に)作らせてるようですから。北条時代に下総の方に間宮氏が来ているという史料でもあればいいのですが。やはり机上の思いつきか・・・・




1453. Re:熊野神社古墳と周辺の遺跡をたずねて HON  2004/06/02 (水) 21:58
さわらびY(ゆみ)さん、こんばんわ。
>昨年暮れからの熊野神社古墳についての貴兄のHPを拝見していて、どうしても現地へ行きたくなり、貴兄の調査フィールド(お庭、or縄張り?)におじゃましてしまいました。

お庭というにとチト遠く、縄張りというにはカオが利かない。多少の御案内ぐらいはできますが。
それにしても精力的に廻りましたね。現地を歩かれると、地図では分からない地形がつかめ、古代遺跡は全て多摩川崖線の上端にあることに気づかれたでしょう。往時の姿はなくとも、多摩丘陵のように大規模の開発でもなければ、地形までは余り変らないものです。
わたしは最近、狭山丘陵から埼玉方面へ出かけますが、やきり来てよかったと何時も思います。

>「多摩寺」のことについて、お聞きしますと、多摩郡司によって建立されたであろうこの国衙東隣の廃寺は、7世紀末で、半世紀の開きがあるが、関連は大であるとのこと。

「多摩寺」のことを書くとき、一応、役所の担当へ電話して場所を尋ねました。以前、大麻止乃豆乃天神社の前身と思われる天神社を探しに行って、この辺りを大分歩いたものですから、電話の話で直ぐ場所が分かりました。地図をクンリしておきますが、ここは現在墓地になっています。
墓地は塀で囲まれていたので、そのときは用もないので入らなかったのですが、先の『武蔵の国府と国分寺』によると、心礎状大石もあるそうです。
京所多摩寺跡 http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.29.9.2N35.39.56.0&ZM=12

因みに、もう一つの多摩郡司による私寺の候補というのは、調布市の入間町城山遺跡から「高大寺」と墨書きのある土器の出たものです。八世紀半ばのもので、郡司大伴氏の活躍した時期にあたると『調布市史』は強調していて、こっちはHONの縄張り、歩いて行けますが、賛成できない。




1452. Re: 多摩川流域の間宮氏など さわらびY(ゆみ)  2004/06/01 (火) 23:43
八千代市の高津には、大阪夏の陣で戦死した殿様の首を持ち帰った葬った観音寺境内に、子孫の旗本領主が「高秀霊神社」の祠を建てて祭り、その名残りが「高秀霊神社」と記された石碑だという伝説が伝えられています。

領主といったって年貢をいただくだけのただの旗本で、この村に住んで治めていたわけでもないし、不思議なお話だななんて思って、深く考えたことはなかったのですが、とにかく高津の史跡や伝承を片っ端から調べようと、領主間宮氏(庄五郎家)についての関心をこの掲示板に書きましたら、あるけ〜さんから、大井戸にも領地があった一族ではという情報をいただきました。

さらに間宮家のWEBページ『間宮氏の歴史』も教えていただきましたが、これにはとても詳細で、重要なことがいっぱい載っていました。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/kmamiya0/

これから先は、得意のグループワークと芋づる式の調査でとても興味深い新発見がいっぱい!
 
千葉市大井戸の間宮彦次郎家を調査中のあるけ〜さんに続き、多摩川流域のHONさんにもクロスするなんて・・

川崎区砂子の川崎宿に、「宗三寺」という飯盛女の供養塔があることでも有名な寺がありますが、ここも、高津山観音寺の位牌調査で知った宗三居士(間宮信盛 法名宗三)を供養する寺のようですね。
ただしHP『間宮氏の歴史』を見ると、宗三寺の由来や杉田玄白・間宮林蔵の系譜についてもいろいろ問題がありそう。「つくられた」系譜の探求は奥が深そうです。




1450. 熊野神社古墳と周辺の遺跡をたずねて さわらびY(ゆみ)  2004/06/01 (火) 22:56
HON様
昨年暮れからの熊野神社古墳についての貴兄のHPを拝見していて、どうしても現地へ行きたくなり、貴兄の調査フィールド(お庭、or縄張り?)におじゃましてしまいました。

上円下方墳を意味する縁石積みや版築、前室2室を連ねた奥行きの長い石室は興味深かったですね。

終末期古墳に関連する宗教的な営みとして、この地の仏教寺院がどうであったか、古代初期の寺院跡との関係も気になって、いろいろ質問をしました。
HONさんの掲示板No.845(2003.12.16)でお書きになっている「多寺」と刻まれた瓦が出土した「多摩寺」のことについて、お聞きしますと、多摩郡司によって建立されたであろうこの国衙東隣の廃寺は、7世紀末で、半世紀の開きがあるが、関連は大であるとのこと。
ただ古墳が築造されたという7世紀前半と現説資料に書かれている件に関して、なぜそういえるのかは、その根拠を聞き漏らしました。

でも一番関心があったのは、この付近の遺跡です。
分倍河原駅付近の高倉古墳群、そこを通る東山道武蔵路、そして競馬場(その日はダービーだった)北側の国庁推定地などの関連遺跡位置図が現説資料にあったので、とりあえず歩いて地理的感覚をつけてきました。

東山道武蔵路(現「分梅通り」)が、中世は「鎌倉街道」として、さらに戦国時代は「陣街道」とよばれた軍用の重要道路だったこと、そしてこの道路に面した八雲神社(HONさんならこれも出雲系!)社殿裏の天王塚古墳と板碑は、古代と中世の二つの時代を十分に堪能させてくれました。

いろいろ情報をありがとうございました。おかげさまで短時間でしたが、予習たっぷりで府中の歴史散歩ができたことを感謝します。




1449. Re^2:昨日は、熊野神社ともう一つのイベント  さわらびT  2004/06/01 (火) 00:04
HONさん、こんばんわ

できるならゆっくり武蔵野探訪といきたいところでした。あわただしい日々でしてせっかくの訪問だったのですが、やや駆け足で見てまいりました。

数年前ですが、八王子に行った帰り道に武蔵国分尼寺跡を訪ね、確か鎌倉古道があって、もう夕暮れ時だったせいもあるかもしれませんが、歩きながら風情を感じた記憶があります。あらためて、ゆっくり出向きましょう。




1448. 読書の楽しみ さわらびT  2004/05/31 (月) 23:09
開田様

ご紹介いただいたのは、読んではいない本ですが、懐かしい思いが伝わってきます。少年時代の冒険心・好奇心は決して忘れてはいけないんですよね。

最近は、気持ちに余裕がないというのか、関心が限定されてしまうのが悪いクセで、古代史の本しか手にしないですね。私の読書って結構、極端なんですよ。松本清張ばかり読んでたこともあったし、『大菩薩峠』をとにかく読みきろうと、常に持ち歩いていたこともありましたね。クラシック音楽関係の本しか興味がなかったこともあったし、最近は読書といっても限られた調べもの程度の読み漁りですから、様々なジャンルの本をご紹介いただくのはありがたいです。

文学作品で読んだのは渋澤龍彦氏の絶筆ともいえる『高丘親王航海記』(文春文庫)ですが、それも、佐伯有清先生が、先年出された『高丘親王入唐記―廃太子と虎害伝説の真相―』(吉川弘文館)との関連で目を通したので、せっかくの渋澤作品を耽読するわけでなく、歴史解釈を優先して見てしまうのは少々さびしい読書かもしれませんね。




1447. 多摩川流域の間宮氏など HON  2004/05/31 (月) 19:21
さわらびY(ゆみ)さん。
間宮氏の調査、興味深く拝見してます。

小田原北条氏の『小田原衆諸領役帳』に「間宮豊前守康俊三十五貫文 小机末吉」とあって、多摩川流域には川崎市などに一族の菩提寺や墓があります。まだ調査不足でHPにあげていませんが。

北条氏の八王子城の築城には間宮氏が関わったといわれ、具体的に何をしたのか分からないのですが、城跡を見ると、それまで坂東の城には少なかった見事な石垣が特徴です。近江に多い野面石の穴太積みで、間宮氏の先祖の佐々木六角氏の観音寺城を想わせます。目前の安土城の石垣は穴太の石工を使って、観音寺城の石を運んで積んだともいわれます。

観音寺城の佐々木氏は沙沙貴神社を祀る佐佐紀山氏を乗っ取ったもので、狭狭城山君の名で記紀に出てきて、狭狭城山は陵(みささぎ)、つまり古墳のことです。

狭狭城山君から杉田玄白・間宮林蔵にいたる系譜は血のそれよりも、歴史を縦断して連綿たる技術者の系譜を見出せます。

また、間宮林蔵はスパイだったといわれますが、古墳のような石積で迷路をもった観音寺城は、戦国時代は甲賀忍者の砦でもありました。血は争えない ?




1446. Re:昨日は、熊野神社ともう一つのイベント  HON  2004/05/31 (月) 19:16
さわらびTさん、Yさん、こんばんは。

府中へお越しだったんですね。遠い処をご苦労様でした。
今日もそうですが、当日は二日とも夏日でしたね。

Tさんが現場へいらした頃、わたしは二三軒隣のファミレスで
アタマ冷やしてました。

その後、Yさんは府中方面を廻られたそうですが、
わたしは国分尼寺跡へ行きました。近頃、金堂跡など整備されて
それらしくなってます。またこちらへ来る機会があったら
国分寺跡といっしょに廻ってみてください。




1444. 『ちいさな桃源郷』幻戯書房 開田 誠(北海道・厚岸) [URL]  2004/05/31 (月) 14:55

 「創文」という出版社のPR誌のあとがきで、『ちいさな桃源郷』という本を知った。「アルプ」はかつてその出版社から出されいた。私はその山の雑誌を手に取ったことはなかった。山へは行くことのみ忙しく、山の本を読みたいとは思わなかった。
 本はその「アルプ」に載った随想33篇が収められている。山への行き帰りに気づかされていた山間の村のたたずまいを私も思い出した。そこにしばらくでも滞在したらおもしろいだろうなあと思ったりしていたものだ。
 「アルプ」は、1958年3月から1983年2月の25年間300号が出された。編者池内紀がその思い出を語っている。25年は17歳から42歳であったという。
 私は11歳から36歳になる。
 そういう時代に書かれた”ちいさな桃源郷”である。
 この数日、数編ずつ読んでいたが、一日に数編をまとめて読んでしまうのが、もったいなくなってしまった。半分まで来て、残りがなくなるのを惜しみだした。書き手たちに物故者の多いことにも気づかされる。丁寧に読み出した。時に読み終えた後、地図帳を取り出した。
 やはり、池内紀『少年探検隊』平凡社も、読み飛ばすのがもったいなく、数日おきに一篇ずつ読んでいた。『巌窟王』から始まる少年の頃に読んだ物語の数々を読み直して聞かせるのだ。
 私も学級文庫で借りたり、隣のゆきちゃんや学校前のむらかみくんの立派な本棚から借りて読んだ。貸本屋のお世話にもなった。図書館にはなじまない小学3〜5年生頃の本である。
 途中で読むのがとまったのは厭になってではなく、もったいないからだ。近く4〜5日間入院しなくてはならない。その時のためにとっておきたいとおかしな思いになっている。




1443. 谷中の間宮氏菩提寺と、府中の古墳現説に行きました さわらびY(ゆみ)  2004/05/30 (日) 23:59
> 明日は、上円後方墳と間宮さんによろしく、です(^^)

本日午前中、間宮氏庄五郎家の菩提寺である谷中の長明寺へ、八千代市郷土歴史研究会メンバーと墓地を調査に行きました。
実は、会の今年度調査対象の「高津」には、領主旗本の間宮家ゆかりの史跡があり、この系譜を調べているからです。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/mamiyasi/mamisasisiseki.htm

間宮家墓地の宝篋印塔2基、ここに刻んである墓誌の銘文を「寛政重修諸家譜」を片手に調べ、「諸家譜」にでてくる法名(宝林日珠=正勝、23歳で夭折した日藏=信明など)や「間宮士信公顕彰碑」の最初にみえる白水(=士信の雅号)などが確認できました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/mamiyasi/tyoumeiji.htm

午後は、ダービー最中の府中市へいき、熊野神社古墳現地説明会のあと、分倍河原近くの古墳や板碑なども見てきました。
現説では、坂詰先生や歴博の平川南先生もお見受けしました。

HONさんのHPでおなじみになった熊野神社の上円下方墳ですが、周辺の史跡も実際歩いてみて、今日はその立地や景観についてよくわかりました。

でも暑かったですね。天気予報を雨から晴れにする「晴れ女」の神通力!はあっても、急にこう暑くては、体にこたえます。

府中の画像もUPしたいのですが、間宮氏の画像整理で(読みにくい銘文をなんとか見えるようにねばって)ちょっと疲れたので、今日はごめんなさい。





1442. 昨日は、熊野神社ともう一つのイベント さわらびT  2004/05/30 (日) 19:26
昨日(29日)武蔵府中熊野神社古墳の現地説明会に出向きました。HONさんからも、時おり情報をいただいておりましたし、関心が深いところです。でも我が家からは少々遠いですね。10時半過ぎに自宅を出発、1時過ぎに現地に着きました。途中、府中駅であわてて、バスに乗ろうとしたら、熊野神社に行かれるなら次の国立駅行きに乗ってくださいといわれてしまいました。

幸い思ったほどの多人数ではありませんでしたので、じっくり見学させていただきました。例の胴張り型の玄室の箇所は、崩れやすいということで、よく見られなかったのは残念ですが、現場に行けたのでとりあえず満足してます。今日はYが行きましたし、写真はあらためてUPします。

夕方、「自然・性・古代王権」(講師:森朝男先生、主催:髻華の会)という講演会にも出席させてもらいましたので、ちょっと疲れました。その講演会ですが、文学の世界から、読み取る古代の様相という視点が、私には斬新でした。性のタブーが、ケガレか聖化という両様に表われること、王権は性の異質性を神のみがなしうる兄妹婚を自ら体現していく、といったお話を興味深く拝聴できました。

森先生が引かれた後宮職員令18条、
「凡そ諸の氏は、氏別に女貢せよ。(これは、氏女ですね)皆30以下13以上を限れ。氏の名に非ずと雖も自ら進仕せむことを欲はば聴せ。其れ采女貢せむことは、郡少領以上の姉妹及び子女の形容端正なる者をもちてせよ。皆中務省に申して奏聞せよ。」
ですが、例の、大化二年の詔にほぼ同文がありまして、以前、税制の始まりという文脈で考えたことがありました。(この改新詔が史的事実かが大問題なのですが)

「凡そ采女は、郡の少領より以上の姉妹及び子女の形容端正しき者を貢れ。従丁一人、従女二人。百戸を以て、采女一人が粮に充てよ」に対応しますよね。

後宮職員令の「30歳以下13歳以上」には、意味があるのかもしれない、と懇親会で先生がおっしゃっていたようでしたが・・・




1440. 調査、ご苦労さまです あるけ〜  2004/05/30 (日) 01:02
さわらびさん、こんばんわ
習志野駐屯地演習場内の調査、ご苦労さまです。見ました。
壊されずにかなり残っているようですね。
青面金剛、なかなかいい顔してます。
「まむし森」、ずばり、ですね。
皆さんのような地道な調査があってこそ、文化財は保護されると
感じいった次第です。

明日は、上円後方墳と間宮さんによろしく、です(^^)




1439. 習志野駐屯地演習場内の史跡調査をしました さわらびY(ゆみ)  2004/05/29 (土) 19:11
今日は、八千代市郷土歴史研究会の旧高津村研究に欠かせない史跡として、習志野駐屯地演習場内の「大六天社」・「馬頭塚」の庚申塔類・野馬土手などの調査をしました。
もちろん、見学申請し許可をもらって、広報担当隊員の先導と案内で実現したものです。

「馬頭塚」は高さ3mぐらいの円形の塚で、塚の上にある庚申塔2基(馬頭観音はない)と手水鉢がありますが、いずれも、優れた意匠の江戸時代の石造物です。
また、台座には寄進者銘として、旧高津村の主だった家の数十の屋号が刻まれている点でも史料性の高いことが、1998年の会の調査で確認されており、今回はその記録と計測を行いました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/05.29kousinntou_1.jpg

またこの馬頭塚の地点は、かつて三山七年祭の神輿の通り道でもあり、2基の庚申塔は三山から高津へのムラの入り口を守る道祖神として民俗学的にも貴重な史跡です。

そのほか、今も高津の旧家の祭祀が行われている大六天社や、「まむし森」の中に残っている旧下野牧名残りの野馬除け土手などを踏査しました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/05.29nomadote1_1.jpg

季節はもうすっかり夏、演習場にはあちこちに雉がいたり、アザミの花がきれいに咲いていました。
戦争さえなければ、のどかな自然が残っているところです。




1438. Re: 対馬 さわらびT  2004/05/28 (金) 23:59
開田様

対馬に行かれるのですか。私は行ったことがありませんので、お勧めスポットなどは話せないのですが、加藤先生の勉強会で中臣氏の出自=卜部説の可能性を論じていただいていまして、そういえば対馬の卜部の話もありました。

養老令の規定では、壱岐や伊豆からも出仕するのですが、対馬からは10人卜部が朝廷に出仕していたようですね。対馬の卜部は、国造である対馬県直であって、『新撰姓氏録』によれば中臣氏の同族とされています。

摂津国神別「津島朝臣。大中臣朝臣と同じき祖。津速魂命の三世孫、天児屋根命の後なり。」

対馬の卜部は今日まで、亀卜の伝統を引き継いでいるようで、旧暦正月3日の雷神社の祈年祭が有名らしいですね。対馬に残されているさまざまな風習を見てみたいものです。

対馬には雨森芳州の墓もありますよね。朝鮮通信使をめぐる話題に欠かせない地が対馬ですね。




1437. Re^2: イラクの現実 さわらびT  2004/05/28 (金) 23:03
日本人の乗った車が銃撃されたと、報道されています。

「イラク・バグダッド近郊で、日本人フリージャーナリスト2人が乗った車が銃撃された事件で28日午前(日本時間同日午後)、銃撃現場近くの病院で、日本人と見られる2遺体が確認された。外務省が発表した。」

> 真実を知るためにリスク覚悟で行く人々に対して、「自己責任」をあえて言う必要などないということでしょう。

とは書いたものの、現実に取材ジャーナリストが銃撃されたらしいという報道を聞けば、心が痛みます。戦争は続いています。




1435. 対馬 開田 誠(北海道・厚岸) [URL]  2004/05/28 (金) 10:25
 7月4日が誕生日で、その前後は航空機のバースデイ割引がありますので、旅の計画をたてました。
 休みは4日間ですが、対馬へ行ってみよう。
 北九州へはまだ駆け足で3度しか行っていません。行きたいところがたくさんあり、また行こうと思うと行きにくかった対馬へ思い切ってでかけてみましょうとなりました。
 邪馬台国の推定地はどこかについては、長年楽しんでいましたが、対馬の歴史を感じてきたいと思います。対馬はその地を知っていたんだよね。
 行くと決めてから、関連書を読み始めています。
 対馬のあれこれについて何かお知らせください。




1434. Re: 神々の国「出雲」を探訪してきました。 さわらびY(ゆみ)  2004/05/27 (木) 23:44
お知らせありがとうございます。
出雲は、1997年の「古代出雲文化展」の大イベントにはるばる駆けつけた思い出があり、 Don PanchoさんのHPを拝見して、出雲の神社や加茂岩倉遺跡、神庭荒神谷遺跡などを廻ったことなど懐かしく思い出しています。

Don PanchoさんのHPは、正確で充実した情報も魅力ですね。
ゆっくり拝見したいと思っています。




1433. Re^3: 縄文文化の弥生文化への影響は想像以上? さわらびY(ゆみ)  2004/05/27 (木) 23:29
縄文文化の弥生文化への影響は想像以上

>HLDSFGOさま まさみさま

部屋の片隅にころがっていた「法政史学」の最新号を、なにげなく朝持ってでて通勤電車の中で小倉淳一氏の「宮ノ台式土器に見る櫛描文の地域的変遷」という論文を“眺めて”ました。
詳細な時系列考察の文章は読んでもわからないので、きれいな土器のトレース図を鑑賞していたわけですが、実はこの土器の出土する地域は、わが街の近く、印旛沼周辺なのです。
この宮ノ台式土器は紋様だけ見ると、まさに縄文の紋様。深鉢でない「壺」の形を見てそうか、弥生の土器なのだとわかる次第です。

まえから、北総の弥生土器は変わっているなと思っていたのですが、小林先生のお話をお聞きして、納得しました。
今でも、私たちの民俗信仰や食生活(鍋物大好き)は、やっぱり縄文!
そう簡単に、DNAのくせは変わらないような気がしています。

ところでHLDSFGOさま、初めまして。
ちょっと凝ったハンドルネームですね。なんてお呼びしたらよいのでしょう。





1432. 神々の国「出雲」を探訪してきました。 Don Pancho [URL]  2004/05/27 (木) 22:15
ゴールデンウイークが明けた今月の5日と6日、島根県の出雲地方の史跡探訪に出かけました。探訪記をHPの歴史探訪ブースに追加しました。最近の出雲の神社や古墳の様子を知りたい方は、一度アクセスしてみてください。




1431. Re^2: 「千葉貝塚」など &小林青樹先生講演の感想 まさみ  2004/05/27 (木) 22:09
ゆみさま、みなさまこんばんは!

> 話は変わりますが、昨晩は、小林青樹先生の「縄文から弥生への移行−渡来文化に対する縄文人の適応過程−」という講演をお聴きしてきました。

面白かったですねぇ〜☆
2次会をどうしても抜けなくてはならず、ものすご〜〜〜〜く残念でした。
また機会がありましたら、先生のお話を是非是非お聞きしたいと思います。
とりあえず、「日本人はるかなる旅」をもう一度読んでみます。
では、また。




1429. Re: 「日の君」石原知事の暴挙 さわらびT  2004/05/27 (木) 07:25
確かに、今回の「指導」というのは妙な話ですね。開田さんご自身が教員の経験をお持ちですから、「指導」された方々の気持ちもよくおわかりのことと思います。
「日の丸・君が代」を復活させたこと自体は時代錯誤ではありますので、強制に対して反発があるのは、自然なことだと思います。
今回の「指導」というのは、当人でなく教員にということですから、「指導」する方もかなりゆがんでいるということですね。開田さんのお怒りはごもっともです。




1428. 「日の君」石原知事の暴挙(2) 開田 誠 [URL]  2004/05/26 (水) 11:51

君が代斉唱時の生徒不起立、都が結果責任で57人指導へ

 東京都教育委員会は25日、都立高校の卒業・入学式で「君が代」斉唱時に起立しない生徒がいた学級の担任ら57人について、生徒への指導が不足していたとして厳重注意などの指導をすると発表した。都教委が昨秋、「日の丸・君が代」の徹底を求める通達を出して以来、生徒への指導責任を問う措置は初めて。間接的に生徒の行動を縛る恐れがあり、教員側からは強い反発が出ている。

 都教委によると、指導されるのは全日制高校3校、定時制高校5校の計8校の教員と管理職。生徒の不起立や式への不参加が学年・学級の大半を占め、「明らかに不自然だった学校」を対象にしたとしている。

 行事での「日の丸・君が代」の実施方法を細かく定めた都教委通達は、斉唱時の起立などを教職員に義務づけたが、生徒は対象外だ。今回の8校ではいずれも教員の言動と生徒の不起立などとの因果関係はわからないというが、都教委は結果責任があると判断、「制裁ではなく改善を求める指導を決めた」としている。厳重注意などの指導は、地方公務員法に基づく戒告などの懲戒処分と違い、給与や履歴には反映されない。

 都教委はこの日、生徒の行動をめぐる指導以外に、式での自分の係の仕事を離れたなどとして都立校5校計10人の教員らを指導することも発表。また、卒業式・入学式で起立しなかったなどとして公立小中学校、都立校の教職員39人を戒告、都立校の3人を減給(10分の1、1カ月)とする処分を発令した。
   ◇
 生徒の不起立などで教員らが指導を受ける都立高校は、市ケ谷商業、板橋、志村、向丘(定時制)、荒川商業(同)、南葛飾(同)、小松川(同)、八王子工業(同)。 (05/25)

関連情報   
 入学式の「君が代不起立」などで40人追加処分 都教委(05/24)
教育・入試のページ





1427. 「日の君」石原知事の暴挙(1) 開田 誠 [URL]  2004/05/26 (水) 11:50
 私の敬愛する作家石川淳に「歌う明日のために」という小品がある。古い筑摩の文学全集の中で、太宰治と坂口安吾の三人が入っていた一冊でした。その本がどのダンボール函の中へいってしまったか今わからないのだが、10代の日々に親しんだ本でした。彼らを無頼派ということを知ったのは、読んだ後でした。戦争期を真摯に生き抜いてきたことが作品にあらわれていると思いました。
 「歌う明日のために」は、ある国では国歌が抵抗の歌になっていることを教えてくれ、”君が世”のように民衆に屈服をしいるものでないというのであり、私の若き血にも感動をよびました。
 東京での教員時代の仲間たちが、「日の君」で試練にたたされています。
 さきの4月の旅の時、葛飾の友人を訪ねると、昨日処分が出たよと言っていましたが、また次の記事のように、新しい処分が出たようです。
 きくところによると、石原知事は特攻隊の映画を生徒たちに見せろと区教委へ申し渡しているそうです。軍国主義などいう言葉は死後になっていたかと思っていたのですが、懐かしがる御仁はいるようです。
 以下は朝日新聞のNET版よりの引用です。(板橋校にいた友人からの連絡です)。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  (2)へつづく







1426. 厚岸のサクラ、厚岸の貝塚 ワイワイグッチ [URL]  2004/05/26 (水) 03:06
北海道に転勤した頃、静内のサクラを見に行ったことがあります。5月中旬、小満の頃に遅い春があわてて来る頃で、種々の花が一斉に咲き始めていました。地元の人が作ってくれたカニ汁、¥500でドンブリいっぱい。一人では食べきれない量で、かつ、おいしいかった。花よりダンゴならぬ、花よりカニ汁で、北海道のおいしさが強く印象に残っています。
厚岸は牡蠣養殖の町ですね。現代に貝塚が作られている場所と思います。厚岸のカキが大幅に減産した時期があったことは有名です。その原因は海が汚染されたのではなく、山の森林の乱伐採ということだったと思います。森林の土壌で作られる栄養分、有機酸(特にフミン酸)の緩慢で一定した海への供給速度のシステムが崩れて、自然環境が変化したためと結論付けられたと記憶しています。
このことに気づいた地域の人が行動を起こし、カキの生産量が復活したという話しがありました。現代の貝塚が超大型貝塚になることを期待します。




1425. Re: 「千葉貝塚」など &小林青樹先生講演の感想 さわらびY(ゆみ)  2004/05/25 (火) 23:25
ワイワイグッチさま あるけ〜さま
考古学協会の「千葉市の貝塚群」の発表をお聞きし、葭川流域の膨大なる地域に気の遠くなる年月をかけて営々と築かれた縄文遺跡に驚愕しましたが、お二方のHPは、まさにこの感動を市民の目からずっと前から発信し続けていらしたのですね。
そして、これらの遺跡から学び、保存し伝える運動のプロモーターでもいらしたこともあらためて知りました。
「考古学者さん」や教委の職員だけで遺跡や文化財が守れるわけでもなく、また高いコストをかけて守れたとしても活用しなければ宝の持ち腐れ!なのですよね。

今回の日本考古学協会の「花輪貝塚の保存に関する要望書」と、地理的な把握が一目瞭然の「空撮 加曽利・花輪貝塚」が付いたあるけ〜さんの「花輪貝塚(加曽利町)」のページをぜひでもご覧ください。
http://chiba.fc2web.com/kasori/kasori_hanawa01.html

またこの活動が、考古学研究の本格的HP「園生貝塚研究会 on Web.」の学術活動に裏付けられていることも重要だと思いました。
http://members.at.infoseek.co.jp/kaizuka/index.html

貝塚のど真ん中に住んでおられる方々と、日々顔を合わせるような生活の中で、保存を説くのはたいへんでしょうが、あせらず頑張ってください。

話は変わりますが、昨晩は、小林青樹先生の「縄文から弥生への移行−渡来文化に対する縄文人の適応過程−」という講演をお聴きしてきました。
「渡来人=大陸に起源の稲作文化⇒日本国内での弥生文化の急速な普及」というこれまでの一般的な見方をくつがえすお話で、縄文人の渡来文化に対する適応過程を、土器や墓制などから丹念に追い、縄文文化の弥生文化への影響は想像以上に強かったことを証明してくださいました。
考古学協会の赤坂憲雄先生のお話にも呼応する説で、目の覚めるような感動を受けました。
このような機会を与えてくださったシルクロードの会幹事様にも感謝です。




1424. Re: 厚岸はようやくサクラが満開です さわらびT  2004/05/25 (火) 20:26
開田様

お久しぶりです。4月にはゆっくりお話ができたことをうれしく思っています。早いもので、あれから、もう1ヶ月半経ってるんですね。

> 厚岸では、今がサクラの満開です。遅い春が来ました。

そんなに季節が違うのですね。東京は、なんだか天候が不順で、急に寒くなったかと思うと、夏の日差しになったりで、体調を狂わされています。

今は気持ちにゆとりがなく、自然に親しんでいるとはいえないものですから、開田さんからのお便りにほっとさせられます。機会があればご訪問したいと思っています。




1423. 厚岸はようやくサクラが満開です 開田 誠 [URL]  2004/05/25 (火) 10:31
 厚岸では、今がサクラの満開です。遅い春が来ました。

 父母の墓がある東京高尾山に、農林省(今は組織が違うかも)の林業研究所があり、そこには全国からたくさんのサクラが集められています。二人の命日が4月初と6月で、そこの花が咲く時とはずれている墓参ばかりで、前を通りすぎながら園内に入ったことがなく30数年がたってしまいました。
 先だって、4月の下旬に出向いた折はおそらくちょうど咲いている頃だったのですが時間がなく、また今度とあきらめました。息子を訪ねた三陸ではちょうど盛りで、東京都心は散り始めていました。

 ソメイヨシノ以外のサトザクラのあれこれを知りたいと思ってきました。春の旅先では、各地のサクラを知る機会でもあります。
 昨年、松前を訪ねた時にはお城の庭園にたくさんの種類があり、それぞれに名札があったにもかかわらず、今ひとつわかりませんでした。

 厚岸の家の近くにある子野日公園には次のようなサクラがあるといいます。だが、見てもわからない。わかるようになったら、おもしろいかもしれません。
 オオヤマザクラ、カンザン、クシロヤエ、タイザンフクン、ナデン、タカネザクラ、ミヤマザクラ、アマヤドリ、オオシマザクラ、チシマザクラ、ウバザクラ、そしてアッケシザクラ(新種らしい。義父の庭にあってめずらしいものだと、寄付をせがまれて、今そこにある。最近になって専門家が新種だと言っているのです。チシマザクラとオオヤマザクラの交配によるものだという)。

 しかし、庭には、数日前サクランボを植えました。佐藤錦とナポレオンという2種4本。異種を2つ以上を植えないと実がならないのだと初めて知らされて2種にしました。北海道では旭川、網走の方でもサクランボを作っていると聞いていますので、この地でもなるかもしれません。

 さらに、先日みかんまでを買ってきてしまいました。みかんは当地では冬越しができないでしょう。わかっています。部屋のストーブのそばであればどうだろうか。氷点下10度以下になる外では枯れるに違いありません。なのに、買ってきてしまったのは、アゲハを誘うためでした! 霧多布では、キハダが多いので、ミヤマカラスアゲハが多くやって来て、わたしの目を楽しませて来ました。
 そうだ?ニンジンも蝶を呼ぶにはよいかもしれない。花を咲かせてみよう。

 


 
         






1422. ワイワイグッチ 「千葉貝塚」など [URL]  2004/05/24 (月) 01:14
「千葉貝塚」が壊された歴史には市道・都賀-宮崎線の敷設にあります。この道路は用水を印旛沼から臨海工業地帯に引くために敷設されたものです(交通の便の改善ではありません)。草刈場貝塚、台門貝塚がこの道路のおかげで一部分が破壊され、全体が価値がないと認識されているのではないかと思います。だから、住宅が貝層の上に建てられています。台門貝塚の主要な部分は京葉道路が建設される際に、代替地として宅地化され、住民が転居していった場所です。
「考古学者さんしっかりしてくださいよ」というのが、小輩の感じです。今日もけやき会館3Fで園生貝塚の展示発表がありましたが、調査報告は出されているが未検査の出土品のコンテナが山のようにあるとのこと。金属や有機の微量分析をやれるようにしてくださいよ、と話してきました。分析をもっと積極的にやろうとする人が出てきたら、いろんなことがスピーディーにわかるはず、と外界の人間は言えるが、中の人間はいろいろ難しいかもしれません。
「駐車場」:昨年2月荒屋敷貝塚の貝層の上にあった住宅が除去されました。その家にのぼる道にコーンやハードルを立てて進入させないように試みたのですが、それらを何処かに捨てられたようです。市長/文化課宛に出した文書はどうなったことやら。なにせ、この荒屋敷貝塚、貝塚の中央には芝生が生えています。芝を刈る人がいるんです。そして、パターの練習をしています。うーん。




1421. 考古学協会、研究発表会から さわらびT  2004/05/23 (日) 23:03
「千葉県稲荷山(とうかやま)遺跡出土の七星剣をめぐる諸問題」は聞かせていただきました。発表者は筑波大学の日高慎先生。

七星剣というのは、ご承知のように北斗七星が刻み込まれた刀なのですが、現存する七星剣としては四天王寺(鉄刀)、法隆寺(銅刀)、正倉院呉竹鞘杖刀(鉄刀)、長野県小海町三寅剣(鉄刀)、山形県上杉神社禡祭剣(鉄剣)があるそうです。但しこれらはすべて伝製品であって、今回の発表のそれは発掘によるものですから製作年代を検討できる資料であるということに価値があるというわけです。日高先生は同地出土の、レリーフ状の十一面観音立像や佐原市関峰3号横穴出土金銅製押出三尊像を提示されそうした世界観との関連を推察されておられました。『延喜式』では象嵌された刀を持つのは五位以上とのこと、持ち主はいかなる人物なのでしょうか・・・

なお銀象嵌だったことが判明したそうです。同様事例がないかとも問いかけてもおられました。




1420. 花輪貝塚保存要請のニュースのご紹介ありがとうございます あるけ〜  2004/05/23 (日) 22:55
さわらびさん、こんばんわ
注目情報のご紹介ありがとうございます。

>壮大な規模の貴重な千葉貝塚が開発の危機にさらされている現状を、
>示したパワーポイントが印象的でした。
>「保存をまちづくりの一環」という視点を行政と市民で共有してい
>くことの必要性を感じています。
まったくです。
行政も市民も問題の存在をまず認めて、真摯に取り組むべきときがき
ています。




1419. 考古学協会2日目の研究発表会 さわらびY(ゆみ)  2004/05/23 (日) 19:13
考古学協会2日目の研究発表会、今日も千葉大へ「お勉強」に行ってきました。
午前中の「千葉県稲荷山遺跡出土の七星剣をめぐる諸問題」という演題も聴きたかったのですが、午前中所用があり、午後の「千葉市の貝塚群」から、主に縄文と古墳時代の発表を聴きました。(七星剣については、Tに書いてもらいましょう)

広い構内のちょっと距離のある4会場をみんなあっちこっちを移動中、近況など親しく声をかけてくださるおなじみの先生方も。

「千葉市の貝塚群」は、武石の三代内遺跡でちょっと興味を持って発表者のHP
http://members.at.infoseek.co.jp/kaizuka/style.html)など見ていたので、短い時間でしたが、概観がつかめました。
発表の最後に、壮大な規模の貴重な千葉貝塚が開発の危機(国道51号バイパス・宅造・駐車場・市道拡幅など)にさらされている現状を、示したパワーポイントが印象的でした。
帰宅して、「千葉市の遺跡を歩く会」のHPを開くと「注目情報」に「日本考古学協会が文化庁、千葉県、千葉市などに花輪貝塚の保存を要請」という速報記事がUPしていました。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1467/index.html
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/chiba/news003.htm

「保存をまちづくりの一環」という視点を行政と市民で共有していくことの必要性を感じています。

古墳と馬具については、どれも面白くてそれぞれの時間が少ないのがもったいない!発表でした。
当HPでおせわになった桃崎先生も、ご就任先の福岡大学からお元気で駆けつけておられ、ご活躍の様子でした。




1418. 日本考古学協会講演会の感想 さわらびT  2004/05/22 (土) 23:32
日本考古学協会総会、去年も出かけましたが、今年は近いから楽です。去年は弥生の暦年代問題で、大騒ぎでした。

吉村先生の白石説に対するお考えはよく拝聴していましたが、考古学協会にての発表ですので、多少緊張して聞かせていただきました。

吉村先生の講演で述べられたのですが、ヤマト王権の首長ないし天皇が居住する場所=王宮が政治的中枢であるとする吉村説とは対決するかのように、白石太一郎先生は新著の「考古学と古代史の間」(筑摩書房)で、次のように書いておられます。

「何よりも古墳というものが、その政治勢力の本拠地に造られるのが原則であったと考えるからです。そう考えなければ古墳を資料とする地域史研究は成り立たなくなります。」(p114)

白石先生って意外とガンコな先生で、私などは稲荷山古墳の暦年代をめぐる坂本説に分があると思うのですが、全く問題にされませんでした。政治センター=王宮にありという吉村説の方が穏当な考え方だと思うのですが白石先生は、まあお考えを変えないでしょうね。




1417. 5/22日本考古学協会講演会、面白そう さわらびY(ゆみ)  2004/05/22 (土) 00:00
あした5/22千葉大学での日本考古学協会講演会 面白そうですね

会場:千葉大学けやき会館1階大ホール
13時30分 開会

「歴史民俗学は可能か?−北のボカシの地帯から列島史を再考する−」東北芸術工科大学東北文化研究センター所長 赤坂憲雄氏

「ヤマト王権とアヅマ・ヒナ」明治大学文学部教授 吉村武彦氏

楽しみに聞きに行きたいと思っています。

ところで、下総の旗本間宮氏をめぐるお話の続きは、緻密な内容になってきましたので、場所を某HPのBBSに移して第2ラウンド再開中です。
非公開ではないようですので、ご興味にある方は、メールくだされば、URLをご紹介します。




1416. 『藤氏家伝』の編纂目的 さわらびT  2004/05/21 (金) 23:44
『新撰姓氏録を読む』勉強会なんですが、当分『藤氏家伝』がテキストになります。

その『藤氏家伝』の編纂目的について、加藤先生も前回、勉強会で紹介方々お話されましたが、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉著『藤氏家伝 注釈と研究』に佐藤先生が次のように書いています。だから同じ藤原氏といっても正統を争ってるわけですね。

「仲麻呂が鎌足・不比等・武智麻呂ら祖先の顕彰を意図して『家伝』の諸伝の編纂に当たったことは、異論のないところであろう。その際、『家伝』は「藤氏家伝」とも称されるが、同じ藤原氏といっても、不比等四子の南家武智麻呂・北家房前・式家宇合・京家麻呂の四家の各系譜すべてを見通した藤原氏全体の系譜を重んじたのではなく、鎌足・不比等から武智麻呂に至る「南家」、さらには仲麻呂の「恵美家」につながる系譜を重視して構成されたと考えた方がよい。仲麻呂は、自らが得た「恵美」姓にもとづいて「恵美家印」の使用を認められていることにみられるように、恵美家としての「家」意識を強くもっていたことを想起すべきだろう。」

「『家伝』の諸伝は仲麻呂がもった中国文化への憧憬や歴史編纂への意欲を背景としつつ、功臣が連続して仲麻呂にまで続くという家系の主張として編纂されたという史料的性格をもつものととらえられよう。(佐藤信「『家伝』と仲麻呂」)

蘇我氏もそうなんですが、自らの正統性を常に問うわけですね。稲目の代に歴史上登場したと思われる蘇我氏ですが、これは異論もあるところですが、加藤先生によれば、石川宿禰から満智・韓子・高麗までの4代の人物は実在性に乏しく、本宗家滅亡後つまり天武朝以降に石川氏の手によって創作され系譜に加えられたものであるという理解です。そうやって系譜って作られるんですね。

あれっ?なぜかまた、蘇我氏になっちゃいました。




1414. Re^5: 磐井の乱、継体の死 さわらびT  2004/05/20 (木) 23:54
オホヤシマ様

おっしゃるとおりで、実は、私が掲示板に書いたのは加藤先生の、次の文章を念頭に置いていました。結論部分だけ引用します。

「大和の在地型土豪が政権中枢に加わるようになる時期は、おそらく継体朝末年であろう。永い雌伏の間に徐々に実力を蓄え、勢力基盤を築いたことが、彼らの台頭の直接の原因とみられるが、その一方で、事実上の新王朝ともいうべき継体王朝の成立と、それに連動する内政・外交上の混乱が、彼らに政治の檜舞台に躍り出る機会を与えたと見ることができる。すなわち磐井の反乱、新羅による加耶の金官国・喙己呑・卓淳侵攻と近江毛野の朝鮮派兵の失敗、王位継承(継体後の)をめぐる紛糾などが、在地土豪の政治的発言力を高める結果につながったとみられるのである。」(『大和の豪族と渡来人』194-195ページ)

蘇我氏についてですが、門脇先生の渡来人説はかなり強烈な印象のある説でしたから、それに批判的な加藤説を理解するためには、時代背景をじっくり検討していきたいところです。

継体の登場のことなんですが、武寧王との関連で、私は隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡銘文の「孚弟王」=継体とみる山尾説に心酔してるんですが、しかも同じ銘文中の「斯麻」=武寧王というのでワクワクしたものですが、だけど、癸未年=443年説の方が適合性があるとなると話は違ってきますけれど。




1413. Re^4: 磐井の乱、継体の死 オホヤシマ  2004/05/20 (木) 12:36
継体の大和進出に功績があったことが蘇我氏台頭と関係があるという水谷千秋説(『謎の大王継体天皇』)も時代背景を考える上でも面白い指摘だと思っています。
*加藤先生も、蘇我氏が力をつけたのは継体朝との見解を示されていますね。




1412. 『新撰姓氏録を読む』第四期のご案内 さわらびT  2004/05/19 (水) 23:42
加藤先生の『新撰姓氏録を読む』は、第四期目に入ることになりました。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/siminbenkyoukai.htm

勉強会を始めて9ヶ月、加藤先生にはお忙しい中、充実した内容のレジュメをもとに、毎回2時間たっぷりお話いただいております。ついていくだけで精一杯なのですが、掲示板で時おり報告してますが書くことで、多少の復習をさせていただいてます。

前回までは、中臣氏についてお話いただきました。出自は卜部ではないかと推測されるとのことですが、限られた史料の中での論証はなかなか難しいようです。昨日から、いよいよ藤原氏のお話に入りました。テキストは『藤氏家伝上』鎌足伝です。大化改新あたりまでを検討していただく予定です。タイトルの『新撰姓氏録』からは離れますが、古代史料を読む勉強会とご理解ください。

新しいメンバーにも加わっていただきました。これからも充実した時間が続きます。ご参加希望の方はお問い合わせください。




1411. Re^3: 磐井の乱、継体の死 さわらびT  2004/05/19 (水) 23:33
> *あまり、大伴・物部の力を課題評価すると、加藤先生がつぶそうとしている畿内政権論になりますが、中央豪族勢力と地方勢力との争いはあったのだと思います。

「畿内政権論」は難しくなりますのでとりあえずパスですが、仁藤敦史先生の「律令国家論の現状と課題」(『古代王権と官僚制』臨川書店、所収)が刺激的だったことを思い出しました。

大和の土豪たちが結集して大伴・物部を退けていく過程に登場してきたのが蘇我氏ですね。この蘇我氏の登場は、古代史が彩りをまして面白くなってくるところだと思います。蘇我氏は、加藤先生のご専門でもありますし、オホヤシマさんのご指摘とは関心がずれてるかも知れませんが、興味深くなります。継体の大和進出に功績があったことが蘇我氏台頭と関係があるという水谷千秋説(『謎の大王継体天皇』)も時代背景を考える上でも面白い指摘だと思っています。

蘇我氏は、他の氏族と異なり本宗家が、直系継承するというのが特徴的で大和の伝統的な豪族のあり方とは違うパターンが多くみられるように思います。先日、馬子の人日儀礼(平林説)についても触れましたが、蘇我氏の先駆性の表れと見ていいんじゃないでしょうか。時代を作っています。もちろん、こうした流動化は朝鮮半島ならびに中国の動きとも関連付けていかないと本当のところはわからないですよね。




1410. Re^4:間宮正秀と間宮家系譜&士信のこと  さわらびY(ゆみ)  2004/05/19 (水) 00:37
大井戸と鹿渡の所領は【2】天正十九年知行書立.と、【3】寛永二年知行地朱印状にでてきますね。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/kmamiya0/sub7.html

一瞬、私も高須は高津かと早合点しそうになりましたが・・・
彦次郎家(忠次の系統?)に賜った所領で、庄五郎家ではないようですが、先日咳神様探しでドライブしたところでちょっと興味深いです。

さらに、家伝と官製の正史との違いと謎にいどんだ士信とは・・(うーん、系図はむずかしい・・・)




1409. Re^3:間宮正秀と間宮家系譜&士信のこと  あるけ〜  2004/05/19 (水) 00:06
>「《6》 間宮一族 諸家関係 略系図」
>にある庄五郎家の正重−正秀だと思います。
ほんとだ。ありますね。見落としてました。
よくわからなかったのがすっきりしました。

>そして正秀二百回忌に「高秀霊神」と贈って神祇道で祭ったのは、
>「主要人物」のページででてくる「士信(ことのぶ)」その人です。
>士信自身は高津観音寺に葬るよう遺言し、壮大な葬儀が行われ、
>その史料が寺に残されているようです。
そういうことでしたか。

>郷土史の小さな発見の点が、ネットを通じて、線としてつながり
まったくです。
神奈川県の歴史−蘭学者杉田玄白の出自−間宮林蔵の出自−鹿渡城城主の伝承−大井戸・谷当の領主等々と、
小生は、なぜか間宮一族に出会うことがすくなくなかったので、
ちょっと感動してます。
よくわからなかったのもつながってかなりすっきりしました
(彦次郎の知行地の高須というのがどこかまだわからないのですが
高須=高津じゃないですよね)。
こちらこそ、新たな事実がわかりましたら、
教えてください。

ではまた




1408. Re^2:Re: 間宮正秀と間宮家系譜&士信のこと さわらびY(ゆみ)  2004/05/18 (火) 19:53
> 間宮さんのWEBページがあります。
> http://www006.upp.so-net.ne.jp/kmamiya0/

とても重要なサイトをご紹介くださりありがとう。

> 正秀がこの中にのっている系図のどれに・・・

「《6》 間宮一族 諸家関係 略系図」
http://www006.upp.so-net.ne.jp/kmamiya0/sub3k6.html
にある庄五郎家の正重−正秀だと思います。
私もこの系譜に接して、正秀にはこんな背景があったのだと、わくわくしてきました。

そして正秀二百回忌に「高秀霊神」と贈って神祇道で祭ったのは、「主要人物」のページででてくる「士信(ことのぶ)」その人です。士信は「新編武蔵風土記稿」の編纂頭取だったという話もこれでよくわかりました。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/kmamiya0/sub3ss.html

間宮家歴代の墓所は谷中の長明寺(1403の長妙寺は変換ミス)ですが、士信自身は高津観音寺に葬るよう遺言し、壮大な葬儀が行われ、その史料が寺に残されているようです。

郷土史の小さな発見の点が、ネットを通じて、線としてつながり、とても感激しています。
ありがとうございました。また教えてください。



1407. Re^2: 磐井の乱、継体の死 オホヤシマ  2004/05/18 (火) 12:51
> 意外なんですが、加藤先生は雄略の時代の軍事専制王権が継体の時代にも引き継がれたとお考えですが(佐伯有清編『雄略天皇とその時代』所収の「応神王朝の衰亡」)、私はオホヤシマさんのおっしゃるように、安定政権とは思えない対立があったように思うのです。雄略の時代の筑紫の勢力が糾合され、大和の継体擁立勢力と戦ったとすれば、やはり一種の内戦ですよね。
*あまり、大伴・物部の力を課題評価すると、加藤先生がつぶそうとしている畿内政権論になりますが、中央豪族勢力と地方勢力との争いはあったのだと思います。



1406. Re:Re: 間宮正秀と間宮家の知行地 あるけ〜  2004/05/18 (火) 00:56
早速の、ご丁寧なレス、ありがとうございます。
間宮さんのWEBページがあります。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/kmamiya0/
正秀がこの中にのっている系図のどれにあたるのか、あたらないのか、
まだよくわからないのですが、教えていただいた情報と照らし合わせて
考えてみたいと思います。

とりあえず




1403. Re: 間宮正秀と間宮家の知行地 さわらびY(ゆみ)  2004/05/17 (月) 23:53
>間宮家というとどの間宮家でしょうか?
>間宮正秀という人は初耳ですが、元北条家の家臣で、徳川家の旗本になって、大井戸(千葉市)や鹿渡(四街道)に所領を持っていたあの間宮家

元和元年大阪夏の陣で戦死した間宮正秀の首を、知行地である高津村の従卒の農民が持ち帰って埋葬し、その二百回忌に「高秀霊神」と贈って神祇道で祭ったとされ、観音寺横のその祠の址には「高秀霊神」の石碑があります。

この高津村を支配した間宮氏は、北条氏に仕えたが、その滅亡後家康に仕え、正秀の父正重のとき、武蔵国橘郡のうちに100石、下総国千葉郡のうちに200石の知行地を与えられたといわれます。
(『八千代市の歴史』から「間宮氏と高秀霊神」から)

「下総国千葉郡のうちに200石」という記述を高津だけで200石かと思っていたのですが、大井戸(千葉市)や鹿渡(四街道)の所領を合わせて200石なのでしょうか?

平凡社の地名辞典や千葉市史、四街道市史を見ればわかるのでしょうが、手元にないので、休みの日に図書館で調べてみたいと思います。
千葉郡内に他に所領があったという情報は、貴重です。
ありがとうございました。




1401. 三代王神社貝殻&けみ川道のルート&間宮正秀? あるけ〜 [URL]  2004/05/16 (日) 23:19
こんばんわ
>三代内貝塚の貝殻
拝見しました(^^)
マガキもありましたね。

>「千葉郡誌」(大正15年)の記述を見ると、県道大和田新田−幕張線
>(「けみ川道」)は、「坂道多く、車馬の交通に利便ならざるも五ヵ年
>(大正11年より?)計画で改良中」とありますから、そのころに整備さ
> れたのではないかしら。
そうでしたか。

>元和元年大阪夏の陣で戦死した間宮正秀以下、間宮旗本家累代の
>位牌の記録調査をしました。
間宮家というとどの間宮家でしょうか?
間宮正秀という人は初耳ですが、元北条家の家臣で、
徳川家の旗本になって、
大井戸(千葉市)や鹿渡(四街道)に所領を持っていたあの間宮家?

>そちらの歩く会例会は、雨で順延とは残念でしたね。
はい。順延の連絡ミスがあり、いささか慌てました。
では来週、千葉大で。