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No.801-No.900 2003/6/142003/7/26
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・オーバーフローで消えてしまった発言を収納しました。
・書き込み、修正、削除はできません。修正・削除は、管理人にお申し付けください。
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900. Re2: 壬生氏と多氏の関係 HON  2003/07/26 (土) 07:55
まさみさん

>「建借間命」の後裔に当り、壬生の姓を賜った「「壬生」の姓については「建借間命」の後裔に当り、壬生の姓を賜った」とあるようです。
わたしには何故「建借間命」の後裔だと壬生になるのかさっぱりわからず困っています。

「建借間命」の後裔に当り、壬生の姓を賜った、というのは説明としては逆順ですね。
風土記行方郡の総説に「那珂国造壬生直」とあり、同郡麻生里に「建借間命すなわち、こは那珂国造が初祖」とあることから、逆に建借間命は壬生氏であろうと推測されたものです。しかし、那珂国造壬生直の先祖だから建借間命も壬生氏である、ということにはなりません。国造本紀の仲国造建借馬命はは神八井耳命、つまり多氏の先祖の子孫とされています。

ここから、常陸の多氏は建借間命しかおらず、一族としての多氏はいなかった、という結論になります。




899. Re: こんにちは まさみ  2003/07/26 (土) 00:52
はにわ処様、お返事ありがとうございます。

> 毎年6月の下旬から8月の上旬なので機会がありましたらぜひお越しくださいませ(^−^)

妹が近くの加須市におりますので、8月には行く予定です。
それまで咲いていてくれるといいのですが。。。
「朝露に花開く」ああ、いいですねぇ。(^_^)




898. Re: 壬生氏と多氏の関係 まさみ  2003/07/26 (土) 00:44
HONさま、こんばんは。
鋭すぎる突っ込みに辟易しております。
教えていただいたへージですがとても内容が濃く、かつ膨大ですね。いま夏休みで子供たちがうるさくてじっくり読むことができません。よく読みませんと理解できそうにありませんので、少しお時間をください。(楽しみです(^_^))ありがとうございます。

> 問題は「仲国造」ですが、大臣の黒坂命は神武記に神八井命の子孫として意富臣・綏靖紀に多臣とあり、意富臣は仲国造と同祖だからという論法だと思います。

はいその通りです。

> しかし「那珂氏」というのは存在せず、「仲国」あるいは「那珂国」という地名ですから「壬生氏」は「那珂国造壬生直」と呼ばれています。「那珂国造」に壬生直の以前に黒坂命・建借間命が任じられていて、国造本紀にも建借馬命が仲国造とあり、神八井耳命の子孫とされています。

「那珂氏」の件・・・あれれ、おかしいなぁ。時代が違うのでしょうか???

> さて、「仲国造」は皆、多氏と同祖なのに「壬生氏」なのでしょう。つまりここから「壬生氏=大生氏」という説が出てきた、とわたしは見ています。

「「壬生」の姓については「建借間命」の後裔に当り、壬生の姓を賜った」とあるようです。
わたしには何故「建借間命」の後裔だと壬生になるのかさっぱりわからず困っています。
また、「壬生」の「壬」という字は「おおきい」という意味があるので「壬生=大生」というのもありかな、と思います。(こじつけですが。。。)





897. こんにちは はにわ処 [URL]  2003/07/25 (金) 11:12
まさみ様

はじめまして(^−^)
古代蓮ですが今が丁度見頃です
ですが8月の上旬ぐらいまでですので急いで見に来てくださいね〈笑い〉それも朝方が素晴らしいです 蓮花は一日ごとに花が開いて閉じてと咲きますので朝露に花開く早朝が一番綺麗ですね〜 ただ皆さんそれを目当てにいっらしゃいますので相当混雑しているみたいです 写真を撮る方は朝の3時ごろから場所取りに来られるみたいですよ
毎年6月の下旬から8月の上旬なので機会がありましたらぜひお越しくださいませ(^−^)




895. Re^4: 大生部と壬生 さわらびT  2003/07/24 (木) 23:15
HON様

ご見解拝読いたしました。

> これはまったく推測に過ぎないと思います。例えば、『古事記』撰者とされる太安麻呂の多氏系を引く一族に「大」朝臣というのがいます。説明のような「大きな氏族のなかでもっとも有力な一族の称する美称」だとしたら「大多」か「大太」になるはずです。

もっともなご意見ですね。勉強になります。ただし、私自身の見解ではありませんし、機会があれば川尻先生にお考えをうかがってみます。

ちなみに川尻先生が別のテーマで講演された要旨がWEB上で公開されているのでご参考まで。

http://www.pref.yamanashi.jp/kyouiku/hakubutsukan/keii_kouza2-1f.html

この講演要旨にこんな文章もあります。

「なぜ推古朝にこのように部民が多く設置されたのか、それは物部の没落に関係すると考えるのが妥当だと思います。物部氏は蘇我氏に討ち滅ぼされるわけですが、東国には膨大な物部氏の部民がいたらしいですが、物部氏が滅ぼされると多くのものが「壬生」に変わっていったと考えられます。このような過程で、推古朝に新しいタイプの部民が出てくるのではないかと考えるわけであります。」

> つまり大中臣は功績あって賜姓したものです。もしも「大」が「有力な一族の美称」なら、「大藤原」なんていうのが当然あっていいはずです。例にあげた皇極紀三年の「大生部」は、巫覡と組んで妖言を言い触らした不埒な男で、懲罰をくらってますね。賜姓どころではない。

例のアゲハチョウの幼虫をまつることを勧めた「大生部多」のエピソードですね。これを秦河勝が打ち懲らしたのは有名な話ですが、養蚕技術は秦氏の専売特許ということを示す意味があるみたいですね。これはまた興味深いので、先日の加藤謙吉先生の講演レジュメ(髻華の会6月講演会)からの引用をします。

「大生部=推古15年(607)年に設置された壬生部(生部)[壬生部は皇子・皇女の資養に当てるため設けられた部]の一種、「オオミブベ」から「オオフベ」に転嫁。大生部は壬生部の中でも、特に秦氏一族が管理にあずかった上宮王家の壬生部の「上宮(かみつみのみぶ)」さすと思われる。
すなわち、秦河勝と大生部多は上下の支配関係で結ばれる。
この事件の真相は、大生部多が秦氏の養蚕振興を換骨奪胎し、東国で新しい教えを起こしたことに対して、その波及による人心の動揺を恐れた中央政権の側が、鎮圧のために河勝を派遣したものと理解できる。」




894. 壬生氏と多氏の関係 HON  2003/07/24 (木) 21:49
まさみさん
>「常陸国鹿島の中臣氏1-14」はよくよく見たのですがみつかりませんでした。

たいへん失礼しました。せっかく見ていただいたのに。
中臣氏に関する一連のもの立て続けに書いたので、本文も確認せずに間違ったURLを思い込みで貼ってしまいました。

こちらへ貼り付けるのは一向にかまわないのですが、ちょっと長くてこちらの掲示板を占領してしまいそうです。今度は本文確認の上、間違いないURLを貼っておきますので、ご面倒でも宜しくお願いします。
ちょっとご案内しますと、
水の神の系譜v1(1-4)発言NO;332-341
水の神の系譜v2(1-5)発言NO;359-363がありまして、
v2の3-4水辺天女の末の3-4(発言NO;361,362)に大井神社と多氏が出てきます。
http://hon.web.infoseek.co.jp/krog/krog13.htm#361

「大井神社」は知りませんでしたが、多氏の菩提寺とは驚きました。ま、あっても不思議はないですが、何時の時代からのものかですね。
問題は「仲国造」ですが、大臣の黒坂命は神武記に神八井命の子孫として意富臣・綏靖紀に多臣とあり、意富臣は仲国造と同祖だからという論法だと思います。

しかし「那珂氏」というのは存在せず、「仲国」あるいは「那珂国」という地名ですから「壬生氏」は「那珂国造壬生直」と呼ばれています。「那珂国造」に壬生直の以前に黒坂命・建借間命が任じられていて、国造本紀にも建借馬命が仲国造とあり、神八井耳命の子孫とされています。

さて、「仲国造」は皆、多氏と同祖なのに「壬生氏」なのでしょう。つまりここから「壬生氏=大生氏」という説が出てきた、とわたしは見ています。

前回、わたしは多氏は常陸周辺にいなかったと書きました。「壬生氏=大生氏」説が否定されれば多氏は存在しません。

では、「仲国造」の祖神八井耳命は何処へいってしまうのか。八井耳命はは「那珂国造壬生直」の先祖に違いないとしても、壬生氏の女が受け入れた男の誰かが神八井耳命を祖とする多氏の男だったのです。ですから本来、壬生氏はそのときから「大壬生」あるいは「多壬生」の複姓のはずだったのですが、上の「多」は何処かで忘れたのです。ですから、常陸周辺に一族としての「多氏」は存在しなかったということになります。そして壬生氏は自らの先祖もまた忘れてしまつたのです。




893. Re: 設楽氏について さわらびY(ゆみ)  2003/07/24 (木) 21:20
「千葉氏の一族」の柴田さま

たいへん参考にさせていただいているりっぱなHPの管理人さんにお出でいただきありがとうございます。

>  梵鐘銘にある「檀那設楽助太郎大伴継長」のことで「あっ」と思ったことですが、実は室町時代後期の千葉氏の有力直臣層にも「設楽」という一族があり、本佐倉城下に住していました。もしかしたら、この本土寺に鐘を納めるのに協力した上総設楽氏と千葉氏の直臣とは同族だったのかもしれないですね。

「流転の梵鐘を追って」では、本題から外れそうなので、簡単にしか触れませんでしたが、下記のページに参考文献を載せてあります。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/rissyusannkoubunnken.htm
湯山学「鎌倉府奉公衆の設楽氏」2002『佐倉市史研究』第15号佐倉市
八重尾等「志津の歴史散歩その二」1997『佐倉市史研究』第10号佐倉市
湯山氏の論文は、鎌倉府奉公衆の設楽氏についての史料を丹念に載せていて、その中に本土寺過去帳の設楽氏一族について、上総山口の戒名と並んで「蓮勝(作倉)」の註があることを載せています。
八重尾氏の「歴史散歩」では青菅の設楽氏について、「設楽氏は室町時代からの旧家で徳川初期に地頭となった川口氏とは領主と名主の関係にあった」のみ書かれています。

湯山氏の論文の設楽氏と、八重尾氏の文章の設楽氏は直接結びつかないのですが、川口氏の消息の載っている次のHPでは青菅の設楽家について「松戸の本土寺にある梵鐘の寄進者、設楽助太郎が当家の祖であると云われ、設楽氏は千葉氏と同族である」と述べています。
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/shin341/sub4.htm

この3つを結びつけると、本土寺過去帳の「作倉」は「佐倉」ではないか、また青菅にある10軒ほどの設楽姓の旧家はその子孫との伝承は、納得できるように思います。




892. Re: 大生神社 まさみ  2003/07/24 (木) 16:17
HON様、いつもありがとうございます。
「常陸国鹿島の中臣氏1-14」はよくよく見たのですがみつかりませんでした。
こちらへ貼り付けていただけるとうれしいのですが・・・。
(どんくさくてすみません)さわらびさま、ご迷惑をおかけいたします。
ですので、以下HON様がいわれることとダブってくるかもしれません。
ご了承くださいませ。

大生神社はHON様のいわれる社です。
祭神はタケミカズチ・・・そうですね。
それにはわたしも疑問を持ちましていろいろ調べたのですが(以下ご存知とも思いますのでできるだけ簡略に書きます)
水戸市のほうに「大井神社」というのがありまして、もとタケカシマノミコトを祀っていたのがタケミカヅチと名まえを混同し「香取大明神」と称したが、寛政年間に「大井神社」に戻したということです。
(わたしとしては多氏と中臣氏のパワーバランスの問題と思っていますが、)このようなことが大生神社でもあったのではないか
というのが、一説。

常陸に多氏が居住していたかどうかですが、大生原には多氏代々の菩提寺の後があり、また先の「大井神社」のある那珂郡
の国司「仲国司」は神八井耳命の後裔とされ、多氏との関連があるように思われます。(一般的にもそういわれるようですね)
尚、「仲国司」は「那珂氏」→「壬生氏」→「宇治部氏」となっていますが全て改称によるものらしくずっと多氏系の人々が領治
していたということです。(このようなことで、「多壬生部」なのでは・・・???)
今調べている途中なのですが、わからないことだらけなので、近いうちに茨城に行く予定です。
また、いろいろとご教示ください。




891. 設楽氏について 千葉氏の一族  2003/07/24 (木) 10:24
ゆみさん、こんにちは!
「千葉氏の一族」の柴田です。いつも興味深く拝見させていただいております(^^)

 梵鐘銘にある「檀那設楽助太郎大伴継長」のことで「あっ」と思ったことですが、実は室町時代後期の千葉氏の有力直臣層にも「設楽」という一族があり、本佐倉城下に住していました。もしかしたら、この本土寺に鐘を納めるのに協力した上総設楽氏と千葉氏の直臣とは同族だったのかもしれないですね。




890. Re: さきたまの風 さわらびY(ゆみ)  2003/07/24 (木) 00:39
HONさま、まさみさま
大生部丁寧な論説をありがとうございます。

今晩は、職場の暑気払いで遅く帰宅しました。
(流しそうめんをしたのだけど、いったい夏はどこへ行ったのでしょう。
「しゃこちゃんの部屋」の沖縄の青空がうらやましい!)

Tもさっき帰ってきて、「HON様、まさみ様、はにわ処によろしく」と言って、さっさと寝ちゃったみたい。
というわけで、古代氏族については、ちょっとお勉強時間をください。

はにわ処様
さきたま古墳群は公園の中だけでなく、周囲にもすばらしいところがいっぱいあるのですね。
八幡山古墳と地蔵塚は、車で回ってきました。
八幡山古墳の石室は、予想していなかっただけに、感動でした。
時間が遅く、石室は開いていなかったですが、ちょうど夕晴れでよい写真が撮れました。
(そういえば「古墳ムーディース」というHPのTOPで見たことがありましたね)

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/hatimannyamakohunn.jpg

夕方の地蔵塚古墳は、薮蚊もいっぱい。虫除けスプレーがいります
今度は、ぜひ石室内部を見たいですね。

では、おやすみなさい。




889. 大生神社 HON  2003/07/24 (木) 00:10
まさみさん、こんばんわ。大生神社の紹介ありがとうございます。

>常陸国にあります大生神社は、社伝によりますと大和の大生邑にある多神社から遷座されたとされる意富(多・大・飫富などとも記す)一族の奉斎社だそうです。

常陸国の大生神社が何処を指すのか分かりませんが、一つだけ知ってます。行った事ありませんが、梅原猛著『神々の流竄』(集英社文庫)に取り上げられています。周囲を古墳が囲んでいるそうです。ただ、祭神はタケミカズチだそうで、だとすると、まさみさんのいう大生神社とは別かもしれません。この大生神社は潮来町の北浦西岸にあります。

ところが、この辺り潮来町に合併されるまでは大生原村といわれたそうで、梅原氏は大場盤雄氏の説を引いて、『常陸風土記』の大生里にあたり、多氏のものと断定しています。
梅原氏がこの大生神社に注目したのは、鹿島神社を誰が祀ったか、という問題からでした。『常陸風土記』によると多氏・物部氏・中臣氏などの先祖が複雑にからんで、たいへん分かりずらい。梅原氏の結論は「大生=多」と見なすことによって解釈されました。

そこで、わたしは先般、中臣氏解明の一文でこの説に触れ、先の皇極紀の「大生部」の記事を引いて否定しました。わたしの考えでは、常陸に多氏は居住せず、鹿島神社は物部と中臣氏によって成ったというものですが、詳しくは読んでいただかないと説明できないくらい複雑な問題です。
常陸国鹿島の中臣氏1-14(長文です)
http://hon.web.infoseek.co.jp/krog/krog14.htm#391




888. さきたまの風 まさみ  2003/07/23 (水) 21:20
はにわ処さまはじめまして。
以前埼玉に住んでいました。さきたま古墳群には3〜4回いきました。子連れですので公園のあるさきたま古墳群は大変ありがたく、とてもひろくて気持ちのいいところだったという印象があります。(ただ、夏のやぶ蚊と冬の風の冷たさには閉口しましたが)
はにわ処さんのお店にも寄らせていただきました。
お店の中にははにわなどがたくさんあったように思います。
購入させていただいた「弥生の土笛」はお気に入りです。
とてもやさしい音を奏でるのです。曲を奏でるのにはいたりませんが、眺めるだけでも満足です。(気分は弥生びと(^_^))
古代蓮きれいですね。私も見に行きたいです。
いつごろまで咲いているのでしょうか?





887. Re: Re;Re^2: 大生部と壬生 まさみ  2003/07/23 (水) 21:00

> 「大生部」を(おおみぶべ)と読むというのは「大壬生」となり、
> (おおしみぶべ)と読むのは「多壬生」ということになるとおもいます。
> どう解釈したらいいのでしょう。

解釈のの仕方は良くわかりませんが(すみません)
常陸国にあります大生神社は、社伝によりますと大和の大生邑にある多神社から遷座されたとされる意富(多・大・飫富などとも記す)一族の奉斎社だそうです。
多神社の祭神は神武天皇、神八井耳命、 神沼河耳命、姫御神 、太安万侶のようです。
大生氏の手に祭祀が移ったのは中世のころのようです。(以上、日本歴史地名大系・「茨城県の地名」より)
常陸国の大生神社の例では、大=多が成り立ち、「大壬生」・「多壬生」と考えてもよろしいかと思われます。




886. 用こそお越しくださいました(^−^) はにわ処 [URL]  2003/07/23 (水) 10:28
遠いところわざわざご夫婦来ていただき有難うございます
<さきたま>堪能して頂けたでしょうか
TOPの古代蓮の写真も凄く綺麗ですね!
さすがの腕前羨ましいです
古代蓮はなかなか近すぎて、しかもこの時期たくさんのお客様が来てくださるので自分もまだ何回も見にいってないんですよ
本当は行田の綺麗な風景をHPで紹介できれば良いのですが腕前がいまいちで、、、
今度は八幡山古墳や地蔵塚古墳、小見真贋寺古墳などまだまだたくさん古墳がありまた忍城なども見所ですのでまた遊びに来てくださいね(^−^)




885. Re;Re^2: 大生部と壬生 HON  2003/07/23 (水) 09:27
まさみさん

「大生部」を(おおみぶべ)と読むというのは「大壬生」となり、
(おおしみぶべ)と読むのは「多壬生」ということになるとおもいます。
どう解釈したらいいのでしょう。




884. Re^3: 大生部と壬生 HON  2003/07/23 (水) 09:06
さわらびTさん
わざわざ挙げていただきまして有難うございます。ちょっとこだわるようですが、わたしの意見を書きます。

>「大生部とは、一般的には「オオフベ」と訓じられているが、「オオミブベ」と訓むべきことがすでに指摘され、ミブ部の一種と考えられている。ミブ部とは、「壬生部」「乳部」「生部」とも書かれ、『日本書紀』推古15年(607)2月庚辰条に、壬生部を定む、とあり、壬生部を設定した記事がある。

「乳部」をミブ部とは読まず、「美父ミブ」と読むことは皇極紀元年十二月の条にありあす。また「大生部」も同じ皇極紀三年七月の条に出てきて、両者は書き分けられています。

>「なお、大生部の「大」は、大中臣の「大」などと同じく、大きな氏族のなかでもっとも有力な一族の称する美称と思われる。埴生郡の大生部直は、東国のミブ部のなかでももっとも有力な氏族の一つであったことが推測される。」

これはまったく推測に過ぎないと思います。例えば、『古事記』撰者とされる太安麻呂の多氏系を引く一族に「大」朝臣というのがいます。説明のような「大きな氏族のなかでもっとも有力な一族の称する美称」だとしたら「大多」か「大太」になるはずです。それに「大」朝臣は諏訪氏ですから、多氏の中で必ずしも有力な一族とはいえない。

例にあげられている大中臣の「大」も単なる美称ではではありません。『続日本紀』神護景雲三年六月十九日の称徳天皇の詔に次のようにあります。
「神語に中臣をさして大中臣などということがある。中臣朝臣清麻呂は二度神祇官に任じられ、その職務を奉じて失することがなかった。そこで清麻呂に大中臣の姓を賜うことにする。」

つまり大中臣は功績あって賜姓したものです。もしも「大」が「有力な一族の美称」なら、「大藤原」なんていうのが当然あっていいはずです。例にあげた皇極紀三年の「大生部」は、巫覡と組んで妖言を言い触らした不埒な男で、懲罰をくらってますね。賜姓どころではない。




883. Re^2: 大生部と壬生 まさみ  2003/07/23 (水) 00:47
HON様、さわらびT様、さわらびY(ゆみ)様、こんばんは。
もうすでに必要ないかもしれませんが私の少ない知識です・・・

「大生部氏」についてですが、「大生部」(おおふべ)ではなく(おおみぶべ)または(おおしみぶべ)とよみ、壬生部の東国における統括者的立場だったのではないかということです。(下出積與氏「道教」、新川登亀雄氏「日本宗教事典」より)


常陸国では、壬生部は南部を中心にかなり濃厚に分布していたとありますので、「大生部氏」と「壬生部」の分布は重なってきますね。




882. Re: 大生部と壬生 さわらびT  2003/07/22 (火) 23:06
HON様

思いがけず、この話題で盛り上がってしまいましたね。

私には見識がありませんので、川尻秋生先生の論文の一部と注に付された論文を掲示させていただきます。

「大生部直と印波国造−古代東国史研究の一試論」『古代東国史の基礎的研究』(塙書房、2003年に収録されています。)

「大生部とは、一般的には「オオフベ」と訓じられているが、「オオミブベ」と訓むべきことがすでに指摘され、ミブ部の一種と考えられている。ミブ部とは、「壬生部」「乳部」「生部」とも書かれ、『日本書紀』推古15年(607)2月庚辰条に、
 壬生部を定む、
とあり、壬生部を設定した記事がある。『日本書紀』仁徳天皇7年8月丁丑条にも、「大兄去来穂別皇子の為に、壬生部を定む」という設定記事があるが、史実とはみなしがたい。」

「なお、大生部の「大」は、大中臣の「大」などと同じく、大きな氏族のなかでもっとも有力な一族の称する美称と思われる。埴生郡の大生部直は、東国のミブ部のなかでももっとも有力な氏族の一つであったことが推測される。」

(注に記された論文は以下のとおりです。)
大田亮「オホミブベ大生部」の項(『姓氏家系大辞典』姓氏家系大辞典刊行会、1934年)
津田左右吉「大化改新の研究」(『津田左右吉全集3、岩波書店、1963年、初出は1947年』
前川明久「蘇我氏の東国経営について」(『日本古代政治の展開』法政大学出版局、1991年、初出は1963年)
同「大化前代の下総地方について−私部と壬生・壬生部の設定をめぐって−」(前掲『日本古代政治の展開』、初出は1967年)
加藤謙吉「ミブ・ニフ二題−六・七世紀における秦氏の職掌について−」(『続日本紀研究』182、1975年)

【門号氏族】については
井上馨「宮城十二門の門号と乙巳の変−大化改新と軍制−」(『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館、1961年、初出は1954年)
山田英雄「宮城十二門号について」(『日本古代史港攷』岩波書店、1987年、初出は1954年)
佐伯有清「宮城十二門号と古代天皇近侍氏族」(『新撰姓氏録の研究』研究編、吉川弘文館、1971年、初出は1963年)
直木孝次郎「大化前代における畿内の社会構造」(『日本古代国家の構造』青木書店、1985年、初出は1958年)

【壬生部】については
早川万年「推古朝における壬生部設定について」(『古代文化』37−8、1985年)
井上辰雄「大和政権と壬生部」(『東アジアの古代文化』41、1984年)




881. 大生部と壬生 HON  2003/07/22 (火) 00:39
さわらびY(ゆみ)さん
平川南氏のお説の紹介、たいへん参考になりました。

ところで、平川南氏と先の川尻氏の説に、「大生部=壬生」という前提が
あるようですが、お二人とも地元に関わりある方のようですが、その説が
地元では一般的なのでしょうか。他でこの説を聞いたことがありません。

壬生は生部・乳部にもつくり、丹生という説があり、わたしもこの説に
賛成の立場でして、今度うちの掲示板に丹生を壬生から展開しようと考えて
いたところです。

「大生部=壬生」ではない根拠は、皇極紀に「大生部」が出てきて、
壬生とは分けてあつかわれています。




880. 行田市の「埼玉」に行ってきました さわらびY(ゆみ)  2003/07/22 (火) 00:05
HON様、まさみ様

 
「香取の海」を巡る「ミブ部ネットワーク」は今後興味深いテーマですね。
いま少し勉強不足で申し訳ありません。
川尻論文をもう一度よく読んでみたいと思っています。
(「千葉市学」→「千葉史学」の打ちミスです)

雨男で、今までいい写真が撮れていないとぼやくTの要望で、今日は、さきたま古墳群の写真を撮りに行田まで行ってきました。
曇り時々車中のみ雨、夕方時々晴れ、とまずまず晴れ女の威力を発揮してきました。

さきたま資料館前の「はにわ処」さんは、お客様で大忙し。
http://homepage2.nifty.com/haniwadokoro/
今がシーズン、特に午前中がきれいに開花しているという「古代蓮の里」をご紹介いただき、さっそくTOPページ用に写してきました。
半日、古墳群や資料館を歩いて、夕方またお店に伺い、「はにわ処」のさわやか若旦那に、縄文の本物の土偶などのお宝を手にとって見せていただき、その質感に大感激でした。
「ゼリーフライ」というお好み焼風野菜コロッケ?もおいしかったです。
ありがとうございました。




879. Re: Re3;印波国造のルーツはだれ? さわらびT  2003/07/21 (月) 23:24
HON様

さすがの論述におそれいります。
> また、房総は氏姓時代に国造が乱立して、そのまま郡領制
> に切り替えた感じがあります。つまり、大生部直は以前から
> 埴生郡(国)にいて、印幡郡(国)の丈部直と並立していたと
> 考えた方がいいのではないか、と思います。

> ただ、埴生郡(国)の範囲が問題ですが、以前は国といわれる
> ほどの広さや勢力を持たなかったのかもしれない。

直接参考になるかは分かりませんが、『風媒花』16号(佐倉市教育委員会)に平川南先生が『古代の印波と香取の海』という文章を書いています。川尻先生の研究をベースにした論考です。(以下、省略して引用しました。)

“香取の海”の西部一帯は、古くは「印波(いには)」と表記されていた。大和朝廷は地方の有力豪族を国造〈くにのみやつこ〉に任命してその地域の支配を委任した。この地方は『国造本紀』によると印波国造の勢力下にあった。6世紀段階では公津原古墳群(成田市)の被葬者が優勢であったが、7世紀に入ると岩屋古墳(7世紀半ば築造。天皇陵にも匹敵するとされる巨大古墳)をはじめとする竜角寺古墳群(印旛郡栄町)の勢力が圧倒するのである。
その竜角寺古墳群を築造した印波国造は、「大生部(壬生)」氏というウジ名を名のった。そもそも大生部(壬生)氏は大和朝廷と密接な関係がある氏族で、香取郡内にも分布していたことが知られている。
7世紀後半になると印波国造の支配した領域は埴生評(郡)と印波評(郡)の2つの評(郡)に分かれたと考えられる。
この印波の地域は大きく東部と西部に分かれ、東部(成田・佐倉市)は公津原古墳群をはじめ、古墳時代以来の古い集落が数多く分布し、香取の海の入り口にも近いことから開発が早く行われたと推測される。それに対して西部(八千代市・印西市・本埜村など)は比較的新しい時期(8世紀以降)に開発された地域である。
想像をたくましくすると、印波郡の有力豪族は、「丈部(はせつかべ)」氏を名のり、東部に加えて西部を新たに開発し、香取の海やその海に注ぐ大小の河川の流域を望む台地の縁辺部にまで多くの集落を営んだと思われる。




878. Re3;印波国造のルーツはだれ? HON  2003/07/21 (月) 09:09
さわらびY(ゆみ)さん、
白石太一郎氏の説と川尻説の件、うかつに読み落とした
のに気づいて、あわてて削除してしまいました。
そこで改めて内容について書きます。

千葉県印旛郡栄町へは仕事で二年ほど前に何度か通い、
風土記の丘資料館の周囲も少し歩きました。そこで
『房総の古墳を歩く』という小冊子も手に入れています。

川尻秋生氏の文献上の検討は次の頁に要旨が紹介されて
およそのことは解ります。
千葉県立中央博物館 -月例セミナー
印波国造の謎を解く 歴史学研究科 川尻秋生
http://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/events/seminar/ge13_07.htm#kawajiri

『続日本紀』神亀元年に昇進した外正八位下大生部直三穂
麻呂は必ずしも東国人とはいえないという説もあります。
とはいえ、平城宮跡から出た木簡の「左兵衛下総国埴生郡
大生直野上養布十段」は明らかに埴生郡の人ですから、
成田市と栄町の古墳の消長に関わって川尻説や白石説が
生まれるのも理解できます。

しかし、現地へ行った感覚でいうと、成田市と栄町はあまり
にも近い位置関係にあります。ということは、後から来た
という栄町の大生部直は、以前から居た成田市の印波国造
丈部直を掃討しなければ成立し得ないと考えられます。

ところが丈部直は印幡郡領として生き残っている。しかも
直の姓で国造時代のままの姓です。木簡の埴生郡大生直も
直の姓で同じです。直の姓だから国造と限らないことは、
律令制度下の郡領に例がいくつもあります。

また、房総は氏姓時代に国造が乱立して、そのまま郡領制
に切り替えた感じがあります。つまり、大生部直は以前から
埴生郡(国)にいて、印幡郡(国)の丈部直と並立していたと
考えた方がいいのではないか、と思います。

ただ、埴生郡(国)の範囲が問題ですが、以前は国といわれる
ほどの広さや勢力を持たなかったのかもしれない。




877. Re: Re2;印波国造のルーツはだれ? さわらびY(ゆみ)  2003/07/21 (月) 08:09
まさみさま HONさま
ありがとう。興味深いはなしでしたよ。

> 概略、白石太一郎氏の説は川尻説とあまりにもにています。
> どうなってるのでしょう。まさか、、、とは思いますが。

白石先生も、川尻論文(「千葉県立中央博物館 研究報告」第7巻第1号2002.3月)が出た翌年「千葉市学」第40号2002.5月で、この説を紹介されて、全面的に支持され、「私も考古学の立場からさらに検討をすすめたい」とお書きになっておられましたので、一昨日の講演は、その検討の中身でした。

今日は、これから車で「さきたま古墳群」を見に行きます。
久しぶりの夫婦での遠出です。
(私は、はにわ処さんにお会いしたいので・・・)




875. Re: 印波国造のルーツはだれ? まさみ  2003/07/21 (月) 02:29
さわらびYさま。こんばんは。
白石先生の講演会では大生部直のお話があったのですね。
これはわたしもお聞きしたかったです。
いまちょうど、大生部氏について調べておりまして、近いうちに
茨城の潮来町にある「大生古墳群」の資料を調べにいかなくては
なりません。
茨城だけでなく、千葉でも大生部氏の勢力があったとは、驚きです。是非お会いしてお伺いしたいです。またお会いできるのを心待ちにしております。




874. 『日本語の誕生』の講演 まさみ  2003/07/21 (月) 02:19
さわらびTさま。昨日はありがとうございました。
『日本語の誕生』の講演は私にとりましては難しくわかりにくい内容でした。
ですので、簡単に整理してみました。
まず、
1、漢字が日本に伝来する前は固有の文字はなかった。
2、漢字との出会い
 中国からの鏡や貨幣、「漢委奴国王」の金印などが伝来。
 だが、一般の人たちには模様のようなものとして意識されていた可能性が高い。
 また、七支刀や土器に刻まれた文字(漢字)に対しても、同様で呪力や権威の象徴として「かたち」がもてはやされていた。(以上「形」を中核とする受容)
3、漢字の活用
 「稲荷号一号墳鉄剣」は日本の固有の言葉を音で表記。
 乎獲居(ヲワケ)、意富比?(オオヒコ)など。
 (漢字の本来の意味と日本語の表記する意味が一致しない「当て字」の状態でしょうか?)(以上「音」を中核とする受容)
4、漢字の理解と活用
 「山」をヤマ、「田」をタと読むように、漢字の本来の意味と日本語の読みが一致してくる。(以上「義」を中核とする受容)
5、日本的な表記への展開
 @俗漢文→和漢文(語順通りに漢字を表記)
 A宣命大書体の成立(付属語を音または訓を借りて小さく表記)
 B万葉仮名文(一音節に一文字の万葉仮名を当てて表記)
 C万葉仮名を草書体で書いた「草仮名」を経て更に簡略化したものが、「平仮名」
これで、音節文字としての日本語表記に定着したということでした。
こんな感じだったと思うのですが違ってますでしょうか?
またご教示くださいませ。




872.  『日本語の誕生』の講演(続き) さわらびT  2003/07/20 (日) 23:35
講演ではお話になりませんでしたが、「日十」については著書で触れておられます。ただし可能性を列挙されているだけとのこと。(p58〜60)

「隅田八幡宮人物画像鏡銘」に関心を持つのは山尾幸久先生の次の訓読があるからです。
「癸未の年(503)八月、日十(ヲシ)大王の年、孚弟(第。フト)王意柴沙加(オシサカ)宮に在す時、斯麻(シマ)長く奉えんと念い□中費直(□ちゅうこおりちか・)穢人(わいじん)今州利(コムツリ)二人の尊を遣わし、白す所なり。同(=銅)二百旱を上め、此の竟(=鏡)を(作る)所なり。」

さて、この山尾先生の訓読は、再考されるべきなのでしょうか・・・・




871. 『日本語の誕生』の講演 さわらびT  2003/07/20 (日) 23:34
7月19日、東京芸術劇場で『日本語の誕生』(沖森卓也・立教大学教授)の講演会が催されました。白石先生の講演も聴きたかったのですが、それはYにまかせて、こちらに参加しました。
国語国文学科ご出身だそうで、内容としては初めてのことが多く面白く聞くことができました。復習を兼ねてご紹介します。(『日本語の誕生』は吉川弘文館から出てます。ご参考まで)

漢字受容の3段階
@「形」を中核とする受容
A「音」を中核とする受容
B「義」を中核とする受容

【音仮名用法】
全音仮名・・・無韻尾で一音節表記するもの
略音仮名・・・字音の韻尾を省いたもの
連合仮名・・・字音の韻尾を後続音節の頭子音によって解消するもの
二合仮名・・・字音の韻尾に母音を添えて二音節相当にするもの

Aの段階に、「稲荷山古墳鉄剣銘」がある。乎獲居臣、獲加多支の「獲」が連合仮名、多加利足尼の「足」が二合仮名に当たる。

半弖比の「半」は略音仮名と見られる例とされるが、ハテヒと読むならn韻尾を省略している。このように韻尾を省いた用法は古く類例がなく認めがたい。(ハデヒと読む連合仮名の用法)

B「義」を中核とする受容の段階
「隅田八幡宮人物画像鏡銘」
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣辟(開)中費直穢人今州利二人等所白上同二百旱所此竟」

「男弟王は文字どおり、兄弟のうち年下の男をいう漢語であって、ヲホド王(継体)を表記したものではない。また「開中費直」は通説ではカフチのアタヒ(河内直)と訓読し、「加不至費直」(『日本書紀』欽明2年7月条の百済本紀)のこととしている。しかし、この倭人であろう「河内直」に対して斯麻が命令を与える立場にあったかは疑わしく、「開中費直」はむしろ百済の人と見るのが穏当であろう。したがって、「開中」は借音表記と見るべきであり、ケウチなどと読まれよう。・・・・「費」は古音でホ、「直」は二合仮名としてチキ(呉音デキ)であることによってホチキを音訳した表記と考えられる。「開中」をアタヒの訓と見る通説は再考の余地があり、この銘文においては固有名がすべて字音で表記されていることになるのである。」(レジュメからの引用)




870. Re: 短い沖縄の旅 さわらびT  2003/07/20 (日) 22:43
開田様

北海道から沖縄への旅、お疲れさま、そしてお帰りなさい。
私は、高校時代、父の勤務の関係で苫小牧の夏を体験しましたが、沖縄には数日の旅の経験しかありません。しかし日本列島の寒暖の違いはよく分かります。
9月に加藤先生の勉強会にご出席いただけるとのこと、楽しみに待ってます。その前に、伽耶・新羅の旅に出かけてきます。




869. 印波国造のルーツはだれ? さわらびY(ゆみ)  2003/07/20 (日) 22:28
昨日(19日)印旛郡市文化財センターの遺跡発表会で、白石太一郎先生の特別講演「竜角寺・公津原古墳群と印波国造」をお聞きしてきました。
7世紀最大の岩屋古墳のある千葉県竜角寺古墳群、それを支えた勢力は、印波国造丈部直といわれてきました。(たいていのガイドブックに書いてあるよね)
ところが、平城京左京大路側溝から出土した木簡に「下総国埴生郡大生直・・・」と書かれていたことから、これを手がかりに川尻秋生氏が解き明かした文献上の検討により、本来の「印波国造」は6世紀の公津原古墳群を残した印波の地の氏族で、後に急に勢力を伸ばした「埴生郡」(=竜角寺古墳群の地)の大生部直(おおみぶべのあたい)がこれにとって替わったとお話になられました。

また竜角寺の瓦も今まで「山田寺式」とされていましたが、山路直充氏の研究に触れて、「吉備池廃寺」(=百済大寺)の瓦が発見されたことから、「山田寺式」に先立つこの系譜が考慮されるべきと述べられました。

ところで資料室では、まさにこの印波郡の公津原古墳群に囲まれた「成田台方下平U遺跡」の住居跡から出土したりっぱな須恵器の高盤など興味深い遺物が展示されていました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/BBS/koubann.jpg

9月27日(土)には、現地説明会も行なわれるそう。
詳しくはそのうち、センターのHPに載ることでしょう。
http://www.inba.or.jp/index.html





867. Re: 100MのBフレッツについて さわらびY(ゆみ)  2003/07/19 (土) 20:33
wara様

> パソコンも100MのBフレッツで快適ですが、最近すいているときで80Mほど出ています。平均では40M位ですが、このくらい出ますと目にも止まらぬ速さとでもいいましょうか、

すごいですね。ADSLで数M出たとき、waraさんの100KB以上の画像がストレスなくダウンロードでき、感動したのですが、その十倍以上速いとは。
私のフォトアルバムももう少し大きい画像にしてもいいかな、と思うこともあるのですが、とめどもなく契約ディスク容量が増え(きのう60MBを超しました)また、まだISDNの友人もいて、数十KBのサイズで抑えています。

最近、画像を使いたいというご注文をいただくようになりました。
「漢の長城の画像をカラー印刷の本に」というご要望でしたが、カラー印刷のための解像度は最低304.8pixel/inch程度必要とかで、オリジナルの画像もご要望に応えられませんでした。
長い旅行でHP用の画像をたくさん撮ろうと、解像度を落としていたのが、今になってみると残念でした。

2年前UPした私のHPの画像は、いかにも小さくてちゃちです。本当に一年一昔の世界ですね。
これからは、ビデオスナップも気軽にUPできる時代になるのかしら。
といっても、niftyの容量追加料金は痛いですね。
また教えてください。




866. 短い沖縄の旅 開田 誠 [URL]  2003/07/17 (木) 17:14
 知らない街はただ歩くだけでも楽しい。そのことに浸ってきた。沖縄はそういうところだった。また、その陽射しが北海道から来た者にとっては強烈だった。朝はやくから鳴きつづく蝉の声まで楽しい。鳥の鳴き声は短い。5時すぎから30〜40分で終わってしまう。なんという鳥だろう。ホィプィローホィプィローと鳴いていた。
 気象台によると午後1時すぎの湿度が54%、視界は45km。那覇市からは渡名喜島近辺まで見えたという。
 コザの民宿で3日間を、街を歩くために泊まっていたのは、そんな空だった。私は、通りすがる人を見つめ、店の看板を眺め、市場を歩き、居酒屋に坐った。その話し声を楽しんでいたが、私は、沖縄をめぐる議論の日々をおくった70年の夏を思い起こしていた。街のそこそこには、ベトナム戦争時の名残がある。暴動があった熱風は感じられないものの思い起こすことはできた。
 今回、ひめゆりの塔、平和の礎をゆっくり見学した。訪れる人が多い。それぞれの眼差しが真剣であった。ひめゆりの塔で、オキナワカラスアゲハを見た。その時にも飛んでいただろうか。平和の礎では、嘴がコバルト色の鳥が飛んで行くのを見て驚いた。宿に帰ってリックの中の(持ち歩くんでしたね)図鑑をひくと、ズアカアオバトのようだ。沖縄ではめずらくないのだろうなと思いつつ、どう鳴くのだろう。本にはアオバトに似ているとある。埼玉のシラコバト、佐賀のカササギなど地元の人にはめずらしくないだろうが、はじめて見た時には驚いてしまうものだ。
 本島の南の海岸線は美しい。以前来た時はバスだったので、限られたところしか走らなかったので気づかなかった。平和の礎から玉城城跡へ行く道筋(ずいぶん迷った)から見える奥武島は美しい。玉城は小さいが眺めがよかった。登りもきつい。休んでいると、ツマベニチョウ、シロオビアゲハ、リュウキュウアサキマダラが飛んできた。グスクは南には多い。一つ一つをきちんと見たいが、それもできない。
 北へ行く時、水族館に入った。その近くの今帰仁城跡にも寄った。首里に匹敵する大きさである。勝連も大きかった。今残る姿が昔のそれでないだろうが、地形が大きさをおのずと語る。今帰仁は大きい。つれは初めてであったが、私は2度目であり、それがどうもいかん。簡単に見てしまいがちになった。暑いから、つれは長く歩こうとしない。そのことにあわせてしまうことになった。
 




865. 100MのBフレッツについて mwara [URL]  2003/07/17 (木) 00:22
ゆみ様
いつもありがとうございます。
パソコンも100MのBフレッツで快適ですが、最近すいているときで80Mほど出ています。平均では40M位ですが、このくらい出ますと目にも止まらぬ速さとでもいいましょうか、スクロールをかけて、一瞬で100枚程度の画像は読み込まれます。転送時のUP,downロードはすばやく対応できます。しかし、ここまで早くなったのはルータの設定と、OSのアップデートプラスXです。Bフレッツ環境をお勧めします。今、ファミリータイプで¥4,500+\1,100+消費税となっております。




864. 「流転の梵鐘を追って・六崎から風早の本土寺へ」をUPしました さわらびY(ゆみ)  2003/07/15 (火) 23:02
連載の「U 下総に律宗の痕跡を追って」に「7.流転の梵鐘を追って・六崎から風早の本土寺へ」をUPしました。

TOPページに本土寺の花しょうぶをUPしている期間内に、と思っていたのですが、考察に時間をとられ、1ヶ月以上かかってしまいました。

佐倉市の寺崎と六崎と高岡は、地図上では隣接しているといっても、歩くとかなり距離があり、金石文と文献上の「六崎大福寺」と、字名に由来するの「高岡大福寺遺跡」は、一緒にできないと思い、六崎大福寺→高岡仮移転説を考えてみました。

この説にご異論もあろうかと思いますが、ご検討いただければ幸いです。

資料を追っていて、この梵鐘の本土寺施入の檀那・設楽氏の子孫の家が近くの青菅にあることに気付きました。
遠いと思っていた中世が郷土史とクロスする面白さに、このところハマッテいます。

本ページ資料として、「千葉氏一族」のHPがまたまた役に立ちました。管理人さんに御礼申し上げます。

より詳しくお知りになりたい方は、画面下の[○LINK]のロゴをクリックして、ぜひ参考文献と参考HPのページをご覧になってください。





863. 「五条天神社大祭」と「花の古寺逍遥in松戸」をUPしました さわらびY(ゆみ)  2003/07/14 (月) 23:48
史跡歳時記に5.25「五条天神社大祭」と 6.7-7.6「花の古寺逍遥in松戸」のアルバムをUPしました。

昨日、佐原八坂神社大祭から帰ってきて、明日はまた、稲毛の浅間神社大祭の取材に行ってきます。
ぼやぼやしていると、画像整理がたまって、あれえー、これはどこだっけなんて、なりそう。
5月下旬に取材して、編集途中で仕上げを忘れていた「五条天神社大祭」も本日UPしました。
というのは、佐原で山車見物をしながら、飲んでいて、五条天神の祭りで笛を担当し、藤の花の屋台も作られたという方と、偶然ご一緒する機会があり、このページをUPし忘れていたことに気づいたからです。(この方のいなせな後姿が写っています)

佐原の祭は雨に降られず、まあまあの写真が撮れました。
稲毛もどんなページが作れるか、こちらもお天気しだいです。
祭りのHPは「川柳と旅と写真のHP」、花のHPは「WARAのホームページ」には、永遠にかないませんが、気晴らしにのぞいて見てください。




862. Re: 韓半島南部史跡めぐりを盛会に さわらびT  2003/07/11 (金) 10:33
Nori様

ご配慮ありがとうございます。

孫明助先生は現在公州国立博物館の館長だそうです。旅行の時期は、夏休みで諸先生は発掘等で毎日お忙しい日々を過ごされておられるようです。
旅行の企画内容について、発表させていただいたこと以外はメールでお話させてください。




861. 韓半島南部史跡めぐりを盛会に Nori  2003/07/11 (金) 02:28
Tさん、久しぶりのカキこでーす。気分一新、史跡めぐりを盛会にするために罪滅ぼしのお手伝いが出来ればと思っています。
@金海博物館の孫明助(学芸研究室長)先生にお願いしてみましょうか。申先生はどうなんですか?(メールください)
A福泉洞の宋桂鉉(福泉博物館館長)先生にお願いしても良いかなとも考えていますが。
何か、小生にお手伝いできることがあればご連絡ください。
今後とも、よろしくお願いします。
それから、弁辰の鉄も観れたらいいですね。
古代の鉄は列島の統一政体形成にどのような役割を果たしたのでしょうか?単なるイメージだけではなく、国家が出立するリアリティーを市場経済の基礎となる鉄生産のイメージと併せて、遺構・遺跡の資料から構築してみたいですね。
Yさん、ご無沙汰してます。九州・宗像へもTさん共々お出かけいただきたいものです。
今日のところはこれにて失礼します。
――筑紫の国からNoriより




860. 伽耶・新羅史跡めぐりの旅に行きませんか さわらびT  2003/07/09 (水) 23:35
韓国の史跡めぐりの旅を企画しました。(8月19日〜23日)
急な企画ですので、ご計画を立てにくいかと思いますが、ご興味のある方は、お誘いあわせの上ご参加ください。
釜山周辺と慶州を4日間でまわるのはもったいないような気もしますが、気に入ったら何度でも行きましょう。今回は博物館の見学にも時間をかけて見てきたいと思っています。池山洞古墳にも足をのばせればとも思うのですが・・・・

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankokuryokou.pdf

申し込みは旅行社へお願いします。お問い合わせ、ご要望等は「さわらび通信」でも受けますので、ご遠慮なくメールください。




859. 市民講座で、このHPを見てくださっていた方が・・・ さわらびY(ゆみ)  2003/07/09 (水) 23:20
本日、八千代市のある東京成徳大学で市民公開講座があり、「房総の民俗・第T部 繰り返す行事と絵馬・第U部 オビシャ―神野の事例を手がかりに」というテーマでしたので、午後から休暇をとって聴講してきました。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsu-bousou/annai/annai.htm

絵馬や神野のオビシャの事例紹介は面白かったのですが、オビシャについては、よく言えば柳田流のオーソドックス派、批判的に言えば民俗学界の昨今の学説からもやや取り残された保守的な解釈で、私にとってはいま少し納得できない気がしました。
というのも、オビシャについては萩原法子先生の『熊野の太陽信仰と三本足の烏』を読んでしまうと、どうしても萩原説以外の解釈は考えられない、地域のオビシャの取材を通してそう感じられてしまうのです。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/suwaobisya/obisya-toha.htm

会場は学生さんより、市民でいっぱい。熱心に質問される方もおおく、そのおひとりが、「インターネットで調べるともっと事例があります」と発言、その方は、なんと「さわらび通信」のオビシャのページをプリントされてお持ちになっていました。
お名前を聞きそこなったのですが、うれしく思いました。
(もし、ご覧になっていらしたら、ぜひご連絡ください。もしかしたら、検索で当たっただけかも・・・)

地元にできた新しい大学ですが、学生さんとともに、市民も地域の密着した講義が聴けるのが楽しみです。(平日なのが、ちょっとたいへん)
意欲的な教職員の先生方にもエールを送りたいと思います。ありがとうございました。




858. レポート見ていただいてありがとう 防人  2003/07/07 (月) 18:03
市川で、楽しい時間過ごせました。最近は一人で寂しく歩いているのでとても楽しかったです。
宮地嶽古墳には、4年前、まだ東京にいた頃、宗像大社の奥宮がある沖ノ島に行った時に、一度寄った事がありました。その時にこの古墳には年3回入れることを知ったのですが、さすがに東京から見に来るのは大変だなと思っていました。まさか、その4年後に九州の住人になるとは(笑)。
九州には新幹線の駅を作りに来ています。もう直ぐ完成なのですが、もうしばらく九州の住人でいられるようです。天気さえ良ければ月に2回は自転車に乗って、いろいろな所を見に行っています。HPのねたは、多少ストックがあるのですが、どうも不精で。出来るだけ更新したいと思っていますので、これからもよろしくお願いします。
また、コンピュータねたのエッセイも書こうかと考えています。




857. 「防人レポート・宮地嶽神社」拝見しました さわらびY(ゆみ)  2003/07/06 (日) 22:43
「現地が一番」
http://yatiyo-web.hp.infoseek.co.jp/index.htm管理人様

先日は、暑い中、市川の根本寺などご同行いただきありがとう。
今日も、市川の弘法寺へ、更にそこからバスで松戸へ行き、旧水戸街道にある一月寺跡などを歩いてきました。そのうち、忍性シリーズの「松戸・市川」を書きたいと準備中です。

そういえば貴兄のHPを拝見し、久々に更新されていたのに気付きました。
「防人レポート・宮地嶽神社」
http://yatiyo-web.hp.infoseek.co.jp/sakimori/miyajidake/miyajidake.htm
なるほど、巨石の古墳石室に不動明王を祭ってある「神社」というのは興味深いですね。
年3日の大祭だけ石室にはいれるとか。次は7月28日ですね。
行きたいけど、九州では・・・

ここの古墳から出土した馬具は、上野の国立東京博物館の立派なコーナーに展示されています。
桃崎先生の連続講演についていけるよう、撮影可能な博物館で馬具が展示してあると、片っ端から撮影してありますので、ご要望ならお送りします。
(そのうち、古墳の現地ルポと出土馬具の画像データをまとめようとデータの蓄積だけはしているのですが、今は郷土史と下総の中世で手いっぱいで古代史は「永遠のかなた」です)

見ていいような、いけないような「妻のページ」もちょっとだけ拝見しました。
こちらはすごいアクセス数ですね。
俳句のページが気に入っています。

手のひらの君と食べたき枇杷香る
生ビール父に注いでる夢を見る

いいですね。奥様によろしく。
(ついでにメールも見てください。「郷土史研通信」43号PDFで添付しましたので)




856. Re: 鶏塚古墳について まさみ  2003/07/06 (日) 22:15
さわらびTさま。お忙しいのにいつもありがとうございます。

> あらためて実物を見たくなったのですが、「はにわ−形と心ですね。掲示板で議論するには、スペースが足りないかもしれませんね。

そうですね。実物を見て、現地にも行ってみたいですね。
そうしたら、古墳を作った人々の気持ちにすこしでも触れられるかもしれませんね。

しかしながら、すでに文字はあったのになぜ古墳に関する文書はないのでしょうか?
なにか文字では残してはならない秘密でもあったのでしょうか?
あれだけのものを作るには設計図だって引かなくてはならないし、測量だって必要なはずですよね。(あまりに素人考えですみません)

今回のことで埴輪と古墳について興味がわいてまいりました。
また、ご教示くださいませ。






855. 鶏塚古墳について(続き) さわらびT  2003/07/06 (日) 19:23
(続きです)

はにわには、象徴的な部分を誇張する手法もあったかもしれません。杉山先生の講演レジュメ5頁の天理参考館提供の人物埴輪(裸の男性)ですが、下半身は円筒なのに男性のシンボルは屹立しています。また鶏塚からは、断片ですが男性のシンボルが出土同時に男子裸体埴輪も出土しているとのことです。私は、そのような出土埴輪のありようから、セットであるという想定のほうが蓋然性があると感じました。

それでも、同じ5頁にある鶏塚の「子を背負う女性」ははっきり胸が表現されているのに・・・とは思いますね。疑問は確かに残ります。はにわ工人の個性だったかもしれません。

石室にならべられたこの埴輪群は被葬者の生前の姿を映し出したいることも想定されますし、来世への旅立ちや、再生の表現などもろもろの要素が考えられるようにも思います。まさみさんの説が間違いだと、申し上げるほどの自信はありませんが、類例を探す必要があるのではないでしょうか。

ちなみに辰巳先生は「女陰の呪力」について論じていますが、この埴輪については巫女像ではなく、年の初めに行われる予祝神事のひとつとして演じられる「豊穣を願っての男女の秘事」と関連付けておられます。(『埴輪と絵画の考古学』、白水社、1992)

杉山先生の説とも違うかもしれませんが、はにわにはずいぶん多くの説が出されているので、議論の整理が大事になります。

子供の埴輪といえば、むしろ綿貫観音山の3人童女(レジュメ1頁)が気になります。儀式に立ち会う巫女の姿でしょうか




854. 鶏塚古墳について さわらびT  2003/07/06 (日) 19:22
まさみ様

あらためて実物を見たくなったのですが、「はにわ−形と心ですね。掲示板で議論するには、スペースが足りないかもしれませんね。

形象埴輪が立てられていることには、当然造立者の意図があるわけです。それを後世の我々が、解釈しているのですから、実は全く見当違いになっているのかもしれないと思いつつも、人間の行為である以上、解読もできると考えて問いかけるのだと思います。

さて鶏塚古墳について知ることも必要だと思いますので、『探訪とちぎの古墳』(塙静夫著、随想舎、2000)から、要約引用します。

「真岡市街の中心から北北東約5kmの地に京泉シトミ原古墳群(円墳17基)があるが、今日では8基が残されている。鶏塚古墳はこの古墳群中、最大で鶏形埴輪が出土したことから墳名がつけられた。現状東西22m×南北18m、高さ2.5m、横穴式石室が南西に向け開口、石室はケヤキの根で挟み込まれているが、長さ5.68m幅奥壁(2段積み石)で1.58m、開口部0.81m、高さ奥壁1.51m、中ほど1.2m、側壁は河原石をきれいに積み上げ全体的に狭く長い石室。石室内からは直刀・鉄鏃・馬具(轡)・鈴釧・勾玉・管玉などが明治年間に出土。昭和5(1930)年、土地所有者が人物埴輪を発見、これをきっかけに後藤守一・内藤政光氏による調査が行われた。この調査により、石室前庭部両側付近から、二列に立て並べられた状態で人物埴輪・鶏形埴輪などが出土。人物埴輪には挂甲武人、琴を弾く男性、正装した女性、頭上に壷をのせ赤ん坊を背負う女性、陰部をかなり写実的に露出させ、そこに赤く彩色した裸体の女性像などがある。これらの埴輪は東京国立博物館に一括保管されている。」

よく知られた埴輪のようですね。このはにわ列全体も検討しなければ議論としては前向きにならないようにも思います。なぜ武人がいるのでしょう。正装の女性は被葬者の身内なのでしょうか。赤子を背負う女性は、使用人をあらわしているのでしょうか。




853. Re: どうでしょうか? さわらびT  2003/07/06 (日) 18:39
開田様

ご無沙汰しております。

わざわざ北海道からお越しいただくのに、毎回出席をお願いするわけには参りません。
特例として、ご相談に応じます。場所のことなどはメールさせていただきますが、今メールはごらんになれますか?




852. どうでしょうか? 開田 誠 [URL]  2003/07/06 (日) 12:21
 旅先です。沖縄の空港で覗いたら、9・2から始まる”古代氏族の実態”を知り申し込みたいのですが、1回のみは可能ですか?北海道から行きましので、2回目以降は不定になります。




851. Re^4: 杉山先生の講演での衝撃 まさみ  2003/07/06 (日) 01:05
さわらびTさま
ご意見ありがとうございます。
ありがたく読ませていただきました。

>童女であれば子供らしい表現をさせればいいのであって、ことさら生殖を意味する表現をする理由を見出せません。

陰部の露出は生殖を意味するのでしょうか?
わたしは子孫繁栄や豊穣のみの表現ではないはずと思われます。
(さわらびTさまも除霊の意味があるとおっしゃられているではありませんか)
中世の兵法で尼僧や僧が陰部を露出して敵を撃退したとありましたのでアマノウズメの例も考慮に入れると陰部を露出するのは、魔をはらったり戦意を喪失させたりする効果もあったと考えます。
この場合特に、成熟した女性でなくてもよいのではと思われます。
祭りで老夫婦が裸で踊りながら囲炉裏のまわりをまわるというのがありますが、生みの力が旺盛な「若夫婦」でないということは「裸と陰部の露出」というのが大事なのではと考えます。
また、朝鮮での例ですが、陰宅で成熟していない女性をしめすといわれるものがあるそうで、その示す意味はわからないのですが、成熟した女性ばかりが「聖なる存在」ではなかったと考えられるのではないでしょうか。







848. Re^3: 杉山先生の講演での衝撃 さわらびT  2003/07/03 (木) 22:30
まさみ様

杉山先生からご返事いただけたようですね。

メールで書いたので、あらためて付け加えることもないのですが、掲示板をお読みの方もありますので、とりあえず一方的ではありますが、私の考え、というか辰巳説の紹介みたいなことを書いておきます。

まさみさんの発想の柔軟性には、大いに感心しました。しかし、この数日いろいろ考えたのですが、この埴輪については、「子供のはにわ」という視点とは別の視点もあると思えました。

この埴輪が子供だというお考えは、この掲示板の読者にご説明されていないので、少々乱暴な反論で申し訳ないのですが、杉山先生と同じく大人と見ていいのだと思うのです。専門家でない私には、現物を見たわけではないので、不確かなことしかいえません「なぜことさら女性器を表現したのか」は、問わなければならないと思います。

童女であれば子供らしい表現をさせればいいのであって、ことさら生殖を意味する表現をする理由を見出せません。

『信州考古学最前線』のコラム「vol.16◆縄文の巫女 」が大変参考になりました。

http://www7.ocn.ne.jp/~volonte/column-dec.html

「仮面土偶を考える上で比較すべき考古資料としては、時代は下るが古墳時代の陰部を露出した人物埴輪をとりあげたい(愛知県太夫塚古墳・大阪府豊中市釘貫など)。これらには巫女を特徴づける意須比(おすひ・襲衣)の表現が見られることから、辰巳和弘氏は巫女を象ったものだと推測する(『埴輪と絵画の古代学』白水社)。埴輪と土偶は一見関係なさそうなのだが、でも私は土偶の意味を解くヒントがあると思っている。
 なぜなら、縄文時代と古墳時代の間をつなぐ弥生時代には土偶や埴輪のような「土人形」的な造形はあまり発達しないのだが、かわりに土器などに線刻された「絵画」がある。「弥生の絵画」には、陰部が描かれた人物(奈良県唐古・鍵遺跡の壷形土器)。嘴をもつ鳥の頭に表現された(鳥の仮面をかぶった?)人物(岡山県新庄尾上遺跡)がある。
 縄文仮面土偶の特徴である仮面と陰部露出は、弥生時代の鳥装の仮面をするシャーマンに受け継がれ、さらに陰部露出は古墳時代の埴輪の巫女にまで継承されたと考える。」

陰部露出の伝統の意味が問われていると感じます。要するに除霊の意味があるのです。子供の呪力に通じるので、あながち、まさみさんのお考えと隔たるものではないと考えます。




847. 地方史研究の「木村史学」の真髄をお聞きしました さわらびY(ゆみ)  2003/06/30 (月) 23:59
昨日、千葉県郷土史研究連絡協議会で、木村礎先生の講演をお聞きする機会がありました。
先生のお話は、個別の研究テーマではなく、50年間のご研究の思い出と総括といってよく、ご自身の体験から木村村落史学の真髄に触れるものでした。
1952年の神奈川県津久井郡のムラを皮切りに、下総にフィールドを移してからは佐倉、佐原、香取、市川を学生たちと草の根を分けるように歩いて調べつくされたその手法は、「木村軍団の歩いた跡はぺんぺん草も生えない」といわれたほどの徹底した調査で、その具体性例の中から抽象化された概念が生み出されてくるプロセスは、説得性のあるものでした。
「ムラとは居住と生産地域の統一体」「近世初期の検地帳から始まる村落史が多いが、ムラがあったから検地をしたのであり、古代からムラはあり続けた」「田の風景は自然ではなく、人間が作ってきた文化」「目に入ってくる景色が歴史をあらわす」さらに「歴史は多様なもの、理論性の高い歴史ははやりすたれがある」などなど・・・

八千代市郷土歴史研究会で3年前、道標の悉皆調査を行い、『八千代の道しるべ』という本にする時、市民が道標をたどりながらムラの道を歩き歴史に触れられるような「道の案内記」を添えることにしました。
そのコンセプトはまさに先生のご著書『村を歩く 日本史フィールドノート』の「村の道」の文章でした。
会長がコピーされた「村の道と境」のセクションを全員で読み、そして「村の道の研究は村の個性を知るための格好の手がかりとなる」というフレーズに感動し、11人の執筆者の心をひとつにして完成することができたのです。
先生のお話をお聞きしながら、ふとそのときのことを思い出しました。

今、この会は、「新田」ムラの調査に入っています。
調査の度にどこにも書いていないムラの歴史の事実が明らかになっていきます。
先生が、「歴史学そして人文科学なんていうのは、ものの役に立つための科学ではないのだから、楽しくなければ研究ではない」とおっしゃられたことに、なぜかとても納得できた一日でした。




846. 今週の気になるイベント さわらびT  2003/06/30 (月) 22:32
今週の気になるイベントです。(会場はともに明治大学ですが、教室は違いますのでご注意ください。)

@7月4日(金)6時から明治大学11号館50番教室にて
『最近のC14年代をめぐって(意見交換会)』

1:AMSを用いた放射性炭素年代 斎藤敬(日本大学文理学部)
2:これまでの弥生時代暦年代論 黒沢浩(明治大学考古博物館)
3:考古学側の受け止め方と私見 石川日出志(明治大学文学部)
4:意見交換

参加無料です。

A7月5日(土)午後1時〜5時『考古学研究の最前線』(総合研究大学院大学日本歴史研究専攻の連続講演会の第1回)

春成秀爾(総研大/歴博考古研究部 教授)「日本旧石器文化の起源−旧石器ねつ造問題を超えて−」

今村峯雄(総研大/歴博情報資料研究部 教授)「年代研究の最先端−AMS炭素年代測定法による第二革命−」

司会:設楽博己(総研大/歴博考古研究部 助教授)

会場は、明治大学リバティータワー 1001教室(定員200名 先着順)




845. Re^2: 杉山先生の講演での衝撃 さわらびT  2003/06/29 (日) 23:42
まさみ様

> 子供である根拠は胸がないからなんですが、会場ではいえなかったのですが古代においては子供には特別の霊力があったと見られていたようで、・・・

> それから、加藤先生のお話にもありました「小子部」との関連も頭にかすめてきます。

加藤先生のお話は、志田諄一説を引用しながら、子小部を宮廷内における雷神制圧呪術にかかわるとのことでした。このように子供に霊力があるとと信じられたことは、「まさみ説」には十分説得力がありますね。

> 大人と子供の違いの認識は、目と口を結んだ三角形の大きさの違いであると、昔動物行動学で習った気がします。

うーん。なっとくです。

杉山先生のメールアドレスあらためてお伝えしますので、お考えをお伝えしてみてください。(メルアドですが、今手元にないので明日以降にお伝えします。)




844. 近畿の3世紀 さわらびT  2003/06/29 (日) 23:30
27日(金)のことなので、報告の順序が逆になりましたが明治大学の第33回博物館講座、考古学ゼミナールの最終講(森岡秀人先生)に出席しました。タイトルは「卑弥呼から壱与へ−近畿3世紀の新歴史像」

最新の図面を使った報告で、興味深いお話の連続でした。宮内庁書陵部が発表した二重口縁土器は従来近畿では出土していないこと、さらにはにわの起源の問題にふれ、特殊器台からはにわが出きたといわれるが、吉備では少ない、宮山型などは大和中心である、といった内容は新鮮な提言だったと受け止めました。

箸墓の年代観も寺沢先生ともちがいますし、あらためて3世紀像の確立の難しさを知らされました。




843. Re: 杉山先生の講演での衝撃 まさみ  2003/06/29 (日) 22:35
まさみです。
さわらびT様、昨日は大変お世話になりありがとうございました。
そんな風に言って頂いて、ただただ恐縮しております。

浅はかな素人の思いつきなのですが・・・。
駅までの帰り道久保さんにもお伺いしたのですが、子供を模写した埴輪はあまりないのでしょうか?(それはどうしてなのか。それも不思議におもいます。)何も知らなくてすみません。

子供である根拠は胸がないからなんですが、会場ではいえなかったのですが古代においては子供には特別の霊力があったと見られていたようで、例えば神に仕える巫女は少女のころから修行をはじめるのだそうです。(イタコも少し前まではそうだったとか)

それから、加藤先生のお話にもありました「小子部」との関連も頭にかすめてきます。あくまでも素人の勝手な想像なのですが。
帰りまして、いただいた資料を見直してみましたら、他にもなんだか、子供のように思える埴輪がありました。(考え過ぎですね。)
大人と子供の違いの認識は、目と口を結んだ三角形の大きさの違いであると、昔動物行動学で習った気がします。同じ大きさの円を描き、そこに目と口を描き比べてみてください。中央に目・口が寄っているほうは子供に見えませんか?どうでしょう?
あまり歴史と関係ありませんね。すみません。
また、いろいろとご教示ください。




841. Re:大変失礼致しました。 HON  2003/06/29 (日) 14:39
さわらびY(ゆみ)さん、
わたしどもで少し立て込んでまして失礼しております。
先日はお気遣いいたたきまして、ありがとうございました。

黒服の大男こと大黒屋様
>さわらびY様、HON様
 『積悪』の小生、御無礼を致しました

わたしも少々事情あって、いらついてました。
気持ちが通じれば気にしませんから、
今後とも宜しくお願いします。

みなさまには何のことやら分からず、申し訳ありません。
落ち着いたら又おじゃまします。




840. 杉山先生の講演での衝撃 さわらびT  2003/06/29 (日) 00:25
まさみ様

今日(28日のことです)は、私には大変刺激的な一日でした。

杉山先生のお話にはかなり慣れてしまったせいか、私は一般的な質問しかできませんでしたが、まさみさんの質問は先生も虚をつかれた感じではなかったでしょうか。

掲示板の読者には分かりにくいので、また内容の性格上ちょっと言葉を選びながらお伝えします。

栃木県鶏塚のはにわは女性であることが明らかなのに胸が表現されていないことを、杉山先生は、服を着ていたと解釈されました。

まさみさんは「子供である」可能性をご指摘されたのですね。

先生は「なぜ子供なのか考えなければならない」とおっしゃられましたが、一方「他のはにわに比べ小さい」とももらされました。懇親会でもちょっと話題になりました。

先入観は怖いです。杉山先生がおっしゃるから、そうなんだと考えては、アイデアは出ないと痛感させられました。ありがとうございます。先生もまさみさんのお考えを検討されるようです。




838. またまた、ローカルなお知らせです さわらびY(ゆみ)  2003/06/28 (土) 19:37
またまた、ローカルなお知らせです。

7月19日(土)午後1時〜4時30分・佐倉市立中央公民館
印旛郡市文化財センターの遺跡発表会
http://www.inba.or.jp/news/newsindex.html
白石太一郎先生の特別講演「竜角寺・公津原古墳群と印波国造」もあるそう。

8月10日(日)午後1時半より・八千代市郷土博物館企画展講演会として、山折哲雄先生の「暮らしの中の宗教」のお話があります。
(おかげで、八千代市郷土歴史研究会の例会が、午前中に変更になりました)

どちらもすごく、楽しみ!です




837. 大変失礼致しました。 黒服の大男こと大黒屋  2003/06/27 (金) 23:59
 さわらびT様。
 海外出張中で失礼しました。本日帰国しました。貴御指摘の如く忌部氏と卜部氏の話は聞き違えていた様です。
 皆様も興味深い御指摘や御教授の数々有り難う御ざいました。
 さわらびY様、HON様
 『積悪』の小生、御無礼を致しました。
 




836. Re:Re: 受賞おめでとうございます&おたけさま  あるけ〜@千葉市の遺跡を歩く会 [URL]  2003/06/26 (木) 20:45
早速のレスありがとうございます。

>あるけ〜さんの
これはまたどうもです(^^;

>「武石古墳」(No.66)はどうみても武石神社の位置。
>わたしは「武石神社=おたけさん」と思っていたのですが…
園生貝塚研究会『貝塚研究No4』の都市図に書きこまれた遺跡図では、
どうも祠の東隣のようなのです。
県史などの文献からすると、同じことですが、少なくとももともとは
「小墳=おたけさん」 ではないかと思います。
古墳というからには塚状に盛った墳墓ですよね。
あの鳥居や祠全体が古墳の削られた上に乗っているという
可能性もあるかと思うのですが、「小墳」という表現や
『貝塚研究』のマークから推測するとそうでもなさそうな。

>ネタは、主に、長作在住の地元史研究家・河野達二氏(房総の牧編集者)
>『花見川の歴史散歩第一集』です。
それは未見です。今度、図書館でさがしてみます。
>河野達二氏、あるいは三代王神社の神主さんにお会いする機会があったら、
>お聞きしてみます。
以前より気になっていましたので、
ついでがありましたら、よろしくお願いします.




835. Re: 受賞おめでとうございます&おたけさま さわらびY(ゆみ)  2003/06/25 (水) 23:49
千葉県郷土史連絡協議会奨励賞受賞、おめでとうございます!

ありがとう!(といっても、若輩で八千代郷土史研を代表する立場にないんだけど…)
フィールドワークでは、あるけ〜さんの「千葉市の遺跡を歩く会」や道標おやじさんの「房総石造文化財研究会」がお手本です。
学説史や分厚い本、まして「勉強会」なんて大の苦手。郷土史研の仲間と、ムラや古道や城跡を歩いてなにか「発見」をしながら、謎ときをするのがいいですね。

> ところで千葉市花見川区武石の武石神社わきにあったという
> 武石古墳(おたけさま)なのですが、 現在、存在しているのでしょうか。

「千葉市遺跡地図」を、虫眼鏡で見ているのですが、「武石古墳」(No.66)はどうみても武石神社の位置。その北はすぐ京葉道路ですし、西は畑、東は斜面?
わたしは「武石神社=おたけさん」と思っていたのですが…
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/1-13takesi/takesijinja3.jpg

武石の史跡探訪のネタは、主に、長作在住の地元史研究家・河野達二氏(房総の牧編集者)『花見川の歴史散歩第一集』です。
河野達二氏、あるいは三代王神社の神主さんにお会いする機会があったら、お聞きしてみます。





834. 受賞おめでとうございます&おたけさま あるけ〜@千葉市の遺跡を歩く会 [URL]  2003/06/25 (水) 20:58
千葉県郷土史連絡協議会奨励賞受賞、おめでとうございます!

ところで千葉市花見川区武石の武石神社わきにあったという
武石古墳(おたけさま)なのですが、
現在、存在しているのでしょうか。
今まで現地を何度も見に行っているのですが、
藪の中にかろうじて痕跡があるような、ないような。
地元の人、数人にたずねたのですが、「塚なんてないよ」という返事。
なくなったとすると、いつごろなくなったのでしょうか。
ご存知でしたら、教えてください。




833. 日立と千葉から、ローカルなお知らせ さわらびY(ゆみ)  2003/06/25 (水) 20:01
常陸風土記の話題が出たついでに、日立にお住まいの方への情報です。

金砂神社磯出大祭礼の全行程を撮ったビデオの映写会とテープ頒布の案内をいただきました。
映写会 ビデオ「この目で追った感動の10日間... 平成の金砂大田楽」  110分
日時  7月13日(日) 13:30〜15:30
場所  日立視聴覚センター4階大ホール

頒布 ビデオテープ 価格 2000円 (郵送の場合は送料600円)
問い合わせ先 otagiri@jsdi.or.jp様まで


もうひとつは千葉にお住まいの方へ
千葉県郷土史連絡協議会の総会と奨励賞授賞式に引き続き、記念講演が行なわれます。

日時:6月29日(日)午後1時から
会場:千葉神社講堂
記念講演 : 明治大学名誉教授 木村礎先生
「千葉県(下総部分)での私の地方史研究」

なお、15年度奨励賞は八千代市郷土歴史研究会が受賞することになりました。
平成8年度同協議会の輿石賞受賞に続き、2回目の受賞です。




832. 『常陸国風土記の探求』 まさみ  2003/06/25 (水) 00:43
中臣氏についてですが『常陸国風土記の探求』上巻に記述があります。
地元、茨城の図書館ならあると思います




830. Re: 『秦氏とその民』 まさみ  2003/06/25 (水) 00:38
さわらびTさま。お返事ありがとうございます。
わたしの早とちりですね。勉強不足ですみません。

中国からの渡来を含むと思ったのは、日本の古墳から出土する国産と思われる絹の由来が中国系と朝鮮系とがあるからです。
しかも、中国系の方が古いようですよ。だからといって秦氏とかんけいあるとは限らないのですが・・・。
また、よろしくご教示くださいませ。





829. 山尾先生の秦氏についての説 さわらびT  2003/06/24 (火) 22:44
長々書くと、さわらびYにまた嫌がられるかもしれませんが、加藤先生の講演関連で、付けくわえます。

講演の最初に、加藤先生が話をされたのは山尾先生の新著にあえて名指しはしてはいないが、加藤先生ならびに中村修也氏(文教大学)の説への批判があるとのことでした。その箇所は以下のとおり。

「秦氏の氏称には種々の説があるが、「秦」の用字、「はだ」の族称、族長の「うつまさ」の称号、指揮下の某勝の存在、及び漢氏の「あや」の族称との関係、それらを古代における付姓原則の下で単純かつ統一的・整合的に説明できる仮説でなければなるまい。近年の説は一々について難渋な推測を加えているが、地名でないというのなら「はだ」(「肌膚」とあるように濁音の「波陀」)の語が直接に指す職務は挙げるべきであろう。筆者は蔚珍の「波旦」(524年蔚珍鳳坪里碑)を挙げている。「うつ(「禹豆」「禹都」)まさ」は「某の勝」と同様「于抽」(561年真興王巡狩昌寧碑、蔚珍)のマサの意味であろう。」山尾幸久『日本古代国家と土地所有』吉川弘文館、2003、p325)

山尾先生の秦氏についての論考は『日本古代王権形成史論』(岩波書店、1983)に詳しいです。そのさわりを少々。

「秦の文字をあてたのは三世紀以来辰韓の地で語られていた秦の亡人説の影響かと思われる。」

「渡来後間もなく、すなわち五世紀末か六世紀初めごろには、秦氏は深草に居たと思われるが、深草の秦氏は交易の仕事に特色があったらしい(欽明即位前紀)。・・・・・」

「・・・・五世紀後半前後に葛野地方に定着した集団、六世紀に深草秦氏と同族関係を結んだ集団、六、七世紀の交に葛野秦氏の同族として統合組織された集団、その他多様なものを含んでおり、正確を期しがたいが、山城秦氏の諸集団は多くの場合秦を冠し、族的結合は強固であったように思われる。」

山尾先生もかなり個性的な説を出されますが、加藤先生は山尾先生から「難渋」といわれるのですから、我々にはかなり難解な説だったということでしょうか・・・




828. 『秦氏とその民』 さわらびT  2003/06/24 (火) 22:33
まさみ様

加藤先生のご講演を熱心にお聞きいただきありがとうございました。よく研究されておられますね。これからもいろいろ教えてください。

氏族制社会では、帰属意識が生きるために欠かせない条件だったのだろうと思います。まして渡来系氏族にとっては結合することが必須だった、と思います。
ですが・・・加藤先生は、秦氏について政策的な結合を強調されました。その加藤先生の説をおさらいします。『秦氏とその民』(白水社、1998)からの引用です。

「秦氏は山背を中心に各地の渡来人を糾合し、ミツキの貢納による王権への奉仕を目的として成立した犠牲的な氏族組織であった。配下の貢納組織とともに、六世紀半ばの欽明朝頃に人為的に編成された集団組織が、この氏の本質的な姿であり、ハタの氏称は、貢納品の主体が糸・綿・絹織物などの養蚕・繊維製品であったことに由来する。」

秦氏は明らかに朝鮮系氏族ですから、中国からの渡来は含むとは思えませんが・・・・「秦」の名を指してのことでしょうか。以下も同書からの引用です。

「アヤ・ハタの氏名に「漢」「秦」の字が使用された理由は、この区分観、すなわち中華思想の成立にともない、中国と朝鮮諸国を「隣国」と「蕃国」に分ける思想が生じたことによるのではなかろうか。」

「「漢」・「秦」の字は、もとよりアヤ・ハタとは読めず、借字にすぎない。・・・・「漢」・「秦」の氏名は、ともに漢・秦という中国の代表的な王朝名と一致する。後に東・西両漢氏は後漢の霊帝と献帝、秦氏は秦の始皇帝の裔と称しているのであるから、「漢」・「秦」の氏名は、この王朝名に因むと考えるのがもっとも自然であろう。しかもアヤ・ハタに「漢」・「秦」の字を当用するようになる時期は、日本に中華思想が成立する時期と重なるのである。おそらく六世紀末以降、朝鮮諸国に対する「蕃国」意識が形成される過程で、アヤ氏やハタ氏は出自を中国系に改変し、「漢」・「秦」の氏名を用いるようになったと考えられる。」

中臣氏のことは、またあらためて勉強させてください。ご指摘の『常陸国風土記の探求』ですが上巻に記述があるのでしょうか。現在、品切れのようで、残念ながらまだ読むことができません。




827. Re^2: 中臣氏と忌部氏 まさみ  2003/06/23 (月) 22:15
さわらびT様、昨日は大変お世話になりました。
加藤先生のお話では「秦氏は朝廷の調のために編成された氏族であり、その出所は多岐にわたり何処ということはいえない。」というようなことだったと思います。
と、いうことは、秦氏のある部族の由来は朝鮮半島かもしれませんし、また他は中国からの渡来者かもしれないということですよね。解釈ちがいますか??

ところで、中臣氏の出自について、わたしも少し発言させてください。

中臣氏は神八井耳を祖とする大氏系中臣氏と天児屋根命を祖とする中臣氏、中臣部があげられる。
大氏系中臣氏はその出身地は九州。
また、鹿島町宮中野の宮中野古墳群は鹿島神宮建置後の中臣家累代の墓所であるとされている。(他にも2箇所あり)
(以上、常陸国風土記の探求ーーー河野辰男著(筑波書林)ーーーより編集)

また、「新撰姓氏録」では卜部氏と同族とされたようですね。中臣氏の卜占はご存知のように亀卜でこの亀卜の発祥の地は対馬といわれています。対馬は卜部氏の土地であると同時に中臣イカツオミを祀る神社があるそうです。
尚、太田亮氏は中臣豊前本貫説を唱え、水野祐氏はこれを否定しつつも、豊前中津郡に中臣村が存在するので中臣氏の一族が古くからすんでいたことを認めたとあります。
まとまりがなくてすみません。要は「はっきりしない」ということでしょうね。




826. Re: 中臣氏と忌部氏 さわらびT  2003/06/22 (日) 23:28
黒服の大男様

今日加藤先生の講演がありました。合間にうかがったのですが、加藤先生が話されたのは、中臣氏の出自を「卜部氏」とする史料が存在するということです。

忌部と中臣はむしろ敵対関係にあったわけですから誤解のないようにお願い致します。

上田正昭先生の『藤原不比等』が手元にありましたので、参照します。

中臣氏の前身を常陸の香島社を奉斎したとみなす卜部(占部)から出たとする説は、横田健一「中臣氏と占部」という論文に提言されているようです。

『尊卑文脈』の系図や「大中臣氏系図」には、「初めて中臣連姓を賜う」ことに関連して「本は卜部なり」としたり、江戸時代初期の「松尾社家系図」には逆に「本姓中臣を改めて卜部姓を賜ふ」としているのだそうです。

しかし史料は事実を表しているわけでもありませんし、歴史的な考証も考慮しなければならないです。中臣氏の卜部出自説そのものの検討も必要でしょう。




824. 寺沢先生のお話を聞いて さわらびT  2003/06/22 (日) 10:42
邪馬台国論にはさほど関心はないのですが、とはいえ王権形成史の観点からは重要であることも間違いないところです。

昨日は、都内で寺沢薫先生の講演会がありましたので、出向きました。
私自身、「古墳はなぜ作られたか」で寺沢先生のお考えを紹介しておりますし、直接お話をうかがえる機会は逃すわけにはいきません。
ご承知のように、纏向型前方後円墳を「古墳」とされるわけですが、古墳が成立するには内部要因説からだけ解けないと述べられます。
同感ですが、天円地方の思想を重視する説をとられるのに対し、私は壷型説を重視するのが違います。山尾先生が自ら間違いとされた説ですので、どうでしょうか・・・懇親会に出席させていただいたおり、寺沢先生にもつい聞いてしまいました。

皆さんの関心の深い箸墓の被葬者については、白石先生の卑弥呼説とは違うのもご承知のとおりです。纏向の古墳はほぼ同時に造営されたことその中に卑弥呼と壹与の墓がある、ホケノ山の被葬者は男性、などお話になられていました。

私は多少、混同していましたが北条先生が述べられる讃岐型は纏向型とは全く形状が異なり別系統の出現期古墳です。寺沢先生の考えとは別物です。

纏向=都市論については、私は疑念を持っていますが、お考えに揺るぎはみられません。検討すべきかと感じています。(『王権誕生』講談社、2000、p255〜258など参照)




823. 困った時のHONさま!ありがとう さわらびY(ゆみ)  2003/06/21 (土) 23:37
HONさま、興味深いレス、ありがとうございます。
さすが、「困った時のHONさま!」です。

ご紹介いただいた「千葉一族」の掲示板に「タイトル:染谷氏 」を見てびっくり、『本土寺過去帳』に見る染谷氏になんと、八千代市平戸の染谷源右衛門があるとは。
この染谷源右衛門家は、享保9年印旛沼の干拓工事を志した染谷源右衛門家と思われます。
染谷時忠とは、縁もゆかりもないでしょうが、平戸の染谷源右衛門となると、わが八千代市郷土歴史研究会の研究対象ですので、もう一度『本土寺過去帳』を見直してみようと思いました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kyoudosikenn/kyoudosikenntuusinn.htm

中世の縁起や伝承は、まったく奇想天外で、ほとんどが「元祖トンデモ」説なのですが、ただいくつか似た話を集めて見ると、中世人のこころや社寺のご都合が見えてくるような気がします。
史実は、やはり『本土寺過去帳』とか「香取社殿造営負担交名」などで裏をとるしかないようですが。

今日は、暑さの中、一日中、国府台から北国分まで往復し、市川の寺社や博物館を回っていました。
ひとつは、八千代市の民俗調査の関連で市川の根本寺の調査、もうひとつは、前から気になっていた国分寺の「国分五郎」の供養塔と伝えられる14世紀の宝篋印塔について、その実態を明らかにしたいと思っての耐暑ウォーキングでした。

市川市歴史博物館では学芸員の先生にお世話になりました。この場をお借りしてお礼申し上げます。

松戸一月寺の清涼寺式釈迦類似像と、国分寺の宝篋印塔の背景が見えてきたら、忍性シリーズ下総編にUPしたいと思っていますが、13−14世紀の松戸・市川については日蓮宗古刹の史料以外はほんとうに手がかりが少ないようですね。
なにか、ヒントがありましたら、ご援助ください。




822. 中臣氏と忌部氏 さわらびT  2003/06/21 (土) 23:32
黒服の大男様

気になりましたので、質問です。

> 過日加藤謙吉先生との雑談の中で、『鎌足の鹿島誕生説』をお伺いしました。併せて中臣氏の出自を忌部氏とお考えの話しなど伺いました。

「鎌足の鹿島誕生説」は『大鏡』ですか、とりあえず気にするつもりはないのですが、忌部(斎部)氏は中臣氏とともに祭祀を分掌した氏族であり、近縁関係はないと思います。

藤原氏が隆盛に成るに伴い、中臣氏が祭祀を独占化する傾向に対し、斎部広成が『古語拾遺』をあらわして抵抗したことは有名です。

この『古語拾遺』に蘇我満智の三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)検校伝承があり、満智の実在性を示す傍証とされてきたのですが、加藤先生は、忌部と蘇我氏は実は地縁的に結びついており、三蔵検校伝承はその関係を背景に創作された、とするお考えを示されました。むしろ蘇我と忌部の関係こそ重要ではないでしょうか。
(平林章仁『蘇我氏の実像と葛城氏』(白水社、1996)も参照)




821. Re^3:染谷時忠のルーツ 黒服の大男  2003/06/21 (土) 22:57
 余談ですが真贋はともかく、鎌倉時代の由井家の当主は文書の中で藤原氏を名乗ってました。




820. Re^2:染谷時忠のルーツ 大男  2003/06/21 (土) 22:24
 皆様御返事有難う御ざいます。
 そうなんです。何を探してもこれ位しか出てこないのです。
 そのくせに鎌倉に屋敷跡の伝承が有るのです。
 鎌倉に居たくせに相模国国司。彼の自宅そばの甘縄付近ですが、縁の有った社寺の話まで有ります。海老名に近い伊勢原ならまだしも。
 また『由比の長者』と言われたとか。
 さらには百済人伝説と鎌足の玄孫伝説?
 全く不思議な人物です。

 鎌足がここで出てきました。
 鎌足と中臣本家との妙に空々しい微妙な関係。また日本書紀の不自然な注。鎌足の出自に関する『とんでも』説が妙にリアリティーを感じさせるのです。曰く百済系帰化人。
 そして鎌足が中臣の氏に入り込んだという話です。春日大社の祭神などにも触れて論証してました。
 あまりの突飛な話で私がその全てを肯定してる訳では有りません。
 正史には何か隠されている気がする程度です。

 染谷氏は鎌倉の話ですので加藤塾長の『鎌倉質問箱』でも聞いたのですが、天平はレス違いだった様です。
 
 例の大鷲伝説に似た話が、鎌倉西御門の来迎寺にある如意輪観音。その胎内に収められた幼児の骨に有ります。
 『由井の長者の子供が大鷲にさらわれて亡くなった供養のため云々』
 この由比(由井)の長者って誰って疑問が出てきます。
 観音様は玉眼、土紋付き。どう見たって天平には遡れません。
 天平の人骨が鎌倉・室町期に伝わったというのも不自然だろうし。別の由井の長者としたらよくよく鷲に祟られたネーミングです。
 やはり強烈な印象の説話が入り込んだとするのが自然と思ってます。




819. HONさま、こんばんは まさみ  2003/06/21 (土) 20:29
 HONさま、さわらびTさま、Yさま、こんばんは。まさみです。今日はすさまじく暑かったですね。早くも夏バテの気配です。
 HONさまのHPに訪問させていただいたのですが、あまりの内容の濃さに、恐れおののき掲示板へのご挨拶もなしに帰ってきてしまいました。すみませんでした。後日改めてお伺いいたします。HONさま、いろいろとご教示よろしくお願いいたします。

 今日はいまから、加藤先生の「秦氏とその民」を読み返すところです。ですがどうにもだるさが抜けず、ちょっとつらいです。
「秦氏」は「摩多羅神」と非常に関係が深いと思われるので、
明日のお話が楽しみです。さわらびYさまはお見えにならないとのこと、とても残念です。さわらびTさま、よろしくお願いいたします。




818. Re:染谷時忠のルーツ HON  2003/06/21 (土) 19:48
「困った時のHON頼み」なら、HONが困ったらどうすりゃあいいのか。
「本頼み」といこう。といってもこの染谷氏、あまり本に載ってないのです。

伊勢原市の比比多神社の由来ですか。
ボウソウ街道R246をバイクでオトナシク? 走ってたころ、丹沢の麓の畑の中に
大きな案内看板があって、ヘンナ名前の神社、と見てましたが、寄ったことは
なかったですね。何しろ丹沢の大山といえば山頂の阿夫利神社が定番ですし、
ハイキングやオフロードバイクのビギナーのころは丹沢の裏山の林道を走り
回ってました。

それはともかく、良弁は『元亨釈書』の孫引きによると近江国の百済氏
もしくは相模国の漆部(ぬりべ)氏出身といわれます。また、鷲にさらわれて
東大寺二月堂下の良弁杉の根元に捨てられていたのを、義淵に拾われて育て
られた、という伝説口碑があり、生国相模と二月堂下をつなげた話もある
ようです。

相模の漆部氏は文字通り漆(うるし)や渋を木地に塗る専門職と思われます。
職業柄材木に通じ東大寺大仏殿建立のとき、漆部直伊波は材木を買う資金に
商布二万反を寄付して従七位上から外従五位下を授けられ、国司佐渡守など
になり、恵美押勝=藤原仲麻呂の乱には追討の功により大和介を経て、遂に
相模国造になっています。この漆部氏出身の良弁は大仏開眼供養のとき、
東大寺の最高責任者たる東大寺別当になってますから、漆部氏が起用された
のも当然ということでしょう。

さて肝心の良弁の父といわれる相模国司の染谷時忠ですが、『続日本紀』
には名前も出てきませんが、この本、編纂がズサンといわれてますから、
国司でも載らない場合がある。だから実在したかもしれないとして、相模守
という国司ですから京都から派遣されて来た生国不詳の男、相模国の漆部氏
の女に良弁を生ませ、また転任していった。もしかすると、女に泣きつかれて
引き取ったか、鷲になって良弁杉の根元へ捨てたり、東大寺の義淵に預けた
のは、この男かもしれないですね。

その証拠にもならないですが、鎌倉から染谷氏という一族は出てきません。
鎌倉時代はじめごろからか、常陸国新治郡染谷村から出ているようで
次の「千葉一族」の掲示板に「タイトル:染谷氏 」というのがあります。
http://www56.tok2.com/home/bamen/k1.htm




817. Re^4: 平林氏の本など HON  2003/06/21 (土) 19:41
にしじま まさみさん 
はじめまして。さわらびY(ゆみ)さんからご紹介いただきましたHONです。
うちのHPはごった煮状態ですが、どうぞご覧くださって、
掲示板もありますのでご感想・ご意見なり宜しくお願いします。




816. Re3: 平林氏の本など HON  2003/06/21 (土) 19:40
さわらびY(ゆみ)さん こんにちは

>ところで「穢れの問題」や境界・あそび・子供から大人になる儀礼などの分野については、中世 史では横井清『中世民衆の生活と文化』が私にとって、一番強く影響を受けた本です。
1975年初版のようですが、このころ「差別と触穢思想」について、ここまで解明言及した一般書 はすごいと思いました。

わたしも昔、網野善彦氏のものと平行して読みました。
でも、どうしても網野氏の方へ引かれてしまう。根がミーハーですから!

それから、わたしのHP「坂東千年王国」をご紹介いただきまして
ありがとうございます。




815. Re:平林氏のファンを増やしましょう HON  2003/06/21 (土) 19:38
>『蘇我氏の実像と葛城氏』から私のお気に入りの箇所をとりあえず。蘇我氏と、葛城の関連を示 すものとして、次の指摘をされました。

>『紀氏家牒』逸文「馬子宿祢男蝦夷宿祢家葛城豊浦里、故名曰豊浦大臣。」

>この逸文はかって葛城の地に豊浦の地名が存在したこと、それが蘇我蝦夷所縁の地であることを 伝えたものとして重要である、と述べられます。

この『紀氏家牒』逸文、わたしも図書館で探してコピーとりました。
他に出てこない情報があって面白いものです。
記紀だけで決め付けてしまう場合が多いですが、こういう断片情報も貴重ですね。




814. よろしくおねがいします さわらびT  2003/06/21 (土) 09:14
にしじま まさみ様

髻華の会の講演会にご参加いただけるとのこと、ありがとうございます。
さわらびYは当日、郷土史研の例会のため残念ながら参加できません。
加藤先生は、渡来人研究の第一人者で、今回は通説とは違う「秦氏」のお話が聞けます。私も楽しみにしています。

加藤先生にお願いして9月から新たな勉強会も始める予定です。当日ご案内さし上げますので、声をかけてください。




813. 「韓人、鞍作臣を殺しつ」の解釈 さわらびT  2003/06/21 (土) 09:05
黒服の大男様

お久しぶりです。昨日メールさせていただいたのは、古代藤原氏のルーツのことでした。

藤原氏の祖、鎌足生誕の地はどこなのでしょう。

南家武智麻呂の第二子、仲麻呂の手になる『藤氏家伝』は鎌足生誕の地を「大倭国高市郡の人なり。」と記述しながら「藤原の第に生まれき。」とも書いています。この「藤原の第」がどこなのか、議論されるところです。

藤原氏=帰化人説がどこから出たのか分かりかねたのですが、「乙巳の変」との関係が問題だった洋ですね。(念のために申し添えますが、入鹿暗殺事件は「乙巳の変」と言うことにしています。また「大化改新」は改新の詔そのものの信憑性にも論点が多いので、慎重に言葉を選ぶ立場です。)

この「乙巳の変」が起こったのは、三韓進調の日のできごとです。入鹿が殺害された現場にいた古人大兄がもらした言葉として、「韓人、鞍作臣を殺しつ」と『日本書紀』が記しています。
分注に「韓政(からのまつりごと)に依りて誅(つみ)せらるるを謂ふ」とあります。この言葉の解釈が当初から難しかったことがうかがわれます。この分注、「韓政」=朝鮮半島の政治情勢がクーデターのひきがねになったと解釈すると、外交政策をめぐる親百済派と親新羅派の対立が背景にあったとする理解もあります。
しかし「韓政に依りて」の穏当な解釈は三韓進調の儀式の日であった、ということになりますが、釈然としないのもわかります。
遠山美都男氏は蘇我倉山田石川麻呂を、「韓人」とする解釈をとっていますが、あくまで一説として紹介だけにとどめます。




812. 染谷時忠のルーツ、勉強不足でごめんなさい さわらびY(ゆみ)  2003/06/21 (土) 00:41
> 相模国司、鎌足の玄孫等々言われてますがどうも・・・
> 藤原家の出自共々教えて下さい。

貴兄からのメールの件、Tがお答えしたようですが、私も勉強不足で十分お答えできずすみません。

メールでのご質問は以下のようでしたね。
> 今、かっての相模国、国司といわれる良弁の父、染谷時忠に興味を持っております。しかし調べが進まなくなってしまっており、御智慧を拝借出来ないかと筆を執りました。
> 染谷氏と大山神社など西湘地区と結びつくのは、国府の関係で不思議では無いのですが、鎌倉に屋敷跡が有ります。甘縄神社など縁の場所と言われてます。
> 何年も住んでいて国司の仕事をこなした云々と伝承にありますが、鎌倉が国府だったという話しを聞いた事が有りません。
> また出自が変です。鎌足の孫とか玄孫とかいう話しと帰化人(百済)とか諸説有ります。しかし藤原や中臣の家系図にも見あたらないのです。
> もし鎌足が『噂通り帰化人なら』とか勘ぐりたくなりますが、如何なものでしょうか。
>例の百済の王子、豊章(異字も有り)まで想像を膨らませる自信は無いのですが、藤家は本当に訳が判りません。

伊勢原市の比比多神社の由来に関連して「染谷時忠は藤原鎌足の玄孫、東大寺初代別当良弁僧正の父で、鎌倉に居住し鎌倉の始祖と言われる。良弁は雨降山大山寺の開山上人である。」だそうですね。
調べたことがないので、染谷時忠についてのルーツはよくわかりません。

「困った時のHON頼み」で、ここは、HONさんのHPの掲示板でちょうどそれに近い話題が出ていますので、ご参考になさってください。http://8554.teacup.com/hon/bbs

5月31日から6月6日ごろまでの「羊」さんの書込みが、貴兄のご興味と合うのではないかと思います。

それにしても、HONさんの掲示板、心ない掲示板荒らしの書き込みと果敢に闘っておられるようですね。
トラブルの処理の仕方をみても、さすが、長年のつわもののキャリアを感じさせます。臆病な私としては、それだけでも勉強になります。がんばってください。




811. Re: メールの内容です。 黒服の大男  2003/06/21 (土) 00:18
 メール有り難う御ざいました。
 過日加藤謙吉先生との雑談の中で、『鎌足の鹿島誕生説』をお伺いしました。併せて中臣氏の出自を忌部氏とお考えの話しなど伺いました。
 ほぼこの頃より染谷氏を調べてましたが、良弁の父位が一般の認識です。染谷氏の出自は2説有り、百済人と鎌足の玄孫です。
 次に大化の改新の直後の古人大兄皇子の言葉『韓人鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し。』が引っかかってました。
 韓人を日本書紀の従来の読み方で見て行くのはどうも無理が有りませんか。朝鮮系渡来人が馬子を殺したと読むのが自然では。
 調べると同じような疑問が色々な人のHPや本で出てました。
 古代史はあまり詳しくないので、この『とんでも』説の真贋と上述の染谷氏をお伺いしてしまいました。




810. メールの内容です。 黒服の大男  2003/06/20 (金) 23:41
ついメールしてすみません。染谷時忠が判りません。
相模国司、鎌足の玄孫等々言われてますがどうも・・・
藤原家の出自共々教えて下さい。




809. Re^2: 平林氏の本など にしじま まさみ  2003/06/20 (金) 09:12
> 昨日、このHPをご覧になって桃崎先生の講演にいらした方で、「浦島伝説」の関連から摩多羅神(まだらしん)と牛に関しての供儀についてご興味をお持ちの方とお話しする機会がありました。
> 伝承や儀礼については、HONさまが詳しそうと、「坂東千年王国」をご紹介いたしました。
> (「坂東千年王国」URLは次のとおりです。http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/index.htm )

 さわらび・ゆみさま、おはようございます。
「浦島」のまさみです。
先日は有意義な時間をありがとうございました。
早速のご紹介、ありがとうございます。
今日、これからHONさまの「坂東千年王国」にいってみます。
楽しみです。HONさまよろしくご指導お願いいたします。
 それから、日曜日の加藤先生の講演会にも出席いたします。
よろしくお願いいたします。(お会いできるのを楽しみにしておりますおります。)




807. 平林氏のファンを増やしましょう さわらびT  2003/06/20 (金) 00:11
HONさま

ご丁寧な書き込みありがとうございます。いつもHONさんのすばらしい文章には堪能しています。

私の場合は興味本位で、自分に理解できることだけを繰り返し読んでるだけですので、お恥ずかしい限りです。

平林氏はお会いしたこともないのですが、なぜか親近感をいだいております。親しくさせていただいている加藤謙吉先生から葛城にお住まいであることなどうかがっておりました。HONさんがファンのお一人なのは大変うれしいです。

『蘇我氏の実像と葛城氏』から私のお気に入りの箇所をとりあえず。蘇我氏と、葛城の関連を示すものとして、次の指摘をされました。

『紀氏家牒』逸文「馬子宿祢男蝦夷宿祢家葛城豊浦里、故名曰豊浦大臣。」

この逸文はかって葛城の地に豊浦の地名が存在したこと、それが蘇我蝦夷所縁の地であることを伝えたものとして重要である、と述べられます。

また16世紀、三条西公条(きんえだ)の紀行文「吉野詣紀」に葛城の金剛山中で詠んだ歌、「春の日やもはや西なるや葛城の花にとよらのかね響くなり」
これは、金剛山麓に「とよら」という寺院が地名とともにあった
ことを示すという。

薀蓄の深さ、鋭さに感服しています。
ただし、加藤謙吉先生は、後者の説については疑問のようですが・・・(『大和の豪族と渡来人』)




806. Re: 平林氏の本など さわらびY(ゆみ)  2003/06/19 (木) 23:47
HONさま
「坂東千年王国」からようこそ。

ご紹介いただいた本は、どれも面白そうですね(Tの本の「倉庫」あるかも)。このうち「周縁の古代史…」と、ほかに「橋と遊びの文化史」を読んだ記憶があります。
伝説・伝承と古代・中世史をつなぐ世界は、HONさまのお得意の世界のようですね。
こちらも「坂東千年王国」に学ばせていただきたいと思います。

ところで「穢れの問題」や境界・あそび・子供から大人になる儀礼などの分野については、中世史では横井清『中世民衆の生活と文化』が私にとって、一番強く影響を受けた本です。
1975年初版のようですが、このころ「差別と触穢思想」について、ここまで解明言及した一般書はすごいと思いました。

昨日、このHPをご覧になって桃崎先生の講演にいらした方で、「浦島伝説」の関連から摩多羅神(まだらしん)と牛に関しての供儀についてご興味をお持ちの方とお話しする機会がありました。
伝承や儀礼については、HONさまが詳しそうと、「坂東千年王国」をご紹介いたしました。
(「坂東千年王国」URLは次のとおりです。http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/index.htm )

HONさまの掲示板の6月17日付け「徳一以前とその流れ」は、とても興味のある話題ですが、ちょっと余裕がなくて失礼しています。
そのうちまた、おじゃまさせてください。




805. 桃崎先生の6回目の考古学のご講演をお聞きして さわらびY(ゆみ)  2003/06/19 (木) 22:36
昨日の桃崎先生のご講演は、先生の修士論文のテーマをメーンに(そう頼んだのはTですが)、当日午後までかかって最新データで補強されたA3版24ページにわたるレジュメをもとに、よどみなく展開される考古学の世界にすっかり魅了されました。

去年6月21日、シルクロードの会で「日本列島における騎馬文化受容過程の再検討」の講演をお願いしてちょうど1年。この1年間に、シルクロードの会とその他の会で、延べ6回の考古学(ほかに奈良で「中世律宗」でも1回)のお話をお聞きできたわけですが、毎回その実証的な内容の深さと視点の新しさ、国際的な幅の広がりに、どうしても「また次」を期待してしまいます。

市民に混じって、先生の同業者のプロの方、考古学の学生・院生の方々を、またこのホームページをご覧になってという方もお見うけする会場は、いつも熱気があふれていますね。

桃崎先生、また主催者の高さま、ありがとうございました。




804. 平林氏の本など HON  2003/06/19 (木) 18:23
さわらびTさん こんにちは

ご紹介の平林章仁氏の『三輪山の古代史』、面白そうですね。
実は平林氏の隠れた? 愛読者でして、
「七夕と相撲の古代史」1998
「蘇我氏の実像と葛城氏」1996
「周縁の古代史―王権と性・子ども・境界」1994
という逆順で読んできました。

皆、大和盆地が対象ですが、三輪山が出てこないのは何故かと
思ってましたら、やっぱり出ましたね。照会文を読みますと、
上の「七夕と相撲の古代史」と関わり深いように見受けます。
相撲は土師の先祖伝承で、殉死・殉葬の代わりに土師が埴輪を
造るようになった、という伝説になりますから。

供犠論研究会なんていうのがあるのも初めて知りました。
会員の赤坂憲雄氏、東北学の提唱者でしたね。
著書の『東西/南北考』を読もうと思っていたところです。
同じく紹介文の「第五章 穢れの民族史」、穢れの問題を追い
たいと心がけてます。

それにしても、お二人方、幅広く正確に追われていて、敬服しております。わたしは正規の勉強もしてない自己流ですから、いつも教えられております。




803. 「印旛沼のほとりの仏たちU・保品と寺崎の秘仏」をUPしました。 さわらびY(ゆみ)  2003/06/15 (日) 22:32
本日、「印旛沼のほとりの仏たちU・保品と寺崎の秘仏」をUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/2-6/2-6.htm
昨年5月と11月の取材ネタをまとめるのが今の時期になってしまったのは、保品と寺崎の仏像について、すっきりしない点があったからです。
あらためて書いてみると、仏像の像容について知らないことばかり、清涼寺式像をリストアップした私の手持ちのデータがもしかしたら古いのか、わからないところだらけです。
このまま、ほっとくわけにもいかず、一応疑問点をそのままに、皆様のご教授とご批判を仰ぐことにしました。
画像データは、
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/butuzou-data/butuzou-data.htm
参考資料は、
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/rissyusannkoubunnken.htm
に載せてあります。
お気づきの点がありましたら、どうか当掲示板かメールでご教授ください。




802. 殉死・殉葬、そして桃崎先生の講演 さわらびT  2003/06/14 (土) 20:45
平林章仁氏の『三輪山の古代史』(白水社、2000)は、古代の人々の心の中を明らかにしたかった、とあとがきにあります。本の紹介は下記に詳しいです。

http://homepage1.nifty.com/kugiron/miwayama.htm

第4章「殉死・殉葬・人身御供」に興味を持っています。『魏志』倭人伝に「卑弥呼以死大作冢径百余歩徇葬者奴婢百余」とあるのは有名ですが、これを史実と見る必要があるでしょう。王の死には殉死はつきものです。考古学的証拠がない、とよく書かれていますが、まだ本当の王墓が発掘されていないことを意味するのかもしれません。山尾先生が箸墓を掘れば、殉死者の骨が出てくると、講演でおっしゃられたことも思い出されます。

孝徳紀2年(646)「大化薄葬令」は明らかに殉死・殉葬を禁じていますから、それらの風習が確かに存在したと理解しうるわけです。

でも奈良県天理市、長寺遺跡出土人骨(弥生時代中期の井戸の底から)の話など、こわーい。

この章では、桃崎先生の業績にふれておられます。以前にも紹介したように記憶していますが6月18日のご講演の直前でもありますので、引用します。

「桃崎氏の業績は、全国的な資料集成に基づき他界観との関連や朝鮮半島・中国東北地方の事例からその文化系統の見通しを示されたこと、動物供犠の視点から殉葬と生贄の区別を明示されたこと、古墳への動物供犠を古代文化史上の問題と位置づけられたことなど、この分野の研究を大きく前進させた。」

「古墳に伴う牛馬供儀の検討―中国東北地方・朝鮮半島・日本列島の事例を比較して」(『古文化談叢』31)が発表されたのが1993年ですから、それから10年目の講演会です。




801. 映画「チョムスキー9.11」を見て さわらびY(ゆみ)  2003/06/14 (土) 00:46
仕事の帰り、ひさびさに友人を誘って映画を見てきました。
「チョムスキー9.11 power and terror」というシグロの作品。
http://www.cine.co.jp/chomsky9.11/index.html

「アメリカの外交政策を静かに批判し続けるノーム・チョムスキー。
昨年の同時多発テロから1年、今もっとも求められている言葉を、21世紀の知の巨人が誰よりも明解に語る。」という内容です。

アフガニスタン侵攻やイラク攻撃などの世界のニュースに、出口のないむなしさを感じていたこのごろ、この映画を通して良識ある知識人のまっとうな言葉にであい、なにかほっとした気がしました。
戦争のドキュメントでもなく、プロパガンダでもなく、チョムスキー氏の淡々と語る姿をひたすら追うだけの映像ですが、本では感じ得ないチョムスキー氏の人柄が伝わってきます。

文明国が、力ある地域が、アメリカが、弱者であった貧しい国々に対して何をしてきたか、という歴史認識がテロの連鎖を断ち切り、市民の新しい歴史を作っていくのだと、訴えているように感じました。

「日本カトリック映画賞授賞式」のイベントでしたので、監督のジャン・ユンカーマン氏の講演付きの内容ある催しでした。
今秋9月11日にも、中野でまた上映されるそうです。
こんな地味な映画が日本の映画制作会社の手で作られていたのですね。それも驚きでした。