バックナンバー
No.1901-No.2000 2005/1/3〜2005/2/21
Since 2001.10.08
・オーバーフローで消えてしまった発言を収納しました。
・書き込み、修正、削除はできません。修正・削除は、管理人にお申し付けください。
・他への引用は、著作権などの配慮から、発言者へ連絡をお願いします。
No.1-No.100 No.101〜200 No.201-300 No.301〜400 No.401-500 No.501-600 No.601-700
No.701-800 No.801-900 No.901-1000 No.1001-1100 No.1101-1200 No.1201-1300 No.1301-1400
No.1401-1500 No.1501-1600 No.1601-1700 No.1701-1800 No.1801-No.1900 No.1901-2000
No.2001-2100 No.2101-2200 No.2201-2300 No.2301-2400 No.2400-2500 No.2500-LAST

TOPへ  現在の掲示板へ




2000.  「馬場小室山遺跡」研究会第3回ワークショップ(2) さわらびT  2005/02/21 (月) 21:45
>井野長割遺跡の見学を終えた後は、駆け足で回りましたので、ご参加の皆様方には十分にご理解いただけなかったことと存じますが、印旛沼をのぞむ遠部台遺跡の景観や、程近い場所に形成されている曲輪ノ内貝塚の広がりも見ていただくことができたかと存じます。

余断ながら明治大学で調査を継続されている曲輪ノ内貝塚から、調査を中断してまで阿部助教授が学生さんをお連れになって馬場小室山遺跡の発掘ボランティアに駆けつけてくださった経緯は、先月の小室山セミナーで鈴木先生が、お話になられたとおりであります。

歴博には予定の時間に到着、昼食後すぐに第3回ワークショップを開かれました。外部要因の特定「環境変動(寒冷化)による「台地‐低地拠点分散網条型集落の展開」、はなはだ難しい表現ですが、斉藤先生の分かりやすい講義を中心に30分間という短い時間でしたが内容の濃いお話を承ることができました。内水面交通網についてですが、採集魚類の分析を通じて海の漁労、汽水域の魚、そして淡水魚と移り変わることの意味するところが明瞭にわかるご説明でした。

1時半からは歴博講演会、調査をされた小倉和重氏ならびに歴博の西本教授の講演を拝聴し、講演終了後は西本先生にお願いして、プロムナードでもご説明いただきました。

あわただしく1日を過ごしたあと、有志は懇親会の会場へ急いだのでした。これがまたためになる会合なんです・・・・



1999. 「馬場小室山遺跡」研究会第3回ワークショップ(1) さわらびT  2005/02/21 (月) 21:42
昨日は、30名近くの皆様にご参加いただきました。「遠いなぁ」と多少敬遠気味だったAさんも出向いてくださいました。たまたま土曜日、別の会合でご一緒だったBさんが歴博に行く予定とうかがって、それなら午前中からいらっしゃいませんか、とお誘いしたりで、直前に参加者が増えました。

前日の雨で天候が気になりましたが、うす曇ではありましたけれど問題なし。皆さん時間厳守でユーカリが丘の駅に集合され、井野長割遺跡見学会をスタートできました。8台のクルマに分乗し、参加者は現地に足を踏み入れたのでした。よほど現地に惹かれるものがあるのか思い思いに歩き回ってましたね。挨拶もそこそこにいきなり現地説明会をはじめてしまいました。

T花さんから、遺跡の全体図をもとにマウンドひとつひとつ丁寧なご説明をしていただき盛土の現状をつぶさに見学できたのでした。自然の地形を改変しマウンドを形成するという行為が継続的に続けられた営みを見ることができたのです。昭和44年、小学校建設い発見された遺跡ですが、その調査の時には、知られなかった事実も現在では明らかにされつつあります。小学校敷地内にも、立ち入らせていただき、道路遺構の存在が明らかになった場所にも立たせていただきました。

小学校の校庭内で発見された、道路遺構ですがも鉄棒の位置を目印にして見ますと遺跡図との照合が分かりやすいのでありがたいなと思ったりしました。生活道路が、そこにあったという村の一端も知ることができました。検出された。何もないというところに意味があることが驚きともいえます。

この土地から立ち去った姿がそのまま残されているというのは、馬場小室山と同じであり、縄文人が見た景観がそのまま残されているというのは、まさにタイムカプセル、保存とはかくあるべきだと実感できた次第です。

井野小学校の教頭先生もお越しいただきましたし、長らく保存運動に関わってこられた方にもお付き合いいただきました。本当に皆様のご配慮に感謝でした。



1998. Re^2: 今日もありがとうございました とら  2005/02/20 (日) 23:24
本日は1日ありがとうございました。
あれだけの準備,お骨折りもあったことと推察いたします。本当にお疲れ様でした。正式報告楽しみにしております。そしてまたお誘いください。

追伸:簡単な日記のみ作ってみました。
http://blog.livedoor.jp/ibarakikoukogaku/



1997. Re: 今日もありがとうございました さわらびY(ゆみ)  2005/02/20 (日) 23:14
遺跡大好きネコさま 皆さま

遠路はるばる井野長割遺跡〜歴博まで、おいでいただきありがとうございました。
まだいらした方の名簿も整理していないのですが、二十数名の方々が熱心に環状盛土遺構を実感し、調査報告を聞いて、遺物を見学し、なおかつ短い時間でしたが、第3回研究会の中身の濃いワークショップもでき、初めて知った知識とモノの考え方に接して感動の一日でした。

> 中華料理店に行かれたみなさまはまだお楽しみ中でしょうか?

そう、とても盛り上がりましたよ。近い私たちはもう帰宅しましたが、さいたま市昭島市茨城県からの皆様はまだ電車かお車の中でしょうね。

> 今日も中身の濃いセミナーでした。午後の発掘報告や講演を聞く前に現地を見ていて本当に良かったと思いました。また、ちょっと寄った遺跡も感動物でした。

百聞は一見にしかず、だったと思います。遠部台遺跡と曲輪ノ内貝塚は、時間がなくてちょっと眺めていただいただけでした。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/joumon/joumon.htm
のページでどうか歩いた気分になってください。

> 今日も色々ご準備くださった方々、車を出してくださった方々には改めて感謝します。

ほんとうにT花様ほか皆様にはお世話になりました。
自発的にそれぞれの力が結集される研究会になってきましたね。このきづなを大事にしていきたいと思います。
今度は馬場小室山でお会いしましょう。



1996. 今日もありがとうございました 遺跡大好きネコ  2005/02/20 (日) 22:08
馬場小室山遺跡研究会セミナーにご参加のみなさま。お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。

中華料理店に行かれたみなさまはまだお楽しみ中でしょうか?

今日も中身の濃いセミナーでした。午後の発掘報告や講演を聞く前に現地を見ていて本当に良かったと思いました。また、ちょっと寄った遺跡も感動物でした。

今日も色々ご準備くださった方々、車を出してくださった方々には改めて感謝します。今後もみなさんの知識と興味を分けてください。どうぞよろしくお願いします。

今回もまた管理人さんたちより先に書かせていただきました(^ ^;)



1995. Re^3: <石枕と常総の文化>「石無し県」北総の石への信仰 さわらびY(ゆみ)  2005/02/20 (日) 00:23
T花さま
>こんばんは。明日はよろしくお願いします。
こちらこそお世話になります。「晴れ女」の確率だけは、フィールドワークに貢献できる私の唯一の特技ですので、なんとか傘いらずにしたいと思っています。

>  白石先生が発表された大鷲神社古墳は、酒々井町にあり、・・・
わかりました。ここですね。
http://www.nifty.com/cgi-bin/mapview.cgi?map_x=140.16.30.3&map_y=35.44.19.9&map_szx=520&map_szy=420&map_zoom=11&map_center=1

石枕は、八千代市にもひとつだけ神野芝山4号墳出土のが、八千代市立郷土博物館に展示されていますが、立花は失われてなかったのが残念です。墳頂部に白幡様の祠がある古墳だったそうですが、昭和46年に破壊されてしまいました。

その名もゆかしい神野は、石神様(神体は大きな石棒?)を祭る縄文遺跡、そして市内では珍しい大きな下総式板碑のある台地です。
この3つの共通項は「石」。まさに石無し県・千葉県北部での特異な先史・古代・中世の石に対する信仰を語るようです。
4号墳は、粘土かくだったらしいです。せめて御棺は石でなくても、枕だけでも石枕にと思ったかどうかはわかりませんが、石に対する畏敬の心情は、石がごろごろある地域にはわからないのでは?

これも私の短絡的思い付きですが、立花(なんだかT花さんのHNに似ている言葉ですね)が信仰主体で、石枕は付属品のような気がします。
玉造などの地名が成田市や佐原、多古町にあるように、北総は特に勾玉の呪術性をその前の時代から引きずっている地域じゃないかしら?
北総の古墳のプロに対し、とりとめのないレスになりましたが、お許しください。



1994. Re^3: <石枕と常総の文化>の南限 さわらびT  2005/02/19 (土) 23:51
T花様

ご教示ありがとうございます。石枕にまつわるエピソードもいろいろありそうですね。

最近の出土例で、神崎町の北の内2号墳の石枕と立花のスライドを見せていただいたのですが、折れて石枕の孔に立花の芯が残っているので、立てていたことは証明されたとのこと。やっぱりモガリだったんでしょうか。いずれにしても勾玉を背中あわせにした形状が物語るものがあるんでしょうね。

では、明日。こちらこそよろしくお願いいたします。



1993. Re^2: <石枕と常総の文化>の南限 T花  2005/02/19 (土) 18:54
こんばんは。明日はよろしくお願いします。

 石枕の話題で盛り上がってますね。
 白石先生(歴博を退職され、現在は奈良大学と近つ飛鳥博物館に籍を置かれています)が発表された大鷲神社古墳は、酒々井町にあり、京成酒々井駅の北側で、スーパータイヨー(ローカルな話題ですみません)の近くにある円墳です。印旛沼周辺では珍しく沖積地に近い場所に立地しています。墳丘の頂上にある神社の社殿付近を清掃していた際に石枕が発見されたという話も不思議ですが…。
 また、甘粕氏が海上連合説を唱えられたのは市原市にある「上総山王山古墳」の報告書だったかと思います(甘粕健 1980「養老川水系の古墳分布と山王山古墳の歴史的性格」 『上総山王山古墳』)。
 石枕については、あるけ〜さんのご指摘どおり京葉道路建設に伴って東寺山石神遺跡が調査され、石神2号墳から出土した2個の石枕について、その報告書で詳しい検討がなされ、注目されました。その後、房総風土記の丘では1979年に企画展「日本の石枕」が開催されるなど、一時期、石枕が非常に注目さた時期がありました。近年でも、下総町にある栗山・猫作16号墳から、一つの木棺から3個の石枕が出土し、千葉県の指定文化財に指定されています。
 最近は不勉強でわかりませんが、「常総地域」を研究する上で非常に重要な遺物であることは確かですね。ただ、白井さんが検討されているように、その成立を考えるには、常総地域だけではなく、全国的視野に立つ必要があるでしょう。



1992. 阿部仲麻呂の本 朝衡 [URL]  2005/02/19 (土) 02:50

 http://shumpu.com/index.php?itemid=332
 ■阿部仲麻呂に関する本■



1991. Re: <石枕と常総の文化>の南限 さわらびT  2005/02/18 (金) 23:47
あるけ〜様

ハマグリの話題、拝見させていただきました。貝塚の貝殻も磨いて表面が現われるといいですね。

白井先生のレジュメに石神2号墳の立花の拡大写真をつけてくださいました。かじったネズミは地上生活なんだそうで、モガリが証明されたことになるようです。(出典は沼澤豊ほか『東寺山石上遺跡』とあります)

あるけ〜さんが述べておられる海上連合説も話題にしておられましたが、白井先生は、その説には同意しておられないようです。

海上国連合というのは甘粕健氏が説かれた説とのこと。白石先生が、書かれた文章を引用します。ちょっと古い論文ですが、私も読み飛ばしてましたので、あらためて勉強しなおしてます。

「利根川下流域から東京湾岸に至る常総型石枕の分布に早くから注目されたのは甘粕健氏である。氏は『国造本紀』に上海上(かみつうなかみ)国と下海上(しもつうなかみ)国が見られることに注目し、かって東京湾岸の市原市付近に比定される上海上から、利根川下流の下海上国に至る、房総半島北部を横断する広域な地域に、海上連合とも称すべき政治的連合体が形成されていたことを想定された。そしてこの上海上と下海上を結ぶ海上連合の想定版図と、常総型石枕の分布図が一致するところから、この種石枕を海上の首長連合の結合のシンボルとしての性格をもっていたものとされるのである。特に姉崎二子塚古墳出土の直弧文をもつ石枕を、他に例を見ない優品で、石枕分布圏の王者の風格を示すものとされる。そして印旛・下海上地方に濃密な石枕分布のあり方から、その製作地もこの地域にあったと考え、二子塚古墳の石枕は、印旛または下海上の領域から奉献されたものと考えておられる。さらにこの常総型石枕が六世紀初頭を境として消滅するのは、海上連合の解体がその風習の廃絶を早めたことを示すものではないかと考えられるのである。」(白石太一郎「大鷲神社古墳発見の石枕とその提起する問題」『千葉史学』第10号)

ここから先の白石先生の論点も興味深いのですが、今日はここまでにしておきます。この話題、尽きない感じです。



1990. Re: 香取の海 さわらびY(ゆみ)  2005/02/18 (金) 00:34
T花さま、「香取の海」の固有名詞のルーツ、ありがとうございます。

今手元にある本では、『手賀沼が海だった頃−松ヶ崎城と中世の柏北域−』で川尻先生が紹介されておられる和歌のひとつ
「浪あらきかとりの海の夕汐に わたりかねたる世をなけくかな」
1256年「夫木和歌抄」藤原光頼の鹿島神宮参拝の折りの歌だそうです。

古来より「香取の海」という言葉は、歌に読み込まれたようですね。
中央博特別展「香取の海」図録の解説(p59)では、この「香取の海」を「下総国香取郡に接する一部分の名称にすぎない。この(北浦-霞ヶ浦-印旛沼-手賀沼など)広大な内海の全体を指し示す呼称は存在しなかったと思われる」といって「古来以来存在した内海全体の呼称として」特別展のタイトルとしたとそうな。
私もHPやルポ記事で気軽に使っている内海全体の呼称としての「香取の海」の仕掛け人は、どうも元中央博の川尻さんや木村修さんあたりのような気がします。(いつかお会いしたら確かめてみたい)

でもこのような歴史的文化交通圏を示す言葉を「作って」くださると、わかりやすくて重宝です。

現在、市町村合併で新しい市や町のネーミングが話題となっていますね。「南セントレア市」?、山武4町村合併 した「太平洋市」? 地名も歴史的遺産なのにまったくどうなっているのでしょう。

ところで遺跡の名前も、もうちょっとわかりやすくなじみやすいものにならないのでしょうか。

「石神」「姥山」「宮内」がつく縄文遺跡が多いのも、上貝塚貝塚、城城址というのもその性格から納得。
でも小字名にTとかUとか、BとかEとか、第T地点、第○調査区をやたらとつけても、役所の遺跡地図と報告書の世界の中だけで、地域の人にはちっともなじんでいないですよね。(消滅すれば、その必要もない?)

せめてお寺の神社の境内は、そのまま遺跡名にできないのでしょうか。
井野長割遺跡もやっと有名になったようですが、「井野小学校北遺跡」といったほうがずっとわかりやすいはず。

研究史的に由緒ある遺跡も江原台遺跡なのか、(曲輪ノ内遺跡でなく)曲輪ノ内貝塚なのかも、素人にはさっぱりわかりません。その点、安行や曽谷など土器形式に名を残した遺跡は、ラッキーだったと思いますよね。



1989. <石枕と常総の文化>の南限 あるけ〜 [URL]  2005/02/18 (金) 00:03
みなさなん、こんばんわ

>立花にねずみがかじった痕跡があること
千葉市の石神2号墳の立花ことでは?
先日、千葉貝塚(貝塚町貝塚群)からお帰りになったとき、
おそらくその跡の真下を通過されたと思いますよ。
たぶん来るときも。今、京葉道路とその側道になっているところ
ですので。
ちなみにこちらのBBS
http://www3.ezbbs.net/27/chibaiseki/
に載せているハマグリの殻は、石神2号墳跡
のすぐ近く、数十mの場所の土師の貝塚から出たものです。

なお石枕と立花とくると、
南は、市原の姉ヶ崎で出ていますので、「石枕と立花は、常総にもともとあった海上国(巨大な連合体?)の象徴であり、海上国は、古事記にも出てくる上海上国と下海上国に分かれた」という見解を思い浮かべるのですが、一般にはどのような評価を受けているのでしょうかね。

こうなると、東京湾東岸にまでいってしまうので、話題がそれているようですが。横からどうもすいません。
2/20の成功を祈っております。



1988. Re: 返事が遅くなりました さわらびT  2005/02/17 (木) 22:45
遺跡大好きネコ様

ありがとうございます。貝塚が集中している地域があるんでしょうね。新郷貝塚もその一つでしょうか。安行式の命名のもとになったという猿貝貝塚も残されているんでしょうか。

『大森貝塚』には「食人の風習」なんてことが出てきてびっくりしながら読みました。先日のワークショップでは短い時間ながら中身が濃くて、頭使いすぎました。鈴木先生は、モースのやった成果がどうだということではなく、モースの見る見方から学べとおっしゃってましたね。そこまではとても読見き切れませんが・・・



1987. 返事が遅くなりました 遺跡大好きネコ  2005/02/17 (木) 15:09
さわらびTさん。こんにちは。

1週間ほど前にご質問があった「安行領家」の位置ですが、この間みなさんと少し歩いた見沼代用水の東縁(この間のは西縁です)を南下したところで外環道安行インターの付近・首都高の東側あたりです。貝塚と付く地名もあるようですし、YAHOO!の地図には『新郷貝塚』が載っていました。真福寺も寺としては載っています。

今、『大森貝塚』を職場への行き帰りに読んでいます。1月30日には購入が間に合わなかったので今になって読んでいるところです。120年以上前に書かれたものとは思えないですね。とても解り易くて面白いです。

さわらびY(ゆみ)さんが作られたお魚グラフを見て、『現代の大森貝塚』!と思いました。20日が楽しみです。準備してくださっているみなさん、本当にありがとうございます。



1986. 石枕と常総の文化 さわらびT  2005/02/17 (木) 00:37
とら様、はじめまして。
「香取の海」を通じての文化圏が縄文時代から連綿と続いてきたのかそれは謎なのかもしれませんが、今はなんかとても遠くに感じてますが、その視点で考えて見ると、あらためて親近感を持ちます。

T花様、丁寧なご説明ありがとうございます。遺跡が知らないうちに消えていくとしたらさびしいことですね。先日見に行った戸の内貝塚などは、調査をする予定らしいので幸せな方なのでしょうか。
白井先生の著作ですが松戸の講演会でも紹介していました。機会があったら目を通してみたいです。

白井先生の講演は、常総型石枕の研究史から説きおこし、独自の発達をするにいたった理由に論及されて、立花にねずみがかじった痕跡があること、折れて根元が石枕にのこった例など大変興味深いお話でした。
石枕の分布は、講演レジュメにもありましたが「根木名川と大須賀川に挟まれて弓状に張り出した中央部」=現在の下総町・神埼町・佐原市に集中するのですが、分布地図を見ますと、印旛沼南岸一帯も一つのブロックをなしているようでもありますし、T花さんがおっしゃるように、印西市を含めた手賀沼沿岸もブロックと見ると、印西市浦部出土(馬蹄形Cb3)が中期中頃と年代観のようですので、つながるのかもしれません。

たしか、柏・HOKさまのご質問に答えられて、絹雲母片岩の箱型石棺を持つ古墳の南限が「人形塚古墳」で、石枕の分布と重なると白井先生は述べておられましたね。首長連合のようなつながりを背景に見ることができるのでしょうか。

(白井久美子「常総型石枕(1)」『千葉県史研究』第9号所収、を参照しました。)



1985. 香取の海 T花  2005/02/17 (木) 00:27
さわらびYさん

こんばんは。
香取の海については、「Re^4: 土器の型式」で触れた白井久美子さんの著書から引用しますと、古いものでは西暦771年から見られるようです。

万葉集(771年) 巻7−1172 「香取の浦」
万葉集(771年) 巻11−2436 「香取の海」
※ただし、上記の2つの史料に見える表記は、近江の国のことだそうですが、下の「五体集歌枕」に上記の2点を常総地域のものであると、誤認して注釈がつけられているそうです。そこで、史料的には1165年が初登場らしいです。
五体集歌枕(1165年) 巻下 「かとりのうみ」
続千載和歌集 巻第3 夏歌 「香取の浦」
新続古今和歌集 巻第17 雑歌上 「香取の浦」

この他には「常陸国風土記」(717年〜719年頃作成)に、「流れ海」と記載されているそうです。

もっと詳しくご存知の方は教えてください。





1984. Re^6: 土器の型式→「香取の海」をめぐって さわらびY(ゆみ)  2005/02/16 (水) 23:59
柏HOKさま
こちらこそ松ヶ崎城址のシンポジウムではお世話になりました。
中世前期の律僧忍性の足取りを追いながら、古代・中世の松戸〜大井〜木下への交通を考えていました。
柏はその地域史的な接点ですね。印旛沼南岸の郷土史の視点からも柏の位置に注目していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

T花さま
印旛沼南岸の古墳考古学の専門家から、たいへんわかりやすくご教示いただきありがとうございました。
古墳の石枕の分布や、素人目から見ると「何でこれが弥生なの?」と感じる臼井南式土器、玉作りなど地域史の側面から面白い事例がいっぱいありますね。
疱瘡除けの「アンバサマ」信仰や、萩原法子さんの「おびしゃ」の研究にも触発されて、常総の民俗の共通性にも驚いています。
メールでの会話と重複しますが、自治体の境を越えて先史から中世、民俗全般で総合的に「香取の海」を考察する学会があるといいなと思っています。

とらさま
今朝未明の地震はびっくりしました。
つくばや玉里村が激しかったようですが、とらさまの書込みの時間からすると寝入りばなだったのでは? 
>縄文時代の一部の時期にも常南総北における地域圏という・・
八千代から桜川のアンバサマにお参りしていた話や、保品の薬師堂の修理に常州の大工が来たり、いろいろつながりがあるとは思っていましたが、縄文からお仲間だったのですね。
http://yatiyo-web.hp.infoseek.co.jp/kyoudo/tuusinn36.pdf のP3
http://yatiyo-web.hp.infoseek.co.jp/kyoudo/tuusinn39.pdf のP6

ところで「香取の海」というネーミングの発祥はどこなのでしょう。
まさか千葉県立中央博物館の特別企画展「香取の海」のキャッチコピーだったということはないでしょうが、昔からそう言われてきたのか、どなたかご存知でしたらお教えください。




1982. Re^5: 土器の型式 とら [URL]  2005/02/16 (水) 02:43
みなさんこんばんは。横からすいません。
私は縄文後期の一部に土器にかわかりませんが,精製・粗製土器にわたる常南総北の地域的なまとまりは確かにみられます。東京湾東岸がもう少し見てみないと何とも言えませんが,大宮台地から東京湾西岸〜相模湾岸については地域的な別型式もありなのかな?というぐらい別のまとまりを示します。
ついでにあまり触れられたことがありませんが,茨城県内でも流域を異にするためか,霞ヶ浦湾岸と久慈川以北とでは同様の違いが存在します。その中間の様相が那珂川下流域ですね。
そのようなことを考えるとどうも縄文時代の一部の時期にも常南総北における地域圏というおっしゃった主旨と同様のことが言えそうな気がします。やはり内水面交通網?の発達なのでしょうかねぇ。



1981. Re^4: 土器の型式 T花  2005/02/16 (水) 00:12
さわらびT 様、柏HOK 様 

こんばんは。
真福寺貝塚の現状はわかりませんが、沼南町の岩井貝塚は、「千葉県の歴史 資料編 考古T」によると、一部は開発や土砂採取で消滅してしまっていますが、一部は残っている旨の記載がありました。遺跡は千葉県立沼南高校の近くですが、最近、その辺りで大規模な開発が行われており、現在も残っているか不安はあります。

 さて、石枕の分布ですが、白井さんは、古墳時代の研究をされるなかで、2002年に「古墳から見た列島東縁世界の形成」という本を出されましたが、その中で、東京湾沿岸地域(総武)と香取海沿岸地域(常総)という二つの内海を取り巻く地域圏を設定されています。そして、常総地域の古墳時代中期前半を最もよく象徴する遺物として「石枕」を挙げています。香取海沿岸地域としてのまとまりは、常総地域に分布を持つ遺物が多くあることから確認できます。縄文時代のことはよくわかりませんが、弥生時代では中期に有角石器という特徴的な石器が分布し、後期になると縄文を多用する似たような土器が分布します。また、古墳時代では、石枕以外に、後期になると常総型古墳や常総型甕と呼ばれるものが分布するようになります。
 こうしたことが巡り巡って現在の利根川下流域に分布する「オビシャ」や「子安講の犬供養」まで連綿と結びつくかはわかりませんが、香取海を中心とした地域圏があったことは確かなようです。現在、我々は東京の方角(西)を向いてしまいがちですが、東を向いて考えることも必要なようです。
 なお、石枕を持つ古墳ですが、白井さんの分析では、直径が25mから30m程度の大きさを持つ中規模な円墳が主体であったとされています。古墳は時期が移るにつれて分布する場所も変化していくようですので、手賀沼沿岸という広い視点でみますと、印西市周辺でも石枕が出土しており、印西市から柏市付近までを見て手賀沼沿岸の石枕の分布を考えると、面白いのではないでしょうか。

 取りとめもなくだらだらと書いてしまい、すみません。



1980. Re^3: 土器の型式 柏・HOK  2005/02/15 (火) 22:38
 こちらでは、はじめまして。
 さわらび様、T花様、いつも色々とお世話になっておりまして、大変にありがとうございます。

 私も、松戸博での白井さんの講演を拝聴いたしました。 (会場での質問のお答えとして)他の出土遺物も含めて、柏・弁天古墳は4世紀後半から4世紀末とのことでしたので(ということは、我孫子・水神山古墳とは半世紀ぐらいになりますでしょうか?)、白井さんの区分の第U期になると思っているのですが、(現状で)分布の西端である(かつ、現利根川河畔の)柏・弁天古墳からも、定型化以前の早い段階の石枕が出土していることは、石材の搬入・入手経路を考える上で重要かな、と考えています。 ただ、その後は東葛地域では出土例が続かないようで、空白期間の後に、最盛期(第W期)末の我孫子・金塚古墳からの出土で終わってしまうのは、何故なのでしょうかね・・・?



1979. Re^2: 土器の型式 さわらびT  2005/02/14 (月) 23:13
T花様

ありがとうございます。知らないことばかりで、日々学ばせていただいてます。どちらも行こうと思えば、いつでも行ける距離のようですが、戸の内貝塚や、石神台貝塚のような状態なんでしょうか。Yはその近くに到着すると、ご近所に遠慮なく聞きあるくので見つけられるのが不気味(^0^)です。

ところで「馬場小室山遺跡」の現状ですが、Yからも報告していますが、今後水道・ガス工事などがあることを考えると心配ですね。

昨日、流山市立博物館で、三輪野山貝塚の出土遺物も拝見してきました。斜面盛土出土物に曽谷式土器がありました。(文様のメモが刻まれている)
これが一つの型式といえるのかという議論があるのだ、と第2回ワークショップで鈴木先生からご説明を受けたばかりでした。この流山の土器は、加曾利B式といわれるかもしれないが、とのことですが・・・・難しいんですね。
縄文時代の遺物を見ていて、あらためて気づくんですが、絶え間ない暮らしがあったこと、これを作った人がいたわけですね。

実は、昨日は白井先生の「石枕と立花」のお話を松戸市立博物館でうかがってきました。神崎町に出土例が多いとのことでしたが、佐倉市出土例が増えていることをT花さんはご指摘になっておられますね。古墳時代に話が飛んでしまいましたが、ネットワークの一端が印旛沼南岸にあったこともあらためて感じています。



1978. Re: 土器の型式 T花  2005/02/14 (月) 21:51
こんばんは。

真福寺貝塚は埼玉県岩槻市にある遺跡で、岩井貝塚は東葛飾郡沼南町(もう少しで柏市)にある遺跡です。型式については、今後、小室山研究会等で徐々に解説がなされるのではないでしょうか。取り急ぎ場所のみですが・・・。



1977. 急告:土器が散乱する馬場小室山宅造地の現状 さわらびY(ゆみ)  2005/02/14 (月) 20:50
馬場小室山遺跡研究会第1回ワークショップで知りあった青年から7日に電話があって「昨日6日、工事の終わった現場で100個以上の土器片を集めたが、たくさんあってとても一人では拾いきれない状況になっている、見に行って」とのことで、鈴木正博先生にメールでお伝えしたところ、視察なさっての返信をいただきました。

「・・・情報を受け、本日視察に行きました。結果は土器片がかなり散らばっておりまして、全ての雛壇造成地で土器片が採集されました。
 土器片の出土状況は11/23とは異なり、黒色土層ではなく、ローム質の褐色土層が中心ですが、特に真ん中の第2期分譲地には土の移動が激しく、そこを含めて1時間で4kg程度は保護できました。従って、それ以前に立ち会った方々はかなりの救済量だと推察します。
 保護した土器の主体は安行式です。次に加曽利B式、続いて中期でした。製塩土器もありましたので、やはり安行式が中心と思われます。・・」

地元飯塚さんのHP「ばんばおむろ山」では、2月5日に次のような看板を立て、分譲地内の残存文化財について警告をしてくださっています。
http://www2.gol.com/users/iizuka.kuniaki/050205%8A%C5%94%C2.html

これからライフラインの埋設や住宅建設に伴って、また大量の土中の文化財が散乱する光景が目に浮かび、気がかりでなりません。
地元の皆さんの果敢な行動と、市教育委員会と宅地購入者の良識ある措置を期待します。



1976. 遠部台につづき、曲輪ノ内貝塚をUPしました さわらびY(ゆみ)  2005/02/14 (月) 00:29
あるけ〜さん、とらさん、遺跡大好きネコさん
おいでいただきありがとう!

遺跡を土の中だけデータや文化財だけでなく(というか、そちらはプロに任せて)、景観や地理、民俗などのひろ〜い目で見てみると、どんな世界が見えてくるのだろうっていつも思います。
そんな世界(「さわらびワールド」?)を、カメラで心象スケッチしてみたくて、縄文考古学のことなどぜんぜん知らずに「縄文遺跡のある風景in印旛沼南岸台地の遺跡群」のシリーズを9月半ばにはじめました。
あるけ〜さんの空撮の遺跡群シリーズの触発されたのかもしれません。

今回、遠部台につづき、曲輪ノ内貝塚をUPしました。
2月20日の見学会のガイドに間に合ってほっとしています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/joumon/joumon.htm

ここは明治大学の発掘現場で、とても興味があり2000年と2004年の8月に訪ねたところです。
昨年9月に曲輪ノ内貝塚のルポを掲載しましたが、調査団にご了解をいただく前でしたので、当BBSでその件につきご助言いただき、削除しました。
皆様にお力添えもいただき最近阿部先生からご許可をいただきましたが、コメントなどあまりに知識不足だったようで、再編集しなおし、「縄文遺跡のある風景」シリーズに一部入れさせていただきました。
阿部先生、関係者の方々に感謝いたします。

「石神」という名のある縄文遺跡は複数あって、いつも混乱しています。やはり深い関係があるのでしょう。
中小の古墳では、「稲荷山」というのが多いですね。
近世にお稲荷さんを祀るのにちょうどいい小山だったのでしょうか。
人は忘れていても、意識していても、遺跡と共に生きてきたのですよね。
ぜひその過程も知りたいと思います。



1975. 土器の型式 さわらびT  2005/02/13 (日) 23:13
専門家の方には常識的なことなんでしょうが、土器の型式なんて全く分かりませんが、多少気にするようになりましたね。

安行式土器は、安行村(現川口市)領家の猿貝貝塚(安行貝塚) 出土土器を標識として、山内清男によって設定されたが、やがて真福寺貝塚や千葉県岩井貝塚の土器群を新、旧に加えて、安行1・2・3a・3b・3c式に区分するにいたった。(古林達雄『縄文土器の研究』を見て書いています。)

この場所分かります?海進の頃は海だったみたいですが・・・



1974. 地名に見る地形 遺跡大好きネコ  2005/02/13 (日) 19:32
古代の話題続きになり申し訳ありません。「石神」という地名を見て、小室山遺跡からそれほど遠くないところにある、現川口市の石神・神根地区にも貝塚があったのではなかったかしらと思い出しました。ここからさらに少し離れたところにある「安行」という地区の安行というのは縄文時代の区分の「安行」と関係があるのでしょうか。どうもまだきちんとこれまでの資料を把握していなくてトンチンカンな質問かと思います。

旧浦和市域から川口市にかけて「岸」「谷場」という地名が今も残っていてかつての地形を思わせます。実際の地形も残っているところが多いです。

この辺もさらに追求してみたいことです。



1973. 『三輪野山貝塚遺跡とその周辺』 さわらびT  2005/02/13 (日) 19:29
流山市立博物館で「流山歴史をさぐる発掘情報2005」開催中です。(2月27日まで)

http://www.city.nagareyama.chiba.jp/section/hakubutsukan/museum/hakudaini/syougaigakusyuu/gyarari2005.htm

第5貝塚貝層断面剥ぎ取り標本を、直接さわってもかまわない、という状態で展示しています。貝だけでなく土器の破片も混じった土がつみあげられていることがわかります。盛土の構築のため貝塚から運んできたようです。(この第5貝塚は残念ながら消滅。第1〜第4貝塚が公園となるようです。)

今日はギャラリートークがあるとのことでしたので、行って来ました。三輪野山貝塚だけでなく、充実した展示が見られます。26日(土)にもギャラリートークがあるようです。

昨年の現地説明会の模様は、HPで見られますので、ご参考まで。

http://www.city.nagareyama.chiba.jp/section/shougaigakushu/03bunnkazaihogokakari/miwanoya/kengakukai.htm

「さわらび通信では」このページです。(『流山市三輪野山貝塚遺跡とその周辺』)

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/05.01.02miyawayama/miyawayama.htm



1972. 石神 とら [URL]  2005/02/13 (日) 01:59
佐倉・八千代近辺ではありませんが,茨城県南部の新稲敷市に石神下貝塚という縄文後期の貝塚があります。
清野謙次博士の『日本貝塚の研究』によると「石神下とは妙な名に聞えるがこれはこの地方に多数見受ける所の石神の小祠の建って居る近傍という意味なのである」とあります。うろ憶えですが『人類学雑誌』に確か・・・この石神の図が掲載されていたような?はっきりしませんが。



1971. 印旛村の石神台・戸ノ内貝塚を訪ねて さわらびY(ゆみ)  2005/02/12 (土) 22:45
今日は、歴博にお城の話を聞きにいくついでに、ちょっと遠回りして印旛村まで行って、縄文の研究書によく出てくる石神台貝塚と戸ノ内貝塚を探してみました。

案内地図も資料もなかったので、はじめに印旛村歴史民俗資料館へ。ここは中世や民俗の情報を得に、何回か行ったところです。
出土品が展示されていましたが、遺跡への地図などの資料が入手できず、受付の方も石神台への行き方を電話で問い合わせてはくれたのですが、詳しくはわからないとか。

適当に見当をつけて近くのお寺まで行き、あとは民俗調査みたいに村の方にお聞きして石神台貝塚を探しました。
斜面の貝塚ですので、聞かなければわからないところでしたが、地主のおじさんが親切に案内してくださり、感激でした。

戸ノ内貝塚は、近々、早稲田大学の調査は始まるそうで、「師戸にある広福寺の近く」と情報をいただいていたので、それらしき台地の上の畑で貝殻がきれいに散布しているのを発見。このあたりからの印旛沼の眺めは美しかったです。

ところで「石神」という小字名がついている縄文遺跡がいくつかありますよね。
石神台では小さな石神神社がちゃんとありました。
「咳神さま」を調べていて、柳田國男の「石神問答」に出てくる「シャグジ神」と関連がないか興味を持っていたところですが、神野貝塚でも石神宮があり、石棒らしきご神体が祀られています。

縄文遺跡に石神やシャグジ神、あるいは道祖神が祀られている事例を調べてみたくなりました。佐倉・八千代近辺で、ここもそう、という事例があったらぜひ教えてください。



1970. Re: 朝日新聞『天声人語』 さわらびT  2005/02/12 (土) 20:42
遺跡大好きネコ様

こんばんわ。少しづつですが、縄文時代に関心を持ち始めました。昨日の書き込みでふれた鈴木先生のお話ですが、小室山セミナーのレジュメ2−5の右側上の「千年前の霞ヶ浦」を使って丸木舟でわたればということでしたが、その図の出典も、天声人語が引いている『利根川と淀川』(小出博著・中公新書、1975)のようです。

偶然ですが、この本を見ながら昨日の書き込みしてたんですが、「海進のもっともはげしかった時期には、東京湾はいまより50キロメートルも奥地に後退し、古利根川筋では埼玉県の栗橋付近まで湾入していた。」(p4)とあります。1万年前はつながってたんですね。Yが暮れにこの本のことは知らずに、栗橋あたりでつながっていたんじゃないの、と言ったら、「うそー」って皆から反論されたそうですが・・・(^0^)



1969. 朝日新聞『天声人語』 遺跡大好きネコ  2005/02/12 (土) 13:24
さわらびTさん、Yさん(ゆみさん)こんにちは。ようやくぽっかり空いた休日に久しぶりにゆっくり『さわらび通信』を見せていただきました。ますます充実していますね。これからもよろしくお願いします。

あるけーさんのHPもゆっくり読ませていただきます。ぱんちょさんのところには少し前にも行きましたがご無沙汰しています。みなさん、情報提供をいつもありがとうございます。

ところで、今朝(2月12日)の天声人語の書き出しは海進のことで、「関東地方の貝塚の分布から推定した海岸線は、さいたま市よりもさらに奥に達している。貝塚は太古の暮らしぶりを伝えるだけではなく、海のありかを示すタイムカプセルでもある」と云う表現がありました。

次回の小室山遺跡研究会セミナーに通じる話題でビックリしました。東京都北区で起きた天然ガスへの引火事故に触れるための前文でしたが興味を引く文章でした。

テレビでは、『日本語オペラ』を紹介していて、石や水など自然のものを利用した楽器を使用することについて指揮者が「普遍的なもの(オペラのテーマが愛なので)を表わすために古代から変わらず今もあるものを使うことにした」と云うようなことを言っていました。

私には、遺跡保存の今後へのアイディアに聞こえました。



1968. 縄文時代の内水面交通網 さわらびT  2005/02/11 (金) 23:50
1月30日の小室山セミナーに引き続いたワークショップでは、次のようなお話も出てました。

縄文時代、海が引いてきた段階で、大きな環境変動がもたらされます。海は内水面になっていきますが、セミナーの時に話題とされた丸木舟なんですが、丸木舟でいけば、小山市の寺野東遺跡と井野長割は結ばれるのだと指摘されました。縄文時代のこの内水面交通網の発達を考えるとの提案です。

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/4katorinoumi.htm

千年前の霞ヶ浦の地図をご覧ください。「さわらび通信」の上記ページに載ってる図でご覧いただくと分かりやすいと思います。



1967. 感動的な講演録ができました さわらびY(ゆみ)  2005/02/11 (金) 16:33
1月30日の小室山セミナーの鈴木正博先生の講演録ができました。

「15 皆が馬場小室山遺跡と出会った三室の一日」
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/01.30/1.30memina.htm
から、お入りください。

感動的な講演録です。
じっくりと読んでいただくためにHTMファイルのほか、PDFファイルもUPしました。
1461KBと大サイズなファイルで、ダウンロードにお時間がかかると思いますが、ぜひお読みください。
なおPDFファイルが開かない際のために、HTMファイルもUPしました。
なお、当日のレジュメの貴重な図や表はファイルサイズから、ほとんど掲載できなかったのが残念です。レジュメの残部についてはセミナー主催者にお問い合わせください。

セミナーを主催された飯塚さん、講演録の粗原稿に手を入れて下さった鈴木先生に感謝します。



1964. Re:荒屋敷貝塚とその周辺の貝塚群 &保存のドラマ「蒼天の道」 あるけ〜 [URL]  2005/02/09 (水) 23:58
さわらびさん、こんばんわ
トップのすばらしい写真、驚きました。
一瞬、どこかと思いました(笑)

こちらこそ、貝塚町貝塚群に来ていただき感激です
「土地勘」ということだったので、そうだ、もっと
小さな谷が入っているところを見てもらった
ほうがよかったと後で反省してます。

ところで京葉道路をトンネルで通して
保存させた荒屋敷貝塚ですが、その保存運動が
ある劇団で芝居になっています。
劇団206という劇団の「蒼天の道」という劇です。

http://www.jah.ne.jp/~m026/history.htm

私の知っている考古学者も登場人物で登場するようです。
残念ながら、公演が終わってから、気が付いたの
ですが、そのうちもう一回やらないかななどと
思っています。
ではまた



1963. 講演会『入鹿暗殺事件の「真実」』 さわらびT  2005/02/09 (水) 23:12
久しぶりなんですが、講演会を開催いたします。新春のNHKのドラマでも話題となった「大化改新」ですが、遠山先生にお話いただけることになりました。

テーマ:入鹿暗殺事件の「真実」−「原鎌足伝」の存否を手掛かりに−
講 師:遠山美都男先生(学習院大学・日本大学講師)
日 時:4月9日(土) 1時半〜5時(受付1時)
会 場:北とぴあ 7F 第一研修室

http://homepage1.nifty.com/sawarabi/osirase/05.04.09touyama.pdf

掲示板(1838)にも書いたのですが、遠山先生は、NHKの『その時歴史が動いた−ミステリー大化改新〜蘇我入鹿暗殺の実像』でも新説を述べておられましたね。新知見をお話いただけるものと期待しています。ご参加いただける方、メールいただればありがたいです。



1962. 荒屋敷貝塚とその周辺の貝塚群 さわらびY(ゆみ)  2005/02/08 (火) 23:53
2月6日の日曜日は、20日の井野長割遺跡〜歴博のコース下見へ行った後、千葉市の貝塚群を見に出かけました。
 1月19日船橋市であった講演会での加曽利貝塚博物館の村田副館長のお話や、あるけ〜さんからの情報で、加曽利貝塚とその周辺の千葉市の大貝塚群を世界遺産にと呼びかけをはじめたとのこと、この貝塚群は縄文を論じる文献にも多く登場するので、一度歩いて土地勘を養っておきたいと、急遽思い立っての外出でした。

 まずは、国指定史跡の荒屋敷貝塚へ。
 京葉道路でいつも通り過ぎるあの貝塚トンネルの真上にひろびろとした大貝塚が広がっている!
 直径180m、縄文前期から後期の貝塚だそうで、中央スープ皿のように浅くくぼんだ中央の周辺に、馬蹄形をなす貝塚のたかまりがよくわかります。

 加曽利貝塚博物館で企画展の「阿武隈山地が育んだ海と貝塚」展を見ていると、お近くの千葉市の遺跡を歩く会のあるけ〜さんが駆けつけてくださり、貝塚群をご案内してくださるとのこと。
 さっそくお言葉に甘えて、加曽利町の花輪貝塚から、荒屋敷周辺の貝塚群(台門貝塚・西光院貝塚・荒屋敷西貝塚・草刈場南貝塚・草刈場貝塚・荒屋敷北貝塚)を拝見してきました。

 歩いてみると、昭和40年当時、トンネルにしてまで保存させたというこの遺跡のもつ重要性と、保存を訴えた学者グループと市民の熱意がひしと伝わってきました。
 本当にこれだけたくさんの貝塚が今なお比較的よく残っているとは。

 もっともあるけ〜さんの説明では、保存の意味をわかってもらう苦労も日常的にあり、今現在、開発で危機に直面している貝塚もあるとのこと。
 台門貝塚では道路拡幅で壊される寸前の貝層を見せてもらいました。

 あるけ〜さん、本当にありがとうございました。
 TOPページの画像と共に、分水界を越えた印旛沼流域に隣村八千代から、熱いエールをお送りします。



1960. 歴博「新収資料の公開」(13日まで) さわらびT  2005/02/06 (日) 19:52
20日の下見を兼ねてYとともに歴博に出かけました。(出向いたのは歴博だけではありませんが・・・)

昼時でしたが、プロムナード(佐倉市井野長割遺跡速報展)には見学者がどなたもおられませんでした。たまたまかもしれませんが、ちょっとさびしいですね。出土物のうち、異形台付土器は展示期間限定とのこと、20日の日は、残念ながら見られないようです。(『発掘された日本列島展』に出てる?)

「新収資料の公開」展も開催中で、聆涛閣集古帖(れいとうかくしゅうこちょう)を興味深く、拝見してきました。説明資料によれば、摂津国兎原郡住吉村(現神戸市)の豪農であった吉田家の当主が3代に渡って収集したコレクション、古器物・古文書などの模本や拓本、古印の模刻などを分類して大判の折本に貼ったもの、だそうです。これだけ呼んでも、となんだか分からないですね。

展示されていたのは、小野毛人墓誌だとか、粟原寺伏鉢銘など、あって、もしかしたらこれらの拓本は実物と同様の価値があるのでは、・・・と思った次第です。

粟原寺の銘文に関連して、不比等ー草壁以外に、中臣大嶋とのラインもあるとの仁藤先生説をご紹介したことがありました。(掲示板1473)この伏鉢は国宝で、公開は限定されてるようですから、この「集古帖」は貴重品なのではないでしょうか。

http://www.tanzan.or.jp/ibutsu.htm

いつも勝手に引用させていただいてますが、粟原寺については、ドン・パンチョさんが詳しく書いておられますのでご参照ください。

http://www.bell.jp/pancho/travel/ossaka/oobara_teraato.htm



1959. 2月20日 馬場小室山遺跡研究会第3回ワークショップのお知らせ さわらびY(ゆみ)  2005/02/04 (金) 00:59
馬場小室山遺跡へ心を寄せて下さる皆様方へ
寒さがいっそう厳しくなりましたが、いかがお過ごしですか。

2月20日 馬場小室山遺跡研究会第3回ワークショップ(井野長割遺跡の現地見学&歴博での速報展・講演会&セミナー)のお知らせをUPしました。

1月の第2回ワークショップに引き続き、馬場小室山遺跡と同様に縄文後晩期の環状盛土遺構が現状保存されている佐倉市の井野長割遺跡の現地を訪ね、午後からは、国立歴史民俗博物館で開催の井野長割遺跡講演会と速報展見学を盛り込んだワークショップを行う内容です。

詳しくはこのサイトをお読みの上、参加ご希望の際は、さわらびY(ゆみ)へメールしてください。(車利用の方はその旨お書きください)
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/05.01.03osirase.htm

メールをお待ちしています。



1958. 井野長割遺跡関係資料 遺跡大好きネコ  2005/02/03 (木) 21:22
不思議な出会いをしたDさんから井野長割遺跡保存に取り組んでいるグループの通信をたくさん送っていただきました。

「すてきなあなたへ」というタイトルのその通信は遺跡に関することだけでなくメンバーが書いたコラムも載っている素敵な通信です。今度みなさんにもお見せしますね。

その通信は2000年の分からありました。何でも続けていくことは大事ですね。「井野長割遺跡」のことを知らなかったらDさんとこんなに早く結びつかなかったと思います。やはり、古代人が出会わせてくれたんですね。本当にうれしい出会いです。

さわらび通信に出会えて本当に幸せです。ありがとうございました。



1957. Re: 不思議なご縁 さわらびY(ゆみ)  2005/02/02 (水) 23:27
馬場小室山ってもしかしたら、今もすごく大昔も「不思議な出会い」の遺跡じゃないかって感じています。

セミナーでの鈴木正博先生のお話にもあった柄鏡形住居址、中部や群馬や千葉(袖ケ浦市)でもあったこのかたちの住居がやはり小室山でもあったのですね。
土器なら不思議ではないけれど、家の形まで伝播させる人の動きとはいったいなんだったのだろうと思いました。

今回の「ちょっとリッチな集い」はネーミング通り、「馬場小室山遺跡と出会う」集いでしたね。
去年9月下旬、六一書房のサイトに掲載された(どんな方ともまだ知らない)鈴木先生の緊急メールに反応して、現地へ飛んだのは私だけではなかったことも、初めてお会いしたHさまご夫妻にお会いして共感しました。
「発掘終了間際の9月28日をかわきりに、これまでに3回、遺跡並びにその周辺を探索させていただきました。素晴らしい遺跡が破壊されることは、保存運動に関わられた方々と同様に、残念でなりません。・・一人で遺跡の中や周辺を散策していますと、何となく周りの方々に(泥棒かと・・・笑)怪しまれる?のがいやで、家内を連れ出したりしております。」という遠方からメールを下さった方でした。

また、セミナーが終わるや否や、三室に住んでいるご婦人から、今後ともぜひ一緒に勉強したいと熱いコールがありました。

今後もびっくりするような、出会いがたくさんあるような気がします。
2/20は、埼玉・都内と千葉、そして茨城からの大集合になりそうですね。
またも、ワクワクしてきます。



1956. 邪馬台国五文字の謎 角田彰男 [URL]  2005/02/02 (水) 14:17
失礼致します。こんにちは。歴史推理小説「邪馬台国五文字の謎」を紹介させて頂きます。この小説は、私が倭人伝解読推理した成果を基に、福岡 長崎などを廻って実地取材し書き上げたものです。里程を使わず邪馬台国を見つけた推理が画期的と、好評の内に各界著名人のご推薦を戴いて重版となりました本です。詳しくは私のホームページをごらんください。 http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/yamatai.html

(お手数ですが規定に合わない場合は削除されてください)



1955. 不思議なご縁 遺蹟大好きネコ  2005/02/02 (水) 00:50
みなさん、こんばんは。帰宅が遅くてPCが開けないのでみなさんの情報は明日ゆっくり見させていただきます。

今日はびっくりでうれしいお知らせだけ。私が遺蹟保存以外に関わり出した運動の呼び掛け人の方に、「力になっていただくことがあるかもしれない」と小室山のことをお伝えしたところその方の夫人からメールがありました。

何と井野長割遺蹟の保存運動をされた方でした。2月20日のご案内をしましたら遺蹟のすぐお近くにお住まいとのことでたぶん参加されると思いますよ。



1954. 葛井 オホヤシマ  2005/02/01 (火) 12:45
葛井だとすれば、まさにフミヒト、加藤先生の世界ですね。
フミヒトを世に問うた甲斐があるというものでしょうか。
なかなか確証は出てこないでしょうが。



1953. Re: 昨日は有り難うございました さわらびY(ゆみ)  2005/02/01 (火) 00:11
昨日の「馬場小室山遺跡と出会うちょっとリッチな集い」のルポをさっそくにアップいただき、ありがとうございました。

午後のセミナーの準備でお忙しかった鈴木先生や飯塚様、また千葉研遺跡発表会から遅れて駆けつけてくださったあるけ〜さんほか皆様にも、午前中の博物館や現地見学の様子が見ていただけ、やはり、ホームページは即時性と写実性で、すごいメディアだと感じます。

> なにぶんにも拙速で作成しましたので、初歩的なミスや誤解している箇所も多々あるやも・・・

遅い完璧より、「拙速」が大事!なのだと思います。
出版物とちがって、Upしてからの修正もすぐできますし、それにすぐ反応があって、教えてくださる方もおられるでしょうから。

私がアップした前回の12/26ワークショップの内容については、講演された鈴木正博先生に丁寧に監修いただき、再アップしました。http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/12.26/kennkyuukai2.htm

第1回も2回も、ワークショップの内容は、新刊本を探してもどこにも書いていないフレッシュで革新的なものですから、考古学のプロがアクセスしてきても大丈夫なコンテンツでありたいと、鈴木先生にはお手数をおかけいただき、感謝の念にたえません。

なお、1/30の第2回のレジュメは、馬場小室山遺跡・緊急特設ページにあるけ〜さんが載せてくださっています。
http://chiba.fc2web.com/hozon/bbo_050130ws02.html
千葉県遺跡発表会や今流行っている風邪などで、参加できなかった方は、ご覧の上、プリントを次回ご持参ください。
また詳しい内容は、どうか今しばらくお時間をください。




1952. Re: 遣唐使墓誌 さわらびT  2005/01/31 (月) 20:17
28日のシンポジウムには加藤先生もお見えでした

司会の荒木先生から発言を求められて、「中・南河内の渡来人と初期の藤原氏」について、お話されました。
「新撰姓氏録を読む会」でも、フミヒト制を教えていただいているところですので、論文が待ち遠しいですね。(原稿の〆切が、迫っておられるそうですが・・・)



1951. 昨日は有り難うございました ドン・パンチョ [URL]  2005/01/31 (月) 19:14
さわらびゆみ様。昨日は「馬場小室山遺跡と出会うちょっとリッチな集い」にお誘い頂きどうも有り難うございました。おかげさまで新しい知己を得て、楽しく一日を過ごすことができました。早速、昨日の一日の流れを防備録を兼ねて、小生のHPの橿原日記(http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/content.htm )にアップしました。

なにぶんにも拙速で作成しましたので、初歩的なミスや誤解している箇所も多々あるやもしれません。お気づきの点がありましたら、遠慮無くご指摘頂ければ幸甚です。



1950. 遣唐使墓誌 オホヤシマ  2005/01/31 (月) 12:30
大和書房の「東アジアの古代文化」誌も4月末号で遣唐使墓誌特集を組むようです。加藤謙吉先生は「中・南河内の渡来人と対外交渉」というタイトルです。靖民先生はもちろん、李成市先生、河内春人先生など十数人が書くようです。



1949. みなさん、本日はありがとうございました あるけ〜 [URL]  2005/01/31 (月) 00:11
鈴木先生、斎藤先生、飯塚さん、ネコさん、さわらびさん、
かごかきさん、パンチョさん、みなさん
ご苦労様でした。
途中参加で、前の部分が聞けなかったのは残念。
しかしじゅうぶんにリッチな時間をすごさせてもらいました。
ありがとうございました。



1948. Re: 今日は、充実した1日でした さわらびY(ゆみ)  2005/01/31 (月) 00:11
今日は、本当に心も頭(?)もそして体もリッチな一日でしたね。

飯塚さんの地元の方のためのすてきでユニークなセミナーに、午前中は私と遺跡大好きネコさんの企画、セミナーの後は、第二部として鈴木先生の専門的なのお話というコラボレーション。そして終わってからの懇親会。
一日通しで参加した方も、また一部だけという方も含めると、70人近いの方々がそれぞれ馬場小室山遺跡と出会い発見満ちた充実した時をすごすことができたのではないでしょうか。

「組織」で決めるのではなく、言い出した人がそれぞれの発意と得意な力を出し合って今回のような一つの活動を成功させた実績は、市民の新しい運動のあり方として、すごいことだと感じています。(まだ、ちょっとワインが効いている?)

馬場小室山とかかわってからの数ヶ月は、数年間勉強しても得られない知識と問題意識と人との出会いを体得し、またし続けています。

「環状盛土遺構のグランドデザイン」を体得するために次回2月は、いよいよわれらが地元に近県の皆さまをお招きし、佐倉の井野長割遺跡の見学に歴博講演会をセットした第3回ワークショップを開催します。

考古学研究最前線のわくわくするような体験をまた実現しましょう。では、おつかれさま、おやすみなさい。











1947. 今日は、充実した1日でした 遺跡大好きネコ  2005/01/30 (日) 22:16
馬場小室山遺跡セミナー&ちょっとリッチな集いに参加されたみなさま。今日はお疲れさまでした。また、ありがとうございました。

すぐに帰宅できたネコから早速メッセージです。今日もまた素敵なセミナーを受けみんなで楽しく語りながら食事ができ、なんてリッチな1日を過ごすことができたことでしょう。

今日の企画をしてくださったみなさま素敵な話題と演奏や絵を提供してくださった方々ありがとうございました。

またゆっくり感想を書きたいと思います。2月6日まで仕事が続くので一息ついた頃今日の熱さをまた感じることでしょう。



1946. Re^3: 遣唐使の墓誌 さわらびT  2005/01/29 (土) 23:34
久しぶりに遣唐使の墓誌の話題。

「共同シンポジウム 新発見 遣唐使の墓誌をめぐって」(28日、有楽町朝日ホール)に行ってきました。午前10時から午後6時50分という時間割でしたが、西北大学の先生方のご発表もありましたし、新知見も多くあって実りある時間を過ごせました。

すべてをご紹介するわけにはいきませんが、とりあえず少しだけ記します。墓誌がかなりあわただしく作られたらしいことがよく分かりました。矢野建一教授(専修大学)によれば、「井真成」が亡くなったのは、開元22年(734)正月1日から6日ごろと推定されるそうです。すでに到着していた第10次の遣唐使一行は皇帝への拝謁を待ち望んでいたのだが、飢饉のために皇帝は洛陽に避難しており、遣唐使一行は長安に留め置かれていた状態だった。

「井真成」の葬儀は、墓誌によれば2月4日であるが、通常葬儀には数ヶ月を要するのに、僅か1ヶ月のうちに行なわれているということになる。

一方、遣唐使は2月8日に洛陽に向けて旅立ったらしいです。この考証にあたっては、石山寺に伝わる『遺教経』奥書が、ポイントです。日付が開元22年2月8日とあり、井真成の葬儀の4日後です。あわただしく長安を出発したと思われます。『遺教経』奥書のことは、掲示板1715をご覧ください。(王勇『唐から見た遣唐使』講談社、参照)

「井真成」が717年の遣唐使船で渡唐して17年、留学生として9年間を官費で過ごせたとして残りの年月をどう過ごしたかを墓誌は語っていない。



1945. 1/30用に、旧三室村史跡案内を作りました さわらびY(ゆみ)  2005/01/29 (土) 09:29
「2005.1.30馬場小室山と出会うミニ・エクスカーション」のためのメモ2として、「旧三室村北西部の史跡案内」を作りました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/mimuro.siseki.pdf

私がお誘いしたメンバーは、考古学ファンのほか郷土史ファンもいらっしゃるので、せっかくの旧村のたたずまいや寺社も見てみたい気がします。

三室小学校HPからの抜粋と明治の頃の地図を組み合わせて、ただプリントしやすいようにしただけです。
小学校も地域の歴史に密着したHPを作っているのですね。

ちなみに三室中学HPでは「馬場小室山遺跡見学」のページを載せています。
http://mimuro-j.saitama-city.ed.jp/tokyshoku/omuroyamaisekikenngaku.htm
大きな土坑の写真も鮮明です。どんな遺物を観察しているのか、生徒さんのメモを見せてもらいたいですね。



1943. Re: ワクワクします さわらびY(ゆみ)  2005/01/29 (土) 00:31
> ゆみさん、やまぼうし追加OKでした。当日来られた方があっても大丈夫ではないかしら?

〆切後にもお申し込みの方がおられ、お手間をおかけしました。
OKとかで、よかったですね。ありがとうございました。

>1日中楽しみですね。小室山の出土品も早く見たいです。(実は、近いのに博物館にはなかなか行けないのです)

三室の史跡散歩の資料を作ろうと思っていましたら、ちょうど三室小学校HPで、とても便利で内容もあるページを見つけました。地図の中の青枠の文字をクリックすると写真入の解説もあります。
「女体神社の背後にある三室山と小学校裏の小室山が祖霊の山としてあったことが、想像される。」という見解は魅力的です。
http://mimuro-e.saitama-city.ed.jp/jouhou-map.html

また図書館で、明治時代の三室村の古地図を一部分コピーしてきました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/mimurokotizu2.pdf
これを見ると、小室社の参道を通って遺跡の中をつき抜ける道がはっきり記されています。
そのほか街道のルートや民家のたたずまいなども想像できます。

30日の午前中の博物館見学と散策のお供に、お出でになる方はプリントされるとよいと思います。

TOPページにもリンクを貼りましたから、ご利用ください。

> では、小室山に来られるみなさま日曜日にお待ちしています。

そうですね。おおぜいからメールいただいた中には、未知の方も何人かおられ、「出会い」が本当に楽しみです。



1942. ワクワクします 遺跡大好きネコ  2005/01/28 (金) 22:13
さわらびTさん。こちらこそよろしくお願いします。今からワクワクします。でも、明日も夜まで仕事なのであと3日くらいありそうな感じがしてしまいます。でも、その分楽しみは大きいことでしょう。

天理市の遺跡発掘のことを教えてくださってありがとうございました。早速URLをクリックし記事を読みました。こういうことに出会うとタイムスリップしてるようで面白いですよね。自分の生きている時間が何十倍にもなるような感覚に浸れます。

ゆみさん、やまぼうし追加OKでした。当日来られた方があっても大丈夫ではないかしら?1日中楽しみですね。小室山の出土品も早く見たいです。(実は、近いのに博物館にはなかなか行けないのです)

では、小室山に来られるみなさま日曜日にお待ちしています。他のみなさまもいつかどこかでお会いして古代に寄せる思いなど語れたらうれしいです。



1941. 貝の模倣品&土偶の世界 さわらびY(ゆみ)  2005/01/28 (金) 00:12
遺跡大好きネコさん

お知らせありがとう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050127-00000009-maip-soci
のニュースで画像も見ましたよ。
馬場小室山出土の「の」字の石製品もイモガイの貝輪にルーツがありそうですね。

>古代人のデザイン感覚の素晴らしさ・・
30日の博物館見学では、ぜひそれを味わいましょう。


はにわ処様

私のお気に入りの土偶をラインアップいただきありがとう。
横浜市南区稲荷山貝塚の土偶は、現代作家の作品でないかと思うぐらい新鮮なのは、なぜなんでしょう。

http://www.ne.jp/asahi/asamasa/shako/dogu.html
の「しゃこちゃんのお部屋」の土偶の世界も不思議でユニークな土偶がいっぱいです。

この世界が、東北のおしらさまやこけしにつながっているような気がします。



1940. 和邇遺跡 さわらびT  2005/01/27 (木) 21:59
遺跡大好きネコさま

こんにちは。お世話になります。日曜日にはお会いできますね。よろしくお願いします。

ところで、私が関心のある遺跡の発掘情報がありましたので、記します。それは天理市の和邇遺跡です。これまでの調査と合わせると、5世紀後半〜7世紀前半にかけて350〜500基の群集墳が作られたとみられるようです。

もともと群集墳には渡来系の色彩が強いようですが、この遺跡はワニ(和珥)氏と結びつけて考えられているようです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050127-00000004-nara-l29

橿考研のHPに記者発表資料が掲載されています。

http://www.kashikoken.jp/



1939. 貝の模倣品 遺跡大好きネコ  2005/01/27 (木) 19:34
愛知県春日市の「朝日遺構」から、「貝輪形土製品」が出土したそうですね。弥生時代に模倣の技術(?)知恵(?)があったとはビックリです。

ゆみさんが作ってくださった浦和博物館見学のための栞に載っている土器を改めて見て、古代人のデザイン感覚の素晴らしさに感動しているところです。日本の出土品に限りませんが装飾品のデザインの斬新さにはいつも驚かされます。今使ってもおかしくないものが多いですよね。

人間は根本的には余り変わらないということでしょうか?



1938. こんばんわ はにわ処 [URL]  2005/01/27 (木) 19:19
ゆみさんやっと土偶の画像をHPにUPしました
送っていただき有難うございました
一寸画像は小さいかもしれませんがご了承ください
中々可愛い土偶ですよね
さて何票入りますかね
それからお買い得な勾玉もたくさん追加させていただきましたのでどうぞ宜しくお願いします



1937. 2月20日佐倉市井野長割遺跡速報展と講演会について さわらびY(ゆみ)  2005/01/25 (火) 00:01
No.1930でお知らせした佐倉市井野長割遺跡速報展と講演会について、歴博のHPにも案内が載りましたね。

http://www.rekihaku.ac.jp/prom/prm3/index.html

「井野長割遺跡の調査意義」の講師名、「考古学のおやつ」の掲示板に歴博担当者が書き込んだのを、コピペしたのですが、やはり西本豊弘先生でしたね。(へんだと思った・・)

馬場小室山遺跡研究会第3回ワークショップのプラン(案)の 井野長割遺跡その他の見学先については、これから関係機関などと調整いたしますので、詳細は、今しばらくお待ちください。

井野長割遺跡の周りには、江原台遺跡(遠部台遺跡&曲輪内貝塚)吉見台遺跡、神楽場遺跡など縄文遺跡がたくさんありますが、これらについては、『縄文遺跡を探る』(学生社)という本が個人的には、おもしろかったです。



1935. Re: お久しぶりです さわらびY(ゆみ)  2005/01/23 (日) 15:53
遺跡大好きネコ さん
1月30日午前中の見学会は、ランチも魅力ということで、とても好評! ↓のように〆切のお知らせをいたしました。
この企画とお世話を遺跡大好きネコさんにしていただき、ネットを通じめぐり合ってよかったと思いました。

> 学者さんの説や研究も勿論学習の元にしたいのですが、個々人で調べたり目で観て判断し考えていることもとても貴重な材料だと思っています。

そう、市民感覚の視点が必要なんですよね。わかっていただいてうれしいです。

> 奈良・京都は行ったすぐ後にまた行きたくなるところです。町全体が古き物も大事にしているのが私を引き付けるのだなと思います。うー、また行きたい。

今年の暮れは行きそこないましたが、今度はご一緒に行きましょう。ぜひ・・



1934. 1月30日はランチのみ締め切りました。 さわらびY(ゆみ)  2005/01/23 (日) 15:23
「馬場小室山と出会う集い」に参加ご希望の皆様へ

1月30日「浦和博物館見学&散策&ランチのミニ・エクスカーション」はとても好評で、お店のキャパシティもあって、ランチのみ予約を締め切らせていただきました。

なお、昼食を自前での博物館見学と遺跡現場視察は、直前のご連絡でもけっこうです。

博物館見学の栞のようなものをPDFファイルにしましたので、ご参考にお持ちください。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/syutudohin.pdf
小室山の遺跡視察には、馬場小室山遺跡概念図をプリントして来てください。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/isekiMAP2.htm

なお、午後のセミナーは、当日先着順です。
セミナーの後の第2回研究会は特に定員はありませんが、資料の用意のため、早めにご連絡くださいとのことです。



1933. お久しぶりです 遺跡大好きネコ  2005/01/23 (日) 13:26
さわらびY(ゆみ)さん、いつもお世話になっています。さわらびTさんと共に精力的な活動とたゆまぬ研究に敬意を表します。

私は、難しいことはわからないし語ることができませんが、いつもこのページに来て楽しんだり学んだりしています。学者さんの説や研究も勿論学習の元にしたいのですが、個々人で調べたり目で観て判断し考えていることもとても貴重な材料だと思っています。これからもいろいろ教えてください。

奈良・京都は行ったすぐ後にまた行きたくなるところです。町全体が古き物も大事にしているのが私を引き付けるのだなと思います。うー、また行きたい。

30日と2月20日に予定されている馬場小室山遺跡研究会もとても楽しみです。ゆみさん、ご準備・企画ありがとうございます。Tさん、お会いできることを楽しみにしています。



1932. 斑鳩のムラと道 さわらびT  2005/01/22 (土) 10:07
たぬきさん

こんにちは。法隆寺周辺には4、5年前に行ったきりですが味わいのある趣きは大好きです。「聖徳太子」がなぜ斑鳩に行ったのか、大いに気になりますね。

オホヤシマさんが関心をよせられるミヤケに関連しますが、視点は異なるのかもしれませんが古代の社会構造において屯倉の設置が意味するものを考えたいと思っています。王権を支える部民制と並んで屯倉制の成立が次の時代の歴史的前提だったと思います。

以前に読んだ本で、思い出したのですが、(仁藤淳史「「斑鳩宮」の経済的基盤」『古代王権と都城』所収)、斑鳩地域に先行的な条理地割が存在することに着目して論じられてました。

7世紀初頭、上宮王家が主導した開発によって、宮や寺の造営や耕作地化が行われ私領となったのち、上宮王家の滅亡により法隆寺領(寺田)となったということです。「斑鳩屯倉」ともいうべき「屯倉」の設定も想定しています。

周辺の農民たちが、斑鳩開発の中で屯倉の労働力になったとするのですが、暮らし向きの変化に人びとがムラをどう維持したのか、わかるのなら面白いなと思います。

ところで、この地割りのことは、現地を探訪されたドン・パンチョさんのレポートが詳しいので、参考にさせていただいています。

http://www.bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/siseki/taisimiti.htm



1931. 法隆寺 たぬき  2005/01/22 (土) 09:00
おひさしぶりです。思いついてふと法隆寺に行ってきました。
はじめて行きましたが、のどかな(飛鳥から離れた)場所に
あるという印象です。
古い建物はわかりませんが金堂内が真っ暗なのはどうことなんでしょう。懐中電灯で釈迦三尊を照らしている感じです。
やっぱりなにかを封じている寺なんでしょう。
斉明記の「空中有乗龍者貌似唐人着青油笠而自葛城嶺馳隠胆駒山」のおそらく蘇我氏(入鹿等)がまつられているのかもしれ
ません。



1930. 2月20日 馬場小室山遺跡研究会第3回ワークショップの予告 さわらびY(ゆみ)  2005/01/21 (金) 23:36
馬場小室山遺跡研究会第3回ワークショップの予告

12月23日の第1回ワークショップでは、環状盛土遺構の一例として、佐倉市の井野長割遺跡についての説明がありました。現在この遺跡は国指定遺跡の答申を受け、次のような催しが開催予定です。
馬場小室山遺跡研究会では、この機会を生かし、速報展と講演会、現地遺跡見学を盛り込んだワークショップを企画中、詳しくは、1月30日の研究会で発表の予定です。

●佐倉市井野長割遺跡速報展●
2月1日〜3月6日:国立歴史民俗博物館(れきはくプロムナード)
●講演会のお知らせ●
2月20日(日)13:30〜15:30
場所:国立歴史民俗博物館 講堂
内容:「井野長割遺跡の調査報告」 佐倉市教育委員会 小倉和重
   「井野長割遺跡の調査意義」 国立歴史民俗博物館 宮本豊弘
※参加料無料・申し込み不要(先着順260名)

★馬場小室山遺跡研究会第3回ワークショップのプラン(案)★
2月20日 10:30京成線ユーカリが丘駅北口集合(ユーカリが丘に10時前に着く方は、南口の上座貝塚遺跡を自由見学)=車に分乗5分位=10:40井野長割遺跡見学〜11:15=神楽場遺跡または吉見台公園か曲輪ノ内遺跡経由=歴博12:15着=休憩所(芝生広場隣接)にてミーティングと昼食(弁当持参)=13:30講演会〜15:30=フロアディスカッション(鈴木先生の解説付きで速報展見学)〜16:30=時間の許す方は勝田台で再集合し、懇親会


井野長割遺跡については
http://chiba.fc2web.com/inonagawari/inonagawari-1.html

印旛沼南岸の縄文遺跡は
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/joumon/joumon.htm
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/joumon/joumonMAP.htm

鈴木先生からコメント「勿論、1月30日の研究会はそれに繋がるような視点を準備します。今、考えているのは内水面交通網の発達の意義。東京湾中心型の社会とは別な視点で印旛沼から寺野東までを一体の文化として直結させる中で、馬場小室山も同様に位置付けられることを検討しています。」



1929. 「変貌する八千代の風景・村上駅周辺の史跡散歩」をUP さわらびY(ゆみ)  2005/01/21 (金) 19:43
昨年末に踏査した「変貌する八千代の風景・村上駅周辺の史跡散歩」、最後の「高架下の黒沢池」の納得できる写真ができ、一昨日やっとUPしました。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/murakami/murakami1.htm

遠いところや、何年かに一回の祭りなどは、撮影も一発勝負ですが、近いところは、カメラアングルや光線の具合につい凝って、再三撮影にでかけ、いつも難航してしまいます。

「さわらび通信」の写真のイメージとしては、なんとなく歴史的景観や叙情ある風景から、余計なものを除去する構図が多かったのですが、昨今は現実を直視する視点も必要な気がしています。(馬場小室山に関わったから?)
というわけで、「やすらぎ」とやや遠い画像もあるかと思いますが、お許しください。

内容的にも、かなりあたらしい考察を加えていますが、これは八千代市郷土歴史研究会村田会長と八千代市教育委員会のT氏のご教示によるもので、深く感謝します。

昨日、撮影した「高津のオビシャ」は「史跡歳時記」にちょっとだけUPしました。
このほかの写真は、秋の八千代市郷土歴史研究会の「郷土史展」で頑張ります。



1928. 久留倍 オホヤシマ  2005/01/21 (金) 17:51
Tさんのレポートもう1回読み直さなくてはいけませんね。
やはり年代的に大化前代にさかのぼるのは無理のようですね。
さらに広範囲に調べれば何か出てくるかもしれません。



1927. 秦河勝が小説に 洋子 [URL]  2005/01/21 (金) 00:54
初めまして。ご紹介です。
長編『曼陀羅』、好評のようです。
聖徳太子のブレーンであった秦河勝が、今回のスマトラ沖地震・津波にまでつながるスケールの大きな小説です。



1926. Re^2: 久留倍遺跡第2回シンポジウム さわらびT  2005/01/20 (木) 21:46
ご本人もおっしゃっておられましたが、結論ではなくいくつかの可能性を示唆した山中敏史先生の報告でした。3期に及ぶ遺跡の1期が672年にさかのぼるかは、微妙のように感じられました。出土須恵器の年代も見解が分かれているとか。

ただかなり見晴らしのいい場所で、そこに公的施設があったとすれば立地条件は最高ですね。もともと豪族の館があった場所かも知れないし、ミヤケと関係あるのかもしれません。ただ3期にあたる場所は、政庁あとが見つからないようで、移転したのでしょうか。

報告にも書いたのですが「伊香留賀神社」によってきました。米洗川でしたか、「迹太川」候補地の一つとして、その周辺を探索してみたのでが、加藤先生の故郷ですが、私には始めてのところで正直なところあまりよく覚えていません。

第2回シンポジウムでは、朝明評説の岡田登先生の講演もあるようです。聞いてみたいですが・・・・



1925. Re: 久留倍遺跡第2回シンポジウム オホヤシマ  2005/01/20 (木) 12:22
この遺跡ですが、「郡家」といえるかどうか、実は微妙です。正倉が発掘されてますので、関連施設であることは間違いないといえそうですが、むしろ謎の解明はこれからです。

*最近、ミタ・ミヤケ、大化前代のコホリ、評に興味があり、遅ればせながら久留倍遺跡に注目し、Tさんから頂いた第1回シンポのレジュメを昨日読み返したところです。
地図を見ましたら遺跡の近くに鵤という地名がありましたが、これは古い地名なのか興味が出てきました。それと、桑名郡額田郷、朝明郡額田郷の地が近くにありそうなことも興味深いところです。イカルガ、額田といえば、聖徳太子が開いたという斑鳩宮の近くにも額田という地名があり、注目されます。額田部湯坐のように額田部は皇子の養育に深く関わっています。
もしこの遺跡が天武紀の朝明評だとした場合、それを孝徳朝の評とみるか、あるいはその前身のコホリとみるかが問題になりそうですが、皇子養育に関わる王室直轄領としてもミヤケの発展形態としてのコホリとの関係が注目されます。
ただ遺跡の年代はそんなにさかのぼれないのではと思いますが、前回のシンポではその辺りの議論は出ていたでしょうか。



1924. 画像の件で はにわ処 [URL]  2005/01/20 (木) 11:30
ゆみさんこんにちは
そうですか この土偶ですね
でもこのレプリカ扱ってないので画像の写真を拝借しても宜しいですか
ただ本物の画像って私事で使う分には使っても大丈夫ですよね、、、
博物館もまさか文句も言わないでしょう
著作権てよく分からないですよね



1923. Re: こんにちは さわらびY(ゆみ)  2005/01/19 (水) 23:56
> 今週から土偶人気投票を始めましたのでよかったら覗いて見てくださいね

さっそく、参加してみました。
皆様もどうぞ。

私の好みの本命はなかったのが残念。ちょっと変りすぎていて商品にはならないのでしょうが、これです。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/doguu/doguu.htm
のページのこれ
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/doguu/yokohama2.jpg

翡翠展、行ってきました。
おみやげコーナーで、天然石の勾玉がほしかったけれど、いつか「はにわ処」さんから買おうと思ってパスして来ました。

お体大事にしてください。ではまた。



1922. こんにちは はにわ処 [URL]  2005/01/19 (水) 09:57
年末から親子共々風邪を引いて咳き込んでいまして遅くなりましたが今年もどうぞ宜しくお願いします
お年賀もわざわざ頂き有難うございます(^−^)
今週から土偶人気投票を始めましたのでよかったら覗いて見てくださいね
皆さんも風邪に気をつけてくださいね
http://homepage2.nifty.com/haniwadokoro/



1921. 久留倍遺跡第2回シンポジウム さわらびT  2005/01/17 (月) 22:32
久しく話題からはずれていましたが、「久留倍遺跡」の第2回シンポジウムがあると聞きましたのでお知らせです。三重大学考古学研究室のHPに掲載されています。

http://gaea.human.mie-u.ac.jp/~koukogaku/kurube/sinpo/sinpo2.html

今回は、参加出来そうもありませんが、ご興味のある方は主催者にお問い合わせください。この遺跡ですが、「郡家」といえるかどうか、実は微妙です。正倉が発掘されてますので、関連施設であることは間違いないといえそうですが、むしろ謎の解明はこれからです。どのような形で保存がされるのかにも関心がありますので、注目し続けていたいと思っています。



1919. Re: 韓国は近いので & 縄文の翡翠、玉文化 さわらびY(ゆみ)  2005/01/16 (日) 16:23
遺跡大好きネコさま

日韓ワールドカップサッカー以来、韓国は本当に近い国になりましたね。
あの時、東京国立博物館で開催された日韓文化交流特別展「韓国の名宝」のポスターは57個もの勾玉に飾られた慶州市金冠塚出土の金冠(三国時代)。
古墳時代に日本列島にもたらされた馬具、朝鮮半島で珍重された日本産の勾玉、その交流史のとりこになりました。

そして今の、韓流ブーム。韓国ドラマでは冬ソナ以上に、「宮廷女官チャングムの誓い」にはまっています。職業柄、薬膳や生薬の薀蓄も面白いし、その民俗や李王朝宮廷の時代考証も魅力ですね。

ところで、昨日は先日の馬場小室山研究会で紹介された「翡翠展」に行ってきました。
縄文文化は土器だけでなく、石の文化も注目ですね。研究会で境A遺跡について予習してあったので、興味深く、世界最古(縄文前期)の翡翠の大珠というのも味わって見てきました。
ちょっと形の変わった縄文の曲玉&勾玉も一同にありましたし、美術品というべき古代の勾玉はどれもみごとでした。

残念ながら、馬場小室山出土「の」字状石製品の類似品の展示がなかったのですが、出口のショップで『季刊考古学・第89号・特集縄文時代の玉文化』を買いました。

2001年時点で21点発見されている「の」字状石製品についても特集記事があり、『中部日本に中心をもつ「の」字状石製品は前期終末〜中期初頭に攻玉圏で製作された』という前山精明氏のレポートは理解に役だちました。

「縄文勾玉−曲玉から勾玉へ−」という鈴木克彦氏の論文中の変遷図も、見ていると面白いです。

30日は、再三、浦和博物館に電話し、馬場小室山出土の名品の土器など鑑賞できることがわかりましたので、私も楽しみです。



1918. 韓国は近いので 遺跡大好きネコ  2005/01/15 (土) 19:48
またいつでもご一緒できますよね。目的も一つだけでなくていくつかと合わせて、広がりを持っていったらまた一層中身の濃い旅となりますね。ついでに食分野も入れましょうか・・・。

この週末は仕事なのでまたご連絡します。



1917. 「馬場小室山遺跡研究会第2回ワークショップ」も会場は三室公民館です さわらびY(ゆみ)  2005/01/13 (木) 23:25
常陸古文化探求室管理人さま

セミナーが終わってから、その場で「馬場小室山遺跡研究会第2回ワークショップ」をはじめるとのことです。

その日は(例年より一週遅い?)千葉県の遺跡発表会があり、かけもちで、午後から参加される方がいらっしゃる思いますが、会場は三室公民館ですので、どうぞおいでください。

ただし会場は片付けをして5時に閉めることになっているとお聞きしました。きっと短い時間で中身の濃いお話になるでしょう。
では、初めてお会いすることを楽しみにしています。



1916. Re: 「1.30馬場小室山遺跡と出会うちょっとリッチな集い」のおさそい 常陸古文化探求室管理人 [URL]  2005/01/13 (木) 21:54
さわらびY(ゆみ)さん,こんにちは。
このところの積極的な動き,茨城から頭が下がるおもいで拝見しています。
さて,集いのほう,「馬場小室山遺跡研究会第2回ワークショップ」のみ参加したいと思います。会場は三室公民館で宜しいんですね?
宜しくお願いします。



1915. 「1.30馬場小室山遺跡と出会うちょっとリッチな集い」のおさそい さわらびY(ゆみ)  2005/01/10 (月) 22:33
1月30日(日)
馬場小室山遺跡と出会うちょっとリッチな集いへのおさそいです

AM10:50〜13:45 
   浦和博物館見学&散策&ランチのミニ・エクスカーション 
PM14:00〜15:30
 「小室山セミナー -音楽・絵画・そして考古学」
 於:三室公民館講座室 

PM15:45〜17:00
 「馬場小室山遺跡研究会第2回ワークショップ」

詳しくは次のページをご覧くださいhttp://homepage1.nifty.com/sawarabi/bannbaomuroyama/05.01.03osirase.htm

お忙しい方は、ご都合のよいお時間の催しにご参加ください。
もちろん、ゆったり一日通しでも。
皆様に「出会える」のも楽しみです。




1914. Re: 韓国行き さわらびY(ゆみ)  2005/01/10 (月) 22:03
> ところで、韓国行きですが、私は先日ご案内した「はなこりあ」というティームで向うの祭りに参加のため行く予定があります。

いいですね。パンソリなどの民俗芸能はとっても魅力なのですが・・

今検討中なのは、次の予定。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/05kannkoku/05.03.18kannkoku.pdf

前回は、15人そろうとツアーにしていただけるというので友人に呼びかけて「さわらび通信」主催ということなりましたが、有名無名の遺跡ばかりの「豪華な」韓国ツアーでした。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/kannkokunotabi.Pro.html

祭りや民俗行事、芸能の韓国の旅、行きたいですね。
年に2回は無理なので、また来年にでもお誘いください。

遺跡大好きネコさんにめぐり合えて、馬場小室山のイベント、飯塚さんの「小室山セミナー」にコラボして、ちょっとリッチで奥行きのある企画になりそう。
(1914へ)
とても楽しみにしています。



1913. 韓国行き 遺跡大好きネコ  2005/01/10 (月) 12:50
さわらびY(ゆみ)さん、石舞台についての情報をありがとうございます。やはりいろいろな疑問や謎が浮かんでくるものなのですね。古の歴史や文化への思いは果てしもなく広がってゆきます。

ところで、韓国行きですが、私は先日ご案内した「はなこりあ」というティームで向うの祭りに参加のため行く予定があります。宜しかったらご一緒に。日程は、4月29日から5月1日または2日頃の予定です。

ゆみさんも大好きな冬ソナの人気で韓国行きチケットは入手がかなり困難なようで、すでに旅行業者に手配をお願いしている段階です。特にゴールデンウィークですので、価格も一番高い時ですが・・・。



1912. Re: 明日香の思い出 さわらびY(ゆみ)  2005/01/10 (月) 00:18
「馬場小室山遺跡研究会」の記念すべき第1回ワークショップの報告をやっとアップしましたが、不確かなメモをもとにしたので、実は間違っていないかハラハラモノなのです。

気がつかれた点があったら、どうぞご指摘ください。

> ちょうど1年前、京都・奈良2泊3日のぶらり旅をし、・・石舞台がとても印象に残っています。

石舞台は馬子の墓でしたね。
古墳は一般に大きさばかり目立ちますが、移動する土の量よりも、あの時代の石の文化ってすごい!と実感できます。

実は、馬子塚の伝承は、石川精舎(本明寺)の巨大五輪塔にもあるのですが、鎌倉時代の五輪塔がなぜ蘇我馬子の塔になってしまうのか、不思議です。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/12.27asuka2.htm

去年の秋は、広島と青森に出かけましたので、この冬はちょっと遠出を控えていました。
春に、飛鳥文化のルーツ韓国へ行きたいと思っています。
ぜひご一緒しませんか

> 1月30日は自宅近くですが、また新たな発見があることを楽しみに待っています。

こちらこそ、よろしく。
プランが決まったら、HPで皆様にもお知らせしましょう。



1911. 明日香の思い出 遺跡大好きネコ  2005/01/09 (日) 19:17
わらびYさん、馬場小室山セミナーの報告ありがとうございます。良い復習になります。

私は、仕事始めの週がいきなり忙しく、今日はダウン気味です。昼間、テレビで唐招提寺の金堂のことをやっていましたがうとうとしながらの鑑賞になってしまいました。

ちょうど1年前、京都・奈良2泊3日のぶらり旅をし、中1日は奈良を歩き回りました。明日香村をのんびり行くバスに乗りながらほぼ1周しました。その中では石舞台がとても印象に残っています。そこで何か演ってみたいと思ったのですが、その時に文化遺産が残っていればずーっと後の人と共有ができるんだと実感しました。

帰りには奈良市内に戻り古寺を訪ねました。唐招提寺は金堂の修理中でちょっとがっかりしましたが、今から考えればめったにみられない情景を見られた訳ですね。

また旅をしたくなりました。1月30日は自宅近くですが、また新たな発見があることを楽しみに待っています。



1910. 「掘り起こされた房総の歴史」展を見にいきました さわらびY(ゆみ)  2005/01/08 (土) 22:28
今日は、午前中、「千葉県立房総のむら」(旧房総風土記の丘資料館)で開催中の千葉県文化財センター30周年記念展「掘り起こされた房総の歴史」を見にいきました。
http://www.chibaken-bunkazai-center.or.jp/info.htm#ad
最新の考古資料を含め、絶品がずらりと展示され、どれも興味深いものばかり。
撮影は可ですので、自習用にカメラにもおさめてきました。

また館の職員の方に丁寧に土器の形式など教えていただき、先日の馬場小室山遺跡研究会の際、教えていただいたことの復習になりました。
柏市大松遺跡貯蔵穴から完形で出土した勝坂式の大型深鉢は、力強く感動的!
http://www.chibaken-bunkazai-center.or.jp/bunkazai028.pdf

縄文では、君津市三直貝塚の出土品が多く、特に3点の「異形台付土器」と大型で中空のみみずく土偶は面白く、見る甲斐がありました。
三直は、遠くてまだ行っていませんが、ここも環状盛土遺構が話題になった貝塚や古墳群、城跡などいろいろ面白そうなところで、いつか行ってみたいと思いました。

2日に見てきた流山市三輪野貝塚出土の「箱型壷」というのも、晩期の珍しい土器でした。
(説明が難しいので写真をUPしました)
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/05.01.02miyawayama/hakogata.s.jpg
この四角の上に頚部分があったのでしょうかねえ?

午後は佐倉の国立歴博へ。小池諄一氏の「文字と書物のフォークロア」の講演会を聞いた後、縄文の展示室にちょっと寄ってみました。
今まで気づかなかったのですが、土偶のコーナーに馬場小室山出土の土偶つき土器のレプリカが展示されていたのですね。

ついでに、小室山の研究会で知った設楽博己氏の「再葬の背景」という論文が読みたくて歴博の「研究報告・地域社会と基層信仰」第112集を買ったのだけど、6000円のお値段は高かった!
せっかくだから、全部読んでみるかと意気込んではいるのですが・・



1909. Re^4: ドラマ大化の改新 さわらびY(ゆみ)  2005/01/06 (木) 00:11
大化の改新といえば、古代史の本や雑誌の表紙に登場する「入鹿の首塚」。
誰も不思議に思わないのかと、2003年の年末は、この謎に挑むべく明日香に行ってました。

私の結論は「古代寺院遺跡と中世石塔の謎を追って=大和・河内の旅T」のページを見てください。そして情報があればぜひご教授を!
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/2003.12nara/12.27asuka.htm




1908. Re^3: ドラマ大化の改新 さわらびT  2005/01/05 (水) 23:21
鎌足といえば蹴鞠の故事が思い起こされますね。ドラマには確かそのシーンはなかったですね。残念!

中沢新一氏の『精霊の王』という本を読んでいます。『成通卿口伝日記』から話はじまります。蹴鞠の名人と讃えられた藤原成通は、蹴鞠の庭に立つこと、七千日に及び、そのうち、一日も欠かさずに続けたのは二千日なのだそうです。「千日行」満願の日、3人の童子が現れます。実はこれは鞠の精であり、または「守宮神」(シュグウジン)=宿神といって芸能・技芸の神様なのです。芸の達人の前には、神が宿るのがすごいです。

ところで蹴鞠の出現はいつ頃なんでしょう。



1907. Re^2: ドラマ大化の改新 オホヤシマ  2005/01/05 (水) 12:38
さわらびT様
「藤氏家伝」結構入ってましたね。
 軽皇子は理念的で学者肌のようなイメーシがありますからちょっと違和感ありましたね。ただ、皇極朝において、軽が「弟(王)」として重要な位置をしめていたという説が最近有力なように思えるのですが、その点では新趣向をとりいれていると思いました。私も実際そうだったと思います。

>
> 講演会の企画など、またお知らせください。情報は多いほうがいいですね。



1906. 講演会のご案内 オホヤシマ  2005/01/05 (水) 12:29
下記講演会ご案内します。是非お越しください。

「弥生開始期の渡来人と在来人の交流」
1月22日(土) 13時半開演
場所 池袋生活産業プラザ
講師 藤尾慎一郎氏(国立歴史民俗博物館助教授)
資料代 1500円(会員は1300円)
照会先 090−9835−1857 
    東アジアの古代文化を考える会 稲垣



1905. Re: 休暇最終日 さわらびY(ゆみ)  2005/01/04 (火) 20:30
遺跡大好きネコ様

> 私はだいぶテレビ漬け・・・

私も、暮れは、なんと言っても冬ソナでしたね。
2回めなのに毎晩逃さず、見るはめに。ラストスパートの仕事もきつくて2時間半は疲れた!見終わってから、メールやBBSを書いていると夜は更けて・・
NHKシルクロード、TVはやはり映像のすばらしさに惹かれます。

>本もまた人を豊かにしてくれますね

『旅の重さ』、図書館で検索してみましょう。
「奥琵琶と若狭の史跡と古寺を訪ねて」で紹介した白洲正子の『かくれ里』も古い本で、開架の書棚ではなく、書庫から探し出してもらいました。

新刊では、本郷和人の『新・中世王権論』、そしてTもはまった中沢新一の『僕の叔父さん 網野善彦』が面白いです。

『みむろ物語』もふくめ、やはり中世の人々の姿、意識や社会の構造を理解することで、縄文から現代につながる日本の隠された本性がおぼろげに見えてくるような気がしてます。



1904. Re: ドラマ大化の改新 さわらびT  2005/01/04 (火) 19:21
オホヤシマ様

今年もよろしくお願いします。
正月は、今まであまり検討してこなかった「香取の海」とか「縄文の世界」を近郊を廻りながら考えてました。

ドラマ「大化改新」は「藤氏家伝」の記述をヒントに作り出したフィクションですね。鎌足と入鹿が親友、鎌足は常陸からやってきた・・・・どんな物語なのか、という興味で見てたのですがあきてきて途中からやめてしまいました。「軽皇子」が軽薄な感じでちょっとかわいそうかな、と思ってました。

講演会の企画など、またお知らせください。情報は多いほうがいいですね。



1903. 休暇最終日 遺跡大好きネコ  2005/01/04 (火) 12:58
みなさん、年明けから精力的に活動なさってますね。私はだいぶテレビ漬け(普段ほとんど観られないので・・・)になりましたが、映画をたくさん観ました。本もいろいろ読んでいます。

同僚が貸してくれた『旅の重さ』。古い本ですが、旅をすることの意味が1人の少女の放浪の旅を通して描かれています。遠くに行かなくても時代を超えた時を発見することで大きな旅になるのですよね。近くの小室山も遠くなりつつあり。いかん、いかん。

そして、昨日は『ハウルの動く城』の原作を買ってきて少し読み始めました。封切直後に映画を観たのですが、原作を読みたくなった作品でした。

本もまた人を豊かにしてくれますね。父が『みむろ物語』を持っていたので次に読もうと思います。ネットで井上香都羅さんを拝見しました。素敵な方ですね。三室もますます好きになりました。(バス停で出会った東京から引っ越してきたという方が「とんでもない所に来ちゃって」と言ってました。住むにはちと不便ですが、その分良い所がいっぱいあります。)



1902. ドラマ大化の改新 オホヤシマ  2005/01/04 (火) 12:37
あけましておめでとうございます。
正月はコホリだのアガタだのミヤケ・ミタだのと訳のわからないことをずっと勉強してまして、頭が変になりそうです。
改新の詔の部民の廃止のことなどを勉強し始めて時間切れとなってしまいました。
ドラマ大化の改新は鎌足中心の作りだったですね。ドラマですからあまり目くじらをたてる気はありませんが、中臣を下級氏族的に扱うのは、一般的な考えに基づくものでしょうが、加藤先生が言っていたように、マヘツキミを出す氏族であったことを考えると、根本的なところで問題があるかと思いました。
前回は推古天皇が松坂慶子、今回は皇極天皇が高島礼子。このキャスティングはどうなんですかね。私のイメージでは皇極を松阪慶子にしてほしかったのですが。



1901. 「世界遺産」へ、「国指定遺跡」へ、地元から・・ さわらびY(ゆみ)  2005/01/03 (月) 23:28
先月、加曽利貝塚での写真をTOPページに使ってみましたが、「千葉市の遺跡を歩く会」からのお知らせでは、『千葉日報』元日の朝刊の年頭のあいさつの記事で、同社取締役会長の土屋秀雄氏が「加曽利貝塚を世界遺産へ」と題し、<千葉県内の貝塚群>の世界遺産登録を提唱しているとのことです。

昨日、流山市の三輪野山貝塚に行くに当たって、流山市のHPから昨年2月の現地説明会用のレジメをダウンロードしました。
http://www.city.nagareyama.chiba.jp/section/shougaigakushu/03bunnkazaihogokakari/miwanoya/gennsetsu%20b.pdf

そこには、三輪野山貝塚のような窪地や環状盛土遺構をもつ類例紹介の中で井野長割遺跡、栃木県の寺野東遺跡、宮崎県の本野原遺跡、秋田県の伊勢堂岱遺跡、岩手県の崎山貝塚、青森県の三内丸山遺跡などの例をあげられ、「その全てが国指定遺跡か指定準備中です」と書かれています。

その井野長割遺跡ですが、我が家から臼井への抜け道にあるので機会があると寄ってみるのですが、今日は学童も見学者も誰もいない静かな遺跡をTと見てみました。
すると、ちゃんと「国指定遺跡の答申を受けました」という実測図と概要を記した説明版が入り口2箇所に立っていました。23万平米のうち19万平米は民有地。また、佐倉市内では本佐倉城址についで2番目とか。

馬場小室山遺跡は、それらにひけをとらないみごとな環状盛土遺構なのですが、今回の市議会での追求で、やっと市有地部分が市の史跡へ動きだしたという状況。
市有地の西部分が損なわれていなければ、井野長割遺跡以上に保存状態の良好な「国指定遺跡」のはずでした。

行政と学界と市民が一体になって「世論」にしていくことが必要なのでしょう。
加曽利貝塚では世界に向けての「世論」にしていく第一歩を踏み出そうとしているのだと感じました。